2019/10/25, Fri.

 さて、「非リベラルな民主主義」とは、必ずしも矛盾した言葉ではない。一九~二〇世紀を通じて、ヨーロッパのキリスト教民主主義者の多くは、「非リベラル」を自称していた。実際、もし彼らの頑強な反リベラリズムに異論を唱える者がいたとしたら、彼らは気分を害しただろう。しかし、だからと言って、民主主義を運用する際の政治的マイノリティの権利の重要性(結局のところ、マイノリティは次の選挙でマジョリティになりうる)について、キリスト教民主主義者が理解できなかったわけではない。むしろ彼らは、権力者から保護されないということがマイノリティにとって何を意味するかを、実体験から知っていた。というのも、カトリックは、世俗国家による攻撃的な文化的キャンペーンの犠牲になったことがあるからだ(一九世紀後半のドイツにおけるビスマルクの文化闘争[﹅4](Kulturkampf)を想起せよ)。また、キリスト教民主主義者は、裁判所のような非選出制度が非民主主義的だとも考えなかった。なぜなら、同様に彼らは、制約なき人民主権が宗教的マイノリティにとって何を意味しうるのかを経験していたため、彼ら自身が抑制と均衡[チェック・アンド・バランス]という考えに共感を抱いていたからである。したがって、[キリスト教民主主義者が「非リベラル」と自称する]理由は、単純に彼らが「リベラリズム」を、個人主義や物質主義[マテリアリズム]、そしてしばしば無神論と結びつけて考えていたからである(たとえば、フランスの指導的なカトリック哲学者であり、世界人権宣言の起草者のひとりであるジャック・マリタンを想起されたい。彼は、明らかにカトリック的な見地から、民主主義を支持することは可能だと論じる一方、リベラリズムは退けた)。こうした思想家たちにとって、「反リベラル」であるとは、基本的な政治的諸権利への尊重の欠如を意味せず、資本主義への批判――キリスト教民主主義者は私有財産自体の正統性には異議を唱えなかったが――や、伝統的で家父長的な家族理解の強調を示すものである。
 マリタンの事例のように、民主主義の非リベラルな哲学的基礎づけはありうる。そして、堕胎や結婚の権利が厳しく制限されている伝統的社会もありうる。わたしは、後者には反対すべき適切な理由があると考えるが、そうした諸権利の制限が民主主義の深刻な欠如を示していると論じるのは、奇妙なことだろう。どちらかと言えば、相対的に不寛容な――その意味で非リベラルな――社会として論じる必要があるかもしれないが、それは非リベラルな民主主義とは異なるものである。わたしたちは、非リベラルな社会と、言論および集会の自由やメディアの複数性やマイノリティの保護が攻撃に晒されている空間とを区別しなければならない。これらの政治的諸権利は、単にリベラリズム(あるいは法の支配)のみに関わるものではない。それらは民主主義自体を構成するものなのである。たとえば、投票日に与党が票を不正操作しなかったとしても、もし野党が自らの主調を一度も適切に訴えることができず、ジャーナリストが政府の失敗を報道することを妨げられているとすれば、投票は非民主主義的なものだろう。たとえ民主主義の定義を最小限のもの――人民の意思形成のプロセスを経たあとに、平和的な権力の移行を保証するメカニズムとしての民主主義――にしても、市民が政治について十分に情報提供されていることは重要である。さもなくば、とても政府は説明責任を果たしているとは言えないだろう。一九八九年以降に成立した多くの新興民主主義国が、基本的な政治的諸権利を保護し、政治および社会における多元主義を維持するために、憲法裁判所を設けたのは偶然ではない。そうした裁判所が(リベラリズムのみならず)民主主義それ自体の開花を究極的には助けるのだとして正当化されたのである。
 (ヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』岩波書店、二〇一七年、68~70)


 七時台に覚醒し、八時のアラームで一度ベッドを抜け出したと思うのだが、その時意識が結構軽くかなり晴れていたにもかかわらず、寝床に舞い戻ってしまい、あれよあれよという間に時間が過ぎて、気づけば一一時台も終盤に掛かっていた。何かしらの夢を見たはずなのだが、どのようなものだったかもはや髪の毛一本ほどの記憶も残されていない。外は雨、結構な降りのようで風もあるらしく、窓ガラスには雨粒が打ちつけられた痕が多数残っていた。一一時五〇分に起き上がってコンピューターを点け、TwitterとLINEを覗いてから上階に行った。母親に挨拶を掛け、洗面所に入って顔を洗い、段々伸びてのさばってきている髪の毛を申し訳程度に整え、それからトイレに行った。上階のトイレは玄関の横にあり、家の北側外に面しているので高い雨音が薄くひらいた窓から聞こえ、そのなかにSの子音を帯びて拡散する持続音が混ざるのは、これは増水した沢の流れの音だろう。出てくると台所に入って、するとコンビニの冷凍食品の手羽中が温められてあったので、一つつまみ食いしながら汁物をよそったり、五目鶏飯を椀に盛ったりした。三品を卓に運び、新聞を取ってひらき、国際面からいくつか記事を読む。まず、人権思想の価値を守り広めるのに多大な貢献をした人物に欧州議会から与えられるサハロフ賞の今年の受賞者に、ウイグル族の学者、名前を何と言ったか覚えられていないが、その人が選ばれたという報があった。この人は、二〇一四年から国家分裂罪で無期懲役の刑に服しており、欧州議会は当然ながら中国政府に対して、彼の釈放と少数民族への弾圧を止めるようにとの声明を出したと言う。次に、イスラエルの大統領が、野党中道連合「青と白」のリーダーであるガンツ氏に組閣要請をしたとの報もあった。イスラエルではまず今年四月に総選挙が行われたところ、与党リクードベンヤミン・ネタニヤフが連立交渉をまとめられず組閣に失敗し、その後九月に二回目のやり直し総選挙が行われて、ここでリクード三二議席に対して「青と白」が三三議席取ったと書いてあったか、それでもふたたびネタニヤフに組閣要請が成されて、彼はガンツ氏に首相交代制の大連立を持ちかけたがガンツ氏の方はこれを拒否、そうして今回野党側に組閣要請が移った、という展開らしい。しかし野党側も組閣を成功させられる目算は少ないようで、ただしここにベンヤミン・ネタニヤフのスキャンダルが関わってくるもので、彼は地元通信大手に対して便宜を図る見返りに自分に対して好意的な報道をするように求めていたという疑惑が出ているのだが、その問題の展開によってはネタニヤフが辞任することになるかもしれない、そうした場合、野党側はリクードとの大連立に応じるだろうとの見通しが述べられていた。三つ目に読んだ記事はドナルド・トランプが例によって、トルコとクルド人組織での停戦が何とか成立しそうな情勢になっているのを自分の手柄だと自賛したもので、この記事にはさほど目新しい情報は含まれていなかったように思う。少なくとも今は思い出せない。それらを読みながらものを食ったあと、食器を洗った。その頃には母親はもう仕事に出ていたのではないか。食器を洗ってしまったあとは、風呂は水が多く残っているから今日は洗わなくて良いとのことだったので、アイロン掛けをすることにした。炬燵テーブルの端に台を置き、テレビがニュースを伝えているその前で母親のシャツやエプロンやハンカチを処理する。ニュースは今次の雨の影響を伝えており、千葉県の広くに避難勧告や避難指示が出ているようで、その範囲が次々と列挙されていくのだが、千葉県は今秋は本当に踏んだり蹴ったりである。そのほか新宿で、犯人は知らない男だったと言うのであるいは通り魔事件か、六七歳の男性が首を刺されたという報道があった。命は助かって、意識はあると言う。アイロン掛けが終わるとテレビを消して下階に戻り、急須と湯呑みを持ってきて緑茶を用意すると、それらをまた持って自室に引き返した。今日も例によって年寄り臭く、寺尾聰『Re-Cool Reflections』(https://www.youtube.com/watch?v=x-JPylQ6_mA)を流して歌いながら前日の記録を付けたり今日の記事を作成したりして、三曲目 "喜望峰"に入ったところで日記を早速書き出し、ここまで綴って一時を回っている。先ほど地元の図書館のホームページにアクセスし、今日が借りている図書の返却日だったので期間延長を申請しようとしたところが、村上春樹アンダーグラウンド』とリチャード・ベッセル『ナチスの戦争』の二つは予約が入っているらしく、延長できない。この二冊はまだ書抜きが終わっていないので、今日中に書抜きを済ませて、明日、Aくんらとの読書会のあとに返却しなければならないだろう。そういうわけで今から書抜き作業に入る予定である。
 まず、リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』から文章を写した。机の前に立ったまま打鍵していき、音楽は一時二六分からFISHMANS『Oh! Mountain』を流した。『ナチスの戦争』の筆写を最後まで終えると、次は村上春樹アンダーグラウンド』である。作業を進めながら、時折り屈伸をしたり、開脚したりして下半身をほぐした。写したいものを写し終えてしまうと、続いて「MN」さんへの返信を作成し、一時間二五分ほどで以下の文章を作成し、Twitterのダイレクト・メッセージ欄に貼りつけて送信した。これにてようやく返事を返すことが出来たわけである。相手がどれだけ待ち望んでいたかはわからないが、一週間ほど待たせてしまったのではないか。

 返信が大変遅くなってしまい、申し訳ありません。

 「実社会での労働において、「より優れたパフォーマンスを目指す」ことや「より高い創造性を発揮する」ことが求められる場面」があるのか、という疑問についてですが、これは僕もあまり明確に掘り下げず、漠然と考えていたことなので、かなり一般的で通りの良い表現になってしまい、説得力を欠いていたかもしれません。また、僕自身、それほど広い労働経験があるわけではないので、あまり有効なことが言えるとは思えないのですが、ひとまずは自分自身の属している場とそこでの体験に即して考えるほかはないでしょう。

 僕は現在、一応塾講師として働いていますが、塾の講師という職業は、当然ながら生徒との協調的な――そして時には反対に衝突的な――対話が求められる職種です。僕の場合はさらに、個別指導形式の塾なので、集団指導の職場よりもその要請は大きいと思います。そこにおいて、僕の言うところのテクスト読解能力は、生徒の表情や振舞いや発言を読み取って相手の考えていることや感情を推察し、適した言動を返したり、有効な質問を投げかけることで生徒の思考に介入し、それを目指す方向に導いたりすることに大いに役立っているという実感があります。これが身についているか否かによって、毎日の授業の質がかなり変わってくると思われるわけです。もっともそれは実際には、瞬間瞬間に何を言い、どう振舞うかという非常に細かく些少な行為の積み重ねとして地味に現れるわけで、外から見るとあまり差異が明らかではないのかもしれませんが。

 自身の例に即してみると一応そういうことが言えはするのですが、しかし塾講師という仕事はこの点幾分特殊だと言うか、おそらくほかの大多数の一般的な職種よりも、他者とのコミュニケーションの機会が多く、その度合いが深い仕事ではないでしょうか。上記したことが仮に個別指導塾という場において説得力を持つとしても、それを他の様々な職業にまで広く一般化できるかどうかは不明です。また、お返事を記していて気づいたのですが、僕が考えていたことの根幹はおそらく、大学で身につける類のテクスト読解能力が労働現場において(意外と)役に立つ、ということよりは、それが他者との協調的で深いコミュニケーション一般において有益だ、ということの方だったようです。そして、他人とのコミュニケーション領域の大きな一環として日々の労働の場があると、そういう思考の順番で、以前述べたことが成り立っていたように思います。

 最初からそのような順序で意見をまとめていれば、誤解がなかったかもしれません。しかしこう述べたとしても、我々のあいだには隔たりがまだ残っています。「MN」さんのご意見では、他者との協調的なコミュニケーションにおいて必要なのはむしろ読解を中途で停止する手続きだ、とのことでしたから、労働現場においても他人とのあいだにより適切な関係性を作り出そうとするこちらの姿勢とは距離があると思います。

 また次に、「パフォーマンスや創造性とお金がどのような関係にあるのかという問いが等閑視されている」とのご指摘ですが、これはまったくもってその通りですね。そう言われてこれも初めて自覚したのですが、僕は労働という行為の代価として金銭を得るということをあまり重要視していないことに気がつきました。これは少々、奇妙な態度です。何故なら経済活動というものはまずもって金を稼ぎ富を生むことが第一の目的のはずであり、世の大多数の人々にとっても、労働とはまず何よりも、時間と労力を対価にして金銭を取得するという日々の生活と直結した具体的な意味合いを持つ活動であるはずだからです。ここには確かにご指摘の通り、「抽象性」があると言わざるを得ません。

 こうした僕の価値観には、「MN」さんがお返事の最後で言及されたように、より広範な人間観がおそらく関わっているのでしょう。何も僕も世の人間が賢く善良な人ばかりであるとは思っていないわけですが笑、それでも、どんな人間でもその内に、自分には測り知れない「深み」のようなものを備えているだろうという感覚は、多少はないでもありません。そういう意味に限ってですが、僕には人間存在一般に対する「信頼」があると言えるのかもしれません。そのような人間観が根底にあることで、僕は他人と比較的深い関係を築こうとするのだと思います。勿論それに躍起になるほどではないし、「深い関係を築く」というのは、他者とのあいだの距離を出来るだけなくす、という意味ではまったくないのですが、どうせ関わるんだったらまあ一応、調和的で気持ちの良い関係を作り、なるべく持続させられたら良いな、みたいな考えが漠然とあるわけです。

 そうした考えが影響して、僕は労働の場においても、金銭を稼ぐという大枠の目的よりも、具体的な瞬間ごとの他者との関わり方を重視するということなのではないでしょうか。従って、僕にとって「パフォーマンスを高める」というのは、個々のささやかな言動を洗練させていくことによって、他人との関係をより「気持ちの良い」ものにすると同時に、会社や上司や同僚の求める要求にも上手く答えて業務をより緻密にこなしていく、という両立性の向上を意味すると思います。勿論、これは理想であって、僕も常にそんな高尚なことを考えながら動いているわけではなく、だらだら働いている時間だってあるのは言うまでもないですが笑、大まかな方向性としてはそのような姿勢を持っているわけです。

 これに対して「MN」さんは、「人を(かなり)愚かだと思って」おられるということですから、そんな「愚か」な他人とはなるべくならば関わりたくないし、基本的には彼らに特段の興味も抱かない、ということになるのではないでしょうか。従って、労働現場においてもさほど深い関係は必要ない、最低限の読解能力をもって、業務に支障がなく、致命的な齟齬のない関係が築ければ充分である、とそんな風にお考えなのではないかと推測するものです。

 大学教育と実社会の経済活動との連続性という主題から、話が随分と広がってしまったようですが笑、今回「MN」さんとお話しさせていただいて、自分の考えの輪郭がより明確に見分けられたように思います。そうした点で、こちらにとってこのやりとりは大変価値のあるものでした。どうもありがとうございます。以上のことを踏まえて、何かこちらにお訊きになりたいことなどがあれば、遠慮なく質問やご意見をください。

 それから労働前の食事を取るために上階に行った。食卓灯を灯して台所に入り、スープの鍋を火に掛けて、合間に鶏飯を椀によそる。汁物が温まると、この白い平鍋は持ち手にも熱が伝わって大層熱いので、鍋掴みを左手に嵌めて手を熱から守りながら持ち上げて、丼に残った汁をすべて流しこんだ。そうして卓へ移れば、南窓の外で雨は相変わらず空中を埋め尽くして落ちている。ものを食べながら新聞を見てみると、昨日の夕刊でも読んだ話題だが、日韓の首相が会談と伝えられてあり、李洛淵[イ・ナギョン]氏という人は韓国きっての知日派だと言い、何かジャーナリストだったのだろうか、東京特派員も長く務めていたとかで、日本語も堪能らしい。両手を揃えて座った写真の姿勢と表情を見る限りでは、何となく控え目そうな風貌だと思われた。鶏飯を食い終わると、丼を両手で持ち上げて縁に口をつけ、スープを飲み干す。そうして皿洗いを済ませたあと、緑茶を仕立てる段だが、茶葉が昨晩尽きたので、仏壇の横に置かれた袋から新しいものを取り出した。品種は今までのものと同じ、Kのおばさんの法事の返礼品である。これは物凄く美味いわけではないが、不味くもなく、及第点はクリアしているレベルの茶だ。
 そうして茶を持って自室に帰ると、Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 2)を流しはじめてこの日のことをメモに取った。メモと言って、言葉遣いは勿論正式な作文よりも乱雑だが、下書きをしているようなものなので、メモ書き時間も作文として日課の記録に含めることにした。そうして一年前の日記を読む。言及しておくべきなのはやはり日記本文ではなく、カロリン・エムケからの書抜きである。「この映像には、そもそも車内にいる人たち個人に関することはなにも映っていない。(……)憎しみは確かに難民たちに向けられている、すなわち難民たちを対象としてはいるが、その憎しみの理由は難民たちではない」(カロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』みすず書房、二〇一八年、55)、「バスのなかの人たちを人間として[﹅5]不可視の存在にし、なにか恐ろしいもの[﹅9]として可視の存在にする嫉妬と誹謗のパターン(……)」(57)、「「デーベルンは抵抗する」を見て最初に目につくのは、現実の意図的な矮小化[﹅3]である。ここには、移民たちをそのユーモア、音楽の才能、技術、知的または芸術的または感情的な資質などを通して際立たせる記述も情報も説明もなにひとつ見られない。ちなみに、移民個々人の失敗、弱点、俗物性などの報告も同様に見られない。実のところ、ここにはそもそも「個人」が見あたらない。あるのはただ象徴的な存在のみだ。イスラム教徒の男性や女性(とはいえ、このページで扱われているのは主に男性イスラム教徒だが)の誰もが、全体の代表者と見られている。どのイスラム教徒または移民を全体の代表として利用するかの選択は恣意的だ。彼らの全員を悪だと断定するために必要な特定の例として利用できれば、誰でもいいのだ」(57~58)、「イスラム教徒あるいは移民としての在り方には無数の可能性があるが、それがたったひとつの[﹅7]形に収斂されてしまう。そして、それによって個人が集団と、集団が常に同じ特徴と結び付けられる」(58~59)。
 続いて、二〇一四年一月二六日日曜日の日記を読んでみると、この日はHさんとTさんの兄弟と会っており、立川伊勢丹の一階にあるスターバックス・コーヒーに入って雑談したことなど今でも多少覚えているけれど、当時の日記は大したことが書けておらず、端的に言ってつまらない。まだ全然世界が細かく見えていないのだ。その次にfuzkueの「読書日記」を一日分さっと読み、さらにMさんのブログにもアクセスすると、読んでいる途中で緑茶を飲み終えたので歯ブラシを取りに行った。歯磨きをしながらブログを読み終えてその次は、「週刊読書人」から吉川浩満×綿野恵太「ダーウィニアン・レフト再考 連続トークイベント〈今なぜ批評なのか〉第一回載録」(https://dokushojin.com/article.html?i=5251)である。この記事を読んでいる途中で今度は歯磨きを終えたので、口を濯ぎに廊下を出ると、背後からは"Waltz For Debby"が流れ出しており、そのリズムに合わせて指を鳴らして身体を揺らしながら洗面所へ向かう。口を濯いだあと便所で放尿し、出るとそのまま上階へ行って仏間で椅子に腰掛け、靴下を履いた。下階からベースソロの響きが幽かに伝わってきていた。仏間を出ると居間の隅からワイシャツを二枚取って下りて、自室の外の廊下に掛けておき、薄水色の方をハンガーから外して室に入ると、ジャージを脱いでベッドの上に畳んで置いておく。そうして紺色のスラックスをゆっくりと履き、水色の地にドット柄のネクタイも鷹揚に巻きながら、ガルシア=マルケスの小説の登場人物が、いつも何かの儀式のように着替えをする、と描写されていたことを思い出した。確か、『わが悲しき娼婦たちの思い出』に出てきたはずだが、それ以前のほかの作品でも利用されていたような記憶もある。

 まだ四時間あった。時間がたつにつれて、心臓にすっぱい泡がたまったようになり、息が苦しくなりはじめた。何とか時間をやり過ごそうと服を着てみたが、効果はなかった。つねづねダミアーナから、まるで司教様が儀式を執り行うように服を着るんですねと言われているので、その行為自体は私にとって別に変わったことではなかった。剃刀でひげをあたり、太陽熱で温められた水道管の水が冷たくなるのを待ってシャワーを浴びたが、タオルで身体を拭いただけでまた汗が噴き出してきた。今夜、幸運に恵まれるように白いリンネルの上下を着、カラーをのりで固めた青い縦縞のワイシャツをつけ、中国絹のネクタイを結び、ショート・ブーツに亜鉛華を塗り、金の竜頭のついた時計をポケットに入れ、その鎖の端を襟のボタン穴に引っ掛けた。最後にかなり背が縮んでいたのを気取られないようズボンの股上を内側に折り込んだ。
 (G・ガルシア=マルケス木村栄一訳『わが悲しき娼婦たちの思い出』新潮社、2006年、27~28)

 それに倣ってゆっくりと身支度を整えて、スラックスと同じ紺色のベストを羽織るとコンピューター前に戻り、吉川浩満×綿野恵太「ダーウィニアン・レフト再考 連続トークイベント〈今なぜ批評なのか〉第一回載録」(https://dokushojin.com/article.html?i=5251)をまた読んだ。

吉川   ところで、経済学者の松尾匡さんは左翼を次のように定義しますね。世界を上と下に分け、下を支援する、これが左翼であると。シンガーの左翼観もほぼ同じです。そして従来の左翼を次のように批判します。左翼のプロジェクトがうまくいかなかった理由は、人間本性など存在しない、それは社会的諸関係の総体にほかならないという考えにとどまっていたからだ。今後は、レガシーとしての生物学的な形質、場合によっては文化までを含めてもいいけれども、そうした人間本性論に立脚して世直しを考えていかないとまずい。これまでのレフトは、方向はよかったけれど、そうした発想がなかった。頭の中で考えた理想がそのまま実現すると思っていた。だから失敗したんじゃないかと。

吉川   まず、グーグルの事件に対する感想を述べておきます。新反動主義とインテレクチュアル・ダークウェブの関係は錯綜していてよくわからないところもありますが、とりあえずは反ポリコレ的な主張をする際の科学的エビデンスの重視という共通項をとりあげましょうか。彼らが言っていることの八割ぐらいはわかるんです。なぜこういうことを言いたくなるのかもわかる。簡単に言うと、ある種のアイデンティティ・ポリティクスの側面が強いのではないかと思います。自分たちはリベラルのポリコレ的価値観によって虐げられていると考える人たちがいる。

綿野   マイノリティでなく、マジョリティによるアイデンティティ・ポリティクスですね。

吉川   これまであまり見たことがなかった新しい異議申し立ての運動なのかもしれませんね。『ハイブリッド・エスノグラフィ』(新曜社)を書いた木村忠正さんが、いわゆるネトウヨについて、面白い言葉を使って論じています(4面に書評掲載=編集部註)。これは「非マイノリティ・ポリティクス」だと。言いえて妙だと思います。自分はメジャーな価値観のせいで割を食っていると感じている。でもマイノリティではない。それと似た構図になっていると思います。社会学者の岸政彦さんがいつも言っている、マジョリティとは誰かという問題にも通じる、興味深い現象です。

吉川   でも、事実の提示がそのまま現存の価値観の否定や新しい価値観の提示になるわけではない。いま、本当に言いたいことを言ってみろよと言いましたが、たとえば新反動主義のカーティス・ヤーヴィンが提唱するCEOみたいな君主を戴く新官房主義とか、反リベラルで新反動主義の男だけの島を作ろうみたいな話は、そうした例かもしれません。そういう提案は興味深いし、やってみたらどうだろうとさえ思います。そうしたマノスフィア(男性界/オトコ村)において集合行為問題や共有地のジレンマがどうなるのか見てみたい。でなければ、さっきも言ったように、半分は欺瞞の暴露なので、「そうだね、だからなんなの?」と言うしかない。

綿野   女性は妊娠・出産する。男女には違いがある。だからといって女性差別はゆるされない。フェミニズムがつねに問題にしてきたことですが、その問題が脳科学進化心理学といった新しい装いでつねに回帰してきている気がします。吉川浩満さんと山本貴光さんが寄稿されていた『バックラッシュ』(二〇〇六年、双風舎)でも、保守派による脳科学理解が批判されています。ただ最近はどうしても「フェイク」ばかりが問題視されてしまって、エビデンスと一体になった保守的な言説が見過ごされてきた気がします。差別的な言説というのが非合理・不合理で、根拠がないって批判している人が多いんですが、むしろ差別的な言説ほど合理的につくりあげようとしているものはない。合理的であることと、差別的であることとは違う。そこは認識しておいた方がいいと思っています。

吉川   そういう意味では、たとえば前回のバックラッシュ、二〇〇〇年代に特徴的だったニセ科学をベースにした男女差別や人種差別は減っていると思います。完全なるフェイクか、インテレクチュアル・ダークウェブのような、結構しっかりしたエビデンスに基づく差別的言説になっている。だから、それを批判する側も、アップデートしていかないといけない。
 もちろん、差別するのは不合理であるというのは、まったくその通りです。しかし不合理だからといって批判すると、差別が合理的になされる局面もたくさんあるので、同じような形では批判できなくなってしまう。差別は人の尊厳を傷つけるから駄目なんだと、普通に批判した方がいいと思いますね。

吉川   (……)理屈で言うと、世界がリベラル化すればするほど、持って生まれた社会的な格差が解消され、生得的なものだけの勝負になっていく。スポーツの世界の極限のところでは、かなりの程度そうなっていると思いますね。たとえば陸上競技を見ればよくわかる。

綿野   ウサイン・ボルトみたいな、持って生まれた「才能」のある人間しか勝てなくなる。

吉川   その時にいつも思うのは、だからこそリベラルな公正としての正義が大事なんじゃないかということです。確かに、リベラルになればなるほど、条件が同じになっていくので、生得的な元々の違いだけが突出してくる。理屈ではそうなんですよ。ただ、生まれつきのものって、完全に運、偶然によりますよね。リベラルな社会になるほど生得的なものが突出するということは、リベラルな社会になるほど根源的な偶然に左右されるようになるということです。他方でリベラリズムは、それに対するガチでストレートな解答を持ってもいる。無知のヴェールの想定を思い起こしていただきたいのですが、不運な人と自分を交換してもいいような機会の平等を求めるという原則です。そう考えると、他にも功利主義とか、いろんな強力な原理があるかもしれないけれど、この生得性の理不尽さに対する直接の答えを持っているところにリベラリズムの意義がある。そう私は考えますね。

吉川   (……)簡単に説明すると、伝統的なレイシズム、たとえば「黒人は劣っている」というのが昔ながらのレイシズム(1・0)だとすると、現代的レイシズム(2・0)というのは「黒人は不当に利益を得ている」というものです。思い出しませんか、在特会という名前を。主張の形式は同じなんです。

綿野   いま目の前にある不平等は、人種や性別の生物学的なちがいによるものにすぎない。その意味で差別はない。にもかかわらず、社会的な差別があるとして抗議するのは、不当な特権を得ようとしているからだ、というのが彼らの主張ですからね。まさに、「現代的レイシズム」のロジックです。

吉川   だから、新反動主義とかインテレクチュアル・ダークウェブの一部は、非マイノリティによるアイデンティティ・ポリティクスなんですよ。もちろんいろんな人がいるので、一口には括れない。ただ、ジェイムズ・ダモア氏の文章は「中二病的」だとよく言われていますよね。実際、中二病的というかセカイ系的というか、そういう傾向はあると思います。リバタリアン系の思想にありがちだと思いますが、頭の中と世界が直結していて、その中間にあるはずの社会がない。中間の社会が面倒くさいので除去したいという気持ちはわからないでもないですが、実際に存在しているものをないものとするならば、あとはカルトへの道しかない。
 繰り返しになりますが、引用しているエビデンスは大体正しい。でも、それを言ってどうするのかということです。たとえば、彼らが頭の中で考えているエンジニアの理想の男女比があるとします。仮にそれが「男性:女性=七:三」だったとして、もし、その数字に近づけるのが会社や社会の正しい方向性であると考えているとしたら、それは端的に間違いです。もし、世界帝国のAI君主が奴隷として使役している全人類の労働効率の最適化を目指していると想定するならば、ありうるオプションかもしれません。でも、実際には違います。当たり前のことですが、労働の効率化や生産性の向上は、人間にとって唯一究極の目的であるというわけではない。社会にとってだけでなく、会社にとってさえ、超一流の巨大企業にとってさえそうです。そこを捨象して考えて、どうしようというのか。

 最後まで読み終わらず、あと二頁残したところで五時九分に達したので中断し、音楽を切ってコンピューターをシャットダウンさせた。バッグを持って上階に行くと、南窓のカーテンを閉め、それから便所に行って軽く排便したのち、居間に置いておいたクラッチバッグを持って玄関の戸をくぐった。雨は無論続いていたので外の傘立てに収められていた黒傘を取り、階段を下りてポストに寄ると、ビニール袋に包まれた夕刊を取り出した。階段を戻りながら半透明の袋のなかの一面を見ると、米国のペンス副大統領が、中国がより攻撃的になっていると発言したとかいう記事が左側に掲載され、それよりも大きな扱いで菅原経産相の辞任が伝えられていたが、後者はわりあいにどうでも良い。もっと伝えるべき事柄があるはずだ。玄関内の台に新聞を置いておき、明かりを消して出発した。バッグは左手に丸めて持ち、ひらいた傘は右手に託した。雨はさほどの降りでないが、林から今までに溜まった水滴の垂れて葉や地を打つ音が多数立っている。目線を足もとに据えながら道を歩いていると、濡れたアスファルトが街灯を受けてじらじらと、歩みに応じて白く明滅するさまの、細かな凹凸のそれぞれに微小な星が埋めこまれたようでもあり、あるいは何かの微生物が宿って旺盛な生命力で蠢いているようでもあった。坂の手前まで来ると沢音が厚く昇ってきて、その響きのなかから湧き出るように向かい風が吹いて肌に冷たい。坂に入ったあとも水音のなかに轟々と、暗く激しい響きが孕まれて、最初は飛行機が空を泳ぎ渡っている音とも思えたが、それも増幅された水流の立てる音のようで、木の間の闇の奥から突き出てくるのに近づけば、飛行機が墜落してくるかのように深く分厚い。
 坂を上りきり、駅に入ると傘をばたばたとやりながら階段通路を上り下りし、ホームに入った。ベンチは少々濡れていた。その端に就けばほかにも男性が一人、反対側の端の方に座っており、ハット型の帽子を被った装いで、新聞を読んでいたと思う。まもなく電車が来たので乗りこんで、席の端でメモを取り、青梅に着いてもすぐには降りず、ちょっとのあいだメモを取りながらほかの客たちが去って駅を出ていくのを待ち、そうして降りると背を伸ばしながらホーム上をゆっくり歩いた。駅を出ると街路樹の葉が足もとに散らばっており、雨はまだ僅かに散っているが傘を差すほどではなかった。
 職場に入ると室長は面談中だった。奥のスペースに行き、荷物をロッカーに仕舞うと席に就いてちょっとメモを取ったあと、五時四五分前から働き出した。(……)の国語が当たっていたので扱う文章を読んでおいた方が良いかとも思ったが、気安い相手なので良いかと甘えてメモを優先したところ、(……)くんは結局欠席だったので、いずれにせよ予習は必要なかった。チャイムが鳴ると入口付近に立ち、生徒の出迎え見送りを行っていると途中で小学生の(……)くん――こちらは確か一回も当たったことがないか、あっても一度のみだと思う――が父親と一緒にやって来た。訊けば面談だと言う。先客がまだ室長と面談中だったので、面談席の外側に椅子を二つ用意して、すみませんがこちらでお待ちいただけますかと示して座ってもらった。そうして授業である。
 今日は二コマ、一コマ目は(……)さん(小六・国語)に、(……)くん(中三・英語)が相手である。(……)さんは正直なところ、あまり相性が良くないようだ。まずもって彼女自身に、わからない文章を理解したいという意欲がないので、こちらが細かく説明しようとしても嫌がるような雰囲気なのだ。面倒臭いと思っていたのはこれは間違いない。多少苛々すらしていたかもしれない。そうなるとこちらとしてもあまり良い気分はせず、面倒臭えなという気持ちにもなるものだが、しかしそこで丁重さを失ってはいけないのだろうというわけで、ちょっとしたことでたびたび礼を言ったりして、敢えて丁寧な態度を取った。相手の苛立ちに巻きこまれ、空気を殺伐とさせて齟齬を鋭くしてはいけない。差し向けられてくる苛立ちをはぐらかし、受け流し、それでいて媚びない態度を取らなければならないわけだが、しかしこれはなかなか難しい舵取りが求められるところだ。
 彼女に関してはあとで室長に、相性があまり良くないかもしれないと伝えたのだが、あれで大丈夫、と室長は無意味に自信ありげに頷く。ほかの先生だと雑談になってしまったり、あるいはわからないわからないの一辺倒で考えようとしないと言うのだ。しかしこちらの授業でも彼女自身がものを考えるようになるかどうか、心許ないところではある。いずれにせよ、彼女をあまりうんざりさせることなく、なおかつ少しでも思考力・読解力を養うという方向性でのバランスの取り方が求められるわけで、これは正直、難しい仕事だ。あまり強く攻めすぎても生徒の意欲がさらに失われてしまうだろうし、かと言って緩くやり過ぎても意味がなく、目指すべき結果が達成されない。やる気がないからと言って捨て置くことも出来ない。そもそも、漢字テストの勉強などはしてくるわけだから、まったくやる気がないわけではないだろうし、本人もおそらく、自分はある程度はやる気があると自己認識しているのではないか。こちらの指導の仕方がしかし、そのやる気の程度に相応しておらず、少々越えているということなのだろう。むしろそのくらいの方が良いのかもしれないが、個別指導で難しいのは、この生徒はやる気が全然ないからと言って即座に切り捨てるということが出来ないことだ。Mさんの仕事のような集団授業ならば、意欲のない学生を切り捨てることは、規模や効率の上からしてむしろ必要なことである。しかし個別指導においては生徒との距離が近く、まさしく物理的にも近距離で面と向かい合っているわけで、こいつは意欲がないなと言ってこちらの方もやる気のない態度を取るということはなかなか難しい。勿論、あまりに度を越している場合には、その生徒にはほとんど最低限の扱いしか与えず、その分ほかの真面目な学生の方に傾注するという選択もあるかもしれないが。
 (……)さんはこちらの感触としてはおそらく、自分自身で私立中学受験をしたいと思っているわけではないだろうと推測する。態度や雰囲気を見る限り、親に言われて、いくらか嫌々ながらも塾に来ているという感じではないか。そもそも小学生で、自ら私立受験に挑戦したいと強く希望する子などほとんどいないかもしれないが、いずれにせよ、意欲のあまりない子供に受験を目指すことを強要すること自体が誤っているとこちらは思う。子供の将来を思ってということなのか、それとも単に自分の鼻を高くしたいだけなのか、人生における学歴という要素を盲信しているのか、保護者が何を考えているのか知らないが、ともかくも子供の方にやる気がないのだったら、それを無理強いすること自体が間違っているだろう。立川の叔父であるYちゃんだったら、そんなのは親の身勝手なエゴでしかないと批判するだろう。我が子が五体満足でおぎゃあと生まれてきてくれて、それだけでああ良かった、ほかには何もいらないとほっと安堵した生誕時のこと、その原点を思い出せ、と彼は言うに違いない。(……)さんの保護者がどのような人物なのか知らないし、彼女の家庭状況についての情報もこちらには何一つ入ってきていないが、もし彼女自身の意志が尊重されず、親と子のあいだで合意が得られていないのだとしたら、それは良くないことだろう。とは言っても、往々にして幼少期の親子関係なんてそんなものなのかもしれないが。こちらにも覚えのまったくないことではない。しかし理想論だとしても、子供自身の主体性や意志が尊重される方がやはり良いと思うものであって、要は子供と言っても然るべき場面では一人の人間として扱われるべきだろうということだ。フィリップ・アリエスの有名な本に『〈子供〉の誕生』というものがあって、こちらは読んだことがないのでこれは単なる聞きかじりの知ったかぶりに過ぎないのだが、そのなかの著名なテーゼとして、子供という存在・概念は近代という時代が生み出したものであり、近代以前には子供は「小さな大人」として扱われていたというものがあるらしい。それはそれで子供が保護すべき対象と見做されず、端的に言って「子供の人権」というような考え方が欠如していただろうから、やはり問題含みではあっただろうが、現代において子供が一人の人間として扱われず、彼・彼女の意志や主体性が、それが未発達のものだとしても無視されてしまうとしたら、それはそれで問題ではないか。
 その他、これは帰りの道で考えたことだが、今わからないことをわかるようになりたいという気持ちがあまりないらしい(……)さんの様子を見て、こちらはAくんが以前言っていたことを思い出した。わからないことをわからないからと言って退けてしまうか、むしろわからないから面白いと思えるかどうかで人生かなり違ってくる、というようなことを彼は言っていたのだが、(……)さんを見るにつけ、まさにその通りだなと思ったものだ。Aくんの意見をこちらの言葉で換言すれば、未知を無闇に自分の理解の圏内に引き寄せず、未知のままに受け止め耐える能力があるか、それとも未知を自分とは相容れない異物として排除してしまうか、ということで、これは言うまでもなく差別問題などにも関わってくるテーマであり、こちらとしては当然前者の方が良いだろうと思うのだが、そうした能力や態度を涵養するには一体どうしたら良いのか? あまりに凡庸な結論だが、やはり幼少の時期から書物を読ませたり、色々な事物や人間に触れさせたりして、この世界というものはとにかく広くて豊かで様々な異物に満ち満ちているのだということを、理屈ではなくて体感的に理解させるほかないような気がするものだ。
 話を塾での授業の時点に戻して、一コマ目のもう一人の生徒だった(……)くんについて記すが、彼に関してこの日扱ったのはLesson 6のGET 1の単元、文法事項で言うと分詞の後置修飾である。内容の理解自体は概ね問題ないとは思う。ただ彼も、当たるのは二回目なのだが、何だか奇妙な空気を匂わせると言うか、少なくとも表面上はそこそこ真面目にやってくれるし、コミュニケーションにも目立った問題はないのだけれど、何となくぴったりと嵌まる感じがしないのだ。凄く漠然とした印象に過ぎないのだが、何だか心の底で大人を舐めているような、そんなニュアンスが幽かに感じられなくもない。舐めている、とまで言っては言い過ぎかもしれないが、ずる賢そうな雰囲気が漂っているような気がする。それでも今のところは特段の問題はないし、回数を重ねればまた違ってくるかもしれない。
 二コマ目はわりあいにやりやすい相手で、(……)くん(中一・国語)と、(……)くん(中三・英語)である。(……)くんは典型的に大人しく、自信なさげな雰囲気の男子であり、こちらの態度が圧迫的に取られないかちょっと心配ではあるのだが、しかし実感としてはわりと良い関係を築けているとは思う。今日扱ったのは、Lesson 5のまとめ、リオのカーニバルについての読解問題で、共に本文訳を確認したところ、わりと訳せていたと思う。ノートにも結構色々と知識を記してもらったし、彼に関しては特段の問題はないだろう。中一の(……)くんの方はいろは歌や古典鑑賞の文章を扱ったのだが、彼は野球部の活動でとにかく疲れているらしく、途中で眠ってしまった。一度眠ってしまうと意識がなかなか晴れないようで、脇腹をくすぐったりしてもあまり効果がなく、その後は覚束ない状態になった。終盤、「色は匂えど」の意味と、「有為の奥山」の「有為」の意味を何とかノートに書かせることが出来たものの、授業本篇自体は問題を二頁扱っただけで、あまり充実していたとは言えない。
 授業を終えると生徒たちを見送り、片付けをして退勤へ向かった。室長が教室内に掃除機を掛けていたので、入口の戸を開け振り向いて、彼に向かってお疲れさまですと声を放って職場をあとにした。雨はもう降っていなかった。駅に入ってホームに上がると、奥多摩行きは既に停まっていたが、壁に囲まれた車内にいるよりも空間がどこまでもひらいて空気の流れもあるホーム上にいたかったので、ベンチに座って手帳にメモを取った。それで接続電車が背後にやって来て、乗換えの客が降りて電車を移る発車間際になってから、こちらも同じタイミングで立ち上がって乗りこみ、扉際に立った。目を閉じて最寄り駅に到着するのを待ち、降りると自販機でコーラを買って、ベンチに座ってメモを取りながらちびちびと飲んだ。風が流れるとベストを着ていても結構肌に冷たい夜気だった。しばらくして炭酸飲料を飲み終わると駅を抜け、木の間の坂道を下って自宅に帰る。帰路は上記したようなことを頭のなかに巡らせていたので、道中、格別に深い印象は得られなかった。帰宅して居間に入ると室内は無人で、母親は風呂に入っているようだったが、車があった父親は何故姿が見えないのか不明である。自室に下りるとジャージに着替えながらコンピューターを準備し、そうしてEvernoteにメモ書きを始め、一〇時二〇分まで二〇分間記録を付けると中断して食事を取りに行った。ワイシャツを持って台所に行くと、洗面所の扉の表示が赤になっており、母親が鍵を掛けているらしい。ノックすると応答があったので、ワイシャツと言って受け取ってもらい、それから夕食を配膳した。メニューは豚肉とピーマンを生姜焼き風にソテーした料理と、ワカメと茸の味噌汁、それに前日の肉巻きもあると言うので冷蔵庫から取り出してみれば、冷やされて片栗粉がぶよぶよに固まっていた。それを電子レンジに突っこみ、具のほぼなくなった五目鶏飯をよそって、サラダはレタスを千切っただけの簡易なものだったのでマヨネーズで食べることにした。台所と居間を何度も往復してそれぞれの品を卓に運ぶと席に就き、夕刊を取って食事を始める。出掛ける前も目にしたペンス副大統領発言の記事を読んだほか、英国ではボリス・ジョンソンによって下院を解散して一二月一二日に総選挙をするのはどうかという提案が成されたと言う。コービン労働党が受けるかどうかが焦点のようだ。ものを平らげてしまうと皿を台所へ運び、台布巾でテーブルを拭いたあと水を一杯汲んで薬を飲み、そうして食器を洗って片づけた。それからパジャマが自室にあったので一旦下階に下りて、寝間着と燃えるゴミの箱を持って戻ってきて、ティッシュなどのゴミを台所のゴミ箱に合流させておくと、入浴に行った。この日は窓を開けず、湯に浸かったまま例によって静止して、身体の各所に生まれる痒みや刺激などの感覚や、頭のなかの思念を追った。魔女か吸血鬼の出てくる小説を書いてみたいなと思った。おそらく中学生の頃だったと思うが、『冷笑主義』と言って数百年生きている吸血鬼が主人公のインターネット小説を結構面白く読んでいたそのことも思い出した。そのように何百年も生きている魔女や吸血鬼の類の半人を主人公あるいは主要な登場人物にして、『族長の秋』か『百年の孤独』のようなガルシア=マルケスの語りを組み合わせた作品を書きたいとは以前からちょっと考えている。しかしそのためにはまず、魔女や吸血鬼といった存在についての文献を読んで調査し、歴史的知識を蓄えなければならないだろうが。
 一一時に達しかけたので風呂を上がると、父親が帰ってきていた。一度帰宅したあとに飲み屋に行っていたらしい。自治会関連の会合だろう。テレビは『ドキュメント72時間』を映しており、どこかの公園か何かが舞台だったようだ。ゴミ箱を自室に持ち帰り、急須と湯呑みを持ってきて緑茶を用意していると、卓に就いた父親は酔いの気配を少々漂わせながら母親と会話を交わし、同時にテレビに目を向けて何とか漏らしている。こちらは緑茶を持って下りると、出掛ける前に読みきれなかった「週刊読書人」の吉川浩満×綿野恵太「ダーウィニアン・レフト再考 連続トークイベント〈今なぜ批評なのか〉第一回載録」(https://dokushojin.com/article.html?i=5251)を最後まで読んだ。

綿野   ダモアみたいな主張に対しては「自然主義的誤謬」がしばしば持ち出されますよね。

吉川   「自然主義的誤謬」って、ヒュームのものとムーアのものがあって、読めば読むほどわからなくなるので、最近はあまり使わないようにしています。でも、私は昔からこんなふうに考えています。現実にある状態と目指すべき状態とをごっちゃにするのではなくて、つまり「である」と「すべし」をごっちゃにするのではなくて、そこはいったん分けて考えましょうということです。もちろん「である」の話は重要ですが、それだけで話が済むわけではありません。人間はしばしば「すべし」の話をする必要があって、その場合には「である」は「すべし」の実現(不)可能性を見積もるためのリソースになります。

綿野   ダーウィニアン・ライトは生物学的な事実を社会制度にそのまま反映させるべきだ、という。たいして、ダーウィニアン・レフトは生物学的な事実と社会制度のあいだでコストとベネフィットを計算しなければならない。

吉川   この点、レフトとライトの関係は非対称的で、レフトはかなり分が悪い戦いを強いられると思います。ライトはファクトやエビデンスを提出するだけでもある程度のショックをリベラルな価値観に与えることができますが、レフトはそこから一歩進んで、リベラルな理念を現実化するための制度設計を考えなければならない。少なくともシンガーの言うダーウィニアン・レフトはそうです。ライトやラディカルなレフトと比べて目立ちにくいんですよね。

綿野   あらゆる計算のうえで制度をつくるということですからね。

吉川   たとえば人間本性をもとにして、人びとが敵対するのではなく協力しやすい制度を作ろうとか、そういうふうになっていくと、認知科学行動経済学進化心理学の知見を総動員して、コストとベネフィットについて綿密に計算しながら、社会制度がどうあるべきかを考える必要がある。ひょっとしたら、シンガーの提唱するようなダーウィニアン・レフトがもっとも能力を発揮できるのは、政策立案を行う官僚とかNPO社会起業家としてなんじゃないかと思ったりします。だから、いわゆる左翼には人気がない。

綿野   問題の構図としては昔からある官僚制と同じですよね。官僚=テクノクラートの暴走を、議会といった市民社会がどうコントロールするのか。緊急を要する社会状況や経済状況があれば、議会でちんたら議論してる余裕がない。専門家=エリートが決めた方が効率的だ。しかし、それでは「政治」を離れて「統治」が暴走する結果になる。しかし、いまやそのような「統治」は、一国の官僚ではなく、アリババやグーグルといった世界的な企業が握っている。一国の市民社会では歯止めをかけることは難しいだろうし、「マルチチュード」による世界的な反乱なんてもちろん期待できそうもない。

 その次に、Andy Beckett, "The new left economics: how a network of thinkers is transforming capitalism"(https://www.theguardian.com/news/2019/jun/25/the-new-left-economics-how-a-network-of-thinkers-is-transforming-capitalism)をひらき、読んでいる途中でヘッドフォンをつけ、Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 2)を"My Romance (take 2)"から流しだし、二曲で最後まで辿り着くと、続いてChamber Strings『Month Of Sundays』を聞いた。

・intense: 熱心な、奮闘する
・angular: 痩せこけた
・living age: 生活賃金◆人がある生活水準を維持するのに必要な最低の時間給。イギリスやスイスでは、週40時間で付加給がないときの住宅、健康管理、余暇などの全てを含む一定の生活水準を満たすことができる時間給を指す。最低賃金(minimum wage)は、法令で定められたものであり、必ずしも生活賃金で求められる生活水準を維持できるとは限らない。
・niche: 割れ目、裂け目; 特定分野、隙間市場
・shrewd: 鋭敏な; やり手の
・Treasury: 財務省; 国家財政委員会
・outflank: 側面から包囲する、出し抜く
・deferential: 敬意を表する、慇懃な
・share price: 株価
・go down well: 受けが良い、評判が良い
・cheekily: 生意気に
・supplant: 奪い取る、取って代わる
・gnomic: 格言家の

 零時前まで掛けて英文を読んだのちはこの日のことをメモ書きし、そうしてさらに、一時までと定めて前日二四日の日記を作成しはじめた。音楽は零時四七分からCharles Mingus『Mingus Ah Um』に移し、予定通り一時過ぎで作文を切った。翌日は読書会で昼前から晩方まで出掛けなければならないから、書く時間はさほど取れず、また負債が溜まることになるだろうと見通した。仕方のないことではある。
 その後、眠る前まで辻瑆・原田義人訳『世界文學大系 58 カフカ』を読んで、三時半前に眠りに就いたようだが、終盤では睡気に苛まれていたかもしれず、どれだけ確かに読書できていたかは疑わしい。


・作文
 12:41 - 13:09 = 28分
 14:28 - 15:53 = 1時間25分
 16:12 - 16:17 = 5分(メモ)
 16:55 - 16:57 = 2分(メモ)
 22:00 - 22:19 = 19分(メモ)
 23:57 - 24:15 = 18分(メモ)
 24:15 - 25:04 = 49分
 計: 3時間26分

・読書
 13:11 - 14:21 = 1時間10分
 16:18 - 16:42 = 24分
 16:57 - 17:09 = 12分
 23:14 - 23:57 = 43分
 25:09 - 27:24 = 2時間15分
 計: 4時間44分

・睡眠
 4:00 - 11:50 = 7時間50分

・音楽