2019/10/18, Fri.

 トランプがしたように、あらゆるポピュリストは、「人民(the people)」と、利己的で腐敗したエリートとを対置する。しかし、権力者を批判する者が、みなポピュリストというわけではない。真にポピュリストを特徴づけるのは――これが本書の主たる論点だが――、自分たちが、それも自分たちだけが真正な人民を代表するという彼らの主張である。トランプの解釈によると、いまや[真の人民を代表する]自分が行政部を支配するから、人民が政府を支配することになる。そうした解釈は、いかなる反対派も正統ではないということを含意する。つまり、トランプに反対する者は、人民に反対しているとされるのだ。これは、ウゴ・チャベスベネズエラの大統領、在任一九九九~二〇一三年]や、非リベラルを公言するハンガリーの首相ヴィクトル・オルバーン、トルコの大統領レジェップ・タイイップ・エルドアンらでお馴染みとなった、きわめて権威主義的なパターンである。トランプは、民主主義にとって自らがいかに危険であるかを、世界に向けてこれ以上ないほど明瞭に示したのである。
 チャベスは、「チャベスとともに人民が統治する」というスローガンが大好きだった。皮肉なことに、この人民とひとりの忠実な代表者との同一視が意味するのは、究極的にポピュリストは、いかなる政治的責任も負わないということである。トランプは、自分が人民の真正な意志の単なる執行者に過ぎないと言い張っている。同様にエルドアンは、二〇一六年夏のクーデタ[失敗]の余波のなか、死刑制度を再導入するという彼の計画への批判に対して、次のように応じた。「重要なのは、わたしの人民が何を言うかだ」と。実のところ、そもそも「彼の人民」が言うべきことを彼は語ったのであり、彼が人民の声の唯一正統な解釈者であり続けるのだ。必然的に、異論は非民主主義的なものとされる。そして、あらゆる抑制と均衡[チェック・アンド・バランス]は、民主主義のもとでの権力分立制ではまったく常態のものだが、ポピュリストの手にかかると、人民の意志の実現を阻む障害物とされてしまうのである。
 ナイーブなことに、一部のリベラルは、ある点ではトランプが分断された国を「団結」させ「癒す」意向を示すのではないかと期待していた。選挙後にトランプは、「われわは団結するのだ。そして勝って勝って勝ちまくるのだ!(We will unite and we will win, win, win!)」といったメッセージをツイートした。大統領就任演説では、「団結し」「止められない(unstoppable)」アメリカを訴えた。実際、あらゆるポピュリストは、しきりに「人民の統一」を語る。しかし、これはつねに条件付きの人民の統一である。すでにトランプは、あまり注目されなかった五月の選挙キャンペーン集会の演説(本書のなかでもう一度引用するが)でこう述べている。「ただひとつ重要なことは、人民の統一(the unification of the people)である――なぜなら、他の人びと(the other people)などどうでもよいからだ」。言い換えれば、法的な観点からも道徳的な観点からも真の市民である者でさえ、ポピュリストによる人民のヴィジョンを共有しないならば、人民の一員としての地位が疑問に晒されてしまうのである。
 ポピュリストはみな、「真のアメリカ」や「真のトルコ」といった、「真の○○」の一員ではないと見なした人びとと対決を続けることで、彼の[﹅2]人民――唯一真正な人民――を統一しようと試みるだろう。分断は、ポピュリストにとって問題ではない。むしろそれは、権力を確保するための方法なのである。それゆえ、ポピュリスト政治家が遅かれ早かれ「相手方にも手を差し伸べる」と考えるのは、きわめてナイーブである。ポピュリストが対立(とりわけ進行中の文化闘争[カルチャー・ウォーズ])を利用して、誰が「真の人民」なのか――そして、いかに彼らが力強いか――を繰り返し示すことができる限り、対立はポピュリストにとって明らかに良いことなのだ。
 (ヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』岩波書店、二〇一七年、ⅴ~ⅶ; 「日本語版への序文」)


 一二時半過ぎまで長々と、だらだらと寝過ごす。今日も窓外は一様な純白の空である。ようやく起き上がってベッドを抜け出すと、コンピューターを点けた。肩を回しながら起動を待ち、準備が整うとTwitterやLINEを覗いた。LINEの方にT田から、彼らと会った一三日の日記を読んだのだろう、ご苦労であったと武将のようなねぎらいの言葉が送られてあった。ひとまずそれは置いておいて部屋を抜け、ちょうど階段を上がったところでインターフォンが鳴ったので、出てみると、シルバー人材センターから隣の草刈りの下見に来たものだと言う。隣と言われてTさんの宅かと最初は思ったのだったが、そうではなくて反対側、KMさんの方で、この家はもう随分前に取り壊されて敷地は今は更地になってそこに草が繁茂しているので、それを片付けるための下見に来たらしい。しかし場所がいまいち良くわからないので教えてもらえるかと求めるので、ちょっとお待ち下さいねと言って受話器を置き、まだ寝間着から着替えてもいなかったのでズボンをジャージに履き替える。上着は元々、寝間着ではなくてジャージを着ていた。それで、待たせては悪いと髪を梳かしもせずに玄関を抜けると、帽子を被って眼鏡をつけた老人の姿があって、一緒に隣の敷地に入りながら、ここに家があってと説明した。敷地は二段になっており、上段はまだそこまででもないが、下段の方は秋草がいっぱいに群れて地面を埋め尽くしているような感じだ。依頼者から受けた電話の説明では、さらに、四五度くらいの傾斜の土地もやってほしいと言われたと言うので、下段のさらに向こうが斜面になっているがと言って、そちらの方にも行ってみたが、老人は、これは……と困惑気な様子を見せるので、これはなかなか厳しいですね、とこちらも受けた。斜面は一部刈られたような痕があったのだが、これはもしかするとうちの父親が我が家の畑の斜面を刈るついでにそちらも手を出したのかもしれない。しかしそのことは言わず、こっちがうちの畑なんで、こっちの方は父親がたまにやっているんですけどね、と伝えるに留めた。そうこうしているうちに上の道にはもう一人、仲間らしく、やはり帽子を被った老人の姿が現れていたので、会釈を送ると、眼鏡の方の老人は彼に向けて、やっぱりここだって、と声を掛け、こことここと、あと傾斜があると土地を指して説明した。それで上の道に戻ってまたちょっと敷地を眺めて、なかなか大変なお仕事ですねとこちらは笑みで言葉を送り、その後老人は、車はここに入れれば良いだろうか、それともどこかほかに停める場所はと辺りを見回すので、林の縁の土地に視線が行ったのを捕まえて、まああそこがうちが借りてる土地なんで、停めていただいても構わないと思いますけどねと提案した。仕事はいつかと訊けば、まだ、一一月に入ってからのことだと言う。それなら、事前にまた声を掛けさせてもらいますと言うので、父親にその旨伝えておきますと受けた。それで、ありがとうございました、助かりましたと言って老人たちは去る気配になったので、とんでもない、ご苦労さまですと返して別れ、屋内に戻った。それで洗面所に入って鏡を前にしたが、髪が、ぼさぼさとまでは行かないもののちょっと乱れてもっさりとしており、髭も剃っておらず口周りが汚れていたので、随分とだらしなく映ったかもしれないと思った。しかし態度は丁重で、かつ友好的なものを取ったつもりだ。櫛付きのドライヤーを髪に通し、それからトイレに行って放尿、戻ってくると前夜の炒め物の残りを電子レンジへ、そして汁物の鍋を火に掛ける。米もよそって卓に就くと新聞を読みつつ食事を開始、国際面には米国の副大統領ペンス氏がトルコを訪問してエルドアン大統領と会談し、シリア北部攻撃の即時停止を求めたと伝えられていたが、エルドアンの方は「どのような力もトルコを止めることはできない」と強硬姿勢を崩していないと言う。その下には、トルコがクルド人攻撃に入るその前に、ドナルド・トランプエルドアンに対して思い留まるよう書簡を送っていたとの情報があって、しかしその文面が、「強がるな。馬鹿なことはやめろ(Don't be a tough guy. Don't be a fool!)」などというもので、小学校三年生レベルの文章だなどと米メディアでは馬鹿にされていると言うのだが、こちらも思わず、言い方というものがあるだろうと笑ってしまった。記事には書簡の写真が載せられていて、本文中に訳されていない部分の文面もちょっと読んでみたのだが、"You can make a great deal"などという言葉が見えて、やはり"deal"を使うのだなと思った。あとは、"You don't want to be responsible for slaughtering thousands of people, I don't want to be responsible for destroying the Turkish economy."だったか、そんなような文言も見られた。
 記事を読みながら、ニンニク醤油から成っている炒め物の汁を米に掛け、肉や茗荷やピーマンをおかずに白米を食べ、汁物も平らげてしまうと席を立って皿を洗った。それから風呂も洗いに行き、残り湯が結構あったが洗うことにして栓を抜いて、水が流れていくあいだはひたすらに肩を回す。そうしてブラシで浴槽を擦り、シャワーで流して出てくると、下階に戻って急須と湯呑みを取り、引き返して緑茶を用意し、塒に帰った。寺尾聰『Re-Cool Reflections』をYoutubeで流しだしながら前日の記事の日課の記録を完成させ、この日の記事も作ったあと、歌を歌う。#1 "HABANA EXPRESS"、#2 "渚のカンパリソーダ"と歌い、三曲目 "喜望峰"は歌わないのでそこから日記に入った。この日の分を綴り、合間に音楽が#5 "ルビーの指環"に掛かるとまた歌い、歌い終えると便意を催していたのでトイレに行って糞を垂れ、戻ってくると町屋良平『愛が嫌い』の感想を、大したものでなく量もないがブログにアップし、音楽の感想というものも日記に時折り書いているのをアルバムごとにまとめて記事を作ろうと思ったのだが、まず先に日記を書いてしまわなくてはということで打鍵に戻り、ここまで綴って二時九分。
 その後、二時四〇分まで掛けて前日の日記を綴り終えた。音楽は、cero『Obscure Ride』を流して、"Yellow Magus (Obscure)"や"Elephant Ghost"や"Orphans"などを時折り口ずさみながら打鍵を進めた。日記に切りを付けると、音楽についての感想をブログやnoteに記事として投稿することにした。日記のなかで折に聞いた音楽の感想を綴ることがあるが、それをアルバムごとに日付別にまとめて記事としようと目論見である。そうして日々のなかで新しく感想を書き足したらまた更新していけば良い。そういうわけで、Ryan Keberle & Catharsis『Azul Infinito』と、『Stan Getz Plays』の記事を作ってブログやnoteに投稿すると時刻は三時、尿意が満ちていたのでトイレに行き、そのついでにふたたび緑茶を用意した。上がった居間は薄灰色に暗く沈んでおり、粒は視認できないがあるいは雨が降ってきたのかもしれず、自室では既に電灯を点けている。
 戻ると一年前の日記を読む。サルトルの書簡からの引用が相変わらず記事冒頭に付されてあるが、そこに露わになっているサルトルの気弱さ、義父との人間関係における不器用さ、ぎこちなさが少々滑稽で、世紀の「偉人」もやはり人間なのだなと思わされる。しかもサルトルは一九〇五年六月の生まれだからこの時点で三四歳、既に結構いい歳である。

 (……)正午にそろそろ家に顔を出し、それが夜の十時半まで続く。それは葬式に近い。というのは、義父は病人で神経が高ぶっているからだ。ぼくは他にやりようがなくなると話をする。だいたいは、必死になって礼儀と共犯をないまぜにした薄笑いをしてみせる。さもなければ義父の言葉の末尾の語を繰り返す。(最近の)例、
義父が窓際のところで――
 「おや、あそこにとまったのは誰?」
私――
 「とまったのは誰?」
母――
 「エムリーさん一家じゃない?」
義父――
 「違う、地図を見るために立ちどまった人たちだ。地図をね」
私――
 「ああ! 地図をね?」
 といった具合だ。母は五分おきにいろいろ質問をしてくる。《ここにいて満足かしら、プールー?》 《満足ですよ、お母さん》。《どう? 気分悪い?(探るような目つき)》――ぼく《いや、いいですともお母さん》。すると、力強く決然と顎を動かし、楽観的な様子で、《とにかく、あんたのためになるわ。健康にいいのよ》。(……)
 (朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』人文書院、一九八五年、245; ルイーズ・ヴェドゥリーヌ宛; 1939年7月)

 それから二〇一四年一月一九日の記事を読んでみると、欄外で今日は最近のなかではそこそこ書けた方だろうと自分をねぎらっている。実のところ、今の目から見れば全然書けてなどいないのだが、当時はこれが限界だったのだろう。続いてfuzkueの「読書日記」を一日分読み、さらに「週刊読書人」の記事はなかったかと「あとで読む」記事から探すと、市田良彦王寺賢太小泉義之・佐藤淳二・上田和彦・箱田徹・布施哲・長崎浩・沖公祐・佐藤隆・ 中村勝己・長原豊・佐藤嘉幸・松本潤一郎・上尾真道・立木康介檜垣立哉・森川輝一・鵜飼哲「「現代思想と政治」公開合評会(京都大学人文科学研究所)レポート いま、現代思想と政治を問い直す」(https://dokushojin.com/article.html?i=2103)という錚々たる面子が揃い踏みした会の報告があったので、これを読むことにした。音楽はceroが終わって、Sam Cooke『One Night Stand! Sam Cooke Live At The Harlem Square Club, 1963』を繋げた。

 最初の評者である檜垣立哉氏は、誰がいかに「68年」の歴史を書くのか、と世代問題を提起するところから始めた。全共闘後の左翼運動の残照を幼少期の雰囲気としてしか知らず、80年代バブル期に現代思想と出会い、吉本隆明の『「反核」異論』に衝撃を受けた檜垣氏にとり、マルクス主義現代思想によって一面において「始末された」ように見える。だが現在、ドゥルーズフーコーの仕事を最もよく実現しているのはネオリベラリズムではないか。(……)

市田 (……)意図としては、世代論はくそくらえと思っています。これは理論的に大事なところで、最終的に、政治経験というのは絶対に伝承されないので。上の世代がやっていたことなんて知らん、と常に言われる。ところが歴史の方は忘れてくれない。どんどん記憶が蓄積されていくし、忘れたら怒られる領域です。これが政治と歴史の本質的な違いをなすのではないか。(……)

小泉 (……)現在のグローバリズム、要するに資本主義ですが、何かが狂っていますね。なんとかしないといけない。じゃあ資本主義に対抗しようというとき、闘争の主体や抵抗の拠点をどこに見出すかに関して、ドゥルーズは狂人とか白痴に期待をかけるしかなかったという感じがあるんです。僕もそういう世代なのでその感じはよくわかる。やっぱり狂ってないと闘争なんかできないですよ。多少馬鹿じゃないと。だからトランプ支持者の馬鹿ぶりを見るにつけ、なかなか可愛いじゃないかと思っちゃうんですね。とはいえドゥルーズでは、白痴は状況を見るばかりで、見者にとどまります。行動に打って出られず、訳が分からなくなる。廣瀬純風に言うと、そうやって絶望することが大事であるというわけです。するとそのうち、古代ギリシアアメリカ/ロシアに続く三度目の革命がいつか訪れるだろうという。これでは、ドゥルーズはもう終わってるとしか言いようがない。それを真面目にとってもしょうがないんです。

長原 (……)僕の考えでは、資本は、利潤があがるところにはどこにでも自由に動く絶対的脱領土化として自分自身を欲望している。しかしそれはことごとく相対的脱領土化に終わらざるを得ない。利潤の取得には常に所有権が前提になるからです。そこに国家が出てくる必然性がある。絶対的脱領土化を求めて相対的脱領土化に帰着する、この運動を無限に反復するのが資本主義なら、それを描くには国家を入れるしかない。このことをマルクス経済学者、特に原論学者は放置してきた。(……)

市田 これまでも様々なかたちで政治の限定が試みられてきたと思います。68年には「すべては政治である」と言われましたが、森川さんのように空間で限定するやり方もあれば、ヘーゲルのように歴史化して国民国家に回収するやり方もある。ルソー・タイプの社会契約論もあるでしょう。それらを凝縮して争点としたのが現代思想ではないか、というのが僕の問題提起だったわけです。では僕自身はどうやって政治を限定するのか。よく分からないというのが正直なところですが、あえて答えれば、手続きによってです。「革命」というのは、すべてをチャラにする手続きでしょう。もちろん実際の現場では、常に何かを空間的に限定・構成することが問われる。教室や街頭を占拠する時も、そこを外の空間から分離することからはじめて、日常的な人のやりとりや「制度」をどう作っていくのかという問題に直面する。それができたら、今度は時間の中で持続させなければいけない。「歴史」に足を踏み込まなければいけない。共通の経験を物語化し、それを共有する人たちの範囲で語り継ぐ。そこからまた新しい物語が生まれていく。まさに物語から歴史の方に踏み込んでいく。その空間と歴史の両方が丁度交わるところに、「革命」や「構 成」は位置づくんじゃないか。一瞬に終わるスクラップ・アンド・ビルドとしてではなく、そこから取り出せる手続きを問いたい。そうすることで、政治を限定できるのではないか。付言しておけば、政治と歴史は交代するのではなく、ずっと併存すると考えています。

上田 森川さんに対して僕が呟くとすれば、ファシズムもまた民主主義の危機に対する回答の一つだったということですね。ファシズムを擁護するつもりはありませんが、ファシズムを生んだ民主主義の危機の方を僕は考えたいんですよ。68年にブランショは「民衆の爆発的なコミュニケーション」を称揚した。ビラとか壁の落書きとかいった、そこで言われたことに対して責任を持たないような書かれたものの重要性について語ったわけです。それには前史があって、58年に第四共和制がアルジェリア戦争の混乱を収拾できずに危機に陥り、ド・ゴールが80%もの支持を得て大統領になって、憲法が改正され、非常事態宣言を発動する。その時にブランショが文章を書いています。国民の主権が空虚になって、宗教的な至高性を帯びた人物に主権を委譲しようとしている。ド・ゴール自身、主権を任されながら、具体的には何もできない。その結果、誰も何も言えない状況になっている。これは非常に危険である、と指摘しているわけです。言論の自由は認められているけれど、その効果はまったくない状況がそこで始まり、68年までずっと続いている。そんな状況だからこそ、ブランショは無責任な書き物の有効性を言ったわけです。僕もそこに特化して、無責任の主体の重要性を述べました。しかし翻って見るなら、国民の主権が空虚である状況は、当時のフランスに限ったことではない。そのような状況はいつもある。その状況が起ってくる限りは、僕はあえて無責任な主体が必要だと言いたいわけです。

立木 市田さんの序論に関して言うと、たしかにラカンは、構造によって規定される存在欠如というかたちで主体を考えました。それはとても重要な点ですが、それが政治的なことに結びついていくときにどんなロジックになるか。大文字の他者(社会、制度、集団と言ってもよい)が、主体の根拠を保証してくれないことが明らかになる契機がある。大文字の他者自身が自らの存在根拠を請け負うことができないからです。そうなったとき、実はその責任がまさに主体自身に降り懸かってくるというのがラカンの逆説的なテーゼです。そこで主体的な態度が決定される。そのときに主体が、自らの存在欠如の部分で、大文字の他者の欠如に応えられるかどうか。それに応えられないのが神経症者で、それが去勢不安です。ラカンにとって精神分析とは、そこで主体的な決定を行えない人たちがそれを行えるよう手助けをしてやるものだと思います。

上田 ブランショテロリズムをどう考えていたのかという点に絞って、お答えします。ブランショは「文学と死の権利」(49年)で恐怖政治の話をする以前、戦前には青年右翼に近いところにいて、テロリズムこそが救国の方法であるというような文書を書いているわけですね。37年ぐらいです。今のフランス国は唾棄すべきだという激烈な批判をしながら、なんとか国民を純化しなくてはいけないという話の中で出てくる文書です。その後、ペタンの国民革命にもかなりコミットする。37年から49年まで、ブランショは随分考え込んだと思うんですね。そこでフランス革命期の恐怖政治のことを読み込んで、考え方をまるっきり変えてしまったんだと思います。ロベスピエールサン=ジュストは、徳を重視しました。個人的利害を否定し、個人を否定して、公共精神に根差し、公共の利益を優先させるような普遍的主体にならなくてはならない、と徳の名の下に恐怖政治を行った。しかしその理論的な帰結は、理念的に個人が死んではじめて成立する、死者たちの普遍的な共和国、不死性を具えた普遍的人間たちの共和国でしかない。そんなかたちで主権を立ち上げるという方向には絶対に向かってはいけない。ではどうやって、別のかたちで国民の主権を考えるかというところで、ブランショは文学を考えていく。(……)

 さらに続いて「<沖縄基地の虚実2>自衛隊まず対応 米軍は「支援」「補完」」(https://ryukyushimpo.jp/news/entry-244831.html)。日本語のインターネット記事に関しては、毎日「週刊読書人」の特集記事を一つに、ほかのサイトの記事をもう一つ、さらにそれにプラスアルファしていくつか読めれば良いと考えている。

 13年4月、米議会上院が設置する米中経済安全保障調査委員会で「東・南シナ海における海洋紛争」に関する公聴会が開かれた。参考人の一人に
米海軍シンクタンク「海軍分析センター」のマイケル・マクデビット上席研究員が招かれた。同氏は退役海軍少将で主にアジア太平洋の安全保障に精通し、ブッシュ政権時には国防総省でアジア政策を統括した。
 (……)
 その後、マクデビット氏はより露骨な考えを示した。
 「尖閣には元来住んでいる住民もおらず、米国にとって地理的な戦略的価値も、本質的な価値もない。ワシントンは無人の小島のことで中国軍と銃弾を交えることを強く避けるべきだ」

 「抑止力」の意味について政府見解はこう定義している。
 「侵略を行えば耐え難い損害を被ることを明白に認識させることで、侵略を思いとどまらせる機能」
 一方、元防衛官僚で内閣官房副長官補を務めた柳沢協二氏は「離島防衛は陸上自衛隊が主体で、米軍の役割はその支援に限られる。日本政府は『海兵隊は抑止力だから沖縄に必要だ』としているが、米国は日本の離島防衛で海兵隊を出す気はない。つまり抑止力じゃない」と指摘する。

 県辺野古新基地建設問題対策課は「米海兵隊尖閣に派遣される可能性が全くないとは言わない。ただ仮にその場合も、まずは海上保安庁自衛隊による対応、外交交渉など長いプロセスを経てからになる」と指摘する。実際、森本敏防衛相(当時)は2012年に尖閣問題への対応はまず海保や自衛隊が行うとし「尖閣諸島の安全に米軍がすぐ活動する状態にはない」と明言している。
 県は「政府は普天間飛行場を県外に移設した場合、(日本本土から尖閣に飛行する)数時間の遅れが致命的な遅延となり得ると主張するが、実際のシナリオを考えれば、数時間では即応力は失われない」として、尖閣問題への対処は普天間を県内移設する理由にはならないと強調する。

 そうして緑茶によって高められた尿意をトイレで解消してきたあと、四時直前からまたこの日の日記を綴りはじめた。Ryan Keberle & Catharsis『Azul Infinito』とともにここまで書き足すのに一〇分余りしか掛かっていない。今日の労働は最後のコマが一つ、歩いて行くなら六時四五分頃には出なければならず、猶予はあと二時間ほどしかないが残った時間で何をするか。一四日の記事も書かなければならないし、「MN」さんへの返信も拵えなくてはならない。
 ――というわけで、まずその返信をさっと書き綴って、以下のような文章を完成させて、相手に送った。

 お返事をありがとうございました。他人との協調において重要なのは、「相手の言動を読み解く能力というよりむしろ、読み取りを中止する力だ」というご意見は、逆説的なようで面白いですね。「MN」さん――と呼ばせていただきますが――のお返事を僕なりに換言させていただくと、人々はそれほど深く考えながら喋ったり行動したりしているわけではないので、コミュニケーションにおいてそこまで「高度で繊細な」読解力は必要なく、実社会のなかで業務をこなすに当たっても、言わばその場の空気を読んで、「ノリ」や「定型的な文句」に合わせて動く能力を持っていれば充分である、従って、論理的思考力の類は必要最低限のものを身につけていれば協調的な労働に支障はなく、それには「週一回一日がかりの講習を二、三回受ければひとまず十分」で、大学教育が目指すようなレベルの読解力は言ってみれば余剰であり、一応役には立つかもしれないが「それほど有益だとは思え」ない、それを得るためのコストも掛かりすぎて「かなりオーバーワーク」だろう、とそんなところかと思いますが、この理解は正確でしょうか?
 それを踏まえて全体的な印象を述べさせていただくと、「MN」さんと僕のあいだでは、「働く」ということに関してイメージのずれがあるのではないかと思いました。と言うのも、どうも僕は「働く」とか「実社会での労働」とかいう言葉のなかに、無意識のうちに、「より優れたパフォーマンスを目指す」、「より高い創造性を発揮する」という向上性の要素を織り込んでしまっていたようなのですが、「MN」さんの方は、もっと平準に、言わば「普通に」働く、「普通に」業務をこなすということを想定されているように感じられたからです。この点、我々のあいだには、議論の前提となる「働く」という言葉の意味において捉え方にずれがあるように推測したのですが、いかがでしょう?

 それで時刻は五時一六分、労働前の食事を取ることにして階を上がり、台所に入るとスチーム・ケースのなかに入った南瓜をつまみ食いする。皿にもいくつか取り分けて電子レンジに突っ込み、そのほか鰹節がふんだんに掛かった大根の葉がプラスチック・パックに入っていたので、それも半分取って、さらに汁物を熱しながら、帰ってきた父親が食事を取るのに鮭だけでは不足だろうから何か作っておかなくてはなと冷蔵庫を見ると、ソーセージがあったのでこれを炒めるかと見当を付けた。そうして食卓にものを運んで椅子に就いたところで、夕刊を取っていないことに気がついて立ち上がり、玄関を出るとポストの下に泥がついたままの葱が何本か積まれてある。誰が持ってきたのか不明である。向かいの家には軽トラックが来ており、人が一人うろついていたのだが、辺りはもう暗くて顔が定かにわからない。それでもこんばんはと挨拶を交わしながら、この人が持ってきたのだろうかと疑ったが、そうだったら挨拶をするだけで去って行かずにその旨伝えてきそうなものだ。とりあえず葱は玄関内に入れて片隅に立て掛けておき、郵便物を持って居間に戻って食事を取った。夕刊によれば新天皇の即位に際して五五万人に恩赦が適用されるらしいが、被害者感情などに配慮して、比較的軽微な犯罪を犯した者が課せられている資格停止を回復する「復権」という処置に限るとのこと。めくった三頁目では、米国とトルコが、クルド人勢力とトルコの戦いを五日間停止することで合意したと伝えられている。五日間のあいだに、トルコが設ける非武装安全地帯からクルド人組織には撤退してもらい、その完了をもって恒久的な停戦とする段取りらしく、クルド人側は武装組織の司令官は一応その旨受け入れているようだったが、果たしてうまく行くかどうか。ほか、EUと英国が離脱協定案で合意を交わしたとの報があった。しかしまだ英国議会と欧州議会で可決されなければ発効されず、英国では翌一九日に採択の予定だという話である。
 食後、皿に始末を付けてから料理を始めた。青梗菜があったのでそれをソーセージとともに炒めることにした。まず青梗菜を細かく切り分けて、小鍋で茹でる。そのほか玉ねぎも合わせようとしたところが切らしているようで見当たらなかったので、誰が持ってきてくれたか知らないが、先ほどの葱を早速使わせてもらうことにした。玄関の隅から二本を持ってきて、流し台で土を洗い落とし、そうしてざくざく切っていったが、見れば先端に近い方の緑色の部分のなか、空洞の内壁に土がついている。それでそれも洗い落とし、ほかの断片にもついていないかと確認してみると、土のみならず何か虫の糞か卵のような粒が付着しているものがあり、これはさすがに気持ちが悪い。洗って取り除かなくてはと思ったが、笊に入れて流水を落として擦るだけで取れるのか心許ないし、切り分けた小片を一つ一つなかを覗いて確認していくのも面倒臭い。それで洗い桶にまとめて入れて水に浸して洗えば良いのだと思いつき、桶に入れて流水を落とし、搔き混ぜて一挙に洗うと、粒が水に浮かび上がってきた。それを空けて水を捨て、もう一度流水を溜めて洗うとまた流し、さらにもう一度同じ行程を繰り返すと粒が出なくなったので葱を笊に上げ、フライパンで炒めてはじめた。ソーセージは一袋分をそのまま投入したのだが、思いの外に数が少なく五本しかなかったので、ちょっと火を浴びて熱くなったのを素手で取り上げて鋏で分割した。しばらく炒めると塩と胡椒を振って完成、そうして下階に戻るとゴミ箱を二つとも持ってふたたび上がり、台所のゴミに自室のゴミを合流させておき、再度自室に帰ると今度は急須と湯呑みを持ってきた。緑茶を用意して復路を行き、the pillows "Funny Bunny"を流して歌ったあと、ここまでメモを取れば六時過ぎだったらしい。
 六時四五分には出なければならなかった。緑茶を飲みながらインターネット記事に触れることにして、「安倍首相「マクロ経済スライド」連呼で墓穴? 年金を減らす仕組みの実情」(https://www.newsweekjapan.jp/kaya/2019/07/post-75.php)にアクセスした。現行制度で基礎年金だけを受け取る人は月に六万五〇〇〇円の年金収入だと言うが、それを考えるとこちらの将来も非常に危うく不安である。もっとも、こちらが老齢になる頃にはかなり社会の様相も様変わりしているだろうとは思うが、と言って現在よりも良い社会制度が確立しているとは限らない。個人的にはさっさとベーシック・インカムを導入してほしいものなのだが、少なくともおそらく今後数十年は実現の見込みはないだろう。

 主観を交えず、状況を冷静に分析した場合、現役世代から極めて高額な保険料を徴収するか、大増税(あるいは国債の永続的な大量発行)を実施しない限り、現在の年金水準を維持することは不可能である。年金制度を維持可能なものにするためには、将来の年金減額はほぼ必至といってよいだろう。
 だが、年金を減らしてしまえば、それで問題は解決するのかというとそうはいかない。現時点における年金受給者の6割近くが年間150万円以下の金額しか年金をもらっていない。この状況で受給者への給付を削減すると、生活に困窮する人が続出してしまい、生活保護費の増大を招くことはほぼ確実である。

 2019年3月時点で生活保護を受けている人は約210万人だが、このうち55%が高齢者世帯となっている。つまり病気やケガなど不幸にして働けなくなった人を除くと、生活保護は限りなく高齢者ケアの制度に近い。
 国民年金のみに加入している自営業者(フリーランス)の場合、支払う保険料は少ないが、受け取る年金の額も少なく、現時点では毎月6万5000円しか給付されない。(……)

 そうしてthe pillowsを流しながら着替えである。ジャージの上着を脱ぐと丁寧に畳んでベッドの上に置いておき、階段の途中からワイシャツを取ってきて羽織ると、真っ黒なスラックスを履き、濃い水色のネクタイを締めた。さらにベストを身につけて、歯ブラシを咥えて上階に行くと、仏間で靴下を履いた。何か車の音が聞こえたような気がして、ついでに玄関の小窓から外を覗いてみたのだが、車の姿はなく、父親はまだ帰ってきてはいなかった。下階に戻って歯磨きをしながら、山森亮「世界的に注目を集める「ベーシックインカム」その財源の考え方」(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65148)を読んだ。

 たとえば日本の場合、紙幣は中央銀行である日本銀行が、硬貨は造幣局が発行している。もし筆者やあなたが、1万円札を作って流通させたら、それは現行法のもとでは犯罪とされる。
 では政府や中央銀行だけが貨幣をつくっているのだろうか。実は民間の銀行も貨幣を作り出している。銀行は預かっているお金の何倍ものお金を貸し出すことができる。
 いったい預かったお金の何倍まで貸し出せるか、言い方を変えると、銀行は貸し出したお金に対してどのくらいの割合を手元においておく必要があるか、について多くの国で規制がある。
 このような規制を「準備預金制度」といい、日本の場合、現在0.05%〜1.3%。仮に1%だとすれば、銀行はあなたの1万円の預金を元手に、100万円を誰かに貸しつけることができる。
 つまり銀行が融資をすることで、経済に流通する貨幣が増えていく。この過程を経済用語では信用創造というが、英語ではMoney Creationなので直訳すれば貨幣創造である。
 いったん危機が始まって、経済活動が冷え込むと、信用創造の逆で信用収縮がおこる。経済に流通する貨幣の量が一気に減っていく。

 1929年の大恐慌のあとには、そもそも民間銀行が信用創造するような現行の貨幣・銀行システムを変えるべきではないかという提案がなされた。完全準備金制度とか、100%準備金制度と呼ばれる提案だ(山口薫2015『公共貨幣』東洋経済新報社)。
 つまり先ほどの準備金の率を100%まで引き上げるという提案である。この場合、民間銀行は信用創造ができず、信用収縮も起こらないとされる。
この考え方は19世紀前半のイギリスの経済学者デイビッド・リカードまで遡るが、20世紀前半には、貨幣制度のあり方に疑問を抱いたオックスフォード大学の化学者フレデリック・ソディによって、具体的な改革案として提唱された。
 1929年の大恐慌時に、シカゴ大学のフランク・ナイトら8人の経済学者によって「シカゴプラン」として練り上げられ、1933年に政府高官に提案された。またイェール大学の経済学者アービング・フィッシャーも1935年に同様の提案をしている。
 その後も、ミルトン・フリードマンやジェイムズ・トービンなど、著名な経済学者がこの提案を支持してきたし、今回の金融危機後にも、一定の注目を集めた。
 こうした提案のもとでは、政府なり中央銀行(あるいは新たな公的機関)が流通に必要な分だけ貨幣を発行することになる。
こうして発行された貨幣を、ベーシックインカムとして給付したら良いのではないかという考え方がある。イギリスではその考え方を普及させるために活動しているNPOもある。

 そうして洗面所で口を濯ぎ、"その未来は今"を口ずさみながら排便、緑茶を飲むとどうも便通が良くなるようだ。二つあるペーパー・ホルダーのうち、一方のトイレット・ペーパーがなくなったので取り替えようと思ったところが棚にも一つもない。それで出て上階に行き、洗面所からトイレット・ペーパーの未開封の袋をそのまま持って階段を引き返し、八個をトイレのなかに入れておいた。そうして部屋へ戻ると"I Know You"が流れていて、一曲前に戻して"その未来は今"を、目をつぶって身体を揺らしながら歌ったあと、出勤に向かうことにした。"I Know You"のメロディを口笛で吹きながら階段を上がり、引出しからハンカチを取って出発した。雨はほとんど降っていないようだったが、一応傘をひらいて道を行けば、Tさんの家の横に生えた柑橘類が地に落ちて、崩れて中身を撒き散らし、吐瀉物のように道の端を汚していた。大気は涼しく、息が白く曇って宙に浮かぶくらいだ。雨降りではあるものの前日ほどには空は濁らず、黒々と定かな山影が家々の隙間に覗き、さらに進めば公営住宅の棟の上に伸し掛かるように現れた影の、近間の木々と平らかに一つに繋がって、そのために距離感が曖昧で、とても山が南の果てに聳えているとは思えないのだった。
 坂道は暗く、もっと遅い時間に通う帰路よりもかえって暗い気がするのは、下りでなくて上っていくという方向の違いのせいか、それとも労働後の解放感めいたものがないからか。しかし暗い道を街灯が割ってこちらの影はくっきりと濃く、大きく斜めに道を横切って、地に宿って動かぬ木の葉の疎らな影のなかを伸び、突き抜けて、その外は滑らかで硬質な白さを発光させている。
 坂を抜けて駅に入るとホームのベンチには人が二人あって、そのあいだに就いてメモを取っているとまもなく電車がやって来た。車内はがらがらで、容易に座席の端を取ることが出来た。こちらの座った七人掛けの反対側の端には女子中学生が就いており、良くも見なかったが髪の毛を一房編んで側頭部に流していたようだ。青梅に着いてもすぐには降りず、ちょっとメモを続けてから降車した。ベンチに就いて話をしているのは、車内で声を聞いていた際は高校生かと思ったが、降りて見てみれば私服姿なのであるいは大学生か、女性が男性に舞台か何かの話を向けているらしく、電車のなかでどうのこうのとか、パーカッションが云々とか熱心そうに語っていた。学生の姿の多いホームを通り抜け、改札をくぐって駅舎を出ると、モスバーガー閉店時間を確認したのは、今日は母親の帰りが遅いので、一応飯は作ってはあるもののハンバーガーショップで済ませてきてしまおうかと考えていたからだ。閉店は午後一一時だった。この田舎町のことだから一〇時で閉まるのではないかと疑っていたが、意外と長くやっている。
 職場に入って奥のスペースに行くと、チョコあられとかいう菓子が箱に入っており、書置きには(……)さんの母親からと書いてあったところでは彼女は辞めたのだろうか。座ってメモを取っていると今日当たっている(……)くんが背後のトイレから出てきて、わからないところがたくさんあったから、今日は質問攻めですよと言うので笑って了承し、メモ書きをしているうちに準備の時間がやって来たので急いで立ってタイムカードを押した。準備を終えるとふたたびメモに邁進して授業の始まりを待つ。授業前にはいつものように、入口付近で生徒の出迎え見送りをした。(……)さんの父親が傘を差しながら外で娘を待っていて、(……)さんは今日は何故かわからないが授業の終了が遅れているようで時間が掛かっているのに、出ていってちょっと声を掛けた方が良いかと迷ったのだが、雨が降ってもいたし結局掛けなかった。
 そうして授業、当たったのは(……)(高三・英語)に(……)くん(中一・国語)である。(……)くんはテストが終わったのでその次の頁から始めて四頁分二単元、漢字や指示語などについて進めた。テストはあまり良くなかったようで、塾で取っている国語も五一点だったかそのくらいだと言っていた。学校のテストに比べて塾の教材は難易度が低くてあまり練習にならないのかもしれない。野球部の活動の方も大変そうだが、それでも翌日はバッティング・センターに行って個人練習をすると言うから熱心である。
 (……)くんは英文解釈及び和訳を進めた。教材は我が社オリジナルのものだが、色々な構文が登場し、カンマで細かく区切られた長い文などもあって、平均的な高三生のレベルからすると結構難しかったのではないか。志望校を決めたと言うので、ちょっと迷って間を置いてからどこかと尋ねてみると、東洋大学だと言う。過去問を見たかと訊けばまだだと言うので、とにかくなるべく早く出題形式を確認しておいた方が良い、それによって勉強の仕方も変わってくるからだ、例えば自分の場合は志望学部に英作文の問題がなかったので、英作文の練習はまったくしなかったと助言した。ノートに書いてもらったのは色々の語彙と、It is not until ~ thatの構文。
 授業中、近くの席で(……)先生の授業を受けていた(……)樹くんと(……)くんに話しかけて、中間テストの社会の結果はどうだったかと尋ねた。(……)くんは九一点、(……)くんは七十何点かだと言った。(……)くんがそんなに出来るとは思わなかったので少々驚いた。(……)くんはテスト前に増やした社会は一コマ、(……)くんは二コマだったのに彼の方が悪い結果に終わったので、おい、お前、負けてるやんと笑って突っ込むと、でも数学が凄かったんですよと(……)先生が挟んでくるので訊いてみれば、何と一〇〇点だったと言う。マジで? 天才か? やばくない? などと褒めたあと、社会の授業について、まあでも、少しでも助けになったのだとしたら良かったですと締めて自分の授業に戻った。
 そうして授業を終え、片付けを済ませて退勤しようというところで、(……)先生が弟――彼女の弟は塾の生徒である――について、今回のテスト結果が悪かったのだと話をしているのが聞こえたので、(……)先生が奥のスペースにやって来たところで、弟さんのことですかと訊いて、ちょっと話を聞いた。(……)くんには国語の授業で当たることが多く、その時の反応などを見る限り、なかなか出来るような印象だったのだが、姉の話だと結構やばいということで、実際今回の国語のテストも四十点台だか五十点台だかだったと言う。それなのに、やばいと思っていないんですよ、今回は先生が違ったから、問題の出し方が違ってそのせいで取れなかったんだって言い訳をするんですよ、それで親に怒られて、私はそれを横で黙って聞いているって感じです、とのことだったので苦笑を返して、わかりましたと応じた。
 そうして退勤。出る間際、(……)先生が一か月間休みになるとの情報を室長から得た。彼は前職では高校の教師を務めていたのだが、一一月はその旧職場にヘルプに行くのだと言う。そうして出口をくぐろうとしたところで、福生駅は雨漏りが四箇所だって言いますよと室長が振ってきたので、武蔵小杉だかも凄いらしいですよねとこちらは受けると、元社員があのタワー・マンションに住んでいて、三九階に住んでいるけど階段を使っているって、とのことだった。そのあと室長はさらに奥多摩についても言及してくるので、奥多摩もあれですよね、道路が土砂崩れで、とこちらは応じ、そうして退勤した。雨が少々落ちていた。
 モスバーガーに入った。カウンターの向こうに立っていた店員は明るく黄色っぽいような茶髪の若い男性で、おそらく大学生だろう。奥からMNさんが愛想良く挨拶をしてきた。こちらはメニューを見て、チーズバーガーのポテトSセットを注文し、飲み物はジンジャーエールを選ぶと、会計は八二六円である。番号札を受け取って席の方に行き、田舎町の九時半のことなので空いているから、四人掛けの席など一人で広く使おうかと迷ったが、結局カウンターの端に入った。それでメモを取っていると、MNさんがすぐにジンジャーエールを持ってきてくれたので礼を返した。店内の一番奥の席には老人たちの一団があってがやがやとしており、彼らはまもなく退店していったが、その際にもMNさんは愛想良く応対して見送っていた。じきにバーガーがやって来た。なかなか大きい品で、トマトとチーズが挟まってオレンジっぽい色味の赤いソースが掛けられ、そのなかには微塵切りにされた玉ねぎがふんだんに混ぜられている。最初はポテトをつまみながら引き続きメモ書きをしていたのだが、そのうちに、冷めてしまうかとバーガーにかぶりついた。そうするとソースが溢れ落ちて包みのなかに溜まって勿体ないが、バーガーというものを食いつけないので上手い食べ方が出来ないのだ。ナプキンを三枚も使って口の周りや指を拭きながら食べ終えたあとで、包みの奥にたくさん残っているソースを見て、これをポテトにつけて食べれば良いかと解決策を思いつき、そのようにしながらまたメモを取った。傍ら、ジンジャーエールをちびちびと啜る。どこかのタイミングでMNさんに、中学校の同級生のFですと声を掛けてみようかと思っていて、もう時間も遅いし男性店員が退勤しないかと気配を窺っていたところ、それらしき動きが生じて、客もこちら一人でお誂え向き、トレイを返却する時にでも掛けようかと考えたところが、そのうち一人客が入ってきて、これが同僚の店員らしかった。MNさんは先ほども記したように丁寧な仕事ぶりで、だいぶベテランのはずなのでそれも道理だが、自分が直接客の応対をしない時でも必ず、お待たせしましたとかごゆっくりどうぞとか声を放って届けるし、客が帰る時にはトレイはどうぞそのままで、と言いに出てきて、そのまま流れるような動きで入口の脇に移って客を見送るのだった。裏で仕事をしているあいだも、何かを置く時などにちょっと大きな金属音が立つと、失礼致しましたとそのたびに、客はこちらしかいないのに声を出す。一〇時を過ぎてこちらがそろそろ退店しようと立った時にも、腕時計をつけてペンをポケットに仕舞っているあいだに素早く出てきて、トレイはそのまま置いておいてくださいと声を掛けてきて、なかなかに迅速でレベルの高い働き方だった。それで退店に向かい、入口でドアを開けて見送ってくれるMNさんに声を掛けてみようかと思ったのだが、やはり何だか気後れがして、ありがとうございますと言うに留めた。
 駅に入ってホームに上がると、ちょうど奥多摩行きが入線してきたので最後尾の口から乗って席に就き、手帳にメモを書きつけた。電車は遅れていた。八分ほど遅延しているとのことだったが、メモを取っているうちにあっという間に時間は過ぎて、発車した。最寄りに着いて降りると雨がまだ散らばっていたので傘をひらき、駅舎を抜けて横断歩道で止まると、雨は細かい降りだが結構素早く直線的に落ちるもので、やや斜めに流れながら宙を埋め尽くしている。坂道に入り、cero "Yellow Magus (Obscure)"のメロディを口内で微かに鳴らしながら下っていると、ガードレールの向こう、林の闇の奥から沢音がまだ高く立ち昇ってきて、濡れた葉は街灯を照り返して白く艶を乗せている。坂を出て平板な道に入ると頭上から立つ雨音が細かく、あまり固くぱちぱちとは立たず湿って粘度があると言うか液体的で、じゅくじゅくと空間に浸潤するというような風に響いて耳を埋める。
 家に着くと駐車場に父親の車がなく、なかに入っても居間から漏れる明かりが小さいので、母親は風呂に入っているかと思えば食卓灯のみの明かりのもとでソファに就いていた。葱とKMさんの土地の件を伝えて下階へ行き、服を脱いでコンピューターをひらき、LINEにアクセスするとT田からメッセージが入っていて、以前文学好きのおじの話をしたと思うがその人と今日一緒にコンサートに行ったのでそうした話を振ってみたとのことで、古井由吉は昔にいくつか読んで、ムージルヴァージニア・ウルフ積ん読中、そして大学時代には早稲田で後藤明生の指導を受けてフローベールについて論文を書いたと言う。のちほど、マジか、ちょっと羨ましいわと返信を送っておいた。
 上階に行って父親はと訊けば、飲み屋に行っているらしい。せっかく鮭だけでは足りないだろうと炒め物を作っておいたのにと思い、母親がお前が作ったのと言うのに肯定し、帰ってきて食べれば良かったのにと言うので、食べるわと受けて風呂に行った。入浴しながら身体を寝かせて休み、心地良さのなかで散漫に、あちらこちらに思いを巡らせ、しばらく浸かって出てくると、炒め物のフライパンを冷蔵庫から出し、電子レンジで温めた。米もよそって卓に向かい、食ったものの、自分で作った料理は大した味ではなかった。テレビは『ドキュメント72時間』を映していて、シェアオフィスとか書いてあったと思うがどういった場所なのかよくわからなかった。なかに一人、マッサージ師をやっているという男性があり、その人は段々と視野が狭くなっていく目の病気を抱えており、現在は中央の四パーセントくらいしか残っていないと言う。四〇代で病気を発症し、経営していた会社を畳んで国家資格を取ったと言い、人と繋がる、コミュニケーションを取るっていうことは、前の仕事とあまり変わらないかもしれないですねと話し、何々冥利じゃないですけど、と付け加えながら、外連味のない自然にほぐれた表情を浮かべていた。こちらはさっさと食事を終えて、食器を洗って下階に戻るとメモを取ってから、the pillowsのベスト盤をヘッドフォンで聞きながらリチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』の書抜きをした。聞いているとどの曲もギターの歯切れが良くて気持ちが良い。
 その後はNikolai Kapustin『Kapustin Plays Kapustin Vol. 1』を流した。綺羅びやか、とまで言うとちょっと違うが、美しい煌めきを帯びたピアノ演奏で、詳しい知識はないしまったく間違った認識かもしれないけれど、和音の使い方があまり普通のクラシックらしくないように感じられた。滑らかに空間を埋めて怒涛の如く連なるフレーズの流れを追う時の感覚は、ほとんどジャズのものである。リズムがとにかく滅茶苦茶に正確なので、耳にしていて物凄く気持ちが良い。高速の斧で素材を鋭く断ち落とし、ひどく平坦で整然とした断面を生み出すような、切断的[﹅3]と言いたいようなリズム感覚である。
 その後の記録は面倒臭くなったので割愛。


・作文
 13:26 - 14:41 = 1時間15分
 15:58 - 16:33 = 35分
 16:56 - 17:16 = 20分
 24:31 - 27:10 = 2時間39分
 計: 4時間49分

・読書
 15:06 - 15:58 = 52分
 18:10 - 18:21 = 11分
 18:27 - 18:35 = 8分
 23:39 - 24:11 = 32分
 27:39 - 28:30 = 51分
 計: 2時間34分

・睡眠
 4:30 - 12:30 = 8時間

・音楽