2019/11/1, Fri.

 そしてさらに広い、別の恥辱感がある。それは世界に対する恥辱感だ。ジョン・ダンが忘れられないような形で言った言葉がある。それは強制収容所についてや、そうでない場合に、数え切れないほど引用されたのだが、それは「いかなる人間も孤島ではない」、いかなる死の鐘も生きているすべての人のために鳴っているのである、という言葉である。しかし他人や自分自身の罪を目の前にして、背を向け、それを見ないように、それに心を動かされないようにするものがいる。ヒトラー統治下の十二年間、大部分のドイツ人はこうしてきた。彼らは、見ないことは知らないこと、そして知らないことは彼らの共犯や黙認の度合を減らす、という幻想を抱いてきた。しかし私たちには、意図的な無知の防御壁、T・S・エリオットの言う「部分的な防御壁」は否定されていた。私たちは見ないことができなかった。かつても現在も、苦痛の海が私たちを取り巻いていて、その海面は年々上昇し、私たちを溺れさせるまでになっている。目を閉じたり、背を向けることは無益であった。なぜならそれは私たちの周り全体に、地平線のかなたまで、あらゆる方向に存在したからである。私たちには孤島であることは不可能だったし、それを望みもしなかった。私たちの中の正義のものたちは、その数はいかなる他の人間集団とも変わりがなかったが、自分ではなく、他人の犯した罪のために、良心の呵責や恥辱感を、つまり苦痛を感じていた。彼らはそれに巻き込まれていると感じていた。なぜなら彼らの周りで、彼らがいた時に、彼らの中で起こったことは取り返しがつかないものだと感じていたからである。それを洗い流すことなど絶対にできないだろう。人間は、人類は、つまり私たちは、計り知れない苦痛の大建造物を作り上げる能力があることを示したのだ。苦痛とは支出も労苦もなしに、無から作り出せる唯一の力である。何も見ず、何も聞かず、何もしなければいいのだから。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』朝日新聞出版、二〇〇〇年、95~96)


 八時のアラームで起床。快晴。カーテンを開け、ベッドを抜け出して白いテーブルの前に立つと、南窓から光が通り抜けて床に日向がひらき、足先を温めている。コンピューターを点けてTwitterを覗き、Evernoteを立ち上げて早くも日記の用意を整えたあと、上階に行った。昨晩洗面所に脱いでおいたジャージを取って寝間着から着替え、また芸もなくハムエッグを作ることにして材料を調理台の上に出しておくと、トイレに行った。用を足してきて、鍋料理の余った白鍋を火に掛けながら、その隣の焜炉にフライパンを置く。油を垂らして火を点けて、ハムを四枚敷いたあと、その上から卵を優しく、崩れないように割り落とす。米は昨夜のうちに、この朝に炊けるように仕込んでおいた。炊飯器から丼に白米を盛ると、焼けたハムエッグをその上に取り出し、鍋料理もよそって居間に移った。座って新聞を引き寄せ食べていると、母親が大根をスライスしたサラダを持ってきてくれたので、それも頂く。テレビは『あさイチ』、菅田将暉がゲストとして出ていて、俳優業十周年だとか言う。一緒に仕事をしたプロデューサーだかディレクターだかが熱っぽく彼の才能を称賛していたが、こちらとしてはこの人に特段の興味はないし、折々どこかで耳に触れた彼の音楽も、特に良いとは思わない。新聞を瞥見しつつものを食べると、皿洗いを済ませたあとに自室から急須と湯呑みを持ってきて、風呂洗いはあとでやることにして緑茶を用意した。そうして下階に帰り、陽射しの通り抜けて明るい部屋のなかで早速今日の日記を書き出して、ここまで記せば九時の手前まで来ている。
 それから前日の記事の終わりをほんの少しだけ書き足して完成させたあと、過去の日記の読み返しに入った。一年前のものも二〇一四年二月二日のものも、特段に言及しておくべきことはない。次にfuzkueの読書日記、Mさんのブログ、「外山恒一連続インタビューシリーズ「日本学生運動史」 もうひとつの〝東大闘争〟 〝影の指導部〟としての〝ゼロ・フラクション〟 「東大反百年闘争」の当事者・森田暁氏に聞く⑩」(https://dokushojin.com/article.html?i=5730)、「<沖縄基地の虚実11>跡地の経済効果28倍 基地、発展の足かせに」(https://ryukyushimpo.jp/news/entry-283959.html)と通過したのち、木村幹「「ガラパゴス化」する慰安婦論争 ―― なぜに日本の議論は受入れられないか」(http://synodos.jp/politics/4347)にアクセスした。この小論を読み進めてあと少しで読了するという時に、母親が部屋にやってきて、父親がこれをコピーしておいてくれと言っている、と言って何やらクリップで留められた紙を渡してきた。自治会の資料らしい。そんなもの自分でやれよという話なのだが、上の電話機でコピーしようとすると黒く塗り潰されて上手くコピーできないところ、下階のプリンターの使い方は母親にはよくわからないから、ということらしい。それで大音量で流れていたBill Evans Trio, "My Romance (take 2)"を停めて、階段下の室に行き、プリンターの前に立った。簡単な仕事だと思ったところが台に原稿をセットしてボタンを押してもスキャンが始まらない。それで一度電源を切って再度入れ直し、それからもう一度試してみると今度はスキャンはできたものの、コピーがいつまで経っても始まらない。待っているあいだに近くの便所に行って、腸を軽くしてから出てくると、排紙トレイを手で引き出してください、とか表示があって、その通りにしてみたところようやくコピーが始まった。それで四枚分を両面コピーして新しいセットを拵え、上階の母親に渡しに行って仕事は終了、先ほどの論考をふたたび読んだ。

 特に慰安婦問題において注目すべきは、少なくともこのメディア[『朝鮮日報』]において、ある特定の時期までは慰安婦問題に対する関心がほぼ皆無だったことである。
 (……)
 同じことは学術論文についてもいうことができる。今日利用可能なデータベースから判断するかぎり、植民地期の慰安婦問題にかんする韓国語の学術論文は70年代までは1本もなく、80年代を通じても数本があるに過ぎない。そしてそのすべては、女性問題の専門家によって書かれたものであり、歴史学者慰安婦問題について書いたものは80年代になっても登場しない。(……)

 実際、80年代までの日韓両国のあいだでは、慰安婦問題をめぐる紛争は存在しなかった。すでに指摘したように、韓国側においてこの問題が重要だ、という認識が存在しなかったからである。そして、このことは逆に、慰安婦問題の重要性がどのようにして見出されて行ったかを見れば、慰安婦問題にかかわる紛争が本来どのような性質のものであるかを理解することができる、ということを意味している。(……)
 それでは、韓国の人々は慰安婦問題の重要性をどのように見出し、意味づけしていったのか。指摘すべきは、ほとんど誰も韓国において注目してこなかった慰安婦問題を「再発見」し、この問題の重要さを見出して行ったのが、女性学研究者をはじめとする女性運動家たちだったということである。(……)

 韓国の女性運動はこの「キーセン観光」に着目した。もちろん、それは売買春が女性の人権にかかわる問題であるからである。だが、この「買い手」が日本人であったことにより、彼女らの問題提起は、すぐに韓国のナショナリズムと結びついた。かつて自らを支配した日本人が、自国の「邪悪な支配層」と結託して、朝鮮半島に大挙再上陸し、札束をちらつかせて韓国女性たちを食い物にする。彼女らによってそう理解された当時の現実は、容易に日韓間に存在する「過去」の問題と結びついた。
 つまり、「キーセン観光」のもと抑圧される女性たちの姿は、植民地期の慰安婦たちの再来、だと理解されたわけである。こうして「過去」は「現在」との結びつきを見出され、「現在」に繋がる重要な問題として議論されていくことになる。
 重要なのは、このような「出自」をもつ慰安婦問題は、韓国においては国家対国家の問題というよりは、女性対男性、より正確には、男性中心社会における「組織的暴力」により抑圧される者と、抑圧する者のあいだの問題だと、出発時点から位置づけられていたことである。だからこそ、彼女らの運動の矛先は、日本に対してと同時に、韓国社会に対しても向けられた。いうまでもなく、その主要な成果の一つが、盧武鉉政権下の売買春の非合法化であり、また政府内での女性家族部の設置に他ならなかった。だからこそ、今日、韓国政府内において慰安婦問題を担当するのは、教育問題を担当する文教部ではなく、この女性家族部になっている。
 異なる表現を使えば、韓国における慰安婦問題の認識の特徴は、それが「過去」にかかわる「歴史認識問題」である以上に、「現在」にかかわる「女性問題」としての性格をゆうしていることにある。(……)

 たとえば、朝日新聞報道のちょうど1年前の91年1月、当時の海部首相が韓国を訪問している。このとき、海部をソウルで迎えたのは、戦時下における労働者等の「強制連行」を糾弾する声であり、そのことは当時の韓国における「歴史認識問題」への関心の中心が慰安婦問題ではなく、労働者等の「強制連行」問題にあったことを意味していた。より正確にいうなら、多くの韓国人にとって、この時点では慰安婦問題は単独の問題というよりは、より大きな植民地期の「強制連行」問題の一部として理解されていたのである。
 慰安婦問題にかかわる韓国の運動団体も、この状況を前提として、自らの運動を展開していくことになった。この時点で彼女らが主張したのは、慰安婦問題こそが、植民地期の「強制連行」問題のなかでももっとも醜悪な事例であり、これを訴えることこそが他の「強制連行」問題の解決にも有益である、ということだった。だからこそ、「この時期」の慰安婦にかかわる運動は、慰安婦がどのようにして動員されたのかを中心として展開された。

 わが国における慰安婦問題にかかわる議論は、どうしてその運動の展開からずれてしまったのだろうか。それは慰安婦問題には「二つの顔」、つまり「女性の人権問題」としての顔と、「歴史認識問題」としての顔の二つがあり、その主たる顔が「女性の人権問題」としてのものの方である、ということが見落とされているからである。(……)

 (……)ドイツでは、ナチスにかかわる過去を現在のドイツと切り離す「理屈」ができあがっており、これにより「過去」に対する批判が「現在」の彼等に及ばないような仕組みを作り上げている。その意味では「過去」の清算とは、単に法律的賠償を尽くしたり、謝罪のパフォーマンスをすることだけではないのである。より重要なのは、何らかのかたちで「過去」に区切りをつけ、「現在」のわれわれと切り離すことなのである。
 (……)
 もちろん、そのために重要なのは、今のわれわれの社会がどのような状態にあるかである。慰安婦問題で問われているのは、「過去」の事実以上に、われわれの「現実」、より正確にはわが国の「女性の人権」、さらには「組織的暴力の下に置かれている人々」をめぐる状況である。それこそがじつは慰安婦問題の「本丸」なのであり、だからこそ慰安婦問題を突きつけられた日本が女性の人権にかかわる問題についてどのような態度を見せるかはきわめて重要なことなのである。

 あと、時間が前後するが、過去の日記を読み返しているあいだだったかその頃に、ベランダに続くガラス戸が鳴ったので、母親が布団を干してくれるのだなと鍵を開けて、布団を渡した時間があった。
 木村幹の記事を読むと、次は木澤佐登志「失われた未来を求めて 第三回 ジョーカー、あるはずだった未来の不在」(http://www.daiwashobo.co.jp/web/html/kizawa/03.html)だが、この第三回は全体としてそれほど啓発的には思えず、引用したい記述も下の一箇所のみで、それだって基本的な事柄であって強いて言えば、という程度のことである。

 左派ポピュリズムは右派ポピュリズムと異なり、過激な排外主義(移民反対など)を声高に打ち出すことはない。しかし近年、左派ポピュリズム勢力もナショナリズムを強調しはじめている。たとえばムフは、閉鎖的/排外主義的でない、「国民的(ナショナル)な伝統の、最良でいっそう平等主義的な側面であるパトリオティックな同一化」としてのナショナリズム=集合的意志、そしてそれが構築される場としての国民国家とその中で行為する文法としての市民=シティズンシップを重要視している[10: 『左派ポピュリズムのために』シャンタル・ムフ山本圭/塩田潤訳]。
 こうした、情動的な磁場において構成される人民の集合的意志をまとめる形式としての同一化というファクターは、「エリート」対「人民」という対立軸を生み出す上でも重要である。というのも、同一化の形式=行為体(エージェンシー)の存在しないところには、それと対立するべき「敵」もまた存在しないからだ。あるいは逆に言えば、そうした「敵」を措定することで、その対立物としての「人民」が同一化の形式=行為体として遡行的に生成される。両者の関係は相互依存的であり、どちらが欠けてもポピュリズムは成り立たない。ここにポピュリズムの解決困難なジレンマがあるのではないか。
 ポピュリズムは常に「エリート」の存在を、「敵=彼ら」の存在を要請する。対立と緊張関係の維持こそが手段であり目的となる。「敵」を殲滅してしまえば、あるいは「私たち」が権力を奪取して「彼ら」の位置を占めてしまえば、ポピュリズムは存在意義を失うことになる。対立の解消こそがポピュリズム政党のもっとも恐れる事態であるかもしれない。ムフも指摘するように、ポピュリズム政党のアピールは、「ひとたび政権の一翼を担うと弱まってしまう」のである[11: 『ポピュリズムとは何か - 民主主義の敵か、改革の希望か』(中公新書)水島治郎]。
 カール・シュミットの言うように、<政治>の根幹に「友」と「敵」を分割するモメントが超越論的に内在しているとしたら、私たちは<政治>を続ける限り、この「対立」から抜け出すことはできないのかもしれない。<政治>は分割を生み、分割は対立を生み、やがて対立は血なまぐさい争いへと不可避的に発展していく(必ずしもそうではない、というのがムフらの立場だが)。

 そうしてさらに英文を読もうというわけで、Timothy Snyder, "The fatal fact of the Nazi-Soviet pact"(https://www.theguardian.com/commentisfree/cifamerica/2010/oct/05/holocaust-secondworldwar)にアクセスしたが、読みはじめてまもなく、いつも利用しているインターネットの辞書サイトに何故か繋がらなくなって、仕方がないので身体でもほぐしながら待つかというわけで、椅子を後ろにどかして屈伸をした。音楽はBill Evans Trio『Portrait In Jazz』を流しはじめたところだった。左右に開脚して上げた肩に力を籠めながら、冒頭の"Come Rain Or Come Shine"、それに続く"Autumn Leaves (take 1)"を聞いた。"Autumn Leaves"の間奏の三者入り乱れてのいわゆるインタープレイ、特にベースとピアノの絡み方には何かしら聞くべきものがあるような気がする。そうしているうちにインターネット・アクセスは回復していたので、上の記事を三〇分ほどで読了し、ここまで日記を書き足せばもう一一時半である。

・proposition: 意見、判断
・posit: 事実と仮定する、断定する
・reckon with: 清算する
・imputed: 転嫁された; 帰属された
・spurious: 偽の、誤った
・Vilnius: ヴィルニアス、ヴィリニュス; リトアニアの首都
・NKVD: ソ連の内務人民委員部
・hinder: 妨害する

We all agree that Hitler had the horrible aspiration to eliminate the Jews from Europe. But how exactly was Hitler to do so in summer 1939, with fewer than 3% of European Jews under his control? Hitler needed war to eliminate the Jews, and it was Stalin who helped him to begin that war.(……)

 歌を歌った。Richie Kotzenの曲をいくつか。それで一二時を回るとRobert Glasper Experiment『Black Radio 2』をBGMに二八日の日記に取り組みはじめた。一九六一年六月二五日のBill Evans Trioについての分析を書くのに苦戦して、と言って単なる図式なので別にそんなにきっちり詰めようとも思っていないのだけれど、それでも何度か読み返しながら文言を調整して、終えた頃には一時半を迎えていた。Twitterの方にも感想を三つのスレッドに分けて長々と投稿しておき、そろそろ腹も減ったし食事も取るかというわけで作業を切りとして、まず下階のベランダに干された布団を入れることにした。ベランダにはまだ暖かな陽射しが通っていた。自分のものは自分のベッドの上に入れておき、母親の布団は両親の寝室へ運び入れて、そうして上階に行くとトイレで用を足してから風呂を洗いに行った。栓を抜いて残り湯が流れだしていくあいだは左右に大きく開脚して股関節をほぐしながら待ち、浴槽が空になるとそのなかに入ってブラシで壁を擦りながら、先ほど書いた音楽の感想を思い返して、聞いたのは六分か七分かそのくらいなのに、その時のことを文章にするとなるとその何倍も掛かるのだから、言語とはまったく効率の悪い道具だなと思った。そこからさらに考えが逸れて、そんなことがいずれ本当に可能になるのかそれとも永久に不可能なのか知らないが、頭のなかにある情報をそのままデータとして他人に伝達できるようになったら、そちらの方がよほど直接的で正確で手間も掛からないのだから、きっと言語というツールは退化して失われ、人類は喋らなくなるのだろうなと想像した。そうなれば文学という営みも用済みになるわけだ。言語がなくなる時こそ文学の死ぬ時というわけだが、逆に言えば言語が消滅するまでは文学も、仮にほそぼそとではあっても生き残り続けるのではないかという気がする。あるいは言語が情報伝達の手段としてもはや用いられなくなった世界でも、時代遅れな好事家のひどく反動的な趣味として残るだろうか、それはそれで面白そうだななどとそんなことを考えながら風呂を洗った。
 風呂を出てくると食事である。汁物は二種類、鍋料理と白菜の味噌汁があって、どちらももう一杯分くらいしか残っていなかったので両方とも飲むことに決め、焜炉の火を点けて熱しているあいだに冷凍の唐揚げを皿に出し、電子レンジに突っこんだ。それから白米をよそって卓に運び、汁物もそれぞれ椀に注ぎこんで持っていき、最後に二分四〇分加熱した唐揚げも配膳すると、またカフカを読みながら飯を食うかというわけで、自室からオレンジ色の世界文学大系を持ってきた。そうして唐揚げを細かく噛みちぎっておかずにしながら白米を食べ、一方でカフカの「皇帝の使者」と「家長の心配」、「最初の苦悩」を読み、そうすると汁物も飲み干して皿をすべて空にしたので、台所に移って食器を洗った。それから洗濯物を取りこむためにベランダに出れば、陽射しはまだまだ明るくて、西の正面から結構分厚く顔に掛かって瞳に眩しく、肌にも染み入るように被さって汗の気と混ざる。そんななかで吊るされているものを少しずつ取りこんでいき、すべて入れてしまうとまずはバスタオルの、洗濯挟み二つでハンガーに留められているのを一つずつ地道に外していき、それを畳むと今度は集合ハンガーに吊るされたフェイスタオルも取って整理していった。外はまさしく快晴、前方の南窓を見ても、背後、西のガラス戸がひらいた先のベランダを見通しても空に雲は一露もなく、空気は澄明、樹々の頭を越えて東南の市街に建てこんだマンションが遠くにはっきりと覗き、近間では近所の家のベランダにやはり干されたマット様の洗濯物が、西を向いていて乾かすには都合が良いようで、太陽の明るみを全面に掛けられている。タオルを畳み終わると洗面所に運んで籠に入れておき、戻ると肌着類や家族三人の寝間着を畳んで仕事は終了、下階に戻った。
 四時四五分くらいには家を出ようと考えているから、猶予は二時間余りしかない。二時二〇分からこの日の日記を書き足しはじめたが、途中でインターネットに遊んでしまって余計な時間を食い、三時を越えたところで打鍵に戻ったけれどまもなく何だか先に着替えておこうかという気になって、それで上階に靴下を履きに行った。仏間で真っ黒な地に白いドット模様が付された靴下を足につけ、階段を下りて自室に来ると、cero "Yellow Magus (Obscure)"を流して歌いながら仕事着に着替えた。今日選んだのは父親に借りている灰色の、少しサイズの大きいスラックスである。ネクタイは濃い目の水色のシンプルなもの、その上にベストも羽織れば打鍵に戻り、ここまで記して三時四〇分となっている。残りの時間で二八日の記事をできる限り進めなければなるまい。
 そういうわけで二八日の記事を書き進め、四時過ぎで一度中断すると洗面所から歯ブラシを咥えてきて、辻瑆・原田義人訳『世界文學大系 58 カフカ』から「断食芸人」を読みながら口内を掃除した。六分間だけものを読み、口を濯いできてからふたたび打鍵に戻って、四時半過ぎまで作文を進め、便意が高潮していたのでそこで止めて、南窓のカーテンを閉めてバッグを持って階を上がった。ソファの上に放置してあった足拭きマットを洗面所に持っていき、それからトイレに入って糞を垂れ、出ると食卓灯を点けておき、そうして久しぶりに整髪料でも髪につけるかと洗面所に入った。母親がいつか美容院で買わされたARIMINOの整髪料を手に取って、擦って伸ばしてから髪につける。頭頂部に指を通して適当にしごき、前髪などねじってやや束の感じを出しておき、そうして石鹸を使って手を洗うと時刻は四時四〇分、出発するのにちょうど良くなっていた。
 玄関を出てポストへ寄り、夕刊を取って一面をちょっと見やると玄関のなかに置いておき、出発して道に出た。家のすぐ傍の坂の下で、小さな子供が二人、どうも男児と女児一人ずつに見えたが、道端で何やらしゃがんで遊んでいるのを見ながら過ぎると空気が流れて、結構冷たいものの歩いているうちにどうせまた身が温まるのだろうから、むしろこれでちょうど良い。坂に入って右の下方に視線を振れば、川はまだ濁っているが、僅かに緑の色味が戻ってきたように見えなくもない。それとも一一月にもなれば、川は緑を失って、毎年あのようなくすんだ粘土のような色合いだっただろうか? 坂を上っていくとその途中、ガードレールの上に大きな蜘蛛の巣が構築されており、中心に鎮座している主の体も大きいのを見て、この巣はいつからかずっとここに浮かんでいるが、蜘蛛という生き物もまったく不思議で、一度巣を作ったら自分からはじっと移動せず、獲物が掛かるのを待つのみで、それで楽しいのだろうかと疑問に思った。いや、楽しいとかそんな感覚は蜘蛛にはないのだろうが、しかしあれでよく食べ物が手に入るものだ、生物界というものもよく出来ている、ところでそう言えばドゥルーズが、『プルーストシーニュ』のなかでかの作家を蜘蛛に喩えていると聞いたことがあるけれど、あれはテクストに照らして確かな読解なのだろうか、とそんな風に思念を逸らしながら坂を上った。出たところで老婦人が一人、前からやってきて、一瞬Sさんに見えたけれどどうも違うようで、見たことがあるようなないような人だがとりあえずこんにちはと挨拶をして過ぎれば、樹々の向こうに街道の、オレンジの街灯が浮かんでいるのが透けて見え、夜にはそのあたり一帯の空間に赤の色が液体的に染みこんでいるものだが、今はまだ広がらず、光の源に固まるのみで勢力弱く灯っている。
 街道へ出ながら見上げれば空はまっさら、電柱や交通標識の柱に掛かった蜘蛛の巣の、糸も本体も引っ掛かった葉屑の類も、黄昏前の淡い青さを背景にくっきりと浮かび上がって、目を振れば東の果てでは紫が仄かに薫っており、振り向けば背後、西空の地平は黒く沈んだ樹々の先で、高熱で溶かされた金属を注ぎこまれたような純白混じりのオレンジ色を低みに残している。途上、東空にはほとんど差異がないけれど微妙なグラデーションが生まれており、上空の青が下っていくとともに脱色された白さが僅か差し挟まり、次に紫がくゆってそれより下では初めのものよりも微かに沈んだような青さが回帰してくる。その精妙さを見つめながら街道沿いを進んでいくと、老人ホーム横のハナミズキは臙脂色を濃く強めて、赤々と色を籠めていた。
 裏通りへ折れるとどこからか子供の声が聞こえてきて、歩を進めるにつれて正面のアパートの隣の、公園とも言えないほどにこじんまりとして侘しい公園で、子らが声を上げながら駆けているのが見られた。折れればそこには別の男児が二人、小さな自転車を伴って道の真ん中に佇んでおり、一人はスタンドを蹴ってがしゃがしゃ鳴らし、縦に立てたり横にしたりしている。過ぎるとさらに、こちらは補助輪をつけた自転車をがらがらいわせる女の子と、その祖父らしき男性が連れ立ってやってきて、この人は先の男児たちの保護者でもあるようで声を掛けていた。
 裏通りを黙々と歩き、空き地の横まで来ると家がひとときなくなるから西南の空が広くひらいて、先ほどよりも陽は山の向こうに遠くなったはずなのに、かえって残光の茜色が色鮮やかに強く張って、細い三日月も南の青さのなかにくっきりと刻まれて際立ち、道はよほど黄昏に沈んでいるのに、家の高みや遠くのマンションにはオレンジ色の漏洩がほんの幽かに混ざりこみ、空気が仄かに熟して甘いような薔薇色の味を帯びているのを、あと僅か五分、いや三分もすれば崩れるような、一一月の午後五時を回ったこの時間にしか存在しない均衡だろうなと見た。
 この日の出勤は元々一コマのみだったのを、家にいるあいだにもう一コマ頼めるかとメールが来て了承したのだったが、それは昭島から手伝いのために呼び寄せた講師の、先般話をちょっと耳にした七〇歳だかの老人らしいがその人が、まだ新人だから三人回すにはなかなか難しいだろうとそういう事情があるらしかった。この日の相手は一コマ目が(……)さん(中三・英語)、(……)くん(中三・英語)、(……)くん(中三・英語)、二コマ目が(……)くん(中三・英語)、(……)(高三・英語)、(……)くん(高一・英語)。色々と思ったことはあるけれど書くのが面倒臭いので大方割愛していこう。(……)くんは漢検の問題を返却すると授業中にもそれを解いていて、わからないところを訊いてきたりした。その一方で記録ノートには自らこちらの説明したことを書いてくれたりして、しかしそれは真面目さと言うよりは早く授業を終わらせたいというような気持ちから出ている行動のようで、ずる賢いと言っては悪意が強いが、なかなか如才ないタイプの生徒のようだ。帰る際なども、入口近くで生徒の見送りをしているこちらに対して、扉の外から手を上げて去っていったりして、何だか知らないがいくらか懐かれたのかもしれない。
 (……)くんはまた英文解釈及び和訳の練習だが、本人も言う通りなかなか難しい問題が続いて、三行とか四行とか長いものが見られるのは結構難儀だっただろう。しかしあれくらいの英文を読み、曲りなりにも訳すことができれば、かなりの力はつくのではないか。(……)くんは全然やる気のない生徒で、この日も解いたのは僅か八問かそのくらいで、話し方もだるい、とかめんどい、とか粗雑な口ぶりなのだが、その一方で授業後に振替の手続きをしてあげた時にはきちんと礼を言ったり、さよなら、と声を掛けてもさようなら、と返してくれたので、そうしたラフさと礼儀正しさの共存がよくわからない。
 昭島からやって来た七〇歳だかの(……)先生は随分と気の弱そうな感じの線の細いおじさんで、最初奥のスペースでメモを取っているところに来たものだから立って挨拶を交わし、何かわからないことがあれば是非訊いてくださいと言っておいた。その言葉の通り、授業準備の際にはタブレットの使い方やテキストの場所など教えて、授業中にも一度、様子を確認しにいった。しかし一コマ目はともかくとしても、二コマ目は相手が(……)兄弟だったので、まだ授業を三回しかやっていない新人にとってはなかなか厳しかったのではないか。兄弟の一方、(……)の方が鼻をかみに奥のスペースに来た際に随分と疲労したようなうんざりしたような顔をしていたので近づいていくと、先生、あの人何言ってるか全然わからないっすよ、頭おかしいっすよ、とのことで、うーん、という感じだった。頭おかしいっすよ、の方は、(……)先生を彼らに当てた室長の選択を指して言っていたのかもしれないが。しかし七〇になっても自分と五五年も年齢の違う子供たちを相手に働かなければならないとは、実に世知辛い世の中である。それで室長は授業後も面談中だったので、どうも長くなりそうだったから、(……)先生には退勤してもらった。こちらが退勤する頃になってもまだ面談は続いていたので、その旨連絡ノートに記しておき、(……)兄弟の相手はやはりなかなか難しかったんじゃないでしょうかとのコメントも付しておいた。面談の相手はどうも本人の姿が見えなかったので確証は持てないが、(……)くんとその両親だったようで、親御さんの話しぶりが結構粗雑な感じで、圧が強そうだなあと思われた。
 それで退勤し、駅へ入ってホームに上がると奥多摩行きに乗って扉際に行き、横を向いて手摺りに寄り掛かりながら立った。まもなく乗換えの時間が来て、ばたばたと人々がたくさん乗りこんできたあと発車である。優先席に就いた若い女性がくしゃみを何度も連発し、鼻水をずるずると啜る音も立てていた。風邪を引いていたのだろうか。最寄り駅に着くと降りて、ホームを行ってコーラを買い、ベンチに就いて飲みながら手帳にメモ書きをしたが、微風が肌身に冷たく、もはやコーラを喜んで外で飲むような季節ではなくなっていた。飲み終えると階段通路に入り、車が両方向に街道を流れていくその白や赤のライトを見ながら段を下り、駅舎を抜けて坂道に渡ればやはりなかなか空気が冷たい。下りていくあいだ、落葉も多くなったようで、左右の端にたくさん散って道を縁取っていた。散らばり方もより乱雑になって、道の中央付近、歩く足もとのあたりまで飛んできているようだ。平らな道に出て行けば石油の匂いが漂うのは、おそらく脇の家でストーブを使っているのではないか。向かいからするすると流れてくるものがやはり結構冷たくて、何だったら耳が痛くなってきそうな気配すらあった。
 帰宅すると母親に挨拶してすぐ下へ行き、自室に入るとコンピューターを点けて服を着替えた。メモを取るべきところだが、労働後で気力が締まらないので、さっさと食事を取ることにして上がって台所に入れば、鰹節の掛かった茄子のソテーとモヤシが一皿に乗せられており、厚揚げの隼人瓜の煮物が小鉢に、その他大根をスライスしたサラダがあった。汁物はインスタントの味噌汁である。そのほか白米だが、野菜ばかりで脂っこいものがないから、もし欲しければソーセージでもボイルして、と風呂に向かう母親が言うので、冷凍の唐揚げを食べることにして、三つを皿に出して電子レンジへ、温めているあいだに席に就いて、茄子をおかずに米を食った。唐揚げに火が通るとそちらも持ってきて、米はおかわりして鶏肉とともに貪り、傍ら夕刊を瞥見した。大学受験の英語の民間試験実施は延期になったとのこと。また、首里城の火災は正殿のなかから出たらしいのだが、出火当時は入口のシャッターが閉まっていたと言うからよくもわからない。その他、米議会でドナルド・トランプウクライナ疑惑に関して弾劾訴追調査関連の決議が可決されたとか、「イスラム国」が指導者の死亡を認めたとかそういった記事を読み、ものを食べ終えると皿を洗って、ポットに水を足しておいてから下階へ帰った。しばらくだらだらとした時間を過ごしてから緑茶を用意してきて、茶を飲みながら引き続きだらだらする合間に自分の肉体の調子に目を向けてみると、やはり労働があったのでそれなりに疲れているようだった。しかしそれだって僅か二コマに過ぎないから世の大多数の人々よりも格段に短いわけで、皆、まったくよく働けるものだと思う。一一時を過ぎると風呂に行き、二〇分くらい浸かって上がり、便所に入ると家の前にタクシーが停まった音がした。飲み会から帰ってきた父親である。放尿しているあいだに階段を上がってきて扉を開けた音がして、出るとそこにいたので挨拶をして下階に戻った。やはりだらだらと過ごしたのちに、零時半前からこの日のことをメモに取りはじめ、一時直前で現在時まで一応取り終えると、多分それでもう眠ったのだったか? よく覚えていないがその後に日課の記録はついていない。


・作文
 8:40 - 8:56 = 16分(1日; 31日)
 11:17 - 11:29 = 12分(1日)
 12:07 - 13:29 = 1時間22分(28日)
 14:20 - 15:16 = 56分(1日)
 15:26 - 15:42 = 16分(1日)
 15:42 - 16:08 = 26分(28日)
 16:17 - 16:32 = 15分(28日)
 24:25 - 24:56 = 31分(1日; メモ)
 計: 4時間14分

・読書
 8:57 - 9:55 = 58分
 10:12 - 10:38 = 26分
 10:41 - 11:15 = 34分
 16:08 - 16:14 = 6分
 計: 2時間4分

・睡眠
 1:30 - 8:00 = 6時間30分

・音楽

  • Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 2)
  • Bill Evans Trio『Portrait In Jazz』
  • Richie Kotzen, "Gone Tomorrow Blues", "Tobacco Road", "Burn It Down", "Killlin' Time", "Change"
  • Robert Glasper Experiment『Black Radio 2』