2019/11/16, Sat.

 (……)時が隔たるにつれて、若者たちが私たちに、非常にしばしば、執拗に問いかけてくる問いがあった。それは私たちを「迫害したものたち」がだれだったのか、いかなる種類の人間だったのか、という問いだった。それは私たちの元獄吏やSSを指しているが、その問いかけは、私の考えでは適切ではない。それはゆがんだ、生まれの悪い、サディストの、生来の悪徳に染まった人物を連想させる。だが彼らは、素質的には私たちと同じような人間だった。彼らは普通の人間で、頭脳的にも、その意地悪さも普通だった。例外を除けば、彼らは怪物ではなく、私たちと同じ顔を持っていた。ただ彼らは悪い教育を受けていた。彼らの大部分は粗野で勤勉な兵卒や職員であった。その何人かはナチの教えを狂信的に信じていたが、多くは無関心か、罰を恐れているか、出世をしたいか、あまりにも従順であった。すべてのものが学校で、恐ろしい錯誤の教育を提供され、押し付けられていた。それはヒトラーとその協力者たちによって望まれ、SSの軍事教練[ドリル]で完成されたものだった。この軍隊に、何人かは、それがもたらす威信のために、その絶大な権限のために、あるいは単に家庭の困難さを逃れるために入隊した。そして実際にはその中のほんのわずかなものが、改心したり、前線に転属を求めたり、囚人を慎重に助けたり、あるいは自殺を選んだりした。彼らはその程度の差こそあれ、全員に責任があったのは言うまでもないが、彼らの責任の背後には、大多数のドイツ人たちの責任があることも明確にしなければならない。彼らは初めは、知的怠惰さ、近視眼的な計算、愚かさ、国民的誇りなどから、ヒトラー伍長の「美しい言葉」を受け入れ、幸運と、良心を欠いた破廉恥さが有利に働く限り、彼について行った。そして彼の破滅で足をすくわれ、死と窮乏と後悔に苦しめられることになった。彼らが現実主義的な政治のゲームによって力を回復できたのは、その数年後のことだったのである。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』朝日新聞出版、二〇〇〇年、242~243)


 おそらく九時台から覚めていたと思う。しかしいつものように起き上がれず、太陽の明るみを顔に受けながら苦しんで、一〇時三五分に至ってようやく、勢いをつけてがばっと身体を起こした。前夜は四時二〇分の遅きまで夜を更かしていたから、この時間に起床しても睡眠時間は六時間強、悪くはない数値である。コンピューターに寄ってスイッチを押し、各種ソフトのアイコンをクリックしておいてから、服を着替えるために上階に行った。母親は仕事に出ていて不在、こちらも今日は土曜日なのでいつもより早めに、三時前から労働があるので、洗濯物は一時頃には入れなくてはならない。寝間着からジャージに着替えて一杯水を飲んだあと、トイレで糞を垂れて腸内を軽くし、食事は今食べてしまうと出勤する頃にまた腹が減って、そのくせ食べ足している時間はないという状況に陥ってしまうので、一二時を迎えた頃に取ることにした。それで顔を洗ったのみで下階に戻って、インターネットをちょっと見てから前日の日記を書きはじめたのが一一時直前だった。Bill Evans Trio "All Of You (take 1)"の感想から書きはじめて、職場での授業内容まで綴り終えるとちょうど一時間が経って正午が目前だったので、ものを食べることにした。それで部屋を抜けて上階に行き、冷蔵庫を覗くと椀に一杯残った前日のスープと唐揚げがあったために取り出して、まずスープを電子レンジに突っこんだ。そのあいだに唐揚げをパックから二つ、皿に取り出して米をよそって卓に運んでおき、さらにそのほかチョコレートデニッシュみたいなパンを一枚と、カレーパンがあったのでそれも食べることにした。スープのあとは唐揚げとカレーパンをいっぺんに温めたが、唐揚げが思いの外に熱を持たなかったので加熱を追加し、そうして卓に就いて食事を始めた。新聞では、米国の国防相と韓国の文在寅大統領が会談して、国防長官はGSOMIA破棄の決定を考え直すように伝えたと報じられている。そのほか、中国で拘束されていた北海道大学の教授が解放されて既に帰国済みであるとの報や、最新の香港情勢を伝える記事を読みながら、ものを口に運んだ。食事を平らげると席を立って、台所で使った皿を洗い、それから風呂場に行って浴槽も擦り洗った。窓の磨りガラスの向こうには、ガードレールの白さが明るく溶けており、林の樹々を映す上部の緑はもうかなり淡く、中段には林の外縁で色を変えた葉っぱが映っているらしく、オレンジ色が混ざっていた。浴室を出ると履いていたゴム靴をバケツに入れておき、電気ポットを開けてみれば水位が低くなっていたので、薬缶から水を注ぎ足した。そうして空になった薬缶にもまた水を汲んで置いておき、階段を下りて自室に帰ると、「Waltz For Debbyとともに夜が更けてあの子は眠る月影抱いて」という一首をTwitterに投稿した。四句目までは昨晩のうちにできあがっていて、最後の句がこれではいかにもありきたりなイメージではないかと思って迷っていたのだが、ほかに良い言葉も出てこないし平明さを取るかということで、完成としたのだった。それでこの日の日記を書き出したのが一二時二一分、ここまで綴って四〇分である。
 緑茶を用意しに行った。急須と湯呑みを持って階を上がり、流しに用済みの茶葉を捨てておくと、三杯分を仕立てて下階に戻り、一服しながら(……)。それで一時を越えたので、洗濯物を取りこみに行った。まだ高く眩しい陽射しのなかでベランダに吊るされたものを手に取り、室内に運び入れ、もうあまり時間の猶予がないのでタオルだけを畳んでおくことにして、ソファの背の上で手を動かし、折り畳んだものを積んで整理していった。それを洗面所の籠のなかに運んでおき、それから階段を下りながら途中に掛けられてあった白いワイシャツを手に取り、部屋に戻るとcero "Summer Soul"を流して着替えはじめた。今日取るのは灰色の装いである。ネクタイは濃い目の水色のものをつけて、ベスト姿になると歯を磨きながら過去の日記を読み返した。一年前のこの頃はまだ相変わらずアンヘドニア様の無感覚・無感情に囚われており、「まあしかし実際のところ、もう駄目だろうなとは思う。自分は一生このままだろうという予測を、諦観とともに冷静に受け入れている」と深く平静な諦めを表明している。現在の自分の状態がこの先一生涯全然変化せずに続くなどという抽象的な想定は、本当に冷静に考えられていたのならばありそうもないことだと判断しそうなものだが、病中にある時は本当に、変容というものをまったくもって考えられないものなのだ。そうした点で、町屋良平「しずけさ」のなかの以下の一節は、鬱症状における見通しのなさをわりとよく表現しているような気がする。

 おもいだしたい過去か、夢みるべき未来があるか。明日いきたい場所、あいたいひとがいるか。そもそもかれにはそんな思考も組み立てられない。ゆううつでは思考も時間も組み立てられず、ただおそろしい「今」をくりかえしていくしかなかった。このように「今」というのは純然たるモンスターだった。
 (町屋良平『愛が嫌い』文藝春秋、二〇一九年、29; 「しずけさ」)

 その後、二〇一四年二月二二日の記事をひらいて読みはじめた。その途中で口を濯ぎに行き、戻ってくるとちょうど流れていた"Orphans"を歌いながら続きを読む。この日は当時参加していた読書会で早稲田に集まっている。この会はTwitterで知り合ったTくんという人と語らって始め、U田くんやHさんも参加していたもので、この夜は彼らと一緒にカラオケに行って交友を深めている。Tくんとはその後結局、喧嘩別れになってしまったのだが、今は一体何をしているのだろうか? サミュエル・ベケットを研究したいというようなことを言っていたと思うが、その目標は叶えられているのだろうか?
 便所に行って水っぽい糞をまた垂れてから、ここまで日記を書き足せば、一時五二分に達した。もう出勤しなければならない。
 出発した。玄関を出た瞬間に、陽射しの匂い、温められて乾いた空気の柔らかで穏和な匂いが鼻に触れた。ポストを確認すると郵便物は何もなかったので、玄関の扉に鍵を掛けて道へ出た。家の近くに一本立った楓は色を変えつつある過渡期のさなかで、垂れ下がった枝葉は薄緑から黄を経由して渋めの赤まで、内側から外縁へ向けて色彩を雪崩れるように連ねている。坂道に入って右方の川を見下ろせば、遠くの川面の色は乳を混ぜたようにまろやかな緑だが、くすんで濁った感覚もちょっとないではなくて、視界の手前に差しこまれる樹の緑色と相応しているのに、やはり樹々の色の変化につれて川の色も変移しているのだなと思った。
 背中を温かく照らされながら坂を上っていけば、葉っぱを引っ掛けた蜘蛛の巣がガードレールの上で、青空を背景にくっきりと浮かび上がっている。坂を抜けて街道が近づいた頃、清涼な向かい風が流れてきたが、背には陽射しが寄ってきて、身体の前と後ろとで冷温の共存が生まれた。街道に出て視線を上げれば、雲は淡いものが僅かにこびりついているが、空は大部分、すっきりと青い快晴で、短歌の案を頭に回しながら行くあいだ、風が前から通り続けた。
 裏道へ折れると正面にある白いアパートのベランダで、おばさんが一人、演歌らしき歌を歌いながら洗濯物を干すか取りこむかしているところだった。角を曲がって進んでいき、一軒の前に狭く置き並べられた鉢などに目を向けていると、その裏から姿が見えないままに犬が威勢良く吠えてきてちょっとびっくりさせられた。別の一軒の庭では白い蝶が一匹で舞い遊んでおり、羽ばたきの動きに応じて翅で光を跳ね返し、明暗のあいだを行き来して繰り返すさまの、薄く硬質で、ほとんど金属片が生命を宿して舞っているかのように映った。蝶に硬さの印象を得たのはこれが初めてかもしれない。
 通りは静かで、微風が線路の向こうの樹々の葉を微かに揺らす音も耳にさらさらと差し入ってくる。青梅坂を越えてしばらく行くと、道脇の、小さな踏切りの手前の敷地で、猫が一匹、日向ぼっこめいて欲得もない老人のように佇んでいた。短歌案を頭に回しながら歩いていたので、周囲の世界から大した印象は得なかったようだ。また、ありがちではあるが、「幻想小景集」のような小説を作れないかとまた考えた――考えたと言って、アイディアを真剣に考案して細かく詰めたわけでなく、散漫に夢想したのみのことだが。
 駅前に出ると道に老人たちが多く、目を振れば駅舎入口の前にも一団があり、通りの途中にも人が溜まっていて、やけにひと気が多いなと訝りながら横断歩道に差し掛かると、右方、駅から正面に進んで街道を渡ったところにある広場で、何かイベントをやっているらしく賑やかな雰囲気で、出店も出ているようだった。それを横目に通りを渡り、マンションの下まで来れば陽が陰って、いくらか清涼になった空気が身を包んできた。
 この日の労働は一時限、相手は(……)さん(中三・英語)、(……)さん(中三・英語)、(……)さん(中一・社会)である。この文章を綴っている現在は一八日から一九日に日付が移る直前、既にこの日の授業から二日と半日くらい経っているので記憶が乏しく、大きく印象に残っていることもない。三人とも、悪くない授業ができたはずである。このなかでは(……)さんがいつも手を止めがちで、この日もそうだったが、結構手伝って一緒に解くことができて、まとめ問題を一頁とちょっと扱えた。ノートもわりあいに充実させることができた覚えがある。(……)さんは特段の問題はなかっただろう。(……)さんは地理でヨーロッパを扱ったが、気候や農業、キリスト教の宗派分布などについて確認できた。
 退勤すると駅に入り、ホームに上がって先の方へ向かえば、小学校を抱く丘の樹々には黄色や鈍い赤味が差しこまれており、しばらく見ないあいだにいくらか変色が進んでいた。立川行きに乗って席に就き、脚を組んだ姿勢で河辺までメモを取った。降りるとホームから階上へ上がり、改札を抜ければ山帰りらしき人々の姿が周囲に見られ、歩廊に出ると後ろから、Wow, big Tosyo-kan, と英語が聞こえた。こちらの横を抜かしていく姿を見れば、もじゃもじゃの頭の外国人男性と日本人女性の二人で、彼らも行楽帰りらしい格好をしていた。図書館のビルに入ると、多目的スペースは市長選の期日前投票に来た人々が多数並んでごった返している。その横を過ぎて図書館のなかへ入り、カウンターでCDを返却すると、あとですね、と呟き、リクエストの本が来ているようなので、お願いしますと要求した。それで岩波文庫夏目漱石草枕』を受け取ってCDの区画へ向かい、ジャズの棚の前に立った。Mary Halvorsonが気になるというわけで、Marc Ribot The Young Philadelphians『Live In Tokyo』を一つには選ぶことにした。もう一枚は、古いものだが、Louis Armstrongの作品をどれか借りてみるかというわけで、都合良くライブ盤があったので――こちらはライブ盤が好きである――『Satchmo At Symphony Hall - 65the Anniversary: The Complete Performances』を選び取った。最後の一枚をどれに決めるか迷いながら並びを見分していると、井上陽介の最新作らしいものが見つかったが、これは借りるとすれば先日借りた『GOOD TIME』を聞いてからにしようと判断し、そのほか鈴木勲のオランウータンのジャケットの作品も迷ったが、最終的に、Joe Armon-Jones『Starting Today』に決定した。ブリティッシュ・ジャズの新星といった感じの人のようだ。それで三作を貸出機で手続きしてバッグに収め、それから階を上がって新着図書を見たが、特に目新しいものはなかったと思う。宇野邦一訳のサミュエル・ベケットマロウン死す』をさっさと読みたいとは思っている。
 そうして、元々図書館で席に就いてメモを取っていくつもりだったのだが、テラス席を見に行っても空きがほとんどない。それでフロアを引き返し、民族問題の区画をちょっと見たあと、夕食の時刻には早いけれど、既に腹も減ったし、ロッテリアに行くかと決めた。退館して階段を辿って下の道に出て、ハナミズキが渋い臙脂色の葉を辛うじて残して風に晒している横を通ってロッテリアに行き、注文よりも先に席を見た。土曜日だから混んでいるだろうと思った通りで、あまり空きがなかったが、喫煙席のなかが空いていたので煙草を吸っている者も今はいないし、そこに入ることにした。バッグを置いておき、それからカウンターへ注文に行って、単品でエビバーガーとベーコンチーズバーガーを頼み、飲み物はジンジャーエールを選んだ。注文を受けてくれたのはNさんという女性で、やりとりをしているあいだは気づかなかったのだがあとから思い返すと何となく見覚えがあるような気がして、どうも数年前、まだ南口にロッテリアの店舗があった頃にそこで働いていた女性ではなかったか。二〇一五年かその頃だと思うが、当時はたびたびこのロッテリアを訪れて書き物をしていたのだ。その頃の日記には、彼女のことを薄幸そうな、淡いような顔の女性、というような表現で綴っていたと思う。
 メモを取りながらジンジャーエールを啜り、バーガーが届くと書き物を中断して食事を取った。店内は早くもクリスマスに向けて気分を盛り上げているといった調子らしく、クリスマスソングの類が頭上から降っていたが、それが結構ありきたりのものではなくて、誰かはわからないがThe Beatlesの風味を取り入れ受け継いでいるような感じのポップスなどが聞かれた。バーガーを食べ終え、メモを適当なところまで取り終えると、元々手帳から記憶ノートに情報を移す作業もここでやろうかと思っていたのだが、気を変えてさっさと帰ることにした。そういうわけでトレイを持ってダストボックスに行き、ゴミを始末したあと席からバッグを取って退店した。
 帰路のことは覚えていないので割愛する。帰宅後の事柄も同様、印象に残っていることはあまりないし、メモも取っていないので、二、三の事柄のみ書いてこの日の日記は終えよう。まず、帰ってきて緑茶を用意している最中に、テレビでは沢尻エリカが合法麻薬所持で逮捕との報が伝えられていたのだが、それが大袈裟に取り上げられているのを見ながら、糞みたいにどうでも良いな、もっと伝えるべきことがあるだろうと思った。街の人の声もおざなりで興味なさげなものばかりで、そもそもこのように問題に対してさほどの興味も持たないであろう通行人の声を聞くことに一体何の意味があるのかこちらにはよくわからないのだが、そのなかの一人が、そういうものに逃げないでほしかったですね、とか言っていて、逃げるって何やねん、お前は沢尻の一体何を知っているんだと心のなかで突っこんだ。室に帰ると借りてきたCDをインポートしながらデータをEvernoteに打ちこんで記録した。頭痛が薄くあり、疲労感も強かった。今日はまた、頭が痺れるような感覚が微かにあったのだが、薬が残り僅かなのに医者に行っている暇がないので昨日飲まずに調整したためだろう。八時過ぎから風呂に入ってうとうとしたので、それで疲労感は少しは溶けたようだった。その後、何時だったかわからないが、Gary Gutting, "Feminism and the Future of Philosophy"(https://www.nytimes.com/2017/09/18/opinion/feminist-philosophy-future.html)を読んだ。

・rancorous: 恨み(敵意)のある
・seminal: 影響力の大きい、独創性に富んだ; 将来性がある
・province: 領域、分野
・perennial: 何度も繰り返される; 長続きする
・generic: 包括的な、全体的な
・vein: 調子
・inimical: 好ましくない、有害な; 敵意のある

It’s interesting that the new feminist directions sometimes derive from the stereotypical roles that society has imposed on women. In ethics, as Rosemarie Tong and Nancy Williams note in their Stanford Encyclopedia of Philosophy article on feminist ethics, “proponents of feminist care ethics … stress that traditional moral theories … are deficient to the degree they lack, ignore, trivialize, or demean values and virtues culturally associated with women.”

So, for example, societies have often directed women toward subordinating their interests to others (husbands or children, for example). As a result, women tend to be particularly sensitive to “care” as an ethical value, and feminist philosophers (like Nel Nodding and Virginia Held) have developed various “ethics of care” that supplement or displace “masculine” ethical values such as autonomy and self-fulfillment. Even an other-directed principle such as “Act for the greatest happiness of all” takes on a deeper meaning when understood not as a duty toward generic humanity but as a call to personal engagement with those in need.

 あと覚えているのは、と言うかメモ書きが取ってあるのは音楽の感想くらいである。まずいつものように、Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』のなかの"All Of You (take 2)"を流した。主にScott LaFaroのプレイに耳を寄せた。彼のアプローチはまったく多彩で、頭抜きの休符を挟んだリズム構成やシンコペーションをよく使うような印象であり、低音を中心に這うように伏していてもドライブ感が凄い。LaFaroが同単位のフレーズを繰り返すところで、Paul Motianが即座にリズムを合わせに行く反応の素早さも聞き取られる。このテイクではドラムはスティックに持ち替えることなく全篇ブラシで通していて、それでベースは本格的なフォービートには移行せず、長めの音価を取りながら時折り浮上して蠢く、という感じだが、通り一遍でないリズムを用いても演奏が不安定に乱れないのは流石である。ピアノソロの終盤に聞こえるものだが、やや高音寄りで二音のあいだを行き来するアルペジオめいたフレーズなど、ぴったり合わせるのがかなり難しいリズムで演じられているように思われたが、アンサンブルは崩れない。ただ、LaFaroのビート感覚は機械のように無機質、正確無比、という感じではなくて、あくまで人間的なグルーヴめいたものを強烈に感じさせるもので、自分のなかに一つの確立された音楽の流れを定かに持っていて、それに忠実に従っているというような印象を与える。ベースソロではソロ本体よりも、裏のMotianのバッキングを注視した。このテイクでは彼は、ハイハットを二拍四拍に踏んできちんと弛まずキープしており、ブラシを持った片手はシンバルを刻んで、もう片手でスネアを細かく挟んでいくのだが、シンバルの刻みのアクセントの散らし方がやはり単調でなく、変化をつけているのが聞き取られる。ドラムソロにおいてはこれもやはりキックの差しこみ方が独特奇妙で、一体どうやって上層部を淀みなく展開させながら、下方ではバスドラムをこれほどずらして入れられるのか、下部が上部の流れに対する抵抗として働いているような気がするのだが、そのあいだのリズム感覚にどのように折り合いをつけて統合しているのか不思議である。
 次に、"Alice In Wonderland (take 2)"。これはちょっと凄い演奏ではないか。このトリオの柔らかな不定形の流体性が最もよく表れ出た演奏の一つであるような気がする。この時期のBill Evansの演奏は折々に挟み入れる休符の空け方が絶妙で、バランスがとても良く、常にゆとりを失わない。まさしく天上的な、と言いたくなるほどのこの上なく美しい統一性に満たされた歌心、一瞬たりとも濁りを感じさせることのない天使的な純白爛漫の明るさに充実しきっている。LaFaroもバッキングのあいだからかなり泳ぎ回っており、一方でMotianは不可思議とも思えるような空隙を随所に挟みこんで減速のような感覚を生み出し、それとともに空間を広くひらいている。ベースソロも前半はお得意の、縦横に走る流麗な三連符の連なりが聞かれ、中盤以降からは八分音符主体でよく歌ったあとに、終わりでふたたび三連符の駆け下りを披露してピアノソロに戻る、といった流れでよくまとまっている。Evansのプレイの統一感は余人の到達を許さぬ高みに達してずば抜けているが、LaFaroの構成感覚もかなりのものだ。ベースソロ後のピアノソロの終盤では、必殺技的な、彩り豊かで麗しいコードプレイが聞かれて、これも堪らない。
 続いて、『Portrait In Jazz』に移って、"Someday My Prince Will Come"を聞いた。Evansはこの曲では、ソロの冒頭から速弾きをちょっと見せたりして、ほかの曲よりもテンションが高いような印象で、三拍子の弾力もあってか、陽気と言っても良いような、純真無垢めいた爛漫さが感じられる。尋常の八分音符の連なりを弾いている時にあっても、一つひとつの音の粒が強く際立って音像が澄み渡っており、非常に凡庸なイメージではあるが、ちょうど今頃のよく乾いた秋晴れの、雲が一雫も落ちておらず汚れない鏡のように清明な快晴の空を思わせるもので、リズム的にも様々な変化を取り入れていて退屈や単調さに陥ることがない。全体的な曲の色合いや演奏の雰囲気としては"Alice In Wonderland"に似ているが、LaFaroのベースソロに関して言えば、技術的には六一年と遜色ないと思われるものの、"Alice In Wonderland"の方がやはり生き生きとまとまっているような気はした。


・作文
 10:57 - 11:56 = 59分(15日)
 12:21 - 12:40 = 19分(16日)
 13:38 - 13:52 = 14分(16日)
 22:36 - 23:30 = 54分(15日)
 計: 2時間26分

・読書
 13:23 - 13:31 = 8分
 21:19 - 21:31 = 12分
 21:32 - 21:56 = 24分
 22:01 - 22:22 = 21分
 22:26 - 22:35 = 9分
 25:08 - 26:30 = 1時間22分
 26:53 - 27:18 = 25分
 計: 3時間1分

・睡眠
 4:20 - 10:35 = 6時間15分

・音楽