2019/10/19, Sat.

 (……)[ナイジェル・]ファラージ[イギリス独立党の党首]は自分の力でブレグジットBrexit)を成し遂げたわけではない。「離脱」を現実のものにするには、ボリス・ジョンソンやマイケル・ゴーヴのような保守党の協力者が必要だった――そして、おそらく後者が他の誰よりも重要だった。結局のところジョンソンはいくぶんエキセントリックなキャラクターだと考えられた一方で、ゴーヴは政府内の聡明な有力者だと見なされていた彼は教育大臣[在任二〇一〇~一四年]で司法大臣[在任二〇一五~一六年]だった)。そのゴーヴが市民に専門家を信頼すべきではないと語ったことは、重要な意味をもったのである――そもそもゴーヴ自身が専門家だったのだが。さらに重要なことに、単にブレグジットは、虐げられた者の反エスタブリッシュメント感情が自然に溢れた結果というわけではない。かつては保守党内で周辺的な立場だった欧州懐疑主義が、タブロイド紙や政治家によって数十年にわたって育まれていたのである。また、デイヴィッド・キャメロン[英首相、在任二〇一〇~一六年]は、EU離脱を信じていなかったにもかかわらず、日和見主義的な理由から、いかにブリュッセルが悪なのかについての月並みな主張を繰り返し続けた。
 同じような議論は、大西洋の反対側にも当てはまる。トランプは、第三党のポピュリスト運動から出たアウトサイダーの候補者として勝利したのではない。ファラージにジョンソンやゴーヴがいたように、トランプは、(もう一人の本物の保守的知識人である)ニュート・ギングリッチクリス・クリスティ、ルディ・ジュリアーニのような、共和党エスタブリッシュメントの支持を当てにすることができた。確かに、共和党の指導者たちは、この不動産開発業者の台頭に反対した。しかし、党は決して彼を否認しなかった。こうして、政党帰属は、選挙結果を説明するにあたって最も重要な要因であり続けている。つまり、共和党支持者の九〇パーセントが、トランプに投票したのである。それに加えて、かつてビジネスマンから救国者に転身したロス・ペローのような人物(彼が[共和党でも民主党でもない]独立候補だったことは、一九九二年のビル・クリントンの勝利を助けた)に投票したアメリカ人のように、一部の人びとがトランプに投票したのだと指摘するのは、おかしなことではない。端的に言えば、共和党なしでは、トランプは大統領になれなかったのである。
 (ヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』岩波書店、二〇一七年、ⅷ~ⅹ; 「日本語版への序文」)

     *

 二〇一五年から一六年にかけて展開されたアメリカ大統領選キャンペーンほど、「ポピュリズム」という呪文が頻繁に登場したものは記憶にない。ドナルド・トランプも、バーニー・サンダースも、「ポピュリスト」というレッテルを貼られた。この言葉はたいてい「反エスタブリッシュメント」の同義語として用いられ、特定の政治理念とは無関係のように見える。態度は注目されるが、中身は全く重要でないように見える。それゆえ、この言葉はまた、何よりも特定のムードや感情と結びつけられる。たとえば、ポピュリストは「怒って」おり、彼らに投票する者は「不満がたまっている」、あるいは「憤懣」に苦しんでいる、というように。同様の主張は、ヨーロッパの政治指導者やその支持者たちについてもなされる。たとえば、マリーヌ・ル・ペンとヘールト・ウィルデルス[オランダの自由党党首]は、ともにポピュリストとして紹介される。どちらの政治家も、明白に右に位置している。しかし、サンダース現象と同様、[ヨーロッパの]左翼の反乱者たちもまた、ポピュリストのレッテルを貼られている。ギリシャには二〇一五年一月に政権を握った左翼の連合シリザがあり、スペインにはユーロ危機をめぐるアンゲラ・メルケルの緊縮政策に対してシリザとともに徹底的に反対したポデモスがある。どちらも――とくにポデモスは――、ラテンアメリカの「ピンク・タイド(pink tide)」と総称されるもの、すなわちラファエル・コレアエクアドルの大統領]、エボ・モラレスボリビアの大統領]、そしてとりわけウゴ・チャベスのようなポピュリスト指導者の成功に刺激を受けたと主張している。
 (2~3)


 昨晩は眠る前から固めの頭痛が生じていて、この朝覚めてもそれが解消されていなかったので、切れ切れの眠りから浮上するたびにもう少し眠ろうと動かずふたたび夢のなかに沈んでいって、おそらく九時か一〇時頃になってようやく頭痛は消えたと思うのだが、結局それからも起き上がれずに一一時半を迎えた。今日も今日とて窓外は白いのだが、雲は前日前々日よりは薄く弱いようで、太陽の光がある程度通って寝起きの瞳に眩しかった。ベッドを抜けるとコンピューターを点けてTwitterを眺めたり、前日の日課の記録を完成させたりする。寝床にいたあいだから上階からは両親が話している声が聞こえていて、その後、しゅわしゅわと泡が立つような音も届いてきたので、どうやら天麩羅を揚げているのではないか。この日の記事を作成し、冒頭に ヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』からの引用を付しておくと、上階に行った。やはり天麩羅が拵えられていたのだが、揚げているのは母親ではなく、トレーナーの上にエプロンをつけた父親だった。こうして休日に自ら家事を手伝っているところを見ると、父親も身の処し方というものを彼なりに考えてくれているのかもしれないという気は一応する。テーブル上には既にうどんが三人分に分けて用意されてあった。台所でガス台の前に立ち、搔き揚げを持ち上げている父親におはようと低い声で挨拶し、洗面所に入って顔を洗って髪に櫛を通した。それから食事の前に風呂洗いを済ませてしまうことにして浴室に踏み入り、浴槽のなかに入りこんで内壁を擦っていたところ、父親が、あとで洗うからいいよと声を掛けてきたものの、二重に洗って悪いことはあるまいというわけで自分の仕事を最後まで済ませ、そうして室を出て、台所で麺つゆを用意した。卓に就いて三人揃って食事開始である。前日に家の前に置かれてあった葱は、結局誰が持ってきたのかわからないと言う。昨日は伝えていなかったが、葱を発見した時に向かいの家に軽トラックで誰かが来ていたこと、もしかしたらその人が持ってきたのかもしれないが暗くて誰だかわからなかったこと、しかしこんばんはと挨拶しても葱について言及がなかったので可能性としては低いことなどを話した。あるいはシルバー人材センターの人から土地を下見に行ったと連絡を受けたKMさんが、彼らが車を置くのに我が家が敷地を提供するということなどを聞き知って、それで持ってきたのだろうかという可能性も考えたのだが、母親によればKMさんの宅には畑がないからその線はないと言う。葱は泥がついていたから、おそらく自家の畑から直接取ったものだろう。KMさんという語を出すと向かいの父親が、そう言えばKMさんの土地がどうとか書いてあったなと話を向けるので、シルバー人材センターの人が来て土地を案内した、車を置かせてもらいたいとのことだったと伝達した。その後、今日は仕事だ、二時過ぎには出なくてはならないと伝えると、両親もその辺りで買い物に行くから乗って行ったらと言うが、こちらとしてはどちらでも良い。買い物のあとに見舞いにも行くのと母親が尋ねるので、見舞いとは何かと訊けば、S田さんと言って、自治会の仲間が大腿骨を折って入院しているのだと言う。家はどこかと訊いてみると、駅の傍に踏切りがある、そこを渡った先で右方に線路沿いを上っていく道があってその辺りだと言うので、あそこかと頭のなかで場所を描く。そのS田さんは、奥さんと一緒に家から道を下りていたところ、蛇が出て、奥さんがそれに驚いてのけぞったところに後ろには旦那さんがいて、押し倒されるようになって骨を折ったのだとそういうことだった。
 父親が最初に飯を食い終わって台所に立ち、皿を洗った。そのあいだこちらは新聞を引き寄せてひらき、トルコ・クルド・米国関係の記事を流し読みする。米国とトルコのあいだで五日間の攻撃停止が合意され、安全地帯も設けることになってクルド側もそれに従う方針のようだが、トルコ側の言い分がほとんど完全に受け入れられることになった結果に、米国内ではドナルド・トランプエルドアン大統領に全面降伏したと、そのような声が聞かれて止まないらしい。その記事だけ短く読むと父親と入れ替わりに台所に入り、母親の分もまとめて食器を洗って、その後緑茶を用意して自室に帰り、FISHMANS『Oh! Mountain』を久しぶりに流し出して、早速ここまで日記を綴れば一二時四七分に至っている。"感謝(驚)"が始まったところだ。
 一年前の日記。記事冒頭に付された書抜きは、サルトルの書簡からカロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』に移っている。当時はあまり頭が働いていなかったので、この本も今読めば色々と新たに気づくこともあるだろう。

 ときに私は、彼らをうらやむべきだろうかと考える。ときに、どうしてだろうと考える――どうしてあんなふうに憎むことができるのだろうと。どうしてあれほど確信が持てるのだろうと。そう、なにかを憎む者は、確信を持っていなければならない。でなければ、あんなふうに話し、あんなふうに傷つけ、あんなふうに殺すことなどできない。あんなふうに他者を見下し、貶め、攻撃することなどできない。憎む者は、確信を持っていなければならない。一片の疑念もなく。憎しみに疑念を抱きながらでは、憎むことなどできない。疑念を抱きながらでは、あんなふうに我を忘れて憤慨することなどできない。憎むためには、完全な確信が必要なのだ。「もしかしたら」と考えてはならない。「あるいは」と考えてしまえば、それが憎しみのなかに浸透し、よどみなく流れるべき憎しみのエネルギーをせき止めてしまう。
 憎しみとは不明瞭なものだ。明瞭にものを見ようとすれば、うまく憎むことができなくなる。優しい気持ちが入り込み、よりよく見てみよう、よく耳を傾けてみようという意志が生まれる。ひとりひとりの人間を、その多様で矛盾した特徴や傾向まで含めて、生きた人間として認識するための差異が生まれる。だが、一度輪郭がぼかされ、一度個人が個人として認識不能になれば、残るのはただ憎しみの対象としての漠然とした集団のみであり、そんな集団のことなら、好きなように誹謗し、貶め、怒鳴りつけ、暴れることができる。「ユダヤ人」「女性」「信仰のない者」「黒人」「レズビアン」「難民」「イスラム教徒」、または「アメリカ合衆国」「政治家」「西側諸国」「警官」「メディア」「知識人」。憎しみの対象は、恣意的に作り出される。憎むのに都合よく。
 (カロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』みすず書房、二〇一八年、9~10; 「はじめに」)

 日記本文は相変わらず短く、ほとんど一言しか書かれていない。この日はのちに「G」と名付けられるグループのメンバーたちとT田の家に集まっていて、ここでKくんと初めて顔を合わせている。特に初対面の印象などは記されていないが、彼とこちらが同じ真っ赤なユニクロの靴下を履いていたことを覚えている。また、この時確か初めて"K"を聞かせてもらったはずで、間奏のおもちゃの兵隊の行進的なベースの動きを聞いた瞬間に、プログレみたいだなと思わず笑ってしまった覚えもある。聞き終えたあとは、さすがT田だと言わざるを得ない、という評を述べたはずだ。
 続いて二〇一四年一月二〇日。父親の「乾いた咳自体はもうずいぶんと以前から聞いているような気がして風邪ではないなにか別の病気なのではないかと懸念を抱えながら疑っている」とあるが、最近になってもこの引きつるような空咳は続いていて、こんなに長く続いているとは、本当に慢性肺炎か何かではないのだろうかと思う。また、「いつだったか兄が送ってきたメールのなかで、一生を費やしてもわれわれは世界のうちの一パーセントでも知ることはできないのだろうと書いていたことはまったく真実に他ならなかった」とあるが、これはその通りである。「くり返される日々が平板すぎて、一か月という客観的な時間のイメージと主観的な記憶の距離が一致しないのかもしれなかった。一日に厚みというものがもしあるとしたら、今やその幅は着々と小さくなりつつあり、一週間前も一か月前もほとんど同じように稀釈された薄い記憶としてしか感じられなかった」とも。
 それからfuzkue「読書日記」を一日分読んだあと、「外山恒一連続インタビューシリーズ 「日本学生運動史」① もうひとつの〝東大闘争〟 「東大反百年闘争」の当事者のひとり・森田暁氏に聞く」(https://dokushojin.com/article.html?i=5456)をひらいた。「週刊読書人」からの記事は、今後毎日このシリーズを読んでいくつもりだ。しかし、まずもって学生運動とか新左翼運動とかに詳しくないので、「革マル派」「中核派」「ML派」など、呼称を聞いたことはあるものの、それぞれどう違うのかまったくわからない。それで、とても充分とは言えないものの、ひとまずはウィキペディア記事に全面的に頼ることにするが、まず「革マル派」は「日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」の略だと言う。黒田寛一という人が指導者だったようで、この名前は一応耳にしたことがある。と言うのは、書店でも『黒田寛一読書ノート』とかいうような本が売り出されているのを見たことがあるからだ。革マル派は、思想的には彼の「反帝国主義反スターリン主義」に基本的に依拠しているようで、それはウィキペディア記事では次のように整理されている。

 1968年の書籍『新版・日本の戦闘的左翼』によると、「反帝・反スターリン主義世界革命」の主張は以下に要約できる[8]。

 1. 現代世界の階級関係は、単に資本主義的な階級関係だけではなく、国際共産主義運動の腐敗も「規定的な要因」である。
 2. ソ連社会はスターリン主義の本質である一国社会主義論による過渡的な官僚主義的疎外形態である。
 3. この階級関係が現存する限り、革命の疎外者・抑圧者としてあらわれるスターリニスト党組織との闘争はプロレタリア革命完遂に不可欠である。
 4. 資本主義国における革命の打倒対象は資本制国家権力だが、同時にスターリニスト党組織の粉砕なくしては実現できない。
 5. 「反帝・反スターリン主義」は現代の最も普遍的な革命戦略であり、世界革命の一環としての日本革命も「反帝・反スターリン主義」の革命戦略でなければならない。

 「中核派」は「革命的共産主義者同盟全国委員会」の略らしい。一九五七年に「革命的共産主義者同盟」、通称「革共同」が結成されたのだが、その後様々な分裂や離脱を経て残った全国委員会が「中核派」となったということだ。ウィキペディア記事では、その概要は、「「反帝国主義反スターリン主義の旗のもと万国の労働者団結せよ!」をメインスローガンに、世界共産主義革命の一環としての日本共産主義革命を掲げ、その革命は暴力革命で、樹立すべき政権はプロレタリア独裁であるとする。この「反帝国主義反スターリン主義」では、「真の共産主義の実現のため資本主義国家の転覆(反帝国主義)」とともに、ソビエト連邦中華人民共和国などの既存の社会主義国を、世界革命を放棄し、帝国主義との平和共存政策を基調とするスターリン主義と規定し打倒対象とする。朝鮮労働党日本共産党スターリン主義と規定し打倒対象とする」と説明されており、「反帝国主義反スターリン主義」というスローガンは「革マル派」とも一致しているのだが、両者の差異についてウィキペディアでは、「革マル派中核派に対して、「反帝・反スターリン主義」は「論理的に同時的な戦略」であるのに、これを地理的・時間的に切り離す(反帝を優先する)という原則的な誤りに陥っており、また戦術も大衆運動主義への堕落であり、「街頭行動主義」の「自己目的化」という小ブル急進主義への転落、と批判する。これに対して中核派革マル派に対し、「反帝・反スターリン主義」の綱領を、閉鎖社会的に経文化する「反動的ドグマ化」に陥っており、階級運動との生きた交流を自己切断する誤りを体質化させている、と反論する」と解説されている。
 そのほかにも色々な学生運動新左翼運動関連の団体名が出てきたのだが、いちいち調べるのが面倒臭くなったのでひとまず気にせずに読み進めていくことにした。以下はインタビューからの引用である。

森田  先輩というのがほんとにヘンな奴で、自分は青年インターにいるのに、(中核・革マルと同様に第四インターも元を辿ればそこから分岐した)革共同がとにかく好きで、集会では中核派、寮では革マル派の連中と付き合ってるんですよ(笑)。ぼくは中核派の集会には行かなくて、同じ日に大学のセミナーハウスで開かれてた吉本隆明の講演会に行ったりしてたんですけど、ここらへんはいかにも当時の話っぽいでしょ(笑)。それにしても吉本さんは、あの頃ほんとに人気があったよね。超満員でしたよ。……ともかく、それからしばらくして、六月一五日の〝全国全共闘崩壊〟があるわけです。それはぼくも当日、行ってたんです。崩壊の瞬間は見てないんですけど、その直前まではぼくも現場にいました。六月一五日の明治公園で、解放派が演壇を占拠したっていう、その、解放派が登場するところまではぼくも見たんだよな。その後、それに対して中核派がぶつかって行って、全国全共闘っていう党派共闘は崩壊することになるわけです。つまりいわゆる〝六八、六九年〟的なものというのは、七一年六月一五日でいったんご破算になるんですね。

森田  (……)いま話したように、七一年の秋というのはずっと〝沖縄闘争〟で、しかし沖縄返還協定が発効して実際に沖縄が日本に返還されるのは翌七二年の五月だとはいえ、国会での論戦とか、いろんな〝決戦〟はもう七一年中に終わっちゃうでしょ。そこでなぜか学内の世の中では〝学費〟が焦点になってきて……当時の学費ってのは、大変なもんですよ。まったくヒドい話で、ぼくなんか落第して東大に九年間もいたわけですけど、その全部の学費の合計一〇万円なんですから(笑)。正確には一〇万八千円かな。だって月千円なんだもん。年間一万二千円ですよ。当時は高校の授業料が月に三千六百円とかだったんじゃないでしょうかね。

外山  東大のほうがずっと安いんだ(笑)。

森田  三分の一以下ですよ。だから東大の学費も三倍にするという話で……。

外山  せめて高校に準じるぐらいのレベルに、と(笑)。

 流していた音楽はFISHMANS『ORANGE』、一時四〇分に読了してEvernoteに記事をコピー&ペーストしておくと、便所に行って排便し、歯磨きは記事を読んでいるあいだにもう済ませていたので、次に行った行動は着替えである。"MY LIFE"が流れるなかでジャージを脱ぎ、ワイシャツを取りに階を上がった。ベランダの前の物干しに掛かっていた薄水色のワイシャツを取り、羽織りながら階段を下って、スラックスは灰色の、父親に借りているサイズの幾分緩い方ではなくて自分のものをつけ、ネクタイも色味は服よりやや明るめだが同じ灰色のものを締めた。そうして"MELODY"に乗って揺れながらベストを着用し、廊下の鏡の前でボタンを留めて身仕舞いを見て、問題なく調っていることを確認すると、日記を書き足した。二時を回るまで書き綴り、現在時には僅かに追いつけないままに切りとして、バッグを持って上階へ、母親はソファに凭れ掛かっており、父親は休んでいたらしく今しがた起きたばかりだと言う。買い物のついでに送ってくれるようなことを言っていたが、両親が出るまでもう少し掛かりそうだったし、別にそこまで求めてもいなかったので、自分で歩いていくことにした。頭が重く、身体は微熱のような感覚を帯びており、「シャンビリ」と呼ばれる例の、こちらは耳鳴りはないので「シャン」は余計だが、頭のなかを走る電流のようなノイズがたびたび生じていた。それで、夜更かしをしすぎたか、それとも茶を飲みすぎたかと訝ったのだが、じきにこれは多分セルトラリンを飲まなかったためだなの離脱症状だなと思い当たった。昨晩はモス・バーガーで外食したから摂らなかったし、一昨日の夜も確か飲み忘れたような気がしたのだ。それでセルトラリンとアリピプラゾールを一錠ずつ服用しておき、そうして、じゃあ行くんで、と両親に告げて出発した。
 雨が降ってきそうな灰色混じりの空気だったが、傘は持たなかった。気温はベストを羽織ってちょうど良いくらいの涼しさだった。頭の重さと電流的ノイズを感じながら坂を上っていくと、出口が近くなって前方に老人の後ろ姿が現れて、抜けて平らな道に出てから、何をしていたものなのか、振り向いて戻りはじめたので会釈を送り、こんにちはと挨拶すると向こうも、ちは、と短く返してくる。この人はYNさんという人で、坂の途中の家に住んでいる。母親は彼のことを「顔の怖いおじさん」と呼ぶのだが、確かにこの老人の顔は四角く広く角張っていて、表情も怒っているわけでないと思うが固いもので、下の名前は知らないがまさしく「巌」という語が似合うような風貌をしており、『ポケット・モンスター』にイシツブテという岩ポケモンがいると思うが、あのような感じだ。その人とすれ違って街道に向かいながら、視線を動かしてノイズの発生条件を探った。やはり左右に目を振った際に電気が流れるようで、視線を動かすスピードや範囲はあまり関係ないらしく、一気に大きく素早く動かしてもゆっくり細かく動かしても生じる。縦方向への動きの時にはまったく発生しないのが不思議である。外を歩いていれば視線は自然とあちらこちらに移るから、そのたびにピリピリとノイズが走るのが、痛くはないけれどまことに鬱陶しい。それでも空に目をやれば、全面なだらかに白く均されたなかにところどころ灰色が濃く蟠っている淵があって、あるかなしかの畝を作っているのが見て取れる。
 街道を行って老人ホームの前に掛かると、建物の脇に立った木の葉がワインレッドに染まっている。これは何の木だったか、桜だったか、しかしそれにしては自宅近くの小公園の桜とは趣が違うようだが、と疑問のなかに過ぎて、裏道に入って行けば一軒の前に、同じくワインに浸けられたような幾分褪せた赤の葉を、羽を休める蝙蝠の群れのように垂らしている木があって、これは確かハナミズキだったな、とすると先ほどの木もそうかと思い当たった。そこを過ぎて行けば風が、前から緩く流れてきて、歩いているとやはり薄く湧く汗を冷やして肌を涼める。鴉が電柱のてっぺんに一匹佇んで鳴き声を放っていたが、近くに仲間の姿もなくて、それに応じる声もなく、孤独な鳴きのなかに入ってくるのはアオマツムシの音や雀の声のみ、虫の音は九月に比べてよほど静かになったが耳を澄ませば林の方から、色々と弱く立って漂う。
 歩きながら散漫な思念を回していたところにふと、生のなかに無駄な時間がないというのがこちらの「信仰」であり、少なくともそうした境地に至りたいと思って日々を生きているものだが、無駄な時間がないということは、どんなにささやかなものであれまったく無価値な知覚や思考はないということではないかと思い当たった。文章化、言語化を目的とした観点のなかで考えると、我々が瞬間ごとに取り入れているほとんどの情報は素材にならず、言語の枠から取り零されるから、言わばそれは無価値な「ゴミ」のようなものである。しかし、その「ゴミ」のなかにこそ何か大切なものが含まれているのではないか。と言ってその具体的な内実はまだわからないのだが、しかしこのような文脈で思い出される名前として、こちらが敬愛してその写真をTwitterなどのアイコンにもしているローベルト・ヴァルザーという作家がある。彼は終生、小さなもの、瑣末なものに目を向け続けた。W. G. ゼーバルトがエッセイ集『鄙の宿』にて紹介していたヴァルザーの振舞いを想起しよう。

 ……しかしヴァルザーが完璧な同一化と共感によってそれらに魂を吹き込む手つきからは、感情はもっとも瑣末なものに表現されたときにおそらくもっとも深い、ということが図らずもわかる。「じっさい」とヴァルザーは灰について書いている、「こんな一見なんの面白味もなさそうな物についても、ほんの少し深く入り込んでみれば、面白くなくもないことが結構あれこれ言えるのだ。たとえばこんなこと――灰に息を吹きかけると、灰はこれっぽっちも抗わないで、一瞬にして四方へ飛び散る。灰は謙[へりくだ]りであり、取るに足りなさであり、無価値そのものであり、そしてなにがいちばん素敵かって言って、灰は自分がてんで役立たずだという想いにとことん浸っているのだ。灰くらい正体がなく軟弱で情けないことなんてあるだろうか? めったにあるまい。灰ぐらい言いなりになりやすくなんでも辛抱する物があるだろうか? ほとんどない。灰には個性というものがなく、灰と各種の木材とは、失意と傲慢よりかもっと距たっている。灰のあるところ、じつはなにもない。灰に足を載せてみよ、なにかを踏んだ感じすら起きないだろう」。……
 (W. G. ゼーバルト/鈴木仁子訳『鄙の宿』白水社、2014年、135~136)

 このstand byの姿勢、小さなものに注視し、それを拾い上げ、そのそばにつく[﹅5]――小さなものの「側[がわ]に立つ」、のではない――態度、ここでのこちらの思考は、ヴァルザーのそうした身の振り方と結びつくものだろう。また、ダダイズムにも、ゴミを集めて作品制作をした作家がいなかったか? そう思いながらもこの出勤路ではそれについて細かなことが思い出せなかったのだが、今しがた調べてみると、どうもそれはクルト・シュヴィッタース(Kurt Schwitters)という作家のようで、この人は「メルツ絵画」と言って、偶然見つけたゴミや物品の端切れの類を利用した作品を拵えたらしいが、「メルツ」という語の由来としては、ウィキペディア記事によれば次のような挿話が紹介されている。「1919年頃までシュヴィッタース表現主義の作品制作を続けていたが(一方で写実主義の絵画作品も没するまで制作し続ける)、特に[ハンス(ジャン)・]アルプの作品に影響された抽象的なコラージュが1918年の暮れには制作されている。この作品を作る際、彼が目をとめた紙の破片に書かれていた「メルツ」の文字(「Commerz Und Privatbank」という銀行名のうちの「merz」の部分)から、彼はこの作品に『メルツ絵画』(Das Merzbild)と題を付けた」(https://ja.wikipedia.org/wiki/クルト・シュヴィッタース)。シュヴィッタースは絵画のほかにも、インスタレーションの先駆けのようなものとして「メルツ建築」というものも造ったと言い、これをドイツ語で言うと「メルツバウMerzbau)」、メルツバウと言えばノイズ・ミュージックの大御所的な存在だったはずで、ノイズには詳しくないので名前しか知らなかったが、検索してみるとこの名は秋田昌美という人の活動名義で、名前の由来は勿論上記シュヴィッタースの造語だと言う。
 一見ゴミとしか思われないようなものを拾い上げ、違う文脈のなかに投げ入れ、意味の秩序を再組織化するというのが芸術家と呼ばれる人々の仕事の一種としてあると思うのだが、それはつまり言ってみれば「再編」、あるいは「再生」の仕事であり、もっと平たく言えば「リサイクル」である。ヴァルザーもおそらくある種それをやっていると思われ、自分の目指す方向性としても一つにはそうした試みがあるのかもしれないが、しかしこれは、要はどんな事物であってもどのような瞬間であっても潜在的に書く価値を孕み持っているという例の、平等主義的「信仰」をちょっと組み替えた別の言い方で反復しているに過ぎないとも考えられる。そこからもう一つ次の段階に進まなくてはならないのだが、しかしそれがまだ上手く見えてこない――と考えていると、頭のなかにthe pillowsの"FLAG STAR"の冒頭、「生きてることにもう疲れ切ってしまった/君は心が剝がれ落ちた人形」というフレーズが流れ出してきて、思考は一時中断された。続いて"アナザーモーニング"も脳内に聞きながら間道を進み、駅前に出るとふたたび思考が回帰してきて、横断歩道を渡りながら上の平等主義について考えたことに、こちらの「信仰」は、あらゆるものはそれ固有の価値を持っていて平等に大切なのだ、と読み替えられてしまうかもしれないが、そうしたことを言いたいわけでもないのだよなと思った。それは無論、大事な考え方かもしれないが、そのような非常にわかりやすく、理想的な大きな物語につきたいわけではないのだ。それではどういうことなのか? 「有益/無価値」という二項対立の図式、そうした価値観の形式そのものの外部に脱出したいということか? 「有益」も「無駄」も双方ともに消滅してしまうような、価値の無効化。以前はそのような観点を書き記していたのだが、段々それもあまり有効性のない、ありきたりの考え方であるような気がしてきた。上のような平等主義、相対性の極致に留まることは現実には出来ないだろう。その超越的な徹底性を経由[﹅2]した上でふたたび現世的な領域に降りてこなければならないと考えるところ、ただ、その経由[﹅2]、あるいは迂回[﹅2]がおそらく極めて重要で、それがあるとないとでは物事が相当に変わってくるように予測しているのだが、しかしどんな風に変わってくるのか、その点は具体的にはわからない。
 ――とまあ、そのくらいまで考えたところで職場に着いた。生徒がちょうど入ったところで入口の扉はひらいており、室長が座席表の前で男子生徒を案内していた。どうやら新入会生らしく、そう言えば前日に室長が、明日は体験授業があると言っていたのだった。こちらの相手は(……)さん(小五・国語)と(……)くん(小六・国語)である。(……)も自習をしていたので横を通りがてら挨拶をして、奥のスペースでロッカーにバッグを収めた。体験授業の男子生徒は(……)くんという名前で、彼を担当したのは確か羽村からヘルプに来てくれた女性の講師で、(……)という名前の人だったと思う。近くに寄って行くとあちらから挨拶をしてきたが、こちらはそれにお疲れさまですと応じるのに留まって、名を名乗るのを忘れてしまった。
 授業の準備をしたあと、自習席に就いて手帳にメモを取っていたのだが、そのあいだ、(……)先生は(……)くんと話して彼の情報を色々と聞き出していた。得意教科、好きな教科、嫌いな教科、部活動などについてである。その話しぶりはなかなかに滑らかで、コミュニケーション能力は高い方だと言って良いように思われ、どうも結構なベテランなのではないかと推測された。体験授業を下手な講師に任せるわけには行かないから、そのような人が手伝いに来たのも道理だ。ただ、話し方には結構抑揚があって、わざとらしいと言うか芝居がかっているようなニュアンスも僅かに聞き取られはした。
 メモを取っているとチャイムが鳴ったので自分の担当するスペースに向かい、号令を掛けて授業を始めた。(……)くんを相手に扱ったのは物語文の読解、エッセイ風の文章の読解、それに言葉の知識の問題である。全体的にはそこそこの出来だが、結構手を止めている時間がある。問題がわからないわけではなく、ただ単に休んで手遊びをしているような様子で、こちらが近くに行くとまたやり出すのだが、こちらは速くやれと急かすのが好きでないので本人のペースに任せた。言葉の意味の問題を二問、間違えたので、ノートにはその二語、「混ぜ返す」と「高をくくる」という表現の意味合いを記してもらった。
 (……)さんは風邪を引いているようだったので、終盤に風邪を引いているのと訊いて、お大事にしてくださいと心遣いの言葉を掛け、病院には行って薬も飲んでいると言うので、それなら多分大丈夫だろうと落とした。扱ったのは物語分の読解に、文節や主述などの文法事項。後者に関しては文節の分け方以外はすべて正解できていたので問題なさそうだ。前者の問題のなかに含まれていた指示語や接続語に関して重点的に確認し、ノートにも指示語の内容を訊かれる問いの解き方について書いてもらった。
 授業後、(……)先生と話してみようと思っていた。なかなかのベテランなのではないかというこちらの推測を確認してみたかったし、羽村教室はまた(……)さん、こちらが大学生の頃に今の職場に入ってきた際に室長だった人が今教室長を務めているので、彼によろしくとも伝えておきたかったのだ。しかし、こちらが入口のところで生徒の見送りをしているあいだに(……)先生は片付けを済ませロッカーから荷物を取り出し、実に速やかに退勤に向かってしまったので、お疲れさまですと交わして、彼女が入口を出る際にありがとうございましたと礼の挨拶を掛けるに留まった。
 その後、自習していた(……)くんと日本史の勉強の進め方などについて色々と話をした。今は実況中継をメイン教材として大まかな歴史の流れを頭に入れていると言うので、こちらが現役の時にはとにかく一問一答を使って知識を固めたと紹介し、一問一答の方をメイン教材として、実況中継は事柄の繋がりを理解したり細かいところを噛み砕いたりするために補完的に用いるのが良いのではないかと提案したのだが、彼としては実況中継の方が頭に入りやすいと言う。それならこちらのやり方を無理に押し付けるまいと退いて、しかしいずれにせよ、昨日も言ったことだが、なるべく早く過去問を見て問題形式を確認しなければならないと強調した。記述問題があるかないかによって勉強の仕方はかなり変わってくるだろうし、また極端な話、選択問題だけで語句を書かせる問いがないのだったら、正確な漢字を書けるようにするための労力も省けると説明し、英語にしてもそうだがとにかく過去問を早急に確認してそれに適した勉強の仕方を作れとその点繰り返した。そして、差し当たりの進め方として、一問一答で補完しながら実況中継で事件の繋がりや大まかな展開をさらい、さっさと問題を解く段階に入らないといけないと言うと、問題を解く、と聞き返してくるので、実況中継では知識を覚える段階までしか到達できない、やはりそれを問いに応じて引き出せるようにしなければならないからと補足し、ただ残りの時間もあまりないので問題集は一つに絞った方が良いだろう、大まかな流れを頭に入れて、あとはそれを解きまくる段階になるべく早く入ることだと助言して、ただ問題集を選ぶにも結局過去問を確認しないといけないからと最後はまたそこに戻って落とした。
 そうして話を終えるとロッカーからバッグを取り出し、自習席に戻った(……)くんに、じゃあ俺は帰るんで、と声を掛け、お疲れさまですと同僚に向けるかの如く挨拶をして、入口まで行くと靴を履き替え扉をひらいて、振り向いて教室内にもう一度お疲れさまですと声を放りながら礼をして、それで退勤した。午後五時の空気は灰色とも煤煙色ともつかず、青さもあまり含まれていない、粘土のような妙な色にくすんでいた。駅に入ってホームに上ると例によって自販機でコーラを買い、ベンチに就いたところ、腰を下ろす際に二席横の男性が何やらこちらをやたらと注視してくるようだったのだが、こちらから目は合わせなかった。腕置きの上にペットボトルを蓋を開けたままで置き、ちびちびと飲みつつ手帳にメモを書きつけた。奥多摩行きが来ると乗客がすべて吐き出されるのを待ってから立ち上がり、後ろから二両目の最後尾、三人掛けの席に入った。引き続きメモを取っているうちに発車と到着がやって来て、現在時には追いつけず、往路の思考の途中まで書いたところで最寄り駅に降りた。しかしこのメモも考えものだと言うか、外出時にメモを取る習慣にしてしまったため、手帳に記してある本からの書抜きを読むということが出来なくなってしまったのだ。メモに充てる時間を減らすか、あるいは家で手帳を読む習慣をつけるかのどちらかの選択が必要だろう。
 階段を上りながら視線の先に覗く空の、一面雲に閉ざされたその裏に、あるいはなかに、青紫色がほんの幽かに、しかし確かに混ざっている。階段通路を行きながらふたたび往路の最後の地点に思考が戻って、平等主義と言ってしかし、あらゆるものや人間は等し並に大事なのだということを言いたいわけではないのだよなと、同じ述懐を繰り返した。それはすべての人は生まれながらに自由を持っているという人権の普遍性の観念や、全人間は掛け替えのない唯一の存在であって生命はどんな人間のものでも大切なのだというような、非常に理想的な道徳観と結びつく考え方だが、上にも書いた通り、そのようなとても綺麗でわかりやすい物語を擁護したいわけではない。しかし、それでは何なのかというそこがわからないので、駅舎を出て坂を下りながらまた考えたことに、「有益/無価値」の対立にまつわって選択可能ないくつかの姿勢があるだろう。一つには上にも書いたような、「有益/無価値」の二項対立そのものを無効化し、破壊し、消滅させてその外部に抜け出るという路線で、言わばこれは脱構築モデルと呼ぶことが出来るだろう。以前はこれを目指すべきだと考えていたのだが、それもありきたりな戦略のような気がしてきたというのは先にも記した通りである。もう一つには、全事物は一義的に平等なわけではないが、しかしどのようなものであれ潜在的な価値を持っていることは確かであり、未だ現勢化されていないその価値を掘り起こしていくことが作家の仕事だと考える立場で、ここでは蓮實重彦が自分の批評手法について述べていた言葉、微睡みのなかにある記号に触れてそれを活性化させ、輝かせるみたいな説明を思い出すものだが、これは言わば往路でも考えた「再編・再生」のモデルだということになるだろう。このどちらにも飽き足らないとするならば、あとは無価値さを無価値さそのもののままに肯定するというような路線が考えられるが、しかしそんなことは可能なのだろうか? しかし先に引いたヴァルザーの文章などは、そうしたことをやっているような気がしないでもないのだが。
 ともかく思考はそのあたりまでに留まって、坂を抜けて平らな道を行けば、林の方からアオマツムシがやたらと鳴いてきて、ここのところ秋虫の音が衰えていたのに、さすがにもう野もせにというほどの厚み勢いではないものの、凛々と朗々と声を響かせているのは雨が降っていないからか、それとも時間の問題で、夜より夕刻の方がよく鳴くものか。それは知れないが、帰宅すると父親がちょうど玄関にいて、ただいまと声を掛けると台所にいる母親が、泥のついた葱を入れたから玄関がどろどろ、とか漏らしていて、それに対して父親が、Sがもう帰ってきたよと伝えたそのあとから居間に入って行き、すぐに階段を下りて自室へ帰ると、着替えをしながらコンピューターを点け、Evernoteが整うとthe pillowsの『Once upon a time in the pillows』を後半から流して歌いながらメモを書きつけた。疲労感があって、いくらか眠いようだった。
 (……)七時前から、Fred Hersch『Open Book』とともにStephen R. Nagy, "Japan's Hong Kong conundrum"(https://www.japantimes.co.jp/opinion/2019/09/26/commentary/japan-commentary/japans-hong-kong-conundrum/#.XardRf_APIW)を読み出し、三〇分掛からずに読了した。

・proverbial: 諺の; よく知られている
・tenuous: 薄っぺらい
・erode: 腐食する、摩滅する
・incremental: 漸進的な
・repatriate: 本国に送還する
・inbound: 入ってくる; 外国からの
・put a dent in: ~の表面をへこませる; ~に不利な影響を及ぼす
・outlet: 放送局
・news outlet: 報道機関
・to date: 今まで
・troll: 釣り、ネタ、荒らし
NIMBY: not in my backyard; 核やごみの廃棄物処理施設など、都合の悪いものを他所に設置するのはいいが自分の家の近くには絶対いやだという自分勝手な人
・protracted: 長引く、長期化する

Importantly, the protesters made five demands: 1) withdraw the extradition bill; 2) Chief Executive Carrie Lam must step down; 3) an inquiry must be launched into police brutality; 4) the people who have been arrested must be released; and 5) greater democratic freedoms. Noticeably absent from this list is independence, overthrowing the Chinese Communist Party or becoming a fully democratic society.

China’s news outlets have reported a very different situation. Descriptions of the protests focus on targeted attacks against mainland reporters and citizens, large scale violence and vandalism, interference from outside forces (the United States) and a protest that is focused on independence from China. Particular attention by propagandists include a narrative that Washington’s alleged democracy promotion in Hong Kong will end up like the post-color revolutions of Libya and Syria, and the post-Iraq War’s sectarian violence and chaos.

If Beijing can successfully quell the protests in Hong Kong and alter the narrative away from a fact-based approach to understanding current events, including Hong Kong, the lesson learned here will be that they can apply similar tactics to issues that concern Japan and other countries.

Relevant issues in Japan could include obfuscating the need for constitutional reform or exaggerating the tensions that revolve around the U.S. bases in Okinawa or other parts of Japan. Shifting the public understanding of these issues in Japan through disinformation campaigns could weaken Japan’s security cooperation not only with the U.S. but also other partners in and outside of the region.


 続いて、「<沖縄基地の虚実3>九州拠点が効率的 「強襲揚陸作戦」の足かせ」(https://ryukyushimpo.jp/news/entry-244846.html)も読む。

 かつて在沖米国総領事を務めたアロイシャス・オニール氏は退任後のインタビューで、在沖米海兵隊の有事対応についてこう述べている。
 「佐世保長崎県)の強襲揚陸艦海兵隊員を拾った上で、例えば朝鮮有事に送る」
 強襲揚陸艦は有事への対応に際して兵士、物資、戦闘機、ヘリコプター、水陸両用車などを載せ、沿岸部から内陸への侵攻を行う米海兵隊の主要任務である「強襲揚陸作戦」を支える重要な基盤だ。在沖米海兵隊と行動を共にする強襲揚陸艦「ボノム・リシャール」は佐世保を母港とする。
 この強襲揚陸艦を伴い在沖米海兵隊朝鮮半島へ向かう場合、まず佐世保からうるま市ホワイトビーチへ30~32時間をかけて南下し、牧港補給地区から物資、キャンプ・ハンセンから兵員、普天間飛行場から航空機を艦上に載せ、再び朝鮮半島へと北上する。つまり一刻を争うはずの有事に南下と北上を繰り返す非効率な「回航問題」が生じる。
 在日米軍の動向を監視している市民団体「リムピース」の篠崎正人編集委員によると、強襲揚陸艦がホワイトビーチから朝鮮半島の韓国釜山へ向かう場合、移動時間は通常だと35~40時間かかることになる。佐世保から沖縄への南下、朝鮮半島までの北上を合計すると、現地到着までに約70時間を要する。一方、佐世保から直接釜山へ向かえば、到達時間は8~12時間で済む。米海兵隊の駐留地について沖縄の「地理的優位性」を主張する言説に対し、県などが「九州などの方が軍事的に効率的だ」と反論するゆえんだ。

 さらに、木澤佐登志「Beautiful Harmony 1 コントロールという敵――バロウズの愛したキツネザルたち」(http://s-scrap.com/3033)もひらいて触れた。

 ポストモダニズムが示すテクスト論にあっては、端的にテクストの外部は存在しないものとみなされる。記号(シニフィアン)が示す対象は、現実の世界に存在する具体的な対象ではなく、常にすでに他の記号(シニフィアン)に差し戻される。シニフィアン連鎖は記号から成る鏡地獄を形成する。よって、ポストモダニストによるテクスト相対主義では表象的リアリズム(Representative realism)から一歩も抜け出すことができない。

 表象的リアリズムの転覆を構成することから遠く離れて、ポストモダン的な指示対象なきテクストの賛美は、ただ表象的リアリズムが開始されるプロセスを完成させるだけでしかない。表象的リアリズムは、書くことをいかなる活動的(active)な作用からも切り離す。そして書くことを、世界への介在ではなく、世界の再現という役割に引き渡す。そこから無垢なテクスト性という次元まではほんの数歩だ。そこにおいては、ディスコースから独立した世界は完全に否定されるのである。[3: 『Ccru: Writings 1997-2003』]

 バロウズポストモダニズムにおける表象的リアリズムからどこまでも逸脱していくだろう。というのも、彼はテクストではなく武器を作っていたのだから。テクスト内の物語に武器が現れるということではない。それは武器の表象であって武器それ自体ではない。そうではなく、バロウズはまさしく武器それ自体をタイプライターを用いて製造していたのだ。それは世界に介在し、そして世界を変容させる。変容させることができなければ、武器に意味などない。バロウズはどこまでもプラグマティックな作家だった。
 また、バロウズはあるときそれを正確にも「魔術」と言い換えるだろう。バロウズは、すべての芸術は起源において魔術的なものだったと述べる。

 そして、魔術的というのは、きわめて具体的な効果をもたらすことを意図している、という意味だ。書くことと描くことが不可分な状態にあったのが洞窟画だが、それは狩りの成功を目的としていた。芸術は芸術自体を目的とするものではなく、本来は機能をもったもの、何かを起こすことを意図するものだった……。[6: Burroughs and Gysin (旦敬介『ライティング・マシーン――ウィリアム・S・バロウズ』からの孫引き)]

 「表象」ではなく「効果」を志向すること。「何かを起こす」ために書くこと。バロウズにとって、もう敵を殺すという目的を果たしていないヴードゥー人形のお土産は無価値でしかないのだ。

 バロウズは、アレン・ギンズバークに宛てた手紙の中で、「事実を変更する」ための何らかの「利用可能な技術」へのアプローチを強調している。この点、「超越的な変化」を志向していたビート作家やそれに続くヒッピーらとはバロウズは一線を画している。バロウズにとって焦眉の問題であったのは、「超越的な変化」ではなくどこまでもこの世界における「実際的な変化」だったのだ。[8: 旦敬介『ライティング・マシーン――ウィリアム・S・バロウズ』]
 それでは、バロウズによる「利用可能な技術」とは、言い換えれば「コントロール」という自由の敵を打ち砕くための実践的な武器(あるいはテクノロジー)とは一体なんだったのだろうか。それがいわゆるカットアップと呼ばれるものである。バラバラに切り刻まれたテクストは、単線的な言葉の流れにランダムな要素を導入することで文法や意味のコントロールから解放される。ランダム化によって、作者の意図も言葉の意味も超えたところに未知の隠された意味の次元が発生するのではないか。少なくともバロウズはそのように考えた。[9: 旦敬介『ライティング・マシーン――ウィリアム・S・バロウズ』]

 Kekカルトの起源は2016年頃にまで遡る。匿名画像掲示4chanの/pol/(いわゆる政治板)、そこではスレッドに書き込みをした際、8桁の通し番号が識別子として用いられる。キリ番の際には寿ぐ意味で「Kek」というスラングが使われた。この「Kek」、もともとはオンラインゲーム『World of Warcraft』で韓国人プレイヤーが「笑」を表すネットスラングであったという。
 その「出来事」は2016年6月19日に起こった。そのとき「77777777」という、/pol/創設以来の大きなキリ番が迫っていた。そして、そのキリ番を獲った者の書き込み内容が「トランプは勝利するだろう」というものだったのだ。さらに、キリ番を寿ぐ「Kek」という言葉の意味を住人がウィキペディアで調べたところ、まったく同名の古代エジプト神、それも「混沌」を司る神が発見されたのだ。偶然はそれだけではなく、おそるべきことにそのエジプト神は蛙の頭を持つ神だった。当時の4chanではカエルのペペという蛙のカートゥーン・キャラクターのミームが覇権を握っていた。カエルのペペ、Kekドナルド・トランプ、これらの要素が77777777というランダムな数字の羅列と蛙の頭部を持つ古代エジプトの混沌神Kekの浮上によって、まったく別の相貌を帯びてくるだろう。
 すなわち、「ドナルド・トランプの勝利」という自己成就予言(あるいはそれ自体を現実化させるフィクション)を内に含みこむ疑似宗教Kekの誕生。それはさながらハイパースティションの如く、ミームの形でオンライン上を席巻し、予言の自己実現のために不断の自己組織化を行っていく。予言の形を取った選挙運動。未来はすでに決定されている。私達はただそこに赴くだろう。2017年1月20日へ向けて。

 それで八時が近くなったので食事を取るために上階に行った。両親もまだ食べはじめておらず、台所に入って支度をしているところだった。そこに混ざって三人分に分けられたメンチカツにコロッケや、トマトや青梗菜などを炒めた料理や、茄子と小松菜の入った味噌汁や、昼の天麩羅の余りや、様々な穀物が混ざった米などを用意する。温めるものはレンジで温め、冷たいままで良いものはそのまま卓に運び、オーブン・トースターで焼かれていた廉価なピザも一枚、箸でつまんで食いながら食卓に向かい、席に就いて食事を始めた。兄夫婦は今日、ロシアから日本に一時帰国していて、何でも健康診断や歯の治療を受けるためだと言うが、今日は日暮里のホテルに泊まって明日我が家まで来るらしいところ、青梅まで迎えに行ってそのついでに墓参りに行くからお前もと父親に言われたので了承した。新聞に目を落としながら箸を動かしてものを口に運んだり、コップを持ち上げて水を飲んだり、醤油を取り上げては置いたりするそのいちいちの挙措が、何故か落着いて鷹揚に静まっていた。新聞はまず夕刊をひらいて、スペインはバルセロナ中央政府に反発するデモが起こったという報などを読み、次に朝刊に移って米国・トルコ関連の記事に目を通した。そうして食べ終わった頃にはテレビは『チョイス@病気になったとき』を流しており、腎臓病だかの話を扱っていたと思う。こちらは何だか疲労感があって、食べ終わったあとちょっと頬杖を突いて目を閉じていたが、そんなことをしていても仕方がないということで立ち上がり、台所に移ってまず食器乾燥機のなかを片付けてから皿を洗うと、入浴に行った。風呂のなかでも最初は定かな思考を保っていたようなのだが、湯のなかに沈み込んで身体を寝かせて休んでいるとなかなか気持ちが良く、じきに意識が緩くほぐれてきて、長く浸かることになった。上がってくるとパンツ一丁で居間に出て、暑い暑いと漏らしながら階段を下ったところが、下階に来ると空気の質が即座に変わって肌が涼しかった。急須と湯呑みを持って上がり、母親に何か茶菓子はないかと訊いてみると、戸棚に何かがあると言うので見れば、チーズ味のスナック菓子「スコーン」があったのでこれを食べさせていただくことにして、母親と父親の分も新聞紙の上に取り分けて、そうして緑茶を用意した。合間、父親はテレビのラグビーに熱心に目を向けながら、試合の流れに合わせてまた興奮気味に独り言を呟き、盛り上がっている。よくそこまで感情移入出来るものだ。母親は卓に就いて黙ってタブレットを見つめていたようだが、あるいはうとうととしていたのかもしれない。
 塒に帰ると時刻は九時を回った頃合いだった。「スコーン」をつまみ、茶を飲むあいだは打鍵が出来ないので、村上春樹アンダーグラウンド』を読み、緑茶を飲み干してしまうと指を拭いて、リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』の書抜きを行った。三箇所のみを抜くに留めて作業を短く切ったのは、爪が伸びていてキーボードが打ちにくかったからだ。それで切ることにして、音楽は『Once upon a time in the pillows』を今度は冒頭から流して、歌を口ずさみながらベッドの上で手の爪を切った。鑢掛けをするあいだも声を出し、四曲目 "Thank you, my twilight"の途中で爪の処理を終えるとコンピューター前に移って時刻は一〇時、日記を書きはじめた。音楽はStan GetzStan Getz Plays』、Franck Amsallem『Out A Day』と流して、ここまで記述を追いつけるのに何と二時間二〇分も掛かっている。ちょっと時間を掛けすぎではないか? しかしまだ一四日の記事も仕上げられていないし、前日一八日の分も書けていないことが多い。
 緑茶をおかわりするために上階に向かうと、父親は既に下がっていて居間に残っているのは寝間着姿の母親一人、テレビには河本準一オダギリジョーが並んで映っていて、小学校の同級生だったとか話しているが、そのテレビもまもなく消されて、明かりも食卓灯のみになり、母親ももう下がるつもりのようで台所に行って水を飲んでいた。こちらは母親がトイレに行っているあいだに茶葉を捨てて緑茶を用意し、ポットに水を足し、茶菓子はないかと思ったところが卓の近くのロッテの「チョココ」という菓子があり、急須と湯呑みで両手が塞がるのでそれを何袋か口に咥えて室に帰った。緑茶を飲みながら村上春樹アンダーグラウンド』を読んだ(……)。そうして一時半過ぎから一四日の日記に取り掛かったのだが、母親の精神分析をするのに時間が掛かって、大方の構造はわかっていたのだが上手く整理された論理の道筋を、あるいは個々の要素のあいだを埋める繋ぎの部品を探し出すのに苦労して、記述をいくらも進められず辛うじて考えたことを大体吐き出せた頃には気づけば四時直前、ちょっと日記に時間を掛けすぎているが仕方ない。もっと読書をしたかったのだが、さすがに疲れたのでもう眠ることにした。


・作文
 12:23 - 12:47 = 24分
 13:50 - 14:06 = 16分
 22:05 - 24:28 = 2時間23分
 25:32 - 27:54 = 2時間22分
 計: 5時間25分

・読書
 12:50 - 13:40 = 50分
 18:55 - 19:21 = 26分
 19:24 - 19:46 = 22分
 21:10 - 21:27 = 17分
 21:31 - 21:47 = 16分
 24:37 - 24:56 = 19分
 計: 2時間30分

・睡眠
 4:30 - 11:30 = 7時間

・音楽