2020/1/4, Sat.

 一九三三年一月、ヒトラーが政権を獲得したのちの反ユダヤ主義の行動は、「下からの反ユダヤ主義」と「上からの反ユダヤ主義」という二つの形態がみられることになるが、しかし、興味あるのは、「下からの反ユダヤ主義」たる大衆行動がつねに時間的に先行して、「上からの反ユダヤ主義」たる反ユダヤ政策・立法のイニシアチブをとっていたということである。(……)
 (栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』ミネルヴァ書房、一九九七年、18)


 新年最初の労働で職場に遅刻するという縁起でもない夢を見た。ちょうど今日が現実の、新年の労働初めの日なのだ。風呂に入っているうちに気づかず勤務の開始時刻を大幅に過ぎているというもので、風呂から出るとちょうど母親がどこかから帰ってきたので、送っていってくれるように頼む((……)一五分ほどしかなかったのだ)。部屋に戻ったあと携帯を見ると、当然職場からメールが入っている。そこに電話も掛かってきて、出ると平謝りに謝った。風呂に入っていて勤務を忘れていたと本当のことを言うのが憚られたので、うとうとしてしまったのだと言うと、時差ボケだねと(……)は受ける。年末年始の休みで、平常のリズムが崩れたから、という意味らしい。その後、電話を切ると、隣の兄の部屋から(……)くんと(……)くんがこちらの部屋にやって来る。隣室で、後者が前者に勉強を教えていたらしい。
 八時のアラームで覚めると、と言うか実際にはそれよりも前にもう覚めていたのだが、アラームを受けるとしばらく布団のなかで音を聞いたのち、布団をめくって寝床を下り、携帯を止める。そのまま寝床に戻るが、もう一度寝に入る罪は犯さない。クッションを枕の上に乗せてそれに凭れかかり、雲のない南の空から送られてくる光線を浴びつつ、今日はロラン・バルトの、『サド、フーリエロヨラ』を取った。それで適当な頁をひらいて断片的に文章を読むのだが、これに思いの外に時間を使ってしまい、再度寝床を下りた時にはもう八時二〇分を過ぎていたのではないか。コンピューターを点け、各種ソフトを立ち上げ、インターネット各所をちょっと回ったのち、上階へ。母親に挨拶をしてジャージに着替える。食事は鍋料理。米のおかずとして芸もなくハムエッグを焼くことに。フライパンに油をちょっと垂らし、加熱して、ハムを敷き、その上から卵を割る。丼に米をよそり、黄身が固まらないうちにハムエッグをその上に取り出す。食卓の上には太陽の光が白く溜まって反射しており、屈折したその帯は台所にも入ってきて、流し場の前を通るたびに視界を白く染めて瞳に刺激を与える。テーブルに就き、黄身を崩して醤油を混ぜて白米と絡め、大鍋から鍋料理もよそって食事。新聞、三面、イラン革命防衛隊のスレイマニ司令官が米軍のミサイル攻撃によってイラクで殺害されたと。先ほど見たTwitterでも、ことによると第三次世界大戦か、というような危惧の声が見られた。全面戦争は避けられるとしても、イランが何らかの報復に出ないということはありそうもないような気がする。食物を摂取し、記事を最後まで読んで皿を洗おうというところでインターフォンが鳴った。母親はベランダで洗濯物を干していたのでこちらが受話器を取ると、(……)さんである。お世話になっておりますと挨拶をして、少々お待ち下さいねと受けて母親に知らせると、彼女は何やら仏間に行って袋を取ったり、冷蔵庫を開けたりとちょっと時間を掛けてから玄関に出ていた。何か菓子でも用意したのだろうか。皿を洗っていると、明けましておめでとうございます、本年もよろしくお願いいたしますと母親が挨拶しているのが聞こえてくる。
 母親が放置していた分もまとめて食器を洗っておくと、緑茶を用意して自室に帰った。Evernoteで前日の日課記録。今日の記事も作成。既に九時過ぎ。それから今日のことをここまで綴る。九時半。労働に行きたくない。当然のことだ。
 そして文を読む=食う。まず過去の日記。二〇一九年一月四日――「大窓に掛けられた遮光幕の隙間から太陽が斜めに射し込んで、本の上に横向きの光の帯を作り出し、そうすると紙の頁に刻まれた、樹木の表面のような微細な肌理が目に見えるほどに浮かび上がる。太陽の帯は読み進めるあいだ、段々と頁の上を下って身体に近づいて行き、じきに左の側頭部にまで達して温もりをもたらす。外を見やればあれは何という木か、枝先を伐られて中途半端な箒のように短くなった街路樹が影を伸ばし、道の上は全面白く染まっている」。
 二〇一四年の日記も一記事。日記を読み返しているあいだは、一年前の日記に名前が出てきたのに触発されて頭のなかにメロディが流れはじめたので、Queen『The Game』を流した。それから次いで、間髪入れずに(……)さんのブログも一記事。「(……)」: 「(……)」((……))。

 「そもそも、仮に帝国主義批判や差別批判が公の力を持ったとしても、それらは、各々の中の帝国主義者や差別主義者と対峙し、対話し、乗り越える試みである」
 「ある仏教の宗派では、知識人というのは、悟りを理解できるという意味で悟りに最も近く、他者を悟りに導くことができるが、到達することはできない、と説くそうである。そこには重要な洞察があるように思われる。もしかすると、宗教や哲学の黎明期、預言者とそれを理解可能な仕方で記録する宗徒が対になる傾向にあるのは、そういうことなのかもしれない」
 「「成長」の比喩で捉えるならば、まるで観葉植物を育てているかのように、自らが立ち戻らざるをえない傾向性とは何かを観察し、厳しく批判的に検討し、次にどちらに向かうのかを考えるのである。結局、何を勉強していても、思索は、自分自身にしかならないのであり、その自らの偏向性に抗うことはできない。それが気に入らないからと言って栄養を与えることを止めてしまったり、茎を折ってしまうと、その思想や文学の未来は途絶える」
 「人ではなく、その条件を変革することに関心を持つからこそ、人を直視し、人が生み出す可能性のある表現を、その限界の限界まで許容しなければならないのだ」
 「要するに、最も高い表現は、言うまでもなく、最も遠い外部性から学ぶことを前提とするが、それが人間の表現となるには、未だ理解されぬ、全く根拠のない、どうせその人の育った条件の表現となる、理解可能な技巧や知識の伴った表出である。それを推進するには、自らの中にある「自由」の感覚、「神」の感覚、「美」感覚、「善」感覚などを大事にしなければならない」
 「「神」の魅力は、それが、字義上、個々人の心理や感情に還元できない私の感覚だということである。「自由」にも、そのような魅力があったように思えるが、近代以降、「私自身が好き勝手にやってもいい」という利己主義を推奨する語になっているように感じる側面もある。「美」も、最近は、自分の狭隘さや無知を正当化するための感性装置に堕している気がする。だからこそ、私は、あまりに甘い蜜として至上でありながら、それと共にあることが、私自身を圧倒的に超え出た厳しさを要する「神」に関心を持つ」
 「観葉植物が育つのを観察するように、自己解体において学び続ける中で、どこかで誰かが継承してきた思想や文学の九官鳥となっているとき、それがあくまでも、具体的で有限な私自身という器の表現でもある事実を忘れてはならない。ドゥルーズはこれを言い得ている。「何かを作り出す人間が一群の不可能事に喉元をつかまれていないとしたら、その人は創造者ではない。創造者とは、独自の不可能性を創り出すことだ。マッケンローのように、壁に頭をぶつけることによってこそ、ひとは可能性を発見するのだろう」。思索を試みるというのは、不可能において壁に頭をぶつけ続ける試みの味方をすることである。不可能とは、要するに、既存のあらゆる可能を留保することである。そして、その留保において見えてくるのが、自分自身である」
 「人は数百年ではそう変わらない。そんなものはどうでもいい、と言う者に対して私が言えるのは、ほんの50年や100年の動向によって、人間の精神文化は変わるものではないので、過去から始めるのが古いとは思わない、ということである。むしろ、過去から始めなければ、陳腐な二番煎じを再生産するだけになると私は考える。過去を乗り越えたいからこそ、過去を真正面から見つめ直すのである」

 ラニョー - アラン - カンギレムのラインを勉強しなくてはならないだろう。
 一〇時八分に読み物を一時離れる。一〇時一六分に書き物を始める。そのあいだの八分間は何をしていたのか? 不明。インターネットを見ていたのだろうか。記憶に残らない余白の時間。一〇時一六分からは前日、一月三日の日記を書き進める。書いていてそんなに印象の残った記述や苦戦した箇所はない。引用が多い。四〇分弱で完成、一一時前。インターネット上に投稿しておき、続いて一一時九分から書抜き、ロラン・バルト/松島征・大野多加志訳『声のきめ インタビュー集 1962-1980』(みすず書房、二〇一八年)。BGMはJunko Onishi Trio『Glamarous Life』。四〇分間、コンピューターの前に立ったまま打鍵を続ける。作業に切りをつけた時、何と言うか、思いの外に時間が過ぎるのが遅い感覚があったと言うか、まだ四〇分しか経っていなかったか、というような感じが淡く滲んだ。

 「力強くそして「自分自身」について分類すること、それはたえず書くことです。分類する作家はエクリチュールへの道を歩んでいるのです、なぜなら彼はシニフィアンに、発話行為に足を踏み入れているからです」
 「ある問題について、それは重要ではないと大勢の人の意見が一致を見るとき、一般的に言ってその問題は重要なものです。くだらないことは、えてして真の重要性の場なのです」
 「従来、言語を思考の道具、内面性の、情念の道具と見なし、その結果としてエクリチュールを道具的実践にすぎないものと見なし続けてきた、かの古めかしい神話」
 「導きのテクストとの無媒介的・現象学的な出会いがあたえてくれる知的興奮こそが勝負なのです」
 「かなりフェティッシュな読み方をしています。わたしを高揚させる力をもつ一節、箇所、さらにはいくつかの語をメモするのです。次から次へとカードの上に、引用とか、アイデアが浮かぶのを書きとめて行きます」
 「声のうちにはイデオロギーが存在します、さらには流行さえもが、それはしばしば自然とみなされるものを対象とします。毎年、流行となるのはある特定の身体であり、別の身体ではありません。しかし、最初に、声のうちでもっとも面白いのは、このとても文化的なものが、ある意味で、不在のものであるということです(それも大衆文化によっていく通りにも表象される身体よりもはるかに)。私たちはめったに声「それ自体」を聴きません、私たちはそれの言うことを聴いているのです」
 「文学はあるタイプの社会によって歴史的に限定されたものである」
 「学が完全に廃止されること(文学のない社会はまったく想像可能です)あるいは生産や消費やエクリチュールの条件が、つまり「価値」が変わってしまい、名称を変更しなければならないということは可能です」
 「一般的に言って、わたしが何であるかを言うことはできません――あるいはわたしがこれであり、あれであると言うことはできません。なぜなら、そう言うことは、もう一つのテクストをわたしのテクストに付け加えるだけだからです、そのテクストが「より真実である」保証はまったくありません」
 「主体として、わたしはわたし自身にいかなる述語も、形容詞も張り付けることができません――できるのはわたしの無意識を見誤ることだけです、しかしながらそれはわたしには知り得ないものです」
 「ええ、わたしはエクリチュールを愛しています、しかしこの語は隠喩的な意味を帯びているので(それは文体に近い、一つの言い表し方です)、あえて(先ほど言及された)新しい語を使いたいと思います。わたしは「スクリプション」、私たちが手でもって記号を書き記す行為を愛しているのです」
 「エクリチュールとは手です、したがって身体です。欲動、制御、リズム、計量、変動、複雑さ、逃走、つまり、「魂」(筆跡鑑定は重要ではありません)ではなく、欲望と無意識を備えた主体なのです」

 カフカが手紙で言っている、「自分を咬んだり、刺したりするような本」、「僕たちをひどく痛めつける不幸のように、(……)そして自殺のように、僕たちに作用するような本」、これこそがロラン・バルトの言う、「悦楽」のテクストではないか?
 襞、僅かな塊、あるいは突出部。〈差異の採集家〉であること。
 上記二段落はTwitterに投稿しておいた。何だか、凄く日記らしい。書抜きのあとは、ここのところ尾骶骨が痛くて下半身をほぐしていなかったので――今もまだ痛いのだが――久しぶりに運動(と言うほどのものでもないのだが)をやることに。the pillowsの曲を流し、屈伸をゆっくりと繰り返す。開脚も。曲の流れるあいだ、脚をひらいたままの姿勢で静止し、肉が柔らかくなるのを待つ。あと、両腕を天に向けてまっすぐ挙げたり、手指を組みながら背後に突き出したりして肩甲骨の辺りも和らげる。そういうわけで脚の筋などは多少ほぐれたが、尾骶骨の痛みは変わらない。良くなって来ているのか、悪化しているのか不明。判断がつかない。
 正午を越えたので一度上階へ。家の前の葉っぱの掃除でもするようかと思ったのだった。どうせやるならば、陽の高い時刻に光線の温もりを浴びながらやりたい。上階に行くと母親は不在。買い物に出かけたらしい。まず、風呂を洗う。洗うあいだも尾骶骨の痛みを感じる。屈む時はそうでもないのだが、屈んだ姿勢から元に戻る際に覿面に痛む。それでも風呂掃除を済ませ、それから玄関を開けて外に出てみると、意外と葉っぱは落ちておらず、家の正面は綺麗なものだったので、ならば良いかと室内に戻る。一時に至ったら食事を取ることと決めて自室に帰り、Slavoj Zizek, "Mandela’s Socialist Failure"(https://opinionator.blogs.nytimes.com/2013/12/06/mandelas-socialist-failure/)を読みはじめた。一七分で読了。

・obliterate: 消し去る; 完全に破壊する
・at a price: 相当な犠牲を払って、かなりの値段で
・conjuncture: 組み合わせ、結びつき
・crocodile tears: 嘘の涙、見せかけの涙

(……)In South Africa, the miserable life of the poor majority broadly remains the same as under apartheid, and the rise of political and civil rights is counterbalanced by the growing insecurity, violence, and crime. The main change is that the old white ruling class is joined by the new black elite.(……)

South Africa in this respect is just one version of the recurrent story of the contemporary left. A leader or party is elected with universal enthusiasm, promising a “new world” — but, then, sooner or later, they stumble upon the key dilemma: does one dare to touch the capitalist mechanisms, or does one decide to “play the game”? If one disturbs these mechanisms, one is very swiftly “punished” by market perturbations, economic chaos, and the rest. This is why it is all too simple to criticize Mandela for abandoning the socialist perspective after the end of apartheid: did he really have a choice? Was the move towards socialism a real option?

In the market economy, relations between people can appear as relations of mutually recognized freedom and equality: domination is no longer directly enacted and visible as such. What is problematic is Rand’s underlying premise: that the only choice is between direct and indirect relations of domination and exploitation, with any alternative dismissed as utopian. However, one should nonetheless bear in mind the moment of truth in Rand’s otherwise ridiculously-ideological claim: the great lesson of state socialism was effectively that a direct abolishment of private property and market-regulated exchange, lacking concrete forms of social regulation of the process of production, necessarily resuscitates direct relations of servitude and domination. If we merely abolish market (inclusive of market exploitation) without replacing it with a proper form of the Communist organization of production and exchange, domination returns with a vengeance, and with it direct exploitation.

The general rule is that, when a revolt begins against an oppressive half-democratic regime, as was the case in the Middle East in 2011, it is easy to mobilize large crowds with slogans which one cannot but characterize as crowd pleasers – for democracy, against corruption, for instance. But then we gradually approach more difficult choices: when our revolt succeeds in its direct goal, we come to realize that what really bothered us (our un-freedom, humiliation, social corruption, lack of prospect of a decent life) goes on in a new guise. The ruling ideology mobilizes here its entire arsenal to prevent us from reaching this radical conclusion. They start to tell us that democratic freedom brings its own responsibility, that it comes at a price, that we are not yet mature if we expect too much from democracy. In this way, they blame us for our failure: in a free society, so we are told, we are all capitalist investing in our lives, deciding to put more into our education than into having fun if we want to succeed.

(……)At this precise conjuncture, radical emancipatory politics faces its greatest challenge: how to push things further after the first enthusiastic stage is over, how to make the next step without succumbing to the catastrophe of the “totalitarian” temptation – in short, how to move further from Mandela without becoming Mugabe.

 さらに続けて日本語のインターネット記事も読むことに。伊東順子「「日本に暮らす韓国人」が、いまこの国で直面している不安」(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66722)。

 何人かに話を聞いたが、「メディアやネットはひどいが日常生活では気になることが多いわけではない」という答えが多かった。最近、動画が公開されて問題になった韓国人観光客の入店を拒否するような店の話は出てこなかった。ただ、「日本語のわかる観光客はそうとう嫌な思いをしているのではないか」と心配していた。

 「前は韓国名でツイッターをやっていたんです。そうしたら何を書いても、『文句があるなら、韓国に帰れ』と言われる。それは政治的なことでなくてもです。たとえば、有名店のラーメンが期待はずれだったみたいなツイートにも、もう日本にいなくて結構、韓国のラーメンはパクリでしょ。韓国人は●●でも食っておけばいいとか。そういうレスが一晩に10も20もつくのです」

 「たかがツイッターと思われるかもしれません。でも、中には本当に怖い書き込みもあります。思い出さないようにしていますが。そうすると、街を歩いたり、地下鉄に乗るのも怖くなります。あれを書いた人が、この中にいるのかもしれない。心臓がドキドキして、途中で電車を降りてしまったこともあります」

 そして、綿野恵太「オルタナレフト論 第2回 世界の終わりとすばらしい新世界」(http://s-scrap.com/3048)。細見和之という人の本は、『石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』がかなり面白かった。フランクフルト学派についての中公新書の著作もいずれ読みたいとは思っている。あと、詩集も出しているらしい。

 ドイツ哲学研究者の細見和之は、第一次世界大戦終結した1918年に刊行されたシュペングラーの『西洋の没落』を「フランクフルト学派が成立した時代背景を示すもの」として紹介し、「西洋の文化・文明そのものが崩壊していく危機意識」[2]があったとしている。ここで興味深いのは、著述家の木澤佐登志もまた、ピーター・ティールの思想遍歴を紹介するなかで『西洋の没落』に言及していることだ。世紀末的な雰囲気を背景に国民国家の崩壊を説いた『主権ある個人』(ジェームズ・デビッドソン、ウィリアム・リース=モッグ、1997年)はティールの「生涯の愛読書のひとつ」であるらしいが、木澤はこれを「シュペングラーの『西洋の没落』をリバタリアン好みにアレンジしたもの」[3]と評している。
 (……)リベラル・デモクラシーが自由主義と民主主義という異なる政治システムの混合物であり、両者が克服できない対立関係にあることを示したカール・シュミット『現代議会主義の精神的状況』は1923年に刊行された。(……)

 『すばらしい新世界』で描かれる世界では、人工授精によって人類の繁殖がおこなわれ、胎児は誕生前に「アルファ」「ベータ」「デルタ」「エプシロン」と階級に振り分けられ、その階級に見合った知性や肉体を持つように科学的な操作を受ける。そして、誕生後は集団生活を営み、プロパガンダを徹底的に刷り込まれる。当局と異なる考えをもつことは禁じられ、精神的な動揺や不安を感じたときは「ゾーマ」という精神安定剤を服用する。このような人間の生に関与するテクノロジーを構想したことで、『すばらしい新世界』は現代の管理社会を予言したディストピア小説の傑作と評されてきた。
 アドルノもまた「コンディショニング」という言葉に注目し、次のように述べる。「コンディショニング」は「生物学と行動心理学からアメリカの日常語に移された翻訳しにくい言葉」であり、もともとは「環境を任意に変化させること」「「諸条件」の制御によって特定の反射ないし振る舞い方を呼び起こすこと」[12]を意味したが、「生活条件を科学的にコントロールするあらゆるやり方」を指すようになった。そして、「コンディショニング」によって、「社会的圧力と強迫を、あらゆるプロテスタント的規範をはるかに超えて内面化し、自己獲得させること」が可能となり、「人間は自分がなすべきことを愛するのを断念するが、それでいて自分が断念したことすらも知らない」[13]状態になった、と。
 『すばらしい新世界』の登場人物たちは、幼少期から就寝中にプロパガンダを繰り返し聴かされたために、反射的にプロパガンタを口にしてしまう。ここで描かれるのは、「規律・訓練」(ミシェル・フーコー)の究極的なあり方である。しかし、アドルノが指摘しているのは、むしろ「管理社会」(ジル・ドゥルーズ)だ。アドルノアメリカに見た「システムとして生全体を捉える文明」とは、「自分が断念したことすらも知らない」ように、「環境を任意に変化させ」、「特定の反射ないし振る舞い方を呼び起こ」そうとするという点で、いま私たちが「アーキテクチュア」と呼ぶ権力にほかならない。アーキテクチュアとはある意味で最も成功したプロパガンダである。なぜなら、プロパガンダがもはやプロパガンタとして認識されず、私たちの日常や生活の一部になった状態だからだ。

 (……)そして、いまや『すばらしい新世界』は中国とともに言及される。中国経済学者の梶谷懐は、「芝麻信用」などの信用スコアの普及といった中国の監視社会化・管理社会化を指摘しつつ、「人々のより幸福な状態を求める欲望が、結果として監視と管理を強める方向に働いているという点では、現代中国で生じている現象と先進国で生じている現象、さらには『すばらしい新世界』のようなSF作品が暗示する未来像の間に本質的な違いはない」[19]と述べている。(……)

 (……)結局のところ、人間にしても自然にしても資本の「外部」でありながら、その内部に包摂された擬似的な「外部」にすぎないのかもしれない。左派は階級闘争エコロジー運動などで、この「外部」に依拠するかたちで反資本主義闘争を組織してきたが、ニック・ランドはそのような擬似的な「外部」に飽きたらず、資本主義のまったきの「外部outside」をもとめたといえる。資本主義をさらに加速させることで、人間や自然をすべて食い尽くした果ての「世界の終わり」? しかし、その資本主義のまったきの「外部」が、西洋の不安と羨望を投影される「外部」へといつのまにかすり替わってしまう。

 (……)語りかけるべき対象として、民主主義的な「大衆」も、自由主義的な「個人」も、ともに否定したうえでの、「架空の証人」に宛てた「投瓶通信」(……)

 上記記事を読み終えると一時に達したので食物を摂取することに。上階へ。台所に入り、大鍋からスープを椀と言うか深皿によそって電子レンジへ。同時にフライパンに水を注いで火に掛け、レトルトのカレーを浸しておく。そうして卓に座り、持ってきた芝健介『ホロコースト』を読みながら料理が温まるのを待つ。読んでいるのは第Ⅵ章「絶滅収容所――ガスによる計画的大量殺戮」のところ。じきに電子レンジの稼働が止まったので席を立ち、スープを運んでくる。新書をティッシュ箱で押さえようと思ったが、箱の重さが足りずに上手く押さえられなかったので、左手に本を持ち、右手で箸を操って、汁が頁に跳ねたりしないよう慎重に、ゆっくりとものを食べながら文を読み取る。スープを飲み終えるとまた台所に行き、レトルトカレーのパウチを沸騰した湯のなかから取り出して、大皿に盛った米に流しかける。そうしてふたたび席に就き、同じように左手の指で本をひらき、右手には今度はスプーンを持ってカレーライスを食べる。ほどなくして食べ終え、食器を洗ったあと、緑茶を用意して自室へ。読書を続ける。ヘウムノ、ベウジェツ、ソビブル、トレブリンカなどの絶滅収容所の稼働開始時期や、その犠牲者数などは、あとあと読書ノートにメモを取り、書抜きもすることにして、そのために手帳に頁番号を記録しておく。トレブリンカは、一九四二年の七月二三日に始動したのだが、ここにはワルシャワ・ゲットーの住民が大量に移送され、「九月末までにワルシャワ・ゲットー住民男性の87・4%、住民女性の92・6%がガス殺される」(183)とあって、思わず、は? と思った。マジで? と思った。本当に意味がわからないと言うか、信じがたいとしか言いようがない。九割だぞ? 今読んだウィキペディアの記事の記述も引いておこう。

 1942年7月22日、ラインハルト作戦の執行責任者であるオディロ・グロボクニク親衛隊少将の強制移住部隊のヘルマン・ヘフレ(Hermann Höfle)親衛隊大尉がワルシャワ・ゲットーのユダヤ人評議会を訪れた。ユダヤ人評議会議長チェルニアコフはヘフレから「特定のグループを除いて、性別や年齢にかかわらず、ユダヤ人全員を『東部』へ移送する」旨を通達された。チェルニアコフはドイツ政府との完全協力によるゲットー解体の阻止に賭けていた自分の政策が敗れたことに気づかされ、絶望した。せめて子供と孤児は移送対象から外してほしいと要請したが、それも拒絶された。7月22日、チェルニアコフは青酸カリを飲んで自殺した[29]。
 チェルニアコフ自殺を受けて、ユダヤ人評議会は即座に議長代理マレク・リヒテンバウム(Marek Lichtenbaum)を後継の議長に選出した[30]。リヒテンバウムはドイツの命令に機械的に従い続けた。ゲットー警察が次々とゲットー住民を検束してウムシュラークプラッツ(集荷場)ヘ連行した。連行された人々は親衛隊の列車に乗せられてトレブリンカ絶滅収容所へと移送されていった。なお移送対象者の狩りたては初めゲットー警察が中心に行っていたが、移送が急ピッチになってくると、ドイツ兵やウクライナ人補助兵もゲットーの中に入って来て狩りたてに参加した[31]。
 1942年7月末までに6万人が移送され、8月15日までにはゲットーの人口の半分が移送された。そして第一次移送が終了した9月13日までには総計30万人が移送されていた[32]。移送作戦中に殺害された者も多く出た。ユダヤ人評議会の報告によるとゲットー住民のうち、銃創による死者数は、1942年8月には2305人、9月には3158人としている[33]。
 この時点でゲットー内に残っていたのはせいぜい7万人程度だった。半数が労働者登録されており、残りの半数は隠れた者たちである。大多数が20歳から39歳の間であった。ゲットーの規模は急速に小さくなり、ユダヤ人の住居はゲットー内の北東部の隅に限定された。しかし工場などの作業場はレシュノ通り、カルメリッカ通り、トヴァルダ通り、プロスタ通りなどにいまだ存在していた。ゲットーの他の部分は空になった[33]。第二次移送作戦は1943年1月18日に開始されたが、抵抗運動の激化のせいで四日間で打ち切られ、6,500人程度の移送しかできなかった[34][35][36]。
 (https://ja.wikipedia.org/wiki/ワルシャワ・ゲットー)

 トレブリンカでは諸説あるものの、七〇万から九〇万人のユダヤ人が殺されたらしい。これはアウシュヴィッツ=ビルケナウにも匹敵する数だ。トレブリンカ及びソビブルでは、収容者の武装蜂起が起こっていたこと、それが遠因的にかもしれないが、収容所の閉鎖に繋がったことも記憶しておくべきだろう。絶望的としか言いようがないはずの状況下で、それでも抵抗した無名の人間たちがいたという事実を、やはり記憶しておくべきだろう。「トレブリンカ絶滅収容所では、一九四三年八月二日に収容されていたユダヤ人が武装蜂起する。結局鎮圧されたが、収容所はその後、閉鎖・解体されることになる」(185)。「一九四三年一〇月一四日、収容所内でソ連軍捕虜とユダヤ人が中心となり武装蜂起する。その日のうちに鎮圧されたが、数十名は地雷原を越えて森に脱出し、戦後まで生き延びた人もいる。その直後、ソビブル絶滅収容所は閉鎖・解体が決定された」(182)。
 プリーモ・レーヴィが伝えているオーストリア・ハンガリー帝国軍の元軍曹、シュタインラウフの言葉を思い起こそう。同意を拒否する能力[﹅9]。

 (……)ラーゲルとは人間を動物に変える巨大な機械だ。だからこそ、我々は動物になってはいけない。ここでも生きのびることはできる、だから生きのびる意志を持たねばならない。証拠を持ち帰り、語るためだ。そして生きのびるには、少なくとも文明の形式、枠組、残骸だけでも残すことが大切だ。我々は奴隷で、いかなる権利も奪われ、意のままに危害を加えられ、確実な死にさらされている。だがそれでも一つだけ能力が残っている。だから全力を尽くしてそれを守らねばならない。なぜなら最後のものだからだ。それはつまり同意を拒否する能力のことだ。そこで、我々はもちろん石けんがなく、水がよごれていても、顔を洗い、上着でぬぐわねばならない。また規則に従うためではなく、人間固有の特質と尊厳を守るために、靴に墨を塗らねばならない。そして木靴を引きずるのではなく、体をまっすぐ伸ばして歩かねばならない。プロシア流の規律に敬意を表するのではなく、生き続けるため、死の意志に屈しないためだ。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、46~47; 「通過儀礼」)

 緑茶を飲み、さらに歯磨きをしながら書見を進めて二時直前に至ると切り上げ、脱いでいたダウンジャケット(茶を飲むと身体が熱くなって汗が滲むためだ)を羽織り、洗面所に行って口を濯ぎ、上階に上がった。洗濯物を取りこむためである。陽の射したベランダに出ると、眼下の向こう、(……)さんの家の敷地に、薄茶色と白を組み合わせた体色の猫がうろついているのが見えた。咳払いをすると、猫はその音を聞きつけたらしく、こちらの方に顔を向けてじっと止まってみせたが、すぐにまた動き出して見えなくなった。タオルやパジャマやジャージや足拭きマットやシャツなどを室内に入れたあと、まずタオルを畳み、それを洗面所に運んでおいてから次に肌着やジャージを畳み、そうしてアイロン掛け。〈思念 - 言語〉を脳内に回しながらシャツ三枚を処理する。そうして下階へ。「たとえ監獄に入れられたとしても誰も奪えぬ私の独語」という短歌をTwitterに投稿しておき、日記を書き出す。ここまで綴れば三時一六分。労働に行きたくない。当然のことだ。
 それから、労働に向けてもう着替えてしまうことにした。上階に行き、仏間に入ってペンギンの象形が描かれた靴下を履き、下階に戻って着替え。Bill Evans Trio "Alice In Wonderland (take 1)"を流す。まずジャージの上着を脱いでワイシャツを纏い、次に下も脱いで畳んだジャージのズボンをベッドに向かって優しく放っておき、スラックスを履く。ネクタイは濃い目の水色のもの。ベストをつけ、ジャケットも羽織ると労働までの時間で音楽を聞くことにした。まず、Bill Evans Trio, "Some Other Time"(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』: D1#8)。穏和で落ち着いている綺麗なバラードで、小難しいことをやっていないのに平凡に陥っていない。今更言うまでもないことなのだが、Scott LaFaroのアプローチがやはり絶妙なのではないか。さほど派手なこと、あるいは複雑なことはやっていないものの、尋常のベースに演じさせたらとてもこうは行かないはずで、多分もっと起伏のない、淡白で退屈な演奏になるか、あるいは無闇に甘ったるいいかにもなバラードになってしまうのではないか。Bill Evansはいつも通りの、さすがの統制感で緩みがない。この曲では、このトリオにあっては例外的なことかとも思うが、LaFaroがEvansとMotianとのあいだを繋いでいるような印象を受ける。両者のあいだに〈描線〉を引いて空間を横切り、渡りをつけて接続しているようなイメージだ。
 次、Clifford Brown & Max Roach Quintet, "Swingin'"(『Study In Brown』: #3)。Bill Evans Trioを聞いているあいだもそうだったが、どうも希薄ながら眠気があって、意識がほどけるほどでないが、瞑目の視界に無関係なイメージが割り入ってきて邪魔をされ、音楽に到達できない。それで、これでは今は駄目だなと判断。古色蒼然とした曲に演奏だな、というような印象のみをちょっと得た。
 音楽鑑賞を切り上げたのは四時一〇分。残り時間で記憶ノートを復習することに。一頁目と二頁目はもう何回か触れているので、目を閉じながら、わりと容易に情報を思い出せる。三頁目は昨日に引き続き二回目。歴代の日本の総理大臣の就任日など追っていく。第一次安倍政権から野田佳彦政権まで追ったところで四時半に達したので切りとして出発することに。上階へ。食卓灯を引き、居間の三方のカーテンを閉める。灰色の、Paul Smithのマフラーを首に巻き、その上からコートを羽織る。玄関へ。尾骶骨は相変わらず痛むし、右脚の膝の辺りも柔らかくほぐれておらず、固まっているような感覚があってやや痛む。玄関を出てポストに寄り、夕刊と父親宛の年賀状や封筒を取って玄関内へ。夕刊一面には、米国が中東に三〇〇〇人増派の方針とか伝えられていた。
 出発。空気はかなり冷たい。冷気が無遠慮に肌にまつわってくる。坂に入ると前方から老婆二人。右手の川を見ながら上っていき、近づいたところで視線を向けるとあちらも向け返してきたので、こんにちはと挨拶を向けたが、明確な返答はなし。バッグを右の小脇に抱えて、手指はコートのポケットに入れながら進む。鼻や口の周りにひりつくような冷気を感じながら街道に向かっている途中、(……)さんの宅の前に掛かったところで突然何かしら花の香が匂って、思わず辺りを見回したが源がわからない。花などどこにも見られない。宅の横、今しがた過ぎてきたガードレールの向こうの斜面に、ここは確か蠟梅があったはずだから、それがひらいていて香りが漂ってきたのだろうか。
 街道、空、冷たい色。青さは既に、ほとんど褪せたようになっている。明日の予定を考えながら行く。緑茶が切れたので新しいものを買うために(……)のスーパー((……))に出かけなければならない。ついでに図書館に寄るつもりである。CDはまあ借りるとしても、本はどうするか。借りるとすればロラン・バルトを措いてほかにはない。著作集のどれかを借りるか。あるいは『批評と真実』も――まだ棚に出されてあるかわからないが――ある。しかし自宅にもバルトの著作がたくさん積んである。そのなかでどれを次に読むべきか。やはり年代順に行って、『ミシュレ』に取りかかるべきか。それとも発表年など気にせずに、その時一番興味が向くものから取り上げていくべきか。あるいは(……)図書館まで出て、『ラシーヌ論』か『テクストの楽しみ』あたりでも借りてくるか。また二年だったか三年だったかするとカードの期限が切れて借りられなくなるので、今のうちに借りたい本をできるだけ借りて読んでおくべきではないのか。まあ、また(……)に更新してもらえば良いのかもしれないが。と、そんなことを思い巡らせながら行く。ひとまず地元の図書館に行くことは決定として、本を借りるかどうかはその時その場の気分=欲望で決めようと考えた。
 あと、街道を行っているあいだに、自己規定と言うか、自らを言い表す/自らに判決を下す名詞を考えた。まあ自分は「作家」である、と言明しても別に良いし、実際に数年前にはそのように日記に書きつけたこともあるけれど、「作家」という語には社会的に余計な/余分な/煩わしいニュアンスがどうしても付与されていて、つまりその周りを、(雲に囲まれた朧月のように?)〈暈〉が取り囲んでいる語なので、正面切って私は作家である、と断言するのは何となく今は憚られる。こちらが考える「作家」という言葉の意味は、ただ単に、書き続ける人、書くことをやめない人、ということだ。それが作家の存在論的定義だと思うのだが、世はそうは見てくれない。だから、そこから逃れて、〈書く人〉、〈書く者〉、とシンプルに自己規定したい気はするのだが、ただ、ロラン・バルトの定式に従うと、「書く人」はむしろ彼にとっては「作家」との対立において劣位を与えられている項なのだ。「書く人とは言語活動がたんなる思考の道具であると思い、言語活動に道具のみを見る者です。作家にとっては、反対に、言語活動はそこで物が作り出され、解体される弁証法的な場所で、そこに作家は身を投じ、自らの主観性を解体するのです」(ロラン・バルト/松島征・大野多加志訳『声のきめ インタビュー集 1962-1980』みすず書房、二〇一八年、146; 「『レクスプレス』誌は前進する…… ロラン・バルトとともに」; 『レクスプレス』誌、一九七〇年五月三一日号)というわけで、この定式に倣うならばこちらは勿論、「作家」と呼ばれるべき様態でありたいと思っているわけだが、先にも言ったように「作家」という語は〈暈〉が濃い。「書く人」も「作家」もどちらも自称として使いにくい、とするならば、まあ何のひねりもなく、実にありきたりな語だけれど、単に文を作る人、という意味で、〈作文者〉あるいは〈作文家〉というところに自己規定をしておこうかな、と街道を歩きながら考えた。
 あとの道中は、例えば、「愛」とか「愛する」とかいう言葉はあまりにも紋切型であると言うか、この世界において最も流通している紋切型の一つで、少なくともこちらは〈正面切って〉使うのは憚ってしまう類の語なのだけれど、ロラン・バルトはわりと頻繁にと言うか、恐れを持たずにと言うか、一種〈恥ずかしげもなく〉、「愛」という語を使っているような気がする、などと思い巡らした。彼にとって「愛」は、かえってその空洞性と言うか、内容空疎ぶりが好ましいのだろうか。つまり、シニフィアンとしては紋切型に過ぎるけれど、シニフィエとしてはこの世の言葉のなかでおそらく最も拡散的なものの一つであると言うか、意味が広がり、横滑りし、拡張し、〈ほどけて〉いくような、その風通しの良さを好んだのだろうか、とか考えたが、勿論実際のところはわからない。ただ思い起こされるのは、『ロラン・バルトによるロラン・バルト』のなかで、「アルゴー船」の比喩を使って述べていた一節である。石川美子の新訳本の方はまだ書抜きをできていないので、引用は旧訳の方になるが。

 (……)愛の呼びかけは、毎日、時の経過を通じて反復され、同じ文句で繰りかえされるものであるにもかかわらず、それは私によって発言されるその都度、ひとつの新しい状態をあらわすことになるのだ、と私には思われる。アルゴ船の一行がその航海の間に、船名は変えることなく、しかもその船には新装をほどこしていく、あれと同じように、愛し焦がれている主体は、同じひとつの感嘆のことばを通じて長い道のりを行く。そしてその間に、はじめにいだいていた求める心を次第に弁証法化しつつ、しかも最初の話しかけがもっていた白熱の光を曇らせることがなく、また、愛の働きと言語活動の働きとはまさに同一の文に対してつねにさまざまの新しい声調を与えることにほかならないと考え、そのようにして、いまだかつてなかったひとつの新しい言語を創作していく。それは、記号の形態は反復されるけれどもその記号内容は決して反復されることがない、という言語である。そこでは、話し手と愛する人は、ことばづかいというもの(および精神分析的な科学)によって私たちの心情すべてに強制されてしまうあの残虐きわまる《還元作用あるいは縮約作用》に対して、ついに打ち勝つことができるのだ。
 (佐藤信夫訳『彼自身によるロラン・バルトみすず書房、一九七九年、174~175; ことばの働き Le travail du mot

 あと性について考えたり、「好きなタイプ」問題について考えたり、要するに、「好きなタイプ」について訊かれた時にいかに〈はぐらかす/誤魔化す〉かとか、また、「顔」と「性格」の〈偽〉の対立について考えたりしたと思うが、細かな内容は覚えていない。あと、「愛」ではなくて、〈慈しみ〉という概念を思考の内に導入するのはどうか、とか。路程の最後の方では、精神分析理論において「愛」というのは――特に「欲望」や「欲動」との関係で?――どのように考えられているのだろうな、という疑問を持った。精神分析の本もいずれ読まねばならないだろう。バルトも主にラカンに影響を受けたのだと思うが、その概念や用語を結構取り入れているわけだし。
 頭のなかのことではなくて、脳の外の世界についてはよく覚えていない。何か印象深いものを見聞きしたか? (……)坂を渡ってまもなくのところに生えている広葉樹が葉鳴りを起こしていたのは、それはこの夕方ではなかっただろうか。よく覚えていない。半月が途中で直上付近に昇っていたはずだ。もうだいぶ日が長くなってきたような印象はあった。雲は? いくらか、と言うか結構浮かんでいたはずだが、それに対して何らかの〈差異〉を感受/採取した記憶はない。まあ、よく覚えていないことにかかずらうのはやめて、さっさと職場でのことに移ろう。
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)

 (……)兄は実業家になるとか言ってしきりに英語を勉強していた。元来女のような性分で、ずるいから、仲がよくなかった。十日に一遍ぐらいのわりで喧嘩をしていた。ある時将棋をさしたら卑怯な待駒をして、人が困ると嬉しそうに冷やかした。あんまり腹が立ったから、手にあった飛車を眉間へ擲[たた]きつけてやった。眉間が割れて少々血が出た。(……)
 (夏目漱石『こころ 坊っちゃん』文春文庫、一九九六年、10~11)

 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)退勤。コンビニへ。入る。奥の壁際の通路と言うか順路を通ってレジへ。年金を支払う。相手は中年の男性店員。何となく、まだ仕事に余り慣れていないような雰囲気。あの歳でコンビニの店員というのも、大変である。どういう人生を送ってきたのだろう。こちらも大して変わらないと言うか、そういう生になるかもしれないが。
 退店。帰路はそんなにものも考えなかったし、そんなに見たものもなかったと思う。冷気は往路同様、強かった。(……)裏。駐車場の縁に設置された各所の駐車場所の空き/満杯を示す表示板の、いくつか並んだ「空」の字が蛍光的な緑の光を発しているのだが、その光が通りを渡って向かいの家の白一色の壁に掛かって家を変色させており、その光の勢いの強さと言うか、勢力には、随分遠くまで届くなとちょっと驚かされる。寒かったので、自ずと足が速まったような気がする。表通りに来る頃には、スラックスの内側、太腿が随分冷えていて、まるで小便を漏らしたように、という比喩をまた思った。
 下り坂の出口から自宅を見ると、階段下の室に白い明かりが点いているのがわかって、父親が年賀状の作業でもしているのだろうかと思ったが、帰宅してみるとそうではなく、むしろ居間にいる方が父親で、階段下には母親がコンピューターでテレビを見ているのだった。自室へ帰って着替え。ジャージ姿で食事へ。食事、何だったか? ピザパンと米と、汁物は何だったか? 何かシーフードが入ったスープの類だったような。違うか? おかずが全然思い出せない。思い出した。何か濃い色の、凄く濃い褐色と言うかデミグラスソースのような色の、あれは多分冷凍の唐揚げか何かを切って炒めて和えたものではないか。何かそんな料理。それを米の上に乗せて食べた。食後、入浴。入浴中のことで覚えているのは、眼を瞑っていると窓外から突然、葉擦れの響きが鳴りはじめたことで、風が通ったのだろうが、それが随分長く、風呂を出るまでずっと続いていたものだから、まさか風ではなくて雨が降り出したのだろうかとも思ったのだが、しかし耳を寄せてみるとやはり音のなかに湿り気がないと言うか、乾いた響きなので、やはり風だったのだと思う。本当に、随分長いあいだ吹いていた、鳴っていた。出ると室に帰って、多分茶を飲みながらだったと思うが、記憶ノートをふたたび学習し、四頁目まで確認した。続いて、その記憶ノートに新たな情報を書き足す時間も取って、さらに芝健介『ホロコースト』も読書ノートにメモ。そのあいだに掛けたBGMは、何となくThe Beatlesが聞きたくなったので、『A Hard Day's Night』と『Abbey Road』。そうして零時半に至ると、この日の作文時間が二時間に達していなかったので、せめてあと三〇分ほどは綴って二時間は越えようと思い、この日当日のことを書き綴った。そうして一時過ぎ。そこから芝健介『ホロコースト』を三時四〇分まで読み進めたのだが、後半は久しぶりにベッドに入って読んでいて、じきに意識が朧になっていたので、実質読書時間はもう少し少ないはずである。