2019/10/17, Thu.

 先端的なテクノロジーの変遷はあったにせよ、人文学は「全体性」について思考をめぐらせてきました。あるいは、「不在」なり「欠如」なりを考えてきた。そこにこそ存在意義もあった。にもかかわらず、人文学系の研究者たち自身がその思考をみすみす手放そうとしている。テクニカルに最短経路を選択するとはそういうことを意味します。現在の人文学の自己矛盾はここにあります。領域横断的な共同研究プロジェクトの大半がそうであるように、異なる分野の研究者たちが結集すれば加算式に全体性を担保できると思っている(実際はそう思ってなどいないのかもしれないけれど、すくなくともそのようにふるまってはいる)。ですが、そんな単純な話ではないんですよ。
 個別の小さな世界(=物語)でどれだけ精緻で的確な結論を導き出したとしても、研究者にとっての「全体」がその閉域を上限とするかぎり、全体性への想像力は放置されたままです。「合成の誤謬」という用語が経済学にありますが、あれをいささか乱暴に拝借してみてもいい。個々には正しいことも、それらを組み合わせたり掛け合わせたりすると、とんでもない誤りを発生させることがある。それを僕はいつもこう説明しています。部分最適をいくら積分したところで全体最適にはなりえない、と。だから、全体性への想像力を個々がどこかに確保しておかないといけない。第1章でも触れたように、その全体のなかに自分をちゃんと位置づけられること、それもまた教養の大事な要素です。
 (大澤聡『教養主義リハビリテーション』筑摩選書、二〇一八年、207; 大澤聡「全体性への想像力について」)


 八時のアラームで一旦覚めて布団を抜け、鳴り響く携帯を止めたのだが、それから例によって寝床に舞い戻ってしまい、最終的に一一時四〇分頃までだらだらと布団の下の温もりに耽ることになった。外は今日もまた偏差のない真っ白な曇り空で、曖昧な意識のなかでSIRUP "バンドエイド"の旋律が頭のなかに回っていた。上階に人の気配はなかった。二度目に布団を抜け出すとコンピューターを点け、各種ソフトのアイコンをクリックして起動させているあいだに、洗面所に出向いて顔を洗い、トイレに入って用を足してきた。それからTwitterを覗くと、前日にこちらのツイートに引用リプライを付してくれた方、名前が長く固有名詞らしくないので最後の語を取ってMNさんと呼ぶことにするが、その人からの返信が届いていたので、Evernoteで今日付の記事を作ってからそれに対する返事を書きはじめたのだが、まったく自分はよほど文を書くことが好きだと見えて、やたら長くなってしまった。と言うか、こちらの感覚だとこれくらいの文章量ならば特段長くなどないのだが、しかし一ツイート一四〇字の制限が設けられているTwitterという場所に置いてみると、相当に長い部類に入るだろう。それで、リプライでは何個も連続してツイートしなければならず煩雑なことになるだろうからと、ダイレクト・メッセージの方で送ることにしたが、おそらくTwitterという場でこのような分量のやりとりを交わそうとするこちらのような人間は、ちょっと奇特な人種と言うか、有り体に言って「面倒臭い奴」として捉えられるのではないだろうか。だから、このメッセージにも返信が返ってくるかどうか、確たることは言えないと思っている。

 すみません、書いているうちにお返事が非常に長くなってしまったので、DMの方で返答させてください。
 お返事をありがとうございます。やっぱりそうなんですかね? 僕はその点、ちょっと疑問で、大学で学ぶことというのは、色々な知識などもあるとは思いますが、大方いわゆる論理的思考の型を身につけるということに尽きるわけですよね。それは言い換えると、目の前の情報やデータや状況を正確に分析して、そこから自分にとって重要な要素を抽出し、それをまとめて新たな情報を生み出したり、適した行動を取ったりするということに繋がると思うんですが、こうした能力って、「お金を稼」ぐことはともかくとしても、「業務を手際よくこなす」ことに充分資するのではないかと思うんですね。と言うか、より強く言うならば、どのような職種や職場であれ、優れたパフォーマンスを発揮しようとするならば、ほとんど必須のものではないかとも思うわけです。
 上のような能力は平たく言えば、テクスト分析・テクスト読解の技術ということになると思うんですが、これは他者とのコミュニケーションを円滑に取るに当たっても重要だと思います。他人の発言とかその行動なども言わば一つのテクストと捉えられるからで、それを観察し、分析して、相手の感情を読み取ったり、相手の提示してくる論理に対して適切な応答をしたりすることは、上司や同僚と協調して質の高い働き方をしようとするならば、やはり基本的にどのような職種でも必要な能力ではないでしょうか。
 以上のような考えから、僕は大学教育で身につけることが目指されている能力と、実社会の労働において必要とされる能力とに、そこまで乖離があるのだろうか、という疑問を抱いています。少なくとも、上記のような技能や思考・行動の構えを備えているといないとでは、仕事の上でもいわゆる「生産性」に結構な差が出てくるのではないかと推測します。そういった意味で、大学教育というものは、短く言って意外と「役に立つ」ものなのではないかと思うのですが、この点、いかがお考えでしょう? 勿論、上に書いたようなことは一つの理想であって、現実には多くの学生は実践に繋がるほどの高度な論理的思考を身につけることは出来ないのかもしれません。また、僕がそうした技術の価値を素朴に信じすぎているということもあるかもしれず、実際にはそれは経済活動のなかでは大して役に立たないものなのかもしれません。長くなって申し訳ありませんが笑、そうした点について、お考えをお聞かせ願えれば幸いです。勿論、そのお手間を掛ける時間や余裕がない、あるいは端的に応答するのが面倒臭いということでしたら、このやりとりはここで終えていただいても構いません。よろしくお願いします。

 メッセージを認めて送っておくと、上階に行った。書置きを見ると、母親は職場の講習で八王子まで出掛けているようである。確か講習自体は昼までだったはずだが、その後にM田さんと会って食事を取ってくると言っていたと思う。台所に入ってフライパンを覗けば、大根の葉とソーセージのソテーがあった。一旦洗面所に入って髪を梳かし、それから炒め物を皿に取って電子レンジに突っ込んだ。一分間を回しているあいだに白米を椀に盛り、卓に運んで、戻ってくるとレンジの前で肩を回してほぐしながら加熱を待った。そうして炒め物も卓に持って行って椅子に就くと、新聞を引き寄せてひらきながら食べはじめた。国際面を見ればトルコのシリア進軍の件が引き続き取り上げられており、これまでトルコ軍が殺したクルド人の数は確か六三七人とか書いてあったと思うが、注目すべきはトルコのメディアはこの殺害数を「無力化数」という語で表現して礼賛報道を展開しているという情報だ。「無力化数」! 恐ろしくおぞましい言語操作だ。クルド人への攻撃に関しては世論調査では七五パーセントほどの支持を得ていると言い、攻撃前には三〇パーセント前後に低迷していた政権の支持率もこれによって浮上するのは確実だろうとの見通しだった。端的に言って、まあ糞である。
 食事を終えると食器を洗い、風呂も洗って、下階に下ると急須と湯呑みを持って引き返し、SIRUP "バンドエイド"を口ずさみながら緑茶を用意して、塒に帰ると寺尾聰『Re-Cool Reflections』を流し出し、歌を歌う一方で緑茶も飲みながら、早速過去の日記の読み返しに入った。一年前の日記は例によって本文はほとんど記されておらず、内容空疎で、サルトルの手紙からの引用くらいしか見るべき文はない。その引用のなかにあった、「水っぽく緑色で柔かい自然で、しぼれば乳が出てきそうなあの緑色の植物に満ちていた」(朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』人文書院、一九八五年、236; ボーヴォワール宛; 1939年7月)という自然の瑞々しさの表現はわりと良いと思う。続いて二〇一四年一月一八日をひらくと、この日はそこそこ頑張って量を書いていて、そのなかに『アンリ・カルティエ=ブレッソン写真集 ポートレイト 内なる静寂』からニコラ・カルティエブレッソンの写真を見て描写した一節がある。この描写文に関しては、Mさんと初めて会った時、と言うのはこの年の三月一〇日から一一日のことだが、その際に「ほとんど完璧」だったと褒められた覚えがある。読み書きを初めて一年段階の文なので、当然そんな大したものではなく、今から見てみるとやはりまだまだ感触が固く伸びやかでない感じがするのだが、Mさんは作文の道に漕ぎ出したばかりのこちらを奮起させようと気を遣ってそのように言ってくれたのだろう。それを覚えているということは、当時の自分はよほど嬉しかったのではないかと思うが、その文章に接して自分も書き物を始めた憧れの相手に称賛されたのだから、それも自然なことだろう。

 仰向けに寝転がった彼女の身体に引っ張られてソファベッドのシーツはひだをつくっているが、そこに重さの印象はない。ふわりと形を変える枕に頭をあずけた細身の体躯は静かに波打つ海面の上を浮遊しているようにも見える。袖をまくった白のジャケットから伸びて頭の横に投げ出された左腕は影をまとっていてもなお透きとおった白さをうかがわせ、光輝く肘から猫の手のように曲げた指まで続く曲線は彫像のように滑らかである。すらりと伸びた身体に緊張はなく黒のスカートをまとった下半身の先は新聞で覆われ脚が見えることはない。背景の壁となっているソファベッドの背もたれの上には弾力のある花柄の布団がその身をなかば乗り出している。柔らかなものたちに囲まれたなかで彼女の表情だけが引きしまった身体と同じ凛々しさを放ち、いたずらめいた蠱惑的な笑みやおのれの美を見せつけるてらいは微塵もなく、ただ力強さと優しさの入り混じったすべてを受け止めるような女の眼差しがそこにあった。
 (2014/1/18, Sat.)

 それからfuzkueの「読書日記」を一日分読んだあと、宮台真司苅部直渡辺靖「民主主義は崩壊の過程にあるのか コモンセンスが「虚構」となった時代に」(https://dokushojin.com/article.html?i=4728)にアクセスした。記事を読む合間に寺尾聰 "ルビーの指環"を歌い、それが終わるとYoutubeは止めて、音楽プレイヤーの方でSIRUP『SIRUP EP』を流し出し、また時折り歌いながら鼎談を読み進めた。

宮台 ウェーバーが言うあるべき政治家は、正しさのために法を破る存在です。仲間のために法を破るけれど、失敗したら結果責任を問われて血祭りになる──それを覚悟するような政治家は絶えて久しい。安倍晋三からトランプに至るまで「法は破っていない」と言い募るだけの「政治家とは名ばかりの市民」が増えました。
 ウェーバーヘーゲルに似ます。ヘーゲルは損得ゲームとしての市民社会ではカバーできない統合的中心に向かう営みを国家と呼ぶけど、ウェーバーはこれを市民倫理と政治倫理の対比に引き継ぐ。市民は損得ゲームに勤しんで良いが、政治家は違う。政治家全員が損得ゲームに淫すれば政治共同体が滅びてしまう。損得ゲームを超えて政治共同体に命を捧げる政治家が必要だ。法に従うことでかえって政治共同体が滅びるのであれば、法を踏み越えて政治共同体を救え──。この一年でウェーバーが言う政治家がいないことに皆が気づきました。予感してはいたけど衝撃でした。

宮台  社会心理学者の山岸俊男氏によれば、日本では江戸時代の善政もあって、人々は内集団の中でしかコミュニケーションしてこず、どの集団にも属さないプラットフォーム=公共空間の必要がなかった。日本の公はせいぜい「滅私奉公」。私心を超えると言えば、内集団のために自分を犠牲にすることだった。原発事故が日本の半分を沈めようが、東京電力原発政策に命を捧げる東電社員みたいな。さて、サンスティーンの指摘した、ネット空間で「見たいものしか見ない」「コミュニケーションしたい人としかコミュニケーションしない」という具合に内集団に閉じる動きは、その意味で「日本化」です。日常を絶えずルーツの違う人と交わるはずの欧州的伝統が弱まりつつあるのです。
 アメリカはこのシチズンシップにタウンシップの伝統が被さる。武装市民の伝統です。内集団に対しては仲間を守る武闘が「義務」になり、外集団に対しては仲間を守る武闘が「権利」になる。それが、タウン水準、カウンティ水準、ステイト水準、ユナイテッドステイツ水準と、全ての層でマトリューシカ的に反復される。つまり、彼等の日常生活はライフスタイルの合致する仲間ウチで成り立ち、その外側は謂わば決闘ルールだということ。建国事情や国土の広さもあって、棲み分けて混ざらないのです。相対的に、欧州的伝統は「混ざり合い社会」で、米国的伝統は「棲み分け社会」です。
 「国民が銃を放棄すれば平和になろうが、それはアメリカの秩序ではない」と言い放つ全米ライフル協会。「そうした伝統を知らない移民が増えればアメリカはアメリカでなくなる」と主張するオルトライトのカリスマ的指導者リチャード・スペンサー。彼は「レイシズム」を自称しますが、中身は人種主義というより文化主義。黒人であれ黄色人種であれ白人の継承してきたアメリカン・スタイルを受け容れるならばOKだと。頭が悪い日本のネトウヨと違い、アメリカ建国事情を知る者からするとスペンサーの主張は変じゃない。むろん、グローバリズム過剰流動性を前提にすれば、棲み分け推奨は「非マイノリティ・ポリティクス」のごとき疑心暗鬼を生む。どこかの集団がうまい汁を吸ってるんじゃないかと。実際そうなっています。

宮台  一〇月一七日、カナダが娯楽用大麻を解禁しました。アメリカでは三〇州と首都が医療用大麻を解禁している。トランプも大統領候補だった頃からこうした動きを追認する連邦法改正を唱っています。トランプ支持の新反動主義者たちも主張に同調します。理屈は僕らの議論に関係します。
 曰く、国民はもはや仲間ではない。仲間ではない連中への再配分は無理。そもそもリベラルは仲間内での再配分を想定していた。一時は奇跡的に国民全体が仲間になった。今後は無理。だから再配分も無理。でも再配分せず放っておけば秩序が乱れる。再配分に代わる手段がテクノロジー。第一は拡張現実や仮想現実の如きゲーミフィケーション技術。第二は大麻を代表とする無害なドラッグ。両方とも共通して再配分抜きに人から痛みを除き幸せにする力がある。再配分より統治コストが下がって合理的です。解禁の論理は、解放論ではなくコストに注目する統治論。
 これを肯定できるのか。法哲学周辺で賑やかな功利主義論争が参考になる。功利主義的には幸せとは快楽です。快楽はドーパミン濃度やノルアドレナリン濃度やセロトニン濃度やオキシトシン濃度で計測できる脳状態です。その脳状態を何を用いて実現しても快楽は快楽です。拡張現実だろうがドラックだろうが再配分された富との戯れだろうが機能的に等価。そう、これがベンサム功利主義の立場です。
 J・S・ミルがこれに対抗する。快楽にも「よい快楽」と「悪い快楽」があり、苦痛にも「よい苦痛」と「悪い苦痛」がある。「よい苦痛」の典型が通過儀礼や出産。痛みこそが再帰的コミットや愛しみを可能にする上位視座を与える。これに対し、確かにそうだが、「よい・悪い」を評価する価値基準は外から与えられるもの。基準にどう合意するか。それが解けないと議論は絵に描いた餠。誰もがミル的功利主義が本当だと思いながら、そんな外部的基準に同意できるなら功利主義の発想は元々要らない訳で、ベンサム功利主義の方が学問的にはリアルです。
 しかしどんな手段でも脳内で幸せ物質が増えればいいのならば民主政は台無しです。誰かに剥奪されているが故に不幸な状況がある時、その誰かを排除して再配分すべく民主政を使おうという思考が民主政を支えてきました。大麻をやればハッピーになれるのだから不公平の排除は不要というなら民主政も要らない。人々の幸いのために民主政が機能してきた歴史があっても、幸いが置換可能な快楽に過ぎないなら、テクノロジーが民主政を代替します。

宮台  信用スコアは、人々に損得計算をさせ、道徳心がなくても見掛け上は道徳的に振る舞わせます。やはり統治コストを下げる戦略で、刑務所も取り締り人員も要らなくなります。中国では既に地域によっては、遠隔地の親を世話するとスコアが上がり、不動産取引でトラブルを避ければスコアが上がり、ネット履歴を汚さなければスコアが上がり、交通違反を避ければスコアが上がります。
 これは統治コストを超えた問題に繋がります。僕ら三人が家族だったとする。苅部さんも渡辺さんも僕に非常によくしてくれる。本来ならば感謝します。でも、信用スコア社会では「信用スコアを上げるためにやってるのかな」という疑心暗鬼を生みます。マイケル・サンデルアリストテレスを援用して言うように、罰を受けて損するから人を殺さない社会よりも、殺したくないと思うから人を殺さない社会のほうが、よい社会だとされてきました。それはどうなるのか。むろん中国政府に言わせれば、そんな呑気なことを言っていたのでは統治できない、で終了です。

渡辺  デジタル化社会については、毎年議論しているテーマですよね。関連した本としては、ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』(河出書房新社)が今年出ました。人類がアルゴリズムをあらゆる面で駆使していった先では、人(ホモ)が神(デウス)にとって代わる。かなり大袈裟な理論ですが、人間関係、社会関係を含めて、アルゴリズムにすべて支配されていく、その方向性は、現実もあまり変らないような気がしますね。中国は極端な例としても、多かれ少なかれ、そちらに進んでいく。コモンセンスが通じなくなった今、これだけ分断された社会を、どうやって統合していけるのか。政治家でも政党でもない。宮台さんの言われたように、生物学的な快楽の次元まで含めて、一番の幸せをアルゴリズムが決められるのであれば、それによって最適解が示される時代の入り口少し手前ぐらいに、我々はいるんじゃないか。一方で、今の政治家の言動を見ていると、システムの根本的な行き詰まりに差し掛かっていることも確かである。そういう意味では、ますます「中国化する世界」に突き進んでいくより手がないのか。そこは悩ましくもありますね。

宮台  真理とは何かを問うと議論が更に複雑になります。ハラリは『サピエンス前史』(河出書房新社)で神や貨幣の例を出して「虚構」が文明を可能にしたと言います。誰もが思い浮かべるのがデュルケームの「社会的事実」の概念。神や貨幣のような高度なものだけでなく、ほぼ全ての真実や事実は虚構です。安倍晋三が存在する。トランプ大統領が存在する。でも大半の人は直接経験していない。月が地球を回る衛星だ。水はH2Oだ。でも直接経験していない。直接経験していないことを人間は事実だと思える。ルーマンは次のように説明します。人は他者を過剰利用する。他者の体験を自分の体験と機能的に等価なものとして利用する。他者の体験を自分の体験と等価なものとして利用させる「意味処理の装置」がコミュニケーション・メディアとしての真理概念。苅部さんがおっしゃった「真理とは他者を信頼して利用すること」と同じ命題です。

宮台  遺伝子操作コストが格段に下がれば、遺伝子操作をして貰えなかった不作為で子が親を訴えるケースもあり得ます。数万円かければ自分の「頭は/容姿は/運動神経は…」もっとよくなったはず。親がそれを惜しんだせいで一生の重荷を負った。責任は両親の不作為にある。だから賠償せよ。こうした賠償請求が誤りだと言える根拠はコモンセンスという「今や虚構」にしかない。

渡辺  マイケル・サンデルの議論に一〇〇パーセント同意はしませんが、サンデルがデザイナーベイビーに反対していますよね。その理由が、今日の議論に繋がってくると思います。人間社会が持つ最後の共通項として、「運」というものがありますよね。たとえば、お金持ちに生まれてきたけれど、運動神経が悪いとか、頭が悪いとか、どこか人と比べて劣った部分がある。そのレベルにおいては、コントロールできない。それが最後の共通項であった。デザイナーベイビーを含むゲノム編集は、そこに人為的に介入できるということであり、最後の基盤さえも壊れてしまう。これは人間社会にとって堪えられない苦痛になるし、共同体としての倫理的な基盤も根本的に崩れてしまう。やはり個人では左右できないところがあることを、最後の平等性の担保として残すべき必要がある。これがサンデルの議論です。アルゴリズムにしても、ゲノム編集にしても、人為的介入によって生じる世界においては、ボトムラインでの社会の共通感覚も壊れてしまう。果たして我々は、そんな事態に耐えられるのか。大きな懸念が残ります。

宮台  耐えられないでしょう。國分功一郎氏が昨年『中動態の世界』(医学書院)を刊行、改めて「中動態」概念について問題提起されたけど、まさに渡辺さんの懸念に関係する。昔のインド・ヨーロッパ語には中動態と能動態と受動態があった。能動態と受動態は変換可能で同じ世界観だが、中動態は違う世界観。國分氏の本にはないけど、中動態的な世界理解の典型が妊娠。妊娠を目指した能動的活動はできるが、妊娠するとは限らない。妊娠しても性別も才能も容姿も性格も選べない。だけど人は妊娠を「能動的に受容=受動」する。そこには世界に委ねるという感覚がある。
 渡辺さんは「運」という言葉を使われた。偶然性とも言い換えられる。謂わば外からの介入。メイヤスーが言う反理由律的な世界観。これが元々人が世界に関わる態度でした。だから偶然に耐えられ、不安を反復行為で埋め合わせる神経症にならなかった。昨今は全ての偶然はノイズだからコントロールしなければ気が済まないと言う人が増えました。重度の神経症。損得野郎を含めて僕が「クズ」と呼ぶ輩です。

渡辺  宮台さんの話を聞きながら思ったんですけれど、今の時代、徹底的に偶然性やノイズを排除していこうという欲求が強くなってきていますよね。だからこそ逆に、そうしたものを担保しておかないといけないんじゃないか。それに気づきを与えてくれたのが、いわばトランプという存在だった。

宮台  だから僕はトランプ大統領候補を支持して良かったと改めて思っています。以前も話した通り、トランプの御蔭で「見ないふり」をしてきた問題が噴出することを望んでいました。皆が共通前提やコモンセンスだと思っていたこと、思っているふりをして来たことが、「あり得ねえんだよ」と突きつけられた。痛みはあれど、病膏肓に入る前に病を知るのが大切です。

渡辺  長期的に見ると、ポリティカル・コレクトネスの前で隠されていたエゴが、より剥き出しになった。一瞬不快に感じるかもしれませんが、それについて議論できるようにもなったわけです。結果的に、従来の政治イメージが混乱し、民主主義が崩壊しているイメージも、多くの人に共有されるようになりました。でも一方で、繰り返しになりますが、これまでの政治体制が、本当に立派なものだったのか。そのことを考える機会もできた。また、ロシアのアメリカ大統領選挙への介入を含めて、そこまでデジタルテクノロジーが介入し得ること、デジタル化時代の可能性と弊害についても、人々の意識が鋭敏になった。そういう意味では、一般的には災いだったけれど、これを善きものとして考える契機としていくことが必要だと思いますね。

苅部  僕が以前から半分妄想で恐れているのは、アメリカ政治の「日本化」です。民主党の穏健派がアイデンティティ・ポリティクスから距離を置こうとする。そして共和党の穏健派もまた、ティー・パーティー的な勢力に対抗するために、彼らと手を組むことで民主党の穏健派が共和党に大量になだれこむ。そうなると、かつての自民党支配のような一党優位のシステムができあがってしまいます。党内ではさまざまな政治信念を掲げる派閥が寄りあって曖昧に妥協しつつ、鈴木善幸みたいな大統領を支えていく。そういった方向に落ち着いてしまう危険性もあるのではないでしょうか。そのさいに、やはり異なる立場が争いあう体制が大事だと言って、政権交代ができるような強力な反対党の存在を維持させられるかどうか。

宮台  似たことを僕も考えました。渡辺さんと「マル激トーク・オン・ディマンド」でも統計ベースで議論しました。この十五年で、共和党支持者と民主党支持者の間で意見が重なりあうアジェンダがほぼ皆無になり、ほぼ全アジェンダについて意見が両極分解しました。ポラライゼーション(分極化)と言います。その結果起こっている事態が重大です。「話し合おう」じゃなく「話し合えば相手の術中にはまるぞ」と考えるようになっています。実際トランプ支持者の一部は口がうまいヒラリーと下手に話し合うと丸め込まれるぞと叫んでいた。「最初から話し合わない方がいい」というコモンセンスを民主政は想定してきていません。ならばということで、僕の考えでは、従来の二党体制を続けるより、共和党にすべて併呑した上で、昔の自民党みたいに共通感覚を模索して違いを擦り合わせる方がいいかもしれません。今のままの敵味方図式はまずいのです。昔の自民党は様々な派閥があっても敵味方にならなかった。アメリカでも「共通の歴史認識や感覚があるから共和党にいるんだろ?」という虚構の上に乗れるなら、民主党が消えてもいいんじゃないかな。

 そうしてTwitterにこれを読んだと紹介のツイートを呟いておき、一頁ずつコピーアンドペーストしながらEvernoteの方に記事を写して保存しておくと時刻は一時四三分、Stan Getz And J. J. Johnson『At The Opera House』とともに日記を書きはじめた。まず最初にここまで綴れば二時一〇分である。次に前日の記事を仕上げる。
 一六日の日記は三時を越えて仕上がった。一時間半ほど文を綴ったことになるが、腹が減ったので緑茶をおかわりしに行くついでに何か食おうというわけで、一旦打鍵を中断して上階に行った。ブルース進行に合わせた適当なフレーズを口笛で吹いたり、実際に声として奏で出したりしながら玄関の戸棚を覗いたが、醤油味の煎餅くらいしか目ぼしい食べ物はなかった。一応それを一枚取ってジャージのポケットに入れ、米がたくさんあるからおにぎりでも食うかということで台所に入り、炊飯器の置かれた食器棚の上にラップを敷いて白米を釜から取り分けた。手近に「味道楽」という鰹風味の振りかけがあったのでこれは良いというわけでそれをまぶし、ラップをもう一枚上に重ねて握りながら卓の方へ移動し、握ったものをやはりジャージのポケットに収めておくと新しい緑茶を用意した。一杯目の分の湯を急須に注いで茶葉がひらくのを待つあいだに、台所の勝手口の外から雨の音が聞こえたような気がしたので南窓に視線を凝らすが、薄白い大気のなかに雨が混ざっているのかどうかわからない。それでベランダの方に寄っていくと、こちらでは降り出しているのが確かに見分けられたので、軒下に吊るされてあったバスタオル二つを取り込んでおき、それから茶を持って塒に帰った。そうしておにぎりと煎餅を食い、茶を飲みながらDaniel Moss, "This dirty word is driving economic change in Japan"(https://www.japantimes.co.jp/opinion/2019/09/27/commentary/japan-commentary/dirty-word-driving-economic-change-japan/#.XagG8P_APIV)を読んで三時三三分である。ふたたび日記に取り掛かった。

・qualm: 不安
・payroll: 従業員名簿; 人件費
・ironworks: 製鉄所
・workforce: 全従業員
・pencil: 仮に計画する、予定する
・reconciled to: 甘んじて~する、諦めて~する
・boon: 恩恵、恵み
・overhaul: 全面的な見直し
・fraught: 緊張でいっぱいの
・truancy: ズル休み、不登校
・travail: 骨折り、苦労
・caveat: 但し書き、補足説明
・bent: 方向、傾向

 四時一〇分を過ぎたあたりで、母親が既に帰宅しているようだったので、膀胱を軽くするついでに顔を見せに行くかということで部屋を出て上階に上がった。すると、何で電気が点けっぱなしなのと言われて、見れば確かに台所の明かりが灯っている。先ほどおにぎりを作った際に消し忘れたのだろう。母親はまた、宅配が来なかったかと訊くが、音楽を掛けていたからわからないものの、こちらの耳の範囲では気づかなかった。便所に入って放尿し、出るとポストを見て、不在票が入っているかもと言うので、サンダル履きで玄関をくぐれば雨が、さほど強くはないが落ちていて、階段を下りながら見上げると雨粒が瞳に当たってきた。ポストにあったのはビニール袋に包まれた夕刊のみで、不在票はない。戻ってその旨伝えて下階に戻れば、流しっぱなしだった音楽は"It Never Entered My Mind"が流れていて、Stan Getzがふくよかで芳醇な音色を聞かせている。
 それからふたたび日記を始めて、四時半直前から音楽はStan GetzStan Getz Plays』に移行した。このアルバムは八曲目までが一九五二年の一二月一二日録音、それ以降は一二月二九日の録音である。面子はGetzにDuke Jordan、Jimmy Raney、Bill Crow、Frank Isolaというメンバーで、しかしバックは大方控え目なサポートに徹して、Getzが主役として思う存分に流麗なテナーを披露するという趣向のようだ。ベースのBill Crowというのは確かGerry Mulliganなどともやっていた人で、燻し銀といった感じの落着いたベースで、ジャズメンのエピソードを集めた本も二冊くらい書いていてそれは確か村上春樹が訳しているのではなかったか。
 日記を進める途中で、Mさんのブログを覗いてみると、木澤佐登志の「失われた未来を求めて」という連載の記事が紹介されてあったので、URLを「あとで読む」記事に記録しておき、まもなく音楽は#5 "Lover Come Back To Me"に入ったのだが、この演奏の嫌味のない流麗さは凄いのではないか。毒気とか雑味といったものがまったく、ほんの一瞬たりとも感じられない澱みなさで、アプローチは多彩でありながらなおかつ非常に高度な統合性を成している。とてもではないがアドリブとは思えず、予め作り込んでおいたメロディを正確になぞっているかのような必然性が充満しており、それでいながら天衣無縫の闊達さに満ち満ちている。端的に言って完璧である。思わず打鍵に戻らず、繰り返し流して耳を寄せてしまった。それからYoutubeで同じ音源を探してTwitterにも流し、LINEでT田にも、完璧なジャズを見つけてしまったと言ってURLを送っておいた(https://www.youtube.com/watch?v=gntpCY8Kfr8)。その後も何回か繰り返し流して目を閉じながら聞き入った。一九五二年末の時点でこれである。と言うことは、世界はまだArt Blakeyの『A Night At Birdland』すら通過しておらず、ハード・バップが本格的に勃興する以前ということになる。ジャズという音楽は凄まじい。財産の層の厚さが半端ではない。
 五時過ぎにT田から返信が入って、帰ったら聞くという言の続きに、そちらは近現代音楽選集の解説に付したストラヴィンスキー「結婚」のYoutubeの音源を聞けとあったので、早速アクセスした(https://www.youtube.com/watch?v=0bzqV6lv0a0&t=295s)。なるほど、この声楽もかなりやばいもので、カオスと言うか渾然としており、ほとんどおどろおどろしいような大仰さは実に祝祭的で、物凄く久しぶりに「シャリヴァリ」という単語を思い出した。文学部西洋史コースに属していた大学時代に聞き習った語である。民衆層の土着的な祝祭文化のような慣行で、検索して出てきた頁の解説を引かせてもらうが、ジャン=バチスト・ティエル神父という人が次のように説明をしているらしい。

 太鼓や火器、鐘、大小とり混ぜての皿、盥、フライパン、ポワロン(小型の 片手鍋)、大鍋、罵声、口笛、ざわめき、叫び声などで騒音をたてること。一 言でいえばこれこそがまさにシャリヴァリと呼ばれる振舞いであり、新婚者のいずれかがすでに結婚の前歴がある場合、二人が結婚の祝別にあずかって教会から 出たとき、あるいはあるいは挙式の夜や初夜の床入りどきに、このシャリヴァリの洗礼を受ける。それは教会が常に認めてきた再婚を辱めるものであり、結婚の 聖性を冒涜するものでもある。
 (『俗信論』 http://userweb.pep.ne.jp/okubocchi07_treiben/matsuri-sharivari3.html

 文学で言うと、フランソワ・ラブレーとかがよくしっちゃかめっちゃかな祝祭性がどうのこうの、みたいなことを言われると思うが、あるいはラブレーの作品もこういう感触なのかもしれない。
 五時二〇分に至ったところで打鍵を中断し、文を書くのにも疲れたし気分転換に飯を作ろうということで上階に行った。母親のいる台所に入って手を洗い、野菜の汁物を作ることになって、里芋の皮を剝き、皮剝きでは除けない細かな部分は包丁でちまちまと取っていく。それから皮を剝いた中身を切り分け、続いて人参や大根、玉ねぎも切っていき、切られたものを一所にまとめると、白い鍋に油を引いて、チューブのニンニクを落とした。そうして野菜を投入して炒めはじめ、傍ら肉も母親が切って加えてくれる。その母親は、これはまだ野菜を切っているあいだのことだったかもしれないが、家にいると変なことばかり考えちゃうし、近所の人に会って色々訊かれるのが嫌だと父親に言ったら、カウンセリングを受けてみたらと言われたと昨夜のことを話す。それはやっぱり自信がないと言うか、自分というものが出来ていないということではないのだろうかとこちらは先日も述べたことを繰り返た。道を歩いていて近所の人に遭遇した際、今日はどこに行くんですかとか、どこかに行ったんですかという質問をされるのが母親は嫌だと言い、どこだって良いじゃないか、好き勝手にさせてほしいと感じてしまうと言うのだが、近所の人々は何も我々のことを深く詮索しようとしているわけではなくて、単なる世間話の一環としてそうした問いを振ってくるに過ぎない。その点は母親も頭では理解しているのだが、それでも何か監視されているように感じてしまうと言うので、そのあたりにちょっと認識の歪みがあるようにこちらには思われると言った。それは多分、他者に対する一種の不信と言うか、端的に言って他人というものが怖いというような感覚が母親のなかに、本人が明確に自覚しているかどうかは別として、潜んでいるのではないか。母親の神経症的な自意識過剰とか、幾分被害妄想的な認知の歪みとかは、結局のところ、不安という感情がその根源に据えられているような気がするのだが、そうした点で、最近よく読んでいる「週刊読書人」上の鼎談で宮台真司が言っていたことを思い出させる。

クズの定義は「言葉の自動機械/法の奴隷/損得マシン」。スラッシュ(/)は「及びまたは或いは」と読みます。三つとも不安の埋め合わせとしての反復行動で、神経症の徴候です。つまり根源は不安です。不安の淵源は社会的地位低下とソーシャルキャピタル(人間関係資本)の分解による劣等感です。人間関係資本の分解の背景は中流崩壊や過剰流動性です。そして、不安を埋める反復行動は「大きいものに所属している」と思いたいがゆえのマウンティングです。フロイト左派と呼ばれるフランクフルト学派の実証的な戦間期分析が示す通りで、ポピュリズムの淵源は明確です。

その意味で、「話せば分かる」みたいな対話戦略でリベラルな物言いを続けられると思う人たちは呑気です。フロイト左派の枠組みでは、ポスト真実の根源にあるのは、ホメオスタティックな自己保存への志向です。繰り返すと、人は不安に駆られると、不安の淵源とは無関係な営みでそれを埋めようとする。それがフロイト神経症図式で、同じ図式でファシズムの背景を分析したのがフロイト左派=フランクフルト学派です。実証データに基づくエーリッヒ・フロムの「権威主義的パーソナリティ」概念が有名です。自由なワイマール共和国で初期にナチスを支持したのは貧困層一般ではなく没落中間層でしたが、没落中間層の方が強い不安を抱くからだと言います。むろん劣等感は不安の一種。彼らは不安を「大きく強いもの」への所属感で埋め合わせる。だから、ヒトラーの言説が真実だからではなく、不安という痛みに効くから、それに飛びついたのだ、と。
 (宮台真司苅部直武田徹鼎談「10年後の未来に向けて、私たちが今できること 『民主主義は不可能なのか?』(読書人)刊行記念」(https://dokushojin.com/article.html?i=5941))

 しかしそうしたことを分析して、それであなたはどうしたいのか、どうなりたいのか、近所の人の目を気にせずに堂々と生きられるような自己肯定感を身につけたいのか、自信を持って暮らしたいのかというようなことを訊いてみても、母親の答えは曖昧で、どちらかと言えばそうなのかもしれない、といった段に留まっていて、何が何でも今の自分の精神傾向から脱したいというほどの気持ちはないようである。まあそのくらいにしか困っていないのだったらそれはそれで良いのではないかとこちらは落としながら野菜と肉を炒めて、昔の仕事の時は大変だったけれど何だか楽しかったと母親が次に漏らすのに、その昔の仕事の時代には近所の人の目を気にすることはなかったのかと訊けば、長くやっていたし、でも今はまだ始めたばかりで続くかわからないから、と母親は答える。要するに、どこに仕事に行っているのか、どんな仕事をしているのか、そのようなことを他人に訊かれたくないという彼女の心情のなかには、一旦詳しいことを話してしまったそのあとに、もし仮に仕事が続かず辞めることになってしまったら恥ずかしいというような思いがあるはずで、基本的に彼女の行動原理として根付いているのは他人に対するそうした自意識過剰、「恥」の感覚である。などということを言うと、ルース・ベネディクトの『菊と刀』という書名が想起されもするけれど、こちらはこの本をまだ読んだことがないので、細かな議論をここに接続させることは出来ない。ともあれ、長く勤めていた昔の仕事の時には自信を持って生きていられたのだとすれば、今の仕事も長く続けていくうちに自ずと自信が、自己肯定感がついてくるのではないか、そうすれば他人の目など意に介さずに堂々と暮らせるようになるのではないかと、平凡な結論にこちらは落とした。
 それから母親は、今日会ったM田さんとの会食のことを話し、傍らこちらはものを炒め終わったのでそこに水を注ぎ、煮えるのを待つ合間に開脚して下半身をほぐしたり、首を回したりして身体を労る。母親曰く、M田さんに、何と言っていたか何か贈り物をしたらしいのだが、あげすぎたかなと自問を投げるので、そんなことは良いではないかとこちらは払い、でも、あげるとあちらでもお返しを考えなきゃいけないでしょとか言うのも、そんなことは良いではないかとまた払い、母親は贈り物をした時に先方から気を遣われて贈り物の応酬みたいなことになるのが煩わしいようなのだが、そんな些末なことは良いではないかとこちらは三度払い、すると彼女は、あげたいと思ったらあげれば良いかと無難な結論に至ったのでそれを肯定した。また、今日はそのM田さんとカフェと言うかレストランのような店に行って食事を取ったのだが、パスタとサラダのセットを注文したところ、注文の段になって母親はトイレに立って、同じものを注文しておいてと相手に任せてしまった、ところがサラダは二種類選べたところ、注文されたのは半熟卵が乗った品で、それよりはもう一種の、鴨肉か何かを使ったものの方が食べたかった、さらにパスタの方も分け合って食べようとしたところが、取り皿が一枚しか来ず、それも店員に頼んでやっと出てきたような調子で、パスタが元々入っていた皿の方に旨味の凝縮されているであろうソースが非常にたくさん残ってしまった、それも勿体なくて、何だかがっかりしてしまったと話すので、こちらは苦笑しながら、そんな、と漏らすと、いや、勝手な言い分だとは思うけどね、と母親も笑うのだが、何という些末なことで「がっかり」できる人間なのだろう! 母親の生活のこのささやかさ、卑俗さというものはこちらにとってはほとんど驚異の対象である。
 そのような話を聞く一方で、炒め物の準備がなされつつあったのだが、その途中で電話が鳴って母親がそれを取りに行ったので、こちらが引き継いでピーマンを切り、ほかに豚肉も切り分けていると、電話の相手は隣のTさんのようで、母親が今日の朝に出掛ける前に、何と言っていたか茗荷と言っていただろうか、野菜か何かのおすそ分けを戸口に吊るしておいた、その礼の電話らしかった。戻ってきた母親にチューブのニンニクを落としてもらい、フライパンで炒め物を拵えはじめて、フライパンを振りながら火を通していくあいだ、母親は隣の汁物にうどんスープと鍋の素を入れて味を付けていたと思う。ニンニク醤油を加えて炒め物が仕上がると時刻は六時過ぎ、こちらは一旦下階に戻って食事前にまた日記を書き足すことにして、Stan GetzStan Getz Plays』を背景に打鍵をここまで進めればもう七時半を過ぎている。合間にMNさんからダイレクト・メッセージに返信があったので、のちほど言葉をまとめてお返事させていただきますとひとまず送っておいた。
 そうして食事へ。階を上がり、台所に入って炒め物と汁物を火に掛け、炒め物は丼によそった米の上へ、汁は椀にそれぞれ盛って、そのほかプラスチック・パックに入ったモヤシや胡瓜や豚肉などのサラダである。卓に持っていくとサラダの上にはパリパリ固麺を散らし、丼の米と炒め物を貪る。夕刊の一面には台風被害の報、亡くなった七〇人ほどのうち、二一人は車中死だったと言う。車に乗って逃げている最中に濁流に巻き込まれて川に墜落し、そのまま亡くなったような人が結構多いとのこと。めくれば三面にはトルコのシリア進軍に対する米国の反応が載せられてあって、下院はシリアからの米部隊撤退を批判する決議を可決したけれど、ドナルド・トランプは、トルコのクルド人との争いは米国には関係のないことだ、互いに殺し合わせておこう、みたいなことを述べたと言う。そのような記事を読みつつ、また母親の雑談も聞き流しながらものを食い、平らげると汁物がなかなか美味かったのでもう一杯飲んで、腹がだいぶ膨れたところで席を立って食器を洗い、散歩に出ることにした。仏間に入って白と赤が組み合わされた厚めの靴下を履き、母親に散歩に出ると告げて、傘を持って玄関をくぐった。雨は視認出来ず、もう降っていないようにも思われたが、顔を傾けてみるとやはりちょっと触れてくるものがあるので傘をひらき、暗い道を西へ向かって歩を進める。考えていたのはMNさんの返信のことで、それに対してどのような再返信を綴ろうかと頭を回しながら歩いていき、途中で南の空に目を振れば、空は室内に暖房を利かせた冬場の窓ガラスのように曇っており、その曇りが低く地上にまで浸潤してきており、山影はそれに巻き込まれて消えている。片手はポケットに突っ込みながら坂を上り、裏道の奥を見れば八百屋のトラックが停まっていて、こんな雨の日にも行商とは苦労なことだが、その手前で急坂を上って表に向かった。街道に出ると、カーブの向こうから車が来るたび、車道と歩道の境となる小さな段差にライトが照射されて、そう高くもない段の側面が一面白さを被せられ、実にありきたりな比喩だが夜闇の底に光の道がひらいたかのような趣となる。過ぎていく車のライトのそれぞれに目を落としていると、白というよりはほとんど黄色に傾いたものあり、白光と一口に言うなかにも青味がかったものもあり純白に明るいものもありと、色合いの差異が目に見分けられる。
 街道をそのまま東へ向かって長く歩き、雨は細かく浮いて斜めに流れるようで傘の下にくぐりこんで、ジャージの前を湿らせるが、意に介さず進んでいくと、ふたたび裏通りに合流するあたりで車が途切れて静寂が挟まり、そのなかで北の林の闇の奥から、もうよほど弱くなったが虫の音がまだ湧いてきた。裏に入って木の間の坂を下っていく途中、後ろから車がやって来て、そのライトが足もとを照らして雨に濡れて死んだ落葉などを明らめるのに、梶井基次郎が「冬の蠅」のなかに書いていたのを最近T田の引用で読んだものだが、車のライトが小石に当たって光のなかに歯のような影を引いた、みたいな表現をしていたのを思い出した。以下の文である。

 突然私の後ろから風のやうな音が起つた。さつと流れて來る光りのなかへ道の上の小石が齒のやうな影を立てた。一臺の自動車が、それを避けてゐる私には一顧の注意も拂はずに走り過ぎて行つた。しばらく私はぼんやりしてゐた。自動車はやがて谿襞を廻つた向ふの道へ姿をあらはした。しかしそれは自動車が走つてゐるといふより、ヘツドライトをつけた大きな闇が前へ前へ押寄せていくかのやうに見えるのであつた。それが夢のやうに消えてしまふとまたあたりは寒い闇に包まれ、空腹した私が暗い情熱に溢れて道を踏んでゐた。
 (『梶井基次郎全集 第一巻』筑摩書房、一九九九年、177; 「冬の蠅」)

 坂を下りきって抜けると今度は前方から車が来て、その明かりのなかで雨粒が宙を埋め尽くしているさまの、粉塵のような、とありがちな比喩を浮かべてあと少し歩き、家に着くと鍵のひらいたままの扉を開けた。なかに入るとそのまま寝間着と下着を持って入浴に行く。風呂のなかでは手を組んで縁に腕を載せた姿勢で、あるいは身を横にして頭を縁に預けた姿勢で瞑目し、夢に入りきらない手前のところで無秩序な物思いを回していた。二〇分か三〇分くらいはそのようにして静かに浸かっていたと思う。じきに洗い場に出て頭と身体を洗うと上がって、寝間着を身につけて洗面所を抜けると、随分長かったじゃないと母親が言った。
 緑茶を用意して下階に戻ると、T田の選集解説に付されていたストラヴィンスキー「結婚」のYoutube音源を、今度は最初から流して、傍ら書抜きを始めた。リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』である。緑茶を飲みながら打鍵を続けていると、まもなくT田から返信が来て、先ほど紹介したStan Getzの演奏はリズムが抜群に良くてまさしく模範的だとの評だったので、「ありがちな言い分だが、無駄な音がほとんど一音もなく、すべてが厳然たる必然性の下に統合されているかのようで、アドリブとはとても思えないまとまり方だと感じる」
とこちらは受けた。その後もやりとりを交わしながら打鍵を続け、書抜きを二〇分ほどで切るとYoutubeの音源も終わったので、今度は同じ「結婚」の、T田の選集に収録された方のバージョンを流し、インターネット記事に触れはじめた。まず読んだのは、「<沖縄基地の虚実1>主役は海・空軍 海賊脅威、日本周辺になし」(https://ryukyushimpo.jp/news/entry-244818.html)である。

 シーレーン防衛は敵対国による海上封鎖などの事態が起きた時、ミサイルや魚雷を載せた潜水艦の派遣や海中に敷設された機雷除去への対処、周辺の制空権の確保などが主な作戦行動だ。こうした任務を担うのは海軍や空軍だ。
 これに対して海兵隊はヘリや水陸両用車に乗った歩兵部隊を海岸から内陸部に上陸させる「殴り込み」による強襲揚陸作戦や、陸上鎮圧の特殊作戦などが主任務となっている。海上封鎖を防いだり阻止するシーレーン防衛で、海兵隊がどれほどの役割を果たすのか。専門家からは大きな疑問が投げ掛けられている。

 一方、米海兵隊は沖縄に駐留する実戦部隊をグアム、ハワイ、オーストラリアなどに分散移転する計画を進めている。MEUやSPMAGTFを世界各地に編成し、危機や小規模紛争への対応、特殊作戦などに従事する機能を分散しているのだ。沖縄部隊の分散配置を進める現状を見ると、在沖の部隊の守備範囲はむしろ狭まっていると言える。

 それでは政府が普天間飛行場辺野古移設が不可欠だとする理由の一つとして挙げるシーレーン防衛の危機が、沖縄の近くで現実として起こり得るだろうか。そしてその対処を沖縄を拠点にした米海兵隊が担う可能性はあるのだろうか。
 軍事評論家の田岡俊次氏は南シナ海での有事を挙げてこう分析する。
 「南シナ海を『沖縄近海』と言えるかは微妙だが、嘉手納基地所属のP3哨戒機が南シナ海で巡視していることを考えると、そう言えなくもない。南シナ海では例えば中国とフィリピン、ベトナムなどの海軍艦艇の撃ち合いが発生すれば、日本の商船も危険性を理由に通航を避ける可能性もあるだろう」
 こうした有事に在沖米海兵隊が出動するかについて、田岡氏は「対処するのは海軍だ。陸戦部隊の海兵隊は基本的には関係ない」ときっぱり否定した。
 現在、日本は東・南シナ海経由で原油の約8割を輸入している。資源輸入国の日本にとって南シナ海は重要な航路だ。南シナ海が有事で断たれた場合、日本の資源輸入は不可能となるのかについて、田岡氏は「紛争などで南シナ海を通れなくても、インドネシアバリ島の東、ロンボク海峡を抜け、フィリピン東方を回れば済む」と指摘する。

 「結婚」を聞き終えると次には、Stan Getz & Lionel Hampton『Hamp And Getz』を流し出したのだが、Stan Getzが端的に言って阿呆みたいに上手くてびっくりさせられる。Stan Getzという人は今まできちんと聞いてこなくて、こんなに上手い人だとは知らなかった。まったく伊達ではなく、村上春樹が一番好きだと言うのも頷ける。しかもこの音源は五五年だから二七年生まれのGetzは二八歳、まだ三十路にも入っていないわけで、そんな若造が巧みとしか言いようのない完璧な技術と、Lester Young直系の美麗さを合わせて既に相当に円熟させた感のある貫禄を醸し出しているのは、ちょっととんでもないのではないか。一か月か二か月前くらいのブログの記事でSさんが、幸田文という作家は最初からもうスタイルや主題が完成されていて、手を変え品を変えることをまったくせずに、ずっとその完成された同じ一つのことを続けた作家だというようなことを書いていたと思うが、もしかするとそれに近いのかもしれない。
 音楽を聞きつつ、続いてふるまいよしこ「200万人香港デモ、市民の怒りに火をつけたエリート官僚の傲慢」(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65312)を読んだ。

 筆者は、6月12日の立法会ビル前で起きた警察隊とデモ隊の衝突を見ながら、今回の焦点になっている「逃亡犯条例」改訂は、日本や西洋メディアが論じていたような中国中央政府の意図ではなく、香港政府つまり林鄭行政長官の発案ではないか、と感じ始めた。その理由はいくつかある。
 一つは、この改定草案がもともと、昨年台湾で起きた香港人同士の観光客カップルの殺人事件に起因していること。カップルの男性が女性を殺害、その死体を郊外に遺棄してその足で香港に戻った。女性の家族には「ケンカをして出ていった。その後は知らない」と言いつつ、そのATMカードを使って現金を下ろしたことで足がつき、殺人を自供。遺体は自供通りの場所で発見された。
 しかし、殺人罪で裁くには男性容疑者を事件発生地の台湾に引き渡す必要があるが、現行の「逃亡犯条例」には犯罪者の引き渡し対象条件として、「中央人民政府あるいは中華人民共和国のいかなるその他の地区の政府を除く」という一文があり、(香港の主権国である中国が自国領土の一部とする)台湾に引き渡すことができない。
 そのため、香港政府は窃盗罪で服役中のこの男性容疑者が釈放される今年10月までに「逃亡案条例」の対象国及び地域を「世界中のすべての国」とする改訂草案を可決、施行しなければならなくなった。また、立法会が毎年7月から9月いっぱいまで夏休みに入るため、10月に間に合わすにはこの6月中に可決する必要に迫られたのである。

 そうして一〇時を回ったあたりからこの日の日記を書き出した。途中でT田が、ボサノヴァ・ブームを巻き起こしたと言われて有名な『Getz/Gilberto』のなかの"So Danco Samba"のYoutube音源を貼ってきたので聞いてみたが、ここでもGetzはやはり糞上手い。彼のおかげで音楽が軟弱なイージー・リスニングに堕することを免れていると評言を送れば、T田としてはしかし、速吹きはいらないように思ってしまうと来るので苦笑を送り返した。T田にはまた、ストラヴィンスキーの「結婚」は整然と構築された近代性を表していると言うよりは、中世的な民衆の土着的なはちゃめちゃさを体現しているように思えるのだが、そのあたりの評価はどうなっているのだという質問を送っていた。それに対してT田は、評論家連の批評は知らないが、民族主義というのは近代音楽の特色の一つに含まれるから、時代の傾向から外れてはいないと思う、民族主義の有名所にはハンガリーバルトークコダーイアルメニアハチャトゥリアンなどがあると教えてくれた。また、はちゃめちゃな感じと言うのは、彼が考えるところ、伝統的なコミカル喜劇であるオペレッタの延長線上にあるのではないかということだった。
 一一時前になってこの日の日記を現在時に追いつけることが出来た。そうしてふたたび一三日の記事を仕上げるために邁進する。少なくとも今日中に一三日の分は仕舞えなくてはと脇目も振らず、というのは言い過ぎで時折りTwitterなど覗いていた気がするが、ともかく打鍵の時間のなかに留まり、零時五〇分頃まで書き綴ってようやく一〇月一三日の自分を眠りに就かせることが出来た。まだ一四日の記事も大して書けないままに残っているのだが、今日はひとまずここまでで良いだろうと気を緩めてちょっとだらだらした時間を過ごし、一時半からふたたびリチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』の書抜きをすることにした。BGMはStan Getz『At Storyville - Vol. 1 & 2』。このライブ音源は一九五一年一〇月二八日録音、面子はGetzのほか、Jimmy Raney(g)、Al Haig(p)、Teddy Kotick(b)、Tiny Kahn(ds)である。録音はあまり良くないが、Getzのテナーはここでも非常に流麗闊達で、T田が評価した通りリズム感覚が非常に精密で、それはしかし機械的ということではなく、音楽の自然な流れに物凄く巧みに順応し、調和的に乗りこなしているという感じだ。
 二時を過ぎると書抜きを切りとして、トイレに行くために廊下に出てみると、上階は静かで階段下から窺っても明かりはなく、父親はもう下がったようなので都合が良いと上ってカップヌードルを食べることにした。その前にトイレに入って放尿すると、小便が便器の水を叩く音のなかに、窓外から静かな雨音が混ざってくる。出て戸棚をひらき、カレー味のカップヌードルを取り出して包装を破ると台所のゴミ箱に捨て、電気ポットから湯を注いだ。蓋の端を折り曲げて口がひらかないようにしておき、そうしてから食卓灯を消して容器を両手で包み込み、持って階段を下り、下りきったところで電灯のスイッチを押して明かりを落として暗い廊下を渡って室に戻った。そうして村上春樹アンダーグラウンド』を読みながら麺を啜る。具材を平らげるとスープも飲み干してしまい、そうするとカレーの風味で口のなかがちょっと辛くなったので、それが収まるまで本を読んで待ち、それから緑茶を用意するためにまた上階に上がった。飲み物を仕立てて戻ってくると引き続き書見を続ける。日比谷線北千住発中目黒行きの電車に纏わる状況を説明している途中の三八三頁には、「しかし築地駅の駅員はそれが毒ガスであることをすぐに認識し、「毒ガスだ!」と叫んで乗客たちに一刻も早く逃げるように指示した。しかし中央での事態の正確な把握は遅れた」と、「しかし」という接続詞が二度連続して用いられていて、ここを読む限り村上春樹はそれほど文章の質や流れにこだわっていないのではないかと思われた。勿論、彼なりに正確な記述を心掛けた結果なのかもしれないし、小説作品においてはまた違うのかもしれないが、少なくともこの、いわゆる「ノンフィクション」のインタビュー本に関しては、村上の文章はさほど上質だとは感じられず、別に際立って拙劣なわけでもないが、著者の文の力が持つ魅力というものは見受けられない。それはあるいはインタビュー本であるが故に、個々の証言者の言葉こそが主役なのだから、著者が無闇に出しゃばるべきではないという配慮を働かせた結果なのかもしれないが、上に挙げた「しかし」の連続などは、こちらの主観的基準から行くと幾分野暮ったく感じられ、推敲による洗練が少々欠けているように思われてしまうものだ。
 四一一頁は山崎憲一という人の証言の最中だが、彼はサリンの症状について、「息がやはり苦しい」、「ちゃんと息を吸っているんだけれど、それなのに酸素が少ないっていうか、吸っても吸っても肺が機能してくれない」と説明しており、こうした呼吸困難はほかの証言者もたびたび言及していた。また多くの人が、とにかく鼻水がたくさん出て仕方がなかったということも明言している。
 四時二五分まで書見を続けて就寝。


・作文
 13:44 -15:09 = 1時間25分
 15:36 - 17:21 = 1時間45分
 18:18 - 19:38 = 1時間20分
 22:06 - 24:48 = 2時間42分
 計: 7時間12分

・読書
 12:57 - 13:43 = 46分
 15:15 - 15:33 = 18分
 21:08 - 21:29 = 21分
 21:31 - 22:02 = 31分
 25:32 - 26:05 = 33分
 26:15 - 28:25 = 2時間10分
 計: 4時間39分

・睡眠
 4:00 - 11:40 = 7時間40分

・音楽