2019/11/30, Sat.

 関係者の多くが、虐殺施設で私が監督しているときに、私に歩みより、自分たちの沈痛な気持、自分たちの印象を私にぶちまけ、私に慰めを求めた。彼らの腹蔵ない会話で、私は、くり返し、くり返し、こういう疑問を聞かされた。
 いったい、われわれは、こんなことをする必要があるのだろうか。何十万という女子供が虐殺されねばならぬ必要があるのだろうか。
 そして私は、自分自身では心の奥底で数知れぬほど、この同じ疑問をいだいた身でありながら、総統命令を楯に彼らを説き伏せ、なだめたことだった。このユダヤ人虐殺は、ドイツを、われわれの子孫を手強い敵から永遠に解放するために必要なのだ、と彼らに私はいわねばならなかったのだ。
 まさに、われわれ全員にとって、総統命令は断乎として背きえないものであり、SSはそれを完遂しなければならなかった。そして、私自身は、どんな場合にも、同じ疑念を告白することを許されなかった。私は、一同に心理的不屈性をもたせるために、断乎として、この無惨、苛酷な命令の必要を確信しているごとくに、自分を見せねばならなかったのである。すべての者が私に注目していた。
 上に述べたような場面が、私にどういう印象をあたえるか、私がそれにどういう反応をみせるか。その点では、私はくまなく観察され、私のどんな反応も語り伝えられた。私は、しっかりと気を引きしめ、体験したことに心動かされるあまり、内心の疑惑や滅入るような気持を、気づかせるような真似は、絶対にしてはならなかったのだ。人間らしい感情をもっているほどの者なら誰しも、心を引き裂かれるような思いの事態の時にでも、私は、冷酷・無情に見せかけねばならなかった。どれほど、人間らしい感情がこみあげてこようとも、私は、絶対に目を背けることを許されなかった。母親たちが、笑ったり泣いたりしている子供たちと共に、ガス室に入って行くときにも、冷たく見送らねばならなかったのだ。
 (ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』講談社学術文庫、一九九九年、306~308)


 六時にアラームを設定してあった。時間が来ると機械的な音声によって覚醒し、ベッドを抜けて音を停止させたが、そのまま床に戻ってしまった。それでもふたたび完全な眠りに陥ることはないまま、曖昧な意識で一時間を過ごし、七時に至ったところでふたたび布団から抜け出し、上階に行った。両親は既に起きていた。朝食に何を食ったのかなど、もはや覚えていない。確かハムエッグを焼いた気がする。ほかにも何か品があったような気もするが、それは既に忘却の淵に沈んだ。食後は下階に移って早々と黒スーツに着替えたはずである。今日は山梨の祖母宅で食事会、夜には職場で会議があったので、午後に山梨から電車で東京に戻り、そのまま仕事に行くつもりだったのだ。着替えたあとは、七時三八分から前日の日記を書き出している。Bill Evans Trioの音楽を聞いた感想である。最初の"All Of You (take 1)"の感想を綴ってTwitterに垂れ流したあと、次に"Alice In Wonderland (take 1)"を聞いたあいだの印象を言語化するべく試みて、Bill Evansが「固体」であり、Scott LaFaroは「液体」、Paul Motianは「気体」としての性質を持っているという、物質の三様態になぞらえた整理の構図を途中まで拵えたのだが、完成しきらないままに八時一五分に達したので、そろそろ出かけるようだろうと書き物を中断した。それで上階に行き、便所に入って腹のなかを軽くしているあいだに両親は外に出て室内にはこちら一人となり、室を出ると遅れて玄関を抜け、鍵を閉めて父親の車に向かった。水場に置かれたバケツの水が薄い氷を張っていたので、通りすがりに右手の人差し指でちょっと触れて押した。助手席に乗りこもうとすると母親が、トイレの換気扇は消したかと言うので、消していないと答えると、長時間家を空けるのだから消してこいと言うものだから、戸口に引き返して今しがた掛けた鍵をまた開ける仕儀になった。靴は脱がずに手を伸ばしてスイッチを切り、ふたたび鍵を掛けて今度こそ助手席に乗りこみ、車は出発した。Donny Hathaway『These Songs For You, Live!』を車のサウンドシステムに挿入して、音楽を流した。
 道中は大体のあいだ目を瞑って休んでいたので、特段に深い印象は残っていない。出発してまもなく、家の傍で全面赤く鮮やかに染まった楓に目を向けたことくらいか。最初のうちは目を閉じていても意識がほぐれていかず、音楽に耳を傾けていたのだが、そのうちに段々淡い頭になってきたようだった。高速には乗らず、大垂水峠とやらを越えて山梨に向かったらしかった。定かに覚めた頃には既に上野原市内に入っており、「植松」という、餡ドーナツが有名らしい和菓子屋の角を曲がって、まもなくスーパー「オギノ」に到着した。ここで人数分の寿司などを買っていくのだったが、N.YSさんも来ているという話だった。駐車場に入ると白い軽自動車が見つかり、車から降りるとあちらも出てきて、互いに挨拶を交わした。YSさんの息子であるYKくんも来ており、YSさんはスーツ姿のこちらを見て、格好良いじゃんと言った。こちらは眠く、車の狭い席に押しこめられて長時間同じ姿勢を取っていたこともあって身体も固く、伸びをしたり欠伸を漏らしたりしていた。
 それで皆でスーパーに入り、カートを四つだか用意して、食事会で供するための品を見繕っていった。メインとしてはパックの寿司を人数分買っていけば良いだろうということで、一三パックもの寿司が籠に入れられた。そのほか店内を回り、薩摩芋や南瓜や海老フライなどの揚げ物、数種類のサラダ――これも大きなものを分けるのではなくて、一人一パックずつ提供すれば良いだろうということで、一〇〇円かそこらの小さなパックのものが人数分揃えられた――、煮物、きんぴら牛蒡などが籠に加えられていき、さらに飲み物も用意された。こちらはウィルキンソンの辛口のジンジャーエールを見つけて二本取ったが、いざ食事の場になってみると、一本で充分だった。余った一本は母親に託して持ち帰ってもらい、この文章を綴っている一二月一日午後一〇時四六分現在、作文のお供としてちびちび飲まれている。そのほかビールや、母親が飲むためのノンアルコール飲料「ALL FREE」や、緑茶のペットボトル五本などが取り揃えられたあと、最後に母親の希望でデザートを見に行き、苺クリームのロールケーキが二パックだったか三パックだったか選び取られた。そうして会計。カート三つ分、籠は確か五つ分が一つのレジに集合した。残り一つのカートは、我が家の分の品物を求めた母親のもので、それは別のレジで処理された。こちらはカートの脇に立ち、店員が品物を処理していって籠が空くたびに次の籠を台の上に移動させる役目を担った。整理台の方ではYSさんとYKくんが、店内の隅に積まれた段ボール箱から手頃なものを選んで持ってきて、そのなかに会計の終わった品を詰めていた。台の上に移動させる籠がなくなるとこちらも通路を通って整理台の方に出て、レジを通された品物の詰まった籠を整理台に運び、やはり段ボール箱を持ってきてそれに寿司を詰めていった。会計は全部で二万四〇〇〇円強を数えたらしかった。
 そうして荷物を整理するとそれを抱えて店を出て、父親の車の後部に積みこんだ。そうしてあとは、祖母宅に向かうだけである。YSさんたちは先ほどの「植松」に寄って、皆の土産となる餡ドーナツを購入してくるらしかった。そういうわけで別れて発車し、残りの路程はそう長くもないので音楽は良いだろうというわけで流さず、ラジオをぼんやり聞きながら車に揺られた。
 それで祖母宅に着くと車庫に車を入れた。車庫にはもう一台、父親の車と同じ種類の色違いのもの――父親のものは真っ青で、もう一台は赤いものである――が停まっていたが、これは三鷹のZNさん――父親の長兄――のものらしかった。車後部から荷物を取り出し、抱えて庭に入ると、縁側でKKさん――ZNさんの奥さん――が掃除機を掛けるか何かしていたので、母親と一緒にこんにちは、と挨拶をした。そうして玄関に入り、入口のところに箱を置いておくと、ZNさんも廊下を通ってやって来たので、こんにちは、今日は有難うございますと挨拶をした。あちらも、来てくれて有難うな、と礼を言った。それで車とのあいだをもう一往復して荷物をすべて運びこむと、玄関を上がったところのスペースが箱で埋まってしまったので、それらを居間の隅に移動させた。祖母が現れたのはいつだっただろうか? 荷物を運びこんだこの時にはまだ、彼女の姿は居間にはなかったはずだ。トイレにでも行っていたのだろうか、その後いつかのタイミングで炬燵に入っているのに出会ったので、挨拶をした。
 宴会の会場は居間から階段と廊下を挟んだ先にある客間と言うのか、和室で、二室のあいだにある襖を外して空間を広く繋げ、そこにテーブルをいくつか並べて貫くのだった。それで元々そこに置かれてあった大きなベッド――初めて見るもので、祖母は今はこのベッドに寝ているのだと言う――を四人掛かりで別室に運び、さらに襖を苦労して外し、テーブルを運びこんだ。テーブルを拭くための布巾が必要だったので居間を通って台所に行くと、ZNさんとKKさんの娘さんであるNちゃん――多分、N子さんという名前だと思うが、漢字はわからない――と言うか、それで言ったらほかの人々の漢字も果たして合っているのか覚束ない――が料理をしていたので挨拶をした。いや、違ったか? 既に家に入ってまもない時点で顔を合わせていたような気もする。いずれにせよ、この人とは、遥か昔、幼少期に会ったことはあるのかもしれないが、物心ついてから顔を合わせた記憶はなく、実質的には初顔合わせだったので、次男でございます、と自己紹介をした。多分この時だったかと思うが、と言うか、スーパーでYSさんと会った時にも言っていたと思うが、こちらがスーツを着ている事実を補足説明する母親が、仕事なのよ、夜の仕事だから、ホストホスト、と糞みたいにつまらない冗談を言って辟易したということもあった。それで布巾を濡らして絞って和室に持っていき、父親やZNさんが拭いたあとからさらに天板上を拭いて、テーブルの両側に座布団を設置して、その後、買ってきた品々を並べる段になった。席は片側七人分、食事会に参加するのは全部で一三人、その分の寿司のパックを置いていき、さらにサラダもパックの脇に設置した。
 そのほかこちらがやった仕事で覚えているのは、天麩羅を切ることである。買ってきた天麩羅を食べやすいようにいくらか細かく切ろうということになったので、包丁と俎板を求めに台所に行った。すると、KKさんとN子さんが汁物を作っていたのだが、そのために使っていた包丁と俎板がちょうど必要なくなるところだったので、洗ってもらったのを受け取り、布巾で拭いて和室に持っていった。俎板は木製のものである。それで水気があまり取れていなかったので、もう少し拭くか、と言って台所からキッチンペーパーを取ってきて、それで水分を吸わせたあと、天麩羅のパックをひらき、薩摩芋から取り出して切断していった。薩摩芋は二等分、南瓜と海老フライも二等分、あと一種類何かあったのだが、それは何だったかよく覚えていない。イカフライだっただろうか? その品だけは三等分にしたのは覚えている。俎板上は油で汚れ、こちらの左手の指も同じく油でべとべとになった。切ったものはやはりスーパーで買った紙皿に乗せていった。三つの皿に分けて、各テーブル一皿ずつ供したわけである。あと、今思い出したが、惣菜としては手羽先も用意されていて、それも天麩羅と同じ皿に乗せられた。そのほか煮物ときんぴら牛蒡も三パックずつ買ってあったので、それも各テーブルに一つずつ設置した。
 順番が前後するが、こちらはスーツの上着を脱いでハンガーに掛けておき、ベスト姿の上に母親のダウンジャケットを借りて羽織っていた。準備をしているうちに、O田家の三人が到着した。MDさん、SGさん、その息子のBNの三人である。BNは遺伝性の知的障害者で言語を操ることはできない。いつものようにどすどすと大きな足音を立てて入ってきたので、BN、と呼びかけて宥めた。この日見た彼の顔の印象としては、以前よりも何だか穏やかと言うか、落着いたような表情になっている気がした。振舞いも、どすどす音を立てて歩き回ったり、奇声を発したり、祖母の肩を掴んで引き寄せようとしたりと相変わらずのものではあるが、それも何となくいくらか落着いた勢いになっているような気がした。それで、食事会の準備が一段落するとこちらは居間の炬燵に移り、SGさんといくらか話をした。この人も話に聞くところでは、鬱病なのか何なのか、精神の方の調子が悪くなっていたらしく、それでやはり薬でも飲んでいるものだろうか、以前よりも明らかに太って顔が丸く、ふっくらとなっていた。眼鏡はおそらく以前のものから変えて、いくらか暗い色を帯びたものになっていた。男の更年期かな、と自分では言っていた。六八歳かそのくらいらしい。更年期と言うとそれよりももう少し若い年齢でのことではないかと思うが、人間いつどこで精神を悪くするか、わからないものである。とは言え、こうした場に出てこられることから見てもだいぶ回復はしたのだろう。祖母も炬燵テーブルを挟んで、随分顔色が良くなった、と言っていた――と言ってやはり、こちらの目からすれば以前よりも少々元気がないようにも思われたが。
 青梅は紅葉が綺麗だろう、と言うので、先日、川井という駅が奥多摩の方にありますけれど、そこに行きまして、釜飯屋に行ったんですけど、その庭に紅葉が誂えられて――という言葉を使ったのだが、この語を「紅葉」に対して使うのはおそらく誤用である――あって、それが赤くて鮮やかで……陽のちょうど高い時間のことで、頭上の紅葉の葉を透かして、太陽がその向こうに見えるわけですよね、で、葉っぱの影が掛かっているんですけど、それが紫色だった、淡い紫で、紫の影というのは珍しいなと思いましたよ、と話した。
 書き忘れていたが、YSさんのもう一人の息子であるSちゃんもじきに到着していた。彼は口の周りに髭をいくらか生やしていて、それに言及されると、イメチェンですよ、イメチェン、と言っていた。それでそのうちに食事会を始めようという段になり、和室に皆で移って、酒を飲む連中は奥の方に、女性陣は主に手前側にと席に就いた。祖母は片方の辺の真ん中あたりに座り、こちらはその右隣に就いた。全員分の細かい席次は記すのが面倒なので省略する。それでZNさんが最初に挨拶をして、さらにSGさんが乾杯の音頭を取って食事が始まった。隣の祖母が寿司のパックを開けるのに苦戦していたり、サラダについていたドレッシングの封を切るのにやはり苦労していたりしたので、こちらが代わりに開封してやった。寿司は無論美味かったが、こちらはこの時にはそこまで腹が減っていたわけではなかったので、まったくの空腹を満たす時のあの快楽はそこまで強くはなかった。
 書くのが面倒臭いので、覚えていることのみを記してどんどん省略していこう。まず覚えているのは、食事中、右隣に座ったN子さんとちょっと話をしたことで、あるタイミングであちらから、仕事は何をしているんだっけと話を振ってきたのだ。それで塾の講師をしていると答え、何の科目をやっているのかとかについてちょっと話し、大学生の時にもやっていたのと訊かれたのに肯定し、それじゃあそのままそこで就職みたいな、と言われたのには、本当は正社員になどなっておらず未だ非正規フリーターの身分に過ぎないのだが、そうしたことを明かすのも憚られたので、まあまあ、と曖昧に濁した。その後、N子さんの方の仕事の話もいくらか聞いた。彼女はA市の市役所職員をやっており、今は税金関連の部署にいると言う。本人の言によると徴収する方ではなく計算をする方、市民にあなたの税金はこれだけの額ですよと知らせる方だということだった。市役所というのはやはり部署によってかなり労働時間に差が出るようで、楽なところは楽だけれど、そうでないところは仕事が多いとのこと。色々な部署に回されるんですよねと訊くと、N子さんは入った当初は教育関連、教育と言って学校の方ではなくて生涯学習関連というようなところに配属されて、公民館でのイベントとかを多分企画したりしていたらしく、そのあと何と言っていたか、どこかに回されて、今の税金の部署は三つ目という話だったと思う。入所してから一四年ほどになると言った。
 その後、N子さんが汁物を用意するか何かで席を離れたあとに、今度は向かいのSちゃんといくらか話したのだが、その時に、先ほどのN子さんとの会話を踏まえて就職したのと訊かれたので、いや、していない、相変わらずのフリーターなんですよとここでは正直に身分を明かした。だらだら生きてますよ、本当、と漏らすと、Sちゃんは、いやいや、働いているだけまだね、働いてなかったらあれだけど、というような受け方をした。
 食事中のことで覚えている会話はそのくらい。そのうちにKKさんとN子さんが作ったものだと思うが、豚汁めいた汁物が供されて、これもなかなか美味かった。そしてじきに、ZNさんの息子であるSYくん――やはり漢字がわからないので、この字は仮のものである――とその奥さん及び娘さんが到着した。この人と顔を合わせるのも、おそらく二〇年ぶりかそのくらいで、相手もこちらのことを覚えているとも思えないし、こちらも顔の記憶がなかったのだが、彼らが玄関に来たところに出ていって挨拶をした際に顔を見てみると、ああ、そう言えばこんな顔だったな、というような感を得るものだった。奥さんは穏やかそうな人だった。名前は、言っていたと思うのだが、聞き逃してしまったのでわからない。娘さんは三歳、Sちゃんと言って、祖母に当たるところのKKさんによく似た顔立ちをしており、普段は物怖じしないとのことだったがこの時は人がたくさんいて驚いたらしく、最初のうちは母親に密着して隠れるようにしていた。しかし段々慣れてきて、あとになると笑顔を見せたりしていた。
 そのうちにO田さんの一家が、何か用事があるらしく帰らなければならないということで、皆で外に出て見送りに行った。家の入口には明るい陽射しがよく渡って暖かかった。一家を見送ったあとはこちらは一人、庭の隅に行って、目の前に広がる草原と言うか何と言うか、緩い斜面になった広い土地を眺めていた。するとSYくんが声を掛けてきて、今何歳なんだっけ、と訊くので、次の一月で三〇になりますと答えると、若い、という反応が返ったので、いやいや、と笑った。彼の方はこちらの兄と多分同年で、三五歳だと思う。それで連れ立って室内に戻り、その頃には大方食事も終わっていたのではなかったか。もう二時半を越えていたような気がする。こちらは早めに発って仕事の前に立川に寄りたかったので、母親に先にこちらだけ四方津駅に送っていってくれるように頼んだ。ところが、お父さんがまだ帰らないよと言ったりして、母親の返答は要領を得ない。こちらとしては、父親と母親は四時半だかそのくらいに帰るという話だったのだが、その時間では遅すぎるので、母親としては余計に車を運転することになるけれど、こちらだけ先に一人、駅まで送ってほしかったのだが、母親は面倒臭いようでなかなか了承しなかった。それでもスマートフォンで電車を調べて、三時四〇分のものがあると言うのでそれがいいなと言うと、最終的に了解してくれて、先にこちらは出発することになった。そうしたことが合意された時点で既に三時頃に達していたはずである。
 さあ、どんどん省略するぞ。そういうわけで三時一五分かそのくらいでこちらは先に山梨の家を発った。皆に有難うございましたと頭を下げて回り、祖母にも畏まった挨拶をして、そうして母親の運転する父親の車に乗った。疲労感があった。母親も多分疲れたと言っていたと思う。また、おばあちゃんも疲れただろうね、人を迎えるとそれだけで大変だよ、というようなことも言っていたはずだ。四方津駅まで行くあいだ、ちょっと酔うような感覚があって、やはりこちらの体質は自動車という乗り物にはあまり合わない。それで駅に着くと母親に礼を言って降り、改札を通り、通路を通ってホームに下り、東京寄りの方に歩いて電車が来るまでのあいだ立ち尽くした。琥珀めいた色の陽射しが西から渡って目の前の草や線路沿いの家並みに掛かっており、こちらの影も斜めに長く引き伸ばされて線路の上を横切っていた。東京行きがやって来ると乗り、席に就いて、疲労していたので立川まで休むことにして目を瞑った。最初のうちは何度か目を開けてしまい、意識は固いままだったが、そのうちにほぐれていったようだ。
 立川に着くと改札を抜け、駅舎も出て高架歩廊を渡って図書館を目指す。通路を歩いていき、図書館に入ると三階に上がって、CDを見る前に、瀬川昌久の自選評論集みたいな本があったはずだなと思って、ジャズの棚を見に行った。あった。この本は蓮實重彦との対談が収録されていることもあって、前々から読んでみたいと思っているのだった。所在を確認し、ちょっとめくってから棚に戻して、CDの区画に戻る最中、アナウンスが入って図書館は今日は五時で閉館ですとのことだったので、そう言えば土曜日は五時までだったかと思い出した。それでさっさと借りるCDを選んでしまおうというわけで音楽の区画に入り、ジャズの並びを見分した。数年ぶりに来たわけだが、思ったよりも品揃えは変わっていないような印象だった。新しい作品が勿論いくらか増えてはいるのだが、以前見ていた作品も相変わらず結構棚に残されていた。見分して、Christian McBride Trio『Live At The Village Vanguard』、Antonio Sanchez『Channels Of Energy』、『Chris Thile & Brad Mehldau』の三作品に決定し、自動貸出機で手続きをして、館をあとにした。
 時刻はちょうど五時頃である。教室会議は六時半から、間に合うためには五時台後半の電車に乗れば良いのでまだ猶予はある。そういうわけで、久しぶりにディスクユニオンに行く気になっていた。図書館でも借りたものがいくらも溜まっていて、聞く方がまったく追いつかないが、しかし何となく、CDを買いたかったのだ。それで歩廊を辿り、歩道橋の脇から下の道に下り、交差点の横断歩道を渡ってディスクユニオンに入店、the pillowsのアルバムなども欲しいのだけれど今日は時間が限られているのでジャズだけ見ようということでまっすぐジャズの区画に向かい、新着作品から見分しはじめた。Bill Evansのアルバムが欲しかったのだけれど、意外と品揃えが少なく、凄く欲望をそそられるほどのものには出会えなかった。概ね隅まで見て回り、『Booker Little』、Anat Fort『A Long Story』、Benjamin Koppel, Scott Colley & Brian Blade『Collective』、Chris Cheek, Ethan Iverson, Ben Street & Jorge Rossy『Lazy Afternoon: Live At The Jamboree』、『Maria Schneider & SWR Big Band』の五枚を購入することに決めた。『Booker Little』は、Little本人にもわりと興味はあるが、Scott LaFaroが参加しているので逃すわけには行かなかった。Anat Fortの作品はPaul Motianがドラムなのでこれもやはり興味を惹かれる。『Collective』の目当てはScott Colley。『Lazy Afternoon』はJorge Rossyの参加に惹かれたもので、彼は言うまでもなく、第一期Brad Mehldau Trioのドラマーだったわけだが、きちんと聞きこんでいないから曖昧な、当てずっぽうの印象に過ぎないけれど、Paul Motian的なドラムスタイルを継承している人がいるとしたらそれはJorge Rossyにほかならないのではないかという感じを以前からこちらは抱いているので、興味があるのだった。ところで彼は一体今、何をやっているのだろう? 何年も前にドラムではなくてピアノを弾いた作品か何か出していたのは覚えているのだが、ドラムは叩いているのだろうか? 最後のMaria Schneiderのアルバムは二枚組のライブ盤で、こんなものがあったのかと驚かれたもので、二五〇〇円だかしたがやはり買わないわけには行かないだろうということで購入に踏み切った。この日はちょうどセールキャンペーンをやっていた日で、この作品はしかし三〇パーセント引きだかになったので、ちょうど良かった。
 会計して退店。駅に戻って便所に寄って六番線から電車に乗る。満員。一番東京寄りの車両のさらに一番端に乗ったのだが、何やらジャージ姿の中学生の集団があって混み合っていたのだ。すぐ傍にはベビーカーに子供を乗せた若い母親があって、この混み具合では、降りる駅にもよるが出口までたどり着けるかどうか、ことによると手伝ってあげた方が良いかもしれないと思い、どこで降りるのかと声を掛けようかとすら思ったのだが、ひとまず様子見していると、中学生らはじきに、中神かどこかで降りていき、スペースがひらいたので大丈夫そうだなと安心した。ベビーカーを伴った女性は昭島か拝島かどちらかで降りていった。その後はメモを取ることもせずに車掌室との境の壁に凭れて目を閉じ、河辺かどこかで席が空くと座って引き続き瞑目し、心身を休ませて青梅に到着した。
 職場へ。会議の詳細は面倒臭いので省く。(……)さんという、七〇歳だかそのくらいだと言う、昭島教室から「押しつけられた」新人の講師と初めて顔合わせ。会議終了後に挨拶をしておいた。室長と面談した際にも、君も頑張りたまえ、と言いながら彼の身体をぽんぽんやってきたという話だが、こちらが挨拶した際、やりとりの最後にも確かに、こちらの身体をぽんと触れてきた。笑みを浮かべていたので、悪い印象は持たれなかったと思う。三鷹のZNさんにちょっと似ていて、気難しそうな感じもする外見だが、実際はそこまで頑迷ではなさそう。
 帰路は電車に乗らず歩き。なかなか寒かった。凍てた空。帰ったあとの記憶は特にない。日付が替わる前から四五分間ほど書き物をして二九日の記事を確か完成させたのだったか。さらに三〇分読書をしたが、さすがに疲労が甚だしかったので、一時一五分で中断して床に就いた。


・作文
 7:38 - 8:15 = 37分(29日)
 23:51 - 24:36 = 45分(29日)
 計: 1時間22分

・読書
 24:46 - 25:15 = 29分

・睡眠
 2:05 - 7:00 = 4時間55分

・音楽

  • Joe Lynn Turner『Holy Man』