2019/12/31, Tue.

 ヒトラー反ユダヤ主義思想の根底には、「上からの反ユダヤ主義」と「下からの反ユダヤ主義」ともいうべき一つの政治思想が横たわっている。このことを理解するうえでもっともよい文献は、ヒトラーの現存する最初の政治的文書と考えられるものである。すなわち、ヒトラーは一九一九年九月一六日、ナチ党に入党する直前、彼が所属していた軍の上司マイエル大尉の求めに応じて、彼自身のユダヤ人政策にかんする考えを書き送っているが、この中に明瞭に「上からの反ユダヤ主義」と「下からの反ユダヤ主義」の思想が看取されるのである。彼は書いている。

 「ユダヤ人が今日わが民族にたいしてもっている危険は、わが民族の大部分が抱く抜きがたい嫌悪感のうちに表現されているが、この嫌悪感は、ユダヤ人が全体として意識的無意識的にわが民族に及ぼす計画的で、有害な作用を明確に認識した結果生まれたのではなく、大部分、個人的な交際を通じて個人としてユダヤ人が残す、ほとんどつねに不愉快な印象に基づいているのである。そのため、反ユダヤ主義はしばしば単なる感情的現象の性格を帯びることになる。しかし、これはまったくの誤りである。政治運動としての反ユダヤ主義は感情的要因に規定されてはならないし、また、されえないものである。それは事実の認識によって規定さるべきものである。……
 そして、そのことから次のことが生ずる。すなわち、純粋に感情的な要因からの反ユダヤ主義は、その究極の表現をポグロムに見いだすであろう。しかし、理性の反ユダヤ主義は、ユダヤ人が我われのあいだで生活している他の外国人と異なって所有しているユダヤ人の諸特権を計画的・合法的に克服・排除することをめざさねばならない(外国人法制定)。そして、その究極の目的は、断固として、ユダヤ人一般の排除 Entfernung であらねばならない」。

 要するに、ヒトラーポグロムに代表されるような民衆レベルの「下からの反ユダヤ主義」ともいうべき「感情的反ユダヤ主義」に反対して、国家の政策レベルで実現され、ユダヤ人を外国人扱いにする「外国人法」の制定など「上からの反ユダヤ主義」である「理性の反ユダヤ主義」を主張するのである。
 (栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』ミネルヴァ書房、一九九七年、10~11)


 一一時四〇分起床。四時に床に就いたので睡眠時間は七時間四〇分。まあ最悪というほどではない。学校を舞台にした夢を見た記憶が朧気にある。
 上階へ。母親に挨拶し、仏間の簞笥から取り出したジャージに着替える。トイレへ。また、洗面所へ行って寝癖を直す。それから食事。母親が焼きそばを作っておいてくれた。その他、前日に拵えた巻繊汁の類や、やはり前日のサラダの残りなど。卓に就いて食べる。テレビは何だったか? ニュースだったか? そう、ニュースだった。五四歳の息子が同居していた母親が死んだあとも遺体を一年ほど放置していて逮捕されたという事件の報があった。少しでも長く一緒に暮らそうと思ったが、精神的に疲れてしまったと言って自首してきたと言う。あとはそう、カルロス・ゴーンレバノンに出国したという情報が大きく取り上げられていた。それを眺めながらものを食ったあと、台所に移って乾燥機のなかの食器を外に出し、空いたスペースに洗った皿を乗せておく。そうして風呂洗い。尾骶骨が相変わらず痛くて、屈んだりそこから元に戻ったりする際に鈍く痛覚を刺激する。風呂を洗っているあいだに父親が帰ってきた。どこに行っていたのかは知らない。
 風呂洗い後、緑茶を用意して下階の自室へ。時刻は一二時二〇分かそのくらいだったと思う。何故か昨夜同様、自分のブログにアクセスして今月の日記を諸々読み返してしまう。ロラン・バルトに影響を受けまくっていることが見て取られる。思考の内容もそうだろうが、語彙や文体の面での影響が大きい(例えば傍点ではなくて、三角括弧を使うようになったのはわかりやすい一点だ)。それによって他人からすると、むしろ読みにくい、理解しにくい文章になっているかもしれない。伝わりにくいものに。それで良いのだろうかという一抹の疑念もありつつも、もっと訳のわからない文章、〈理解不能〉な文章を恒常的に書けるようになりたいという欲望もある。
 一時まで時間を使ってしまう――今日は三時にNKと立川で待ち合わせをしているから、二時には家を出なければならず、さっさと読み物なり書き物なりをしなければならなかったのに。昨晩Nさんと通話で話した事柄もできるだけ記録しておきたかったのだが、この部分を書き綴っている現在は既に一時四〇分なので、その猶予はもはやなさそうだ。一時過ぎから一年前の日記を読み返しはじめた。この日は前日のNKに続けて、同じく高校の同級生であるWと会っている。この日にも一年前の日記を、つまり二〇一七年の日記を読み返しており、そこからミシェル・フーコー中山元訳『真理とディスクール パレーシア講義』を元にした考察を引いているのだが、二年前の文章になるその思考をここにも改めて引いておく。結局、自分の中核的なテーマというのは、「書くことと生きることの一致」なのだ。それは文を書きはじめたその当初からずっとそうだ。

 まず、一四二から一四五頁に、プラトンの『ラケス』が紹介されており、「話す人と話されることが同時に、互いにふさわしくて、調和しているということを観る(……)。そしてこのような人はたしかに「音楽家[ムーシコス]」であると私には思われる」という作中のラケスの発言や、「ラケスはソクラテスの語ることと行動、言葉[ロゴイ]と行為[エルガ]が調和していると語るからです。ですからソクラテスはたんに自分の生について語れるだけではありません。自分の生についてのロゴスが、行動においてすぐに<見える>ようになっているのです。語ることと行うことの間に、いかなる齟齬もないのです」というフーコーの説明が見られる。ここにある「言葉と行為の調和」とは、こちらの言葉に置き換えれば明らかに、「書くことと生きることの一致」に相当するテーマだろう。さらに別の言葉を使えばそれは、「ロゴスとビオスの一致」ということになるわけだが、例えば自分の「日記」の営みにおいて/関連して、ここで言われている「生についてのロゴスが、行動においてすぐに<見える>ようになっている」という状態は、どのように実現されるのか? まず、この「日記」の意義を考えてみるに、第一にそれは、自らの生活/生に対して「隅々まで目を配ること(視線を向けること/監視すること)」である。コンピューターに向かい合って脳内に記憶を想起させながらキーボードを打っている時は勿論そうだが、それに留まらず、そもそもこちらは生を生きているその場において[﹅7]、そこで認知したものなり、自分の行動/心理/身体感覚なりに目を配っている(ヴィパッサナー瞑想の技法)。すなわち、自分においては「目を配ること」(そしてそれはこちらの場合、「書くこと」に等しい)は即時的/即場的な行為である。一方ではこちらにおける「書くこと」は、過去の経験の「想起」の問題/技法としてあるが、他方ではその場における「記憶」の問題/技法としてある(あるいは後者を、「瞬間的な想起」として考えても良いのかもしれないが)。つまりはこちらの生/存在様式においては、ヴィパッサナー瞑想の技法及び書き記すことに対する自分の欲望を経由して、「目を配ること」が「書くこと」に直結し(前者が後者とほとんど等しくなり)、「書くこと」が生の領域において「全面化/全般化」している。
 ここにおいて自分自身(及びその体験)に「目を配り」、「書くこと」とは、自己の存在そのものを(即時的に、また回顧的に)テクスト化するということであり、言い換えればそれは、自分をテクスト的存在として(再)構築すること、あるいはまた、自己のテクスト的分身=影を構成/創造するということになる。そしてそのようにして構成されたテクスト的な自己が、逆流的/還流的に、生身の存在としてのこの自分自身[﹅16]に戻ってくる/送り返される、このような生と言語のあいだの往還がそこにおいては発生するだろう。言語を鏡として自己を観る、という言い方をしても良いと思う。
 自己を言語的に形態化することによって定かに観察/認識し、自分にとって望ましい基準/原則に沿ってその方向性/志向性を調整/操作することになるわけだが、これを言い換えれば、反省/反芻による自己の統御/形成ということになると思う(「書くこと」は明らかに(即時的/回顧的に)「反芻すること」から生じ/「反芻すること」ができなければ「書くこと」は存在せず、「反芻」に「評価」という一要素を加えるだけでそれは「反省」に変化する)。よく覚えていないのだが、グザヴィエ・ロート『カンギレムと経験の統一性』を読んだ記憶によると、一九世紀から二〇世紀のフランス哲学のなかには、確か「反省哲学」というような系譜があったらしく、具体的な名前で挙げれば、まずラニョーという人がおり、その弟子がアランだったらしい。そしてカンギレムは若い頃アランに傾倒していたらしく、この著作はカンギレムをこの伝統/系譜のなかに位置づけつつ、彼が受け継いだもの、受け継がなかったものを明瞭化するというような試みだったと記憶しているが(具体的な論点はほとんど思い出せないのだが)、ここにおいて自分にとって何よりも重要なことは、ジョルジュ・カンギレムという思想家は、ミシェル・フーコーの師だった[﹅30]ということである(確か、論文の指導教官を務めていたはずだ)。このあたり、どうも繋がってくるのではないかという気がする。
 話を戻すと、「自分の生についてのロゴスが、行動においてすぐに<見える>」というような状態を実現させるためには、「反省/反芻による自己の統御/形成」のその痕跡/形跡が、具体的な個々の行動において表れるようになっていなければならない。つまりはこのように日記を綴り、「反省/反芻」の目を自分自身に向けることによって導出された言語的な原則/行動基準(ロゴス)が、ある時空における行動/実践において具現化されていなければならないというわけで、言い換えれば、自己を「彫琢された存在」として現前させなければならないということだ。より平たく言えば、「あの人は自分自身及び他人に(ある何らかの仕方で)気を配っているな」という感じを他人に与えなければならないということで、したがって当然、「ロゴスとビオスの一致」の現前を実現させるためには、「目撃者の生産」がそこに伴うことになる。
 そのような「ロゴスとビオスの一致」を実現し、「彫琢された存在」となった主体の例を考えてみるに、最も直近のものとして思いつくのは、この二日前に中華料理屋で見かけた女性店員の所作の「優雅さ」である。彼女だって働きはじめた当初からあのような動作形式を身に着けていたわけではおそらくなく、自らに視線を差し向けることで(自らに気を配ることで)「自律」を働かせ、それを次第に自然さにまで高めたのではないか。つまり彼女は、身ぶりに「芸術的」ニュアンスを付与することに成功しており(少なくともある一面において自己を「芸術作品化」することに成功しており)、それを見た自分は(「目撃者」として生産された自分は)、彼女は自分自身に気を配っているな、という印象=意味をそこから引き出すことになった。これが何に繋がるかと言えば、(芸術作品による)「感染/感化」のテーマであって、フーコーが一五八頁で述べているのだが、グレコ・ローマン期のパレーシアの目標は、「ある人物に、自己と他者について配慮する必要があると納得させることです。その人物に、自分の生活を変えなければならないと考えさせるのです」という言も、そうした方面から読み、考えることもできるのだろう。

 その他、目に留まった描写など――「炬燵テーブルの天板の上に陽射しが広がり、その上の空中、光線のなかに塵が舞って、目にようやく視認されるほど微小でもやはり質量と複雑な形を持っているわけだろう、光の当たる角度が刻々と変わるようで、蛍の尻のようにうっすらと明るみを帯びてはまた宙に沈んで見えなくなる」
 「道路の上、空中には先ほどの埃と同じように微細な虫が無数に浮遊し、快晴なのに雪の前触れのように、あるいは何かの精霊のように、集団で蠢き入り乱れている」
 「また別の面から考えると、自分が日記を書くのは明らかに、時間が過ぎるものだから[﹅11]である。砂の柱が毀たれ、崩れ落ちて行くように、現在の一瞬一瞬が「時の階[きざはし]を滑り落ちて」(シェイクスピア福田恆存訳『マクベス』)行き、すべては消えて流れてしまう。そのことに納得が行かないような、釈然としないような、それを認めたくないような思いがあるのだ。日記は自分にとって、その違和感の表現だと言えるかもしれない」
 読むと一時半。着替えることに。上はユニクロの臙脂色/ワインレッドのシャツ、下はUnited Arrows green label relaxingの褐色のズボン。その上にダークブルーのチェック柄のバルカラーコートを羽織っていくつもりである。街着に着替えるとすぐにこの日の日記に取りかかった。ここまで綴ると一時四五分。過去の日記を読み返しているあいだから、久しぶりにFISHMANS『Oh! Mountain』を流していた。
 ほどなくして出発へ。上階に行き、両親に出かけることを告げて玄関を抜ける。快晴。向かいの家の横では車が洗われている。O.Sさんのものである。水音が立っており、本人が洗っているのかと思いきや現れた姿の若い男性だったので、あれは息子のSくんだろう。こんにちはと声を向けたが、相手はイヤフォンをしていたので気づかなかったよう――あるいは気づいていたけれど返事をするのが面倒臭かったか。道を歩き出す。公営住宅前に掛かると陽射しが視界一面を占領して眩しく、左手を額に翳す。道の先の方で緑樹が光で飾られている――葉叢のなかに無数の光が埋めこまれ/配置され、その艶めきが風を受けて震え、流動化する。風はこちらの身にも触れてくるが、全然冷たく感じられず、年の最後の日に随分と春めいたものだと思うとともに、キリンジ "車と女"のメロディが頭のなかに流れるのは、冒頭の歌詞に「春めく」という言葉が入っているからだ。間近に視線を引き戻すと、道端の草――Nさんの家の敷地の境となる小さな草――の上にも白さ、こちらは艶消しである。歩きながらもう一度視線を先の方に飛ばすと、先ほどの木の左方、道の向かいの木叢にも光が散りばめられて象嵌されている――植物がそのまま金属化したよう、あるいは部分的に色を削られたよう。
 坂、風。頭上で樹冠を揺らす。その音はやがて収まる。上っていくと、途中で路上が綺麗になっているのに気づく。道の両端の落葉の縁取りが突如として途切れ、葉屑も路面に刻まれた微細な窪みのなかに残っているのみ。誰かが掃除をしたらしい、と見ながら上っていくと、老人が熊手――で良いのだろうかあれは、フォーク状の器具だが――を持って、道端の土の上を搔いているので、こんにちはと挨拶を向けたが、相手はこちらを見返してちょっと会釈したのみで、声での返答はなかった。過ぎて、あれは誰だったかな、と名前を思い出そうと頭のなかを巡らせると、そうだ、Sさんだ、という名前が出てきた。その息子は、ちょっとアウトサイダー的と言うか、母親がその人のことを過去に時折り言及したのを聞く限り、いくらか社会不適合者的な向きがあるようで、母親がその人のことをSの息子、と呼ぶのを覚えていたのだった。この父親である老人の方は確かもう九〇歳も越えているはずで、こちらの病中、ということは二〇一八年の四月のことのはずだが、その時、もう一人誰だか知らない中年の男性を連れて、我が家の傍の林に筍を掘りに来たことがある。こちらも茶や茶菓子などを母親と一緒に出して、ちょっと話を聞いたのだが、その時の情報によると、もう耳がかなり悪いということだったはずだ。
 駅へ渡る。階段上っていく。駅の向こう側、線路沿いの道を幼子と母親の家族が歩いている。皆、揃いの赤帽。子供の一人は芒を手に持って、それをガードレールにぶつけてカンカン音を立てている。もっと欲しいと要求されたのだろうか、母親は手近の芒を千切ろうとしたが、思いの外に固くて切れなかったようで苦戦の声を漏らしながら、ガードレールに茎を擦りつけるようにしていた。
 ホームではメモを取ったのだったか? それとも乗換えてからの車内で取ったのだったか? もう忘れた。電車に乗って青梅まで行き、乗換えて乗ったのは確か東京行きだったと思う。二号車の三人掛けに乗ったのだったか……いや、これももう覚えていない。いや、思い出した。二号車の三人掛けに確かに乗った。メモを取り終えたあとは高橋行徳『開いた形式としてのカフカ文学』を読んでいたのだが、東青梅で駅員の介助を受けながら高年の女性が一人乗ってきて、それはどうも視覚障害者の人らしかったのだが、良いお年をと駅員が言うのに、丁寧な受け答えをしていて、控えめそうな人だった。手には多分身体の支えにしたり、周囲の物々を調べたりするための棒を持っている。それは折り畳める方式のものらしく、座席に座っている時間の大半は、どうも畳んで小さくしていたようだった。こちらは、ことによると電車を降りるのを手伝ってあげた方が良いか、しかしどこで降りるのだろうなと考え、声を掛けて訊いてみようかとも思ったのだがそこまでの積極性も発露せず、多分降りる駅では駅員が連絡を受けて待っているはずだが、と思いながらも女性の動向をちらちらと窺っていたのだった。結局、こちらの方が立川で先に降りることになった。
 NKからメールが入っていた。一五分ほど遅れると。了承を返し、壁画前にいると伝える。階段を上がり、改札を抜けて待ち合わせ場所へ。高橋行徳『開いた形式としてのカフカ文学』を取り出して、立ったまま読む。横には若い女性。大学生くらいだろうか。髪を一部紫っぽいような色に染めている。そのうちに仲間がやって来たようで、大きな声で驚いたように挨拶をしていた。本の頁に目を落としているとじきに近づいてくる足が見えて、その靴が例の真っ赤なものなので、来たなと思って目を上げ、NKに挨拶をした。がっつり読んでんな、と言われた。それなりに分量のある単行本だったからだろう。NKは髪にパーマが掛かっていた。相変わらず赤い靴を履いているなと指摘し、髪の毛にも言及した。
 とりあえず喫茶店に入ろうと。歩き出す。去年の年末も会っていたんだよなと話を向ける。何日だったかと言うので、去年は一二月三〇日だったとこちら。三一日、大晦日は、Wと会っていたのだと。もう結婚して、と言うので、六月に子供も生まれたのだと伝える。そんなことを話しながら、エクセルシオール・カフェに行くことに決定し、北口の正面出口の脇にひらいた広い階段を下りた。歩いていき、店のほど近くまで来ると、昨日だか一昨日まで栃木にいたと言う。栃木のどこか。鬼怒川。温泉か、と受ける。同時に、大雨か台風か何かで洪水があった場所だなと思い出す。古井由吉が『ゆらぐ玉の緒』のなかで触れていたはずだ。

 雨にすっかり暮れたかと思われた頃に、北の窓から西のほうへ目をやると、乱雲のひしめく空の、西から北寄りの、地平に近い一郭が横へ細くわずかに透けて、沈みきらぬ落日が浮いている。夕映えは雨の中へかすかにも渡らず、陽は輝きも失せて凝りながら褪せて行く。この年は梅雨に入りかかる頃から、曇天の落日がどうかすると怪しい、凶相のようなものを剝くことがあるのは、日没時の空が乱れがちのせいだろうか、と眺めていたが、あの太陽もすぐに、沈むまもなく、暗雲に呑まれるか、と思うと堪えがたい気がして窓を締めた。その夜も雨はしきりに降って翌日まで持ち越され、雲はさらに乱れて、正午頃には大雨が走ったが、午後から曇りにおさまって、台風の影響も過ぎたかと思われた頃に、鬼怒川が決壊して流域に大水が出たと知らされた。テレビを見ればまさに大水、見渡すかぎり田畑を埋め、家屋を呑みこんで、濁流がまだ逆巻いて走っている。
 (古井由吉『ゆらぐ玉の緒』新潮社、二〇一七年、70; 「人違い」)

 鬼怒川に大水の出たその翌日、東京では晴れあがり、ひさしぶりに青い空が仰がれたが、南のほうに白雲がしきりに湧いて、午後から上空に押し出て暗くなった。そのまた翌日には早朝にかなりの地震があり、その日も四方に乱雲が立って午後からひろがり、天気が崩れるかと思ったら、暮れ方には晴れ渡った。しかしそれからまた雨もよいの天気が続いて、夜来の雨が昼夜降りしきった日もあり、まるで梅雨時がそのまま、いくらか肌寒くなっただけで持ち越されているようで、長かった酷暑は、あれはいつの夏のことだったか、と首をかしげさせられた。
 鬼怒川の決壊したその前々日、台風が本州に近づいて東京でも雨の降りしきる中を、ちょうど三ヵ月に一度の検診の日にあたっていたので近間の病院に来てみれば、こんな日のことだから人はすくないだろうと踏んでいたところが院内は込みあって、例によって大多数を占める年寄りの姿が三ヵ月前よりも、人はあらかた違うのだろうが、どれもひときわ老い屈んで見えて、やはり長雨の空は目に見えぬ重荷となって背に肩にのしかかるのだろうな、と我が身のことが顧みられた。明日は荒れるので今日のうちに、台風の過ぎるのを待てず、雨を押して駆けこんだ人も多かったのだろう。
 台風が本州を抜けたと伝えられた夜には、東のほうの空に薄雲は流れながらその合間に星がのぞいた。雲間がしばらくひろがると、小さな星が幾つも現われてまたたいた。もう長年忘れていた眺めだった。鬼怒川の大水はその翌日の午後になる。続く雨天に苦しんだ末に、台風がとにかく過ぎたと聞いて、警報も出された大雨の中を、病院に出かけた人もあったのだろう。
 市の広報車から退避を呼びかける声が雨の音に紛れて聞き取れず逃げ遅れたと話す人もいたそうだ。土堤を打つ濁流の激しさが、音にまでならなくても、切迫の気配となって伝わってくるのに感じて耳はおのずと鋭敏になりそうなものなのに、しかし今の世の住まいは警戒の声ばかりか、地を覆って降る大雨の音すら、軒のあたりの騒がしさのほかは、隔ててしまう。軒というほどのものもない建物も多い。雨の音に寝覚めた心を、古人はよく歌に詠んだ。軒端を叩く音から野山に沿って遠くまで、生死の境まで、雨に運ばれる心であったらしい。あるいは雨がはるばると寄せて、ここに横たわる身を抜け、この身を無きにひとしいものに、草葉の下に変わりもないものになして、さらにはるばるとひろがる。わびしさに、なにがしかの自足もあったようだ。雨の音を聞く心に、厄災を思う先祖たちの畏れもおのずとひそんでいたかと思われる。
 (76~78; 「人違い」)

 入店。入口から一番近いところ、注文カウンターの向かいの革張りの椅子の席が二つ並んで空いていた。我々はこのエクセルシオールに来ると何故かこの並びに座る確率が高いのだが、今回もここにするかと言う。一応奥の方も覗いてみたが、空いていないようだったのでやはり先ほどの場所へ。財布をバッグから出して注文。ホットココアのMサイズ。NKは何だったか……紅茶の類だったか? 忘れた。席に戻って、初めはコートを脱いでおこうと思ったのだが、脱いでも置く場所がなかったので着直した(ただし前のボタンは開けたままにした)。それで会話。あちらは当然だが、仕事が忙しいとのこと。突っ走ってきたようだ。NKはなかなか優秀で、去年の末に会った時にも、その前の一一月の売上だかで二位になったとか何とか言っていたと過去の日記に書いてあった。優秀さは衰えていないようで、今年は全国の営業員のなかで一一位とか言っていたか? 凄いものである。それで金一封を貰ったり、旅行に行かせてもらったりしたとのこと。ただ当然、それに応じて忙しくもあるわけで、平日はほとんど働いて帰ってきてはすぐ眠るような生活らしい。彼は恋人と同棲している。相手は二二歳だか二三歳だったか、確かそのくらいだったと思う。前回会った時に、複数いたセックス・フレンド的な相手との関係を微妙に続けながらも、その人に恋人を絞ったのだったが、その後、ほかの女性たちとの関係は切れてしまったとのこと。同棲をしていればそれは当然のことだ。結婚はするのかと向けてみると、するとしたら来年だなという返答がある。相性は良いらしい。生活のペースと言うか、リズムのようなものも合っているし、旅行に一緒に行ってみても大方のところは合う。ただ相手は、掃除ができないと言う。わからない、俺が神経質なのかな、とNKは言っていたが、彼は自分のスペースはきちんと綺麗にしておきたいタイプなのだと言う。そんな彼からしてみると、これを何故このままここに出しっぱなしにしておくのか、というようなことが頻繁にある。今は同棲中とは言ってもまだ恋人関係なので、何と言うか可能性上としてはいつ別れるかもわからないと言うか、平たく言えばあまりだらしなくしていると捨てられるかも、というような微かな緊張感みたいなものが女性の方にもあるようで、彼女なりに努力しているように見えると言うのだが、結婚して夫婦関係になるとちょっとやそっとでは別れられないから、多分、あいつ全然やらなくなるな、とNKは笑う。その点は前もって釘を差しておかないと、と。
 ほか、昨晩通話したNさんのことなど話したと言うか、Twitterで知り合った女性がいて、と話したりもしたが、まあこれについては良いだろう。あとは何を話したのか、全然思い出せない。覚えているものから行くと、NKは不動産屋なので、いずれ家を出る際には世話になるかもしれない、と伝えておいた。二万円くらいの物件は結構あるものなのかと訊くと、その場でスマートフォンを使って不動産屋専門の検索サイトみたいなところにアクセスして調べてくれたNKは、いくつかページを見せてくれた。八王子や青梅あたりならまあ普通にあるようだった。しかし、立川は結構高いらしい。できれば立川市内に住みたい気がするのだが。二万円より下のランクになってくると、さすがにやめた方が良いとNKは言う。やはり、訳ありの人が多くなってくるらしい、やばい人間しかいないようなところもあるだろうと。Mさんが住んでいた森田アパートはいくらだったか? 確か家賃を大家さんに払うときにいつもお釣りとして一〇〇〇円札を一枚返して貰っていたような気がするのだが、一万九〇〇〇円だったか? 忘れた。Mさんのアパートにも確かに、小島よしおに似ている人で、いつも全裸で歩いているというちょっと変な人がいたはずである。あと、それくらい値段の安い物件になってくると、正直な話、不動産屋の方でもやる気がなくなってくると。売上にほとんど影響しないので、この値段だったらどこも同じようなものではないかという気持ちになって、客のことを真面目に考えずに適当に勧めて決めさせてしまうようなこともあるだろうと言うので、知り合いに頼んだ方が良いという話だった。そういうわけなので、いずれ世話になるかもしれないと言っておいた。
 音楽の話はほとんどなかったはずだ。こちらが、最近は触れられていないが、Bill Evansなどを集中して聞いているとちょっと言及したくらい。本もNKは読んでいる暇がない。高校の時の同級生の話は? これはのちのお好み焼き屋の方でいくらかしたと思う。それをもういくつかここに書いてしまうか。Wについては先ほど触れた。S.T。彼は海外にいるのかと思いきや、どうやら日本にいるらしいと言う。職は多分日本語教師。あるいは英語教師なのか? 不明。多分そのどちらか。バンド活動も傍らやっているとのこと。洒落たバー的な店で演奏していたり。それで最近、昔の仲間のデモ音源に参加させてもらったとか何とか、NKの情報源はFacebookである。Tは、良い歳の取り方をしたと言うか、理想みたいな感じだとNKは評していた。あとはOについて。NKは創価学会員である。それで今夏の参院選の時に、公明党の応援を頼もうかということでOに物凄く久しぶりに、多分高校を卒業して以来だと思うが、連絡をした。捕まるはずもないと思っていたところが何故か電話が繋がったのだが、Oの態度は物凄くよそよそしくなっていたと言う。敬語で、あ、すみません……はい、はい……申し訳ありません……みたいな、そんな感じで断られたと言う。俺、Oと結構仲良かったって言うか、結構友達だと思ってたんだけどなあ、とNKは漏らしていた。Oの方はエホバの証人に属しているはずで、多分そちらの方の仕事と言うのか、多分どこかの教会に属しているのではないかとのこと。
 あとの話題は忘れた。話のペースは、我々のあいだではいつもそうだが、さほど速くもない。まあ比較的ゆっくり。こちらはこの日は、何となく上手く――と言うか、明晰に喋れたと言うか、喋り方がはっきりしていたような感じがする。ゆっくり、一歩一歩踏むような言葉の重ね方をしたと言うか。まあ喋りも上手くなっていきたいと言うか、それは通常言われる意味での「話術」ではないのだが、より明晰にと言うか、一月二日の日記に既に書いたことを先取りしてしまえば、〈書いているかのように、話す〉技術を向上させていきたいとは思っている。それはまあ、前から思っている。
 あと性の話を多少した。もう射精をしてもあまり気持ち良くもないと昨晩Nさんに話したことをここでも繰り返すと、NKの方はまだまだ精力が有り余っていて、つい一週間ほど前には、夢精したと言う。恋人が横で寝ていたにもかかわらず、と笑う。さすがに夢精はないなと受ける。自分でも驚いたと言う。恋人にばれないように汚れた下着を捨てるのが大変だったと言うので、別にばれたって良いじゃねえか、夢精したって言えば良いじゃねえかと向けると、お前が昨日やらせてくれなかったから、っつって、と冗談を言うので、酷い、それは酷いと受けた。あと、セックスに関しては、何かやっていて、怖くなることはないかと聞いてみた。要は、こんなに簡単に生命を生み出せてしまえるのか、みたいな、と。こちらが性行為に対して一番何と言うか引っかかるのはそこで、子供を作りたくないと言うか、万が一にも自らの手で新たな生命をこの世に発生させたくないという気持ちが強い。だからあまり、誰かとセックスする機会がこの先あるとしても、挿入には正直あまり気が向かないと言うか、これは要は、餅で喉をつまらせるのが怖いから、ならばそもそも一生餅を食わないようにしようと、可能性を完全にゼロにしてしまおうという論理と同種の極端な論理である。まあコンドームをつければ良いのだとは思うが、ともかく万に一つも子供は生み出したくない。父親になりたいとは全然、まったく、これっぽっちも思わない。それで怖くなることはないかと訊いてみたのだったが、NKの方はそういう感情や感覚は全然ないと言う。コンドームも、全然つけないのだと言う。それには驚いた。それで大丈夫なのかと訊くと、我慢して外で出すという、そういう技術を身につけたのだと。
 あと病気の話。NKは肺炎に掛かったと言う。掛かったと言うか、以前もなっていたのが再発したみたいな感じらしい。それで、彼はマルファン症候群という遺伝性の持病を持っていて、そのために背骨が湾曲しているか何かで、気管支が圧迫されるみたいなところがあるらしく、それで痰がうまく出ていかないのだと。だいぶ苦しかったようだ。今はだいぶ良くなったと言っていたが、この日のあいだにもNKは結構咳を漏らしていた。
 まあそんなところだろう。そろそろ喫茶店を離れよう。NKが、高島屋に行っても良いかと言ったのが、多分五時くらいだったと思う。ヴィトンの財布を見たいと言う。無論了承し、トイレに行ってきてから退店。昼間はかなり暖かかったのだが、もう日も暮れてきて今はだいぶ寒かった。風が強い。通りを渡り、駅舎の横からエスカレーターを上がり、広場に出て高島屋方面に進む。高島屋だと、「軽井沢シャツ」という店があってずっと気になっていたのだと言うと、そこにも入ってみようと。それで高架歩廊を進み、高島屋へ。伊勢丹が大晦日でもう閉まっている雰囲気だったので、こちらも危ういかと思ったが大丈夫だった。一階へ。Louis Vuittonの店舗へ。何か、金色で統一されたフロアと言うか壁や床だったような記憶がある。NKは目当ての品が元々あったらしく、出てきた店員にすぐに声を掛けて、この品物はありますかと訊いていた。片手に黒い手袋を嵌めた女性店員がそれに応じてタブレットを操作し、他店舗に在庫があるとか、インターネットにもあるので、そちらの注文の方が早いかも、とか言う。NKはできるだけ小さいタイプの財布が欲しかったらしく、ほかにありますかと訊いたものの、そういうタイプのものは年末で大方売れてしまったと。年明けからまた新作が入荷してくるとのことだった。
 それで礼を言って退店。店内には結構格好良いスニーカーの類が陳列されていてちょっと気になったが、あれもやたら高いのだろう。それで「軽井沢シャツ」に行ってみることに。上階へ。NKは電話を掛けていた。インターネットで注文することにしたようだ。こちらは「軽井沢シャツ」に入って、ジャケットやらシャツやらを見分する。店員の女性が近づいてきたので、前から気になっていたんですよと話す。思ったよりも価格帯が高めでなかった。シャツも五〇〇〇円くらいのものが並んでいた。やっぱりこだわりがあるんですか、軽井沢って入ってますからと訊くと、国産のものも扱ってはいるが、本社がそちらにあるだけなのだと言うので笑う。ベストつきのジャケットが格好良かったが、少々冬っぽかったので、今から買ってもなあという気になり、春にまた来ようかなと思った。それでシャツの方を見分してみると結構良さそうなものがあったので、三枚見繕って試着させてもらうことに。入室。紺色と赤の、固めと言うか、折り目正しいような雰囲気のチェックのシャツが一つ。もう一つも紺色の無地のもの。最後の一つは鮮やかな青の、やはり無地のもの。どれもまあ別に悪くはない。最後の青のものなど、柔らかくて着やすくて、襟が小さいのもあまり見ない形で結構良かったのだが、しかし今、服が必要かというと、別にそういうわけでもないのだよなあと思う。買っても良いのだが、金はいつだってないし、物凄く強烈に欲望をそそられたわけでもないし、今日は見送るかと決めて試着室を出て、女性店員に、また検討してみます、ということで、と笑顔を向けた。それで入口で待っていたNKと合流。NKは福袋のサービスに目を留めていた。一万円だかでネクタイが三本、選べるのだか、ランダムに入っているのだかわからないが、三本貰えるということで、NKは今ちょうどネクタイが欲しいらしかった。しかしサービスは一月二日から三日だったか、その二日間だけしかやっていないという話。
 このあとどうするか、と話し、まあいつものごとく、LUMINEの服屋でも覗いてみるかと合意された。それでビルを出て、寒風のなか通路/高架歩廊を戻る。伊勢丹がやはりもう閉店するようだったので、LUMINEの方ももう閉まっているのではないかと考えられた。それでまずは何よりも営業時間を確認しようと言いながら駅舎に入り、ガラス戸の表面に貼ってある紙を見ると、七時までとあった。時刻は六時頃である。それでもう、服屋を見るのはやめて飯を食おうとなった。飯もLUMINEの上層階で、これも我々が会った時は定番のルートだが、寿司でも食うかと話していたのだ。それでエスカレーターを上がっていく。八階へ。NKはトイレに行きたいと言うので、一旦別れてこちらが店を見に行く。すると寿司屋はもう終業していた。一応暖簾を分けてなかに入って、もう終了ですか、と訊いてみると、終了だと。その時出てきて応じてくれた店員が、以前訪れた際には自信なさげに、不安そうな面持ちで緊張したような様子で働いていた人だったのだが、この時の表情は朗らかな感じで、不安の色が薄かったかあるいはないように見えたので、仕事に慣れてきて、のびのび働けるようになったのかもしれない。良いことである。
 トイレに入る通路の入口に立ってNKを待ち、出てくると、寿司屋はもう終わっていたと伝える。ほかの場所に行くのも面倒臭いし、ここでもう済ませてしまおうと相成ったのだが、ほかの店舗もそろそろ終わりはじめているような雰囲気である。お好み焼き屋「千房」はまだやっているようだったので、お好み焼きで良いかと合意し、入店した。客はさすがに少なく、ほとんどいなかった。隅の方の席に通される。豚玉と、ミックス山芋焼きを注文。ここで待っているあいだに、高校の同級生のことが話されたのだった。お好み焼きを届けてくれた女性店員は、まだ新人なのだろうか、この人もやはりちょっと緊張気味と言うか、おずおずとしたような雰囲気だった。よく食事屋の接客などできるものである。こちらは絶対やりたくないし能力もない。
 高校の同級生の話としては、届いた品物を食べているあいだに、あとはS.Aの話が出た。NKの元恋人である。Wが唯一Sとはわりと定期的に飲みに行っている、みたいなことを昨年会った時に言っていたと伝える。まあ彼女も、離婚して、と言うと、NKは、あいつ、――何と言ったのだったか。男に振り回されるもんな、みたいな、男運ないもんな、みたいなことを言って、それに応じてこちらが、結局、お前が一番良い人だったんじゃないのと向けると、それは間違いないと相手は受けて、俺言ったもん、後悔するぞ、って、と笑う。そのあとしかし、まああの時は俺もフリーターだったし、それだけでも良い人ではなかった、確実に、と自分自身で執り成してみせた。それからNKは、SのSNSTwitterだかFacebookだかInstagramだか知らないが、そこから収集したと言うか、そこで目撃した情報を語ってみせた。Sは以前、何かイベントサークルと言っていたか、何だったか忘れたが何らかのサークル的なものに入っていて、そのリーダーみたいな男性と仲良くしていたらしい。その男と一時期付き合っていたのかもしれないと思っていた、とNKは言っていたが、定かでない。まあいずれにせよ、その男性と過去にはよくやりとりしていたようで、それでSが離婚して東京に戻ってきた時にも、こいつが見張ってるって言うか、アンテナ張ってんだよな、すかさず、A、おかえり~また会おうね~みたいなメッセージを送ってんだわ、とNKは話す。それに対してSの方も、~~くん、ありがと~、と言って、詳しい文言は忘れたが、何か満更でもないみたいな受け方をしていたらしく、それを見た時にNKは、ああこいつ、やっぱちょろいよなあ、みたいなことを思ったのだと言う。あとはSと仲の良い女子たちの六人グループがあるのだが、あのグループの人たちは皆、何か、苦労してそう、みたいなことをNKは言った。そのなかの一人にO.Sさんという人がいて、この人は高校時代には、もはや死語となったであろう古い言葉を使えばマドンナ的な女子だったと言うか、たくさんの数の男子生徒が彼女に恋慕していたようなのだが、NKは彼女について、Oさん、エロいよなあ、と漏らしてみせるので笑った。あああとそうだ、NKはSについても、先の話の時に、あいつ、顔がエロいからな、みたいなことを言ってみせて、こちらはSの顔つきが特段エロい/セクシー/官能的/煽情的と思ったことはないのでよくわからないのだが、元恋人が言うからにはそうなのだろう。いわゆる男好きする、みたいなタイプということだろうか? NKがその二つの「エロい」発言をした時には、我々の近距離、すぐ隣のテーブルで、先の、お好み焼きを運んできてくれた大人しそうな女性店員が、我々に背を向けながら鉄板の掃除をしていて、まあNKの発言が聞こえないはずもないのでこちらは、やっぱり男ってそういう話ばかりしてるんだ、とか思われているのではないか、と自意識過剰な心を働かせて苦笑していた。
 それで食事を終え、会計をして――こちらが多めに出した――退店。エレベーターへ。乗って下階へ。二階から外へ。改札へ向かう。この頃にはもうさすがに人波もかなり薄くなっていたのではなかったか。改札をくぐったあと、今日は有難うと言われるので、いやいやこちらこそと受ける。それでまた、と言って別れ、こちらは一番線ホームへ。青梅行きではなくて河辺行き。一号車に乗る。がらがら。発車しても乗客数はほとんど変わらず、スペースが有り余っていた。それでバッグを隣の席に遠慮なく置き、本を読む。
 そのうちに河辺到着。降りる。青梅行きが来るまで待たなければならない。ベンチに座る。寒風に晒されながら書見。途中、立って自販機に寄り、何となく温かいものでも飲むかと思ってコーンポタージュを買う。ベンチに戻って飲みながら書見。温かな液体を失っていく缶が、スープが触れなくなった箇所からどんどん、急速に冷えていく。飲み干すと立って、缶を捨てる。ベンチに戻って書見。じきに電車が来たので乗り、温まりながら書見を続け、青梅着。乗換え。乗換えまでに間があったのかどうだったか覚えていない。ここから家に辿り着くまでのことは特に印象深い記憶がないので、省略しよう。
 帰宅後、八時一四分から読み物に触れている。二〇一四年の日記、fuzkue、Mさんのブログ、そしてUさんのブログである。以下はUさんのブログ記事で気になったところ。「思索」: 「思索と教室(11)」(http://ukaistory.hatenadiary.com/entry/2019/12/23/031903)より。

 「フーコーからデカルト主義を破壊したいならば、誰よりもデカルトの著述に詳しくなり、自らの中のデカルト主義を、その強烈な魅力の全てを含めて体得しなければならない」
 「思想や哲学が推進している価値観が共通にあるとすれば、それは、何も問い直してはならないことはないという、根本から考え抜く試みであり、それを行う際、言葉を用いるということである」
 「何かしらの教義や体系に準拠することを拒否し、一つ一つを丁寧に、自分の言葉で吟味する日々の営みが単に生きているという意味で、「主義」というよりも、武道家書道家のように、「思考家」である」
 「「なになに『家』」という人々は、私の理解によれば、必ずしも職業人や地位を持つ者ではなく、自らの人生の芯として立ち戻っている者であり、影響力や権力や承認よりも、卓越性や美や真理の方を求める者を指す」
 「意味senseと指示reference以外があり得ることを誰よりも強く自覚しているからこそ、命題の意味を、指示からのみ受け取る主張にこだわるのである」
 「思うに、若い頃に、徹底的に密度を濃く何かに染まり切り、それが自ら自身の血肉と化したとき、現代のドクサの側に立てるようになり、独り立ちする技巧や素材を得る。思想家としての第二段階は、自ら自身そのものとなった「現代」を、完膚なきまでに破壊する試みではないか」
 「大抵の者は、自分自身が紛れもなくその一部である過去を、新たな世代に教え伝える方へとまわる。しかし、あくまでも思索の試みーー経験主義者に落ち着いてしまわず、見えない領域を開きたいと渇望し続ける躍動ーーが生きているというのは、自分自身そのものである過去を、その一番根源的なところから再考し、破壊する方へとまわるということではないか」
 「思索の試みの最大の目的は、現代に生きる思索者が集結し、試みることによって、あまりに重く、超克不可能に見える過去に引きずられることなく、遠い先の時間から見れば、その肥沃な試みの航路こそが未来であるとして立ち戻って読み解かれるような現在を作ることである」
 「何らかの「詩情」、つまり、思想的主張として概念化される背景」
 「思想は新たな一般化を武器とするわけだが、それは一般化に準拠するということではなく、単に概念操作が上手なことではない。それはむしろ、徹底的に具体性に留まり続け、最初の一般化を試み続けることである」

 その後、風呂。湯に浸かり、今日は身体を水平に近く寝かすことなく、片膝を立てて片腕はその上に、もう片腕は浴槽の縁に乗せて、その状態/体勢で目を瞑って、自らの脳内に渦巻く思念に〈視線〉を向ける。これも今まで何度か書いてきたと思うのでもはやお馴染みの考え方だが、考え/思考/思念というのは、こちらの感覚ではあまり能動的なものではない。行為様態、という感じはせず、何と言うか、〈存在〉と言うか、恒常的にそこにある〈もの〉といった感じだ。つまり、人間は常に何かしらのことを考えている。人間の頭のなかには絶え間なく、途切れることなく、何らかの思念が発生し続けていると思う。これは多分自分だけではなくて、一般的に人間というものの頭はそうなっているのではないかと思う。ただそれに自分で気づいているかいないかというところの違いはあると思うが。思考は能動的な〈行為〉ではなくて常に既にそこにある〈存在〉であり、こちら個人の場合は静かな場所で目を閉じさえすればいつもそれを〈見る〉ことができる。と言うか、別に目を閉じなくたってそれは見えているし、静かな場所でなくて、何かほかの活動をしていてもちらちらと垣間見えてくる。ただやはり、風呂のなかとか、一人であまりほかの知覚情報がない場所で瞑目した方が、よく見えるのは確かだ。それで何をこの時考えたのかと言うと、まあ〈思考〉というものが能動性の領域にはないとして、ではそれは受動性の方に位置しているのか、受動態で語られるべきことなのか? それはよくわからない。確かに受動的と言うか、言語そのものが自分の頭を借りて語っていると言うか、言語が自らの頭に去来している、宿って、そこで自分勝手な動きを繰り広げている、という感覚もないではないが、完全に受動的なものかと言うと、それも違うような気がする。となると、今流行りの――かどうかは知らないが――「中動態」ということになるのか? それはよくわからない。
 ともかく、頭のなかで生まれては流れ過ぎていく言語の動きに目を向けていると、それが通常我々が使用している言語と、ある程度までは同じ様態や形式を取っていながらも、決定的な断絶があることに気づく。「決定的な断絶」というのは言い過ぎか? わからないが、ともかく、それはまずもって通常の意味で秩序立っていない。非常に混沌としていると言うか、無秩序で不条理な流れ/展開を成している。勿論部分的には整然とまとまりを成すこともあるのだが。ただ、こうして書き綴っている書き言葉とか、話し言葉の秩序とはまた違った、おそらく一段次元が違ったような姿形をしているようにこちらには感じられる。通常の言語的秩序の方面から見ると、脳内言語には、様々な特有の〈文彩〉がある。レトリック、と言うか、文体的要素と言うか、言語の形を定める特徴と言うか。思いつくままにそれを並べてみると、例えば、破綻/破格、反復/繰り返し、闖入、逸脱、飛躍、連結辞省略、滑走/横滑り、言い間違い、といったような感じか。つまりは脳内の言語は、〈文〉として完全な形に整っておらず、文法を逸脱していたり、繰り返しがとても多かったり、論理展開が上手く繋がっておらず前の瞬間と次の瞬間の意味に断絶があったり、まったく違った、何の関係もない種類の事柄が並んでいたり、いきなり別の考えが闖入してきたりする。そういった感じで、全体としては、通常の分節言語(という用語で良いのか?)の基準から見ると、混沌として無秩序な形を成しているな、ということを、この時改めて観察したわけだ。つまり、書き言葉(文字)及び話し言葉(音声)としてこの現実世界に〈実体化/具現化〉され、感知できるようになる通常の言語様態とは、まったく違った別の言語として、脳内の言語の氾濫はある。エクリチュールでもパロールでもない第三の言語。それを何と呼ぼうか? 〈原 - 言語〉とでも言ってみるか? と言うのも、感覚形態として表出されたエクリチュール及びパロールは、この大元となる内言語を彫琢し、その一部を削り、また一部を埋めて、それによって、意味すること、意味を他者に(その他者というのは勿論、自分自身も含む)伝達することを可能とした形式のように思えるからだ。そういう意味で、源泉となる言語様態、といった意味で、〈原 - 言語〉という語をまあ一応、一つには思いついた。ただ、本当に、この脳内の言語が分節言語の起源と言うか、源泉なのかはわからない。つまりはこの世に生まれて言語を習得したての幼児の脳のなかにも、このように言語が無秩序に渦巻いているのかどうか、それはよくわからない。もう一つには、この脳内言語というのは少なくともこちらにおいては、絶え間ない独白/独り言、誰にも聞こえない自分の頭のなかだけの〈声〉として認識されるので、〈声 - 言語〉と呼んでみても良いかもしれない。何にせよ、人間の頭のなかにはそういう混沌がある、飼い慣らされているということだ。多分こちらだけではなくて、大方誰にでもあるのではないかと思うのだが、他人の頭のなかは覗けないので、そこについて確たることは言えない。ただ、この〈原 - 言語〉もしくは〈声 - 言語〉を、仮にそのまま、順番も変えず、何かを欠かすことも付け足すこともなく、エクリチュールあるいはパロールに移行させることがもしできるとしたら、それは何と言うか、凄く面白いと言うか、異様なテクストになるのではないか、という夢想をした。それこそ真の〈理解不能〉か? あるいはそう上手くは行かず、単なる〈意味不明〉になってしまうのだろうか? わからないが、それはことによると、ほとんど純粋形態の詩のようなものになるのかもしれない。何と言うか、〈理解不能〉を目指す上で、この内言語の形式/様態を取り入れられる範囲で取り入れていくことが、一つの突破口/打開策になるような気がするのだが。しかしそんなことは可能なのか? やはりコードが違うので、どうしても翻訳になってしまうか? まあそれはきっとそうだろう。すなわち、書き言葉(エクリチュール)の形式から脱出することはできないだろう。と言うか、内言語だって部分的には書き言葉の形を共有しているわけだし。と言うことはむしろ、それらのあいだに通底可能性と言うか、入れ替え可能の余地があるのだろうか? よくわからなくなってきたので、ここまでで一旦切る。
 そのほかに考えたのは、Nさんに昨晩語った戦術と言うか、まあここのところ頻繁に書いていることなのだが、要は例の〈主流派〉に対する闘争のことで、やはりその外部に出てしまうのではなく、内部に留まった上で、その隅の方で何かをやるということになるだろうなとは思った。あるいは、内と外とのあいだで絶え間ない動的な〈行き来〉をすると言うか、ほかの言い方をすれば、内側と外側とを、〈跨ぐ〉ような位置取りをしなければならないだろう。そのような形で、〈境界線上〉にある存在として現出すること(つまりは、Eric Dolphyの立ち位置)。目指すのは、〈明解な理解不能〉、すなわち、〈明晰な狂気〉ということになるだろう。
 風呂から出たあと、すぐに上記の思念を書き綴ったはず。その後さらに、三〇日の日記を進めたらしい。一時間弱。Nさんとの会話を、書いたのだったか、それとも簡易的にメモと言うか下書きしたのだったか? 忘れたがともかく打鍵した。そうして次に、書抜き。ロラン・バルト/松島征・大野多加志訳『声のきめ インタビュー集 1962-1980』(みすず書房、二〇一八年)。

 「書く人とは言語活動がたんなる思考の道具であると思い、言語活動に道具のみを見る者です。作家にとっては、反対に、言語活動はそこで物が作り出され、解体される弁証法的な場所で、そこに作家は身を投じ、自らの主観性を解体するのです」
 「わたしにとって、言語学で言うように、テクストを遂行する、つまりテクストを書き、テクストを生産する者にとって成功の主要な基準の一つは同じ一つの文に二つあるいは複数のコードを導き入れることです、その結果読者は任意の状況において誰が正しく、誰が間違っているか、誰があるいは何が他のものより優っているかなどについて決定できないのです」
 「ラカンデリダが、一つひとつのテクストは反復、ステレオタイプ、文化的かつ象徴的コードによって貫かれているにもかかわらず、その差異のうちで唯一であるというパラドックスを信じなければならないという確証をわたしに与えてくれたのです」
 「少なくともこの〈充満した〉世界において、私たちからもっともうまく記号を削除してくれるのは、記号の〈反意語〉、非記号、ノンセンス(通常の意味での〈読解不可能〉)ではありません、なぜなら無意味はただちに意味に回収されるからです(ノンセンスにおける意味のように)。例えば、統辞法を破壊することで言語を転覆しても無益です。それは事実本当に貧弱な転覆であり、さらにけがれのないものとは程遠いものです、なぜなら、よく言われるように「小さな転覆は大きな順応主義を生む」からです」
 「制度との共犯がなければ成功は生まれない」
 「わたしが生き、どこかに出かけ、それこそ通りを行く時にも、あらゆる瞬間に、わたしが考え、反応する時、あらゆる瞬間にわたしの傍らには不連続と組み合わせの観念があるのです。今日もまた、いつもと変わりない、ブレヒトの素晴らしい中国の絵画についてのテクストを読んでいました、そこで彼は中国の絵画は様々なものを別の様々なものと、あるものを別のあるものと並列すると言っています。これはとても単純な表現ですが、じつに美しい、じつに真実な表現です、そしてわたしが本当に求めているものはまさに「傍らに」を感じることなのです」
 「わたしは複数のテクスト、いわんやすべてのテクストを超越するモデルという観念を拒絶し、あなたがおっしゃったように、それぞれのテクストはそれ自体のモデルである、換言すればそれぞれのテクストはその差異において扱わなければならない、しかしその差異はニーチェ的あるいはデリダ的な意味において受け取らねばならないということを公準としたのです」

 書抜きのあいだはSarah Vaughan『Crazy And Mixed Up』をヘッドフォンで聞いていたのだが、"Autumn Leaves"に掛かるとあの曲の威力にやられて思わず目を瞑ってしまい、立ったまま聞き入ることになった。あれは凄い。ほか、同じく作業中に、母親がいきなりやってきて何かと思えば、タブレットを持っており、見ればMちゃんとTさんが映っていたので、ロシアの兄夫婦から電話が来たらしい。おめでとうございますと言われて、まるで不意を突かれたかのように、間の抜けた様子でおめでとうございます、と返さざるを得なかった、ということは、既に零時を回って一月一日に突入していたわけだ。兄夫婦は、あちらではまだ年が明けていないのに、わざわざ日本の新年を祝うために通話を掛けてきてくれたのだ。その後、Mちゃんに呼びかけながらしばらく通話して、終了後、作業に戻る。書抜き後はふたたび高橋行徳『開いた形式としてのカフカ文学』を取り、ひらき、一時間半弱読み進めて、二時過ぎに就寝した。


・作文
 13:31 - 13:46 = 15分(31日)
 21:01 - 21:20 = 19分(30日)
 22:02 - 22:38 = 36分(31日)
 22:38 - 23:34 = 56分(30日)
 計: 2時間6分

・読書
 13:06 - 13:28 = 22分(過去の日記)
 14:34 - 15:10 = 36分(高橋)
 19:00 - 19:46 = 46分(高橋)
 20:14 - 20:54 = 40分(過去の日記; ブログ)
 23:41 - 24:41 = 1時間(バルト; 書抜き)
 24:43 - 26:07 = 1時間24分(高橋)
 計: 4時間48分

・睡眠
 4:00 - 11:40 = 7時間40分

・音楽