2019/10/31, Thu.

 (……)私は他人の代わりに生きているのかもしれない、他人を犠牲にして。私は他人の地位を奪ったのかもしれない、つまり実際には殺したのかもしれない。ラーゲルの「救われたものたち」は、最良のものでも、善に運命づけられたものでも、メッセージの運搬人でもない。私が見て体験したことが、その正反対のことを示していた。むしろ最悪のもの、エゴイスト、乱暴者、厚顔無恥なもの、「灰色の領域」の協力者、スパイが生き延びていた。決まった規則はなかったが(人間の物事には決まった規則はなかったし、今でもない)、それでもそれは規則だった。確かに私は自分が無実だと感じるが、救われたものの中に組み入れられている。そのために、自分や他人の目に向き合う時、いつも正当化の理由を探し求めるのである。最悪のものたちが、つまり最も適合したものたちが生き残った。最良のものたちはみな死んでしまった。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』朝日新聞出版、二〇〇〇年、91~92)


 一一時一〇分頃覚醒。外は白く曇っているが雲にさほどの厚みはないようで、太陽の姿も見えた。ベッドから降りてコンピューターに寄ると電源スイッチを押し、肩を回しながら起動を待って、それからTwitterやLINEを覗いた。そうしてEvernoteなどのソフトを立ち上げて、早速前日の記録を付けるとともに今日の記事も作成した。そうしておいてから部屋を抜け、上階に行くと母親は買い物や銀行に行ってくると言うので了承し、ティッシュの空き箱を潰して戸棚の紙袋に入れておくと、トイレに入って黄色い尿を便器に放出した。ペーパーで便器の縁を拭いておいて外に出て、洗面所に移るとボサボサになった髪の毛をドライヤーの櫛で撫でていくらかましにする。そうして台所に出て、母親が炒めておいてくれた焼豚混じりの大根の葉を皿に盛り、電子レンジに突っこんで一分半を設定し、一方白米をよそって卓に運ぶ。また、前夜自分で作った白菜の味噌汁も火に掛けておき、炒め物が温まると卓に移って椅子に就き、一口食べはじめたところで加熱されている鍋のしゅわしゅわという音が高まってきたので、また席を立って味噌汁をよそった。そうして卓に戻ると、新聞の国際面を見ながらものを食べる。中国の新疆ウイグル自治区で、その実態は強制収容所めいた「職業技能訓練センター」が活動しており、過激思想の矯正という名目で多数のウイグル人が拘留されているのは周知のことだが――確か一〇〇万人を超えるとかいう話ではなかったか?――そのセンターにおいて、少なくとも一五〇人が死亡したとの報告があった。まさしく現代のアウシュヴィッツではないか――とまで言うのは質としても量としても言い過ぎか? しかし本質的には共通する部分があるはずだ。そのほか、ドナルド・トランプのいわゆるウクライナ疑惑で、国家安全保障会議の職員であるビンドマン陸軍中佐という人が議会に宣誓証言したという記事、米国の東南アジア諸国軽視の姿勢について述べた記事、シリア・トルコ国境地帯からクルド人武装組織三万四〇〇〇人の撤退が完了したとロシアが報告したとの記事、そして、米議会でオスマン帝国アルメニア人虐殺を、正式に認めるというものだったか非難するというものだったか趣旨を忘れてしまったが、そのような決議が可決されたとの記事を読んだ。そうして食事を平らげると台所に移って冷蔵庫から冷やされた水を取り出して一杯注ぎ、一気に飲み干したあと、オレンジの混ざったヨーグルトを一つ食った。続いて皿を洗うと風呂場に移って浴槽を洗い、出てくると下階に帰って急須と湯呑みを持ってきた。茶葉を流しに捨ててからテーブルの隅で緑茶を用意する。一杯目の湯を電気ポットから急須に注ぎ、茶葉がひらくのを待つあいだに薬缶に水を汲んできて、ポットの傍らに置いておいてから急須を持ち上げ、緑色の液体を湯呑みに注ぐと、水の落ちる緩やかで静かな音が無人の居間に立ち、湯気が細く昇って棚引き宙に消えていく。二杯目、三杯目の分の湯も急須に入れておいて、両手をそれぞれ埋めて下階の自室に戻った。そうしてBlack Sabbath - Live At Ozzfest 2005 (Full Concert)(https://www.youtube.com/watch?v=D9yawWUIit0)を前日の続きから流しだして、早速この日の日記を記しはじめたのが一二時二分だった。ここまで書けば二五分に至っている。
 それから前日の記事に取り掛かったのだが、フランツ・カフカ「火夫」の感想が纏まらず、と言うかどこまで細かく書くかという詳細さの程度をなかなか決めきれず、細部の分析もどのように形作るかと苦心しているうちに一時が迫ったので、中断して着替えることにした。服を替えるよりも先に歯を磨いたのだったか、それともあとだったのか? ともかく磨いたことは確かだが、洋服は街に出るわけでもなく近間の美容室に出掛けるだけだから、さして飾らずとも充分だろうというわけで、久しぶりに地味な青灰色のシンプルなズボンを履き、上も秋冬用の白いシャツを纏った。そうして、それから歯を磨きながら日記の文言をまた調整した記憶があるので、歯磨きは着替えのあとだったのだ。それで一時二〇分前になるとそろそろ行くかということで財布をポケットに入れて部屋を抜け、階段を上がって仏間に入ると赤地にアーガイル柄の靴下を履いて、そうして出発した。外は曇りだが暗くはなく中性的な色合いで、大気の感触は暑くもなく肌寒くもなくちょうど良かった。歩いていると道端の石垣の上に植物の蔓が広く張りついて、その上にピンク色の、胞子の集合を思わせるような、花なのか実なのかそれともほかの器官なのかわからないが球型の、ニット帽めいた形の草が群れて生えていた。近くのベンチにはヤクルトの配達員が、傍にバイクを停めて座っていたものの、前屈みになったその姿はバイクに隠されてよくも見えない。いつも歩く坂の手前で左に折れて、より細く樹々との距離も近い木の間の通路に入った。時折り停まって肩や首をほぐしながら上っていき、抹茶の粉を振り掛けたように厚く苔生した階段を通過し、表の道に出れば道路工事を行っている。道路を挟んで手近にいた警備員に、渡れますかと訊き、あそこに美容室があって、そこまで行きたいんですけどと告げると、あっちの矢印の前から渡ってくださいということだったので、東に少々歩いてみれば美容室の前は工事の範囲でなくてカラーコーンも置かれずひらいていたので、交通整理員に車を停めてもらって通りを渡った。そうして美容室に入店し、いらっしゃいませと迎えられて、早速洗髪台に向かいながら、何か、工事してますねと親指を後ろに振った。洗髪を担当してくれるYKさんが、そうなの、いつまでもやってて、とか何とか答えたと思う。二月まで続くらしいとか言っていたか。それで洗髪台に就き、首の周りに布を掛けられてから仰向けの姿勢になって、頭を他人の手に任せる。ここでYKさんが何かの話題を振ってきたのだったがそれは何だったか、と書いているうちに思い出したが、最近、レジの周りにメモが増えちゃって仕方がない、とのことだった。ほんの些細なことでも書いておかないと忘れてしまうと言うのだが、メモを取るのは良いことじゃないですかとこちらは受けた。この日記を読んでくださっている読者の方々はよく承知のように、こちらはメモの魔である。もっとも、こちらが記録しているのはこの日記のための情報なので、通常のメモとはその目的や性質が異なるだろうが。ともかく頭を洗ってもらうと、礼を言って鏡の前に移り、椅子に腰を下ろしてカットクロスに腕を通したあたりで入口の扉がひらき、若い女性とその母親らしき二人が入ってきた。YKさんが持ってきてくれた西多摩新聞を手に取って、台風関連の記事など瞥見しながらやりとりを聞いていると、成人式の着付けの予約に来たらしい。台風に関して言えば、洗髪台に寝そべって視界を隠されているあいだにはまた、台風、大丈夫だった、というような話も交わしたのだった。我が家は問題なかったものの、多摩川が凄かったらしいねとYKさんが言うのに思い出して、調布橋のあたりが氾濫したとかいう話でしたねと答えたのだった。それで新聞を見ていると美容師の婦人――前にも書いたけれど、高校生の時からこの美容室に通っていながら、この人の名前が正確にわからないのだ。多分、I田さんと言うのではないかと思うのだが、YKさんなども苗字で呼ばずに「先生」と言うので、今まで確証が取れていない――がやって来たので、いつも通り、短く、と注文した。襟足を少々削ったあと、バリカンで外縁部を短く揃えて、頭頂部から側頭部に掛けて鋏で整えていくという次第である。
 髪を切られながら美容師のおばさんとは色々と話をしたのだが、覚えていることは少ない。いつものことだが、仕事の話題が一つにはあった。一二月から冬期講習なので忙しくなるだろうとか、今の時期から入ってくる子もいくらかいるだろうが、今更来られてもこちらにもあまりしてあげられることがない、などといったお定まりの話である。それでこのあいだ当たった(……)さんのことを、中学受験を目指している子がいるんですが、本人にあまり意欲がなくて、と話すと、やっぱり子供自身のやりたいようにさせてやらなきゃねえ、というような一般論に話は進んで、そこから確か、I田さん――という名前だとして記述を進めるが――の娘さんの同級生のエピソードが紹介されたのだったと思う。その同級生の親というのが熱心な教育ママで、朝は学校に行く前にピアノを一時間練習させ、学校のあとは塾に通わせて、何か腹に入れている余裕もあまりないから送り迎えの車のなかでちょっとしたものを食べさせる、そうして家に帰ってきたらまた勉強、というような過密スケジュールを組んでこなさせていたらしく、そのおかげで娘はストレスにやられて小学校も高学年に上がる頃には保健室登校になってしまい、一時は学校に行くとそれだけで吐いてしまうような状態にまで至ったのだと言う。そうした挿話を受けてこちらは、立川のKが話していたことを思い出し、従弟にやっぱり塾で、学生たちの進路相談に乗って道を決めるような仕事をしている奴がいるんですが、彼は東大を目指す生徒のクラスを担当しているんですね、その彼が言うには、子供を東大に入れようっていう家の親はやっぱりおかしいと、とこちらは笑った。続けて、何でもなかには、親に首を締められて、その痕が残っている、というような子も、と明かすと、I田さんは目と口を大きく縦にひらいて、ひえー! というような反応を見せた。それはかなり極端な例だとは思いますけどねとこちらが執り成すとしかし、I田さんは、でも現実的にそういう親がいるわけだ、と呟き、それで思い出したけど、とまた話を続ける。先ほどの教育ママは、子供を勉強させているあいだ、叱る時には、机の引出しを抜き出して、それでもって手だか頭だかをばしばし叩いていたのだという話だった。小学校低学年の子にだよ、と苦々しそうにI田さんは言うのでこちらは、今だったら捕まりますねと受け返した。
 そのほかにもこの日は結構話をしたのだが、何を話したのだったか肝心なことは思い出せない。ただ、二度目の洗髪に入る頃合いに、Fくんは話がわかりやすい、こんなおばさんにも理解できるように話してくれる、とI田さんが言って、塾の先生ですからねと誇ろうかと思いながら止めたのは覚えている。その他、上記の教育ママのエピソードに関連して、やはり立川の叔父であるYちゃんが言っていた例の、ただ生きているだけで良いのだという考え方、親のエゴを批判する原点忘却論も紹介したが、これについては何度か書いているのでここで繰り返すことはしない。今念頭に上がってくるのはそれくらいのことである。散髪を終えると手鏡を渡され、椅子ごと横を向いて二つの鏡のあいだに映る後頭部を確認し、さっぱりしたねと言われながら立ち上がって会計をした。三五〇〇円を支払い、有難うございましたと礼を言い、二人のそれぞれに軽いお辞儀をすると退店した。車の来ない隙を見計らい、警備員に会釈をしながらふたたび通りを渡り、樹間の坂道に入って下りていきながら、左の膝が少々痛んだ。下の道に出て水路の音を背後に進むと、耳がそのまま周囲にひらいたようで辺りの音をいちいち拾って、虫の音が、まったくないではないがほとんど聞こえず、代わりに短い鳥の音がそこここで散るのみの静けさのなかで、いつか心の内も居心地良く静まっているのに、随分と落着くなと思った。恍惚というほどの強さでないが、幸福感と呼ぶべき情緒を仄かに感じていたかもしれない。しかしこの程度の、何の出来事をも成さないほんのささやかな知覚刺激に、そう易々と幸福など感じてしまって良いものだろうか?
 帰宅すると財布をポケットから取り出して卓上に置き、そのままベランダに出て洗濯物を取り入れていると、二時半の時報が空を伝わって届いてきた。取りこんだタオルに手指を触れさせて湿り気を確かめていると、思いの外に晴れずまだ乾ききっていないようだったので、まだもう少し干しておくことにして、アイロン掛けに移った。と言ってまず先に着替えてこないといけないので、アイロン台を炬燵テーブルの隅に置いてアイロン本体のスイッチを入れておくと、財布を取って下階に戻り、自室に帰って服をゆっくり脱いで、ジャージを身につけた。そうして上階に引き返すとアイロン台の前に膝を突いて、ハンカチの上に器具を滑らせて整えていく。終えると腹が減ったので何かものを食うことにして、毎日カップ麺ばかりというのも憚られるので、これも芸がないが卵とハムを焼くことにして台所に入り、フライパンに油をちょっと引いた上からまずハムを四枚、一枚ずつ軽く放って落とした。その上からさらに卵を二つ割り落としておき、加熱しているあいだに丼に白米をよそって、黄身が固まらないうちにフライパンを傾け、米の上に焼いたものを乗せた。そうして卓に運んでおき、食べながらカフカを読もうというわけで、一旦下階の自室に行ってオレンジ色の全集を持ってくると椅子に就き、醤油を垂らして崩した黄身と合わせてぐちゃぐちゃに搔き混ぜてから食事を始めた。世界文学全集から読んだカフカの作品は、「判決」である。読みながらものを平らげると台所に行って丼と箸をさっと洗い、本を持って下階に帰ると、緑茶を用意しにまた上がったはずだ。それで茶を持って引き返してくると、時刻は三時直前、日記を書かねばならないのだが今日はしかしその前に読書をするかというわけで、引き続き辻瑆・原田義人訳『世界文學大系 58 カフカ』を書見した。「判決」は短いし、やはり何だか奇妙な篇なので、最後まで読み終えたあとに、ちょっと気になったところを細かく引いて分析してみるかという気になって冒頭に戻り、引っ掛かる記述を読書ノートに引きつつコメントも付していった。そんなことをしていると時間があっという間に経って、五頁くらいしか進んでいないのにいつか五時に至っていた。その頃になると母親が帰宅したようだったので、食事を作るかと上階に行って何を作るかと訊けば、鍋という答えがあって、既に白鍋に多種の野菜が詰めこまれて火に掛けられている。そのほかに茄子と豚肉を炒めることになったので、茄子を三本受け取って、一つを三つの塊に分けてそれらをそれぞれ薄切りにしていき、切ったものは水に晒しておいて、それから豚肉三枚を牛乳パックの上に敷いて、四つに切り分けた。一方で調理台の上に出されてあったブナシメジを、下部を切り取って手で細かく分けて鍋に加え、そうしてフライパンに油を垂らしてしばらく加熱すると、ローズマリーもいくらか散らしてから茄子を投入した。最大限の強火で油を熱していたため、水気の弾ける激しい音が立ち上がった。しばらく茄子を炙ってから豚肉も加えて、火勢は強火のままで時折りフライパンを振って搔き混ぜて、茄子にも肉にもよい具合に焦げ目がつくと塩と胡椒を振って仕上げた。茄子を一つつまんで食ってみると、塩気が強かったので、ちょっと振りすぎたかなと思った。その後、またちょっと何かの作業をしたような記憶が朧気にあるのだが、それが何だったのか思い出せない。あるいは何もやらなかったかもしれないが、ともかくそれでこちらの仕事は――そうだ、鶏肉を切って鍋に入れたのだった。電子レンジのなかで解凍された鶏の笹身を細かく切り分けて、鍋の方に加えたのだった。それでこちらの仕事は終いと独り決めして下階に帰ろうとすると、そこにいるついでにALL FREEを入れておいてと母親が言うので、玄関に出て戸棚の下部からノンアルコール飲料二本を取り出し、それが最後だったのでケースを潰して紙袋に始末しておき、缶を冷蔵庫に収めておくと塒に帰った。
 それから小沢健二『LIFE』を流して歌を歌い、(……)だらだらとして、七時半かそのくらいに至ると食事を取りに行った。鍋料理と米、大根の葉の炒め物と茄子のソテー、それにまだ余っていた白菜の味噌汁をそれぞれ用意して卓に就き、夕刊を読みながら食事を取った。夕刊一面には、河合とか言ったか何と言ったか、「河」がついていたのは間違いないと思うもののあまり興味がないので覚えられなかったのだが、法務大臣が辞任との報があった。今年七月の参院選で当選した妻の選挙陣営で、ウグイス嬢に規定よりも高額の日当を払っていた疑惑があって、それに引責する形と言う。そのほか紙面左方には首里城が全焼という沖縄県民にとってはかなりショッキングだろう事件の報道があった。何とかいう大学教授が、首里城琉球文化のまさに精髄であって、沖縄の人々にとっての喪失感はまことに測り知れない、というようなコメントを述べていた。それらを読みながらものを食って、平らげると皿を洗い、風呂に入ろうとしたところが、沸かしたっけと母親が漏らすので蓋を捲って浴槽を覗いてみればなかは空っぽである。それでスイッチを押しておき、沸くまでに一服しようというわけで緑茶を注いで自室に帰り、一年前の日記を読んだ。この日は一応本文も書いてはいて、以前のような感受性が戻ってきてくれないかと切望しているのだが、今はもう大方戻ったと言って差し支えないだろう。私は復活した。
 それから二〇一四年二月一日の日記、それにfuzkueの「読書日記」、「外山恒一連続インタビューシリーズ「日本学生運動史」 もうひとつの〝東大闘争〟  一九七八年十一月、文学部学生大会における〝圧倒的勝利〟 「東大反百年闘争」の当事者・森田暁氏に聞く⑨」(https://dokushojin.com/article.html?i=5706)、「<沖縄基地の虚実10>県民総所得の5% 基地収入にまだ誤解」(https://ryukyushimpo.jp/news/entry-283955.html)と読み、NHKスペシャルメルトダウン』取材班「福島原発事故、原子炉に届いた冷却水は「ほぼゼロ」だったと判明」(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52931)に差し掛かったところで風呂が沸いたようだったので入りに行った。湯のなかでは、例によって静止して物思いを巡らせていたが、何を思ったのだったか。そう、音楽のことを考えていて、FISHMANSみたいな曲を作りたいなと思ったのだった。コード進行やベースパターンは同じものを繰り返しながら、その他の楽器やボーカル・メロディが段々発展していくようなタイプの曲、というようなことだ。そのほか、やはり一日のうちで音楽を、流し聞きするのではなくてじっとそれに耳を傾けるような時間をなるべく毎日取りたいなということも思い、一日最低二曲、一曲はBill Evans Trioの例の一九六一年のライブ音源を順番に聞いていくとして、もう一曲分はどのアルバムを聞くのが良いかと候補を探っていたのだった。そんなことを思いながら湯浴みをして、上がってくるとさっさと自室に帰り、時刻を確認すると部屋を出た時間からちょうど三〇分が経って、九時直前を迎えていた。それから先の、NHKスペシャルメルトダウン』取材班「福島原発事故、原子炉に届いた冷却水は「ほぼゼロ」だったと判明」(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52931)を改めて読み出した。
 

 2016年9月7日。福岡県久留米市内のホテルはどこも珍しく満室だった。
 春と秋、年に2回行われる日本原子力学会の大会に参加するため、全国から原子力関係者が、久留米市に集まっていた。
 (……)
 取材班が注目していたプログラムの一つが、国際廃炉研究開発機構(IRID)による発表だった。テーマは「過酷事故解析コードMAAPによる炉内状況把握に関する研究」。最新の解析コードを用いて、福島第一原発事故がどのように進展し、どこまで悪化していったのかを分析するものだ。
 (…………)
 「3月23日まで1号機の原子炉に対して冷却に寄与する注水は、ほぼゼロだった」
 (……)
 東京電力が1号機の注水量が十分でないことに気づき、注水ルートを変更したのが事故発生から12日経った3月23日のことだ。それまでは、1号機の原子炉冷却に寄与する注水はほぼゼロだったというのだ。

 しかしながら、1号機の注水ルートに「抜け道」がなければメルトダウンを防ぐことができたのか? 答えはNOだ。
 吉田が官邸の武黒からの指示を拒否し、注水を継続していた局面は3月12日午後7時過ぎのこと。しかし、SAMPSONによる最新の解析によると、1号機のメルトダウンはこの24時間前から始まっており、消防車による注水が始まった時点では、核燃料はすべて溶け落ち、原子炉の中には核燃料は全く残っていなかったと、推測されているのだ。

 注水の遅れは事故の進展や廃炉にどのような影響を与えたのか。内藤は「MCCIの進展に関してはこの注水量が非常に重要になる」と口にした。
 MCCI(Molten Core Concrete Interaction)は“溶融炉心コンクリート相互作用”と呼ばれ、溶け落ちた核燃料が原子炉の底を突き破り格納容器の床に達した後、崩壊熱による高温状態が維持されることで床のコンクリートを溶かし続ける事態を指す。
 (…………)
 しかし、消防車から注ぎ込まれた大量の水は、途中で「抜け道」などに流れ込んだことで、原子炉にたどり着いた水は“ほぼゼロ”。コンクリートの侵食は止まることなく、3月23日午前2時半には深さは3・0メートルに達した。
 その結果、もともとあった核燃料と原子炉の構造物、コンクリートが混ざり合い、「デブリ」と呼ばれる塊になった。1号機のデブリの量はおよそ279トン。もともとのウランの量69トンに比べ4倍以上の量となった。

 さらに、『SIRUP EP』を流して少々歌いもしながら、橋本治浅田彰「日本美術史を読み直す――『ひらがな日本美術史』完結を機に―― 第2回 骨董屋の丁稚の手習い」(https://kangaeruhito.jp/interview/6619)を読み通した。

橋本 ただ、本音をいうと、私は安田靫彦の《黄瀬川陣》の中の頼朝はあんまり好きじゃないんです。近代の日本画の最大のネックは、その人のもっている嫌な部分が描けない。なんかみんないい人になるんですよね。「これをいい人と思え」だとか。昔の絵は、いいも悪いもなくて、その人の微妙な、嫌な人かもしれないっていうニュアンスも同時に伝えてくる。それは写実のせいではなくて、対象把握のありかたそのものが違うんだろうと思うんですけどね。

浅田 《黄瀬川陣》について言うと、頼朝と義経の感動の再会を描きながら、しかし兄はこの弟を戦略的に使い捨ててやろうと思っているかもしれないという感じにも見えて、それを一九四○年から四一年という時期に描いたというのは、一種の戦争画として見ても面白いと思うんです。ただ、橋本さんの言われることはよく分かる。あの種の近代日本画は、なんとなく絵本のイラストレーションみたいで、人間の多面性に迫るリアリティがないんですよね。

浅田 金刀比羅宮というのはなかなか面白くて、伊藤若冲の《百花図》という植物図鑑のような絵があり、円山応挙の《瀑布及山水図》という巨大な滝が床の間から流れ落ちている絵がある。一八世紀の西洋の美学でいえば典型的な「美」と「崇高」ですよ(応挙は一般に「美」に対応する作品の方が多いわけだけれど、一八世紀的パラダイムの中で「美」も「崇高」もこなせたということでしょう)。さらに金刀比羅宮には、その百年ぐらい後の高橋由一の油絵もある。パリの万国博覧会に対抗して個人の展覧会を開いたギュスタヴ・クールベみたいなもので(まあ高橋は反動的な県令のコミッションで仕事をしたりもしているから右翼のクールベと言うべきだろうけれど)、明治十二年の琴平山博覧会に35点もの油絵を奉納したんですね。そこには「美」でも「崇高」でもない、たんにリアルなものが描かれている。木綿豆腐と焼豆腐と油揚を描いた《豆腐》なんて、ほとんど構造主義かと思うような絵だけれど。
 こうしてあえて西洋近代の視点から見ても、一八世紀の若冲や応挙の段階で同時期のヨーロッパの「美」と「崇高」の美学が実践されているし、さらに一九世紀後半の高橋由一クールベのレアリスムに近づいているとさえ言えるような気がする。ところがそのあと急に黒田清輝とか青木繁とかが出てきて……。

浅田 でも、金刀比羅宮高橋由一の作品の中には、左官が壁土かなんかを捏ねている脇の壁に相合傘の落書きなんかが描いてあるところまで写し取った絵がある。貧乏もあそこまでいけばすごい。他方、貧乏じゃないとどうなるかといえば、岡本太郎になるんじゃないですか。人気漫画家だった岡本一平が、息子を連れ、妻の岡本かの子とその愛人たちまで引き連れてヨーロッパへ行く。で、太郎は、抽象のグループ(アブストラクシオン・クレアシオン)から、シュルレアリスムを経て、シュルレアリスム異端のバタイユのグループまで、あるいは、コジェーヴヘーゲル哲学講義から、出来たばかりの人類学博物館での民族学講義まで、あらゆるものを横断していく。一九三○年代のパリの前衛の最先端をなで斬りにしたわけで、世界的に見てもあれほど短期間にあれほど横断的に動いた人はほとんどいないでしょう。そして、そこで身に着けた民族学の視線で日本の縄文を再発見することになる(実はその前に雪の科学者として有名な中谷宇吉郎の弟の中谷治宇二郎がフランスで縄文研究をしていたのを発見したようだけれど)。お坊っちゃまのパリ遊学としては世界最高のレヴェルですよ。だけど、戦後「夜の会」で一緒だった花田清輝も言う通り、君は話は面白いのになんで作品はダメなんだ、と。

橋本 西洋のルネサンスが花開いたのはメディチ家がいたからなんて言うけれど、日本にはずっとパトロンがいるんですよね。日本美術史で、ある時代にあったものがなくなったり、新しいものが生まれたりするのは、パトロンの質の変化なんだろうと思う。つまり、日本美術史という観点で見ると、パトロンの質の変化が日本の社会の質の変化なんでしょうね。
 だから、白河上皇から後白河法皇院政の時代というのは、私はあれが日本のブルボン王朝だと思っています。そうなると、鎌倉時代の到来がフランス革命なのかもしれない。もちろん、日本の歴史をあまり西洋の歴史に当てはめようとしすぎるのはいいことではないですけど。

浅田 院政期の文化というのは、その前の王朝文化をもう一回屈折させてものすごく洗練させたものですよね。たしかにあれは日本文化の一つのピークだと思います。

橋本 ただ、日本の巻物やなんかで残っているのって、だいたい院政期のものじゃないですか。そうすると藤原道長の時代にどういうものが描かれていたか、というのが想像つかないんですよ。「源氏物語」のなかに、絵合というのがあるぐらいだから絵は描いていたんだろうが、それがどういう絵なのか、想像する手だてがまったくない。だとすると、もしかしたら紫式部は絵のない時代にフィクションで勝手に絵合というものを作っていた、と考えられなくもない。そう思うと摂関政治の時代って、われわれが思っているよりも退屈な時代だったのかもしれないな、という気もするんですよね。

 それで時刻は九時四〇分、いい加減に今日のことを書いておかなくてはなと取り掛かって、それほど詰まったつもりもないのにこの現在時まで追いつけば二時間弱が掛かっていて、時間はもう一一時半を前にしている。前日の「火夫」の感想も仕上げきれていないし、二八日の記事も書くことがたくさん溜まっている。しかしまあ、緩く、焦らずゆっくりとやろう。
 炊飯器のなかの米がもう尽きかけていたことを思い、翌朝に炊けるように新しく米を磨ぎにいくことにした。またついでに、カップヌードルを今日も夜食に食べようという目論見もあった。それで上階に上がり、父親におかえりと挨拶を掛けて、台所で炊飯器から余った米を皿に取り出しておき、洗剤は使わずに網状の布[きれ]で釜を洗ってから、笊を持って玄関に出ると、戸棚のなかの袋から三合を掬って入れた。そうして流し台の前に戻り、洗い桶には父親の飲んだ酒の瓶が浸けられてあったので、それをどかして水を流し、そこに笊を置いて流水でもって米を洗う。終えると三合を釜に入れ、水も注いで翌朝六時に炊けるように設定しておき、酒の瓶を白濁した水のなかに戻してからふたたび玄関に行き、戸棚から今度は日清のシーフードヌードルを取った。父親はソファに就いてニュースを見ながら歯を磨いていた。こちらは卓の端で包装を取り、ゴミ箱にビニールを捨ててきてから湯を注いでいると、テレビは天気に移って明日は南の方は気温が二五度にも達する見込みだと言う。そうして電気ポットに水を注ぎ足しておいてからカップ麺を片手で包みこんで階段を下った。コンピューターの前で立ったままジャンク・フードを食い、食べ終えてちょっとだらだらすると前日の記事をひらき、「火夫」の感想を書き足そうと思ったが、細かく書くのは面倒臭かったのでちょっと文言を調整したのみで完成とした。それからTwitterに感想を投稿しておき、ここまで日記を書き足せば零時半前である。
 それからまた辻瑆・原田義人訳『世界文學大系 58 カフカ』をひらき、テーブルの前に立ったまま「判決」を読み、読書ノートに書きこみをしていったのだが、思いの外に早く、一時半が近づく頃にはどうも睡気が差して身内に籠ってきたので、仕方なく眠ることにした。どうにも思ったように行かないものだ。


・作文
 12:02 - 12:56 = 54分(31日; 30日)
 21:40 - 23:23 = 1時間43分(31日)
 23:58 - 24:11 = 13分(30日)
 24:16 - 24:24 = 8分(31日)
 計: 2時間58分

・読書
 14:54 - 17:03 = 2時間9分
 20:07 - 20:28 = 21分
 20:58 - 21:35 = 37分
 24:43 - 25:26 = 43分
 計: 3時間50分

  • 辻瑆・原田義人訳『世界文學大系 58 カフカ』: 412 - 416
  • 2018/10/31, Wed.
  • 2014/2/1, Sat.
  • fuzkue「読書日記(159)」: 10月14日(月)
  • 外山恒一連続インタビューシリーズ「日本学生運動史」 もうひとつの〝東大闘争〟  一九七八年十一月、文学部学生大会における〝圧倒的勝利〟 「東大反百年闘争」の当事者・森田暁氏に聞く⑨」(https://dokushojin.com/article.html?i=5706
  • 「<沖縄基地の虚実10>県民総所得の5% 基地収入にまだ誤解」(https://ryukyushimpo.jp/news/entry-283955.html

NHKスペシャルメルトダウン』取材班「福島原発事故、原子炉に届いた冷却水は「ほぼゼロ」だったと判明」(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52931

・睡眠
 3:10 - 11:10 = 8時間

・音楽