2019/12/17, Tue.

 (……)同じような仲間が何千といた中で、私が試練に耐えられた原因は、その究明に何か意味があるのだとしたら、それはロレンツォのおかげだと言っておこう。今日私が生きているのは、本当にロレンツォのおかげなのだ。物質的な援助だけではない。彼が存在することが、つまり気どらず淡々と好意を示してくれた彼の態度が、外にはまだ正しい世界があり、純粋で、完全で、堕落せず、野獣化せず、憎しみと恐怖に無縁な人や物があることを、いつも思い出させてくれたからだ。それは何か、はっきり定義するのは難しいのだが、いつか善を実現できるのではないか、そのためには生き抜かなければ、という遠い予感のようなものだった。
 この本に登場する人物たちは人間ではない。彼らの人間性は、他人から受け、被った害の下に埋もれている。さもなくば彼ら自身が埋めてしまったのだ。意地悪く愚劣なSSから、カポー、政治犯、刑事犯、大名士、小名士をへて、普通の奴隷の囚人[ヘフトリング]に至るまで、ドイツ人が作り出した狂気の位階に属するものはすべて、逆説的だが、同じ内面破壊を受けているという点で一致していた。
 だがロレンツォは人間だった。彼の人間性には汚れがなく、純粋で、この否認の世界の外に留まっていた。ロレンツォのおかげで、私は自分が人間であるのを忘れなかったのだ。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、157; 「夏の出来事」)


 一二時一五分に起床。端的に床に留まりすぎである。俺は寝床にじくじくと蔓延る汚らしい粘菌だ。問題は以前からずっと変わらず、一度床を抜けてもまたすぐに戻って二度寝に入ってしまうという点に尽きる。床に戻ったとしても臥位にならず、上体を起こした姿勢で耐えるところからまずは始めたい。
 上階に行くと両親は不在。寒々しい空気のなかで寝間着からジャージに着替え、トイレに行って長々と尿を放った。それから台所に入り、煮込み素麺が用意されてあったのでそれを火に掛け、熱している合間は洗面所に入って髪をいくらか整えた。そうして鍋つかみを左手に嵌め、大鍋を持ち上げて丼のなかにうどんを流しこみ、加えて昨晩のハムやジャガイモなどのソテーも電子レンジで温め、卓に持って行った。食事をしながら新聞は国際面をひらき、引き続く抗議活動によって香港の経済に打撃が与えられているとの報を読んだ。また、米国が中国の大使館員を国外追放していたという知らせにも触れた。大使館員を装ってスパイ活動をしていた疑いがあるらしい。
 食事を終えるとさっと皿を洗い、風呂場に行って浴槽の栓を抜き、水が流れ出していくあいだは肩を回して首周りを和らげた。浴槽を擦り洗って出てくると、自室から急須と湯呑みを持ってきて緑茶を三杯分ほど用意し、下階に帰るとコンピューターを点けた。今日の日記記事を用意したあと、一時を回った頃合いから、茶を飲みつつセンター試験国語の過去問(二〇〇一年度)を確認しはじめた。この年に取り上げられている評論文は富永茂樹「都市の憂鬱」という文章で、日記について考察したものだったのでちょっと面白かった。西洋においては日記というのは、商人のつける会計簿に一つの起源があるらしい。へえ、と思った。蓄財のための会計簿にせよ、克己を実現するための反省的な日記にせよ、初めのうちは目的があったが、段々と自らの内面を掘り下げることこそが自己目的化していき、それは一面では自己を取り囲む迷宮あるいは牢獄を形成するような行いではあるのだが、他面ではそこにおいて想像力の飛翔という楽しみが与えられもする、と概ねそんなような趣旨だった。三〇分ほどで評論と小説文を確認し、それからこの日の日記を書きはじめて、現在一時四九分。先ほど職場からメールがあって、講師総会とかいうものが行われるので参加したい人は参加するべしと知らされたが、端的に面倒臭いので参加しないつもりである。
 一四日の日記を進める。今日中に終わる気もしなかったが、まあゆっくりやろうというわけで、焦らず一時間弱打鍵を続け、喫茶店に着いてISさんと話しはじめたあたりまで書く。それで三時が近づいたので、まあ一時間書けたので良かろうと中断し、the pillowsとともに運動を行った。屈伸に開脚。腹筋運動は、腹が筋肉痛になっているのでやらない。
 そうして食事へ。卵でも焼こうかと思っていたが、ハムがない。そして、米もないのだ。素麺がたくさん残っていたので、それを煮込めば良いかと決めて、フライパンに水を汲んだ。麺つゆを混ぜて火に掛け、玉ねぎ一つを切って投入、キャベツも少量入れたあと、粉の出汁と椎茸の粉と味の素を振って煮込んだ。丼に卵も溶いておき、野菜を煮ているそのあいだに、食事を取りながら読み物に触れようと思ってコンピューターを持ってきた。そうして麺を入れ、ちょっと搔き混ぜてから卵を注いで蓋をする。ちょっと置く。早く食いたかったので、卵があまり固まらなかったが、丼へ盛る。一杯では全部はよそりきれなかったので、余りを鍋に残しておき、卓へ。食べながら読み物。窓外は雨である。窓の半分まで空が埋めており、白い空漠が地上に降りて、白濁的な粒子が空間に浸透/浸食して景色は霞んでいる/ぼやけている。過去の日記は、二〇一四年三月二四日。この日はやる気がなかったようだ。それでも、本文中でも触れている通り、毎日ちょっとでも書けているのだから、まあ良いだろう。現在も一応、読み書きをする時間は毎日必ず取れているので、これもまあ良いだろう。あとはそれをどれだけ最大化していけるか、ということだ。
 fuzkue。Mさんのブログ。この頃には、素麺のおかわりも食べ終えて茶を飲んでいただろうか? 二日分を読み、さらにSさんのブログを三日分。「ディナーショー」がちょっと変な感じで、なかなか面白かった。「吹奏楽」も、こういうことはあるなと自分の体験が思い起こされるようだった。茶を飲み終えると歯ブラシを取ってきて、歯を磨きながらUさんのブログ。頑張って営みを続けていればいずれは誰かの目に留まるとか、真剣にやっていれば認められる日が来るとか、そういった観念は端的に妄想である、というようなことが書かれてあって、まあ確かになあ、と思う。無数のヘンリー・ダーガー、見出されなかったヘンリー・ダーガー(岸政彦が『断片的なものの社会学』でそういったことを考えていたと思うが、詳細は覚えていない)がこれまでに数多いたのだろうし。こちらも別に誰に認められなくても良いと言うか、それは端的にこちらのどうにかなることではなく、自分はただ生産するだけだと思っているのだが、そういうことをわざわざ考え、Uさんのこの記述に目を留めて書きつけているということは、実際はやはり承認されたがっているのかもしれない。まあ、どちらでも良いのだけれど。それに、一部の人々からは既に認められてもいるはずだ。それにしても、Uさんの「思索」に対する熱量みたいなもの、求道精神みたいなものは、いつもながら衰えていないようで素晴らしい。自分はこんなに真剣ではないな、と思わされる。もっと緩く、甘えながら生きていると思う。
 読み終えるとコンピューターを持って部屋へ行って定常の位置に据え、洗面所で口を濯いだあと、the pillowsを"Thank you, my twilight"から流して、歌いながら着替えである。黒いスーツに、ネクタイは水色の地に水玉のもの。上着まで来て、"その未来は今"と"I know you"を歌う。合間に短歌を考えていたが、固まらず。終えるとメモ書きを始めたが、尿意が高かったのでトイレに行き、排尿するとともに糞も垂れる。緑茶を飲むことを習慣にして以来、便通がやたら良くて、一日に二回出るようになった。部屋に戻ってメモを取ると四時三九分だったので、出勤である。
 上階へ。ハンカチを取ってコートやマフラーをつけていると、母親が帰宅した気配が立つ。玄関の方から留守電を聞く音が聞こえたのだ。それで扉を開けると、買い物袋がいくつも置かれてあり、しかし母親の姿はなかった。片手で袋を持ち上げて、居間の方へと運ぶ。バッグを置けば良かったのだが、何故か片手に持ったまま離さなかったのでもう一方の手しか空いておらず、三往復することになった。それで傘を取って出発しようとしたところ、送っていってあげるから、掃くの手伝って、と哀れみを乞うような声音で母親が言うので、腕時計を見て、五分だけと了承した。しかし、送ってもらうつもりはない。歩いて行きたいのだと主張しておき、竹箒を持って駐車場の方から掃きはじめたものの、地面が濡れていて葉が上手く滑らず/流れず、湿ってて駄目だねと母親も言う。それでも集め、次に、駐車場と道路のあいだの砂利地帯の上に散らばった葉を、道路ではなく敷地の方に飛ばしていった。横移動しながら。それをまた掃き集め、母親が塵取りに収めているあたりで四時五〇分になったので、もう行くと言って出発した。
 傘を持ったが、雨はもう降っていなかった。坂道では葉っぱがやはり濡れており、沈むように路面に付着しているその表面が街灯を弾いて、白く硬質の膜を帯びる。坂を抜けて道を行き、街道前まで来て、二つの目を灯した車の列を見ながら、これだけの人々が日々、動いているわけだ、と独りごちた。大方の人は仕事から帰ってきたところだろうが、毎日、朝からこの時間まで、生活の糧を稼ぐために動き回っているわけだ、と思う。実に大したことだ。街道に出ると車が渋滞しているのは、背後、道の先で工事をしているためらしい。停まっている車たちの横を歩く。直線とも曲線とも波線ともつかないいびつな破線を宙に生み出すライトの連なり。
 北側に渡る。信号、化学的な、かき氷の上のシロップを思わせるような緑色――路面は水溜まりができるほどではまったくないが濡れているので、光が落ちて、パウダーめいて、あるいは発光する苔のように宿っている。
 裏通り、黄昏、深く満ちている――が、今日は何だか、暗いなかに仄かな明るさが含まれているような感じがする。時間的にはむしろ、いつもよりちょっと遅くなったはずなのだが。やはり路面が濡れているために、光が反映するのだろうか。その印象が〈転移〉するのか、空もまだ薄明るいような気配があり、形はなく薄青さが残っているなかに、丘の稜線は霞んで溶けている。
 途中、家の前で車から降りた婦人がおり、買い物帰りらしく、後部座席の方に入りこんで、何かを運び出そうとしているようだった。そこを過ぎると、途端に静けさが、空気に/路地に浸透する/満ちる。すると足音が先まで/奥まで広がっていくようで、その輪郭に余白が僅かに孕まれている風に聞こえ、これもあるいは、空気が湿っているために、音の反響の具合が変わるということがあるものなのか。
 道に白猫が横切った――首元につけた鈴を鳴らして。停まっている車に寄っていったので、そこまで辿り着くと駐車場に踏みこんで近づいていったが、踵を返されてしまった。他人の家の敷地にあまり深く入るのも気が引けたので、残念だが諦めて進んだ。
 瞬間瞬間の差異=固有性、ということを考えながら行く。しかし、瞬間の微分単位とは? 持続を区分けして捉える考え方が、そもそも間違いなのだろうか? 途中の道端、一軒の前に八百屋のトラックが停まっており、Nさんがいたので、後ろ姿にこんにちはと掛けると、相手はゆっくり振り向いて、ああ、どうも、と言った。これから、と訊くのではいと肯定すると、「辛抱いいな」みたいな音の言葉を相手は口にして、へっへっへ、というような感じで笑った。何と言われたのかわからなかったのだが、はい、失礼しますと間を置かずに返して、先に進む。「辛抱いいな」としか聞こえなかったのだが、もしそう言ったのだとしたら我慢強いね、というような意味だろう。しかし、何故そんな評価を下されたのか? わからず、惑いながら行く。
 駅前に出ると、マルクス経済学あたりを勉強しなければならないのではないか、と思った。交換について、と言うか要は貨幣の魔力と言うか、何故貨幣というものがこの世界において通用しているのか、ということを学ぶために。
 職場に到着。準備中は国語の小説の単元と、高三の英語のテキストを読む。そうして授業。一コマ目は、(……)くん(中三・社会)、(……)くん(中三・国語)、(……)くん(高三・英語)。まず、(……)くん、地理、日本の諸地域。正答率は結構低い――知っているところは知っているようだが。工業地帯・地域を五つ確認し、一問一答も確認したあと、これは? これは? と質問して答えさせる。記録ノートは結構充実。
 (……)くん。授業内容自体は特に問題なかったと思うが、何だか今日は元気がないと言うか、不機嫌そうと言うか、ふてくされていると言うか、表情が冴えないような感じだった。勉強にうんざりしているのだろうか。ただ単に、疲れているだけなのだろうか。あるいはこちらのことが実は気に入らないのだろうか――と考えてみたが、少なくとも最後の点に関しては、特に嫌われている、疎まれているような気配は今まで感じたことはない。まあ、内心はわからないが。単純に眠い、ということもあったのかもしれないが、それだけではないような気がした。思い過ごしかも知れないが、その点、気に掛かった。
 (……)くん。彼の気力もだいぶ乏しくなっており、テキストの、Bの方の問題をやるのが苦痛なようだ。冬期講習で毎日授業を入れたのが間違いだったと悔やんでみせる。それなので、あまり突っこんだ確認もできず。やはり相手の気力がないと、あるいは信頼関係がないと、細かなところまで指導する余地が生まれない。彼とのあいだに信頼関係はわりとあると思うのだが、しかし最近はモチベーションの低下がとにかく甚だしく、やはり疲弊していると言うか、意識的/無意識的に追い詰められてきているのだろう。ストレスが多いような印象を受ける。
 二コマ目は(……)くん(中三・社会)に、(……)さん(中三・社会)。何度でも言うが、二人相手だととてもやりやすい。二対一こそベストな形態である。(……)くんはしかし、やはり雑談が多い――気を許してくれているのは良いのだが。地理は嫌いなのだと言う。今まで、学校の先生が面白かった教科は伸びていると言い、先生が「ゴミみたい」だった教科は嫌いになっていると言って、社会や地理はその類なのだと。具体的にどう駄目だったのかと訊くと、同窓会に行くとするじゃないですか、と妙な譬え話が始まった。幼馴染がいて、そいつが自分よりちょっと良い仕事についている、給料も良い、その仕事の話を延々と聞かされるみたいな、と言うので、興味のない自慢話をずっと聞かされているような感じなのだなと理解する。しかし、俺も面白く教えられる自信はないよ、と漏らすと、先生は面白いですよ、先生自体が面白い、と言う。俺は普通の、常識的な人間だ、と言うと、ちょっと答えがずれて、(授業や説明が)わかりやすいと思いますよ、という評価をくれたので、有難いことである。
 お姉さんの話も少々聞く。彼の姉はこちらの同僚講師である。面倒見は良いのかと尋ねると、親に言われると鬱陶しいくらいになるが、親に言われないと、「自分のこともあるから」、さほど構ってこず、部屋に籠っていたりするので、彼としてはその方が良いらしい。しかし、先日、塾にノートを持ってくるのを忘れた日があったのだが、その様子を見られていたのか、それとも講師間の情報共有によって知ったのか、帰りの車内で宿題忘れたでしょ、と言われたと。そういうのは鬱陶しいようだ。
 今日扱った範囲は「日本の諸地域」という単元だが、この日に当たった社会の三人は皆ここの単元で、従って、工業地帯・地域も三度繰り返し説明し、三人ともに覚えさせることになった。(……)くんは図を記録ノートに描いて記してくれた。あとは県の名産についてもメモしたが、長野県がわからなかったくらいなので、地理は確かに嫌いなようだ。一問一答の方からも多少情報を書いてくれたが、雑談が多かったので、進むのは確認テストの表裏のみとなった。
 (……)さんは真面目そうな感じだが、社会の知識は乏しいようだ。工業地帯・地域もよく知らず、三大工業地帯の記憶も危うかったので、記録ノートにはそれを書いてもらった。ほかにも色々と書かせて頭に入れてもらいたかったのだが、綺麗にまとめてくれる代わりに結構スペースを使って、欄が埋まってしまったし、時間も少々足りなかった。授業の最後に工業地帯・地域五つは再確認。正答率はわりあいに高いので、解説を見ながら解くことはできるのだろうが、知識を定着させられるかどうかが問題である。
 九時半に退勤。駅前では今夜も工事を仰々しく執り行っている。それを横目に横断歩道に掛かると、タクシーが停まってくれたので手を挙げて、足を速めた。空は全体に雲が掛かっているようで、茫漠と、のっぺりとしており、彼方の山影は霞んで背景として空間に混ざりこんでおり、闇に覆われていることもあって空と地上の切れ目がわからない。裏路地の終盤、一軒の小庭に立った小さな裸木に、クリスマスに向けてということだろう、申し訳程度の電飾が取りつけられていて、多種の色が替わる替わる点滅していた。
 この日の帰路はあまり周囲を見聞きせず、感覚に引っかかる物事も大してなかったようだ。家の傍へと続く坂を下っていくと、終盤で左方から樹々がなくなって視界がひらけ、靄が湧いて地平を塗り/覆い、山の影がここでも溶けているのが見える。山の形は失われて、山と空とは単なる色味の差、微妙な白黒の差でしかなくなっている。
 帰宅。居間に入ると、暑い、と漏らした。実際、コートにマフラーを着用すると、服の裏側に温みが籠るくらいの気温だった。自室で着替えてきて、食事である。メニューは鍋料理にカキフライ、ハムを混ぜて素麺を用いたサラダ(辛子やマヨネーズで和えたもの)など。食事を準備している最中、母親が、兄がビールか何か送ってきたと言って、それで今日が父親の誕生日であることを思い出した。完全に、完璧に忘れ去っていた。
 食事中のテレビは物真似バトルの番組だが、驚愕するほどに完膚なきまでにつまらず、少しも笑えない質の低さ。夕刊は大学入試改革に関連して、記述式問題の導入を見送ると。母親が風呂に行ったので、こちらは食後、茶を用意して部屋に下る。George Yancy And Peter Singer, "Peter Singer: On Racism, Animal Rights and Human Rights"(https://opinionator.blogs.nytimes.com/2015/05/27/peter-singer-on-speciesism-and-racism/)を読んだ。

・proclivity: (好ましくないことへの)傾向
・poultry: 家禽
・steward: 執事

P.S.: I don’t see any problem in opposing both racism and speciesism, indeed, to me the greater intellectual difficulty lies in trying to reject one form of prejudice and oppression while accepting and even practicing the other. And here we should again mention another of these deeply rooted, widespread forms of prejudice and oppression, sexism. If we think that simply being a member of the species Homo sapiens justifies us in giving more weight to the interests of members of our own species than we give to members of other species, what are we to say to the racists or sexists who make the same claim on behalf of their race or sex?

The more perceptive social critics recognize that these are all aspects of the same phenomenon. The African-American comedian Dick Gregory, who worked with Martin Luther King as a civil rights activist, has written that when he looks at circus animals, he thinks of slavery: “Animals in circuses represent the domination and oppression we have fought against for so long. They wear the same chains and shackles.” (Alice Walker, the African-American author of “The Color Purple,” also has a memorable quote: “The animals of the world exist for their own reasons. They were not made for humans any more than black people were made for white, or women were created for men.”

 
 続いて書抜きを行ったらしい。下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』(みすず書房、二〇〇五年)である。
 「神話が再構成するのは、この現実の自然な[﹅3]イメージである。さらには、ブルジョワイデオロギーブルジョワという名前の欠落によって定義されるのとまったく同様に、神話は事物の歴史的性質の消失によって構成されている。事物は、自らの製造の記憶を神話のなかで喪失するのだ」
 「一種の手品が行われたのである。現実をひっくり返し、その歴史を取り出して中身を空っぽにし、自然を詰め込んだのであり、事物からその人間的な意味を抜き取って、人間的な無意味さを意味させようとしたのだ」
 「もっぱら神話は事物を浄化し、無垢にし、自然と永遠のなかに基礎づける。神話が事物に与える明晰さは、説明の明晰さではなく、確認の明晰さである。わたしがフランス帝国性を確認して[﹅4]、それを説明しなければ、わたしは危うくそれを自然な、自明のもの[﹅5]と見なしているところである」
 「神話はさまざまな人間的行為の複雑さを取り消して、かわりに本質というものが持つ単純さを与えるのだ」
 「だがいったい、神話というのはいつも非政治化された言葉なのだろうか。言い換えれば、現実的なものはいつも政治的なのだろうか。事物について自然な調子で語るだけで、その事物が神話的になるには充分なのだろうか。マルクスとともに、こう答えることができよう、最も自然な対象でさえ、政治的痕跡を、いかに微弱でいかに拡散しているにせよ含んでいるのだ、すなわち、その対象を生産し、整備し、使用し、従わせたり捨てたりした人間の行為の、多少なりとも記憶に残るものを含んでいるのだと」
 そうして入浴へ。短歌を考える。結構前から、「十字路で出逢えたならば銃を抜け」というフレーズを抱えており、それに続く下の句を考案して、色々と案は出るものの整わない。「銃を抜け」を「銃を撃て」にした方が、選択肢が多くなりそうなので変えることにした。風呂に入っている最中、父親が帰ってきた。帰ってこないと聞いていたが、それは多分、食事は取らないという意味だったのだろう。飲み会だったようで、また酔っ払っているのだろう、何とか声を漏らしながら玄関から入ってくるのが、換気扇が消えていたのでその声が聞こえていた。その後、居間で母親と、言い合いと言うほどでないが何かじゃれ合いみたいな言動を交わしている雰囲気が伝わってくる。鬱陶しいものだ。
 風呂を出ると父親に挨拶。兄が送ってきたビールを並べている。写真を撮るらしい。サイダー三人で飲むかと母親が言うので了承。丹波山村のメロンサイダーである。昔っぽい味がすると両親。台所に立って飲み、下階へ下りる。「絶望も希望も溶けて詩が残る夜があまりに長すぎるから」という一首を拵えてTwitterに投稿。その後、茶を用意してきてふたたび書抜きをして、『現代社会の神話』から写したい文はすべて写し終えた。
 「プチ・ブルジョアは〈他者〉を想像する能力のない人間である。もし他者が目の前に現れると、プチ・ブルジョワは目が見えなくなり、他者を無視して否定するか、さもなくば、他者を自分自身に変形してしまう。プチ・ブルジョワの宇宙では、対決の事柄はすべて反射の事柄であり、他者は同一者に還元される。スペクタクルや裁判といった、他者が露呈しかねない場所は、鏡となるのである。それは、他者が本質を傷つけるスキャンダルだからである」
 「ニグロやロシア人をいかにして同化するべきか。救急用の文彩がある。エキゾティシズムだ。〈他者〉はまったくの対象、スペクタクル、人形芝居になる。人類の辺境に追いやられた〈他者〉は、もはやマイホームの安全をおびやかしはしない。これはとりわけプチ・ブル的な文彩である。というのは、ブルジョワのほうは、たとえ〈他者〉を実感できないまでも、少なくとも〈他者〉の居場所は想像できるからである。それが自由主義と呼ばれるものであり、承認されたそれぞれの場所に関する一種の知的倹約である」
 「これらの文彩をあるがままに見ると、ブルジョワ的宇宙の星占いの星座さながらに、二つの大きな区分に集約されるのがよくわかる。すなわち、〈本質〉と〈均衡〉である。ブルジョワイデオロギーはえんえんと、歴史の生産物を本質的タイプへ変換し続ける」
 「ブルジョワ的道徳は、本質的に計量の作業となるであろう。諸々の本質が、天秤にかけられるだろうが、ブルジョワ的人間は、その不動の天秤棒の役割を果たし続けるだろう。それは、神話の目的が世界を不動化することだからである」
 「ブルジョワの偽 - 自然[フュシス]は、人間が自己を作り出すことの全面的な禁止である」
 「永遠化してくれるという口実のもとに、人間がそのなかに閉じ込められている〈自然〉は、一つの〈慣習〉にすぎない(……)。そして、いかに巨大であっても、この〈慣習〉こそ、人間が手に取り、変形するべきものなのだ」
 歯磨きしながらロラン・バルト石川美子訳『零度のエクリチュール』を読んだあと、三〇分ほどと決めて日記のメモを取ったらしいが、これがどうやら零時五〇分頃から記録されている作文の時間のようだ。それを終えたあと、一時半頃から音楽を聞きはじめたらしい。Bill Evans Trio, "My Romance (take 1)"(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』: D1#7)で、いくらかの印象を得たが、眠気が邪魔して上手くまとまらなかったよう。二回目も聞いてみたものの、やはり意識が曖昧にぼやけて定かに聴取できず、音楽はやはり労働の前、昼間のうちに聞かなければ駄目だなと実感した。その後、『零度のエクリチュール』のメモを取って、二時半過ぎに就床。


・作文
 13:34 - 13:49 = 15分(17日)
 13:50 - 14:44 = 54分(14日)
 16:27 - 16:39 = 12分(17日)
 24:47 - 25:24 = 37分(17日)
 計: 1時間58分

・読書
 13:02 - 13:30 = 28分
 15:11 - 16:08 = 57分
 22:38 - 22:54 = 16分
 23:03 - 23:22 = 19分
 24:00 - 24:30 = 30分
 24:35 - 24:45 = 10分
 25:49 - 26:35 = 46分
 計: 3時間26分

・睡眠
 2:40 - 12:15 = 9時間35分

・音楽
 25:24 - 25:43 = 19分