2019/11/13, Wed.

 (……)指導者は有能であるべきである。指導者は道徳的かつ身体的活力を備えている必要がある。しかし抑圧がある限度以上に達すると、その道徳的、身体的活力は損なわれてしまう。あらゆる真の反乱(ここでは下からの反乱のことを言っている。暴動[プチュ]や「宮廷内の反乱」のことではない)の原因となる怒りと憤りをかきたてるためには、抑圧の存在が必要だが、それは控えめなものであるか、あるいは非効率的になされる必要がある。ラーゲルでの抑圧は極限に達したもので、よく知られた、ドイツ流の、他の分野では称賛に値するような効率で行われていた。収容所の中核を形成していた典型的な囚人は、消耗の限界に達していた。彼は飢え、衰弱し、傷に覆われ(特に足がそうだった。彼は言葉の本来の意味で、「動きがとれ」なかった。これは無視していいようなことではない)、従って深く意気阻喪していた。彼はぼろきれ=人間であった。マルクスも理解していたように、現実社会ではぼろきれは反乱を起こさない。それが起きるのは文学的か映画的な修辞学の中だけである。世界史の方向を変えるような反乱、あるいはここで語っている小さな反乱のすべては、抑圧の事実を良く知りながら、自分はそうされなかったものたちによって行われてきた。前に述べたビルケナウの反乱は焼却炉で働いていた特別部隊が起こしたものだった。彼らは憤慨し絶望していたが、栄養状態は良く、服を着て靴も履いていた。ワルシャワ・ゲットーの反乱は最も深い敬意に値する企てで、ヨーロッパで最初の「抵抗運動」であり、いささかの勝利や救済の希望もなしに行われた唯一のものであった。しかしそれはある政治的エリートの仕事であって、彼らは自分自身の力を蓄えるため、当然のこととして、根本的な特権を保持していた。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』朝日新聞出版、二〇〇〇年、186~187)


 一一時一五分起床。だらだらと生きている。ベッドを抜け出しコンピューターに寄って電源を点け、Twitterにアクセスしようとしたのだが、何故だかログイン画面が上手く表示されなかったので捨て置いて上階に行った。母親は不在、無人の居間である。仏間の簞笥からジャージを取り出して着替え、便所に行って排便したあと台所に入り、ハーフベーコンと卵を焼くことにしてそれぞれ冷蔵庫から取り出し、大鍋の汁物を火に掛けると同時にフライパンに油を垂らした。そうしてベーコンを敷いた上に卵を割り落とし、丼に米をよそって、フライパンのものをしばらく熱してからその上に取り出し、汁物もよそった。卓に移って食事である。食べながら新聞を読んだ。香港の区議会選の実施が危ぶまれているという話があった。ものを食べ終わると食器を洗い、風呂も洗って、電気ポットに湯を足しておいてから下階に帰った。コンピューターの前に立ってEvernoteをひらくと、前日の記事の記録を仕上げ、今日の記事も作成して、それから茶を用意しに行った。急須と湯呑みを持って戻ってくると日記に取り掛かりたいところがやる気が全然湧かず、非常にだらだらとした時間を長く過ごしてしまい、あっという間に二時前である。そういう日もある。とりあえず歌を歌ってみることにして、ceroの曲を三つ流して、身体をほぐしたり揺らしたりしながら歌い、小沢健二 "大人になれば"も歌ったあと、ようやくこの日の記事を書きだして、ここまで記録すれば二時一〇分だが、どうも絶望的に気力が乏しくて、書きぶりにもそれが表れているのではないか。前日の記事を書かなければならないことを考えると、面倒臭くて仕方がない。そういう日もある。常にやる気に満ち溢れたコンディションでいられれば良いのだが、なかなかそういうわけには行かない。頭痛は消えたものの、前日の疲労を引きずっているのかもしれない。
 それで音楽を聞いて、日記を書くための鋭気を養うことにした。肉体をじっと静止させ、聴覚を刺激に対してひたすらにひらき、音世界のなかに没入することで心身をチューニングするようなイメージだ。そういうわけで音楽鑑賞に入り、最初にいつも通り、Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings 1961』から"All Of You (take 2)"を聞いた。今回は主にScott LaFaroの動きを追った。当然の話だが、彼のプレイはリズム的にとても正確であると言うか、もしかするとジャストのノリではないのかもしれないが、音楽の持続の上に非常に上手く乗っている。改めて聞いてみても甚だしく闊達に動き回るベースで、和音もよく用いるのがこの時代のベーシストとしては結構珍しいような気がするが、これだけ泳ぎ回りながらリズム感を全然崩すことがないのは、今さらだけれどやはり驚くべきことだろう。このトリオのリズム感覚というのは並行的であると言うか、三者が一つのテンポ、一つのビートに合わせようと一体となって大きな一本の線を形作るのではなくて、三人がそれぞれ自分の内側に存在している独自の流れの感覚に忠実に従って演じた結果、その三つの線が独立して並び立ったままに偶然にも調和してしまった、というような印象を受ける。いわゆるグルーヴとかスウィングとか言われるような感覚は、おそらくそのようにして生み出されるものなのだろう。LaFaroに話を戻すと、彼ほど拘束のなさを感じさせるベースというのはほかにはおらず、同じくらい動き回る人だったら、それこそ現代にはいくらでもいると思うのだが、何にも縛られていないという感じの彼の自由さと、それにもかかわらず確実に成立しているアンサンブルの高度な調和感の同居というのは一体何なのかとても不思議で、やはり唯一無二のものだと言わざるを得ない。おそらくそれはLaFaroのプレイのみが作り出しているものではなくて、彼にいくら煽られても決して一定のペースを崩すことのないBill Evansの確固たる不動性との組み合わせで生まれているものなのだろう。LaFaroのプレイも、おそらくほかの奏者とやっている時にはこれほど自由な感覚をもたらさないのではないか。そのほかドラムについて言えば、Paul Motianは終盤のソロでキックをドスドス踏むのだが、その踏み方がまた、適当にやっているんじゃないかと思わせるようなファジーな気味があり、リズム的にも多分ジャストから幾分ずれているのではないかと思うのだけれど、譜割りとしてもどういう基準で踏まれているのか全然わからず、天然の直感に従っているようにしか聞こえない。
 続いて、"My Man's Gone Now"だが、この曲にはあまり大きな印象は得られないままに聞き過ごしてしまったので、明日以降にもう一度聞いてみるつもりである。この音源のなかではほかの演奏とちょっと毛色が違うような気がするものだが、単純に地味なのかもしれない。
 それから、James Francies『Flight』より、四曲目の"My Day Will Come"を聞いた。YEBBAことAbbey Smithの滅茶苦茶に卓越した歌唱を聞きたくてもう一度流したのだったが、改めて耳を傾けてみてもやはり出鱈目なほどに上手く、息を多く孕んだ柔らかな繊細さから鋭く締まった強靭さまでのダイナミクスやニュアンスの振れ幅が非常に広く、大きい。音程は、ほんの僅かにぶれている箇所すら一音たりともないのではないかと思うほどに、最初から最後まで完璧な正確さで整然と当てられていて、厳密に調律された楽器での演奏のようだ。ジャズスタンダードを取り上げてスキャットなどをやっているのも、是非とも聞いてみたいと思う。
 次に、八曲目の"ANB"。この曲の譜割りはわかりやすく、三拍子が三小節に四拍子が一小節という構成が基本となっている。やはり浮遊感があって淡い色合いの、懐かしい感じのするようなテーマメロディだ。中盤で分厚いコーラスが闖入してくるのは、やはりいくらか唐突に過ぎるような気がするものの、その後のキーボードソロはこのコーラスの霧のなかに溶けこむような音色になっていて、ソプラノサックスかフルートを加工したかのような印象を与える伸びやかな質感が面白い。
 そうして、九曲目、"Dark Purple"。この曲でもふわふわとした感触の靄めいたテクスチャーが背景に敷かれている。それは残響をたっぷり孕んだギターのサウンドと、それに合わせたキーボードの音色との複合体だと思われ、このアルバムではギターは大体一貫してそのような音作りをしていると思うし、鍵盤も浮遊的なサウンドを用いている曲が多い印象だ。浮遊感と色彩性という要素が、James Franciesの音楽の主要な二つの特徴であるような気がしてきた。この九曲目は三拍子が三小節に二拍子が一小節、という構成だったはずが、いつの間にか尋常な四拍子に変わっている。譜割りの複雑さや、色々な拍子構成のあいだのスムーズな移行というのも、Franciesの作曲の特徴として挙げられるだろうか。
 音楽を聞き終えると三時半前だった。合間にLINEでT田に、James Francies "Reciprocal (Reprise)"のなかで何かバシャバシャいっているようなドラムの音について、これが何の楽器の音かわかるかとメッセージを送っておき、それを機にいくらかやりとりを交わしていた。そうしながら前日、一二日の日記を書きはじめ、四時ぴったりで止めると、食事を取るために上階に行った。室内はもう結構薄暗いので食卓灯を点けておき、台所の明かりも点けて、白米に納豆、それに汁物と前夜のサラダの残りを食べることにした。納豆を冷蔵庫から取り出し、たれを垂らした上からさらに「カンタン酢」をいくらか注ぎ、葱も鋏で切って加えて、いくつかの品々を卓に運んだ。最初に汁物にちょっと口をつけて温みを胃に取り入れてから、サラダを食い、それから納豆を掛けた白米を貪ったが、やはり何だかんだ言って納豆ご飯というものは美味いものだった。特にこちらの場合は、「カンタン酢」を加えた時の甘味と酸味が混ざった味わいが好きだ。そうして最後にスープの里芋や人参や玉ねぎを噛み潰し、汁をゆっくり啜って身体のなかに染みこんでくる熱を感じながら食事を終えた。それから席を立って皿を洗いつつ、今日はだいぶだらだらとしてしまったなと思った。やはり勤勉でなければならない、自分を救うのは己自身の勤勉さである、と自ら改めて言い聞かせてはみるものの、そのように気負うことでその反動として怠けてしまうということも往々にしてあるわけで、目指すべきは勤勉さと意識されないほどの自然体での勤勉である。それから、今日のように気力のなかなか湧かない日は、心身のチューニングとして音楽を聞く時間を取るのが良いかもしれないなと思った。と言うか、それだったらいっそのこと、毎日の日課として活動の一番最初に音楽鑑賞の時間を優先的に確保すれば良いのではないか? それによって整って気持ちの良くなった状態でもって、ほかの様々な活動に取り組めば良いのではないか、とそんなことを考えて台所から抜け、仏間に入って灰色の靴下を履いた。そうして階段を下り、途中に吊るされてあったワイシャツを取って洗面所に行き、歯ブラシを咥えて部屋に戻ると、過去の日記を読み返しながら歯を磨いた。一年前の日記には、以下の引用が冒頭に付されてあった。本文はなし。

 ISがなにをしようとももはや驚かないという意見もある。ISの殺人自体は議論の余地なく悪と断じられる一方、そもそも人間があれほどなんのためらいもなく殺人に走ることに対する驚愕は消えつつある。ISによる攻撃の数があまりに多いため、いつの間にか我々のほうにも慣れが生まれたかのようだ。彼らはISの信奉者だから――それだけで、人があれほどの憎しみを植えつけられ得ること、他者をあそこまで軽視するようになることの説明になってしまう。こういった奇妙な姿勢は、暴力の通俗化という危険をはらんでいる。つまり、ISのテロが一種の自然法則であるかのように見なされる危険だ。そう見なされた結果、イスラムテロは自動作用に従っているのであって、そこに始まりなどなかったのだと考えられるようになってしまう。
 (カロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』みすず書房、二〇一八年、147)

 
 続いて、二〇一四年二月一九日。本文には特に言及するべき事柄はないが、欄外において、承認欲求に対する嫌悪感を発露させている。「つながりたい欲求は容易につまらない承認欲求に堕する。くそくらえだ」と罵言を吐いたあと、「SNSで互いの作品にコメントをしたりされたり、小さな仲間同士のグループ内で褒めあって悦に入ったり、そんなことをするために書いているんじゃない」と威勢良く宣言している。可愛らしいものだ。これだけ他人と通じ合うことや承認されたい気持ちに対して厭悪を示し、孤独を称揚しているということは、翻って実は誰よりも他人と繋がりたがっていた、認めてもらいたかったということを証しているようにも見える。自分自身でそれに気づかず、勢い良く尖り突っ張ったつもりでいるくせに、何よりも文章的な実力が伴っていないのが何とも哀れである。現在でも自分はそこまで積極的に他者と繋がっていこうという気持ちはないが、時たまそうしてみたくなることもあるし、そういう機会を嫌悪して徹底的に排除していこうというつもりもない。とは言え、昔も今も基本的な姿勢は変わっていないだろう。いずれ黙々と書くだけだ。
 二〇一四年の日記をブログに投稿しておくと、口を濯ぎに行った。それから便所に入って用を足し、戻ってくると、小沢健二 "昨日と今日"を流して服を着替えた。白いワイシャツに黒のスラックス、青いネクタイにベストを羽織って、そうしてこの日の日記をここまで綴ると四時五五分、そろそろ労働に出発しなければならない。
 出発前にまた一曲だけ音楽を聞いておくことにした。James Francies『Flight』から、一〇曲目の"Dreaming"である。Chris Turnerというボーカルをフィーチュアしているが、魅力的でわかりやすいメロディを明瞭に際立てて歌い上げるというスタイルではなく、キーボードの分厚い音響に声も溶けこむような形態を取っている。この曲もやはり浮遊的と言って良い質感の音響空間が構築されており、よく知らないのだが、こういうのをアンビエント的と言うのだろうか。背景に夢幻的なテクスチャーが敷かれたその左右で、ドラムとピアノが威勢良く暴れるといった趣向で、Jeremy Duttonのドラムはここでもやはり聞き物だと言うべきだろう。カラフルな煙めいた気体的な空間構成のなかにドラムのハードな打音が差し入れられて、靄めいた空気を割って裂くといった感じで、多分一部ポリリズムも取り入れていたのではないだろうか。
 それを聞いて、五時を回ったところで出勤することにした。上階に階段を上がっていくと、ちょうど帰宅した母親が玄関から入ってきた声がして、居間から扉をくぐって出ればチェックのコートを着た姿があった。こちらはトイレに入って排便し、出るとポケットにペンが入っていないことに気づいたので下階へ戻り、自室からボールペンを取って引き返すと、母親が送っていこうかと言ってくれたが、いい、と低く断った。何だか気持ちがいくらか暗いようで、返事を返すのも面倒な感じだった。玄関を抜けて道に出ると、知らぬ間に雨が降っていたようで道路は薄く濡れており、なかにところどころ黒が深い箇所が見られる。空気はかなり冷え冷えしていて、空はまだ青味が残ってはいるものの、辺りの空気は午後五時過ぎにもかかわらず黄昏も越えて既に宵に入っている。中学生か小学生か、暗さのためによくわからなかったが、女子二人が自転車に乗ってこちらの横を追い抜かしていったそのあとから、遅れて匂いが鼻に漂った。香水らしくはない香りで、洗剤のものか、髪の毛のものか。
 坂道に入ると樹の下の暗さはもう夜の帰路と変わりなく、違うのは木の間から見える空が黒くないことだけだった。坂を抜けて横断歩道に掛かると、信号で停まった車から宙に揺蕩う光に触れられて、色を変えはじめたばかりらしい楓の赤さが薄暗がりのなかに浮かんでいた。階段通路に向かいながら、また入ってからも、あの赤さをもう一度見たいとたびたび見返すが、変色したのは通りに面した方のみのようで、まだ紅葉していない梢に阻まれて見えない。口から漏れる息が白く濁って流れていった。
 ホームに入るとベンチに就いてメモを取り、まもなく電車が到着すれば、席は結構埋まっていたので、北側の扉際に立ってメモ書きを続けたものの、やはり揺れのために文字を上手く書けなかった。青梅に着くと客が去ったあとの席に座り、引き続きちょっと手帳に文言を書き入れて、しばらくしてから降車した。ホームを行きながら、昨日はあの辺りに満月が見えたが、と屋根との合間に狭くひらいた空に目をやるが、今日は雲が厚いようで何の痕跡も窺われなかった。
 今日の労働は一コマ、相手は(……)くん(中三・英語)、(……)くん(中一・英語)、(……)くん(中三・社会)である。(……)くんは前回に引き続き、分詞を扱った。相変わらず凡ミスの類が多いが、分詞の文法的なルールは理解できている。間違えた文は二回ずつ書いて練習してもらったので、少しでも頭に入っていると良いのだが。(……)くんは、やる気のなさと諦めが凄い。どうも学校にも行っていないようだ。今日扱ったのはレッスン7のGET1、canである。canが~できるという意味であること、canのあとには動詞の原形が来ることをノートに記入してもらい、問題を解いてもらったが、やる気がないのでなかなか一人では解き進めない。一緒にやってやれば普通にできるので、取り組む気持ちさえ生まれればそう悪くはならないと思うのだが、如何せん意欲がないわけだ。三人目、(……)くんは公民範囲から消費と地方自治について扱った。彼は結構優秀な方で、語句の質問をしても説明できるし、放っておいても勝手にやるような感じで、こちらの手助けはそんなに必要とせずに自ら学んでいけるのではないか。授業終わりには三人とも、一応ノートに記入した事柄を再確認することができた。やはりいくらか余裕を持って締めに入り、最後にノートを振り返る時間を確保したい。
 シフト表を記入しておき、退勤である。そう言えば所得税申告の書類を記入するのに印鑑が必要なのも、毎回忘れてしまっているので、明日あたり忘れずに持参したい。駅前で、市長選候補の宮崎太郎氏が選挙活動をしていたので、ビラを二種類受け取った。一つは電話をしながら配っている人から貰い、進むとほかにも配っていて、違う種類のビラのようだったのでまた受け取ったのだった。その時に、相手の手もとのチラシを注視していて、配っている人と目を合わせるどころかその顔もまったく見なかったので、あるいはちょっと冷たい印象を与えてしまったかもしれない。しかし背後からは、ありがとうございます、ありがとうございます、と大きな声で繰り返し礼が飛んできた。駅に入ると今日も自販機でコーラを買って、ベンチに座って飲んだが、通りすがったサラリーマンは温かい飲み物のペットボトルを両手で包んでその温みを大切にしているような気候である。それでも、働いて声を出したあとだから身体が温まっているのか、それほど寒くは感じられなかった。手帳にメモを取りつつ電車を待ち、奥多摩行きがやって来ると三人掛けに乗りこんで、最寄り駅に着くまでメモ書きを続けた。降りて見上げても今日は月がなく、空は墨色に固まっているばかり、階段通路を行きながら眺めれば、一見平らかに乱れなく均されているように見えるけれど、それは澄んでいるのではなくて全面が隈なく雲で埋め尽くされているらしい。しかし坂を下りて出た道では、直上に高々と薄雲を透かしながら、どこに隠れていたのか満月が皓々と現れており、そのもとで桜の老木が裸の枝を宙に強く張り刻んで静まっていた。夜道を行きながら、労働の疲れのためか、やはり虚無感めいた情が薄く兆さないでもなかった。
 帰宅。父親も帰宅済みで風呂に入っているらしかった。こちらは自室に帰り、ゆっくり一枚ずつ服を身体から剝ぎ取って、廊下に吊るしておき、替わりにジャージを着込む。腹が空だったのですぐに上階に行き、米、炒めた牛肉、幅広のうどん、紫白菜などのサラダを食べた。食べるとすぐに入浴、目を閉じて静止しながら長く浸かって休み、出てくると自室に帰って、多分茶を飲んだのだろうか。一服したあとにまた音楽を聞いたと思う。
 まずはJames Francies『Flight』の最終一一曲目、"A Lover And A Fighter"。凛とした感じのメロディが冒頭から終幕まで、僅かに譜割りを変えながら繰り返しモチーフとして出現する。スローテンポの前半は一六分の九を基調としているように聞こえたが、それもさらに四+四+一の感覚のパートと、四+三+二の感覚のパートとに分かれていたように思う。キーボードによる背景のテクスチャーはやはり浮遊的な耳触りのもので、そこにエフェクトを掛けられて強い残響を孕んだ持続的なサックスが被せられる。中盤、Franciesのソロピアノが入って以降、後半は多分一六分の一一の拍子にしばらく沿っていたと思うが、それからまた構成が変わったあとは上手く把握できなかったので、それ以後の譜割りはよくわからない。その箇所ではしかし、Chris Potterの、今度はエフェクトなしの、砂埃を立てるタイヤのように高速で激しい回転感を含んだブロウのソロが印象に残った。
 James Francies『Flight』は一応これで一通り聞いたので、次に、Bill Evans Trio『Portrait In Jazz』に移った。一曲目は"Come Rain Or Come Shine"である。三人とも、一九六一年六月二五日のライブに比べると随分と行儀良く、ジャケットのEvansの写真のように折り目正しいので、思わずちょっと笑ってしまいそうになる。このアルバムの録音は五九年一二月二八日のことで、この伝説的なトリオが結成されてまだまだまもないから、深く以心伝心というわけには行かないのだろう。Scott LaFaroはかなり大人しくて明らかに猫を被っているし、Paul Motianも二拍四拍にハイハットをきちんと保って控えめで丁寧なサポートに徹しており、まるで普通のドラマーのようだ。Bill Evansのソロ構成の整い方、緻密で隙のない明晰さだけは後年のライブ音源を思わせないでもないが、その時のようにどこまでも静謐な張り詰めた緊張感に満ちていると言うよりは、包容的な柔らかさを感じさせる演奏になっている。
 二曲目は"Autumn Leaves (take 1)"。端正にテーマが提示されたあと、ベースの先導でいわゆるインタープレイ的な間奏に入り、三者替わる替わる浮かんでは沈み交錯する形式のスリリングなアンサンブルが繰り広げられる。この趣向は、やはり彼らがここで実践するまではジャズのピアノトリオの世界にはなかったものなのだろう。間奏が開けたあとのEvansのソロも聞き物で、非常に明快に整って上手く流れており、快適に乗ってとてもよく歌っている。言うまでもなく明らかに素晴らしい、数ある"Autumn Leaves"のバージョンのなかでもおそらく最高峰の演奏の一つだが、ただその場面でのLaFaroは、多少の変化を取り入れてはいるものの基本的にはフォービートを取っていて、六一年のライブの時点の彼だったらもっと果敢に泳ぎ回って攻めているだろうとは思う。この時点では、普通のピアノトリオと比べると勿論かなり自由度の高いトリオではあるけれど、LaFaroとEvans、あるいは三者のあいだの関係が対等というわけには行かず、まだBill Evans一人が突出しているような印象だ――終盤、ふたたび三者でのインタープレイに入る際の冒頭の、LaFaroとEvansの交差の仕方などには、六一年の面影を垣間見ないでもないが。しかしやはり、後年のライブでの流体性は感じられず、不定形の変異体にはまだ進化していないようだ。あくまで表向きのと言うか、スタジオでの顔といった感じである。
 音楽鑑賞を切りとしたあと、一一時から一二日の日記を書きはじめ、三〇分ほどで仕上げたあとはさらにこの日の日記も綴り、日付替わりを迎えたのち、零時二〇分から読書に入った。イタロ・ズヴェーヴォ/堤康徳訳『トリエステの謝肉祭』である。一時半前まで読んでから床に就いたが、この日は作文は二時間、読書は一時間余りで、三時間ほどしか読み書きをしていないわけで、これではやはりちょっと少ない。


・作文
 14:02 - 14:11 = 9分(13日)
 15:26 - 16:00 = 34分(12日)
 16:34 - 16:55 = 21分(13日)
 23:05 - 23:34 = 29分(12日)
 23:44 - 24:07 = 23分(13日)
 計: 1時間56分

・読書
 16:17 - 16:22 = 5分
 24:20 - 25:24 = 1時間4分
 計: 1時間9分

  • 2018/11/13, Tue.
  • 2014/2/19, Wed.
  • イタロ・ズヴェーヴォ/堤康徳訳『トリエステの謝肉祭』: 153 - 204

・睡眠
 2:30 - 11:15 = 8時間45分

・音楽

  • cero, "Yellow Magus (Obscure)", "Summer Soul", "Orphans"
  • 小沢健二, "大人になれば"
  • Bill Evans Trio, "All Of You (take 2)", "My Man's Gone Now"
  • James Francies, "My Day Will Come", "ANB", "Dark Purple", "Dreaming", "A Lover And A Fighter"(『Flight』: #4, #8, #9, #10, #11)
  • Bill Evans Trio, "Come Rain Or Come Shine", "Autumn Leaves (take 1)"(『Portrait In Jazz』: #1, #2)