2019/10/9, Wed.

 さらに詩「花であること」の初出が一九六五年五月であることを考えると、石原がライナー・マリア・リルケの詩「薔薇の内部」の原文あるいは翻訳に触れていた可能性もある。一九六〇年代は日本でもリルケがよく読まれていた時代であったが、それ以上に花の内部と外部の拮抗を詩の対象としている点に共通点が見られる。

   薔薇の内部

 この内部に向き合う
 外部はどこにあるのか。どの痛みの上に
 この布はおかれるのか。
 どのような空が このなかに
 このひらいた薔薇の
 この憂いのない薔薇の
 内海に映っているのか。ごらん
 薔薇はみな ほどけかかり ゆるやかに
 やすらう 震える手が触れて
 花びらがこぼれるなど ありえないかのように。
 薔薇は もうほとんど みずからの形を
 たもつことができない―多くの薔薇は
 あふれて 内部空間から
 昼の世界へ
 流れ出す それは
 ますます溢れながら ひとつにまとまってゆく
 やがて 夏全体が ひとつの部屋に
 なる 夢のなかのひとつの部屋に。

 事物詩のひとつとして名高いリルケの「薔薇の内部」は、薔薇の内部世界が外界と融合してゆくさまを官能的に描き出している。花の美しさへの没入と美のはかなさを描き、それを俯瞰的に見る視点において、リルケの詩は先に挙げた日本の定型詩にむしろ近い。緩やかな時間的推移が豊かに歌われている点もまた、日本の古典の抒情に通じるものがある。その一方で、リルケと石原の詩は何と乖離していることだろう。植物の内部空間と外部との関係を描くという共通点が取るに足りないと思えるほど、この二つの詩は異質である。読み比べるほどに、リルケの詩の豊饒さの前で石原の詩の貧しさが際立つのである。
 (冨岡悦子『パウル・ツェラン石原吉郎みすず書房、二〇一四年、97~99)

     *

 パウル・ツェランは一九五八年に受賞した自由都市ブレーメン文学賞受賞の講演の中で、自らの出自が東欧であることをマルティン・ブーバーとハシディズムに結びつけて語った後、失語と沈黙について、次のように語っている。

 手に届くものは、いくつもの喪失の中にあって、言葉だけでした。身近なもの、失われなかっ(end101)たものとして、言葉だけが残りました。
 それが、言葉だけが、失われなかったものとして残りました。そうです、あらゆることにもかかわらず。けれども、この言葉も、みずからの答えのなさの中をくぐり抜けなければなりませんでした、おそろしい沈黙の中を、死をもたらす弁舌の千の闇の中をくぐり抜けなければなりませんでした。この言葉はくぐり抜けて来ました、そして起きたことに対してひとことも言葉を差し出すことができませんでした。けれども、言葉はこれらの出来事の中をくぐり抜けました。くぐり抜けて、ふたたび明るい場所へ踏み出すことができました、あらゆることによって濃縮されて。
 (「ブレーメン文学賞受賞講演」より引用)

 (101~102)


 ひらいたカーテンの向こうから送りつけられてくる暖かな陽射しのなか、意識を浮上させながらもなかなか身体を持ち上げられず、目から光を吸い込んでいるうちに一〇時に至った。そうして何とか起き上がり、コンピューターを点けてTwitterを覗くと、「最近は日記があまりに長くなってきているので、今まで読んでくださっていた方々からも、もう付き合いきれんと見放されるのではないかと恐れております」と前夜に呟いておいたのに、SGさんという方と、Y.Mさんの二人からリプライが届いていた。前者のSGさんは、多分言葉のやりとりをするのはこれが初めてだと思う。「静かで味わい深い文章だなぁ。山の奥で水滴が落ちる音のような」と思いながらいつも読んで下さっていると言うので、なかなか良い比喩を贈ってもらえて有り難いと思った。それから上階へ、階段を上っていくと階上には作業着姿の父親があって、おはようと交わせば今ガス屋さんが来ていて、と言う。台所に入ってみると確かに床にしゃがんでいる姿があって、寝起きで頭が回らなかったか、ご苦労さまですの一言が出ずに、あ、どうも、と短い挨拶となって、洗面所に行こうとするこちらの途上にいた男性は立ち上がってどいてくれたので、すみませんと応じた。ガス屋の男性は、秋晴れの空のような色の青い制服のシャツを身につけていた。こちらは鏡の前で櫛付きのドライヤーを頭に当てて、髪を梳かしてから普段だったら食事を取るところだが、今日はガス屋が来ているので台所で準備しては仕事の邪魔になろうと考えて、先に風呂を洗ってしまうことにした。風呂場にはバケツが出されてあり、いつもはそれに洗濯機から出ている汲み上げポンプを入れておくのだったが、見ればバケツの底には白い泡が溜まっているので、漂白しているのだなと知れて、汲み上げポンプのホースは入れずに浴室の床に放置しておき、それから浴槽をブラシで洗った。合間に電話が掛かってきて、母親が出たところがすぐに父親に替わって、自治会の方の件だろうか父親は何とか話しており、一方でガス屋も電話を掛けて、我が家の古いガス台の部品がまだあるかどうかメーカーに訊いているようだった。それで風呂場から出てくると母親が、食事を取るかと訊くのだが、今お仕事をしているからまだ良いと払い、それからガス屋が母親に、部品はあるようですと報告するのを傍らで偉そうに腕組みしながら聞いていると、母親は良かったと嬉しそうな声を出す。天板のみ替えれば良いということになり、受け皿とか五徳とか、注文するべき部品をガス屋は紙にメモし、どれくらいかと母親が問えば、一週間くらいは掛かるので、まあ一八日に入ってどうかというようなところだと言う。部品が入ったらまたその時点で連絡するという次第を彼は述べて、どれくらいかと母親が、今度は値段の意味で問うのには、それはまだわからないと答えた。そうしてガス屋は仕事を終えて去って行くのに、母親が何か飲み物をと言って冷蔵庫を探って、冷たい緑茶があったのに、お茶なんだけど、と言って渡し、玄関でこちらも母親と並んで立って、ありがとうございましたと頭を下げて見送った。
 それから食事である。何があるのかと訊けば、おにぎりとキャベツ炒めがあると言うので、それぞれ出して、電子レンジで温めて卓に運んだ。おにぎりは鮭の振りかけが混ぜ込まれて海苔が貼られたものだった。それらを食っていると古くなったガス台について、おばさんと同じでボロボロです、とか言いやがった、と母親が漏らす。父親の発言である。こうした母親の老いや年齢をネタにした冗談を父親はたびたび口にするのだが、そうしたからかいは糞みたいにつまらないし、それをもし本当に面白いと思って言っているのだとしたら、率直に言って度し難い愚かさだと思う。端的に言って不快であるし、ポリティカル・コレクトネスの観点からして明らかに不適切で、フェミニストが耳にしたら激怒するような言葉だろう。そうした面の意識においては父親は前時代的な家父長制の男性優位にまだまだ胡座を搔いていると言うか、まったくもって後進的である。
 新聞をひらくと、国際面では、トルコがシリア国境を越えてクルド人勢力に対して軍事行動を仕掛けようとしていると、例の件がまた語られており、それを黙認して米軍部隊を撤退させたかこれから撤退させる予定らしいドナルド・トランプへの批判が集まっているとのことだ。そのトランプの対抗馬を争う米民主党の大統領候補戦では、エリザベス・ウォーレンが伸長してきて、首位のジョー・バイデンに迫りつつあると言う。七月から九月までの三か月の献金額でバイデン候補を格段に引き離したと言うが、表を見てみると最も多く金を集めたのはバーニー・サンダースで、二五二〇万ドルとか書いてあったか、しかし彼ももう七八だかで先日心臓発作で入院しているから、健康面の不安が支持にも影響するのは不可避だろうとそのような見通しが語られていた。
 食事を終えると水を汲んできて抗鬱薬を飲む。セルトラリンがもうあと二粒しかなかったので、普段は一回に二粒なのだが、明日医者に行くつもりで、一粒だけ飲むことにした。そうして食器を洗って下階に下り、急須と湯呑みを持ってきて緑茶を用意する。(……)
 それで緑茶を持って下階に戻ると、16FLIP『Ol'Time Killin' Vol.4』を流して作文に掛かる前に一年前の日記を読み返した。冒頭のフローベール書簡本からの引用には、「最近発表された草稿研究によれば、第二部八章、わずか二十五ページ(クラシック・ガルニエ版)のために、くり返しくり返し書きなおされた草稿は、保存されているものだけで、表と裏ほぼ全面を埋めつくした原稿用紙二百枚近くにのぼる」(工藤庸子編訳『ボヴァリー夫人の手紙』筑摩書房、一九八六年、290註)とあって、先日Mさんも『双生』のボツ原稿が膨大な量あるということを述べていたから、やはりこうした点でも彼を思い起こさせる。さらに、二〇一七年一〇月九日の日記から、ロラン・バルトの文章も引用されており、読み返してみるとやはり素晴らしいので改めてここにも写しておく。

 (……)愛の呼びかけは、毎日、時の経過を通じて反復され、同じ文句で繰りかえされるものであるにもかかわらず、それは私によって発言されるその都度、ひとつの新しい状態をあらわすことになるのだ、と私には思われる。アルゴ船の一行がその航海の間に、船名は変えることなく、しかもその船には新装をほどこしていく、あれと同じように、愛し焦がれている主体は、同じひとつの感嘆のことばを通じて長い道のりを行く。そしてその間に、はじめにいだいていた求める心を次第に弁証法化しつつ、しかも最初の話しかけがもっていた白熱の光を曇らせることがなく、また、愛の働きと言語活動の働きとはまさに同一の文に対してつねにさまざまの新しい声調を与えることにほかならないと考え、そのようにして、いまだかつてなかったひとつの新しい言語を創作していく。それは、記号の形態は反復されるけれどもその記号内容は決して反復されることがない、という言語である。そこでは、話し手と愛する人は、ことばづかいというもの(および精神分析的な科学)によって私たちの心情すべてに強制されてしまうあの残虐きわまる《還元作用あるいは縮約作用》に対して、ついに打ち勝つことができるのだ」
 (佐藤信夫訳『彼自身によるロラン・バルトみすず書房、一九七九年、174~175; ことばの働き Le travail du mot

 それから次に二〇一四年一月九日の短い日記を読んで、ブログに投稿しておくと、茶を飲み終えたのでおかわりするために階を上がれば、スパゲッティを作るつもりでいるらしい母親が、食べるの、と訊いてくるので食べると答えると、しかし今食べたばかりではないかと続けるので、あとで食べると返す。台所に入るとその母親は、ガス台の天板を取り外して磨いており、スチール・ウールの、染みるように金臭い香りが辺りに漂っている。茶葉を流しに捨てて新しくして、一杯目の湯を急須に注いでいると、立っているついでにビールを冷蔵庫に入れてと母親から来るので、玄関の戸棚の前に行き、しゃがみこんで下部に保存してあるビール缶を取り出していると、何で今日も休みなんだと、父親について憎々しげに母親が漏らすのが聞こえてくる。ビールは三本を持って冷蔵庫をひらくと、しかし既に二本くらい入っていたのでその旨告げれば、じゃあ父親が自分で入れたのかなと言った。続けて母親は、また外で食べるかと昼食について言ったが、こちらはいいよと遠慮して、緑茶を持って下階に戻り、TwitterでSGさんやYSさんに返信をした。YSさんはこちらが評論家になれないかと考えてると言い、こちらの本の感想や考察の類は、充分に出版に耐えると思いますとの言を送ってくれて有り難い。実際、批評にはわりあい興味があると言うか、こちらは多分、実作よりは批評をする方のタイプだと思う。しかし、いわゆるプロの文筆家として身を立てるつもりは特にないし、出版云々は置いておいても、もっと鋭く啓発的な批評を書けなければものにはならないだろう。また、批評文として独立したものを書くよりも、生活の、あるいは言わば実存の記録である日記という文章のなかにそういう部分も混ぜ込まれて共存しているという形態の方が面白いのではないかとも思っていて、つまりは雑多さが好きなんですね、と「笑」の文字を付してそんなような返信を送っておいた。
 そうしてfuzkueの「読書日記」を読む。背景に流れている『Ol'Time Killin' Vol.4』はU田くんがくれたミックス・アルバムだが、収録されている曲はどれもメロウで爽やかで快いビートを打ち出していて、背後の窓の外は秋晴れ、明るい陽が広く通って、このような陽気に音楽も似つかわしい。茶で汗を搔きつつ「読書日記」を読むと、次にはSさんのブログに触れた。緑茶は飯を食ったあとの一回目、それも二杯目から三杯目が一番美味い。二回目のおかわりをしてくると、舌と口内が茶の味に慣れてしまうのか、あまり美味くないようで、品がなくなると言うか苦味が過剰になってしまうような気味があるのはおそらく、食事の雑味が一回目の三杯で流されて、茶の味だけで口内が染まってしまうのだろう。
 Sさんのブログを五日分読むと、正午前から作文に取り掛かった。まず前日分を二〇分弱で仕上げ、音楽が終わったのを機に便所に行って、緑茶の利尿作用で増えた尿を凄い勢いで長々放って戻ってくると、FISHMANS『Oh! Mountain』を始めてこの日の記事も書き出した。ここまで記せば一二時四七分、書きはじめてから既に一時間が経っている。
 その後さらに二時間を打鍵に費やして七日の記事を進め、仕上げると三時である。
 cero『Obscure Ride』を流して、"Yellow Magus (Obscure)"とか、"Elephant Ghost"とかを歌いながら二日分の日記をブログに投稿した。何しろ引用が多いし、全体としても長いものなので、文面をスクロールさせながら引用部を処理したり、名前を検閲したりするのに時間が掛かる。しかもそれを、はてなブログの方とnoteの方で重ねてやらなければならないのだ。noteの方ははてなブログに投稿した記事の画面から文全体をコピーしてペーストするので、名前の検閲は既に済んでいるからその点は省けるのだが、引用部を範囲選択して引用ボタンを押さなければならないのは同じである。そういうわけで、二記事を投稿するだけで三〇分ほど掛かったのだが、これは実に馬鹿げていて笑える。
 それから労働前の食事を取りに行った。階を上がって台所に入ると、フライパンにナポリタンのようなオレンジ色のスパゲッティが作られてあるので、それを大皿に盛って電子レンジで温めたあと、卓に就いて、フォークではなく箸を使って和風に食べながら新聞を読んだ。世耕弘成参院幹事長が安倍首相に苦言を呈して、質疑の時の態度が悪いとか野次にいちいち反応するとかについて批判の声が上がっていると述べ、憲法改正に関しても、安倍政権のレガシー作りのためにあるわけではないとそういうことを言ったらしいが、これはまあマッチポンプの類だろう。そのほか、竹島尖閣諸島が昔から日本の領有地だったということを証明するような資料を政府が躍起になって集めている、というような話もあった。食後、皿を洗い、洗面所に入って電動の髭剃りで口の周りを当たっていると母親が来た。どこに行っていたのかと問えば、出掛けていたわけではなく、下階で休んでいたのだと言う。それからこちらはアイロン掛けを始め、ハンカチとエプロンを処理するあいだ、背後では母親が何か用意しているらしき気配があって、訊けば外にいるはずの父親に茶を持っていくと言うが、その父親がどこにいるのか姿が見えない。こちらは素甘を、先日蕎麦屋に行ったあとに寄った二俣尾の店で買ったやつをくれと言って、アイロン掛けを終えると電子レンジで解凍されたものを持って下階へ帰った。コンピューター前でピンク色の素甘を食べると、緑茶を用意しに行って、塒に引き返せば「週刊読書人」から山本貴光・服部徹也「来たるべき文学のために 『文学問題(F+f)+』(幻戯書房)刊行を機に」(https://dokushojin.com/article.html?i=2650)をひらいた。

服部  いま「テクストだけがそこにある」という文学観のお話がありましたが、この本の中では「テクスト」という言葉は抑制されましたか? これは人間ということにつながるのですが、バルトやフーコーらの影響で、人間の有限性に全部回収するのではない仕方で言語や思考を捉えようということで、テクストや言説という考え方がある時期から文学研究の一つの指針になった。テクストという言葉は、「人間なるもの」を条件に入れないと何も考えられないという通念を軽やかに通り過ぎるためにあったかと思うのですが、むしろ徹底的に人間にこだわって考える視座がこの本にはある。そういう考え方とは意識的に距離を置いていらっしゃるのでしょうか。

山本  ご指摘のようにこの本では、「テクスト」という言葉をほとんど使っていません。なぜかというと、テクストという概念は、たとえるなら自然科学における理想状態のようなものだと思うのですね。自分が観察・記述したい現象を、よりクリアに取り出すために、余計なものを外して理想的な状態で実験をする。テクスト論では、書かれた文だけを対象として、作家や編集者やデザインや物質的な側面などは脇に措くわけです。この手法には意味があると思います。ただ、少なくとも『文学論』の視点から見た場合、人間の営みとして文学が扱われています。むしろ環境のなかにある文学をエコロジカルな観点で捉えてみようとしていると感じました。

 続いて、半田滋「沖縄海兵隊の役割とは何か アメリカが求める自由で安全な「出撃拠点」」(https://imidas.jp/jijikaitai/d-40-070-10-07-g255)も読む。

 アメリ海兵隊は上陸作戦を主任務とし、兵員やヘリコプター、戦闘機を海軍の揚陸艦に載せて出動する。その役割から「殴り込み部隊」と呼ばれることもある。第1海兵遠征軍はアメリカ本土西海岸のカリフォルニア州キャンプ・ペンドルトンに、第2海兵遠征軍は東海岸ノースカロライナ州キャンプ・レジューンに置かれ、海外に展開しているのは沖縄の第3海兵遠征軍だけである。
 第1、第2はそれぞれ兵員5万2000人を擁し、指揮下には3個ずつの海兵遠征隊が置かれている。一方、定数1万8000人(日本外務省による)、実数で1万2402人(2008年9月、沖縄県調査による)とされる第3海兵遠征軍指揮下の海兵遠征隊は、第31海兵遠征隊(約2200人)の1個だけ。沖縄の海兵隊は「最小規模の海兵隊」ということができる。
 唯一の実動部隊である第31海兵遠征隊は、普天間基地の中型ヘリコプター部隊、キャンプ・シュワブのうち1個歩兵大隊、キャンプ・ハンセンのうちの1個砲兵小隊などを組み合わせて編成される。
 04年8月、第31海兵遠征隊は佐世保基地強襲揚陸艦3隻に分乗してイラクに派遣され、翌年帰還するまで8カ月間、沖縄を留守にした。在沖縄海兵隊司令部によると、03年以降、イラクアフガニスタンへ派遣された兵員数は1万1500人だ。沖縄の海兵隊は空席が目立つ。

 アメリカ空軍三沢基地(青森)のF16戦闘機部隊は、レーダー破壊が専門の、朝鮮半島有事にも対応する特殊部隊だが、湾岸戦争以降、嘉手納基地のF15戦闘機と交互にイラクの監視飛行に派遣され、イラク戦争にも送り込まれた。三沢と嘉手納の戦闘機部隊も留守がちな部隊といえるだろう。日本側の反対で立ち消えになったが、昨09年4月、米軍は三沢からの全面撤退と嘉手納の戦闘機部隊の半減を防衛省に打診した。
 また06年に日米合意した米軍再編の議論においては、アメリカ側は、横田基地(東京)にある在日アメリカ空軍司令部を兼ねた第5空軍をグアムの第13空軍と合併させた後、グアム移転させる案を提示した。空軍司令部を消滅させる提案に日本側が驚き、強く反対したため、実現はしなかった。その後、第5空軍指揮下の複数の部隊が第13空軍に配置換えされ、米軍の思惑通り、司令部の空洞化は進んでいる。

 ここで海兵隊の立場にたって考えてみたい。海兵隊は米軍の四軍(陸、海、空軍と海兵隊)110万人の中で、最小の18万7000人しかいない。しかも海兵隊らしい上陸作戦を行ったのは1950年9月の朝鮮戦争での仁川上陸作戦が最後。半世紀以上も昔の話である。
 アフガン攻撃やイラク戦争でも明らかな通り、現代戦で戦端を開くのは攻撃機や艦艇、潜水艦から発射される巡航ミサイルである。そして兵員は輸送機や輸送艦で運ばれる。もはや強襲揚陸艦から陸地に攻め上がる着上陸侵攻の戦法自体があり得ない。海兵隊は存在そのものが問われる危機的状況に陥っているといえるだろう。

 米軍が日本に駐留するのは、主にアメリカ側の事情によることを忘れてはいけない。基地の地代はもちろん、基地従業員2万5000人の給料・賞与や米軍が公用・私用で使った光熱水料まで日本政府が負担してくれるのだから、アメリカにいるより安上がりだ。しかも出撃に際して行うはずの事前協議は、一度も日本政府から求められたことがない。米軍はいつでも、どこへでも自由に出撃できる。アメリカ兵にとって日本は楽園のようなものだろう。

 歯を磨きながら記事を読んでしまうと口を濯ぎに洗面所に行き、そのまま上階へ上がって肌着を脱いで、ソファの背の上に広げておいた。母親は、Iちゃん、と言ってこの漢字で合っているのか知れないが、先般亡くなったKのおばさんの息子さんで、この人ももう多分七〇を越えていると思うけれど、その人から来たはずの葉書がないと漏らして探していた。こちらはボディ・シートを一枚取って、裸の上半身に当てて汗を拭き、腋は念入りに拭って汗の臭いを除いて、そうして肌着をつけ直すと仏間に入って靴下を履いた。階段の途中に吊るされていたワイシャツを持って自室へ帰り、音楽は何も流さず無音のなかで身につけて、紺色のスラックスを履けばグレーのネクタイを取って、廊下の鏡の前で首に巻く。終われば四時三五分、五時には出るつもりで、それまでに英文を読むかとBrad Evans and Gayatri Chakravorty Spivak, "When Law Is Not Justice"(https://www.nytimes.com/2016/07/13/opinion/when-law-is-not-justice.html)をひらいた。BGMに流したのはcero『WORLD RECORD』である。

・brutish: 野卑な、粗野な
・benefit of the doubt: 疑わしい点を被告に有利に解釈すること、疑わしきは罰せず
・self-appointed: 自称
・loophole: 抜け道、抜け穴
・vital: 必須の、不可欠な
・glamorization: 美化、理想化
・open sewer: 下水溝
ad hoc: その場しのぎの
・pick up the slack: たるみを取る; 代わりを務める、不足を補う

When human beings are valued as less than human, violence begins to emerge as the only response. When one group designates another as lesser, they are saying the “inferior” group cannot think in a “reasonable” way. It is important to remember that this is an intellectual violation, and in fact that the oppressed group’s right to manual labor is not something they are necessarily denied. In fact, the oppressed group is often pushed to take on much of society’s necessary physical labor. Hence, it is not that people are denied agency; it is rather that an unreasonable or brutish type of agency is imposed on them. And, the power inherent in this physical agency eventually comes to intimidate the oppressors. The oppressed, for their part, have been left with only one possible identity, which is one of violence. That becomes their politics and it appropriates their intellect.

This brings us directly to the issue of “reasonable” versus “unreasonable” violence. When dealing with violence deemed unreasonable, the dominating groups demonize violent responses, saying that “those other people are just like that,” not just that they are worth less, but also that they are essentially evil, essentially criminal or essentially have a religion that is prone to killing.

And yet, on the other side, state-legitimized violence, considered “reasonable” by many, is altogether more frightening. Such violence argues that if a person wears a certain kind of clothing or belongs to a particular background, he or she is legally killable. Such violence is more alarming, because it is continuously justified by those in power.

The fact is that when the pro-democracy spokesperson Aung San Suu Kyi was under house arrest there, she could bravely work against oppressive behavior on the part of the military government. But once she was released and wanted to secure and retain power, she became largely silent on the plight of these people and has sided with the majority party, which has continued to wage violence against non-Buddhist minorities. One school of thought says that in order to bring democracy in the future, she has to align herself with the majority party now. I want to give Ms. Aung San Suu Kyi the benefit of the doubt. But when the majority party is genocidal, there is a need to address that. Aligning with them cannot possibly bring democracy.

B.E.: What are the implications when the promotion of human rights is left to what you have called “self-appointed entrepreneurs” and philanthropists, from individuals such as Bill Gates onto organizations like the World Bank, who have a very particular conception of rights and the “rule of law?”

G.C.S.: It is just that there be law, but law is not justice.

The passing of a law and the proof of its existence is not enough to assure effective resistance to oppression. Some of the gravest violations of rights have occurred within legal frameworks. And, if that law governs a society never trained in what Michel Foucault would call “the practice of freedom,” it is there to be enforced by force alone, and the ones thus forced will find better and better loopholes around it.

 英文は途中までしか読めないうちに時間がやって来たので、七曲目の"exotic penguin steps (intro)"が掛かっている途中で音楽を切り、コンピューターをシャットダウンして、上がって玄関を出ると行商の八百屋であるNさんが久しぶりに来ていた。戸口を出てきたこちらを目にして、どうも、これから、と向けてくるので、どうも、こんにちはとこちらも受けて階段を下り、母親が大根を持ちながらぺらぺら喋ってNさんがそれを受け止めているそのあいだを通り抜けて、どうもともう一度会釈して道に出れば、話に切りがついて一息入れた母親が背後から、行ってらっしゃいと声を送ってきた。道に沿って鵯の声が複数立っては落ちるのに、どうも鳴き交わしているなと耳を寄せて過ぎ、アオマツムシの回転音がすぐ間近から立つなかを、左手をポケットに突っ込みながら歩いて行くと、Kさんの奥さんが道の先からやって来て、自宅の脇に出ていたバケツか何かを敷地の奥に持って行ってから戻ってきたところに行き会ったので、こんにちはと挨拶を交わした。そこを過ぎれば辺りは急に静けさを増し、虫の声も遠くなって、小公園の桜は梢が黄色と老緑で斑模様になっている。坂に入って上りながら不意に、自分には小説作品を拵える能力やセンスはないと、いつからか作りたかったのを諦めてそう思ってきたが、このままずっと文章を書き続けていれば、もしかすると、何年後になるかはわからないけれど生涯の内に一作くらいは、文章そのものに導かれて自ずと作れるのではないかとそう思った。作るとしたらやはり、自分なりの『族長の秋』、自分なりの『灯台へ』、そういったものを作りたいものだが、こちらが出会った小説作品のなかでもこの二つの名作と並び立つ傑作であるところの三宅誰男『亜人』はどうかと言えば、あれを自分なりのものとして受け継ごうとは思わない。そもそもMさんはまだ生きて若い現役の作家であるし、自分にあのようなものが作れるとも思えない。それでは『族長の秋』なら、『灯台へ』なら作れるのかと言えば勿論そんな大それたことを口に出来るはずもないが、ともかくMさんの新作『双生』も仕上がりつつある今、『亜人』もまた読み返して感想文でも書いてブログの読者に読んでもらい、彼の名声を高めることに少しばかり貢献しなければなと、そう考えながら坂を抜ければ、表の道路に沿って宙を、東へ向かって、あれは鴉だろうかそうとも見えなかったが黒い鳥が一羽、すっと流れていって、その背景には青い雲が、垂れ込めるというほどでないが低く降りて来ていて、空の際は別種の雲が詰められているらしく白く塗られたそのなかに、暖色が幽かに混ざって明るんでいるのから目を振って直上を見れば、いつの間にか雲が多く湧いて空は灰色を、ところどころはほつれて隙間から夕刻の青さが覗きながらも、敷き詰められている。駅に入るとちょうど奥多摩行きがやって来て、降りてきた乗客らと階段ですれ違いながらホームに下り、ベンチに就くとメモを取りはじめた。紙上にペンを滑らせていれば不意に赤ん坊の、舌足らずのあどけない声が渡ってきて、目を上げれば線路を挟んで向かいの道で親に抱かれた幼児の、意味を成さない言葉を繰り返し訴えるように言い立てているその姿を、包んで目にも見えにくくする黄昏が辺りにいつか満ちており、空は雲が埋めて雨の兆しを思わせるが、そこから下がって地上の空間には既に、まさしく降っては地に跳ねる雨のような虫声が凛々と響き渡っている。
 やって来た電車に乗ってからも引き続きメモを取って、終えて扉に向かい合って立てば横の席では男性が一人、スマートフォンを横にしてアニメを見ているその服装の、あれはスーツだろうか白いシャツに黒いジャケットを着ていたが、青梅が近くなって男性が立ってきたのを扉のガラスに映して見れば、しかし前に立つこちらの姿が邪魔になって全容は現れず、ネクタイをつけていなかったことしかわからない。青梅に着くまでのあいだ、今はアメリカはオレゴン大学に留学中の哲学徒、Uさんのことを何とはなしに思い出して、また彼と顔を合わせて、互いに考えていることを話し合ってみたいなと思いながら降りれば、しかしこちらの考えることも、表面上の異同はあるかもしれないが、根底のところでは以前からあまり変化していないような気がするもので、最近は良く考えが回って話したこと考えたことを日記に記しているけれど、それも大方は以前から思い巡らせて、日記にも一再ならず書いた事柄ではないかと思われて、思考というものは歩みが遅い[﹅5]なと、同じ辺りをうろうろしながら少しずつ伸び、ずれて、アメーバのように広がって差異を取り込み、そのうちにいつか一つ触手を新たに生やすようにしてやっと変容していくものだなと、そう考えた。ホームを歩くと向かいの一番線に停まった東京行きだか立川行きのなかは思いの外に混んでいて、傍らの奥多摩行きの方は客が少なく、なかに高校生の勉強している姿が見られて、進みながら視線を放って、電車の車体とホームの屋根とのあいだを埋めている空を見やれば暮れて紫、これが暗紫色というやつだなと独りごちた。駅の外に出れば駅前ロータリーに停まった車からライトが放たれて、その光が電柱の下部に四角く宿って白さを貼っているその上端は、しかし僅か青く染まって水面に浮いた化学液のようで、風はなくて身に触れてこないが細道の先の旗は波打ち揺らいでいる。
 職場に入ると奥のスペースに行って、長机に就きながら手帳にまたメモを取り、五時四〇分に至って現在時に追いつくことが叶ってトイレに行く。じきに(……)先生に(……)先生がやって来たのでそれぞれ挨拶をして、準備を始めれば室長が隣に来て、今日当たっている(……)くんは先週来なかったと言うので、指を振って、あ、そうですよ、しかも電話したけれど、繋がらなかったと受けた。続けて室長はやはりこちらが当たっている(……)さんについて、多分入試は受けない、と明かした。私立の通信制の学校に行く見通しでいるらしい。その後準備を始めて、チェックテストの用紙をコピーしたりしたのちに、終えてまた奥の一席でメモを取っているうちに前の授業の終わりが近づいたので、入口に行って生徒の出迎えと見送りを行った。その合間にデスクに就いた室長が、土曜日は完全休校になると教えてくる。あれですか、台風ですかと訊けば、無意味に重々しいような表情で相手は頷き、どれくらいのものですかねとこちらが気楽に漏らすと、風速五〇メートルとか言われていると、どこから得た情報なのかそう伝えて、風速五〇メートルと言って数字の上では相当高いのではないかとは思われるが、そう言われてもどれくらいの激しさなのかちょっと想像がつかないと互いに笑った。そうして授業である。相手は(……)くん(中一・英語)と(……)くん(中一・英語)の、ここのところ毎週当たっている中一コンビに、こちらは久しぶりに当たる生徒だが(……)さん(中三・英語)。(……)さんはマスクをつけていて、何か疲れている風だったので訊けば、風邪を引いていて眠りこけていたと言う。それでいてしかし昨夜は二時まで起きていたと笑うので、それはちょっとまずいんじゃないですかと、こちらはもっと更かしているのを棚に上げて笑みを返した。彼女は学校に、まったく行っていないのかちょっとは行っているのか知らないが、基本的には行っていないようで、外部の支援学級のようなところに通っているらしく、テストは受けるようだがそれで教材も普通とは違って二年次の、夏期講習用のワークを用いている。今日扱ったのはThere is/are構文で、前回一度通った頁を、しかし一度で頭に入るはずもないからともう一度やってもらい、someとanyの書換えを間違えたのは文全体で三回ずつ練習してもらって、それをノートに記させた。(……)くんと(……)くんは、(……)くんもどうもあまり学校に行っていないようだが、この二人は多分昔からの付き合いらしく授業中も私語を交わしたり悪戯をし合ったりしてちょっとうるさい。遊んで騒がしくしているのに、お前らうるせえぞ、と文にすると剣呑だが実際は怒るのが苦手だから口調は荒げず、表情もちょっと緩ませながら注意すると、(……)くんが、あいつのせいですよ、みたいなことを言って友達を売るので、そうやってな、罪を他人に押しつけようとする奴こそがと、この時点で笑ってしまい、向こうもこちらの言いたいことを先んじて察して笑いはじめたのだが、一番罪を、とこちらは続けながらやはり笑いを堪えられず、相手も笑いながら、酷いですと大袈裟に喚いて机上に突っ伏したので、(……)くんの方に移動しながら、あいつ、泣いちゃったよと冗談を加えた。しかしまあ、そんな(……)くんも、前回当たった時よりはまだ幾分ましだったような気がする。一年生二人が今日学んだのは、三人称単数現在形のsである。授業中、高三生の(……)もすぐ間近の席で英語の長文読解に取り組んでいたので、わからないところはあるかと訊いて、ほんの少しだが教えてあげた。
 授業を終えるとまた生徒の見送りである。風邪を引いている(……)さんには、じゃあゆっくり休んでくださいと言葉を掛けたが、こうしたささやかな気遣いは何だかんだ言って大事だろう。室長はこのあと、昭島に行くと言う。講師面接があると言うので、何故わざわざ昭島でと訊けば、元々昭島教室が受けた話だったのが、あちらではいらないということになって、言わばこちらに押しつけられたような形らしい。何と、七一歳の人だと言うので、世知辛い世の中じゃないですか、そんな歳でも働かなければならないなんて、とこちらは受けて、じきに生徒は皆来たようだったので入口から下がって翌日の座席表を見れば、中三生の社会が二人、当たっている。
 そうして退勤し、コンビニへ向かった。(……)ポテトチップスの、二〇パーセント増量していると言ううすしお味のものを取って、フロアの隅からレジに並んだ。二つ前には黒人男性がおり、一つ前には若い女性が入ってきて、この人がきゃりーぱみゅぱみゅにも似ているのだが、それとは離れて何となく見覚えがあるような気がして、過去の生徒だろうかと思ったが真相は知れない。四〇八円を払って会計を済ませると、釣りを受け取りながら店員に礼を言って退店し、駅に向かって歩く道々、向かい風が寄せてきて結構肌寒い。改札を抜けると揃いの運動服姿の中学生が外から勢い良く走り込んできて、改札も急いで通る彼らが口から放つのは漏れる、漏れる、という言葉で、どどっと多目的用トイレの入口に迫ってボタンを押して、集団のなかの二人が一緒になかに入っていった。そこを過ぎて階段通路を行くこちらの横を、ほかの中学生が彼らも概ね走って抜けていく。ホームに上がると、もうかなり涼しくて夏の気もないのに習慣で例によってコーラを買い、ベンチに就いて手帳を読みながら飲んだ。途中でコンビニにいた黒人が通りがかってわかったが、この人は以前、中学生らに声を掛けていた人だ。
 コーラを飲み終えてボトルも捨てると今度は手帳にメモを取りはじめ、奥多摩行きが来て乗ってからも進めて、発車直前に現在時刻まで記録し終えた。それから瞑目し、電車の振動に揺られながら、明日医者に行きたいが午前中しかやっていないから、果たして起きられるか、まあ無理なら午後もやっている明後日にすれば良いかと考えたそのあとに、自分の最近の日記はどんどん細分化しているようだが、こんな領域まで行けるとは思わなかったと脳内で独りごちて、人間としての限界は無論あろうがどこまできめ細かく出来るか、まだまだ行けるか、一年後にはもっと緻密になっているだろうかと夢想して、そこから微分の極致としてのロベルト・ムージルを思い出した。『合一』の二篇のうち、「愛の完成」も大概だがやはり馬鹿げているのは「静かなヴェロニカの誘惑」の方で、あれは男女の関係の、内面の複雑怪奇なその機微を、ほとんど限界まで搔き分け書き分けした結果としてほとんど超越的とも思えるような崇高さに達した作で、大方何を言っているのか意味がわからないような文章なのだが、認識がもっともっと細かくなれば、あの文章もいくらかは理解できるかと、そんなことを考えているうちに最寄りに着いたので降りて、ホームを行けば後ろから何か低い歌声が渡ってきて、虚を引いて、という表現を、確か古井由吉の『白髪の唄』で使われていたものだが、それがどんなニュアンスかも知らないのに思い出して、歌っているのは若い男のようだったが声の雰囲気には酔った中年親父の浮薄さが聞かれるなと受けて進めば、階段を上っている途中で後ろから足音が高く、まるで躓いているような響きで立ってきた。階段通路を下りて抜けると、背後の男はトイレに折れた。こちらは通りを渡って坂に入ったところでムージルをまた思って、あの作はしかしひどく抽象的だから、認識の微分だけで追いつけるものでないか、また違う領域にあるものか、こちらは大方具体につくタイプだからと、そう思い直したが、しかしプルーストも、個別性の頂点においてこそ普遍性が花ひらくとそう言っているように、具体を搔き分け搔き分け行けば、その極みで反転的に内破的に抽象に行き当たるのが文学というものの革命的な動態だろうと考えながら下って行った。
 出た平ら道は肌寒いようで、そろそろベストを着ても良いかもしれないなと思われた。Y田さんの宅の前の柿の木の、いくつも実ったオレンジ色が、闇に塗れた夜道の色彩沈下のなかで、家々から漏れる暖色灯の温もりと同じ色で浮かんでいる。Kさんの宅の前では、ここ数日で一気に涼しくなったからもしかするともう使っているのか、石油ストーブの匂いが漂った。家の傍まで来ると林のなかから虫の音が、種々様々に立って夜を満たして、ただでさえ違う種のものが重なって増幅し合っているところに、同じ種でも当然だが音の高さが微妙に違うようで、僅かな差異を孕みながら交錯し合って鳴きしきっているのに、実に凡庸な比喩だが、精妙なオーケストラだなと思った。
 帰宅して玄関内に入り、扉の鍵を二つ掛けて居間に行くと、おかえりと言った父親の声が何だか大きく荒いような感じで、今日は休みだったから大方また酒を飲んでいるらしく、対して母親の挨拶は小さく低い。テレビは何かの映画を映している。二つとも閉めた、と父親が訊くのに、鍵のことだなと察してああと短く受けて、階段を下りて室に入るとコンピューターを点けて服を脱いだ。スラックスのポケットやバッグのなかから荷物を取り出してそれぞれの場所に戻しながら、先の両親の対照的な様子に、もしかするとまた酒を飲んで感情の箍が緩くなった父親が、母親の余計な発言を捕まえて怒ったのか、何かそういうような一悶着があってそれで母親は機嫌を損ねていたのではと推測が回り、廊下に出て脱いだスラックスをハンガーに掛けながら上階へ向けて耳を張ったが定かなことは知れない。戻って、コンピューターはプログラムを更新しているとかで立ち上がるのに時間が掛かるので、辻瑆・原田義人訳『世界文學大系 58 カフカ』から『城』を読みながら待った。読みはじめたのは、城を「視察する」ために出掛けていたKが目的地に辿り着けないまま、馭者ゲルステッカーの引く橇に乗せられて宿へと帰ってきた場面で(144)、そこでKはアルトゥールとイェレミーアスという名前の二人の男に行き会うのだが、この二人はKの「助手」であると自称する。奇妙なのはそれにも関わらず、Kが二人に全然見覚えがないような反応を見せることで、この男二人が本当にKの「古くからの助手」ならば、当然Kは彼らを目にした瞬間にそれがわかるはずなのだが、しかし彼は行き会ってまず初めに、「君たちは何者なんだい?」と男たちの素性を訊いている。それに対して「あなたの助手です」と答えられたKは、「なんだって?」と驚きの声を上げ、「君たちが、くるようにいいつけておいた、あの私が待っている古くからの助手だって?」と続けるのだが、この時点で既に作品世界に不可思議な奇怪さが充満しているのがおわかりだろう。二人が真にKの助手ならば、Kは質問をするまでもなくそれを認識するはずである。反対に、二人が外見上別人であるのならば、彼らは自分が古くから知っている助手ではないとKは即座に判断するはずなのだが、そうした二者択一がここでは機能しておらず、Kは当人たちからそれを知らされて初めて彼らが自分の助手であることを知った、とでも言うような、まるで記憶を喪失した人が他人から自分の覚えていない過去のことを教えられたかのような反応を見せている。その後、二人があくまで自分たちは助手であると繰り返すのに対してKは、「それはいい」と相手の言を認めるのだが、しばらくして男たちが「土地の測量」については何も知らないと言うのに、本当に「君たちが私の昔からの助手なら」、測量の仕事についても何がしかのことを心得ているはずだと仮定的な条件節を口にしている。常識的に考えるならば、先ほども指摘したように、一目見た時点で目の前の相手が知己かどうかわかるはずだが、Kには何故かその判断が付かないのだ。むしろ、二人の男はKの「古くからの助手」でも何でもなく、嘘をついてそれを装い、Kを騙していると考えた方が筋が通るようにも思えるのだが、しかし実際のところ、Kが騙されるような要素は何一つとして見当たらない。アルトゥールとイェレミーアスは、自分たちが真に助手であるということを証明する情報を何も持っていないし、助手として己の素性を確定させる努力もしない。むしろ、彼らの提示するすべての細部、仕事に使う器材を持ってきていないとか、測量について何も知らないとかいう発言は、明らかに彼らが助手などではないという事実を指し示しているように思われるのだが、奇妙なことにKはその点について何の関心も見せず、実際に彼らを助手として扱うことになる。二人が真実自分の「古くからの助手」かどうかなど、Kにとってはまるでどうでも良いかのような態度だ。ここには二段階の奇妙さが仕込まれている。すなわち、まずKには何故か、目の前の人物が昔からの知り合いであるかどうかの判断が付かないという点が一つ、そしてさらに、そればかりでなく、彼は男たちの素性の真偽にまったく無関心であるという点がもう一つである。Kは真実を求めることなく、男たちが助手であろうがなかろうがどちらでも良いというこだわりのなさで、真偽の二者択一を無効化し、宙吊りにしている。上に述べたような二重の謎がこの場面には埋め込まれているのだが、その謎はまったく掘り下げられず、完全に無視され、真相はうやむやのままに二人の男はいつの間にか本当に助手の地位に収まってしまうのだ。このようにして、真相をまったく不確定の状態に留め、宙吊りを宙吊りのままに戯れながら撒き散らされる奇怪さの感覚、常識的な現実世界の論理から位相が幾分ずれている、言わば偽物の[﹅3]世界が提示されているかのような不穏さの感覚が、カフカについて巷間たびたび口にされる、「夢のような」世界だという評言の因って来たる所以ではないだろうか。
 ――と、そのようなことをメモ書きしているうちにコンピューターの準備が整ったので、Twitterなど各所を回ったのち、カフカに関してのメモを引き続き読書ノートに、机の前に立ち尽くしたままノートを傾けペンを走らせて取った。九時九分まで掛かり、それから食事を取るために居間に上がっていくとテレビの画面にはノーベル賞の文字が見られて、しかし目が悪いので仔細に見えず、文学賞だろうかと首を前に出して瞳を凝らせば、化学賞だった。吉野彰氏と言って、この時はまだ詳細は知られなかったが、のちに知ったところではリチウム電池を開発した人が賞を受けたらしい。父親はその報を受けて機嫌良さそうにやたらと喜んでいる。こちらは台所へ行って昼間のスパゲッティの余りを電子レンジに突っ込み、そのまま流れるような動きで手を下ろし炊飯器を開け、米をよそる一方で、フライパンの鯖と獅子唐、茗荷のソテーを皿に盛り、同じく茗荷と卵の味噌汁を火に掛けて、その他キャベツを細かくスライスして和えたサラダなどを卓に運ぶそのあいだも、京都大学の学生とか市井の人々が日本人のノーベル賞受賞について称賛するのに応じて父親はうんうん頷いている。流し台の前に立った母親は、そんな父親にお皿を持ってきてと声を掛けて、運んできた父親は、はいどうも、すいませんねと一応言うので、これはまあ良い心掛けである。スパゲッティが温まると次に鯖をレンジに入れ、その後卓へ行って食事を始める傍ら、父親は素晴らしい! と大きな声を上げて喜び続けるのだが、その様子を目にするにつけ端的に鬱陶しく煩わしく、良くもそこまで乗っかれるものだと思う。このように大喜びしておきながら、それでいて父親は例えば今次の吉野氏の研究について、例えばものの本の一つも読もうとはせず、より深い理解を得ようとは努力せず、おそらくこの夜だけで彼のことはほとんど忘れてしまうだろう。そうした態度が、自らには手の届かないような例外的な、偉大な人間の功績に凭れ掛かった単なる消費行動でなくて何だと言うのか? つまりは一時の世の熱狂、盛り上がりに抵抗せず、唯々諾々と巻き込まれて、自らの足で確固とこの世界に楔を打って大きな流れに、それにわざわざ逆行はしないまでも少なくともそのなかで屹立せず、流されているようにしかこちらの目には映らないのだ。Mさんがブログにおいてたびたび言及する世の人の「物語」に対する免疫のなさというものが、ここにはひどく明瞭に露出している。ほんのひととき、熱情に身を任せて笑い燥ぎ、感動して涙すら流すが、しかしその実、物事に関心を持つということの意味を、その具体的な行為としての表れを理解せず、それを我が身に宿らせることが出来ない。これを愚かさと言わずに、ほかに何をそう呼ぼうか? 読者よ、おそらくこれこそが、大衆性というものだ。
 そう言ったからと言って、それでは自分は自分をその大衆性から逃れた高みに位置していると自負しているのか、自らを特権的なエリートや知識人のような存在だと思っているのかと言えば、そんなことがあるはずはなく、こちらは単なる一フリーターでしかない。さらに、誤解を招きたくないので付言しておくが、勿論、吉野氏の功績が素晴らしいということに疑問を投げかけているわけではない。仔細には知らないが、リチウム電池を開発したと言う。日本の研究者の業績が全世界にはっきりと認められた。なるほどめでたく、素晴らしいことだ。人々の生活を根底から変え、格段に便利にした。なるほど偉大である。それについてけちをつけ、その素晴らしさを否定しようという気持ちはまったくないのだ。しかし、そうした報を受容する方の有り様には、何か釈然としないものが残る。先ほども書いたように、ほんの一晩盛り上がるだけでおそらくは記憶から大方消し去られてしまう、そのような凭れ掛かりの有り様である。
 そのように考える合間に新聞の夕刊に目を落とし、ホワイトハウスが議会の、つまりは民主党の大統領への弾劾手続きは違憲だから協力しない方針だという報道を眺め、めくればそこには、ウイグル族の弾圧に関わった中国政府職員や共産党員には、米国は入国用のビザを発行しないとそのような方針を定めたと書かれている。それらを読むあいだも父親は端的にうるさく、ただ一人での憚りもない、恥ずかしげもない燥ぎぶりが鬱陶しく、母親も冷ややかな様子である。そのうちに、テレビは吉野氏本人の中継インタビューの段に入って、受賞の知らせを受けた時のお気持ちはどうでしたかとお定まりの質問を問われた老研究者は、まあ正直、多少は来るかなとは思っていたと、飄々としたような調子で事も無げに述べるのに、面白い人だなと父親はまた喜ぶ。こちらはさっさとこのような居心地の悪さを逃れたかったので、がっついてものを食い、台所に立っていた母親にどいてもらって食器を洗い、速やかに入浴に行った。
 そうして湯に浸かりながら、そもそもノーベル賞と言うがそのように権威ある[﹅4]賞であっても、一体どこまでの意味を持つものなのか、その正当性はどこから来るのか、ノーベル賞と言ってこちらが生まれた時からあって毎年持て囃されているから気づかず自然なものとして受け止めていたが、それはどのように今のような正当性を持つに至ったのか、つまりはその権威の出所、起源、歴史はどのようなものなのかと、およそ賞と言ってどんな賞であれ神でなく人の身が人に与えるもので、それほど大した意味を持つものなのだろうかと疑問を抱き、化学賞はわからないからこちらにも多少馴染みのある文学賞で考えると、当然の話だが賞を取ったからと言って作品の文言は何一つ変わらない。ガルシア=マルケスが一九八二年にノーベル文学賞を取っていようが取っていまいが、『族長の秋』の言葉は一字一句も変化しないし、その素晴らしさも変わらない。作家が賞によって突然実力をつけ、上手くなるわけでもない。それにもかかわらず、受賞によって作品の社会的価値というものにはおそらく多少なりとも変化が働くのだろう。言わば箔がつく、ということで、言い換えれば権威を得てより流通するようになり、つまりは売れるようになる。それに加えて作家は結構な額の賞金も貰えるわけで、すなわちこの資本主義社会において権威ある賞を得るということは、作家と出版社により多くの金が入るようになるということ以上の意味をあまり持たないのでは、と思ったりもするのだが、そう言っては少々ひねくれ過ぎかもしれない。無論、作品がより広く読まれることは、単純素朴に良いことだろう。それによって新しい読み方を、斬新な解釈をする人も出てくるかもしれないし、そのことで作品の価値評価が変容し、文学世界は端的に豊かになる。また、読んだ者に感化されて自分で書きはじめる者もあるに違いなく、そこからまた新たな偉大な作家が生まれるかもしれない。しかし、およそ賞と言ってどれであれ、それは人間の手によって創設されたものであって、その権威は一見自然さを装っていながらも明らかに人為的な作為なのだから、手放しで喜ぶのは警戒したいと言うか、その正当性がどこから来るのかという脱自然化の視点は必要ではないだろうか? 毎年のノーベル文学賞発表に接して、村上春樹の熱心なファンが店に集って今年はきっと、と期待を共有し合うものだが、彼ら彼女らは上のようなことをまったく考えないのだろうか?
 入浴しながらそのようなことを思い巡らせ、出てくるとパンツ一丁で部屋に下り、急須と湯呑みを持ってきて緑茶を用意するそのあいだにも、父親はニュースに向けて絶え間ない独り言を漏らし、各地での台風への備えが映し出されるのに、千葉県館山市の屋根屋根にブルーシートが張られている様子には、大変だなあと労りを表明し、どこかの浜辺で土嚢を作っているのにも、海辺ってのはこうして見ると大変だなあとやはり労るその傍らで、こちらの頭には東浩紀の「観光客」の概念が持ち上がっており、先ほどの「大衆性」批判は、喜ぶならば盛り上がるならば当事者になれと、少なくともそのための努力はせよと言っているに等しいのではないか、それは人に「観光客」になる余地を許さない狭量さなのではないかと、そう自己批判した。そこまで強いことを主張するつもりもないのだが。
 そうして室に戻り、緑茶を飲みつつ、出掛ける前に聞いていたceroの、『WORLD RECORD』を先の続きの七曲目から流し、メモを取りながら合間に"大停電の夜に"に掛かれば穏やかで夜想曲的なメロディを口ずさんでしまい、昼間の英文の続きを読もうと思っていたところが茶を飲みながらメモに時間が掛かって、ようやく終えるとコンビニで買ってきたポテトチップスを開けて、つまめば指先が汚れてキーボードに油が付着するので右の親指と人差し指は使わないように、あるいはティッシュで折々拭きながら文を読み、音楽はceroが終わればCharles Lloyd『The Water Is Wide』を続けて聞いた。(……)
 じきに茶をおかわりしに階を上がると、父親は歯を磨いており、テレビには『クローズアップ現代+』が映って良くもわからないが資産形成か何かの話が成されている。居室に戻ってまもなく、Brad Evans and Gayatri Chakravorty Spivak, "When Law Is Not Justice"(https://www.nytimes.com/2016/07/13/opinion/when-law-is-not-justice.html)を読み終えた。

・curtail: 削減する、縮小する
・preposterous: 本末転倒の
・jolt: 急激に揺さぶる; 衝撃を与える
・coercion: 強制

(……)Gender is bigger and older than state formations and its fight is older than the fight for national liberation or the fight between capitalism and socialism. So we have to let questions of gender interrupt these revolutionary ideas, otherwise revolution simply reworks marked gender divisions in societies.

(……)Let’s take as a final example what Immanuel Kant says when developing his “Critique of Aesthetic Judgment.” Not only does Kant insist that we need to imagine another person, he also insists for the need to internalize it to such an extent that it becomes second nature to think and feel with the other person.

Leaving aside the fact that Kant doesn’t talk about slavery whatsoever in his book, he even states that women and domestic servants are incapable of the civic imagination that would make them capable of cosmopolitan thinking. But, if you really think about it, it’s women and domestic servants who were actually trained to think and feel like their masters. They constantly had to put themselves in the master’s shoes, to enter into their thoughts and desires so much that it became second nature for them to serve.

 それから、茶を飲むあいだは日記の作成は何となく遠ざけられて、それではその時間でMさんのブログを読もうとひらけば、彼の生徒のKUさんと言って改めて見ると実に美しく素敵な名前だが、彼女が最近精神の調子が芳しくなかったところ、双極性障害を患っているという言が明かされていた。Mさん自身も助言をしていたが、一年後に自分の病状と共存できるようになっていれば良い、五年後には今より多少なりとも良くなっていれば良いと、実に焦れったい話だがそのくらいののんびりとした心構えが良いですよ、とこちらからはKUさんにはそのように伝えたいと思うものだ。
 Mさんのブログの最新記事を読み終えると便所に立ち、大量に尿を放って茶で重くなった膀胱を軽くし、戻ればもう一一時前だったのでヘッドフォンを頭につけて、Charles Lloydを聞きながらこの日の日記を書き足しはじめた。(……)
 音楽はCharles Lloydを繰り返しながら、日付が変わっても打鍵を続け、その後音楽が仕舞えて無音に浸っていたところ、カフカの感想のところまで至ってやや書きあぐねて、それで景気づけでもないがJohn Coltarne『Blue Train』を流し出した。日記を書きながら諸所をTwitterに上げているのだが、やはりツイートとしては何個も連続して房のように伸び、あまりにも長いからだろう、ほとんど反応はない。そうして『城』の分析を書くのに時間が掛かってあっという間に一時半、ようやく書き上げたものをTwitterにまた流しておくと、この夜は日記はここまでとすることにして便所に行き、再度膀胱を解放してから歯ブラシを咥えてきた。Twitterでダイレクト・メッセージを使って文学談義をしませんかと、そのように呟いて相手を募集しながら、辻瑆・原田義人訳『世界文學大系 58 カフカ』を読みはじめ、歯磨きを終えるとふたたび『Blue Train』を聞きながら待つけれどツイートに反応はない。本を読んでいる途中で何故か自分の日記を訪れてしまい、七日の記事のNさんとの会話、会話と言うかほとんどこちらが一方的に語っているだけなのだがその内容を読み返し、じきに戻った読書はしかしたびたび読書ノートにメモを取りながら進めるので、なかなか頁が進まない。John Coltraneの音楽が終わると、Mr. Bigの『Ger Over It』を聞きはじめ、さらにそれも終わるともう三時前、こんな夜更けに聞くには随分と激しい音楽だが、『What If...』に移行して書見を続けた。『Get Over It』では、#8 "Try To Do Without It"が、切れの良いリフを奏でるギターのトーンにしてもブルージーに明るく乾いた曲調にしても、ほとんどThe Black Crowesと同じような耳触りである。次の"Dancin' With The Devil"はライブでも披露される佳曲で、ファンキーな色が強く、ドラムのPat Torpeyが、この人はパーキンソン病で惜しくも既に亡くなったのだが、イントロから非常にタイトで気持ちの良いリズムを叩き出し、キックも素早く細かく連打して活躍している。#10 "Mr. Never In A Million Years"はかなり単純なブルース風のリフが、しかし手抜きとは感じられず好ましいシンプルさで繰り返される。このアルバムは全体にソウルフルな色合いが濃いのは、おそらく新加入のRichie Kotzenの持つ毛色なのだろう。 
 『城』についていくつか。まず、Kは使者バルナバスから官房長クラムが記した手紙を受け取り、それが含んでいる意味の射程についてあれこれと思い巡らせるのだが(147~148)、手紙の文言にせよKの読み解きにせよ、勿論どちらも実際には作者カフカがその手で書きつけているわけで、従ってここで彼は、自ら書いたテクストにあとから自己解釈を施していることになる。そこにおいてカフカは自己自身の批評家と化しているのだが、その「批評」は正直なところあまり明晰とは言えず、文章を鋭く截然と分節してその意味合いを明快に掘り出してみせると言うよりは、言葉の糸をわざと縺れさせるかのような振舞いで、それによって彼は自分の記述の意味を乱し、拡散・変容させて、敢えて物語を混迷に落とし込み、わかりにくくしているような趣さえ感じ取られる。作品の言語のなかで読み手としてのカフカと書き手としてのカフカはほとんど完全に一致している。あるいは彼はその二つの様態のあいだを絶えず「行ったり来たり」、往還し続けることで、自分自身とのあいだに言わば意味の闘争を打ち立てるのであり、それを闘い続けることがカフカの小説の力学を構成しているように思われる。
 カフカの小説においては今ここに書かれていることがすべてなのではなく、現今の意味は常にあとから覆される可能性を孕んでいる。彼の記述は常に隠された裏面を伴っており、登場人物は、そしておそらくカフカ自身も、最終的な真実を求めてその闇のなかに入り込み、突き進んで行くのだが、その深淵の暗黒にはどこまで行っても終わりはなく、探索行は必然的に、徒労に終わるほかはない。物語の真相は主人公Kにとって、そして読者に対しても届かない遠くに秘められており、いつまで経っても得ることの出来ない結論に至ろうとして人物は、そして作者も読者も、虚しく儚く手を伸ばし続けることを運命づけられている。カフカの小説において三者が共通して引き受けなければならないのは、そうした永遠の、終わりのない「途上」の様態である。
 第三章においてKは酒場の女中フリーダと懇ろの仲になり、酒場の床で転がり抱き合いながら一晩を共にしたあと、第四章においては元々Kがいた宿屋「橋亭」に二人で移り、そこのおかみからフリーダとの関係について苦言を呈されることになる(159~165)。この女中フリーダは官房長クラムの「恋人」(156)だと自称し、周囲からもそのように認められているようなのだが、ところがおかみによれば、城の役人であるクラムは「とても身分が高い」(164)貴人であり、「けっして村の人とは話さない」(165)ような雲の上の存在で、彼はフリーダとも「一度だって話したことがない」と言う。「あの人はただ、〈フリーダ〉という名前を呼んだだけなんです」とおかみは語るのだが、それでは一般的な意味で、クラムとフリーダは「恋人」だなどとはとても言えないはずだ。ここでも、『審判』における「訴訟」や「逮捕」という語について見られたように、言葉に具体的な実質を付与せずそれを抜け殻にして、ほとんど純粋に抽象的な観念として提示するテクニック、言わば「概念の空洞化」とでも呼ぶべき技術が観察される。
 読書は四時一七分まで続け、それで第四章まで読み終えたので切りが良いから眠ることにした。机上に置いた本の前にずっと立ち尽くしたまま呼んでいたので、さすがに脚が疲れていた。それで明かりを消してベッドに移ると、そろそろかなり涼しいから厚い方の掛け布団を身体に掛けて、その下で横を向き身を丸めて、脚を労り労り眠りに入っていった。


・作文
 11:48 - 14:59 = 3時間1分
 22:47 - 25:28 = 2時間41分
 計: 5時間42分

・読書
 11:06 - 11:48 = 42分
 16:00 - 16:24 = 24分
 16:36 - 17:00 = 24分
 22:09 - 22:32 = 23分
 22:36 - 22:46 = 10分
 24:35 - 28:17 = 3時間42分
 計: 5時間45分

・睡眠
 ? - 10:00 = ?

・音楽

  • 16FLIP『Ol'Time Killin' Vol.4』
  • FISHMANS『Oh! Mountain』
  • cero『Obscure Ride』
  • cero『WORLD RECORD』
  • Charled Lloyd『The Water Is Wide』
  • John Coltrane『Blue Train』
  • Mr. Big『Get Over It』
  • Mr. Big『What If...』