2019/12/18, Wed.

 私たちの飢えが、普通の、食事を一回抜いた時の空腹感と違うように、この私たちの寒さには特別な名前が必要だ。私たちが「飢え」「疲労」「恐れ」「苦痛」と言い、「冬」と言っても、それは別のことだ。こうした言葉は、自分の家で喜びと苦しみを味わいながら生活している、自由な人間によって作り出され使われている、自由な言葉だ。もしラーゲルがもっと長く続いていたら、新たな、耳ざわりな言葉が生まれていたことだろう。一日中、零度以下の寒さにさらされ、風に叩かれる。着ているものといえば、シャツとパンツと綿の上着とズボンだけだ。体には飢えと衰弱が巣くい、終末が近いことを意識しながら重労働に従事する。こうしたことを説明するにはどうしても新しい言葉が必要なのだ。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、159; 「一九四四年十月」)


 九時のアラームで覚醒する。携帯が繰り返しけたたましい叫びを上げるあいだ、すぐには起き上がらず、瞼がひらくのを待ってから布団を折って床を抜け、携帯の作動を止めた。そうして例によってまた寝床に戻ってしまうのだが、この日は臥位に陥ることは防げて、枕とクッションに凭れながら座るに留めた。それでも布団を身体に掛けて、南窓からの薄陽を浴びているとまたうとうととしてしまうのだが、九時半頃に至ると目をひらいて、ベッド横のスピーカーの上に積まれてあるロラン・バルトの著作群のなかから、一番上の『ミシュレ』を取ってひらき、訳者あとがきなどをしばらく瞥見した。それで意識が固まったのでベッドを下り、ダウンジャケットを持って上階へ、母親は料理教室に出ており居間は無人である。寝間着を脱いでジャージに着替え、ジャケットを羽織ると便所で用を足し、それから台所の冷蔵庫からカキフライのパックを取り出して、二粒を皿に乗せて電子レンジへ、米もよそり、温めた鍋料理も盛って卓に食事を並べた。新聞の一面を瞥見しながらものを食う。デジタル・プラットフォームを提供する巨大IT企業に対する法整備がどうとかこうとか。食べ終えると食器を洗い、洗面所で寝癖を直し、さらに風呂も洗って、出てくると下階に下りた。急須と湯呑みを持って上がり、茶を用意するあいだ室内を見ると、炬燵テーブルの上に薄陽が乗って明るんでいるが、外はまったくの晴天とは行かず、雲が結構湧いているようで時折り空気の色が薄らいで、それでもしかし近所の瓦屋根は雨に濡れたような質感の白さを襞の合間に連々と帯びている。茶を持って下階の自室に帰ると、コンピューターを点けてEvernoteの記事を用意し、センター試験国語の過去問を確認しはじめた。二〇〇〇年度である。小説文は堀辰雄の『鼠』という掌篇で、これが幻想風味のあってなかなかしっかりとした作品だった。結構悪くない文章を取り上げるものである。二三分で問題を確認し終えたあとは、今日は先に読み物に触れることにして、過去の日記、fuzkueの「読書日記」、Mさんのブログと読んだあと、さらにSさんのブログも三日分読んだ。「ただ僕の場合牛肉はアメリカやオーストラリア産の安価な肉で充分で、むしろ国産の霜降りよりもそれらを好む。これを塩胡椒だけでフライパンで加熱して、それに大量のルッコラとかベビーリーフなどの野菜を大量につけ合わせる。ほとんど緑色の葉の中に肉が埋まってるような状態にしてそれらを一緒に食べる。ちょうどカツオの刺身に大量の玉ねぎの薄切りがぜったいに欠かせないのと一緒だ。玉ねぎを大体一個分まるまる薄切りにして皿に敷き、切ったカツオを上に乗せ、そして摺った生姜とやはり大量に刻んだネギを乗せる。とにかく大量の野菜が必要なのだ。肉も魚も野菜の付け合わせくらいに思ってる。昔はそうでもなかったのだが、最近はこれ以外の食べ方を考えられない」――凄く美味そう。
 そうして加えて、Uさんのブログの記事も一つ分読むことにして、当該ページにアクセスした。「思索」: 「思索と教師(4)」(http://ukaistory.hatenadiary.com/entry/2019/12/14/034357)。
 「思索は歴史の全てを自らの内に宿さなければならない。詩人は自ら自身が真の詩にならなければならない。(……)その壮大な試みの渦中にあるからこそ、思索の有限性が暴露されるはずである。試みの文脈においては、あくまでもその暴露において、自らの思索を自己解体し、再構築に向かわなければならない」
 「日記を書くために「私」の考えを書いていること自体が、一種の自明の教義性なのである」
 「上記のシェリングの一節における「問う存在」は、私自身では扱いきれない「答え」を受け取る準備をし、分からないままでも「答え」の重みを受け止めながら、思索によって解明に向かう試みを肯定し、惰性や自己満足に陥ることなく粛々と続ける、ということだと私は思う。『学者の使命』においてフィヒテが提案する、学者の従事すべき、感覚や利害よりも高い「聖なる観念」とはまさに、「答え」を受け取るラディカルな準備のことなのではないか」
 「この曖昧な感覚に浸っているとき、起源を暴露する神話を聞くと、ふと肩の荷が降りないだろうか。「なるほど、アダムとイブの仕業なのか」「なるほど、資本主義体制が腐っているからなのか」と。神話は、単なる横関係の因果ではなく、個別の物事がそこにある事実が時間性において、進み行く縦関係の条件と目的を明らかにする。だからこそ、神話を受け取って納得したとしても、その証拠を「あれ」や「これ」に求めることができないが、たしかな神話を得ることによって、私たちの「事実」や「真理」は明確に確定され、自信を持って生きていけるようになる。神話などという前時代的なものには関心がない、という人は、おそらく現代の神話が教義化している。学校を出たら仕事をしなければならない、社会に寄与しなければならない、云々。現実的に仕方ないではないか。まさにそうである。そのどうしようもなさこそが、「原罪」などが言わんとしている思想そのものである」
 そうすると一一時半過ぎ、便所に行って糞を垂れてきてから、この日の日記をここまで綴って一一時五一分。一四日の日記すらまだ全然完成に遠いが、焦りはまったくない。
 まず前日のメモ――一四分間。そして間髪入れず、一四日を進める。一時間のあいだ書き続けたのに、喫茶店での話題をいくつか通過するのみだった。書くということは、何と時間が掛かるものか。母親が帰宅したようだったので、こちらも食事を取ることにして上階へ。弁当を作ってきたと言うので頂くことに。焼豚やきんぴらごぼうだと言う。温め、米をよそり、卓へ就き、ビニールを取って食べはじめる。焼豚、醤油味、茶色く色が染みており、それをおかずに米を食っていると、美味しいでしょ、でもちょっとパサッとしてるねと母親――確かに、柔らかさがない。ほか、海老の卵とじみたいな料理、これには金箔が僅かに付着していた。正月の風だと言う。先生が持ってきてくれたらしい。あと、卵の、吹寄せ、と言うのか? そう言っていたと思うのだが、しかしどんな料理だったかもはや覚えていない(現在は一二月二六日ももう終わろうというところである)。そしてきんぴらごぼう。鍋食べないの、と母親は言う。いいのか、と訊くといいと言うので、立って台所へ行き、鍋料理を火に掛け、沸騰させているあいだは開脚をして待った。最後の一杯である。それをよそって卓へ戻って食事を平らげると、皿を洗って、急須と湯呑みを部屋から持ってきて緑茶を注いだ。炬燵テーブルの上に薄陽が掛かり、範囲は細くなっているものの、陽の色が戻ってきたよう。
 自室へ戻り、茶を飲みながら書見――ロラン・バルト石川美子訳『零度のエクリチュール』。メモも取る。茶を飲み干したあとは歯磨きをしながら引き続き書見。そうして口を濯ぐと、やはりメモ書きをする。それに思いの外時間が掛かった。本当は音楽を聞きたかったのだが、文章を書き写しているだけで時間をかなり消耗するもので、気づけば二時半が過ぎていたので音楽は諦めた。とことんメモ書きに時間を費やすことにして、三時前までペンを動かすと、運動はしておこうと五分間だけ――cero "Elephant Ghost"の流れているあいだだけ――屈伸や開脚を行った。そうして上階へ。靴下を履き、ワイシャツを持ってきて、"Summer Soul"とともに着替え、薄水色のシャツに紺色のスーツ、ネクタイは鼠色である。上着も羽織ると三時一〇分、日記のメモを取っておき、三時一九分に達した。出勤である。この日はいつもより一コマ分早い。
 上階へ行き、トイレに入って膀胱を軽くしてくると、ストールを巻いて出発した。背後、隣家の方で車が停まる音がした。ポストへ行き、夕刊を取ると、一面を眺めながら階段を戻る。すると散歩中の老夫婦が現れたので、こんにちはと挨拶をすると、奥さんの方が、あ、こんにちは~と朗らかに応えてくれた。先ほど停まった車は、隣家の石油を補充しに来た業者のようだった。夕刊の一面を瞥見して玄関内に置いておき、そうして出発。改めて見てみると家の前の落葉が夥しかったが、掃除している時間はない。道へ出て、坂道へ向かう。その入口辺りで、先ほどの老夫婦の婦人の方が、脇にひらいた細い坂道の方を見て、びっしりだよ、と言う。こちらはその後ろから歩きながら、見上げると、陽射しが樹々に掛かっており、葉っぱは濃い飴色を湛えていて、頭上の枝についているものと、足もとの地面に伏しているものとでは、随分と色味が違うなと思われた。坂の入口に掛かって脇の道を見やれば、確かに地面が見えないほどに、びっしりと落葉が積まれ広がっている。
 こちらの通る方の坂道にも無論落葉は多数散らばっている。眼下の、川沿いの銀杏は骨組みのみになって、鋭い姿を晒し、その足もと、周辺も黄色はもはや見られない。そのさらに向こうに流れる川は特有の緑色を湛えており、その特殊さはこちらの語彙にはない。強いて言えば翡翠色か。坂を上っていくと、足もとの落葉の形や大きさが変わる。前方には老夫婦がゆっくりと歩いているので、こちらも鷹揚に行く。
 街道前、正面から風の流れ。やや冷たいが、柔らかな爽やかさも混ざっている。街道に出て北側に渡ると、陽射しが背に点って温かく、それに抜かれたこちらの影が道端の塀や壁に宿り、いかにも気楽で苦労なさ気で暢気な様子で、宿り場が遠のいたり近づいたりするのにつれて斜めに伸び縮みしながらゆっくりと流れていく。車の流れが途切れるとともに、何か音が聞こえ、視線を振れば道脇には、枯れ草で埋まった空き地が広がっており、見れば草のなかに雀が集まっているのだった。思わず立ち止まると、距離がいくらかあるにもかかわらず、こちらの影を察知したようで鳥たちは一斉に飛び立ち、敷地を囲った竹の柵――竹を十字に組み合わせたもの――の上に、ほとんど同時に着地した。
 裏通りに入ると、鳥の声が響き、空気は穏和――すなわち、和やか、あるいはしなやかである。明るい時間の方が、やはり何だかんだ言っても心が伸び伸びすると言うか、何となく軽やかな気分になるような気がする。道中にひらいた水溜まりは端的な鏡で、距離を挟んでいるうちは実に透き通って空や電線を映しこんでいるのだが、近づいていくにつれて段々とその色はくすんでいき、足もとまで来ると最後には土色に濁ってしまい、ほとんど何も映さなくなった。
 昼間はやはり人々の気配が多く、諸所にある。一軒の前では、休みなのだろうか、男性が車を洗っている。自動車整備工のラジオからは、稲垣潤一 "クリスマスキャロルの頃には"が流れ出している。当該の宅の辺りに来るときょろきょろ見回したのだが、猫はいなかった。正面の空には円筒形の、丸みを帯びた雲が横にいくつか伸びて、全然美しいイメージでないがミミズが何匹か並んだように見え、道を進んでもう少しその姿形が露わになると、円筒はそれぞれ接しているので、これも使い古したイメージだが畑の畝のよう――青空のなかに薄灰色でこびりついている。
 広い空き地の横まで来ると、敷地を挟んだ向こう側に樹が立っており、微かな薄紅が見えるところからするともう花が咲いているらしいのだが、あれは梅なのだろうか。梅とはこれほど早く咲くものなのか、そういう品種があるのだろうか、毎年のように疑問に思っているのだが、その疑問が解決されたことはない。薄紅色の連なりは、棚引く雲のように浮遊感を帯びて横に広がっている――これももはやありふれた、何度も使って褪せてしまった比喩だが。
 一軒の庭木に楓があって、涼し気な樺色、あるいは鉛丹のような色でもって籠のように空間を囲んでおり、ほとんど人工物めいたその質感の、夢幻的と言うか、異空間への誘いじみていると言うか、その下に/なかに入って包まれるとあるいは異界に入ったような景色になるかもしれないな、と思った。
 市民センター裏辺りから、女性が一人、前方に現れた。意味もなく見つめる。そうしていると、人間もほとんど色と形態の存在としてのみ映り、実質があるとは感じられなくなるようだ。勿論自我を持って自動的に、自律的に動いているわけなのだが、生命的なニュアンスが薄れるようで、と言うよりはそもそも、〈生命〉というものの存在をまざまざと実感することが、我々には意外とないのではないか――あまりに自明の前提なので。かと言って、ロボットのように機械的ということでもなく、動物的なわけでもないが、ただ、色と形と動きに過ぎない。すなわち、この時女性はいくつかの色の平面と化しており、それを詳細に区分けするならば、空の青さに近いけれどもっと落着いて地味な色合いの青い服に、ドット模様の入った黒いスカート(襞があるのでその動き方は一種予測し難い複雑さを帯びる)に、露出した脚の肌の色の三種――本当は髪の色もあったはずだが、それはあまり見なかった。こちらの目に映った彼女は、それら三色の平面の組み合わされた揺動に過ぎなかった。
 駅前に入ると、ロータリーの向こう側で掃き掃除をしているおばさんがいる。なるほど、ああいう人たちが綺麗にしてくれているわけだ、と見た。シルバー人材センターの仕事か何かだろうか。
 職場に着く。一コマ目は小学六年性二人だが、手は抜かず、抜かりなく準備し、教えやすいように今日扱う部分を確認しておいた。相手は、(……)くん(小六・算数)に、(……)くん(小六・国算)である。(……)くんは扇形などの図形の周りの長さを求める問題など。計算の仕方自体は理解しているのだが、足すべき辺を足していないという見落としが多かった。彼には確か、何とかメモリー、みたいな記憶障害あるいは学習障害がある、と室長が以前に言っていた覚えがあるが、それと関係があるのだろうか? 別にそんなことはないのか?
 (……)くん。兄弟のデータを見ると、(……)という名前があって、覚えがある。休職以前の生徒にいたはずだが、顔が出てこない。しかし、思っている子で合っているのだとしたら、確か神経症みたいな感じになって来なくなってしまった生徒ではなかったか? 弟の方はわりあいに快活そうと言うか、朗らかで邪気のないような感じだが、しかしやはり神経質な性分ではあるのだろうか、文字の書き方だったり表の作り方だったりに、丁寧と言うのともちょっと違ったような神経質なこだわりみたいなものが垣間見える気がした。それで時間も掛かり、あまり進められず。算数はグラフの種類について確認したほか、平均を求める問いや、データから表を作る問題など。国語は文章題。文中の語句をちょっと変えて記述を作る問題を一緒にやった。
 二コマ目は(……)くん(高三・国語)、(……)くん(中三・英語)、(……)くん(中一・英語)。(……)くんはセンター試験二〇〇一年度の小説。津島佑子の文章だった。わりあい解けており、国語のスランプは多分脱したのではないか。余った時間は日本史をやってもらった。もう覚えてないよと言いながらも、自作農と小作農の違いなどについて、いくつか事柄を説明した。
 (……)くんは昨日よりは表情がましになっていたような気がするが、それでも眠くて疲れているような感じ。機嫌が悪いのか、疲弊しているのか、勉強にうんざりしているのか、そんなような意味素を感じないでもないのだが、実のところがわからない。それでも気遣っておくに越したことはなかろうと、体調がもし優れなかったら無理せずに休んでくださいとのコメントを書いておいた。あとは宿題も少なめにして、ちょっと甘いかもしれないが、実際、毎日二コマ勉強するというのは生徒の方も大変である。こちらだって毎日二コマ働くのは嫌だ。こちらはまだしも義務的な活動から逃れているから良いが、生徒は学校のあとにそれなのだ。
 (……)くん――彼のやる気の無さも相変わらずで、嫌だ嫌だと言っているが、しかし意外とやってはくれる。ただ今日はちょっと騒ぎ気味だったと言うか、周りの生徒がうるさく思っていたのではないかという気もする。独り言を言いながら解いたり、ばたばた動いたりするのだ。今日扱ったのはL8のまとめ問題、進行形の単元である。
 授業後、片づけをしていると室長が、明日は、と訊いてくるので、二コマだったかと答えたところ、三コマであるかのような反応があり、また変更されたのかと思ったが、これは冗談だったようだ。実際は一コマ――それを聞いた時は思わず、素晴らしい、と力強く口にしてしまった。金曜日の方は二コマである。そろそろ医者にも行かなければならないのだが、その暇が全然ない。金曜日の午後、労働前に辛うじて行けるだろうか、と言うか行くしかないのだが、しかし日記を進めなければ負債が嵩むばかりだ。
 授業後、ちょっとだけ(……)さんと話した。彼女は今日始めて、二人を相手にしたのだ。疲れた、と訊くと、そうでもなかった、思ったよりも回せた、と言うが、でも三人は無理、と。二人が一番やりやすいっていうのがわかったと言う。タブレットを片づけに行ったりして中断を挟んでから、授業の最後が忙しくなかったかと訊くと、肯定が返った。そこが反省ポイントだと言うので、そのように考えていることに対して、偉いねと笑いを返しておいた。
 授業中だったか準備中だったか、(……)先生が英語のチェックテストについて質問してきたのだが、彼がきちんと働けているか、漏れなく仕事できているのかという点もちょっと気になるところではある。
 退勤。駅舎の前を通り、コンビニへ。ボールペンが切れてしまったので買うことにしたのだ。入店して見てみると、多色のもあるが、それらは七ミリだったので、五ミリの黒色の「JET STREAM」を選んだ。いずれにせよ、安物である。ついでにポテトチップスやカップヌードルや冷凍の食品も籠に入れてレジへ。Wという男性の店員、四〇代くらいか? 愛想は良く、動作もこなれており、お箸使いますか、という質問の声音も穏やかで嫌味がなかった。人間味の滲む慇懃さである。礼を言って退店。
 夜道、ストールを巻いていると温みが籠って結構暑いくらいで、首筋には汗が僅かに仄めく。ビニール袋とバッグを右手に合わせて提げながら行く。途中で足を緩めて辺りに視線を走らせ、白猫を探したが、見つからない。行きにも見た水溜まりは闇を吸いこんだように暗く濁っている。夜道に人の気配は希薄で、周囲の家々からも物音や声は漏れてこず、聞こえるのは室外機などの駆動音や、表の通りから漂ってくる車の走行音、それに空を泳ぐ飛行機のくぐもった響きのみである。進むにつれて冷えてきた。しかし服の内側には温もりが溜まってもいるので、籠った温みと寒さが共存し、冷気がスーツのジャケットを透けてきて、肌の湿り気が冷たくなる。
 昨日も見た一軒で、また電飾を見やった。いくつか場所を区切りながら替わる替わる点滅しているが、何か意味を持った図形は成していないようだ。表通りへ折れると空がひらき、東、左方は明るいが、西は暗く/黒く沈んでおり、何の見える対象もないのに対して、東の方にもう一度目をやれば、白っぽい雲の色が露わで、その襞も見えるほどだった。
 帰宅、父親の車もある。入るとしかし姿はなく、居間にいるのは母親だけである。買ってきたものを戸棚や冷蔵庫に入れる。父親、下階にいる気配がして、階段を下りていくところに衣装部屋から出てきたので、ただいまと挨拶をした。自室に戻って着替え、コンピューターを点けておき、食事へ。メニューは米。ほか、鯖のソテーと言うか、煮付けと言うか、その中間みたいな感じの料理と、菜っ葉とシーチキンの炒め物に、サニーレタスや若布や卵のサラダに、もう一種、素麺のサラダ。鯖の上に葱をこれでもかというほどに下ろしてレンジへ突っこみ、あと、野菜の雑多に入ったスープをよそった。
 夕刊を見つつ食事。ドナルド・トランプが弾劾訴追に対して反論し、ペロシ議員にだったか忘れたが、民主党のクーデターだ、みたいな書簡を送ったらしい。食後、皿を洗う。母親の分や、流しに放置されてあったものもまとめて洗うのだが、そのあいだ母親は、不毛な愚痴を連ねている。葉っぱを掃くのが嫌だとか、隣のところもやらないわけには行かないとか――そんなことはないと思うのだが――家にいるのが嫌だとか、買い物が大変だとか、いつもながらの、お定まりのものである。こちらは食器を洗い、風呂を先に譲って下階に下り、急須と湯呑みを持って上がって緑茶を用意した。
 室に帰ると、ポテトチップス食いながら英語読む。二〇分のみ。Gary Gutting And Elizabeth Anderson, "What’s Wrong With Inequality?"(https://opinionator.blogs.nytimes.com/2015/04/23/inequalities-we-can-live-with/)である。

・favoritism: 偏愛、えこひいき
・negligence: 怠慢
・ramp: 傾斜路、スロープ
・menial: 単調な
・demean: 貶める、面目を潰す

G.G.: Granting that equality is important, it would seem that freedom is at least as important. But aren’t the two in tension, since maintaining equality requires taking from those who have more and giving to those who have less? What do you say to those who think this way?

E.A.: Of course, taxes on income and wealth limit the freedom of those who would otherwise acquire huge shares. Still, that is only one side of the coin. The objection is like opposing stoplights on the grounds that they limit the freedom of movement of people in cars at red lights. Sure, but what about the people on the cross-streets, who can move more freely because cars have to stop? If we’re worried about how limiting wealth will affect freedom, we have to take account of how the freedom of people generally, across all social positions, will be affected by the limitations. More egalitarian distributions of wealth spread opportunity and hence freedom more widely and fully than systems in which wealth is concentrated in a tiny self-perpetuating class.

 それから久しぶりに、手帳に記してある情報を記憶ノートに写した。この作業も全然できていないし、記憶すべき事柄に触れて復習することもできていないわけだが、毎日二〇分ほどで良いので時間を取れないものか。一〇時を過ぎた。BGMはMr. Big『What If...』を流していた。風呂が空いたような気配がしたので、急須と湯呑みを持って上がったが、気のせいだった。上がってきたついでに便所で排便。それで戻り、何をやろうか迷ったあと、もうすぐ風呂が空くだろうと思って、ロラン・バルト石川美子訳『零度のエクリチュール』のメモを始めたのだが、一〇分で読んでいる箇所まで追いついた。しかしまだ、風呂は空かない。(……)。それでも空かないので、今日のことをメモに取りはじめた。そうして一一時を回ってようやく母親が出たので、入浴に行った。
 浸かり、身体を低くして瞑目。脳内に去来する思考を観察しようとしたのだが、じきに意識がほどけていく。何かの拍子に浮上。しかしまた曖昧に、とそれを繰り返して観察できない。三〇分ほど浸かったか。湯から出て、久しぶりに束子健康法を実践した。束子で身体を擦り洗うだけのことで、肌を刺激すると副腎皮質ホルモンとかいうものが分泌されて、自律神経が整うとかいう話なのだが、久しぶりなので肌も慣れておらず、かなり刺激的だった。気持ち良いには気持ち良い。また習慣にしてみようかと思う。
 風呂を出ると緑茶を持って下り、またこの日のことをメモしていると、三〇分掛かって零時半を回った。その後のことはメモ書きされていないので覚えていないのだが、どうも一四日の記事を進め、それから床に就くまで『零度のエクリチュール』を読み進めたようだ。


・作文
 11:35 - 11:51 = 16分(18日)
 11:51 - 12:05 = 14分(17日)
 12:06 - 13:14 = 1時間8分(14日)
 15:11 - 15:19 = 8分(18日)
 22:39 - 23:06 = 27分(18日)
 24:01 - 24:36 = 35分(18日)
 24:37 - 25:15 = 38分(14日)
 計: 2時間26分

・読書
 10:21 - 10:44 = 23分
 10:50 - 11:32 = 42分
 13:41 - 14:54 = 1時間13分
 21:20 - 21:40 = 20分
 21:43 - 22:08 = 25分
 22:10 - 22:20 = 10分
 25:19 - 25:33 = 14分
 25:55 - 27:10 = 1時間15分
 計: 4時間42分

・睡眠
 2:40 - 9:30 = 6時間50分

・音楽
 なし。