私は戦争が終った昭和二十年の冬から、昭和二十八年の冬まで抑留されて、その期間のほぼ半分を囚人として、シベリアの強制収容所で暮した訳ですけれども、実際に私に強制収容所体験が始まるのは帰国後のことです。と言うのは、強制収容所の凄まじい現実の中で、疲労し衰弱しきっている時には、およそその現実を〈体験〉として受け止める主体なぞ存在しようがないからです。したがって、私に内的な〈体験〉としてのシベリア体験が始まるのは、帰国後、自己の主体を取り戻してきたときからですけれども、〈体験〉そのものは、言わばその時まで準備されていたということが言えるだろうと思います。これは私たちの間では、普通、〈追体験〉と呼ばれている過程ですけれども、私はおよそ〈体験〉と言えるものは、この〈追体験〉しかないように考えます。〈体験〉のあるなしが問われるのは、言わばこの過程に於いてであると言えます。
〈追体験〉に対して、〈原体験〉という言葉がありますけれども、これは様々な記憶の形での、言わば潜在的な、今、申し上げた準備された状態での〈体験〉の予感のようなものだと私は思います。簡単に言えば、情況または事件が起ると同時に[﹅3]〈体験〉は起らないということです。それは少なくとも〈体験〉に結びつく情況や事件はその規模の如何にかかわらず、深い衝撃を伴うはずであり、その衝撃によって、主体は一時、喪失するか、またはその均衡が破壊されるからであります。したがって、もし私たちに〈体験〉が始まらなければならないなら、この〈体験〉を受け止めるための主体の回復の確立ということが絶対に必要な訳ですけれど、この過程は長い困難な孤独な闘いによって行われる訳です。極く図式的に言いますと、最初に訪れる衝撃は、おそらく偶然なものであって、言わば運命のように人を訪れる。これに対する私たちの反応は、多かれ少なかれ肉体的、防衛的なものであって、起ったことの意味を理解し得ないままで、記憶となって私たちの内部にその痕跡を残す訳です。しかし、〈体験〉の現場を遠ざかった時点で、〈追体験〉として私たちが起す行為は、それはもはや意志的な必然性を持った行為となる訳です。したがって、〈体験〉の現場で最初に起った衝撃は、偶然なものであっても、これを主体的に受け止めて、追って行く、追跡して行く過程は必然的な過程とならざるを得ないということが私の、これは考え方と言うよりは感じです。
(柴崎聰編『石原吉郎セレクション』岩波現代文庫、二〇一六年、85~87; 「〈体験〉そのものの体験」)*
(……)私にとって、〈詩〉とは、混乱を混乱のままで受け止めることのできる唯一の表現形式であったと言って良いと思います。(……)
(89; 「〈体験〉そのものの体験」)*
シベリヤの密林[タイガ]は、つんぼのような静寂のかたまりである。それは同時に、耳を聾するばかりの轟音であるともいえる。その静寂の極限で強制されるもの、その静寂によって容赦なく私たちへ規制されるものは、おなじく極限の服従、無言のままの服従である。服従をしいられたものは、あすもまた服従をのぞむ。それが私たちの〈平和〉である。私たちはやがて、どんなかたちでも私たちの服従が破られることをのぞまなくなる。そのとき私たちのあいだには、見た目にはあきらかに不幸なかたちで、ある種の均衡が回復するのである。
(106; 「沈黙と失語」)
一〇時一五分に床を離れた。尿意が最高潮に達して今にも溢れんばかりだったので、起きるとすぐに便所に行って、真っ黄色の尿を実に長々と放って下腹を軽くしてから階を上がった。母親はどこに行っているのか、大方買い物の類だろうが不在で、父親の方は自治会の旅行で、日帰りで新潟まで赴いている。冷蔵庫を覗いて、前日に立川で買ったパンのなかからメロンパンとカレーパンとを取り出して、カレーパンは電子レンジで温め、メロンパンの方は冷たいままに卓に持っていき、椅子に就くと新聞をめくりながら二つのパンで食事を取った。食後に抗鬱薬も服用すると、食器は使っていないから今日は皿を洗う用はなく、風呂場に行って浴槽を洗って自室に帰った。二七日と二八日の分と、大層長くなるに相違ない日記がほとんど手を付けられないままに溜まっているのだが、取り掛かるほどの意気が湧かず、コンピューターの前で背を丸めながら長々と、無為な時間を過ごし続けた。
ここまで怠けたのも久しぶりのことで、数時間ものあいだ椅子に乗りながら怠惰に耽って固まった身体を宥めようと、二時四五分からベッドに移動した。花元潔編集・解説/米田周インタビュー『アウシュヴィッツの沈黙』を読みたいところが、例によって例の如く、いくらも文字を追わないうちに睡気が差してきて、瞼と身体が重くなり、とろとろと微睡みに引き込まれているうちに、四時を越えた。意識の晴れを幾分取り戻すとちょっと読み進めて、四時半を迎えて家事を済ますために上階に上がった。まずはアイロン掛けを行う。前日、立川に着ていったフレンチ・リネンの濃青のシャツと、母親の洋服二着にアイロンを当てたあと、サンダル履きで玄関を抜け、家の南側に下りていく。すると母親が先んじてホースを取って植木に水をくれているので、その傍で腕組みしながら待ったあと、ホースを受け渡されて畑に続く階段の途中まで下りていき、遠くまでまっすぐ長く水が飛ぶ直射モードで、あれは何なのかほうれん草か何かなのか、畑に植わっている菜っ葉に水を与えた。見上げれば空には雲が淡く溶けて青味が和らげられており、日もよほど短くなったようで、五時前でも陽は低く、既に山の向こうに降りてしまったか、西の雲に留められているのか宙に光線の色もない。水やりを終えてなかに帰ると、台所で手を流し、牛乳パックの上に鶏肉の笹身を載せて切り分けはじめた。さらに葱とエリンギも薄く切る傍ら、小鍋ではポテトサラダを作る用にジャガイモが茹でられ、隣の母親は加えて大根などの煮物を拵えようと、狭苦しい調理台の端で野菜を切る。こちらはフライパンを手に取ってオリーブオイルを少量垂らし、焦がしニンニクとローズマリーか何かハーブの類を油に混ぜて炙ったあと、葱にエリンギ、鶏肉をしばらく炒め、火が通れば塩胡椒を振って酒を垂らし、味付けには即席のミートソースを混ぜて沸騰させて仕上げた。その次に、ポテトサラダをボウルのなかで搔き混ぜる。マヨネーズや辛子を混ぜながら木べらで芋を潰して柔らかくして、弁当箱に移して冷蔵庫に入れておくと支度は終い、下階に戻って日記を書くはずが、コンピューターの前に就くとまたもや怠惰の虫が始まって、無益な時間を長く過ごして、腹は減ったが食事に行く気も起こらずに八時を越えた頃、なまった身体をまた休めたくて寝床に移って『アウシュヴィッツの沈黙』をひらく。九時直前まで読んでから、食事に向かった。父親も既に帰宅済み、炬燵テーブルに就いて膳を前にしながらテレビを見ていた。こちらは台所でフライパンを温めているあいだに、チーズを載せられた丸パンの、母親が食ったあとらしい半分を立ったまま平らげ、クロワッサンは電子レンジで軽く炙って、フライパンの鶏肉は丼の米の上に掛けた。ほかの品目はポテトサラダに大根や薩摩揚の煮物、料理を運んで卓に就くと、テレビは当初ニュースを報じていたが、すぐに九時に掛かって韓国ドラマが始まって、父親は好きだがこちらに興味はないので、新聞に向けて視線を落とし気味にものを食う。食後に大きな玉の葡萄を数粒食べると、抗鬱剤を服用してから食器を洗い、風呂に行った。入浴前に洗面所の鏡の前で、電動の髭剃りで口の周りや顎先をあたり、それから湯を浴びて出てくると下着一枚の軽装で自室に帰って、そろそろいい加減に書くものを書かねばならないが、その前に三〇分だけ英文を読むことにして、Jason Stanley, "Germany’s Nazi Past Is Still Present"(https://www.nytimes.com/2018/09/10/opinion/germanys-nazi-past-is-still-present.html)をひらいた。
・reckon with: 清算する
・face down: 勇敢に立ち向かう
・atone: 償う、罪滅ぼしをする
・cantor: (聖歌隊の)指揮者; (ユダヤ教で礼拝の)主唱者
・unconscious: 気を失った、気絶した
・Budenstag: (ドイツ連邦共和国の)連邦議会
・deputy: 代議士
・asunder: 離れ離れに
・amputate: 切断する
・stump: 義足
・leave with: 率直に語る
・dwarf: 小さくする
・ire: 憤怒、深い憤り
そうして一〇時二〇分に達しようかというところでようやく日記に取り掛かり、まずはこの日の記事をここまで綴れば一一時も目前となっている。
その後、二七日の記事を、相変わらず筆の運びが鈍くていくらも進まないものの綴って、零時前で切りとして、続けて日付が替わってから栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』をひらいた。読書ノートを参照して書抜き候補の箇所を確認し、文言を吟味して、繰り返し振り返って頭に入れたいような内容があれば、手帳に写す。作業の傍ら、Isao Suzuki Quartet『Blue City』をヘッドフォンで聞いていた。一時手前までメモ書きを続けたあと、今度は同じ本の書抜きである。二〇分ほど文章をコンピューターに写すと、歯ブラシを取ってきて口のなかを掃除しながら、花元潔編集・解説/米田周インタビュー『アウシュヴィッツの沈黙』を読みはじめた。最初はコンピューター前の椅子に就いていたが、段々と腰や尻が固くこごって、身体が疲れてくるものだから、口を濯いでからはベッドに移り、しかしまた眠ってしまうからといつものようにヘッドボードには寄らず縁に腰掛けて、背後に置いたクッションに向けて半身になり、腕を乗せて凭れ掛かりながら読み進め、三時を越えるといい加減に睡気も満ちてきたので本を置き、この一日を終わらせた。
・作文
22:19 - 23:53 = 1時間34分
・読書
14:46 - 16:25 = (1時間引いて)39分
20:15 - 20:55 = 40分
21:45 - 22:17 = 32分
24:06 - 24:50 = 44分
24:50 - 25:12 = 22分
25:18 - 27:14 = 1時間56分
計: 4時間53分
- 花元潔編集・解説/米田周インタビュー『アウシュヴィッツの沈黙』: 16 - 106
- Jason Stanley, "Germany’s Nazi Past Is Still Present"(https://www.nytimes.com/2018/09/10/opinion/germanys-nazi-past-is-still-present.html)
- 栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』、メモ
- 栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』ミネルヴァ書房、一九九七年、書抜き
・睡眠
? - 10:15 = ?
・音楽
- SIRUP『SIRUP EP』
- Sonny Rollins『Saxophone Colossus』
- Isao Suzuki Quartet『Blue City』