2019/11/23, Sat.

 (……)ヘスが自伝の中でしばしば語っている彼の繊細な「内面生活」は、常にただ現実を埋め合わせる働き、いわば非人間的な手仕事の疲れを「知的・芸術愛好的」に癒す働きを果たしているにすぎないように思われる。そこには外に向けての作用や関連づけはない。つまり、それは内向的な感傷にとどまるのであり、ある精神的な役割を持った自分自身とのゲームなのである。このような「魂」とその繊細さがはっきりと現れるのは、人間を大量にガスで殺害した際の神経の緊張を、馬小屋の自分の馬たちの傍らで鎮静させなければならなかったとヘスが報告するときであり、彼が心を込め感傷的に、アウシュヴィッツにおけるジプシーの子供たち(彼らはとても人なつっこくヘスに信頼を寄せてくれるので、ヘスにとって「最愛の抑留者たち」であった)の生活について民間伝承風の牧歌を作るときであり、また彼が、ほとんど比類のないほど無慈悲に、最初の大量ガス虐殺の体験の描写を次のような「叙情的な」印象で終えるときである。「何百人という花盛りの人間たちが、農場の花咲く果樹の下で(そこにはガス室があるのだ)、たいていは何も知らないで、死んでいった。この生成と消滅の光景は、今もなお私の眼前にはっきりと残っている」、と。ヘスには、アウシュヴィッツの司令官のそのような「心情の吐露」がきわめていかがわしい神への冒瀆であることが、まったく理解できていない。大量ガス虐殺に関する彼の描写はすべて、それにまったく加担していない観察者のそれである。後になってもなおヘスは、彼の指揮の下でほとんど毎日のように遂行されていたことが、まぎれもなく何千もの殺人であったという事実を、具体的なものとして思い浮かべようとはしなかった。しかしそれだけに、そこで起こったショッキングな場面が彼にたいへんな「心痛を与えた」と、あとで自慢することもできたのである。大量虐殺という事実に対するかたくななまでの無感覚さ、および想像力のなさと、殺人を犯している間の感傷的な光景のいわくありげな記述が並存しているのを見ると、ヘスがいつも正直で誠実な人間のタイプであったことが分かる。もっともそれは、ある精神分裂的な意識から、途方もなく恐ろしい民族虐殺に関与しているときでさえ、自分を思いやりある、感情豊かな人間であると考えることができたという意味においてである。(……)
 (ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』講談社学術文庫、一九九九年、38~40; マルティーン・ブローシャート「序文」)


 例によって一二時まで寝過ごす。出掛けていたらしい両親が帰ってきた気配が上階に生まれて、それでようやく瞼をひらいたままに留めることができ、窓外で全面に満ち渡っている空白に瞳を慣らした。正午ちょうどにベッドを抜け出し、コンピューターのスリープ状態を解除しておいてから、ダウンベストと燃えるゴミの箱を持って上階に行けば、母親は台所で食事の支度を始めている。こちらは寝間着からジャージに着替え、持ってきた燃えるゴミを台所のゴミ箱に合流させておき、主食としては五目御飯があると言うので炊飯器に寄り、炊けたまままっさらな状態の褐色の米に杓文字を差しこんで、栗やら茸やらの入った御飯を搔き混ぜた。そうして自分の分を一杯よそって卓へ行き、新聞の一面から、韓国がGSOMIAの破棄を条件付きで撤回したとの報を読みつつ米を食べ、それから母親が焼いてくれた餃子も四つ頂いた。その他辛い大根のサラダや春菊のお浸しなどを食べて、食器を洗うと次に風呂掃除、the pillows "Midnight Down"のメロディを口笛で吹きながら済ますと室を出てきて、下階に帰った。自室に入ってコンピューターの前に立つと、前日の日課記録を完成させるとともに、この日の記事も作成、そうしてから緑茶を用意しに行ってきて、一服しながら(……)。その後、この日の活動に入る前に身体をほぐしておこうというわけで、the pillowsの曲を流しながらいつものように下半身をほぐしたり、肩を回したり、腰をひねったりした。それからsyrup16g "I.N.M"やSuchmos "YMM"も歌ったあとに、便所で腹を軽くしてきてこの日の日記を書きはじめ、ここまで綴ると一時四五分に至っている。
 それから一九日の記事に取り組み、四五分間で最後まで仕上げることができた。インターネット上に記事を投稿したのち、音楽鑑賞の時間に入った。
 Bill Evans Trio, "All Of You (take 2)"(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』: D2#3)。Bill Evansの整然とまとまった不動の統一性と、それに寄り添うPaul Motianの刻みが両脇を支えるなかで、Scott LaFaroが縄張りを広げるようにうねり、動き回るさまを聞いていると、このトリオの主役は彼なのではないかとも思えてくる。Evansは不動性を担当し、LaFaroは遊動性を引き受ける。これはおそらく確かなことだろうが、それではMotianは? EvansとLaFaroのスタイル、その関係は比較的わかりやすく、今まで色々な言い方をしてきたけれど、ある種対比的なものとして捉えられるはずだ。しかし、そこに加わる第三者であるMotianの位置づけをどう考えるのか、それがどうも難しい。二者の衝突あるいは調和を媒介し、繋いでいると言えばその通りなのだろうが、果たしてそれだけで収めてしまって良いものなのか。
 Bill Evansは左手のバッキングが正確で、右手で音列を滑らかにひらきながら、一筋縄では行かないリズムも難なくこなしている。ピアノソロの後半はブロックコード三昧だが、彼のコードプレイは右手と左手でリズムを一致させて強調する種類のものなので、むしろここではリズムは取りやすいのかもしれない。このテイク二ではMotianのドラムソロのあいだは、LaFaroがガイド的に音を添えてコード進行を示しているのだが、和音の展開が明示されていることによってかえって、テイク一のようにドラムプレイの裏から幻影的にメロディが浮上してくるような感じはなくなっている。Motian自身も、歌い上げると言うよりは、シンバルもバシャバシャとたくさん鳴らして、テイク一よりも勢いを強めているのではないか。
 次に、"Waltz For Debby (take 2)"。冒頭、イントロではLaFaroの音程がより正確になっているように聞こえ、ピアノとベースの息はテイク一よりも合っているような気がする。この曲のテイク一の演奏は、EvansもLaFaroもあまり走らないで穏和に徹し、落着いたものとして提示されていたが、それと比べるとテイク二では全体にややテンションが上がっているように思われ、Evansのソロのなかにも滑らかに転がるような音使いが散見されるし、一六分音符の速弾きも聞かれる。ベースも同様に、テイク一よりも動き回って折々にうねりながら浮上してくる印象で、ソロにおいても速めのフレーズを織り混ぜてよく歌っているのではないか。テイク一よりも全体的に明朗で、活力があり、この曲の演奏として金字塔とも言うべきバージョンになっているだろう。
 それから井上陽介『GOOD TIME』に移り、改めて"Feel Like Making Love"を聞いた。先日も記したように、全然悪くない演奏ではあるものの、くつろぎ以上の新鮮な驚きのようなものをもたらしてくれるものではなく、そしてそうしたメロウでソウルフルな方向性で勝負をするならば、Marlena Shawに優るのはやはり至難の業だろう。ギターソロはやや粘りのあって伸びる音色で、特に序盤において結構歌心が感じられてなかなか良い。ただ中盤以降は、流れが淀むと言っては言い過ぎなのだが、ほんの微かにではあるものの失速するような感じ、呼吸が細かく途切れるような印象がないでもない。ドラムとベースのバースチェンジは尋常のもので、全体として聞いているこちらを脅かしてくるような音楽ではない。
 三曲目、"Tell Me A Bedtime Story"。『GOOD TIME』とのタイトルにも表されているように、このアルバムはくつろぎや心地良さ、comfortableな雰囲気が主要なテーマに据えられていると思われ、爽やかに澄んだサウンドのこの曲でもそういった側面が強く感じられる。ベースソロは速弾きとメロディ性を双方調和させてさすがの実力といった感じなのだが、ベースの録音が弱めで、細かいフレーズになるとやはり幾分引っこんで粒立ちが弱くなり、細部まで明瞭に聞き取れないのが惜しい。この三曲目ではピアノは丈青という人が客演している。無闇に走らず穏和に歌うようなスタイルかと思っていると、後半からちょっと動きが大きくなって、両手で同じ音型を用いながら左右に行き来する速弾きのテクニックも披露された。しかしあまり横にガンガンとひらいていく感じではなくて、広い範囲を移動する際には二拍三連めいたフレーズを使ってちょっとリズム感をずらしながら展開し、小節を跨いで呼吸を長く取っていたと思う。全体的な流れはまとまっていて充分な統一感があるが、同じようなアプローチの仕方が繰り返されるのでそこがちょっと瑕疵と言えば瑕疵になるか。
 次に、"Black Orpheus"。この曲はあまり聞き所がないように思った。このスタンダード曲にありがちなことで緩やかなボサノヴァ風のアレンジで、ギターとドラムは尋常のサポートに徹しており、その上でベースがテーマメロディとソロを演じて、リーダーである井上のプレイがたっぷり聞けると言えばその通りなのだが、再三述べてきたように細密なフレーズでの音像がはっきりしないので、速弾きをされてもなあ、という印象を受けるものだ。ピアノはバッキングの添え方も甘やかな感じだし、ソロもカクテルピアノめいていると言うか、幾分微温的に過ぎるように思う。このアルバムは、おそらくジャズにあまり親しみのない一般リスナーも取り入れようとの狙いで、聞き心地良いものにすることを目指したのではないかと推測するが、全体的にイージーリスニング的な方向に寄りすぎている気がする。
 五曲目はThe Beatlesの"Here, There And Everywhere"。前曲までと同様の印象で、可もなく不可もなく、正直に言っていくらか温いといった印象を禁じ得ない。ギターも二曲目のようにもっと歌ってくれるかと思ったところが、何だか引っこみ思案な感じに陥っていると言うか、朴訥めいているようだ。
 音楽鑑賞に切りを付けると、四時を回った頃合いだった。腹が減ったのでものを食べることにして上階に向かった。ずっと椅子に座ってじっと静止していたからだろうか、先ほど体操をしたにもかかわらず、肉体がふたたびこごって重るような感覚があった。階段を上がると母親は早くも台所で食事の支度を行っていた。こちらは五目釜飯を食うことにして椀に一杯よそり、卓に就くと新聞の国際面をひらいて栗や茸の混ざった薄褐色の米を貪った。イスラエルでネタニヤフ首相が起訴される見通しであり、「青と白」のベニー・ガンツ党首が組閣を断念した今、三回目の総選挙が行われる目算も高く、国政の混乱は続くだろうとの記事を読んだ。また、香港では先日覆面禁止条例が基本法に反するとの高等法院の判決が下されたばかりだが、二四日の区議選に配慮したものだろうか、二九日まで一週間、条例の効力の継続が認められたという報もあった。五目御飯が美味かったので、もう一杯おかわりして食べていると、母親が作ったばかりの味噌汁を椀によそって出してくれた。カウンターの上に乗せられたそれを受け取り、入っていた白菜を一切れ取り上げて齧ってみると、これがやたらと甘く、味の濃い白菜だったのでちょっと驚いた。ほかの具は舞茸や葱だった。その汁物も飲み、台所に行くと食器乾燥機のなかに入っていた皿を取り出し、それから使った椀二つと箸を洗い、流しの前に立ったままバナナも食った。そうして一旦下階に下り、急須と湯呑みを持って戻ってくると、緑茶を用意しつつ、テーブルの端に母親の好きな林檎入りチョコレート、「Pomme D'amour」があったので、二粒を貰ってダウンベストのポケットに入れ、用意した茶を持って自室に帰ると、茶を啜りながら読み物に入った。二〇一四年三月一日の日記をまず読み返したが、糞みたいにつまらない、紛うことなき駄文で、よくもまあこんな、あまりにもバランスの悪い文章を褒めてくれる人がいたものだと思う。それで調子に乗って悦に入っていたのだから救いようがない。愚かな過去の自分だ。その頃よりは多少は身の程を知り、成長したものだと信じたい。次にfuzkueの「読書日記」を一日分読み、それからMさんのブログを三日分読んだ。以下は一八日の記事の冒頭に引かれていた佐々木中『夜戦と永遠』からの記述。

 精神分析に慣れ親しんでいない人にとっても、ここで何やら快楽=快感(plaisir)と区別されたものがあることは見て取れるだろう。現実界にあるもの、イメージにもシニフィアンにもならない、見えもしなければ言葉にもできない現実界に属し、他の輪と交差するところにあらわれるものらしいから、それはもう「えも言われぬ」快楽ということだろうか。そうではない。七一年のセミネール『……あるいはもっと悪く』の最初の会合で、ラカンはこのことについて実に明快に説き起こしている。彼はこう語る。まず、前提として享楽は身体の享楽であり、身体がなければ享楽はない。「そこには身体が必要です」。ところが、身体とは「死へと沈静していく次元」でもある。フロイトが言った「快感(快楽)原則」の「快楽」とは、要するにこのことに関わる。つまり「快楽とは、緊張(テンション)を下げるということなのです」。では、享楽が快感原則に従うものではないとしたら、「緊張(テンション)を産み出すこと以外に、何を享楽したらいいというのでしょうか」。だから享楽は「快感原則の彼岸」にあるものなのです、と。基本的なことだが、フロイトの言った快感原則とはある平穏さを、欲望の沈静を目指すものである。欲望に苛まれるという震えるような緊張から解放されて、「沈静」していくことであり、それは何か「小さな死」であるような脱力を伴う。身体はほぐれ、脱力し、まるで死体であるかのようにぐったりと倒れ込む。これが誰にでも経験がある「快楽」だ。それと比較して、快感原則の彼岸、すなわち「死の欲動」の側にある享楽は「緊張」を再び作り出し、それを持続しようとすることによって享受される何かだ。つまり、享楽も快楽も最終的には「死」に関わるものであることは同じだが、その性質が全く違うということだ。ラカンは「主体は欲望に満足しません。人間は欲望することを享楽するのであって、それが人間の享楽の本質的な次元をなしています」と言っているが、また「欲望は大他者からやってきて、享楽は物の側にあるからである」と区別もしている。だが、これは要するに大他者とのシニフィアン連鎖の関係だけには回収されない、現実界に属する「もの」そのものの次元に深く参与するのが享楽であって、その言葉にもイメージにもならない何かに向かって「欲望し続けること、欲望することをやめないこと」というよりはむしろ「欲望の緊張を持ちつづけることをやめられないこと」が享楽であると言ったほうが妥当だろう。身体の緊張の持続、果てしのないその持続を反復すること、それが享楽することである。しかも「もの」という現実界を、シニフィアンにもイメージにもならない何かをめぐって、それは何の役にも立たない不毛さのままに繰り返されるしかない。そう、快楽が「何かの役に立つ」ものであるのに対して、享楽は「何の役にも立たない」「有効性の内部にはない」「利用することができない」「盲目の」ものであると言うことができるだろう。
佐々木中『定本 夜戦と永遠(上)』p.150-151)

 そうして五時六分からこの日の日記を書き足しはじめて、音楽の感想は飛ばしながらここまで書くと五時二〇分。長くなることが確定している二〇日の日記を書くのが面倒臭いで御座る。
 そういうわけでふたたび音楽を聞きはじめた。先ほどから引き続き、井上陽介『GOOD TIME』から、六曲目の"What Are You Doing The Rest Of Your Life"である。ピアノとベースのデュオでの深秋めいた哀愁漂うバラード。井上がアルコを披露しているものの、正直なところそれほど巧みとは感じられず、トーンの安定性が高度に整っていないような肌触りを感じるし、フレーズとしても淡々とメロディを弾いているだけである。しかし、ピアノソロの裏のベースの、太く沈みこむサウンドはちょっと良い。何か大したことをやっているわけではないが、この曲はピアノとベースしか奏者がいないために、ベースの音がよく聞こえるのだろう。
 続いて、"Come Together"。ギターが悪くないように思う。ソロの入りの速弾きはちょっと鮮烈だったし、スタイルとして尖っているわけでないものの、ここでもやや粘りながらよく歌っている。ピアノは際立った印象を受ける場面がなく、率直な感想を述べさせてもらえば、少なくともこのアルバムでのプレイを聞く限りでは、このくらいのピアニストはいくらでもいるのではないかと感じられる。ベースソロは長尺の速弾きをやっているのだが、ドラムが同時にフィルインでばたばた動いていることもあって、如何せん聞こえないのだよなあ、と嘆息してしまう。
 八曲目は井上のオリジナルである"Come On"。ようやくいくらかハードで面白味のある演奏が出てきた。冒頭のリフを聞いて、Red Hot Chili Peppersという名前が脳裏に浮かんできたのは、"Around The World"冒頭のベースのリフとほんの少しだけ共通する部分があるからだろう。この曲ではふたたび丈青が客演しているのだが、正直なところ、レギュラーメンバーの秋田慎治よりもこの人のピアノの方が聴き応えがあると感じる。ブルース進行のソロでは連打的でパーカッシヴな、活気のあるアプローチを見せているし、三コーラス目の最初で見せるアウトの感触も悪くなく、演奏を盛り上げる際のドラムとの息もわりあいに合っていてなかなか華がある。ギターも、細かなところでぎこちなさのような感覚を僅かに覚えさせないでもないものの、トーンの粘り方はやはり結構好ましいものだし、色々なリズムやフレーズのアプローチをしようと試みているように聞こえる。ギターソロから倍テンポのフォービートになる曲構成も、単純なものだが効果的ではある。
 九曲目、"Wonderful Tonight"はアコギとベースの温和なデュオで、Eric Claptonの曲なので、ポップで温かみが強すぎる気もするが、悪くはない。取り立てて強い印象を与える場面もないものの、可もなく不可もなくの水準は越えたそこそこ染みるような演奏になっているかと思う。ベースソロは短いので、個人的にはもう少し長く取って速弾きなどを披露しても良かったのではとも思われる。しかしまあ、こうした曲やアルバム全体を聞いてみても思うものだが、Scott LaFaroを思い起こしてみればほかのベーシストは実に行儀良く聞こえるものだ。
 一〇曲目、"Last Cookie To The Sky"は井上オリジナルのバラード。ギターで奏でられるテーマメロディは、一瞬"It's Easy To Remember"を思い起こさせる箇所があり、それほど安直でなくてなかなか良い。ベースソロもこの曲では発音明瞭にメロディ重視で上手く整っていると思う。しかし、ピアノはやはりどうしてもカクテルピアノっぽい甘ったるさに陥っていて、残念ながら聞き所を見つけられなかった。手を抜いているはずもないだろうが、何だか通り一遍の、月並みなプレイという印象から脱することができないのだ。
 最終曲は"All Of You"。"All Of You"と言えばこちらにとっては言うまでもなく、毎日聞いている六一年のBill Evans Trioの演奏が最高で、金字塔だと思っているが、同じ曲でもここまで違うかと思われるほどに違って、それもまあジャズという音楽の醍醐味ではあるだろう。井上たちの演奏には温かみがあるのだが、Bill Evansのバージョンには温和さなど微塵も感じられず、物凄まじい強度で冷たく澄み渡っている。"All Of You"はMiles Davisも六四年のライブで取り上げているけれど、彼だってあんなに冷たくはやっていないだろう。井上たちの演奏は無論、洗練されてはいるのだが、しかしこのアルバムを通して聞く限り、それはともすれば破綻に向かうようなスリルを一瞬も感じさせない行儀の良さに留まっている。Scott LaFaroにせよPaul Motianにせよ、六一年のBill Evans Trioの演奏は、こじんまりとまとまった相対的な洗練とは無縁のところにあり、特にLaFaroはやはり、高度に洗練されていると同時に、明らかに野蛮さを孕んでいるのだということがよくわかった。
 井上陽介『GOOD TIME』を最後まで聞くと時刻は六時半過ぎ、そこから二〇日の日記の作成に取り掛かって、あっという間に一時間強が飛んで、八時を目前にして上階に行った。今日は夕食の先に、入浴である。寝間着を洗面所に持っていき、服を脱いで浴室に入り、湯に浸かりはじめたのが八時五分かそのくらいだったのではないか。最初のうちはいくらかものを思っていたようだが、身を低くして頭を浴槽の縁に預けているうちにうとうととしたようだった。それで三〇分かそこら湯のなかで過ごしたあと、洗い場に出て、頭と身体を洗って上がり、食事である。一杯分だけ残った五目釜飯をすべて払ってしまい、汁物は白菜や舞茸の味噌汁、おかずには輪切りにした大根のソテーと春菊のお浸し、あと何かしらのサラダがあったと思う。卓に就くと、父親はまた酒を飲んだらしくご機嫌な様子で、どうでも良いテレビ番組に応じていちいち声を出してみせるのがやかましく、鬱陶しい。よくもまあ、あのような至極どうでも良い番組をそこまで楽しめるものだ。番組自体も低俗なものではあるが、低俗なコンテンツだって見ようによってはいくらか楽しめたり、多少興味深い部分が見つかったりすることもあるだろう。ところが父親の場合、番組自体の問題のみならず、その受容の仕方、彼自身の態度の方も救いようがなく低俗だという印象をもたらすものだった――どうしてそのような感触を覚えるのか、上手くは説明できないのだが。ともかく、テレビを楽しむのは別に良いけれど、もっと黙って静かに見れないのかとは思うものである。まあおよそどうでも良いことではあるのだが、とは言えこの空間に長く留まりたくはないなというのが正直なところだったので、新聞に目を向けながらものを食ってしまうと、食器を洗って下階に帰った。急須と湯呑みを持って上がってきたところで米がなくなったことを思い出したので、磨いでおくかということで、洗い桶を占めていた洗い物を始末し、母親が笊に用意してくれた三合半を受け取り、流水のなかで擦って洗い、炊飯器に移して水も注いで、一五穀の粉を振り入れて混ぜておき、翌朝六時に炊けるように設定した。そうして茶を用意して自室に帰り、多分いくらかだらだらしたと思う。その後、九時半過ぎからふたたび二〇日の日記を進めた。やはり最低でも一日に三時間は書き物に取り組みたいというわけで、この時はまた一時間ほど文章を作り続け、そうすると総計でこの日の作文は三時間半ほどになったからノルマは一応達成である。しかし二〇日の日記自体はまだまだ書くことがたくさん残っている。それでもまあ急がず焦らず地道にやっていこうというわけで今日はここまでと定め、歯磨きをしながら英文を読みはじめた。Omri Boehm, "Liberal Zionism in the Age of Trump"(https://www.nytimes.com/2016/12/20/opinion/liberal-zionism-in-the-age-of-trump.html)である。

・trope: 言葉の比喩的用法、言葉の綾
・zero tolerance: いかなる違反も許さない
・gala dinner: 祝賀会
・outspoken: 遠慮のない、率直な; 辛口の
・avow: 率直に認める、明言する
・sanctification: 神聖化

 同記事を読み終えるとさらに、志葉玲「「死の商人」化の防衛省、700万人飢餓のイエメン内戦加担のサイコパス自衛隊機売り込み、中東ドバイで」(https://news.yahoo.co.jp/byline/shivarei/20171116-00078220/)も読んだ。

 イエメンでは、2015年に政権が崩壊し、ハディ暫定大統領派とイスラムシーア派武装組織フーシ派が対立。暫定政権側を支援するイスラムスンニ派主導のサウジアラビアと、フーシ派側を支援するイスラムシーア派の総本山イランによる代理戦争となり、情勢は混迷する一方だ。

 内戦の影響の中でも、とりわけ深刻なのが食糧危機。紅海沿いの港湾都市ホデイダ周辺での戦闘の影響から食料の輸入が止まり、今年4月の時点で、国連世界食糧計画(WFP)は「前例のない大規模な食糧危機を招く」と警告していた。既にイエメン人口のおよそ3分の1である約700万人が飢餓に直面し、支援を必要としているが、サウジアラビアは、フーシ派を支援するイランからの武器流入を防ぐ名目で、今月6日にイエメン国境を封鎖、国連の支援物資も届けられない状況だ。(……)

 同じく勉強会で発言した池内了・名古屋大名誉教授(宇宙物理学)は安倍政権が研究費をエサに大学に軍事研究を求めている状況を「研究者版の経済的徴兵制だ」と批判。「大学における軍事研究差し止めの要請を強めること」「学術機関から、民生分野の期限のつかない研究資金充実を求めること」などが重要であると強調した。(……)

 それで時刻は一一時半前、Seiji Ozawa - Wiener Philharmonike『Dvorak: Symphony No. 9 』をヘッドフォンから耳穴へ流しこみながら、手帳の情報を記憶ノートに移していくことを始めた。三〇分ほどペンを動かして紙の上に文字を認めていき、その後読書を始めたはずなのだが、その開始時刻が零時二一分と記録されていて、二〇分ほどの空白があるのは何をしていたのか不明である。夏目漱石草枕』は一応最後まで読み終え、重松泰雄という人の解説も読み通したが、気に掛かったところを読書ノートに写し取らずに読了してしまったので、戻って再読をしなければならない。そういうわけで七五頁まで引き返して、興味を惹いた箇所をノートに引き写し、コメントも少々付しながら読んでいると三時を越えたので、眠ることにして床に就いた。


・作文
 13:36 - 13:45 = 9分(23日)
 13:46 - 14:31 = 45分(19日)
 17:06 - 17:20 = 14分(23日)
 18:34 - 19:50 = 1時間16分(20日
 21:35 - 22:43 = 1時間8分(20日
 計: 3時間32分

・読書
 16:29 - 17:06 = 37分
 22:45 - 23:12 = 27分
 23:15 - 23:23 = 8分
 24:21 - 27:02 = 2時間41分
 計: 3時間53分

・睡眠
 3:30 - 12:00 = 8時間30分

・音楽

  • the pillows, "Private Kingdom", "Skinny Blues", "New Animal"
  • syrup16g, "I.N.M"
  • Suchmos, "YMM"
  • Bill Evans Trio, "All Of You (take 2)", "Waltz For Debby (take 2)"(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』: D2#3, D3#3)
  • 井上陽介, "Feel Like Making Love", "Tell Me A Bedtime Story", "Black Orpheus", "Here, There And Everywhere", "What Are You Doing The Rest Of Your Life", "Come Together", "Come On"(×2), "Wonderful Tonight", "Last Cookie To The Sky", "All Of You"(『GOOD TIME』: #2, #3, #4, #5, #6, #7, #8, #9, #10, #11)
  • The Style Council『Cafe Bleu』
  • Suchmos『THE ASHTRAY』
  • Seiji Ozawa - Wiener Philharmonike『Dvorak: Symphony No. 9