2019/11/17, Sun.

 つまりアウシュヴィッツという殺人工場を管理運営していたのは普通の人々だったのだ。ここに考えるべき最大の問題がある。要するにひとたびナチの時代と同じ条件がそろえば、我々も同じ罪に加担する可能性があるということだ。人間を善人と悪人という二分法で見た時、こうした考えは生まれず、自分だけはアウシュヴィッツ的犯罪に加担しないという思い込みだけを持ってしまう。この思い込みはアウシュヴィッツ的現象を理解するのに決定的な妨げになる。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』朝日新聞出版、二〇〇〇年、251~252; 「訳者あとがき」)


 一一時四〇分起床。のそのそと身体を起こしてベッドを抜け出し、コンピューターを点けた。パスワードを打ちこんでログインして、各種ソフトのアイコンをクリックしておくと、尿意が高まっていたので起動を待つあいだにトイレに行った。長々と放尿し、洗面所で顔も洗ってから帰ってくるとEvernoteで前日の記事の日課記録を付け、今日の記事も作成し、そうして部屋を出て階を上がった。母親に挨拶をして寝間着からジャージに着替える。食事は前夜のおでんにうどんを加えて煮込んだものだと言う。台所に行って大鍋を火に掛け、前夜の鶏肉のソテーの余りも電子レンジで温め、二切れしかなかったのでその場で立ったまま食ってしまい、うどんを丼によそって卓に行った。そのほか母親が、隼人瓜やら魚肉ソーセージやらを和えたサラダを用意してくれた。新聞から香港情勢を伝える記事を読みながらものを食べ、うどんがまだ余っていると言うのでおかわりをして、汁は塩っぱいから全部飲まなくて良いと母親は言ったが意に介さずにすべて飲み干し、フランシス・フクヤマが米国の弾劾調査やら大統領選の情勢やらについて述べた寄稿を散漫に、途中まで読んでから食器を洗った。それから母親の求めに応じて、父親が山梨で貰ってきたと言う巨大な白菜を包丁でざくりと切断し、陽の掛かっている南の窓際に置いておく。そうして風呂を洗って一旦下階に下り、急須と湯呑みを持って階上に戻って、緑茶を用意すると自室に引き返し、一服しながら(……)。一五日の記事も前日一六日の記事も書かなければならないのだが、あまりやる気が湧かない。そのために音楽を聞いて鋭気を養おうと思ったが、その前に起床以来のこの日のことだけは書いてしまうことにして、ここまで手短に綴れば一時一九分である。
 それからすぐに音楽を聞こうと思っていたところが、結局だらだらと過ごしてしまい、二時を回ったところでようやく、Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』から"All Of You (take 3)"を聞きはじめた。今日もScott LaFaroの動き方に耳を傾けた。このテイクにおいて彼は、序盤、ドラムがブラシを持っているパートから、頻繁に高音域に浮上している。ただ、あまり旋律めいた細かい節を奏でるのではなくて、長音中心に空間を緩やかに埋めている印象だ。同時に演奏を下支えすることへの目配りも忘れず、表層部で泳ぎながらも低層にも降りていって這うような響きを差し挟み、腰があまり軽く浮きすぎないように気をつけているのが観察される。そうしたLaFaroの、上下に広く飛び回る挙動は、音楽の枠組みを拵えると言うよりは、Bill EvansPaul Motianが作り上げる枠組みのなかで邪気のない子供のように自由に遊ばせてもらっている、といった感じだ。リズムの提示の仕方からしても、かなり柔軟な、強い伸縮性を持ったベースである。ドラムがスティックに持ち替えてからはベースも基本的にはフォービートを刻んでいるが、そのラインの作り方も、仔細にはわからないものの、何かほかのベーシストとは違っているような感触を覚える。おそらく、コードに合わせて音を選ぶと言うよりも、経過音も多く取り入れたもっと旋律的な連なり方になっているのではないだろうか。ベースソロにおいては三連符の密な連続が聞かれ、時にはうまく拍頭を聞き分けられないようなフレーズの素早さ、アクセントの付け方である。ところで、このライブ音源に収録されている"All Of You"の三つのバージョンは、三テイクそれぞれでリズムの推移の仕方が微妙に異なっている。テイク一は三段階に分かれ、第一部のブラシでの演奏が終わるとスティックでの刻みに入るが、そのパートも二部に分かれており、ベースは前半では二分音符中心で伸びやかなバッキングをしたあと、後半から正式に、ドラムに合わせてフォービートで弾みはじめる。テイク二はドラムが全篇ブラシで通しており、ベースとドラムで一体となってフォービートを刻む場面は多分なかったのではないか。そしてこのテイク三は、ドラムがブラシからスティックに移ると最初から活力的なフォービートが披露され、ほかの二テイクとは違ってドラムソロはないままに終わる、というわけだ。
 続いて、ディスク二の八曲目、"Porgy (I Loves You, Porgy)"。まだきちんとテンポインしていないテーマ序盤では、Evansは幾分溜めを孕んだ弾き方をしており、LaFaroは大人しく長音でサポートしている。そこにMotianは、シズルシンバルを優しく連打するロール奏法を基本として合わせているが、まだ定かな刻みに入っていないにもかかわらず、ピアノの溜めにつられずにドラムとベースの頭がぴったりと合っているのは、当たり前のことではあるが流石である。テーマが終わってピアノソロに入ると、途端にLaFaroは動きはじめて、和音を用いてみたり、三連符のアルペジオを繰り返してみたりと、縫うような舞いを披露してくれる。そのうねるような振舞いはEvansの揺動を排した堅固なピアノと完全に拮抗しており、さらにMotianが彼らの外側から包みこんで舞台を整えるように響きを添えてくれる。
 時間が前後するが、"All Of You (take 3)"を聞いてメモを取っている最中に、母親がこちらを呼ぶ声が聞こえたので室を出て上階に行った。炬燵布団をセットするのを手伝ってほしいと言う。それで母親がベランダから取りこむ布団を受け取ってソファの上に乗せておき、炬燵テーブルの天板の上に乗っていた色々なものをほかの場所にどかして、天板を持ち上げ居間の隅に立て掛けた。それから古い布団を外して、炬燵テーブルを立ててずらしてその下に敷かれていた布も取り除き、母親が掃除機を掛けるのを待ってから新しいマットを敷いて、テーブルを元に戻すと天板とのあいだに新たな炬燵布団を掛けた。それで温かな環境を整えることができると、自室に帰ってメモの続きを取り、もう一曲を聞いたのだった。
 音楽を聞くと三時が近くなったので、市長選の投票に出向く準備をそろそろ始めることにした。着替えと歯磨きのどちらを先に済ませたか覚えていないのだが、歯磨きをしているあいだには過去の日記を読み返した。一年前の日記は、記事上部の引用が『多田智満子詩集』に移っており、「ルフラン」の日本語として「折返句」という表記が使われているのが目に留まり、短歌にでも使いたいような言葉だなと思った。と言うか、その語を含む一節、「祝婚の歌の折返句[ルフラン]さながらに」が既に五・七・五を構成しているので、これを取り入れた歌でも作れば良いのではないか。一年前の記事のあとは二〇一四年二月二三日の記事を読んで、そうすると一〇分が経過して三時を回ったところだった。服は青灰色のズボンに秋冬用の白いシャツ、それに紺色のジャケットを羽織ることにした。バッグを持たず、財布を尻のポケットに入れ、あとは玄関の鍵だけ持って階を上がると、母親がコンビニに行くかと訊いてくる。確かに投票のあとにコンビニまで赴いて菓子やら冷凍食品やらカップヌードルやらを買ってくるつもりだったので、行くと肯定すれば、コンビニで使える商品券があると言うので、二〇〇〇円分のそれを出してもらって受け取り、ジャケットの内ポケットに差しこんだ。そうしてトイレに寄ってから、出発である。
 道に出ると路上に大きな葉っぱが転がっていて、靴を乗せれば繊維の砕ける小気味良い音が大きく響く。こんなに大きな葉っぱは何の植物のものかと目を振れば、林の外縁のスペースに細い低木が二本植わっていて、ちょっと蓮を思わせるような葉を萎びさせていたが、何の木なのかはわからない。午後三時も過ぎているから低くなった太陽から光は届かず、家の近くの道には日向がほとんどなくて、清涼な空気のなか、ポケットに手を突っこみ背筋を伸ばして歩いていると、公営住宅の前に差し掛かったところでようやく道端の草に光が掛かった。坂を上っていくと近間の樹々から鴉のざらついた鳴き声が立ち、その下から子供の声も昇って聞こえてくる。曲がり角を越えると一面の目映さが視界を埋め尽くし、その隙間に細かな虫が、割れないシャボン玉のように光のなかに群れて浮遊しているのが露わになっていた。折れて急坂に入れば道端には、昔はよくくっつき虫と呼んだものだが尖った組織で服に容易に付着するあの草が生えており、その次には猫じゃらしの類も並び、陽光を透かして色づいている。
 街道に出て横断歩道を渡り、消防署に停まった消防車の、真っ赤な車体の上に白い輝きが乗っているのを横目に坂を上って、社の横の細い隙間を抜けていき、保育園の前に来れば園庭では小学生か中学生か、女児が四人くらい賑やかにしていたが、こちらの視線は黄色く色を変えた樹々と、そこから落ちて地面を埋め彩っている葉っぱの方に捕らえられた。
 自治会館に入って、下駄箱に手を掛けながらゆっくり靴を脱ぎ、後ろ向きに上がって、こんにちはと言いながら広間への敷居を踏み越えると、背後で笑みの吐息を漏らすような声が聞こえて、父親だなと思った。自治会長だからなのか何だか知らないが、選挙の立会人として朝から出張っていると母親から聞いていた。そちらは見ずに、事務員に名前を言われたのに肯定し、投票用紙を受け取って礼を言うと室の奥に設置された記入台に寄った。先の尖った鉛筆で、宮﨑太郎の名前を一画ずつゆっくりと用紙に記入したが、この時、彼の名前の「﨑」の字が、右上に「大」を据えた通常の「崎」ではなくて、「立」の形になった「﨑」であることに気づき、これは間違える人も出るだろうな、間違えたらその投票は無効になってしまうのだろうかと疑問を抱いた。まあどうせ当選するのは現職市長の浜中啓一氏だろうが、若い世代に希望を掛けるということで宮﨑太郎氏にこちらは投票することにして、名前を書き終わると振り返って投票箱に近づき、その際に室の端の長テーブルに就いた父親の方に目を向けて会釈すると、お疲れさま、と相手は掛けてきて、左右の二人にうちの息子でございますと言ったので、どうもお世話になっておりますと挨拶をした。父親の右側は年嵩の男性で、左側はまだ若い女性が座っていた。そうして用紙を箱に挿入したあと、立会人の方にご苦労さまですと再度挨拶を向けておいて、投票所をあとにした。
 コンビニに行くつもりだったので元来た方には戻らず、保育園庭の脇を通って裏道を行き、墓場の前まで来ると敷地の端から鴉が一匹、近くの電柱の上に飛び立って、見れば墓の方にももう一匹が残っており、鳴くか飛ぶかしないかと注視したが特に動きはない。それから電柱の先に止まった方の一匹に視線を上げると、顔をちょっと動かしながら辺りを睥睨しているその体の黒さが、鈍い光沢を帯びているようでまるでヴェルヴェットめいた質感だなと思った。細道には西空からまっすぐ照射されてくる黄金色の光が流れて、道脇の下草が小さな輝きを孕み、マンホールの蓋は焼けつくような純白を押しつけられて表面に溜め、街道を行く車の屋根にも無垢な白さが膨らんで、そのような金と白とに染まった穏和な風景を見ていると、さすがにこれは、思わず美しいと漏らしてしまいたいような鮮やかな明るさだなと独語が浮かんだ。横断歩道を渡って車道の横を行きながら、空気の明るさからBill Evansが連想されて、この美しい明朗さを彼の演奏になぞらえるならば何の曲だろうと戯れに考えた。Bill Evans Trioの演奏のなかでも明快さの観点から見れば、"Alice In Wonderland"、"Waltz For Debby"、"Someday My Prince Will Come"などの曲が特筆するべきものとして挙がるだろう。"Alice In Wonderland"は美麗さで勝り、"Waltz For Debby"は優しげな温かみを孕んでおり、"Someday My Prince Will Come"はまっすぐに陽気だが、この午後四時前の、傾きゆく陽の切なさをも幾分感じさせるような色濃い明るみは、強いて言えば"My Romance"のそれに近いかな、と思った。それから続けて、しかしBill Evans Trioの演奏は、感傷性のような要素とはあまり縁がないようにも感じられるなと思い至った。いや、"My Foolish Heart"とか、"Porgy (I Loves You, Porgy)"などのバラード演奏は、充分感傷的と言っても良いのかもしれない。それでもあまり切なさといった色合いが濃くないように思えるのは、美しさが極まってかえって安易な感傷の甘さを許さず、そこから離れていってしまうような、そんなこともあるものかと、そう考えているうちにコンビニに到着した。
 籠を取って棚のあいだを巡り、スナック菓子や冷凍食品やカップヌードルを入れ、最後に、母親に甘味の類も買っていってやるかとカスタードプリンとモンブランも加えて、会計に行った。相手が商品の読みこみを終えるとジャケットの内ポケットから商品券二枚を取り出し、こちらでお願いしますと差し出して、レジに命令が入力されたあとに釣り銭を受け取り財布に入れて、脇にどいて腰の前で手を組みながら、若い男性店員が品物を一つ一つ、ゆっくりと丁寧な手つきで袋に入れてくれるのを待った。そうして整理された品物を受け取って礼を言って店をあとにして、道に出れば先ほどの思考が戻ってきて、そもそも我々人間が斜陽の光に切なさとか感傷性を覚えるのは何故なのだろうと疑問が湧いて、答えが得られないままに進んでいると車道を挟んで向かいの、営業しているのかどうかもわからないような酒屋らしき商店の前に立った自販機に、その家の子らしく男女の幼児が二人、祖母らしき人と一緒に寄っていた。さらにその先、家屋を越えた向こうの裏道からは犬の吠え声が立って宙に響いている。
 街道から裏通りに入り、道端で草取りをしている女性らの横を通り過ぎ、目を上げれば空は青さを注ぎこまれて漣すらない池のように静まっており、左右に視線を振ってみても雲は少しも乗っていない。ビニール袋を右手に提げて道を行き、林に接した坂に掛かれば、往路に鴉の声を聞いたあたりだが、今度は何の鳥なのか、口笛の達人めいたユーモラスで闊達な鳴きぶりに出逢って、梢を見上げて葉叢の裏を見通したが姿は見えなかった。
 家に帰り着くと玄関の戸棚に買ってきたものを入れ、甘味も冷蔵庫に収めておき、モンブランを買ってきたから食べればと母親に声を掛けておいて自室に帰った。時刻は四時頃だったはずだ。買ってきたポテトチップスを早速ぱりぱり食いながらだらだらと過ごし、四時台後半からfuzkueの「読書日記」を読みだした。それからMさんのブログも一日分読み、さらに英文のリーディングとしてJohn Kaag and Clancy Martin, "At Walden, Thoreau Wasn’t Really Alone With Nature"(https://www.nytimes.com/2017/07/10/opinion/thoreaus-invisible-neighbors-at-walden.html)も読んだ。ウォールデン湖畔で自然に囲まれて孤独な観想生活を送ったとして有名なヘンリー・デイヴィッド・ソローだが、実は完全に孤独だったわけではなく、ウォールデン湖周辺というのは解放奴隷とかアイルランド移民のような社会的はみ出し者がほかにも住んでいた場所で、ソロー自身も彼らのうちの一部とは付き合いがあった、というような話で、なかなか面白かった。ソローの『ウォールデン 森の生活』も、昔に講談社学術文庫版で読んだ際には訳があまり合わなかったのだが、ほかにも色々と翻訳が出ているのでまた読んでみなければならないだろう。

・paradisiacal: 天国のような、楽園のような
・circumscribe: 制限する、束縛する
・pristine: 原始の; 汚されていない、純粋なままの
・tree-hugging: 環境保護主義の
・eke out: 辛うじてやりくりしている
・meager: わずかばかりの、ちっぽけな、なけなしの
・broom: 箒; エニシダ
・arsonist: 放火犯
・ailing: 病気で苦しんでいる
・ditchdigger: 溝掘り人
・abject: 絶望的な、悲惨な、惨めな
・squatter: 無断居住者
・disassemble: 分解する、ばらばらにする
・lien: 抵当権
・myopia: 近視眼
・spinster: オールドミス; 未婚女性; 糸紡ぎ女
・entreat: 懇願する
・forsake: 見捨てる、見放す
・birch: 樺の木

 さらに読み物を続けて、「「パラダイス文書」 明らかになった超富裕層の租税回避の秘密」(https://www.bbc.com/japanese/41881881)、「香港警察が大学に突入、林鄭月娥の賭けと誤算」(https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191114-00010000-newsweek-int)、「香港デモ隊と警察がもう暴力を止められない理由」(https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191112-00010006-newsweek-int)と読んだあと、また音楽を聞きはじめた。まず、Bill Evans Trio『Portrait In Jazz』の終盤、"Blue In Green (take 3)"である。まさしく緑のなかに青が混ざった複雑で精妙な色彩の抽象画を想像させるような、静謐な美しさに満たされた曲で、Bill Evansというピアニストの一般的なイメージと言うと、このあたりの曲に代表されているのではないか。彼についてはよく「知性的」というような形容が付されると思うけれど、内面に沈潜していくような空気感、ありがちなイメージではあるが、海や川の水底の、美しい青緑色の沈黙のなかに沈みこんでいくような雰囲気が感じられないでもない。そう言えば、今思い出したけれど、ヴァージニア・ウルフにも青と緑の色彩をタイトルに据えた、そのままずばり"Blue And Green"というちょっと散文詩的な掌篇があったはずだ。演奏に関しては、スローテンポの序盤はMotianとLaFaroがほんの少しだけ溜めているような感覚があり、テーマが終わって倍テンポに移るとジャストのノリになったようだった。そこからはLaFaroはそこそこ動き出して、副旋律的なアプローチも聞かれる。Evansのコードプレイはバラードでも相変わらず非常に切れが良く、冷えた冬の夜空に散らされた星のように、きりりと凛々しく鮮やかである。
 続いて今度は、"Blue In Green (take 2)"。序盤からLaFaroがテイク三よりも高めの音を使って分散和音的なサポートを披露し、和音も用いていて、テーマ後の動きも先のテイクよりも大胆なように思われた。Evansのソロはちょっと聞いた限りでは、どちらのテイクも甲乙つけがたい質を持っているように感じられるが、このテイク二はモノラル録音になっているためだろうか、コードを鳴らす時の勢いや躊躇のない歯切れ良さはステレオ録音のテイク三の方が上回るような気がして、こちらのテイクでは何か控えめに配慮しているような印象を得た。この曲は二度続けて聞いてみたけれど、やはり録音の仕方が関係しているものか、二度目に聞いた際にも、Evansの演奏はテイク三の方が鮮やかな気がしないでもなかった。ただこちらのテイクでは終幕の際に、ポロン、ポロン、と音を弱く優しく置いて散らす締め方をしていて、それはテイク三の終わり方よりも好みに合っているかもしれない。
 これで『Portrait In Jazz』は一通り聞き終わったわけだが、四曲目の"Witchcraft"が印象に残っていたので、もう一度聞いてみることにした。この曲は、LaFaroが思う存分遊び回るための曲として用意されたのではないか。そう思われるほどに彼は終始自由に歌いまくっていて、冒頭からして滑らかに上昇していくし、一部三連符も挟んで素早いプレイも見せ、二拍三連のリズムの付け方だったり、八分音符三つ分を一単位として四拍子を分割するようなアプローチも聞かれる。そのようにLaFaroが、水を得た魚といった調子でとても輝いているので、単純な評価の下し方ではあるが『Portrait In Jazz』のなかでは、この曲のアンサンブルの構造が最も興味深いような気がするのだ――楽曲やテーマメロディとしては、そんなに魅力溢れるタイプのものではないと思うのだが、それであまり評判を聞かないのかもしれない。
 この日のあとの生活についてはメモも取られていないし、記憶を探ってみても特段に印象深いことは蘇ってこないので、ここまでで終いとする。やはり記憶がまだ鮮やかに残っているうちに少なくともメモ書きをしておかなければならないだろう。


・作文
 13:09 - 13:19 = 10分(17日)
 19:19 - 20:02 = 43分(17日)
 22:34 - 24:07 = 1時間33分(17日)
 計: 2時間26分

・読書
 14:51 - 15:01 = 10分
 16:43 - 17:01 = 18分
 17:03 - 17:31 = 28分
 17:32 - 17:51 = 19分
 25:39 - 26:38 = 59分
 27:17 - 27:56 = 39分
 計: 2時間53分

・睡眠
 3:20 - 11:40 = 8時間20分

・音楽

  • cero, "Yellow Magus (Obscure)"
  • Bill Evans Trio, "All Of You (take 3)", "Porgy (I Loves You, Porgy)"(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』: D3#4, D2#8)
  • Bill Evans Trio, "Blue In Green (take 3)", "Blue In Green (take 2)", "Witchcraft"(『Portrait In Jazz』: #10, #11, #4)
  • Marc Ribot The Young Philadelphians『Live In Tokyo』