2019/12/27, Fri.

 特にドイツでは、十九世紀を通じて、狂信的な理論をかたくなに主張する哲学者や政治家が絶え間なく現われた。つまり、ドイツ国民は、あまりにも長きにわたって分断と辱めを受けてきたが、実際には、ヨーロッパはおろか世界中の最高位の人々を生み出してきた貯蔵庫であり、古来の高貴な伝統と文化の後継者であり、種族も血統も均一な個人で構成されている国民である。だからドイツ国民は、ヨーロッパの指導者たるべき、神聖な権威を備えた、強力な軍事国家を作らねばならない、という主張である。
 このドイツ国民の使命という考えは、第一次世界大戦の敗北で消えるどころか、ヴェルサイユ平和条約の屈辱によって、さらに力を得ることになった。そしてこれを自らの手中に収めたのが、歴史上最も害毒を流した不吉な人物である、政治扇動家のアドルフ・ヒットラーだった。ドイツの中産階級や産業家は彼の炎のような演説に耳を傾けた。ヒットラーには見込みがある、労働者階級が、敗戦と経済的破滅をもたらした自分たち指導階級に抱いている憎悪を、ユダヤ人にそらすことができるかもしれない、と彼らは考えた。事実、ヒットラーは一九三三年を出発点にして数年後には、屈辱を味わわされた国民の怒りと、彼の先駆者であったルーテル、フィヒテヘーゲル、ワグナー、ゴビノー、チェンバレンニーチェといった予言者にすでにたきつけられていた国民的誇りから、利益を引き出すことができた。彼が取りつかれていたのは、支配者としてのドイツを作る、それも遠い未来のことではなく今すぐに、しかも文明の布教によるのではなく武力によって作る、という強迫観念だった。彼には非ドイツ的なものはすべて、劣等で、唾棄すべきもの、と見えた。そしてドイツの第一の敵はユダヤ人だった。ヒットラーは多くの理由を、独断的に、激しい調子で述べたてた。ユダヤ人は「異なった血」を持っているから。イギリスやロシアやアメリカのユダヤ人と親戚関係にあるから。盲従する前に、理性的に考え話しあう文化の後継者であるから。偶像崇拝を禁じているから。一方、ヒットラー自身は偶像のようにあがめられるのを渇望しており、時あるごとに「われわれは知性や意識に信を置いてはならない、本能にこそ全幅の信頼を寄せるべきなのだ」と公言してはばからなかった。そして、ドイツには、経済、金融、芸術、科学、文学の分野で枢要な位置を占めていたユダヤ人が多かったことも、ヒットラーの憎しみの理由になった。画家のなりそこないで、建築家にもなれなかったヒットラーは、敗残者の怒りと恨みをユダヤ人に注いだのだ。
 この不寛容の種は、よく耕された土地に落ちて、信じられないほどの勢いで育った。だが、その形態は新しいものだった。ヒットラーの託宣が、ドイツ国民の間に呼びさましたナチ流の反ユダヤ主義は、過去のさまざまな例に比べても、はるかに野蛮なものだった。それは、弱い種族は強い種族に従属すべき、という人為的にゆがめられた生物学理論と、何世紀も前に良識によって葬り去られた迷信と、休みない宣伝が合わさってできたものだった。それは今までに聞いたことのないような極論を生み出した。たとえばこんな具合だ。ユダヤ教キリスト教の洗礼を受ければ捨てられるような宗教ではないし、代わりを得れば放棄できるような文化的伝統でもない。ユダヤ人は地上の全種族に比べても劣等で異質な、人間の亜種である。ユダヤ人は外見は人間だが、実際は何か違った、おぞましい、いわく言い難い存在で、「人間と猿の距離よりも、ユダヤ人とドイツ人の距離のほうが大きい」。ユダヤ人は罪という罪をすべて犯している。アメリカの貪欲な資本主義、ソ連のボルシェヴィズム、一九一八年のドイツの敗北、一九二三年のインフレ、これらはみなユダヤ人のせいだ。自由主義、民主主義、社会主義共産主義ユダヤ人の悪魔の知恵が作り出したもので、ナチ国家の一枚岩的団結を脅かしている。
 理論の布教から実際行動に至る過程は短く、しかも野蛮な形で行われた。ヒットラーが権力を握ってからわずか二カ月後の一九三三年には、ダッハウに、最初のラーゲルが作られた。同年の五月には、ユダヤ人作家やナチの敵の著作が初めて焚書に処せられた(百年も前に、ドイツ系ユダヤ人の詩人ハイネが、こう書いていたことを思い出してもらいたい。「本を焼くものは、遅かれ早かれ、人を焼くことになる」)。一九三五年には、反ユダヤ主義の膨大かつ細密な成文化がなされた。ニュールンベルク法である。一九三八年には、上部から指導された一夜の暴動により、百九十一のシナゴーグが焼かれ、何千というユダヤ人の店が破壊された。一九三九年には、ドイツ軍占領直後のポーランドで、ユダヤ人がゲットーに押し込められた。一九四〇年にはアウシュヴィッツのラーゲルが作られた。一九四一年から四二年にかけて、この虐殺機械は全開運転をし、一九四四年にはその犠牲者の数が数百万人に達した。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、250~252; 「若い読者に答える」)


 九時のアラームで起床。それ以前にも寝床のなかで覚めて、その時心臓がやたらと痛かった覚えがある。何時頃だったのかは不明だが、多分早朝、まだ明けていない頃だろうか。右を向いたり左を向いたり、寝返りを打って心臓があまり痛くならない姿勢を探し、無事ふたたび寝つけたようだ。九時に起きた際には意識は軽かったのだが、例によって布団の下に戻ってしまう。それで目も閉じてしまったが、同時にここで眠ってしまっては駄目だという意識も働いて、瞼が降りる力に抵抗し、身体も起こしてしばらく窓外の方を眺めながら意識が整うのを待った。陽射しがガラス窓を通して身や瞳に触れてくる晴れの日で、辺りの樹々は葉のそこここに露を溜めたように艶めいていた。
 何とか眠りに落ちることは防いで、ちょっと経ってからベッドを抜けて上階に行った。ジャージに着替えてダウンジャケットを羽織る。母親は既に仕事に出ている。台所には何があったのだったか――まず、新しく買ったピカピカの小鍋に作られたスープがあった。あとは、フライパンには昨晩の里芋とひき肉をトマトソースで和えた料理が卵に包まれた形態になっていた。ほか、大根の煮物など。スチームケースに温野菜も拵えられてあったが、これはあとで食べることにして冷蔵庫に仕舞った。温めるものは温めて卓へ。新聞一面から秋元司議員の件を読みつつ食事。食後、皿を洗い、寝癖を直し、風呂も洗う(合間に肩を回しつつ)。そうして緑茶を用意して下階へ。
 今日は早速、日記を書きはじめた。一九日の分である。四四分で完成。投稿。投稿の合間にthe pillows『Rock stock & too smoking the pillows』を流しはじめた。Twitterもフォローを減らしていく。あと、noteのフォローもゼロにしようと考えているので、ぽちぽちと解除していく。それから、一〇時四四分に至って今度は二〇日の日記。これに一時間二〇分が掛かる。BGMとして、James Farm『City Folk』を流していた。それも投稿。投稿したあとはやはりTwitterでフォロー解除を行ったりしていたが、どうも眠気が湧いて頭が重くなる。あるいは風邪薬を服用したせいだろうか? 単純に眠りが足りないだけかもしれないが。風邪らしき症状は、昨日よりはまあましかなという感じで、鼻水やくしゃみは出なくなったものの、鼻が奥で詰まっているような感じはちょっとないでもなく、身体も諸所こごっている感じがある(「感じ」という言葉を書きすぎではないか?)。眠くて仕方がなかったので、机に突っ伏して少々仮眠と言うか、休憩を取った。あまり効果があったようには思えないが。それで、一時頃から石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』の文言を読書ノートに写しはじめた。二時になったら洗濯物を入れ、食事を取ろうと考えていた。メモ書きをしているあいだも眠気がやはり纏わりついてきて、目のひらき方が曖昧に、中途半端になる。それでも四〇分進めて、一時四〇分に至るとこの日の日記をここまで綴った。今日は既に溜まっている日記を二日分仕上げたからノルマは達成したとして(一日に二日分仕上げることができれば、いずれはエクリチュールが生に追いつくことになる)、前日のことを記録して(あるいは記述して)おかなければならない。
 食事、米、温野菜をおかずに。生の玉ねぎの辛味。高橋行徳『開いた形式としてのカフカ文学』を読みつつ食べたあと、さらに卵を焼くことに。ハムがなかったが、冷凍庫に豚肉がいくらか保存されてあったので、凍った塊のまま二つをフライパンに放りこんだ。そうして融けるように蓋をしておく。そのあいだに戸棚から「紺のきつねそば」を取り出して用意。また、食器乾燥機のなかの皿たちも戸棚の方に片づけておき、待っていると、豚肉はじきに色を変えて分離しはじめた。そこで卵二つを割り落とし、ちょっと熱してから黄身を崩して蓋をする。そうしてまたしばらく加熱して開けると黄身が柔らかく固まっていたので、皿へ取り出して卓へ。食す。
 食後、部屋に帰ったあとは二時五二分から石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』のメモを取っている。その後、三時半過ぎからは前日のことをメモ。四時一五分まで掛けて最後まで辿り着く。服を着替える。そうして高橋行徳『開いた形式としてのカフカ文学』を読みながら歯磨き。終えて四時四〇分前、出発へ。上階に行き、カーテンを閉めていると母親が帰宅した。
 出発。四時四〇分だとわりと明るくて、日が長くなってきたようだ。東の地平の果てに紫色が幽かに漂って見える。坂道に入ると、右方から川音が昇ってきて、それを聞きながら歩いていると、今度は左方の斜面の林、その上の方から葉擦れが生まれて降った。坂を抜けると前方の辻に人影が見える。TRさんだろうか。人影はこちらの姿を察知したのかどうか、脇の坂の方に隠れて見えなくなった。辻まで来るとしかし、横からまあ、しばらく、と声を掛けてくる相手があった。それはTRさんではなくて、名前も知らない老婦人なのだが、八百屋の客としてトラックの周りに集っているところに行き逢ったことが何度もあるので、互いに顔くらいは知っている。今日は寒いですね、風があるから、とか言うので、そうですね、今日は風が強いですね、とほとんど鸚鵡返しに受ける。それから、でも、だんだん、と口にしかけると、しかし言い切らないうちに発言を被せられる――何と言われたのかは忘れてしまったが。こちらは、でも、だんだん明るくなってきましたね、と言いたかったのだ。相槌を打ち、でも、だんだん、とふたたび口にしたものの、また被せられて主導権を取られてしまった。風邪引かないように、と気を遣ってくれるので、礼を言って別れ、道を行きながら、リズムが組み合わなかったな、と苦笑した。もう少し世間話をしても良かったかもしれない。
 街道、振り向くと西空の際には残光が漏れて白く磨かれて/洗われている。歩きながらそれに応じた比喩を考え、切断された果実の断面のように、という表現を思いついた。それに、「みずみずしく」と付け足すべきか? いや、おそらくそうではない。「果実」と「みずみずしさ」の組み合わせは典型的で、夕暮れと「果実」の結合のあいだに「みずみずしさ」の意味素を挟むと、語の連結がいくらか〈固まって〉しまい、比喩の飛躍が〈整地〉されて、味わいが無くなってしまうからだ。従ってここでは、「切断された果実の断面のように磨かれている」という表現に留めるべきだろう。
 それからロラン・バルトについて思念。彼の比喩は彩り豊か/カラフルで、かつ鮮烈で、彼特有のものである。彼の著作においては、「理論的」とされる文章のなかにも(ここで念頭に置いているのは『零度のエクリチュール』や『現代社会の神話』の後半に収められていた「今日における神話」だが)、常に独特の比喩が顔を出す。それはあたかも、〈身体=生理〉のように、自ずから感性の発露を示さずにはいられないかのようだ。彼の記述は〈固まって〉おらず、きつく詰まっていない。緩い、と言うとちょっと違う感じがするが。「隙間がある」「飛躍的」「風通しが良い」――どう言ってもその特質を言い得ることができないし、この往路では相応しい表現を思いつくことができなかったし、今もできないが、つまりは厳密性の窮屈さに凝り固まっておらず、ほとんどその対極のような感じがするということだ。彼は「学問的」厳密性の言述――〈言述空間〉――に同化できない、おそらく〈身体=生理〉故に。彼の文章には、襞が、表面の模様=装飾が、あるいは音調=味わいがある。
 裏通りを進む。青梅坂を過ぎたあと、道端の常緑広葉樹から葉鳴りが立ち、葉叢が蠢く。市民センター裏では、駐車場の空き/満員を示す表示板の、「空」の文字が放つ緑色の蛍光的な光が建物に投げかけられて染まっていた。
 職場。国語のテキストにセンター試験英語の過去問(二〇一五年度)を確認して準備時間を潰した。授業――最初は中三の社会三人。(……)くん、(……)さん、(……)さんである。三人とも社会なんですよ、と授業冒頭に口にして、いや、結構大変ですよ、と漏らして笑った。全体的にわりあい良い感じだったと思う。(……)くんは基本的な知識は概ねついているようで、質問しても大概答えられ、解くスピードも早くて、今日は確認テストに加えて確認問題三頁も終えることができた。より発展的な事項を伝えていくべきだろう。(……)さんは相変わらずのスピードだが、彼女はそれで良い。丁寧に、合わせてやって行こう。今日は大化の改新あたりから室町までの時代区分を年表風にノートにまとめてくれた。それに加えて、承久の乱応仁の乱などについてもメモをしてくれた。(……)さんもわりあいに熱心に聞いてくれる。知識は全然ないのだが、学ぶ意欲は結構あるようだ。広島や長崎に原爆が落ちた日付や、終戦の日も覚えていなかったので、まあやっぱり一応知っておいた方が良いんじゃないですかと言って伝える。そういうわけだから、「戦後」という言葉の意味も当然わかっていない。今後、そのような子供や若者がどんどん増えていくわけだろう。「戦後民主主義」がどうこうと議論をする以前に、そもそも「戦後」という言葉の起点となるべき戦争がどの戦争なのか、それがいつ終わったのかを知らない子供たちが増えてくる。「戦後」という言葉の根拠が消滅し、言わば「戦後」が死ぬ。その時こそ、真に「戦後」が終わった、ということになるのだろうか。ほか、ファシズムについてもやはり個人的に知っておいてほしかったので、取り上げて解説。アウシュヴィッツだってホロコーストだって、今の中学生は知らない。いや、自分の頃だって似たようなものだったのかもしれないが。そもそもこちらだって、「ホロコースト」とか「アウシュヴィッツ」という語句をいつ知ったのか、思い出せない。中学の時には多分知らなかったのではないか。いずれにせよ、風化は確実に進んでいると思われる。「煙突から空に還った人々を二十二世紀の君は知らない」。
 二コマ目は(……)くん(高三・英語)、(……)くん(中一・国語)、(……)さん(中三・国語)。(……)くん、モチベーション低し。というのも、この日、学校に行ってセンター試験対策でリスニングを、何と九時間だかそのくらい、朝からずっと解いたと言うのだが、塾に来て室長に尋ねると、リスニングはやらなくて良いと言われたと。それで虚しくなったと言うか、気持ちが落ちこんだようだった。従って、センター試験の過去問を真面目に解く気もあまりなくなってしまったようで、投げやりな様子だった。室長としては多分、私大の一般入試対策の方に注力した方が良いという方針でいるのだと思うが、(……)くんはセンター利用もするようだから、センター試験の方の対策も当然やっておかなければならない。それは今まで塾でわりと、特に国語などはやって来てはいるのだが。しかし、塾もこの翌日、二八日で年内は終了で年末年始の休みにはいるわけだけれど、今の時期に一体何をすれば良いのかわからないと言って、彼は立ち迷っている様子だった。こちらはセンター試験を受けなかった身なので、あまりアドバイスもできない。と言うか、君が今そういう風に迷っている、複数の試験形式のあいだでどちらの方を優先すれば良いのかわからない、自分はまさにそうなるのが嫌だから、センター試験を受けなかったし、私大の一般入試二回だけで済ませたんだよ、と述べた。と言いながら、これは半分くらい方便と言うか、多分当時はそんなことはあまり考えておらず、と言うかもっと一般的な性向の問題として、単純に何度も試験を受けるのが面倒臭かっただけだと思うが。こちらが大学受験の時に受けたのは中央大学文学部と早稲田大学文学部の二つのみで、両方受かり、早稲田に進学した。(……)くんはこの日、そのこちらの出身大学も知りたがった。別にこちら個人は言ったって良いのだけれど、過去の室長の時には塾自体の方針としてあまり個人的な情報を生徒に漏らすなとされていたので、今の室長である(……)さんがどう思っているかは知らないものの、とりあえず濁していたところ、結構上の方でしょ、早慶、と訊かれたので、にやにやした。多分、察しはついたのではないか。しかし彼を見ていると、やはり受験勉強というものは実につまらないと言うかくだらないと言うか、要はそれは、当たり前だけれど大学に受かるための勉強でしかないのであって、当然ながら如何にして受かるかという問題が最優先となってしまうわけで、勉学というものの本義ではないなと改めて思った。くだらない制度だ。そのくだらない制度に寄生しながら金を貰い、命脈を保ち長らえている塾講師というのはさらにくだらない仕事だ。何と言うか、試験をするならばもっと制限時間を増やした上で、それこそ導入は見送りとなったが記述式のような、頭を使うと言うか、まだしも多少なりとも思考力を用いるような方式にすれば良いのにとは思う。今の試験は何だか、如何に素早く、効率良く情報処理をするかという基準になっている向きが高いような気がするのだが、そんなことは思考力とはほとんど何の関係もなくはないか?
 (……)くんは今日はあまり眠らずに取り組めた。文法を扱い、自立語や付属語などについて確認した。(……)さんは見開き一頁しか扱えなかったし、問題の解説もほとんど一問を確認したのみ。とにかく彼女は大人しく寡黙なので、コミュニケーションをどう取れば良いのか、その点が難しい。やりやすい生徒というのは、やはりコミュニケーションの取りやすい生徒だ。そのようなタイプが相手ならば、相互作用のなかで、授業という時間を共同で形作っていくことができる。
 終盤、(……)マネージャーが教室に姿を現していた。退勤時にも出口付近で、今年は有難うございました、と挨拶。体調は大丈夫ですかと訊かれるので、問題なくやれていると答える。また、室長にも配慮してもらっていると。元々二コマの予定だった日にも、今日、一コマだけでも大丈夫ですがどうですか、みたいなメールがよく来るのだ、と。とにかく無理はしないように、長く働いてほしいので、お互いに苦しい時は助け合って行きましょう、みたいなことを言われる。もう一度礼を言い、頭を下げ合って退勤。
 帰路、空、澄んでいる。星、定か/清か/清らか。その他のことは特段に覚えていない。何かあったか? 猫にも遭遇しなかった。昨日忘れた傘はきちんと回収した。(……)くんのことを考えていたかもしれない。勉強するということの意味合いを考えてもらいたいものだ。大学に受かる、というだけの目的意識では、勉学というものはなかなか上手く行かないのではないか? まあ本人としては、受かることができればほかのことはどうでも良いのかもしれないが。
 帰宅。父親に挨拶。おかえり、と言う相手の声が何だかちょっと大きいと言うか、威勢が良かった。また酒か? と思ったが、この時にはまだ飲んでいなかったはずだ。この深夜にはまた手を叩き、声を上げて騒いで/燥いでいたけれど。下階へ行って着替えてきてから食事。メニューは何だったか……何か、あれは、何だったか、野菜炒めに中華丼の素か何かを混ぜた風な料理と、枝豆だった。汁物がなかったので、即席の味噌汁を用意し、葱をふんだんに下ろして混ぜた。
 食事を取ったあと、すぐに入浴したか? どうだったか忘れた。多分すぐに行ったと思う。そうしてまた、湯のなかでうとうとする(「うとうとする」という言葉を「うとつく」という新造動詞で代用するのはどうだろうか)。自室に帰ったあとは、零時一一分から『ロラン・バルトによるロラン・バルト』のメモを取っている。その前には何をしていたのか? Twitterでフォロー解除だろうか。メモ書きはこの日で終わらせることができたので、これで翌日、本を立川図書館に返却することができるわけだ。正式な書抜きは、それ以前に読んだ本の分が終わってから――それがいつになるかわからないほどに多いのだが――改めて借りてきてやる予定である。メモ書きのあと、今度は、書抜き、一時半過ぎまで。ロラン・バルト/松島征・大野多加志訳『声のきめ インタビュー集 1962-1980』(みすず書房、二〇一八年)である。
 「空虚な記号の倫理」
 「日本は記号の分節が極端に繊細で、発達した文明の例を提供していて、そこでは何物も非記号に委ねられることはありません。しかしこの意味論的な水準は、シニフィアンの扱いにおける並外れた繊細さとなって現われ、何かを意味しようとはせず、言ってみれば、何も意味しないのです。それはいかなるシニフィエにも、とりわけ最終的なシニフィエに送り返されず、わたしにとっては同時に厳密に意味論的であり、厳密に無神論的である世界のユートピアを示しているのです」
 「わたしが納得できなかったのは、出来事が一種の暗黙の自然な心理学として提示されていることでした。あたかも出来事について言われたことが自明のことであり、あたかも出来事とその意味が本質的に一致するかのように」
 「彼らの平凡さが彼らの特異性を明示し、確証するのです。これこそわたしが明らかにしようとしたメカニズムの一つです。わたしは社会による意味の生成過程を復元しようと思っただけでなく、社会が、実際に、自然さという見かけのもとにどのようにこの意味を強要するのかを示したいと思ったのです」
 「わたしはテクストのように日本を読む」
 「日本ではわたしにとってすべてが描線、テクストの偶発事のように思えるのです。日本では、わたしは絶えざる読解状態にあるのです」
 「それらは本に書かれてはいませんが、生活という絹織物に書かれています。彼の地でわたしを魅了するのは、記号のシステムが繊細さ、洗練、また力強さの観点から見て驚くほど優れて技巧的で、最終的には空虚なことです」
 「辞書は完全に逆説的な、目が眩むほどの、同時に構造化され不確定な事物ですが、とても良い例となります、なぜならそれは中心を持たない無限の構造だからです」
 「神はかなめ石なのです、というのも神はシニフィエ以外のものではありえず、決してシニフィアンではないからです。神が神以外のものを意味すると認めることができるでしょうか?」
 西洋の食事「は古典的な物語の論理的かつ時間的順序であり、変更できないのです。それは『イリアッド』と『オデュッセイア』においてのように、『危険な関係』あるいはトロワイヤの新刊小説においてのように不可逆的なのです」
 日本では、「一人ひとりがたえずまったく自由にそして可逆的に食物のディスクールを作り出すのです」
 「一つの文が決して飽和状態に達することがなく、理論的には無限のプロセスに従い次々に補充することによって、よく言われるように、触媒作用を引き起こすことができるという考えは知的次元においてまさに驚くべきものです。中心は無限に可動的なのです」
 その後は、高橋行徳『開いた形式としてのカフカ文学』を読む。三時半過ぎまで。そうして就床。


・作文
 9:45 - 10:29 = 44分(19日)
 10:44 - 12:04 = 1時間20分(20日
 13:41 - 13:53 = 12分(27日)
 15:35 - 16:15 = 40分(26日)
 計: 2時間56分

・読書
 12:57 - 13:37 = 40分(バルト; メモ)
 14:52 - 15:17 = 25分(バルト; メモ)
 16:23 - 16:37 = 14分(高橋)
 24:11 - 24:45 = 34分(バルト; メモ)
 24:53 - 25:35 = 42分(バルト; 書抜き)
 25:56 - 26:40 = 44分(高橋)
 27:16 - 27:34 = 18分(高橋; メモ)
 計: 3時間37分

・睡眠
 3:20 - 9:00 = 5時間40分

・音楽

  • the pillows『Rock stock & too smoking the pillows』(BGM)
  • James Farm『City Folk』(BGM)
  • Mr. Big『What If...』(BGM)
  • Carmen McRae『After Glow』(BGM)