2019/11/11, Mon.

 この作業には、教養のあるものよりも、ないものの方が適していた。彼らは先に、「理解しようとするな」という、ラーゲルで学ぶべき第一の英知の言葉に順応した。その現場で理解しようと努めることは、無益な努力であった。それは他のラーゲルから来た多くの囚人にとっても、あるいはアメリーのように、歴史、論理、道徳を知っていて、さらに監禁生活と拷問を体験したものにとっても同じだった。それはエネルギーの浪費で、むしろそうしたエネルギーは飢えや労苦に対する日々の戦いに投入した方がより有益だったはずである。論理や道徳は、非論理的で非道徳的な現実を受け入れるのを妨害する。それは結果として現実の拒否を生み出し、それは普通教養ある人間を急速に絶望に導いた。しかし動物としての人間の多様性は計り知れなかった。洗練された教養の持ち主が、特に年齢の若いものが、それを投げ捨て、より単純になり、野蛮化し、生き延びるのを、私は見てきたし、それを書きとめた。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』朝日新聞出版、二〇〇〇年、164~165)


 八時のアラームでいつものように一度起床。しかし正式な起床に至らず、鳴り響く携帯を止め、コンピューターを点けて各種ソフトを立ち上げもしたのに、ベッドに戻ってそこから一一時四五分頃まで留まることになった。一度寝床を抜け出したら戻ることのない強靭な精神力が欲しい。ふたたび眠っているあいだだったか、それとも八時以前のことだったかわからないが、夢を見た。もう詳細はだいぶ失われてしまったが、暴力的な夢で、暴力を振るわれたのではなく振るっている夢だった。夜に自宅傍の道を歩いていると同じ方向に向かう子供の集団と出くわしたのだが、彼らと並ぶとそのなかの一人が、こちらの名前を呼んで、何で塾で働いているんですか、というようなことを訊いてきたのだった。相手は小学校高学年くらいの幼さだったが、その子供に見覚えはなく、こちらの名前や素性を知っているのが不可解だった。その子に対して首を絞めたのだったか、殴ったのだったか忘れたが、そのような暴力的な振舞いに出て、ほかの子供らにも多少同じようなことをしたはずだ。その後の展開も長々とあったのだが、今はもう上の情報くらいしか覚えていない。
 空は前日前々日の快晴から一転、視線を引っ掛ける瑕や偏差のまったく見つけられない無窮の白さで、乱れなくどこまでも広がっていた。一一時四五分頃になってようやく寝床を抜け出すと、上階に行った。母親は今日は一一時から職場で会議があるということで出掛けている。会議自体は一二時までだが、そのあとで同僚と食事を取ってくるかもしれないとのことだった。パジャマからジャージに着替え、便所に行って排便し、台所の冷蔵庫から前夜の里芋と鶏肉の煮物を取り出して電子レンジに収め、米をよそる一方で、汁物としては即席の吸い物があったので袋を切って粉を椀に入れる。それぞれを卓に運んで席に就くと、新聞を読もうと思ったところが今日は休みなのか、昨日の分しか見つからなかったので何も読まずに食事を取った。ものを食べながら、短歌に繋がるかもしれない文言を頭のなかでちょっと回していた。煮物をおかずに米を貪り、吸い物を啜って食事を終えると、台所の流し台に移って皿を洗った。それから風呂に行って浴槽も洗い、そうしているあいだは詩のアイディアを練っていたのだが、詩をまた書くとしたら何となく『プリーモ・レーヴィ全詩集』を読んでからの方が良いような気がする。風呂場を出ると下階に下り、自室に入ってコンピューターの前に立ち、Twitterを眺めたり、前日の日課記録を完成させたりした。この日の記事も作成したあとに、急須と湯呑みを持って緑茶を用意しに行き、テーブルの端には「ホールズ」という飴があったので一粒口に入れ、戻ってくると飴を舐めながら早速今日の日記を書きはじめた。ここまで記して一二時三七分。
 書き忘れていたが、寝床に留まっているあいだ、おそらく一〇時台だろうか、日本共産党の市議会議員、F.H氏が市長選立候補者の宮崎太郎氏の応援演説をしに、家の近くにやってきて拡声された声を聞かせていた。主張内容はいつもながらのものだったようだ。
 それでこの日の記事を書いたあとは前日の日記を書き進めるのだが、宅配便が来ると言われていたので、眠っているあいだにもう来てしまったのではないかと思って、途中、上階に行った。それでサンダル履きで玄関を出てポストを見ると、果たして不在連絡票が入れてあったので、それを見ながら階段を上っていると、近所のKさんの奥さんがどこに行くのか歩きながら、こんにちはと声を掛けてきたのでこんにちはと返し、なかに入った。宅配員に連絡を入れておくことにして、最初は子機を手に取ったのだが、電池が少ないのだろうか、番号を押しても画面はまっさらで何も表示されないので、きちんと繋がるのか危ぶんで親機の方で電話を掛けたが、相手は出なかった。ちょっと待ってからふたたび掛けてみたものの、やはり留守番に繋がる。それで下階に戻って打鍵を続けていると、しばらくしてから折り返しのものだろうか、電話が鳴ったので、急いで部屋を出て階段を上がり、電話機を取ってスイッチを押したのだが、何故か切れてしまった。それで先の電話が宅配員からのものと限らないので、迷ったけれどもう一度掛けてみることにして、親機で連絡してみると、今度は留守番にならずコールがいつまでも続くので、待っていてみると繋がった。住所と名前を名乗り、すみませんが再配達をお願いしますと頼んでおいて、そうして電話を切って、二度手間を掛けさせてしまったことが心苦しいので、せめて飲み物でもプレゼントしようというわけで戸棚から缶コーヒーを取り出して玄関の靴箱の上に置いておき、そうして室に帰った。二時四〇分まで合わせて二時間ほど掛けて前日の記事を完成させ、投稿するとこの日の分もまたここまでさっと書き足して三時を越えた。
 それから「MN」さんへの返信をようやく綴りはじめた。一時間半ほどを掛けて骨格は固めたものの、文章を整えずに細部の言葉遣いも崩れたまま粗く書いたので、また推敲しなければならない。しかしひとまず四時半で切り、それから確か上階に行ったような気がするのだが、何をしに行ったのだろうか。母親が既に帰ってきていたはずだが、顔を見せに行ったわけではない。帰宅時に彼女はこちらの部屋の戸口までやって来て、向こうからわざわざ顔を見せに来ていたからだ。何をしたのか判然としないがともかく上階から戻ってくると、夕食の支度を始める五時まで読み物をしようというわけで、「偽日記」をひらいた。それで、一〇月後半から興味を惹いた日の記事をいくつか読む。一〇月二四日には、江川隆男『超人の倫理』からの引用があった。

《倫理とは、個人のうちに〈このもの〉を見出したり生み出したりする力のことです。個人とは、こうしたものに触れて、生一般をではなく、一つの生を生み出すもののことなのです。そして、それは、特別な力ではなく、いつも日常のなかに存在している力、働きです。》

《諸個人のうちには、その「個人化」おいて人間を飛び越えたような、或る喜びの情動が、或る愛の感情が発動しているのです。それは、すべて〈このもの〉の本質である特異性に関わっているのです。それゆえ、私は、これを「人間の道徳」ではなく、とくに「超人の倫理」と名付けたいと思います。》

《(…)存在するのは、ただ個人化する限りでの各個の個人だけなのです。しかし、それは、一般性が先にあるような個人のことではありません。つまり、〈私〉や〈個人〉といった言葉を前提として、最初から問題を立てているのではありません。例えば、なぜ「私」が存在するか、といった問いのなかで表象されるような「私」という個人のことではありません。》

《(…)模範解答を拒否し、与えられた問題をすり抜け裏切り続けて、そうした問題よりも少しでも本質的な問題を構成し提起すること、(…)それこそがまさに哲学であり、倫理学なのです。》

《最初から抵抗や拒絶が問題なのではありません。一つの生を、つまり何よりも自己の生を肯定すること、そしていかにその肯定的な姿、すなわち様態を形成するのかといった問題が第一であって、その結果として、偶然にも抵抗や拒絶といった態度が生まれるのです。こうした生の様式を生きようとすると、おそらく個人は、相互に不可解なものとなるでしょう。》

 そうして五時直前に至ると切りとして部屋を抜け、電灯のスイッチを押さずに、自分の足が闇のなかに溶けこむ暗さの階段を上がると居間にも明かりが灯っておらずほとんど真っ暗だったので、食卓灯を点け、そのまま台所の電気も灯しておいてから、便所に行った。戻ると食事の支度である。巻繊汁を作ろうと母親は言ったが、野菜をいくつも切って長く煮るのは面倒臭かったので冷蔵庫を探り、麻婆豆腐を作ることにした。しかし豆腐があまりなかったので、白菜を具として入れることにして、俎板の上で葉の重なりを細く切る傍ら、若布菜を茹でてくれとのことだったので水を注いだ鍋を火に掛けていた。また、底のやや深い方のフライパンを左の焜炉に置き、水と麻婆豆腐の素を注いで火に掛けておき、煮立つと白菜を投入し、右の鍋にも若布菜を入れて、ちょっと茹でて笊に取り出し、洗い桶に空けて水に晒した。白菜のあとは豆腐を手のひらの上で一二個に切り分けて投入し、少々煮てから先に作っておいたとろみ粉液を注ぎ掛けて麻婆豆腐は完成、一方で母親は、油を使ってしまいたいから唐揚げを作ると言って鶏肉を切り分けていたが、そこにインターフォンが鳴ったのでこちらがあとを引き継ぎ、鶏肉の欠片をもう少し細かくした。それから包丁を洗って、汁物は舞茸と葱のスープを作ることにして、小鍋を火に掛けてそれぞれ切って、沸騰したところに投入した。味付けはうどんスープというものがあって母親から渡されたので、それを振り入れた。空腹が極まっていたのだが、時刻はまだ五時半、さすがに早いので、六時になったら食べると宣言しておき、唐揚げを揚げるのは母親に任せることにして自室に戻った。ところで上の記述のなかで一つ間違いに気づいたのだが、「偽日記」を読んだのは夕食までの時間を潰しているこのあいだであって、四時台後半のことではなかった。その時には、過去の日記とMさんのブログを読んだはずだ。
 そうして六時ぴったりを迎えると読み物を中断して上階に行き、丼によそった米に麻婆白菜を掛けて水っぽくし、舞茸と葱の汁物を椀によそって、あとは唐揚げと若布菜のお浸しを卓に運んだ。隼人瓜の煮物と生サラダも母親の手によって拵えられていたが、それらは膳に加えなかった。夕刊を読みながら食事。どんな記事があったか? 香港で警察が実弾を発砲して、二人が重傷を負ったとかいう情報を読んだのはこの時のことだったか? あと、スペインの総選挙で右翼ボックスが伸長したという記事も読んだはずだ。社会労働党という名前だったか、現与党は一二〇議席くらいを取って横ばい、国民党と言ったか、中道右派の政党が八〇議席くらいに党勢を回復させ、ボックスは第三党につけたという情勢だったと思う。それらの記事を読む一方で、テレビは新天皇即位に伴う祝賀御列の儀――パレード――に際して、熱い歓呼の声を上げる沿道の大衆たちの模様を映していた。そんなに盛り上がれる気持ちがこちらにはよくわからない。そうして食事を終えると使った食器を洗い、下階に戻った。
 それで英文である。Joseph Levine, "Is Boycotting Israel ‘Hate’?"(https://www.nytimes.com/2018/09/04/opinion/is-boycotting-israel-hate.html)を三〇分少々で読んだ。

・divestment: (子会社や株などの)売却、処分
・contentious: 議論を引き起こす
・co-opt: 吸収する
・nether: 〈古〉下の、地下の
・concomitant: 付属物
・fetus: 胎児
・libel: 中傷
・reprobation: 非難、叱責
・succinctly: 簡潔に
・quibble: ごまかす、言い逃れる
・requisite: 必須な、不可欠の
・veer: 向きを変える

 その後、「木村草太氏が語る「特定秘密保護法の本質」」(https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/50251)、浅田彰「2017年フランス大統領選挙の後で」(http://realkyoto.jp/blog/asada-akira_170508/)、徐正敏「人文学のススメ(完)他の人の人生を理解する学問」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019110600002.html)とインターネット記事を読んだ。「「結婚は子を作って育てるため」。国の主張に同性婚訴訟の原告が反発「こういう時代を終わらせたい」」(https://www.huffingtonpost.jp/entry/same-sex-marriage-hearing-3_jp_5da67751e4b062bdcb1a7026)もこの時多分読んだと思う。

 憲法24条1項には「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」と書かれている。
 国はこの「両性」という言葉が男女を指しており「当事者双方の性別が同じである場合に、婚姻を成立させることを想定していない」という主張を繰り返している。
 しかし原告の弁護団は、この「両性」という言葉が「男女に限る」ということではなく、旧民法では家長の許しがなければできなかった結婚を、当事者(両性)たちの合意のみでできるようにしたという意味であると指摘している。

 それで時刻は七時半過ぎ、入浴に行った。浴室へ行くために階段を上がって居間を通る際、テレビが『YOUは何しにニッポンへ?』を映しているのを見て、この番組はついこのあいだも目にしなかったか、アイスホッケーをするアメリカ人の夫婦を取り上げていなかったか、あれからもう一週間が経ったと言うのか、と信じられない思いを得たが、どうも変だなと思って今日記を読み返してみたところ、アイスホッケー夫婦を見たのは一昨日、九日のことだった。その時には気づかなかったが、録画されたものを見ていたのだろう。
 そうして風呂に行くと、湯に浸かり、いつものように目を閉じて静止して、また短歌を作ってみるかと頭を回した。それでいくらか言葉の断片を捕まえたところで上がって、母親に挨拶をするとさっさと階段を下り、自室に入ってコンピューターの前に立ち、入浴中に捕らえた言葉たちを日記にメモしておいて、またしばらく考えて五首を拵えた。

 真夜中に虚妄の太陽捕まえて眼窩に嵌めて笑う道化師
 死に際に世界の縁に投げ出され純粋観念垣間見て泣く
 はりぼての魂でできたロケットも地球[おか]から見ればShooting Star
 夕暮れは太古と同じ緑色君の瞳の裏より昏く
 届けよう鏡の奥の異世界に奪われた人を悼む祈りを

 それで八時半、そこから「対談 荒木優太さん×熊野純彦さん:困ったときの在野研究入門」の記事全五回分を読むと、九時ぴったりだった。以下は第三回からの引用。

熊野: まず時系列から言うと、カール・レーヴィットは哲学的役割論の走りなんです。社会学的役割論より随分先行しているんですね。社会学的役割論っていうのはstatus and roleといって、ステータス(status 立場)によってロール(role 役割)が決まるわけですけれども、レーヴィットのところでロールの先行性っていう了解はあるのです。そういうものと関連が深い和辻さん的なもの、それから、少なくとも一見それに近しいところがある廣松役割論、そういう問題圏内でものを考えた時間の方が、ぼくの中では長いのですね。もう20歳前後からずっとその問題圏内にある意味で囚われていました。別の言葉を使えば、それは日常性の周到な分析ということになって、日常性をきめ細かく分析するときに役割・役柄っていう概念装置はとっても便利で、ある意味で不可欠なんです。
 そこでその理論的な話とやや個人的な話を交錯させてしまうと、自分自身の中で分裂があるんですよ。ぼくはある意味で、なんの因果か、大学の中で結構長く行政的な職もやってきました。今は附属図書館長を兼ねた副学長なんですよ、自分でも「似合わねぇなぁ」って驚いちゃうのですけれど。そういうときに、ぼくは、その役柄にぎりぎり、役柄を求められるところにぎりぎり誠実であろうと思っています。それによって自分も縛られています。「そんなもん!」っていうふうに放りだしはしません。ところが他方では、常にその役柄に対して若干自分でずらかしをしようとも思っています。今日、(熊野氏の)この恰好を見てうちの連れ合いが、なにその売れない芸能人みたいな恰好って言ったんですけど。東京大学附属図書館長としてはたぶんね――ネクタイしめているからいいでしょっていうのがぼくの理屈だけど――、おそらく標準的に言うと、あんまり品のいい格好じゃないだろうなっていうことも自覚しています。ある種の場では勝手なことも言っていますけど、他方では、役柄に忠実であろうともしていて、その中で明らかに自覚的無自覚的な亀裂とずれが生じています。でも、それはそういうものだろうと思っています。
 それから、他者を問題にしたときにやっぱり役割役柄では拾いきれない他者の深みや遠さみたいなものがあって、ぼくはそこからかなり系統が違うレヴィナスみたいな思考に一時期親しみました。これはものすごく口頭だと議論が単純化しやすいところで、ぼくとしては嫌なところでもあるのだけれど、やっぱりね、日常なんていうのはごく簡単に非日常性にひっくり返っちゃうんですよ。だから実は日常性も一色(ひといろ)ではない。ただ、日常性を見つめて、その日常性の中に一色(ひといろ)ではないものを見届けるためにも別の視点が必要だっていうのが、ものすごく図式的に整理すると、ぼくのある意味で思考の振幅の中にあります。

 以下は第四回から。

熊野: ちょっと個人的なことから始めちゃうので長くなりますけど。そろそろぼくも、自分よりも年上の人の思い出について話すべき立場になってしまった面もあるから、そういうところにもちょっと引っかけると、さっきから話題になっている廣松先生から、ぼくが強く言われたことの一つは、翻訳に手を出すなということでした。「翻訳なんかやってる暇はないんだ。一生に一冊、自分がもっとも思い入れの深い哲学書を訳すのは止めないが、それ以外は翻訳に手を出すな」って言われました。ぼくは長くそれを守ってきたんですけど、あるきっかけから、偶然に翻訳もするようになりました。もう一人、木田元さんと一度だけ対談したんですよ。そのときに木田元さんから、「常に翻訳を一つ抱えていなさい」って言われました。つまり、ぼくはまだ今よりも若くて、40歳前後だったと思いますけど、これから必ず書けない時期もくる、大学で過ごしていれば行政に追われる時期もくる、そのときに一日半ページでも一ページでも翻訳をしたっていうのが絶対に支えになるから、翻訳を必ず抱えてなさいって言われて。そのときすぐにそれに従ったわけじゃないのだけれど、いまぼくはとても木田さんの助言に感謝しています。まさに木田さんの言うとおりね、ここ10年ぐらいになりますかね、けっこう学内の仕事もやりながら、その10年間自分を支えてくれたものの一つは古典の訳し直しです。もう一つ挙げれば、日本の古典文学でしょうか。その延長上にあるのは『本居宣長』ですけど。
 ぼくはやっぱり古典しか訳したくないし、そうするとどうしても訳し直しになっちゃうのですが、じゃあなぜ訳し直しをするか。訳し直しだから、これはもう全然評価されませんよ、アカデミズムの中では。だけどなぜやるかっていうと、一つには、話を遡らせると、やっぱり長谷川さんの翻訳には意味があるんです、ただ、『精神現象学』は序文のまさに冒頭からぼくとは文の読み方が違っていて、ということはぼくの側は長谷川さんのほうが誤訳だと思っていますけれどもね、でもやっぱり圧倒的に意味のある仕事だったんです、長谷川さんの、あの立場であのようにヘーゲルを訳されたのは。
 変なことを言えば、なんで哲学書の翻訳は、たとえばミステリーの翻訳ほど成熟してないのだろうな、と思うのです。ミステリーの翻訳で日本語としてあそこまでめちゃくちゃなものはありません。だって商品にならないですもん。ところが学問的な翻訳っていうのは、これは最近気がついたんだけど、大学受験秀才がいつまで経っても英文解釈の悪癖を抜けられないというところがあるのです。受験文法の悪影響もあって、たとえば英語の関係代名詞の限定的用法、非限定的用法をそのとおりに訳さないと減点される、っていう恐怖を皆さん抜けられない。その結果どういう訳文ができるかというと、《「これこれこれこれ」であり且つ「これこれこれこれ」であるところの何々》っていう訳文が出来上がっちゃうんですよ。ところが皆さん、自分で書くときはそんな文章書きません。《何々はこれこれであり、こうこうであり、その何々が》って普通に自然に書きます。現代日本語でもやっぱり主情報は早めに来ないと駄目なんです。ところがそう訳すとぎりぎり大学受験では減点対象になる可能性があるのですね。だから、なんとかであるところの何々っていう訳が――「ところの」なんてじっさい使う人は、まぁいませんよ――、文の構造の押さえ方として抜けないのです。ぼくはそれをカントの第二批判、実践理性批判を訳しているときに強く感じました。だから、ぼくは誤訳と謗られるぎりぎりのところで、文の構造をほぐして訳しちゃっています。ヘーゲルはもっとそうです。
 これを話し出すと止まらないんだけど、ドイツ語っていうのは主語をすごく長くつくれるのです、一つ名詞を置いてそれに形容詞だの、英語風に言うと動名詞や過去分詞系のものだのワーって頭に付けて、その二行目、三行目に動詞がくるのは平気なのですね。フランス語では考えにくいけど、それはとってもドイツ語らしいドイツ語で、たとえばレーヴィットなんかが好む文型なんですけれども、そのまま訳したら日本語にならないですよ。思い切ってもう主語だけで文章つくるしかないのです。ところが、前の人がどう訳してるのかなと思ったら、やっぱり、英文解釈的に「正確に」訳そうとしてるんですよ。もう少し広く、もう少し偉そうなことを言うと、そろそろもう一回、哲学の文体は変わったほうがいいとも思っています。でも、自分が書く論文だの著作だので、少し癖のある文章を書いたって、哲学の思考の文体そのものは、少しも変わりはしないんです。ところが翻訳であればもう少し広い範囲で哲学の文体そのものを考え直してもらえるという可能性がある。実はぼくなんかは、「今これをやるべきだからやるんだ」なんて思ったら、傲慢というものだと思っています。全部の仕事は偶然だし、(義務感じゃなくて)好きでやってるんだ、っていうのがぼくの立場だけれども、でも、少しでも意味があるとしたらそういうことはあるなと思っていて、それがべつにアカデミーのなかで評価されなくたって全然構わないとも思っています。

熊野: もう一つ、これは最近ふと思ったんですけど。ぼくはあと、それでもあと二、三は自分で日本語にしたいと思うものがあるけれども、付き合いのある本屋さんの範囲で言うと、もうそれはわりと新しい訳が出たりして難しいっていうものもあるのですね。ただ、これ翻訳できないけど、じゃあどうしようか、それを解読する文章を自分で書くかってふと思ったこともあって。今、ぼくにとって、あるテキスト、古典的なテキストを翻訳するか、あるいはそれについて書くかっていうのは――ちょっと大袈裟ですけど――ほとんど等価な選択肢になっています。そうするとぼくの書いたものについての、ある種パターン化された批判があって、クマノの書いたものは新しいことを何一つ言ってない、ってよく言われます。全然新しい知見がないじゃないかって。でも、これは正確に言うともう端から誤りで、何か対象について書くときには、どこから引用を取り、その引用にどうコメントをつけるかだけで、全然ちがってくるわけですね。だから引用を採ること自体、実は一箇の解釈です。でもそう言いたい、「クマノの書くものに独創性はない」と言いたい気持ちは、ある意味でよくわかります。ぼくの側から逆にそれを表現すれば、いま現在の自分にとって、あるテキストを翻訳することと、あるテキストについてもう一回語り直すことっていうのが、ほとんど等価になっちゃってる。

 その後、さらに日課の読み物をこなそうというわけで、手帳の学習を始めた。手帳の学習というのは、箇条書きにした項目毎に、そこに記されてある文言を目を閉じて概ねそのまま頭のなかで反芻できるような状態に持っていく、というようなことをやっているのだ。一日それをやったところでまたすぐに忘れてしまうのが当然なので、三日間掛けて同じ頁を三回は重ねて触れ、記憶を定着させることを試みている。そういうわけでこの日は五八頁から五九頁の、栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策』からの引用は三回目の学習を迎えて完成とし、その他の細かな事項も拾ったあと、五一頁から五二頁を新規学習した。
 そうして九時半を過ぎるとこの日の日記を書きはじめたのだが、すぐに打鍵を止めて、腹が減ったのでおにぎりを作りに行くことにした。上階に上がると母親は入浴中で、父親もまだ帰ってきておらず、誰もいない居間でテレビが虚しいから騒ぎを広げていた。台所に入って炊飯器の横にラップを敷き、米をその上に乗せて塩と味の素を振るとラップを畳んで手に持ち、握りながら下階に帰った。それを食いながら日記を書き足し、食べ終えると今度は緑茶を用意しに行って、戻ってくると茶を啜りながら打鍵を進めて、ここまでようやく記すと一〇時半を目前としている。音楽を聞きたい。
 そういうわけで、Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』から"All Of You (take 3)"を聞いた。このライブ音源では観客が食事を取っている物音や、彼らの話す声などがそのまま演奏のなかに混ざって録音されていて、それがためによく「臨場感溢れる」みたいな評され方をするわけだけれど、この曲の冒頭にもかちゃかちゃと食器を鳴らす音が入っており、それすらもまるで音楽の一部であるかのように響く。のちにはベースソロの合間にも、からん、というグラスの響きが大きく、思い切り闖入してくるのだが、それがフレーズのリズムとたまたま合っているために、あたかも効果音のように聞こえるものだ。こういうことはある種の作品においてはある。つまり、演奏が非常に素晴らしいために、本来瑕疵であるはずの要素までがその音楽の必然的な一部として組みこまれているかのように感じられることが。連想されるのは『Miles Davis And The Modern Jazz Giants』の"The Man I Love (take 2)"で、例の、Thelonious Monkがソロの途中で突如として弾くのを止めてしまい、ソロイスト不在でベースとドラムだけが演奏を続けるあの空白の場面、それに堪えきれなくなったのだろうか、Milesが急き立てるようにトランペットを吹き入れて、それとほぼ同時にMonkがふたたび弾きはじめるというあの特殊な展開にも同じものを感じるものだ。
 Bill EvansScott LaFaroの息の合い方は、今さら言うまでもないことだがやはり際立っていて、Evansが山を描くように上昇と下降を繰り返しながら段々リズムを細分化し、音を詰めこむようにしていく場面があるのだけれど、そこで左に耳を振るとLaFaroもそれに合わせるような動きを取っていて、この自然な反応の敏速さはやはり凄い。また、毎回聞くたびに同じ言を繰り返している気がするのだが、Evansのピアノの統一性、すべてを俯瞰しているかのような隙のなさはとてつもないものである。自らが奏で出す音楽のなかにこの上なく深く没入していると同時に、演奏を外から眺めてその全体を把握しているかのような、沈潜的な内攻と超越的な俯瞰の両義的な統合、二重性あるいは重層性のような様態を感じさせる。完全にゾーンに入っているのではないか。ピアノソロの後半では、スティックを持ったPaul Motianも、結構攻めているような印象を覚えた。ほかのテイクよりも、シンバルの音が空間の左上から大きく強く浸食してくるような感じがしたのだ。それにしても、"All Of You"はこのライブ音源には三テイク収められているわけだけれど、そのどれにおいても三者ともアプローチが違っていて、同じ曲を素材としているにもかかわらずまったく異なる様相を見せていながら、どの演奏も甲乙つけられず、三つともすべて完璧と言って良い高みに達しているのは、ほとんど信じがたいことだ。
 続いて、ディスク一の最終曲、"Solar"を聞いた。冒頭、提示されるテーマ部においては、LaFaroは完全にカウンター・メロディとして、第二旋律として動いている。Evansのソロの前半はバッキングをしていない様子で、コードを鳴らさずに片手でメロディだけを弾いているようなのだが、それも勿論整っていながらもやや朴訥な気味を感じさせていたところ、ある時点を境に演奏ががらりと変わって活気づいて、Evansは左手でコードを差し挟むようになり、フレーズも明らかに細かくなる。それを聞いていると、それにしても本当に、滅茶苦茶なほどに上手いな、という思いをまた新たに得た。技術がどうとか、速弾きがどうとかいう次元では無論なく、とにかく音楽的に物凄まじく高度に整っているのだ。そのEvansのピアノのみを聞こうと耳を傾けるのだが、左側でLaFaroも浮上し頭をもたげてきてそれを許さない。嫌でも耳がそちらに行ってしまう吸引力を、彼のプレイは持っている。そんな彼のベースソロもこの曲ではたっぷりと長く聞けるのだが、これもやはり凄いもので、インスピレーションがちっとも枯渇せずに次から次へと湧いてくるかのような自由闊達の様態である。Paul Motianのバース・チェンジでのソロは、上方のシンバルと下方のキックの組み合わせ方、それらの取り合わせによる空間のひらき方に特徴があるように思うのだが、その内実はまだ具体化できない。
 次にふと思い出して、Miles DavisRelaxin'』から、冒頭の"If I Were A Bell"に耳を傾けた。物凄く久しぶりに聞いたけれど、味わい深くて実に良い演奏だ。まずもってベースのPaul Chambersが非常に良い仕事をしている。リズムがスウィングしている、というのはきっとこういうことを言うのだろう。御大Miles Davisのソロは、メロディを歌えるほどにこちらの耳に馴染んでいるのだが、この時はソロよりもChambersの、高音部までも利用した、堅実でありながらメロディックなベースの方を聞いてしまった。John Coltraneはぎこちないし、発音がまだまだ滑らかでないものの、精一杯歌おうとしているのは聞き取れて、健闘しているのではないか。メロディのセンスはこの時点でも悪くないように思う。しかし、これが五六年の録音だけれど、それから僅か三年後には彼が"Giant Steps"をやっているなんて、誰一人として予想できなかったことだろう。Red Garlandのピアノはころころとした質感で、非常に円味を帯びていて静かであり、ちょっと甘ったるい味もないではないが、品はとても良い。御大がAhmad Jamalのように弾けとGarlandに要求したと聞くけれど、その要請のおかげか、結構間は活かせているのではないか。後半になるとブロック・コードが出てきて、それがとても切れの良いもので、単なる甘いだけのピアノに堕してしまうのを防いでいると思う。
 それから、James Francies『Flight』に移った。昨日は一曲目から三曲目を聞いたが、一度聞いただけでは多くのものを聞きこぼしてしまったように思われたので、もう一度冒頭から触れることにして、ふたたび"Leaps"を流した。昨日の日記には、「浮遊的なテクスチャーが常に背景に敷かれていて」と書いたのだが、「常に」というのは言い過ぎだったかもしれない。冒頭付近から序盤のうちにはまだキーボードの音色は聞かれないようだった。ただ、浮遊的な響きを含んだ空間構成になっているのは確かで、これは一つにはギターの音色によるものだと思うが、ピアノの響かせ方も、多分録音の方で何か調整をしているのではないか。また、テーマも、昨日は聞き逃したのか印象に残っていなかったが、ギターとのユニゾンで細かく素早いものが提示されているのを今日はきちんと聞き取った。ただ、「明快でわかりやすい」ものではないというのはその通りで、後半にも多分同じものだと思うが――何しろあまり「明快」でなく、フレーズも細密なので、一聴しただけでは異同の判断がつかない――もう一度ユニゾンで提示される。ところでアンサンブルのなかではJeremy Duttonのドラムがやはり凄くて、ギターソロの裏でも構わずに相当に色々なことをやっており、このアルバムでは彼の主張にかなり重点が置かれているように思われた。このレベルの奏者が多分ごろごろ、とまでは行かないかもしれないが、普通に何人もいるのだろうから、アメリカ、殊にニューヨークという街はとんでもない。魔窟である。総じて、昨日よりも単純に、全体的に格好良いじゃん、という印象を得た。
 続いて、"Reciprocal"。やはり二回聞くと幾分慣れるようで、前日に聞いた時よりも小難しい感じは受けなかった。譜割りは相変わらずよくもわからないが、それを気にしなくとも普通に流れに乗って聞くことができる。音楽の様相はやはり次々に変わっていき、どこからどこまでがワンコーラスなのかもよくわからないのだが、そういう単位では考えられていないのだろうか。サックスのChris Potterは昨日も言ったように流石の貫禄である。今日はJoel Rossのヴィブラフォン・ソロに耳を寄せてみたかったのだけれど、ソロのあいだ、バッキングのピアノとドラムの音が大きく、そのわりにRossのヴィブラフォンはちょっと引っこんだように録れているので、細部まで聞き分けることができず、大きな印象も得られなかった。全体的にドラムはやはり過激で、しかしうるさいという感じも昨日よりはせず、こいつはやばいなという印象に変わってきたのだが、それでもヴィブラフォンの裏ではもう少し静かにした方が良かったかもしれない。あるいは録音やミックスでの調整の問題か。とは言え、これから現代の最先端を目指すジャズ・ドラマーたちは、このような人間と勝負しなければならないのだから、まったくもって大変だなあと思う――まあいつの時代でもそうかもしれないが。ライナー・ノーツによると、FranciesはNew York Timesの論評で、「タッチに液体のように自由自在なダイナミズムを持つピアニスト」(a pianist with liquid dynamism in his touch)と評されたらしいが、「液体的」という形容が当たっているのかはよくわからない――広範囲を縦横無尽に駆け巡る素早いフレーズが得意なようで頻繁に聞かれて、豪勢なピアノではあるけれど。
 音楽を聞き終えるともう零時に達するところだったと思う。それから一時間半ほど、イタロ・ズヴェーヴォ/堤康徳訳『トリエステの謝肉祭』を読み進めて就床した。


・作文
 12:23 - 12:37 = 14分(11日)
 12:37 - 14:41 = 2時間4分(10日)
 14:54 - 15:01 = 7分(11日)
 15:07 - 16:27 = 1時間20分(DM)
 21:37 - 22:25 = 48分(11日)
 計: 4時間33分

・読書
 16:44 - 16:56 = 12分
 17:26 - 18:00 = 34分
 18:25 - 18:40 = 15分
 18:43 - 19:00 = 17分
 19:00 - 19:34 = 34分
 20:34 - 21:00 = 26分
 21:02 - 21:33 = 31分
 24:05 - 25:30 = 1時間25分
 計: 4時間14分

・睡眠
 1:10 - 11:45 = 10時間35分

・音楽

  • cero, "Yellow Magus (Obscure)", "Elephant Ghost", "Summer Soul"
  • 中村佳穂『AINOU』
  • Bill Evans Trio, "All Of You (take 3)", "Solar"
  • Miles Davis, "If I Were A Bell"(『Relaxin'』: #1)
  • James Francies, "Leaps", "Reciprocal"(『Flight』: #1,2)