2019/10/12, Sat

 竹内 大正末年の旧制高校教授の六割もが帝大文科出身者となりました。哲学専攻の者が引く手あまたになり、「哲学景気」ともいわれた。大澤さんの「元手なしの野心」説につなげていえば、教養景気というか、教養がメジャーになったことも大きかったと思います。そこでマルクス主義ですが、マルクス主義にはどこか教養主義の鬼子のようなところがあるんじゃないでしょうか。半分くらいは教養主義から来ている。
 大澤 とても重要な指摘ですね。日本においてマルクス主義教養主義のフレームで受容された部分がある、と。
 竹内 そう。マルクス主義教養主義の上級バージョンとして見られていた部分がある。つまり、マルクス主義は反教養主義ではない。
 大澤 文化部や弁論部がヘゲモニーを握って以降の旧制高校文化のなかで、さらに上位に立つためにこそマルクス主義が召喚された。
 竹内 そのきっかけのひとつは、一九一八(大正七)年の新人会設立でしょうね。
 大澤 若い世代はマルクス主義を早々に仕入れることで上の世代を圧倒することができた。これによって、知的空間の世代交代がいっきに可能になる。
 竹内 ちなみに、教養主義のもう一つの鬼子は本家返りした系譜ですね。つまり、安岡正篤に代表される日本主義的教養主義旧制高校は大きくは文科と理科に分かれていましたけど、将来法学部へ進む学生もいれば工学部へ進む学生もいた。そんな彼らにしてみると、阿部や魚住、和辻の教養主義的なモードはちょっと受け入れがたかったと思うんですよ。「文芸部的なもの」にヘゲモニーを握られているとして。つまり、旧制高校は文科を中心とした「知の学校」と法科や工科などの「権力の学校」とのふたつの学校の混合体であった。知識人の学校と政財界人・テクノクラートの学校です。
 大澤 つい忘れがちなんだけれど、テクノクラート向けの教養主義も求められていたと。
 竹内 そうです。それでマッチしたのが日本主義的教養主義だった。片山杜秀さんは『近代日本の右翼思想』のなかで、安岡正篤の思想は、人格の成長と発展を第一義として理想を指導原理とするような阿部次郎の人格主義を読み破ったんだと喝破しています。思想史家の荒川幾男も、安岡の思想は単純な農本主義者や頑迷な西洋排撃とはちがって、新カント学派の著作に親しみつつ、儒学国学的要素のなか、つまり東洋思想的人格主義のなかから生まれ出たものだと早くに指摘していた。自由主義者マルクス主義批判の急先鋒でもあった経済学者の河合栄治郎テクノクラート型の教養に影響を与えていたはずです。だから、教養主義を「文芸部的なもの」としてだけ捉えてしまうと、そこから抜け落ちてしまうものを見逃してしまう。
 大澤 まったくそのとおりだと思う。これまで教養主義というと文芸部的な系譜ばかりが強調されすぎました。けれど、教養主義の発動期を振りかえると、もう少し多元化できる。
 竹内 さきほどの阿部次郎にしても、その教養観の基盤にはやっぱり儒学的なもの、それこそ「修己治人」のようなものがもともとありましたしね。
 大澤 現在の『週刊ダイヤモンド』や『週刊東洋経済』といったビジネス誌が教養特集をしばしば組んで、ブックリストを掲げ、それらをビジネスインテリが読んでいる光景も、いまの竹内さんの図式ですっきり整理できそうですね。しかも、そこにあげられるのは安岡正篤だったりもする。
 竹内 安岡の本はいまでも、どの書店にもだいたい置いてある。
 大澤 日本型マルクス主義教養主義の鬼子として出てきたという経路のわかりやすい例は三木清でしょうね。「読書遍歴」など半生をふりかえったエッセイを読むと、一高時代の三木は完全に「文芸部的なもの」の磁場に浸っていました。岩波書店の「哲学叢書」もきっちり読み進め、他方、文学の道に進もうかとすら考えていた。弁論もがんばっていた。まさに大正教養主義の申し子だったといっていい。ですが、大学院と留学をおえて『パスカルに於ける人間の研究』でデビューして、一九二〇年代後半になると、今度は急速にマルクス主義へと転回を遂げます。経済学ではなく哲学にマルクス主義を導入してみせて、後続する哲学志望の若手たちにかなり影響をおよぼした。それを担保にジャーナリズムに打って出て、論壇の寵児となり、一九三〇年代半ばには昭和教養主義の中心人物の一人になっていくわけでう。
 竹内 昭和の教養を考えるうえで三木は重要ですね。
 大澤 戦時期にはこのマルクス主義経由の教養主義と日本主義をベースとした教養主義とが対抗関係を形成することになる。ふたつの鬼子が拮抗するわけですね。
 竹内 見えにくいかたちだけど、戦後にもその図式は流れこんでいった。
 大澤 さきほど名前があがった河合栄治郎は、一九三〇年代にマルクス主義とは別の系統の昭和教養主義の立役者ですね。むしろ、出版史的にはこちらの方が本流だった。河合が企画編集した「学生叢書」全一二巻は学生のあいだで爆発的にヒットして、戦後まで版を重ねます。
 竹内 『三太郎の日記』が大正教養主義のバイブルだとすれば、「学生叢書」は昭和教養主義のバイブルだといっていい。三木とはちがって、河合は東京帝大の経済学部で教鞭をとっていましたから、その点も大きいでしょうね。河合の「学生叢書」に阿部次郎は数巻にわたって寄稿しています。阿部の人格主義は教養主義の古層になったのではなく、むしろ召還されたのです。経済学部の河合が人格主義を唱えていた。マルクス主義が弾圧されたことによって、教養主義が息を吹き返したわけです。
 大澤 ところが、一九四〇年代に入るとマルクス主義のみならず教養主義的なモードもろとも抑圧されることになる。
 竹内 だからこそ、戦後の新制大学において、教養主義マルクス主義リバイバルこそが軍国主義を防ぐものとして考えられたわけです。
 大澤 こうやって、戦後も日本型教養主義は延命する。
 (大澤聡『教養主義リハビリテーション』筑摩選書、二〇一八年、78~83; 竹内洋×大澤聡「日本型教養主義の来歴」)


 久しぶりに、正午を越えて一二時五〇分まで長々寝過ごした。台風はどうもいよいよ上陸したようで、大雨が降っており、風もあって激しい雨粒は斜めに流されて窓に打ちつけ、ガラスを通した視界が歪み乱れるそのなかで、例の巨大な蜘蛛が空中で糸にすがって、風に大きく揺らされて真っ白な宙を行ったり来たりしているのが見えた。しかし、これだけの激しい風を受けても蜘蛛の糸というものは決して切れることがないのだから大したものだ。目を覚ますたびにしかし起き上がれずに布団を乱してはふたたび混濁のなかに巻き込まれていくのを繰り返して正午を回ったのだが、最後に覚めた時には白い空を眺めているうちに再度落ちることもなく、何とか気力を身に引き寄せて、布団を身体から剝ぎ取ることに成功した。コンピューターは素通りして上階に行けば、居間の内は既に暮れ方の薄闇に浸かったかのような暗さである。洗面所に入って顔を洗い、髪を梳かして、トイレに行って放尿したあと、台所で、ここもやたら薄暗いので明かりを灯して、フライパンに炒められたジャガイモのスライスを皿に取り、卵とワカメの汁物と米もよそって卓へ、新聞を読みたいのでやはりオレンジ色の食卓灯を点けて、食事を始めた。テレビは土曜の昼だからいつものように『メレンゲの気持ち』を映していて、川平慈英と、もう一人は何と言うのか知らないがその兄弟などが出演して、業務用スーパーが好きだ、あそこはテーマパークだなどと語っていた。新聞をめくれば、今年のノーベル平和賞エチオピアの、確かアビー・アハメドとか言ったか、首相に授与されることが決定したと言う。隣国エリトリアとの和平を成立させ、関係を改善したという功績が認められたらしい。そのほか国際面ではトルコの例のクルド人攻撃についての続報もあって、クルド人組織が「イスラーム国」の戦闘員を収容していたところ、空爆で施設が破壊されたり情勢が混乱したりすれば、彼らがそれに乗じて逃げ出して、「イスラーム国」が復活するのではないかという可能性が危惧されているとのことだった。
 食事を終えると、服薬は夜だけになったのでこの時は何も飲まず、食器を洗って風呂を洗いに行った。浴室もやはり薄暗かったので明かりを灯し、風呂の栓を抜いて残り湯を流しているあいだに窓を開けて外を見てみると、斜めに傾いた激しい雨の、硬い金属の針のような直線的な粒の軌跡が宙をこれでもかというほどに埋め尽くしている。窓は閉めて、ブラシで浴槽を洗い、泡をシャワーで流して出てくると、母親がシャイン・マスカットを小皿にいくつか用意してくれていたので、それをつまんで頂きながら階段を下りた。自室に来るとコンピューターを起動させ、Evernoteやらブラウザやらを立ち上げて、Mr. Big『Get Over It』を流しながらLINEにもアクセスするとグループ上に発言があって、Kくんが体調が治りきっていないから明日の集まりは不参加を考えていると言っていて、参加するならばTの家に集まる予定だったところを、彼の家に変えれば何とか、と言う。皆、それに応じてKくんの宅でも良いと答えていたが、こちらは体調が悪いところに無理に集まることもあるまいというわけで、台風が激しくて電車も出るかわからないし、今回は見送っても良いのではないかと提案すると、ひとまず翌日の電車の運行予定が固まるまで判断は待とうということになった。それからT田が、彼の編集した近現代音楽選集のデータを上げてきたのでありがたくダウンロードし、その流れで、また前日カフカについて話していた流れもあって、Gyorgy Kurtagって知っているかと投げたが、さすがのT田もこの名は知らない。と言ってこちらもその人について何一つ知らないのだが、ただ遥か昔に立川図書館で借りた彼の、『Kafka-Fragmente』と言ってカフカの断片をモチーフにしたらしい音源がライブラリに未だに残っているのだと教えた。するとグループ上ではなくて、一対一のやりとりの方でT田は、良ければその音源をくれと言うので了解して、アルバムを圧縮しようとしたところが、いくら命令を下しても処理が始まらないので、あとで再起動させてまた試してみると伝えておいた。そのようにLINE上でやりとりをする合間にも、こちらは早速今日の日記を書き進めており、Mr. Big『Get Over It』が終わったあとは件の『Kafka-Fragmente』を流し出してみたが、正確にはKurtagというのは作曲家の名で、演奏自体はJuliane Banseというソプラノと、Andras Kellerというヴァイオリンの、声と楽器のコラボレーションで、確かこのアルバムはECMのNew Seriesの一作ではなかったかと朧気に記憶しているところ、今一聴してみたところではやはりかなり前衛的で温度感が低く、音像はまさしく断片的で、幾分解体的なところがカフカ的と言えばそうなのかもしれない。
 じきに携帯電話が震えて、見れば緊急速報で、市内に避難勧告が出たとかいう話で、うちはまあ大丈夫だろうと思うが一応上に行き、勧告が出たらしいと伝えると、母親も既に知っていて、そうと肯定した。父親も帰ってきており、テレビの前に居座って、災害情報を確認しているのだろうか、こちらにも向かず画面をじっと見つめている。こちらは上に来たついでにトイレに行って用を足し、戻ろうとすると父親が、じゃあ俺は会館に行ってくると言う。階段を下りるその背後から、合羽をつけていくとか何とか聞こえた。
 そうして自室に帰り、一年前の日記をひらいたが、この日も相変わらず鬱にやられていて、「特に書きたいことがない。本を読んでいても楽しくはない。欲望や知的好奇心の消失。結局そうなのだ。結局はそこから抜け出すことができない」とそれだけが記してある。二〇一四年一月一三日の日記も特筆してここに取り上げておくべきことはなく、続いてMさんのブログにアクセスした。読みながら、Mさんの日記の内容には何の関係もないのだが、何故か、昨日の日記書くの面倒臭えなあ、という思いが湧いてきて、これはむしろ良い傾向かもしれないと思った。躁的な気分が抑制されてきているということを示しているようにも思えるからだ。最近は文を書くのが面倒臭いという感覚がまったくなくて、ばりばりと、ワーカホリックのサラリーマンのように書いていたのだが、やはり面倒臭い面倒臭いと思いながらも粛々と書くと、そのくらいの熱心さでないといけない。
 Mさんのブログは二日分を読んだ。雨は変わらず激しく降って、ヘッドフォンの外からばたばたと窓を打ちつける雨粒の音が侵入して、振り向けばガラスの上を、粘度の高い水飴のようにゆっくりと落ちていく水流が生まれていた。次に、Sさんのブログをひらき、こちらの日記に言及してくれたものも含む最新の記事三日分を読みながら、Sさんの文章というのは、何と言うか、これ以上なく優しいものだなと考えた。優しく、穏やかで、そして小さなエクリチュール。「クロニック」をやっていた頃の、晩年のロラン・バルトが言っていたことを思い出す。

 探し求められていたフォルムは、短いフォルム、あるいはこう言ってよければ、優しいフォルムである。箴言の仰々しさとも、諷刺詩の刺々しさともちがう。なにか、少なくとも性向としては、日本の俳句、ジョイスにおけるエピファニー、私的日記の断片を思わせるところがあるもの。要するに、はっきりとマイナーであるようなフォルムだ――マイナーは値引きということではなくて、ほかのジャンルと同じように、ひとつのれっきとしたジャンルだということを、ボルヘスとともに思い起こそう。なるほど、私自身は、自分のクロニックが出版されると、自分のささやかな散文、自分のささやかな統語法(念入りに推敲してはいるが)、つまり、自分のささやかなフォルムが、われわれを取り巻く諸々のエクリチュールの過剰電圧によって押し潰され、消し去られたようになってしまうのを見て、度を失っているのかもしれない。しかし、いずれにしても、優しさのための闘いというものがあるのだ。優しさは、そうと決められた瞬間からひとつの力になるのではあるまいか。私がささいなことを書くのは倫理ゆえである。
 だが、このフォルムはいかなる点で政治的たりうるだろうか。誰かが私にこう言った。「私はあなたのクロニックを読んでいません。『神話作用』よりできが悪いという話ですよ」。いや、これは『神話作用』ではないのだ。むしろ、世界から扇動や衝撃を受けとる私の感受性に、一週間ごとに刻印を残すような、いくつかの偶発事の抜き書きなのである。直接的には時局のスクープに結びつかないような、私自身にとっての個人的なスクープなのだ。では、なぜそれを書くのか。なぜささいなもの、無用なもの、無意味なものを書くのか。「取るに足りないこと」を言っている、と非難される危険をどうして冒すのか。この企ての考えは以下の通りである。新聞・雑誌が取り上げる出来事は、まったく単純なように見える。私はこう言いたいのである。それが「出来事」であるということはつねにはっきりしているように見えるし、しかも、その出来事は強烈なのだ。しかし、「微弱な」出来事があって、そのささいさが、それでも感覚を揺さぶり、世界のなかで「うまく行っていない」ことを指し示さずにはおかないとしたら? つまり、もし人が少しずつでも根気よく、強度を読みとる格子の手直しに取り組んでいくとしたらどうか? 巨大なメディアは、私には皇帝の画家が有名な戦争を描くようにして出来事を扱っているように見える。しかし、絵画が進展してきたのは、もっぱらそれが尺度を変化させることを受け入れてきたからである。ニコラ・ド・スタールの絵はまるまる、セザンヌの絵の一平方センチメートルから出てきたのだ、とも言われている。たぶん、新聞・雑誌においても、われを忘れたメディアが自ら出来事を生み出すこと(これは新たな歴史的事実だ)にブレーキをかけるべく、巨大な規模の与える威信にたいして抵抗を試みなければならない。私は私の用いる言語が小さなものであることを承知している(「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」とウィトゲンシュタインは言った)。けれども、この小ささは役に立つ。というのは、ときおり私が他の世界の限界、他者たちの世界の限界、「巨大な」世界の限界を感じとるのは、この小ささから出発してのことであるし、私がものを書くのは、そうした気づまり、そうした苦悩を語るためだからである。今日われわれは、できるかぎり多くの「小さな」世界を語らねばならないのではないか。「大きな」世界(群れとなって固まる世界)にたいし、個別性のたゆまぬ分割によって闘いを挑まねばならないのではないか。
 エクリチュールの実験(ここで私が賭けているものは、実践であって価値ではない)としてのこのクロニックは、私にとっては、自分を構成しているきわめて様々な声をして語らせるやりかたなのである。その意味では、これを書いているのは私ではなく、ときには相反することもある声たちの集まりなのである。私が愛しており、そこからつかのまだけ価値を借りている者の声、私がかわるがわるなりうるブルジョワジーや、プチ・ブルや、「ブレヒト主義者」から出てくるイデオロギー的な声、古風な、時代遅れな声、愚鈍な声。これらの声はまたさまざまな聞き手でもある。ときには男性、ときには女性となるような、頭のなかではっきり誰とわかる声、またあるときには集団となり、あるときには私自身の他なる部分ともなるような声。それらは小説のための(まだ名づけられていない登場人物たちの声)、あるいは戯曲(台詞をやりとりするジャンル)のための試し撮りのようなものである。
 (ロラン・バルト/下澤和義訳『小さな歴史』青土社、一九九六年、156~163; 「一時休止」; 一九七九年三月二六日)

 その後、ふたたび日記に取り掛かって前日の記事を進める途中、三時半に至って何だか腹が空いたので、何か茶菓子はないかと上に上がって、戸棚を開けて見ればトマト・プレッツェルがある。これを頂くことにして、母親にも数枚分けようとティッシュを一枚取って炬燵テーブルの上に敷くと、母親の携帯が鳴ってまた災害情報が来た。こちらも自室に戻って携帯を見れば、東京地方に特別警報が出たと言い、警戒レベルは五とあって、災害が既に発生していることを示すものであり、「命を守る最善の行動をとってください」と記されてあった。と言って我が家はさすがに川の水が上がってくる近さでもなく、林は近いが土砂崩れを恐れるほどでもないので、避難するまでもなく家内にいるのが最善と日記を続け、四時直前から中島みゆき『LOVE OR NOTHING』を流しはじめた。前にもどこかに記したが、"てんびん秤"の黒っぽさはなかなか凄くて、ほとんど日本特有のブルースみたいなものとも思われて、どろどろのタールのような黒々とした粘っこさが特筆物である。
 五時まで文を綴って疲れたので、気分転換に一旦書き物を離れるかと上階に行けば、台所に立った母親が、巻繊汁を作っていると言い、ガス台のフライパンでは既に野菜が煮込まれつつあった。こちらは冷凍のハンバーグを食いたいと思っていたのだが、しかしそれをピーマンなどと合わせて炒めておかずの一品にすると言うので、手を洗ってそのピーマンを細切りにして、それから茹でられた大根の葉も切り分けてこちらはプラスチック・パックに入れて、胡麻をいくらか振って胡麻油も垂らして味をつけた。それからピーマンと玉ねぎを合わせて炒めはじめ、ハンバーグは三つある焜炉のうち、最も火力の弱い真ん中のもので温める。フライパンを振りながら野菜を搔き混ぜ、そのうちにハンバーグも取り出して、開封してから汁をまずフライパンに垂らして味付けとして、母親に渡して肉の本体を細く切ってもらうが、まだ冷凍が溶けきっておらずなかが固かったようで、母親は力を籠めて苦戦していた。切断された肉たちを投入し、蓋を閉めて弱火で蒸し焼きに掛け、合間に開脚して脚の筋をほぐしたり、首を回したりして待って、料理が仕上がると場を離れて居間の電灯を点けて、カーテンも閉めたあと頼まれてビール缶を二本冷蔵庫に入れると、シャイン・マスカットが小皿にいくつか用意されてあったので、四粒ほどつまんで持って、下階に帰りながら食った。
 類家心平『UNDA』を流し出し、何をしようかと迷ったけれど結局日記を書くことにして、打鍵を続けて五時四〇分、緑茶を注ぎに上に上がって、そう言えばこちらの白いワイシャツの、肩のところに何のものか茶色い染みが出来ているのだがと訊けば、染み抜きをしても落ちないと言う。そのうちに新しいものを買おうと決めて緑茶を持って下に戻り、飲みながら日記を進めた。例のごとくカフカの小説の感想に時間が掛かって、文言を直し直し、と言って下手に切り詰めるとこちらの場合、かえって固く窮屈になるようだと以前の推敲で学んだので、推敲と呼べるほどにこだわらず、伸び伸びと、無論削る部分もあるけれど、むしろ大方言葉を足していく。プルーストも確かそういう感じなのではなかったか。推敲の地獄に果敢に挑むMさんの前世がフローベールだったのだとすると、こちらの前世は分量への志向からしてもプルーストだろう。
 七時二〇分に至ってようやく前日の記事が完成した。Twitterカフカ『城』の感想を長々投稿したが、一応今回は全部一続きのものにはせず、段落ごとにスレッドを分けて流してみた。その後、ブログやnoteに一一日の記事を投稿するあいだ、Deep Purpleの"Child In Time"を何となく思い出して流していた。
 そうして食事へ、上がって台所に入るとハンバーグと、書き忘れていたがこれには前日のジャガイモのスライスも合わせていたのだが、それとピーマン玉ねぎを混ぜた料理をよそってレンジへ、そのほか巻繊汁を椀に盛り、米も茶碗によそって、あとは生野菜のサラダを大皿に乗せて食卓へ、夕刊はあるのかと訊けばあると言うので、新聞屋はこんな日でも配達の仕事をこなしたわけだ。ものを食いながら新聞を読めば、シリアではやはりトルコの進撃による混乱を突いたのだろう、「イスラム国」の爆弾テロがあって四人死んだと言うし、中東地域もまた危うくなってきているようだ。テレビは出川哲朗が充電バイクで旅をする番組で、今回のゲストは澤穂希だった。食事を終えると薬を飲んで、食器も洗って風呂に行き、窓を開けてみたが増水した沢の音なのか雨の音なのか、二つながら合わさって区別が付かず轟々という水音が響く。湯に浸かりながら、カフカの小説について考えた。先に書いた通り、カフカ『城』を読む者は、Kとともに不確定性の煉獄に永久に閉じ込められる。その点でカフカの文学というのは言わば「煉獄の文学」、中間領域の文学と言えるのかもしれないが、そこからもう少し何か論を展開できないかと頭を回したのだった。煉獄というのは死者が天国に入る前に自らの罪を清める場所であるらしく、一応ここに迎えられた人は浄罪を済ませれば天国に入れると定められているようだが、カフカの小説様態は言わば永遠の煉獄なので、そこから読者は最終的な意味たる天国に至ることはない。カフカの煉獄においては浄罪の炎から逃れることは出来ず、不確定性の火に身を焼かれ続けるほかはなく、読者はKとともにその宙吊り状態の苦痛をカフカの言葉が途切れるまでずっと耐えなければならないというわけだ。カフカの文学はおそらく彼の出自と合わせて、宗教的な側面としてはユダヤ教との関連で語られることが多いはずで、その一方で彼についてはまた、世俗的な合理性の極点であるところの官僚組織の構造を明快に描いた、という評価も良く下される。こちらとしてはしかし、カフカの作品を単純に宗教性に還元するのでもなく、かと言って散文的な現世の構造に収斂させるのでもなく、「煉獄」の語と結びつけて、彼の文学は宗教性と地上性の合間を漂うものであり、その中間領域において永続的な宙吊りの刑を味わっていると、そんな風に読んでみたいと思ったのだが、適切な論理と文脈がまだ見つからないのだった。
 もう一つ考えたことには、カフカという作家はおそらく、言語によって何か具体的で明確なものを表現しよう、言葉の力で何かを写し取ろうなどとはまったく意図していないのではないか。彼はきっと、何か別のものを代理的に映し出すという機能、つまりは言葉の表象作用に信を置いていない。彼にあるのはイメージへの志向ではなくて、言語そのものが持つ意味の射程に対する本能的な、際立って鋭い嗅覚だけである。カフカはそれに従い、言語とほとんど一体化してひたすら走り続ける。文学だとか構造主義思想だとかに触れたことのない一般的な人間は今でも、人間である自分が言語を所有しており、主体が言語を道具として操っていると思い込んでいるはずである。言わば言語は人間にとって飼い犬であり、それを操る人間の方は主人としての地位を持つわけだが、カフカにおいてはそうした主従図式が成立せず、時に飼い犬の強い力に引っ張られて意図せぬ方向に走ってしまう飼い主のように、彼は言語を思い通りに操ろうとしながらも同時に言語の自走性に自ら身を委ねてもいる。つまり、彼は言語とのあいだにおいても絶えず闘争を繰り広げているのだが、その闘争状態が理想的に極まった時、それは瞬間、反転的に和平関係に転じ、カフカと言語のあいだに齟齬はなくなり、両者は同化的に一致して、飼い犬と飼い主のあいだの差は消滅することになる。カフカが文を書き連ねる時、彼はおそらく常にそのようにして言語そのものになろうとしており[﹅15]、そうした融合的な主体の放棄こそが、フランツ・カフカの先駆性だったのではないだろうか。「おまえと世界との闘いにおいては、かならず世界を支持する側につくこと」(飛鷹節訳『決定版カフカ全集3』(マックス・ブロート編集)、新潮社、1992年、33)という例の有名なアフォリズムは、カフカが言語=世界とのあいだに打ち立てたそのような関係のあり方を端的に表現しているのかもしれないが、カフカ以前に言語とのそうした関係性を目指した作家はいるのだろうか?
 風呂から上がってパンツ一丁で下階に戻ると、Deep Purple『In Rock』とともに英文記事を読みだした。前日も触れたBrad Evans and Zygmunt Bauman, "The Refugee Crisis Is Humanity’s Crisis"(https://www.nytimes.com/2016/05/02/opinion/the-refugee-crisis-is-humanitys-crisis.html)の続きである。読みながら途中、目を閉じて"Child In Time"のギターソロに耳を寄せたのだが、同型のフレーズをたびたび繰り返しながら突き進むこの勢いはやはりなかなか大したものだなと思った。チョーキングを連続する際など、そのたびごとに音程が微妙に違っていて、正確さの点から言えば瑕疵なのだろうが、その粗雑さがかえって荒々しいロック性を高めている。

・heed: 心に留める、聞き入れる
・omnipotent: 全能の
・staunchly: 断固として
・predicament: 苦境、窮状
・collateral victim: 巻き添えの犠牲者
・quintessentially: 典型的に
・indisposed: 気が向かない、乗り気でない
・roam: 散策する、うろつく、放浪する
・extant: 現存の

 英文の次には、「週刊読書人」上の「東浩紀ロングインタビュー(聞き手=長瀬海) ユートピアと加害の記憶」(https://dokushojin.com/article.html?i=5821)をひらいた。面白い。『ゲンロン10』はやはりいずれ読まねばならないのではないか。

東  先程も言ったように、加藤さんは加害者の側から戦争の記憶について考えていた。戦後日本の知識人として生きるためには、この問題は避けて通れない。僕たちは、日本にいるかぎりどうしようもなく加害者の文化の中にいて、原理的に被害者の側には立てない。その「立てないということ」をどういうふうに考えるか。それはすごく重要な問題提起だったと思います。加藤さんはそれを文学者として言葉にしようとした。その試みは引き継がざるを得ないものだと考えています。

――東さんは、二一世紀の問題を考えていこうとしているのかと思うのですが、実は二〇世紀にぐるっと戻っているのですね。

東  二〇世紀という時代はすごく両義的な時代です。前半が戦争の世紀で、後半が消費社会の世紀です。生の時代と死の時代が本当にすごく近い場所にあった。ダークツーリズムという言葉がありますが、僕たちが生きているこの世界は、じつは戦争の傷跡や虐殺の跡地に満たされていて、その上に工場や団地やテーマパーク、ショッピングモールが建てられてこの現実がある。大量生産大量消費のシステムは戦争と切り離せないし、その延長線上に二一世紀もある。つまり、僕たちは人を殺すテクノロジーの上に生きている。だからこそ、僕たちは加害の文化の意味について考えねばならないし、そのためにも二〇世紀に戻らなければならない。僕は先程も、戦後日本の知識人として加害について考えなければいけないといいましたが、本当は、二一世紀に住む人間はみな二〇世紀の大量死のうえに生きているわけで、そういう意味ではみな加害者なんです。歴史について考えるとは、加害の継承について考えることで、そういう哲学をつくりたいと思っています。

東 『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン)の中で、僕は「親であること」について語っています。それは加害者であるということです。最近反出生主義という哲学の流行がありますが、親であることは本質的に加害者であることです。DVとかネグレクトとかがなくても、本質的にそうです。本来は存在しなくてもいい主体を存在させてしまうこと、それ以上の加害はない。「親」というのは加害の雛形です。でも、それを単純に拒否できるでしょうか。害を為すことをすべて否定してしまうと、人は何も語れなくなるし、子どもも作れないし、究極的には生きることすらできなくなります。だから、ぼくたちは、害を為すとは一体何なんだろうという問題について、もっと根本的に、哲学的に考えていかなければいけない。被害者の側に立って加害者を告発するだけで満足してはいけない。福島の問題についても、東京の人間が東京から考えることは本当はすごく大事です。僕たちは東京にいて福島の電力を搾取して生きてきた。それをどう考え、記憶するかが大事であって、被害側でない人間は何も語るなという批判は、結局は害の本質を考えさせなくさせるだけだと思います。僕はいまは、原発の問題については、チェルノブイリへのツアーを実践することで考え続けています。僕たちはみな害を為しながら生きている。親になりながら生きている。被害者からの哲学、言い換えれば「子ども」の側からの哲学しかない世界というのは、欺瞞に満ちた世界だと思っています。

東 (……)加害者は加害を全部忘れる。被害者はそれを物語化する。けれどじつは加害には物語なんかない。たまたま目についたから殺したりする。でも被害者のほうはたまたまじゃ困る。被害者は選ばれて殺されなければいけない。この隙間で「ほんとうに忘れられるもの」とはなにか、というのが『ゲンロン10』のテーマなんですが、それが最後、柄谷の村上春樹批判の盲点と重なってくる構成になっています。(……)

 続いてさらに、「在沖縄米海兵隊は抑止力か否か」(https://ironna.jp/article/1532)をひらく。沖縄に駐留している米海兵隊について、慶応大学の准教授だという神保謙という人は、「抑止効果は非常に大きい」と述べ、「日本周辺では、東シナ海のグレーゾーン事態や朝鮮半島の不安定化の可能性があり、沖縄の位置を考えれば、戦域内に短時間内で展開できる海兵隊がいることの意義は大きい」と主張するのだが、先日読んだ半田滋「沖縄海兵隊の役割とは何か」(https://imidas.jp/jijikaitai/d-40-070-10-07-g255)では、次のように記述されている。神保氏の主張はこの記述に上手く答えられていないように思う。

 アフガン攻撃やイラク戦争でも明らかな通り、現代戦で戦端を開くのは攻撃機や艦艇、潜水艦から発射される巡航ミサイルである。そして兵員は輸送機や輸送艦で運ばれる。もはや強襲揚陸艦から陸地に攻め上がる着上陸侵攻の戦法自体があり得ない。海兵隊は存在そのものが問われる危機的状況に陥っているといえるだろう。
 その中でも最小規模である沖縄の第3海兵遠征軍は、苦しい局面に立たされている。緊急展開なら、アメリカ本土にある第1、第2海兵遠征軍の方が、輸送機に乗って素早く敵地に進出できる。

 記事を読んでいる途中で早くも歯磨きを始め、音楽はDeep Purpleの高名なライブ盤、『Made In Japan』に繋げた。Twitterを覗くとダイレクト・メッセージが届いていて、誰かと思えばねんさんで、ニュースで青梅の名前が挙がっているのを見て心配になった、気をつけてくださいと心遣いのメッセージを送ってきてくれていたので、有り難いと礼を送り返した。
 ironnaの記事ではもう一人、沖縄における海兵隊の存在意義は希薄だと主張する側として、元官房副長官補・柳沢協二氏が登場しており、彼は次のように述べる。「抑止力とは『相手が攻撃してきたら耐え難い損害を与える能力と意志』のことだ。その意味で沖縄の海兵隊は抑止力として機能していない。離島防衛は制海権と制空権の奪取が先決で海兵隊がいきなり投入されるのはあり得ない。日米防衛協力のための指針でも、米軍の役割は自衛隊の能力が及ばないところを補完すると規定されている。それは敵基地への打撃力だが、海兵隊の役割ではない」。こちらの方が、何となくだが、神保氏の言よりも納得が行くような気がする。
 さらに続けて、野嶋剛「沖縄に駐留する米海兵隊の語られない真実 抑止力ない"幽霊師団"」(https://toyokeizai.net/articles/-/69279)も読んだ。「定員1万8千人のうち、イラク戦争で駆り出された部隊はそのまま戻らず、一部部隊の移転もあって、現在、実際に沖縄にいるのは1万2千~1万3千人程度」とあり、この数は先のimidasの記事内の情報と一致している。「一方、定数1万8000人(日本外務省による)、実数で1万2402人(2008年9月、沖縄県調査による)とされる第3海兵遠征軍指揮下の海兵遠征隊は、第31海兵遠征隊(約2200人)の1個だけ」。東洋経済の記事では第三一海兵遠征隊についても、「戦闘部隊としては「MEU」と呼ばれる2千人規模の第31海兵遠征隊が駐留するのみ。その中の基幹となる歩兵は、1個大隊800人程度しかいない」とあって、こちらの数字もimidasの方の記事とほぼ同一である。戦闘の現代化のなかで、海兵隊というある種前時代的な機構がもはや不要だとの声が高まっているという記述も、imidasと同様、東洋経済の記事にもやはり含まれている。

 一方、海兵隊自身も沖縄の基地の維持を望んでいるという現実がある。米軍再編の「リストラ」のなかで、ハイテク装備を持たない「肉体派」の海兵隊不要論が強まっているからだ。
 そんな海兵隊にとって沖縄は虎の子の拠点だから手放せない。普天間の移設がもめても海兵隊から一言も不満が出ないのは、とにかく基地が維持されることが最優先だからだ。

 記事を読み終えると口を濯ぎに立ったのだが、その時、『Made In Japan』からは"Smoke On The Water"が掛かっていた。洗面所に行って口を濯ぐとトイレに入り、歌を歌いながら放尿し、戻るとfuzkueの「読書日記」を読んでいなかったなと思い当たってGmailにアクセスした。「読書日記」を読んでいる途中からドラムソロに入る。"The Mule"という曲で、muleというのは確か驢馬のことだっただろうか? それから書抜き、町屋良平『愛が嫌い』の文言を写していると、音楽は"Strange Kind Of Woman"に入って、イントロのギターからして耳を惹かれて、曲全体としても軽妙で小気味良いブルージーさが心地良い。『愛が嫌い』中の「しずけさ」は、以前にも記したが、「ゆううつ」の感覚あるいは無感覚を的確に描いているように思われる。

 (……)ようするにしぜんに回復するとわかっているゆううつだった。しかしゆううつのさなかにはゆううつ以外ない。三十秒先のことを考える気力すらないのだ。なにもおもしろくはないし、なにもうれしくもない。不安すら好調時のいち症状でしかなかった。ただ時間と不調だけがそこにある世界で、身を潜めている。(……)
 (15; 「しずけさ」)

 何と言うこともないような記述だが、こちらとしては昨年の体験からして、こうした描写がわりと実感としてリアルに感じられるものである。"Strange Kind Of Woman"はじきに間奏に入って、ギターとボーカルが高音で掛け合いを披露するのだが、ここでのIan Gillanの発声は実に、気持ちが悪いほどの甲高さになっている。掛け合いをしているうちに、Gillanが先導して、フレーズの最後でブルー・ノートに落ちる箇所があるのだが、そんな半端な音程を良く選んで当てたものだと思う。続く"Lazy"もDeep Purple式のブルースで、冒頭のキーボードソロからして良い。打鍵をしているうちに音楽はディスク一の結び、"Space Truckin'"に入って、この曲が終わったら書抜きも切りとしようと思い、しかし音楽が尽きるより前に「しずけさ」からの書抜きがすべて終わったので、音楽の方もそろそろ終わるだろうと打鍵を停めていたところが、ドラムはいつまでもスネアをトールしているし、キーボードソロも延々と続いている。それでプレイヤーを見てみると、何とこの曲は全部で一九分もあって、そんなに長かったのか! 阿呆か! そういうわけでふたたび書抜きに入って、"Space Truckin'"の終わりかけで、そろそろ一一時も近いのでとヘッドフォンをつけた。ところで何だか、外は激しい雨風に支配されているのだが、室内の方は蒸し暑く、上半身裸でいてもまったく肌寒くないし、涼しくもない。コンピューターはもう寿命が近くて動作が鈍く、打ち込むスピードに比べて文字の表示の方が格段に遅れる。
 『Made In Japan』はディスク二に入って、"Black Night"が始まった。缶コーヒーのCMに使われて非常に有名な曲だが、こちらも高校生の時にバンドでやったものだから実に懐かしい。例の有名なリフのあいだのギターのハウリング・ノイズが挟まるのがライブらしく、ヘッドフォンで聞いているとベースが利いていて、低音がかなり太く感じられる。顔を振りながら、シャッフルのリズムにつられてキーボードを叩く指も跳ねるように動く。ここではIan Paiceのドラムがなかなか凄いのではないかと思われた。フィルインがスピーディーで、切り込み方が鋭いのだ。ロックという音楽もやはりまだまだ面白いものだ。
 続く二曲目は"Speed King"である。その途中で書抜きは切りとして、時刻は一一時直前、アルバムの最後は"Lucille"で、これは確かロックン・ロールの古典だったはずだと思って検索してみると、Little Richardが最初にヒットさせたものらしく、Deep Purpleのバージョンはやはりかなりハードで、Roger Gloverのベースが、地味だが太々しくてヘヴィさを増している。
 書抜きを終えてTwitterを見てみると、多摩川が氾濫の危機に瀕しているとかで、我が家はさすがに川が上ってくるほど近くはないので大丈夫だが、青梅では調布橋付近が危険水位に達していると記されてあり、凄えなと思った。コンピューターの動作が鈍くて仕方がないので、リフレッシュさせてやろうということで再起動を施し、合間はカフカを読みつつ待った。そうして準備が整うと、T田に音源を送るために『Kafka-Fragmente』を圧縮しようとしたのだが、昼間に行ったときと同じく、何故か命令を下してもいつまで経っても処理が始まらない。それでほかのソフトを試してみるかというわけで、Explzhというものをダウンロードしてインストールすると、再起動が必要と出たのでふたたびコンピューターを落とし、あいだは読書ノートにメモを取りつつ待った。それからインストールしたばかりのソフトを試してみたのだが、やはり圧縮処理が出来ない。何か、一時ファイルのフォルダがない、というようなエラー表示が出るのだが、コンピューターに詳しくないこちらには良くもわからないことなので、音源圧縮は諦めることにして、T田にもその旨謝っておいた。
 (……)
 さて、日付も替わりかけ、日記を書く段である。Angraの"Carry On"を何故か思い出していたので、それで『Angels Cry』をYoutubeで流す。九三年の作らしい。この作品が発表された時、こちらは僅か三歳である。ヘヴィメタルを聞くのなど、ひどく久しぶりだ。そうしてカフカについての思考をまた書いているうちに、いつの間にか『Angels Cry』は二週目に入っていて、気づかず半ばくらいまで進んでいて、それでSonny Rollins『Saxophone Colossus』に変えたのが零時四〇分過ぎだった。それから引き続き、風呂のなかでカフカについて考えたことを書きつけるのだが、そんなに力を入れているつもりもないのいそれにやたらと時間が掛かって、あっという間に一時二〇分に達してしまった。仕方がないので、今日は日記はここまでと定めて、今まで書いたカフカの小説の感想をEvernoteの記事に整理し、日付を付して並べてみると、引用も含めてだが既に一七〇〇〇字以上も書いていた。
 辻瑆・原田義人訳『世界文學大系 58 カフカ』の書見に入る。しかしまもなく茶を用意しに上に上がると、父親がまだ起きていて、ソファに就いて歯を磨いている。茶葉を捨て、小腹も空いていたので台所の戸棚の上にラップを敷いておにぎりを作り、米を握って緑茶を用意した。テレビはどうでも良い、家事のついでにトレーニング、とかいうような話題を紹介している。注いだ茶を持って下階へ帰ると、飲みながら読書を続けるあいだ、例によって緑茶の熱のために汗で肌が濡れた。飲み終えるとヘッドフォンをつけてSonny Rollins『Contemporary Leaders』を聞きはじめ、その後三時四〇分過ぎまで書見を続けたあと、就床した。


・作文
 13:36 - 14:18 = 42分
 15:08 - 17:01 = 1時間53分
 17:28 - 19:22 = 1時間54分
 23:57 - 25:20 = 1時間23分
 計: 5時間52分

・読書
 14:28 - 15:08 = 40分
 20:49 - 21:50 = 1時間1分
 21:55 - 22:58 = 1時間3分
 25:36 - 27:43 = 2時間7分
 計: 4時間51分

・睡眠
 3:20 - 12:50 = 9時間30分

・音楽