2019/12/1, Sun.

 だが、私の中には、果してわれわれは戦争に勝てるのか、というはげしい疑問が湧きあがっていた。私は、まさにその逆のことを、あまりに多く目にし耳にしていた。これでは、われわれは戦いに勝てないのではないか。
 だが、最後の勝利を疑うことは、私には許されていなかった。それを、信じねばならなかったのだ。たとえ、健全な理性が、これではわれわれは勝利を失うほかないときっぱり私に言い切ったにしても、である。その心は、総統に、その理想に捧げられていた。それは亡びることは許されないのだ。
 (ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』講談社学術文庫、一九九九年、342)

     *

 また現在、私は、ユダヤ人虐殺は誤り、全くの誤りだったと考える。まさにこの大量虐殺によって、ドイツは、全世界の憎しみを招くことになった。それは、反ユダヤ主義に何の利益にもならぬどころか、逆に、ユダヤ人はそれで彼らの終極目標により近づくことになってしまった。
 (368~369)


 八時半にアラームを仕掛けており、一度はそれによって寝床を抜け出したのだったが、音を止めるとすぐにまた布団のなかに戻ってあえなく撃沈。正午を越えて一二時二〇分まで人間の屑のような寝坊をする。起き上がって床に足を下ろし、部屋を出て上階に行くと寝間着からジャージに着替えた。台所を覗くと、大鍋にうどんが煮込まれてあったので焜炉の火を点けておき、温めているあいだにトイレに行った。放尿しているとどこかに出かけていたらしい父親が帰ってきて家のなかに入ってくる音がした。それで室を出ると父親がただいま、と言ってきたので、はい、と受け、台所に戻ってもうしばらくうどんを加熱し、丼によそった。そうして卓に就いて新聞をめくりながら食事。書評欄などを眺めながら麺を啜っていると、父親も余ったうどんを丼に入れて卓にやって来て、テレビを点けて『のど自慢』を映し出した。『のど自慢』には水樹奈々がゲストとして出演していた。卓上にはMorozoffのチョコレートの赤い箱があり、開けてみるとまだいくつかピースが残っていたので、ホワイトチョコレートを口に入れながら、その時はまだカウンターの向こうの台所にいた父親に、これはどうしたのかと尋ねてみると、YSさんがくれたのだという返答があった。前日、各家庭に配っていた土産物の中身がそれだったのだろう。食後、もう一粒を頂いたあとに席を立って丼を洗い、それから風呂場に行って、前日は風呂を洗わずそのまま焚いたために残り湯が多かったので、栓を抜いて水が流れていくあいだ、肩を回したり腰をひねったりしながら待ち、浴槽が空っぽになるとブラシを取ってなかに入り、壁や床を擦った。洗剤をシャワーで流しておくと室を出て、一旦階段を下りて自室に入り、コンピューターを点けて各種ソフトのアイコンをクリックすると急須と湯呑みを持って居間に引き返し、歯磨きをしながら『のど自慢』を見ている父親を横目に緑茶を用意するとふたたび居室に帰って、Twitterにアクセスしたり、noteに一一月二九日の記事を投稿したりしながら茶を飲んだ。前日の記事はまだ一文字も書けていない。しかも一日出かけていたわけだから長くなるのは目に見えていて、それなのでなかなか取りかかる気持ちが起こらず、インターネットを少々回っていると早くも一時を回ったので、外は曇って空気も冷たくなっているようだしとりあえず洗濯物を入れようと部屋を出た。父親は出かけたようだった。先に便所に行って糞を垂れてからベランダに出て、その時には薄陽が復活していたものの、もうさほどの強さもなかろうと吊るされたものを室内に取りこんでしまい、入れただけで畳むことはせずに下階に戻って、やはり日記に取りかかる気が湧かないので、前日に買ったCDの情報をEvernoteに記録しておこうというわけで、the pillows『Rock stock & too smoking the pillows』を流しながらちまちまと、曲目やパーソネルや録音情報などを打ちこんでいった。『Maria Schneider & SWR Big Band』は録音は二〇〇〇年なのだが、発売は二〇一八年と意外と最近のものだったようだ。五枚分の情報を記録し終えると、二時に達する一分前からこの日の日記を書きはじめ、ここまで記せば二時二一分となっている。
 確かここで上階に行ったのだったと思う。炬燵に入っていた母親は、料理教室で、何とか言うメキシコ料理を作ってきたと言ってパックに入ったそれを取り出してみせた。チーズなどを使った皮のなかに鶏肉を閉じこめたような料理で、ちょっと油っぽいが食べるかと訊くので頂くことにして、パックを電子レンジで四〇秒温め、箸とともに下階に持っていった。そうして食べながら読み物に触れることにして、まず二〇一四年の日記を二日分読み、次にfuzkueの「読書日記」、さらにMさんのブログと読めば、時刻は三時を過ぎていた。中途半端な時間だが、先の料理だけでは腹がそこまで膨れなかったので、白菜でも切って食べることにしてふたたび階を上がり、台所で紫白菜をざくざく切って笊のなかで洗い、大皿いっぱいに乗せて卓に持っていくと和風ドレッシングを掛けて食った。そうして食後は緑茶を用意して自室に戻ってきて、相変わらず前日の日記を書く気は起こらず、一文字も綴らないままに読書に気が向いたので、下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』を読みはじめた。茶で一服しつつ文字を読み進め、三杯分を飲み終えると、今度はペンと読書ノートを持って文言を書き写しながら読んでいるうちに、あっという間に一時間が経って四時半を越えた。椅子に座り続けて身体がいくらか固くなっていたので――また、元々一〇時間以上もの長きに渡って臥位で床に留まっていたことによる全身的なこごりもあった――the pillowsの曲を流して歌いながら、柔軟運動をした。それで時刻は四時四五分過ぎ、前夜に教室からコピーしてきたセンター試験の国語の過去問のうち、二〇〇九年度のものを確認しはじめたのだが、まもなく五時に達して、母親がこちらを呼ぶために階上で床を荒々しく踏んでいるらしき音が伝わってきたので、作業を中断してゴミ箱を持って上階に行った。台所に入ると、やって、と端的に母親は口にし、うとうとしていたところに宅配便が来て、とか何とか文句を言ってみせるのだが、その内容よりも声音に宿ったいかにも忙しげな感じと言うか、余裕の欠如のニュアンスにはなかなかうんざりさせられる。ともかく燃えるゴミを台所のゴミ箱に合流させておき、手を洗うと野菜の汁物のために材料を切りはじめた。人参、牛蒡、大根、玉ねぎ、里芋などを薄く切り分けているうちに、左側の焜炉では、こちらが切った玉ねぎのうちの一部をフライパンに入れ、また豚肉も無造作に投入した母親が炒め物を火に掛けはじめた。それとほぼ同時にこちらも右の焜炉で大鍋に野菜を入れて炒めはじめたのだが、焜炉の前に二人立つ余裕はないから、こちらが一人でフライパンと鍋と両方の材料を搔き混ぜなければならず、ちょっと忙しかった。炒め物の方は砂糖と醤油を加えて完成させ、大鍋の方は持ち手が熱くなるので鍋つかみを左手に嵌めて、それで指を防護して押さえながら野菜を搔き回し、肉も入れてある程度色が変わると水を並々と注いだ。沸騰が始まって灰汁が出てくるまでのあいだは何をするでもなくぼんやりと立ち尽くし、灰汁を取ったあとも台所に置かれたストーブの前に立って足先を温めながら、野菜が煮えるのを待っていたのだが、母親はソファに移って『笑点』を見はじめたし、こちらもただ台所に立って待っているのも退屈なので、一旦下階に帰って一五分ほど経ったらまた戻ってこようとそう決めた。それで火を弱くしておき、ゴミ箱を持って自室に帰り、ふたたびセンター試験の問題を解きはじめたのだが、評論文で普通に二問間違えた。なかなか難しいものだ。読んでいるうちに一五分ほど経って六時が目前となり、階上の母親もソファから立って台所に行った気配が伝わってきたので、こちらも部屋を出て階を上がると、母親がスープに鍋の素を加えたところだった。あご出汁を入れたから、鍋の素を二つ入れると塩っぱすぎると母親は主張し、こちらに小皿とお玉を渡してみせるので、味を確認したところ、甘めだがまあ良いのではないかと思われた。それで完成としてすぐに下階に帰り、ふたたびセンター試験の問題を解きはじめた。小説文は加賀乙彦「雨の庭」から取られたものだが、こちらは言葉の意味の問題一文以外は、無事すべて正解できた。しかしゆっくり細かなところまで見ながら読んだために結構時間は掛かって、この読み方では仮に本番を受けていたら間に合わなかっただろうなと思われた。とは言え、教えるためには生徒当人よりも細密に読んでおかなければならないという事情もある。それで二〇〇九年度分を終えたのは六時半過ぎ、そこからインターネットをちょっと回ったあとに、この日の日記を書き足しはじめて、今しがた七時を越えたところである。
 三〇分ほどさらに読書をしてから食事に行くことにした。そういうわけでふたたび下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』をひらいたのだが、椅子に座ってテーブルに寄りながら視線を落として読んでいると、暖房の温もりのためだろうか睡気が湧いてたびたび目を閉じることになり、気づくといくらも読めないままにもう八時近くになっていた。それで書見を中断して階を上がり、米、炒め物、野菜の汁物、サラダ、色の淡いブロッコリーなどを用意して卓に就く。そうだ、この時は母親は、クリーニングを取りに行っていたようで不在で、無人の居間でテレビだけが誰も見る者のいない映像を流していたのだった。テレビを消して新聞に目を向けながらものを食っていると、母親が帰ってきて食事に入った。こちらは野菜スープをおかわりし、完食すると薬を飲んで皿を洗い、風呂に入る前に茶を飲みたかったので、三杯分用意して下階に戻り、ふたたびロラン・バルトのエッセイを読んだ。書抜きたいような箇所は結構見つかる。九時に至る頃、読み物を中断して風呂に行き、浸かっていると飲み会に行っていた父親が帰ってきて、ああ疲れた、疲れた、とか漏らしながら玄関外の階段を上るのが聞こえた。それでもすぐには上がらず、もうしばらく湯の安楽を味わってから出て、ソファに就いた父親におかえりと挨拶するとさっさと自分の塒に帰った。そうしてふたたび、書見をしたようだ。一〇時一五分まで読んだあと、いい加減三〇日の日記をいくらか書いておかねばなるまいと取りかかって、三〇分くらいで切ってちびちび書いていくつもりが綴っているうちに一時間が経ち、いつか一一時半を過ぎていた。そうして作文はそこまでとして、音楽を聞きはじめた。
 まず最初に、いつも通りBill Evans Trio, "All Of You (take 2)"(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』: D2#3)である。Evansのフレーズの構築性、その整い方はやはり完璧であるとしか言いようがない。ピアノソロの開始から六十四小節目に掛けては、Motianは八小節毎に、リズムをいくらか散らして遊ぶパートと、ハイハットをきちんと二拍四拍に踏んでリズムパターンを固めるパートとを交互に演ずるのだが、後者のパートの後半二回――つまり、四十一から四十八小節目に掛けてと、五十七から六十四小節目に掛けて――においては、Evansもバッキングを切れの良い、固いものにして裏拍に短く差しこみ、それによって演奏を締めるとともに、Motianとのあいだで協同的な進行感を生み出している。LaFaroのベースソロは流麗で、六〇年のBirdlandの音源と比べてその演奏は熟してきているような気がする。聞き返してみなければ確かな印象かどうかわからないが、六〇年のライブの方が全体的に細かな速弾きが多くてアグレッシヴだったように思われるのだ。それは勿論瑕疵ではないものの、この六一年のライブを聞いてみた時に、後者の方がやはりより落着きを持って悠々と弾いているように感じられ、フレーズ構成も熟達している感があり、速弾きもその出番が絞られた分、より効果的になっているのではないか。Motianはピアノソロの後半は、ハイハットをアフタービートに固めた上に時折りスネアを、主に八分の裏拍に差しこんでアクセントをつけるといった地味なプレイに徹しているのだが、それがベースソロに入ると、ピアノが退くことでスペースが空くからだろうか、蠢きはじめて、音量は全体に弱めで繊細ながらシンバルを叩き出すし、スネアの散らし方がリズミカルと言うか、格段に自由度の高いものになる。このあたりのスネアの扱い方に、Motianの持つ自由さの一つの側面が表れているような気がするところだ。総合的なアンサンブルの印象としては、やはり三者の独立性の強さをまざまざと感じるもので、それぞれの内的呼吸が非常に定かに確立されていて、三者とも他者に凭れかかることがなくただ一人で確固と屹立していながらも、しかし同時にそれぞれがそれぞれを支え合うという理想的な協和性が実現されている。
 続いて、"Alice In Wonderland (take 1)"。Paul Motianのプレイがやはりとても興味深いもので、ここでの彼の演奏は、同時代の標準的なジャズドラムの語法とは相当にかけ離れているように思うのだが、実際どうなのだろう。ドラマーの意見を聞きたいところだ。このテイクでのMotianのプレイは、演奏全体の下支えとなるべき確かなビートの持続を整えることをまったく目的としていないかのようで、リズムを固めてぎゅっと密に締めるのではなく、音響を四方八方にただ散乱させることを目指しているようにすら聞こえる。その緩さと言うか、風通しの良さ、すなわち気体めいた拡散性は、このライブアルバム全体を見ても特にこの曲において最高度に達しているのではないか。Motianと比べるとほとんどのドラマーの音使いはあまりに固いと言うか、窮屈にすら感じられるように思われる。拡散的・散乱的でありながらしかしほかの楽器と正面から衝突して邪魔することのない透過性、むしろ他者の演奏を空間的に包みこむことで支えるような浸透性がPaul Motianの特殊さだと考えるものだが、こうしたスタイルや性質を受け継いでいるドラマーは、多分ほとんどいないのではないか。Motianばかりに触れてきたが、このテイクではLaFaroのベースソロも溢れ出るフレーズの泉といった感じで素晴らしいものになっている。先日はEvansを「固体」に、LaFaroを「液体」に、そしてMotianを「気体」になぞらえてこのトリオの音楽形式を整理したわけだが、そうした物質の三様態の交雑に喩えるべき調和形式を最も体現しているのは、この"Alice In Wonderland"の演奏かもしれない。
 "All Of You (take 2)"は三回、"Alice In Wonderland (take 1)"は二回、それぞれ繰り返して聞いたので、メモを取るのに時間を使ったこともあって既に一時近くに達していた。それで最後に、『The 1960 Birdland Sessions』から五曲目、"Come Rain Or Come Shine - Five (Closing Theme)"を流した。三月一九日の録音である。一聴してLaFaroは結構動いており、『Portrait In Jazz』のスタジオ録音に比べると三者の特徴が諸所で如実に感じ取られるものの、"Alice In Wonderland (take 1)"の非常に高度な流動性のあとでは、よほど尋常なピアノトリオに聞こえる。この三人としては標準的な演奏というところだろう。LaFaroのソロは、やはり六一年よりもフレーズが細かくペースが速めなようで、悪く言えばいくらか性急なところがあるように思う。
 その後、一時半前からふたたびロラン・バルトを読み、二時四〇分まで書見を続けたのち、就床した。


・作文
 13:59 - 14:21 = 22分(1日)
 18:41 - 19:02 = 21分(1日)
 22:23 - 23:32 = 1時間9分(30日)
 計: 1時間52分

・読書
 14:26 - 15:09 = 43分
 15:26 - 16:33 = 1時間7分
 16:48 - 17:04 = 16分
 17:40 - 17:54 = 14分
 17:56 - 18:33 = 37分
 19:03 - 19:53 = 50分
 20:29 - 20:56 = 27分
 21:27 - 22:15 = 48分
 25:25 - 26:39 = 1時間14分
 計: 6時間16分

  • 2014/3/8, Sat.
  • 2014/3/9, Sun.
  • fuzkue「読書日記」: 11月4日(月)
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-11-27「隕石のかけらを投げるこの星の重力に負け落ちるのを見る」
  • 「思索」: 「思索と教師(1)」
  • 下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』: 84 - 162
  • センター試験過去問・国語(2009年度)

・睡眠
 1:30 - 12:20 = 10時間50分

・音楽