2019/11/2, Sat.

 ユダヤ人には、つまり不潔で、不純さをまき散らし、世界を破壊する、敵の代名詞であるユダヤ人には、最も貴重な意思疎通が、祖国との、家族との通信が禁じられていた。数多くある中で、いかなるものであれ、流刑を経験しているものは、この神経の糸が切られるとどれだけ苦しいか知っていることだろう。それからは、捨てられたという致命的な印象と、不当な怒りが生まれる。なぜ私に手紙を書いて来ないのか、なぜ助けてくれないのか、自由の身でいる彼らは、当時私たちは、自由という大きな大陸の中で、通信の自由が、ある重要な領域を占めていることを十分に理解した。それは健康と同じで、失ってから初めて重要性が分かるのだ。しかしそれは単に個人レベルの苦しみではない。意思疎通が妨害された国々、あるいは時代では、すぐに他の自由もしぼんでしまう。倦怠感から論議は死に絶え、他人の意見への無知が広がり、押し付けられた意見が勝利を収める。その有名な例は、ソ連でルイセンコが唱えた、狂った遺伝学説で、論議がなされなかったため(反論したものはシベリアに流刑になった)、二十年間、作物の収穫を損なったのであった。不寛容は検閲を生み出し、検閲は他人の論理への無知を増大させるから、結果として不寛容を増大させる。これは硬直した悪循環で、断ち切るのは難しい。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』朝日新聞出版、二〇〇〇年、117~118)


 昨晩は一時間か二時間眠って体力を取り戻したら起き上がって読書に邁進しようと考え、電灯を点けたまま眠ったわけだが、そう上手くは行かないのが人間というもので、切れ切れに目覚めても身体を起こすことができない。五時だか六時、既に外が明るくなった頃合いに覚めた時には電灯を消したのだが、また寝床に舞い戻ってしまい、八時のアラームを止めた時も同様、結局一一時過ぎまで寝過ごすことになった。上階へ行くと母親は元祖父母の部屋で何やらばたばたやっている。こちらは寝間着からジャージに着替えてトイレに行き、膀胱を軽くしてから台所に入って、何かのソースで炒めたらしいチキンライス風の料理を電子レンジに突っこんだ。そうして卓に就いて新聞を引き寄せていると、母親がスライスした大根のサラダを用意してくれる。チキンライスもどきも持ってきて新聞を読みながら食っていると携帯を見ている母親が、伊丹から成田に着いたって、とか言って、兄はまだロシアに帰っていなかったのかと思えば、そうではなくてT子さんとMちゃんだと言う。T子さんの歯の治療があったので、兄に遅れて渡航したのだった。加えてLINEか何かを見たらしい母親は、急だけど散歩がてら産業観光祭りに行かないかって、今気づいた、と言ってみせるので、誰がと問えばHRちゃんだと言う。この人はK.HRさんという名前の母親の同級生で、すぐ近くに住んでいるのだが、その友人から誘いがあったらしい。それで母親は電話を掛けて、車が停められるかなとかどうこう話している一方でこちらは食事を終えて台所に移り、皿を洗ったあとに風呂場に行った。母親は遊びに行くことにしたらしい。二時か三時に帰ってこられればと言うので、別に遅くなってもいいよと答えておき、風呂を洗った。それで電気ポットに水を足しておいて下階に戻り、この日の記事を作成して日記の準備を整えたりインターネットをちょっと回ったりしたあと、緑茶を用意してきて一一時四〇分、Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 3)とともに読み物を始めた。一年前の日記には特筆することはない。二〇一四年二月三日には、「Virginia Woolf, Kew Gardensを私訳しはじめたが、おそろしいことに、比較的息の長い文章とはいえ一文訳すのに三十分以上かかっていた。意味自体をとることは二つの先達の訳もあるし、一部を除けばそこまで難しくはないが、その意味を自分の感覚としてきちんとつくりあげられた日本語におとしこむのが果てしなく難しく、ほとんどちがいのない細部のバリエーションにひたすら悩み、つくった訳を何度も読み返し、細部を変更し、また読み、そうしてできた文章も本当に日本語としていいものになっているのか判別がつかず、端的にいって苦行であり、このような難行を仕事にしている翻訳家とはおそろしい職業である」との発言があって、なかなか頑張っていたようだ。できあがった私訳は公開してある(http://diary20161111.hatenablog.com/entry/2019/01/13/004803)。二〇一四年時点の自分の言語レベルにしては、それほど悪くなく仕上がったものだと思う。Virginia Woolfの短篇はいずれもっとたくさん訳したいとは思っているが、今はとにかく毎日英文を読んで語彙を鍛える時だ。
 続いてfuzkueの「読書日記」、「外山恒一連続インタビューシリーズ「日本学生運動史」 もうひとつの〝東大闘争〟  一九七九年〝一月一九日〟「東大闘争10年・全国学生集会」 「東大反百年闘争」の当事者・森田暁氏に聞く⑪」(https://dokushojin.com/article.html?i=5772)、「<沖縄基地の虚実12>県外と同様の「総額」 「受益率」上位は基地なし」(https://ryukyushimpo.jp/news/entry-283964.html)と通過し、「基地引き取り運動への提言(県外移設論の再確認を含めて)」(https://henoko-stop-action2017.blogspot.com/2017/04/blog-post_5.html)に差し掛かったあたりで音楽が終わったので、寺尾聰『Re-Cool Reflections』(https://www.youtube.com/watch?reload=9&v=x-JPylQ6_mA)に移し、時折り低い声で口ずさみながら小論を読んだ。さらに続けて、橋本治浅田彰「日本美術史を読み直す――『ひらがな日本美術史』完結を機に―― 第3回 俵屋宗達は匿名である」(https://kangaeruhito.jp/interview/6624)をひらく。

橋本 (……)ただし、本当に必要なことって教科書で学ばないじゃないですか。それこそ、教科書は躾けだけであって、躾けだけじゃ人間つまらなくなるから、どういう活動するかってところが問題なわけで、その教科書の外側に教科書よりも豊かなものがないといけないんですよね。

橋本 (……)ただ、美術っていうものは、かつては所有できるだけの大金持ちがいた時代には所有するものであったけれども、もう現代では所有というのはおこりえないわけじゃないですか。そうすると、共有するという方向に美術がいってしまっていると考えざるを得ない。何が欲しいという考え方自体が無意味だし、私は金もないし、そこら辺は金のある人に考えて貰おうという感じですかね。

 それで時刻は一二時三八分、間髪入れずこの日のことを記しはじめて、ここまで書いて一時前に至っている。ともあれ二八日の日記を仕上げなければならない。
 二八日の記事を書き進めて、フランツ・カフカ『変身』の分析に時間を費やし、三時直前に至ったところで腹も減ったし一旦切りとして上階に行った。階段を上がったところで洗濯物を入れなくてはと気がついたので、ベランダに出たが、色々広げちゃったと母親が言っていた通り、吊るされているものも多かったし、柵にも薄布団の類が掛けられていた。それらを少しずつ室内に取りこんでいき、上のベランダから見下ろすと下階のベランダにも布団が干されてあったので、次に階段を下りて衣装部屋を抜け、両親の寝室に入ってベランダに行けば、物干し竿には礼服やらダウンジャケットやらがいくつも並べて吊るされてある。それらを仕舞うのは面倒だし、どこに置いておけば良いのかもわからなかったのでそのまま吊るしておくことにしたが、布団を取りこみやすいように戸口の前は空けることにして少々ずらし、そうして柵に掛けられた布団を一つずつ持ち上げ抱えて室内に入れていった。整えるのは自らやってもらおうというわけで、取りこんだものは寝床の上にぐちゃぐちゃに置いたまま室を抜けて、階段を上がって玄関の戸棚から「緑のたぬき」を取り出し湯を注いだ。加えて前夜の隼人瓜とシーチキンの煮物が残っていたので電子レンジで温めて卓に就き、自室から持ってきた辻瑆・原田義人訳『世界文學大系 58 カフカ』を読みながら二品を食べていると、母親が帰ってきた。焼きそばを買ってきたと言うので頂くことにして受け取り、これも電子レンジで加熱して食ったが、味が薄くて大して美味くもない焼きそばだった。そのわりに五〇〇円もしたらしい。最後にこれも母親が買ってきた豆腐ドーナツを頂いて食器を洗い、緑茶を仕立てて下階に戻った。確か茶を飲むあいだ、あるいは柿の種を食うあいだだったかもしれないが、辻瑆・原田義人訳『世界文學大系 58 カフカ』を引き続き読んで、「断食芸人」は既に越えてウィリー・ハースという人の「カフカ論」に入ったのだったが、これはちょっと読んでみたところでも、テクストに厳密に基づかずに自分の思ったことばかりを述べる類の、あまり大した論考ではないように思われた。ハースは、「カフカにとっては人間の上の力と人間の下の力とがあったのであり」(429)、彼は「この上の力、つまり恩寵の領域を、彼の大きな小説『城』のうちに表現した」(429)と述べているのだが、「恩寵の領域」が一体『城』の文言のどの部分に具体的に表れているのか、その文章そのものを引いてみたまえ、と言ってみたいものである。ハースにとって作中の「城」は、「上層世界」(430)や「天なるもの」(430)や「神」(430)を象徴するものであるらしいのだが、本当に『城』のなかの記述からそのような意味の読み替えが導き出されるのか、具体的にその論理の道筋を追ってみてくれと言いたい。ただし、彼が「カフカの宗教的根本動機」(430)だとして提示している一節、「人間はつねに神の前でまちがっている。神が人間に対して同じようにまちがっているときでも、そうである」(430; 原文は全体に傍点付き)という定式はちょっとだけ面白い。
 まずもって批評をしようとするなら作品原文をこまめに引用せよとそう思う点で、こちらは言わば蓮實重彦主義者だということなのだろうが、やはり具体的にテクストの文言そのものに基づくということは文学作品を読む際の最低限の姿勢であるように思う。ところが、この最低限と思われる振舞いを守っていない感想や批評の類が世の中には非常に多い。蓮實重彦が、人類は映画を見ることが嫌いなのだ、みたいなことをどこかで言っていた記憶があって、確か『ユリイカ 平成29年10月臨時増刊号 総特集 蓮實重彦』冒頭のロングインタビューではなかったかと思って、今ざっと読み返して確認してみたのだが、それらしい言葉は見つからない。それでインターネットを検索してみたところ、『「ボヴァリー夫人」論』のなかに「人類は「テクスト」を読むことをあまり好んではいないし、また得意でもない」(64)という言葉が書きつけられていたようで、書抜きをしていないかと思ってEvernoteを探ったところ当該箇所は見当たらなかったのだけれど、この言葉をそのまま検索に掛けてみると、何と我がブログの一月一一日の記事が見つかった。他人の言葉を引用するのに無闇な手間暇を掛けて随分と迂回してしまったが、まあそういうことなのだろうと言わざるを得ない。ただ、テクストそのものに基づくという極々単純明快な姿勢を遵守したとして、やはりそれだけでは魅力的な感想とか批評にはおそらくならないのであって、厳密な引用やパラフレーズや再構成をベースとした上で、的確で独創的な翻訳=読み替えの契機が導入されないことには、啓発的な批評はきっと生まれないだろう。最近感想の類を書いていて、自分は観察/分析の力は勿論不十分ながらも以前と比べればまあそこそこ養われてきたような気がするけれど、この最後の翻訳の段階を導き出せるような発想力が全然ないと思う。そのあたりをもっと鍛えていきたいところだ。
 それで三時五〇分からふたたび二八日の日記を書きはじめた。二時間ほど『変身』の感想に費やして完成させ、Twitterにその感想を八つのスレッドに分けて長々と投稿するとちょうど六時頃、夕食の支度は既に母親がやってしまっただろうが、アイロン掛けの仕事があるはずなので上階に行った。水のように粘度のなくて透明な鼻水が湧いて湧いて仕方なく、コンピューター前にいるあいだもティッシュをたびたび取って拭いたり、半分に裂いて丸めて鼻に詰めこんだりしていたのだが、アイロン掛けをしている最中にも止まらなかった。風邪の感触はないので、おそらく秋の花粉なのだろう。干した布団を入れたりしたので、その時に吸ったものかもしれない。アイロン掛けをしている正面ではどうでも良い類の音楽番組が掛かっていて、「LA DIVA」と言って、森山良子と平原綾香とあと何とか言う女性歌手二人の組んだ四人ユニットが歌を披露していたのだけれど、彼女らは最後にQueenの"Bohemian Rhapsody"をやっていた。よほどの実力と自信がなければあんな曲などやれないものだと思うのだが、それを視聴してみると、まあやはりQueenの連中の偉大さがよくわかるなという感じで、ただ、平原綾香が間奏の最後のハイトーンをきっちり当てて、そこからさらに上っていってホイッスルボイスのような声を出していたのにはちょっと驚いた。
 アイロン掛けを終えて下階に戻ると六時半頃、ブログとnoteに一〇月二八日から三一日の記事を投稿して、さらにTwitterにも通知を流しておくと、それだけでもう七時になったと思う。上階に行き、飯より先に風呂に入ることにした。焼きそばなどをもりもりと食ったからあまり腹は減っていなかったし、とにかく鼻水とくしゃみが止まらず酷いので、花粉が原因なのだとしたら入浴によって身体についた粉を流し取り、服もジャージから寝間着に替えることで症状を緩和できないかと思ったからだった。それで風呂に入り、首まで湯に沈めて浸かっていると、身体が温まったためか多少は症状が和らいだ。頭を背後の浴槽の縁に預けて長く浸かり、岩田宏の「神田神保町」の一節を思い出したり、散文詩のようなものを書きたいなと思ったりして、それで二〇分か三〇分くらいが経過したのではないか。七時四〇分頃上がったと思う。それから食事、米にチキンソテー、巻繊汁の類に大根やシーチキンを和えたサラダである。テレビはどうでも良い音楽番組だし、新聞もあまり印象に残っていないし、向かいで話す母親の言葉もどうでも良いものばかりだったし、もう文を書くのが疲れたのでさっさと次に行こう。食事を終えると抗鬱薬を飲み、食器を洗って、緑茶を用意して下階に下りた。そうして一服したあと、八時半過ぎからこの日の日記を書き足しはじめたが、途中で『城』を読み返したり、蓮實重彦の言葉を求めて検索したりしていたため、余計な時間が掛かってもう一〇時半を迎えてしまった。本来なら昨日の日記を仕上げなければならないのだが、面倒臭いので明日に回そう。鼻水はまだ止まらない。なかなか苦しいものである。助けてほしい。
 それから、先ほど検索しているあいだに見つけた蓮實重彦講演「ジョン・フォードと『投げること』 完結編」(http://www.athenee.net/culturalcenter/special/special/hasumi_f.html)を読みはじめたのだが、以下の実に嫌らしい皮肉ぶりには笑わざるを得ない。

 (……)私はかなり図々しい人間と思われていますが、それでもやはり慎みというものがあり、文章に書く場合、列挙だけはやめようと思うわけです。そこまで列挙して相手に自分を分からせようとすることははしたないことだ、とつい思ってしまうのです。文章上で列挙をはじめますと、いささかの恥じらいが生まれ、それで列挙はつい避けてきたということがあります。(……)

 二〇分ほど読んでいたのだが、鼻水がやはりどうにも止まらず、油断すると鼻の穴からぽたぽた落ちるようなありさまで、さらにおそらく鼻を啜りすぎたために空気を呑みこんでしまったのだろう、げっぷまでは行かないけれど胃の方からたびたび空気が上がってきて喉で鳴って苦しく、唾も溜まって吐き気に繋がりそうな気配もないではなかったので、これはベッドに寝転がって休んだ方が懸命だな、その方が空気も上ってこないだろうと判断して、蓮實重彦が列挙しているジョン・フォードの投げるシーンの解説を読むのを打ち切って、辻瑆・原田義人訳『世界文學大系 58 カフカ』を持って寝床に入った。すると目論見通り空気が上ってくることはなくなり、吐き気の方は心配なくなり、鼻の方は寝転んだことによって今度はむしろ詰まりはじめて、それはそれで苦しいのだが鼻水がするする垂れない分まだましである。それで横を向いたり上を向いたり姿勢を変えながらウィリー・ハースの「カフカ論」を読み、原田義人の「解説」も読んだが、まあ特段頭に引っ掛かるような啓発的な内容は含まれていない。年譜も読んでこの全集をようやく読了すると、零時前に至っていた。立ち上がってみると詰まっていた鼻が通って、今度はまた鼻水が、先ほどよりはましなようだがやはり湧いてくる。それで歯磨きをしながらまた蓮實重彦の講演録を読んでいたのだけれど、これはやはり臥位でいた方が良さそうだなと思って、しかしその前に書抜きだけはすることにして、口を濯いでくるとRobert Glasper『Covered』をヘッドフォンで聞きながら、花元潔編集・解説/米田周インタビュー『アウシュヴィッツの沈黙』から三箇所を抜いた。ナチス・ドイツにあっては占領したポーランドなどの地域から子供たちを連れ去って「ゲルマン化」するということが行われていたと言うのだが、そのような所業が成されていたとはこの本を読むまで知らなかった。「ナチスは占領した地域で、「ゲルマン系」と思われる子どもたちを拉致し、「厳密」な調査と検査をくりかえした。「ゲルマン系」と判定された子どもたちは、ドイツ国内に密かに送りだされ、ドイツ人の養子とされた。いわゆる「ゲルマン化」である。幼い頃に連れ去られた子どもたちは、母国を知ることもなく、自分がドイツ人であることを疑いもしなかった」(花元潔編集・解説/米田周インタビュー『アウシュヴィッツの沈黙』東海大学出版会、二〇〇八年、83~84)ということだが、まったくもって凄いことをするものである。
 それでふたたび寝床に移り、對馬達雄『ヒトラーに抵抗した人々 反ナチ市民の勇気とは何か』を読みはじめたのだったが、いくらも読まないうちに意識を失ったらしい。やはりベッドのなかでの読書は駄目だ。


・作文
 12:38 - 12:52 = 14分(2日)
 12:52 - 14:58 = 2時間6分(28日)
 15:49 - 17:45 = 1時間56分(28日)
 20:34 - 22:30 = 1時間56分(2日)
 計: 6時間12分

・読書
 11:43 - 12:38 = 55分
 15:34 - 15:45 = 11分
 22:33 - 22:53 = 20分
 22:53 - 23:50 = 57分
 23:55 - 24:06 = 11分
 24:08 - 24:24 = 16分
 24:27 - ? = ?
 計: 2時間50分

・睡眠
 1:00 - 11:00 = 10時間

・音楽