2019/11/26, Tue.

 ところが、ザクセンハウゼンの聖書研究会のメンバー、とくにその中の二人は、これまで体験したどれをもしのぐほどだった。とくに狂信的なこの二人は、何かちょっとでも軍隊の匂いのするようなことは一切拒否した。彼らは、気をつけもしなければ、靴の踵をあわせることもせず、両手をズボンの縫い目にあわせもせず、脱帽もしない。彼らは、そういう尊敬のしるしは、エホバだけに捧げられるもので、人間に向けられるものではない、というのだ。彼らには上に立つ者などはなく、エホバだけをただ一人上に立つ者として認める。彼らは、たえず他の聖書研究会員たちにも同じ態度をとるように強いるので、聖書研究会員たちのブロックから引きはなして、独房にいれねばならなかった。
 アイケは、彼らが規律違反の態度をとるので、何度も、鞭打刑を科した。しかし、彼らが一種熱狂的な態度で鞭打ちを受けるので、ほとんど、性的倒錯の傾向があるのではないか、と考えられるほどだった。彼らは、彼らの理念とエホバをいっそう明らかにするために、もっと打ってくれと、所長に嘆願する始末なのだ。
 彼らは、当然予期されたことだが、徴兵検査を完全に拒否したので――さらに、軍役関係の書類への署名も一切拒んだ――その直後、ヒムラーは、死刑を命じた。
 拘禁室でそのことを伝えられると、彼らは、喜びで有頂天になってしまった。死刑執行の直前まで、そのことは全く予期していなかったのだろう。二人は、手をよじり、恍惚として天を仰ぎながら、ひっきりなしに叫ぶのだ。
 「われらは、間もなくエホバの御許にまいります。おお、何たるしあわせ、われらがそのために選ばれるとは!」
 彼らは、その数日前、同じ信者仲間が死刑されるのに立ち会ったのだが、ほとんど手がつけられないくらいだった。折あらば、自分たちも同じように銃殺されようとするのだ。その狂乱ぶりたるや、ほとんど正視するに耐えないくらいだった。そのため二人を力ずくで拘禁室へ引き立ててゆかねばならなかった。
 だが今、自分たちの処刑となって、彼らはほとんど馳けんばかりにして進んでいった。二人は、両手をエホバにむけてかかげるために、どうしても縛られることに同意しなかった。もはやそこには何一つ人間的な気配の感じられぬような標的台の木塀のまえに、光明にみたされ恍惚のていで彼らは立った。
 私は、キリスト教の創成期の殉教者たちが、ローマの闘技場[アレナ]で、野獣たちに引き裂かれるのを待ちうけているさまを、思い浮かべた。まったく晴ればれとした表情で、目は天を仰ぎ、手は祈りのために組んで、おごそかに彼らは死んでいった。この死のさまを見た者はすべて感動し、処刑を指揮した者たちでさえも、はげしく心をうたれた。
 (ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』講談社学術文庫、一九九九年、178~180)


 一面白く染まって寒々しい空を目にしながら、今日も今日とて一一時一五分まで寝坊した。以前と同様、起床後にも瞑想をやってみることにして、時間を記録する必要があるのでまずコンピューターを点け、各種ソフトのアイコンをクリックして起動を待つあいだ、寝間着の上にダウンベストを羽織った格好でトイレに行った。黄色い尿を放って戻ってくるとEvernoteをひらき、一一月二六日の記事を作成して睡眠時間を記録しておき――三時から一一時一五分までの八時間一五分――「瞑想」の欄に一一時二七分開始を記しておいてからベッドに移り、窓をちょっとひらいて枕に尻を乗せ、目を閉じた。瞑目のあいだ、中村佳穂の音楽が何度も何度も頭のなかに回帰して仕方がなかった。一〇分少々経った頃合いで、眼裏の視界に波動が生まれはじめ、例の、青とも紫ともつかない色の不定形のアメーバめいた靄が蠢きはじめたのだが、やはり以前のように繭に包まれているような感覚はもたらされなかった。しかしまあ、それでも良いのだ。変性意識に入ることとか、感覚を鋭くすることとかを目的とせずに、ただ心身のチューニングとしての瞑想をまたしばらく続けてみるつもりである。このくらいかなというところで切り上げてベッドを降り、コンピューターに寄ると時刻は一一時四三分、一六分間座ったことになる。そうして上階へ、母親は着物リメイクに出掛けていて不在なので、居間は無人である。寝間着からジャージに着替えてダウンベストを羽織り直し、台所に入ると弁当が作られてあったので有り難く頂くことにして、傍らに置かれてあった鮭も電子レンジに突っこんで温めた。そうして卓に就き、新聞をめくりながら弁当のなかの焼売などをつまみ上げて口に運ぶ。その他鮭の混ざった冷たい米を食べ、新聞からはイスラエルの入植活動拡大についての記事を読んだ。一気に気温が下がったようで居間は結構寒く、足もとが冷え冷えとしてストーブが欲しい気候だった。ものを食べ終えると台所に移動して使った食器を洗い、それから風呂場に行って浴槽も念入りに擦ると、自室から急須と湯呑みを持ってきた。茶壺のなかの茶葉があと一回分でなくなってしまうので新しい茶はないかと玄関の戸棚を探ったのだが、どうもなさそうだったのでまたそのうちに買ってこなければならない。それで最後の一回分の茶葉を急須に入れて茶を仕立て、それを持って自室に帰ると飲みながら早速日記を書きはじめた。ここまで綴れば一二時三九分。
 続けて二三日の記事を進めた。足もとには電気の小さなストーブを点して温風を送ってもらいながら一時間取り組み、仕上がるとインターネットに記事を投稿した。井上陽介『GOOD TIME』の記事も投稿し、その勢いで二四日の記事も完成を目指して打鍵に邁進し、ふたたび一時間を費やして三時ちょうどに仕上げることができた。それから、運動である。音楽はthe pillowsを流し、下半身や肩周りを柔らかくする。開脚して両腕を太腿に乗せ、力を入れて突っ張るようにすると自ずと肩が上がり、この姿勢を続けたまま静止していると覿面に肩が柔らかくなって声が出やすくなるのだ。それで、"ストレンジカメレオン"とか"Swanky Street"とかを久しぶりに歌って三時半に至ったところで、食物を摂取することにした。簡便に、日清のカップヌードル(シーフード味)である。さらに、冷蔵庫を覗くと前夜の生サラダがちょっと残っていたのでそれも頂くことにして、テーブルの端に容れ物を持ってきてドレッギンスを掛けた。そうしてカップ麺に電気ポットから湯を注ぎ、両品を持って自室に下りてくると、サラダを先に胃のなかに入れ、カップ麺も食べながら読み物に触れた。過去の日記は今日は二〇一四年三月四日である。この日は当時の自分の二四歳という年齢はまだまだ若いものだということに気がついている。それまでは随分と歳を取ってしまったものだと感じていたようだが、二〇代が終わるまでにあと六年も残っているという事実の方に目を向けて、自らの若さを実感したようだ。その六年間もそろそろ尽きかけ、あと二か月足らずで三十路に入ろうとしている現在、実感として自分はまだまだ若いのか、それともそれなりに歳を取ったと言うべきなのか――そんなことは知ったことではなく、どちらでも良いという気持ちが強い。歳を表す数字のわりには老いづいていると昔から言われがちで、それはある程度当たっているとも思うが、しかし自らの独力で生計を立てたことがないものだから、やはり世間の波に揉まれておらず幼い部分がどこかにあるだろうとも思う。それが露呈しないようにとの計らいから、かえって老成した風に余裕ぶっているというのが実情かもしれない――そんな自己分析など、やはり知ったことではないが。
 その後、fuzkueやMさんのブログも読んだ。Mさんの日記を読んでいる途中で食物は食べ終わり、食後の余韻も味わわずに歯ブラシを持ってきて、歯磨きをしながら引き続きブログを読んで、口を濯ぐと上階に上がった。居間の隅に吊るされてあったワイシャツ三枚を持って移動し、階段口に入りかけたところでもう靴下を履いてしまった方が良いなと気がついたので、ワイシャツを腰壁の上に置いておき、仏間に入って灰色の靴下を履くと、下階に戻って廊下に吊るされてあるコートや礼服を室内の収納のなかに移動させておき、ワイシャツは薄水色のものを選んでスーツは紺色、ネクタイも午後五時の暮れ方を思わせる濃い水色のものを締めて青系統の装いに揃えた。ベスト姿になるとこの日のことをメモに取って、現在時刻まで記せば四時二一分だった。
 それから出勤前に音楽を聞いた。まず、Bill Evans Trio, "All Of You (take 2)"(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』: D2#3)。テイク一とどちらが優れているだろうかと考えてみても判断がつかず、どちらも等しく完全でまったく瑕疵のない演奏だと感じられてならない。LaFaroのベースは、ある箇所で、高音部と低音部のあいだで大きな段差を挟みながら素早く飛び移る振舞いがしばらく繰り返されて、それを聞くとまったくもって、何やってんねんこいつ、と思ってしまう。勿論けなしているわけではなくて、ほかのベーシストがそのような振舞い方をしているのを聞いたことがないのだ。Evansのソロ後半のコードプレイは圧巻といった感じで、和音が何とも鮮やかで美しい。このライブの"All Of You"は三テイクとも何度でも繰り返し、おそらく死ぬまでずっと聞くことができるだろう。
 次に、このライブ全体の最終曲、"Jade Visions (take 2)"。一聴してテイク一よりもベースの重量感が増しているように聞こえたのだが、それはテンポが遅くなっているためなのだろうか。ピアノとドラムが入ってきて以降も、幾分溜め気味の演奏になっている。先日、テイク一を聞いた時には静謐さと冷たさを強く感じたが、今日はテーマを聞いているあいだ、儚げな愛らしさのようなものをちょっと覚えないでもなかった。ベースとピアノが遊ばずに落着いて演じている分、天の川めいて煌めくシズルシンバルの音響やスネアの擦り方など、Motianのドラムの響きが堪能できる演奏となっているのではないか。
 次に、同じくBill Evans Trioの、『The 1960 Birdland Sesions』に移って、冒頭の三月一二日録音の"Autumn Leaves"。やはりこの段階ではMotianの独自性が発揮されはじめているように思う。フォービートに入る前、テーマでのハイハット――だと思うのだが――の無闇な連続、流れを躓かせるような、がたつかせるような連打の差しこみ方は、やはり彼特有のものだろう。諸所でのLaFaroの振舞いと同じように、何やってんねんこいつ、と思わず突っこみたくなるような、通常の整然性から逸脱した感じがある。その後も、スネアの刻みなどが妙に一瞬だけ細かくなるような場面が何箇所かあったと思う。LaFaroはソロ以外の場所では尋常なフォービートを演じているようで、Evansのソロは先日聞いた際と同じく、前半はやや緩めだが後半に掛けて盛り上がってくるという印象である。
 音楽を聞き終え、五時頃上階へ向かった。廊下は真っ暗だったので、階段口まで来ると壁のスイッチを手探りで点け、居間に上がるとここでも食卓灯を点してカーテンを閉めた。南窓のカーテンを閉ざす際に、Sさんの宅の敷地で、ドラム缶か何かを使って物を燃やしているようで、丸く固まった炎の色が見えた。それから便所に行って排便し、ポストに寄って夕刊などを取り、玄関のなかに入れておくと出発した。空気はかなり冷えこんでいた。眠りこけていた午前のあいだか、打鍵に邁進していた午後のことか、雨が通ったようで路上に濡れ痕が残っており、そこから冷え冷えとした空気が立ち昇るようで、息は白く濁って大気の質感は固く鋭く、そろそろマフラーが欲しい気候だった。坂道には葉っぱが濡れて貼りついており、その上に電灯が掛かるとアスファルトと同化したガムのように落葉の姿が浮かび上がる。
 駅前まで来ると、立ち尽くして煙草を吸う人影があり、吐息よりも濃い煙色が曖昧な円味を帯びてくゆっていた。駅にはちょうど奥多摩行きが入線してきたところで、降りてくる人々とすれ違いながら階段通路を行き、ホームに入るとベンチに座ってメモ書きをした。やはり空気はかなり冷たい。電車に乗って座ると、メモは既に現在時刻まで終えていたので瞑目し、冷えた身体を暖房で和らげ、青梅に着くと降りてホームを行った。前方を歩いていた女性の車掌が同僚の男性とすれ違う際、男性の方はお疲れさまですと挨拶をしたが、女性の方がそれに答えていないように見えた。しかし、無視したというのも考えづらいから、多分声が聞こえなかっただけだろう。彼女はその後、奥多摩行きの電車の端の乗務員室に入っていった。扉が閉まる音が、ばたんと大きく響く。
 職場に着くとすぐに準備を始め、二〇一二年度のセンター試験の国語の問題を読んだ。評論は木村敏の文章だった。しかし、途中までしか確認できないままに授業である。一コマ目は(……)(中三・英語)、(……)くん(中三・国語)、(……)さん(小五・社会)が相手。(……)さんは初顔合わせで、挨拶にちゃんとにこやかに答えてくれたし、プリントをコピーしてきた時などは礼も言ってくれて、わりと気立てが良さそうな感じである。今日は三大洋や日本列島を構成する四つの大きな島々や、輪中などについて確認した。(……)はいつも通りおちゃらけた感じで、(……)くんとは学校が一緒なのでたびたびちょっかいを出していたが、まあ問題はそこそこやってくれた方ではないか――と言っても、一頁そこそこに過ぎないが。(……)くんは学校では島崎藤村の「初恋」を扱っていると言ったが、もう冬期講習用のテキストに入ってしまうかと希望を訊いてみると肯定が返ったので、評論文の演習に入った。「前者」「後者」という言葉の使い方を確認。文章の内容はわりと読めていたように思う。
 二コマ目は(……)くん(中三・英語)、(……)さん(中三・英語)、(……)くん(高三・国語)を担当。何だかわからないが、結構忙しかった印象。(……)さんがテストを持ってきたので大量のそれをコピーしなければならなかったことなどが要因だったろうか。それで、(……)くんをもっと見てあげたかったのだが、二問しか確認できなくて申し訳なかった。(……)くんはwant A toの形を扱った。三単現の説明が危うかったので、大丈夫だろうかとちょっと心配になるが、一応理解はしているらしい。あと、tellの過去形をtoldedとしていたのも危うく、彼はそこそこできる方の印象なのだが、意外と基本的な事柄が完全には身についていないのかもしれない。(……)さんは前回扱った間接疑問の単元で残っていた頁を一頁解いてもらい、さらに長文の単元にもちょっと入った。彼女も英語はあまり奮わず、findやbelieveなど基礎的な単語の意味も覚えられていなかった。レベルアップさせてあげたいところだが、如何せんあまり当たることがなく、今日担当したのも随分久しぶりのことである。
 生徒の見送りや片づけをしているあいだに電車の時間が迫った。急いで片づけをして、(……)が壁に描いた落書きを消したりもして、室長とのやりとりもそこそこに九時半ぴったりに職場を出た。電車は三二分発である。駅に向かうと乗換え電車が入線してきたのが見えたので、改札を抜けて小走りに通路を行き、階段も一段飛ばしで上がって奥多摩行きに乗った。扉際で瞑目して到着を待ち、最寄りで降りると空気が冷たいから、さすがに今日はそのなかでゆっくりベンチに座ってコーラを飲む気にはなれない。それでさっさと階段通路に入ると、幼い男児を連れた若い母親が子供の手を取って遊ぶように段を下ろしてあげている。その横を通り、街道を渡って葉っぱの散乱した坂道を下りていく。帰路に特段に印象深いことはなかった。
 帰宅すると母親は居間にいたが、既に帰ってきている父親は寝室に下がっているらしい。寒い、と訊くので寒いと答え、下階へ行くと自室に入ってコンピューターを点け、上着やベストやスラックスを丁寧に扱ってゆっくり吊るし、着替えを済ませた。ジャージ姿で上階へ行くと、夕食のメニューは、おじやにすき焼きめいた豆腐と肉の炒め物、小松菜のお浸し、大根か何かを和えたサラダ少量である。おじやは丼によそって電子レンジで二分半加熱し、その後肉も温めて、卓で食事を開始した。夕刊をめくると、朝海浩一郎という外交官が四〇年に渡ってつけた日記が発見されたとの報があり、国連脱退を宣言した松岡洋右の演説を堂々たるものだと評価しているとかいう情報があった。あとは一面に戻って、在職老齢年金の話題を読んだ。減額基準が四七万円とか書いてあったか、六〇歳以上の人々は賃金と年金と合わせてその額に達していると年金額を減らされるらしい。ものを食べ終えると食器を片づけ、抗鬱薬を飲み、風呂は母親が入っていたので下階へ帰った。緑茶を飲めないのが物足りない。
 だらだらと過ごし、一〇時四〇分頃になると母親が出たので入れ替わりに入浴に行った。二人が入ったあとなので水位が低く、身体を低く落として湯のなかになるべく収めるようにして、頭を縁に預けて温まった。するといくらかうとうとしたようだが、同時に、右足の裏にちょっと突っ張ったような感覚があって、痛みが滲むのも感じていた。三〇分以上浸かって上がると塒に帰り、この日のメモを取ればもう日付が替わるところだった。
 ふたたび音楽を聞いた。最初に、Bill Evans Trio, "Autumn Leaves"(『The 1960 Birdland Sessions』: #1)である。今度はLaFaroに耳を傾けてみたのだが、ソロでの動きの大きさは『Portrait In Jazz』のテイクよりも明らかに増していると思う。テーマ前半でも、あまりよく聞こえないのだが、高音部まで上昇してEvansと絡んでいるようだ。その後、テーマ後半以降はほとんど尋常なフォービートを演じるものの、終盤に至ってふたたび始まるインタープレイにおいては、細部での突っこみの鋭さなど、『Portrait In Jazz』よりも勢いが強く、六一年のライブに近づいているようにも思われる。
 次に二曲目、"Our Delight"。ここではEvansは概ねバップピアニストに徹しているが、それでも結構多彩な技を織りこんでおり、無理矢理突っこむような場面があったりとか、唐突に流麗な速弾きをひらいてみたりとか、リズムの散らし方やペースの作り方が、六一年のライブのあの一定性、不動性とは幾分違うような印象を受ける。ソロの終盤からよくやるお得意のコードプレイ、右手と左手でタイミングを合わせてリズムを分厚く強調する例の技も控えている。リズム隊はこの曲においては基本的なフォービートのサポート役として振舞っており、LaFaroはソロがいくらかあるものの、一部リズムがもたついているように聞こえて、そこまで奮わないような印象である。Paul Motianはソロを聞いてみると、二拍三連を組み合わせるフレーズだとか、スネアロールからシンバルにふっと飛ぶ流れだとか、シンバルをバシャバシャ鳴らして中間部の空白を広くひらく手法だとか、キックの奇妙な散らし方だとか、彼らしい点が散見されるように思う。やはり例えばPhilly Joe Jonesなどとはかなり違うフレーズの作り方をしているのではないか。
 三曲目は"Beautiful Love - Five (Closing Theme)"。ピアノソロの序盤においてLaFaroが痙攣的な三連符の連打を組みこんでいて、突っこんできたなと思った。終盤でも同様に、今度は同音の連続だが細かい強打があって、彼の野蛮さが諸所に垣間見えるようだ。それに引き換えMotianは、二拍四拍で整然と刻んで随分と大人しい印象である。Evansのソロは後半で例の左手のコードと合わせた技法が披露され、畳みかけるようなそのプレイは迫力満点で、ライブならではの熱が籠っていて圧巻である。聞き返してみないとわからないが、『Explorations』のスタジオ録音のバージョンよりも、随分と熱く演じているのではないか。ただ、ソロの終わりで無闇な速弾きを散らしてぎこちなく終えるのは、唐突感があってあまり彼らしくなく、せっかくそれまでの演奏で構築してきたまとまりに最後でいくらか綻びが出て、統一感が損なわれてしまっている。LaFaroのソロも結構なものなのだろうが、音質が悪いせいで細部で何をやっているのか聞き取りきれず、評価がしにくい。とは言え、伸びやかな部分と細かなフレーズと、わりあいにバランス良く配分して歌っているような感じはする。
 音楽を聞いたあとは一時過ぎからプリーモ・レーヴィ/関口英子訳『天使の蝶』を読みはじめたものの、途中でベッドに入ってしまい、案の定意識を失った。三時に正式な就床である。


・作文
 12:23 - 12:39 = 16分(26日)
 12:39 - 13:38 = 59分(23日)
 13:58 - 15:00 = 1時間2分(24日)
 16:12 - 16:21 = 9分(26日)
 23:34 - 23:59 = 25分(26日)
 計: 2時間51分

・読書
 15:34 - 16:00 = 26分
 25:06 - 26:53 = (1時間引いて)47分
 計: 1時間13分

  • 2014/3/4, Tue.
  • fuzkue「読書日記(161)」: 11月1日(金)
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-11-22「雨それは垂直の川六月の大地は下流空は上流」; 2019-11-23「片手に詩集をたずさえ何者かになったつもりのチンピラひとり」
  • プリーモ・レーヴィ/関口英子訳『天使の蝶』: 106 - 134

・睡眠
 3:00 - 11:15 = 8時間15分

・音楽

  • Bill Evans Trio, "All Of You (take 2)", "Jade Visions (take 2)"(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』: D2#3, D3#6)
  • Bill Evans Trio, "Autumn Leaves"(×2), "Our Delight"(×2), "Beautiful Love - Five (Closing Theme)"(×2)(『The 1960 Birdland Sessions』: #1, #2, #3)