2019/12/11, Wed.

 人生には目的があるという信念は、人間の骨の髄までしみこんでいて、人間という実体の特質になっている。自由な人間はこの目的にさまざまな名を与え、その本性について考え、論議をする。だが私たちにとって、問題はずっと単純だ。
 今日、ここでは、春まで生きのびることが目的だ。ほかのことは今のところ考えない。この目標の次には、今のところ、目標はない。朝、私たちは点呼広場に列を作り、作業に出発する時刻を果てしなく待つ。風は服の中に侵入してきて、無防備な体全体に恐ろしい寒気を走らせる。あたりは灰色一色で、私たちも灰色に染まっている。まだ暗いこんな朝に、私たちはみな東の空を探って、穏やかな季節の最初のきざしを見つけようとする。そして陽の出が毎日批評の対象になる。今日は昨日より少し早い。今日は昨日より少し暖かい。二カ月以内に、いや一カ月以内に、寒さは敵対行動を止め、敵が一つ減ることだろう。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、88; 「良い一日」)


 朝方からたびたび覚めていて、そのたびに起きてしまおうかと思いながらもふたたび寝入り続けたのだが、一〇時のアラームで起床することに成功した。睡眠時間は六時間二〇分、勝利である。このくらいの睡眠の幅を恒常的に保てると良いのだが。コンピューターを点けてからベッドに戻ってしまったものの、横になるのではなくて上体を立てて胡座で座り、脚の上に布団を掛けるという姿勢で、また眠ることはなかった。Twitterなどを覗いておくと上階へ、母親に挨拶をしてジャージに着替える。寝間着やダウンジャケットを洗ってくれると言う。それで羽織りはなしでジャージ姿のまま台所に入り、大鍋に拵えてあった巻繊汁的なスープを火に掛け、冷蔵庫からは昨晩の鮪のソテーの僅かな余りを取り出してレンジへ、米をよそって卓に運んだ。席に就き、新聞をめくりながら、鮪肉をおかずにして白米を食べる。新聞から台湾総統選関連の記事を読んでいると、母親がブロッコリーと生ハムを出してくれたので、食事の最後に緑色の植物をハムで巻きながら食べた。そうして食器を洗うと洗面所に入り、整髪ウォーターを頭に振りかけて髪を整えていると母親が、ワックスは使わないのと訊いてくる。母親が以前美容室で買った――買わされた――アリミノの整髪料が大して使われないままに余っているのだが、使わないと言うと、それじゃあやっぱり売っちゃうかと母親は言った。寝癖をある程度均すと浴室に入り、浴槽の蓋を取って静止させ、水気が落ちるのを待っていると、磨りガラスの向こうで、樹から鳥が地に降り立ったように、ふっと一瞬、ガラスを斜めに横切る影が見えたが、それはおそらく鳥ではなくて林から散った葉っぱだろう。母親が先ほど、家の外が凄いよと言っていたから、だいぶ落葉が散らかっているらしい。その後も何度か影を目撃しながら風呂を洗い、出てくると自室から急須と湯呑みを持ってくる。母親は卓に就いてスマートフォンでメルカリを見ているようで、ワックスの大きさを測って、これだと七〇〇円掛かっちゃうとか何とか言っている。こちらは下階の自室に帰り、前日の記録を付けてこの日の日記も新規作成しておくと、緑茶を飲みながらの今日の最初の活動は読書である。茶を飲み干すあいだ、ロラン・バルト/松島征・大野多加志訳『声のきめ インタビュー集 1962-1980』の新たな頁を読み進め、湯呑みと急須を空にするとそのまま読書ノートへの引用に移った。BGMとして、Antonio Sanchez『Channels Of Energy』をスピーカーから流しだした。コンピューターを閉ざした上にノートを乗せ、本は左手にひらいて置き、ボールペンで文言を地道に書き写していって一時間弱、一二時一五分に至ったところで切りとしたが、まったく本を読むということは時間が掛かる。けれどもロラン・バルトもまさしくこのように、気に掛かった一節とか気に入った文や語句、それに触発されて浮かんできたアイディアなどをカードに書きつけながら読むということをやっていたらしいので、自分もそれに倣い、時間を惜しまず書き写すことに労力を費やそうと思う。書き写しを切りとすると便所に行って糞と小便を垂れてきて、戻ってこの日の日記をまず綴った。一二時三六分。
 それから一〇日の日記。音楽の感想を綴るとほぼ一時に達したので中断。翌日が休みだし、日記は明日に回そうかと思ったのだ。今日は出来る限り、ロラン・バルトを読み進めたり書き写したりしたかった。しかしその前に運動をすることにして、屈伸をしたり、開脚をしたり、腹筋運動を行ったりした。その後、椅子に就いてふたたび読書ノートに書きこみ。BGMはBill Evans『Some Other Time: The Lost Session From The Black Forest』。確かにこのEddie GomezとJack DeJohnetteとのBill Evans Trioもかなり興味深そうな音楽の形を提示しているように思われる。
 二時まで書き写しをすると食事に行った。台所に入ると、大根の葉入りの麻婆豆腐が拵えてあったので、温めて丼の米に掛ける。卓で食事。味濃いよねと母親は言ったが、そうでもなかった。彼女はまた、眼医者に行こうかなとか何とか言い、三か月以上行ってないから怒られちゃうかなとか漏らしていた。麻婆豆腐丼を平らげると、さらにコンビニの冷凍食品の手羽中をおかずに米を食うことにして、冷蔵庫から品を取り出して電子レンジに突っこんだ。加熱のあいだは席に就いてぼんやりして、ロラン・バルトが言っているところの、すべてが言語活動なのだという命題についてちょっと考えていた。それはつまり、すべてが何らかの意味を持っているということなのだろうか。無意味というものがこの世には存在しないということ――何故なら無意味も一つの意味として即座に回収されるのだから。それはさらに言えば、何かが存在しないという状態、瞬間、時空がこの世にはまったくないということと同義ではないのだろうか。つまり、有との対立によって成り立つ相対的な無ではなく、絶対的な「無」が原理上、この世界には存在しない。というわけで、バルトの提起は存在論などにも関わってくるもので、だからハイデガーなどにも、あるいはパルメニデスなどにも繋がるのではないかと何となく思っているのだが、『存在と時間』など、一体いつになったら読めるのかわからない。
 そんなことを思っているうちに電子レンジが鳴ったので手羽中を取ってきて、米もおかわりして鶏肉とともに貪った。食後は丼を洗って、緑茶を用意し、自室に下って、飲みながらセンター試験の国語の過去問、二〇〇三年度を確認した。まあ大体問題なく解ける。終えると三時頃だったと思われ、上階に行って靴下を履き、戻ると歯磨きをした。合わせて読み物、過去の日記、fuzkue、「わたしたちが塩の柱になるとき」と触れてそれで三時半。それから口を濯いでくるとともに放尿し、着替えに入った。薄水色と紺色の装いである。ベスト姿になるとコンピューター前に立ってメモを取る。
 この日のことはここまでしかメモを取っていない。道中、すべてが言語活動である、すべてが意味を持つということについてまた考え、この世界における「人為」の圧倒的かつ徹底的な充満ぶりに印象を受けたということもあるのだが、詳細な記憶を思い返すのも面倒臭いので、あとの記述は割愛する。授業では(……)くんのスランプぶりがやはりなかなか酷かったのだが、二コマ目、英語ではリラックスしてできたようだった。帰宅後は大方の時間は、ロラン・バルト/松島征・大野多加志訳『声のきめ インタビュー集 1962-1980』を読み進めることに邁進した。


・作文
 12:21 - 12:36 = 15分(11日)
 12:36 - 12:58 = 22分(10日)
 15:36 - 15:50 = 14分(11日)
 計: 51分

・読書
 10:48 - 11:10 = 22分
 11:20 - 12:15 = 55分
 13:19 - 14:03 = 44分
 15:15 - 15:29 = 14分
 15:51 - 16:20 = 29分
 23:31 - 23:58 = 27分
 23:59 - 25:03 = 1時間4分
 25:13 - 25:40 = 27分
 26:01 - 27:00 = 59分
 計: 5時間41分

  • ロラン・バルト/松島征・大野多加志訳『声のきめ インタビュー集 1962-1980』: 260 - 406
  • 2014/3/19, Wed.
  • fuzkue「読書日記(162)」: 「フヅクエラジオ」
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-12-05「暗闇で数えることのできるものだけを頼りに子供でなくなる」

・睡眠
 3:40 - 10:00 = 6時間20分

・音楽

  • Antonio Sanchez『Channels Of Energy』
  • Bill Evans『Some Other Time: The Lost Session From The Black Forest』