2020/1/6, Mon.

 運動は一九三五年四月から五月にかけて、まず伝統的に反ユダヤ主義の強い西部ドイツと南部ドイツにおいて勃発した。六月六日付のゲシュタポの情勢報告は、党の広範な層は「いまやユダヤ人問題を徹底的に解決するときが来た」と考えていると報じた。彼らは、「ユダヤ人問題を下から盛り上がらせ、その解決に着手すれば、政府はこれに従わざるをえまい」と考えていたのである。党の下部指導者たちは自発的に行動を組織し、ユダヤ人の商店と百貨店を襲った。七月と八月には運動はベルリンを除く全ドイツに広がり、SA、ドイツ労働戦線、ナチス商工団、ナチス婦人団、ヒトラー・ユーゲント等を動員した一大運動になった。
 しかしながら、これは党指導部の意図するところではなかった。八月九日、ナチ党全国指導部は全国の党支部に対して、「ユダヤ人に対する一切の無法な個人行動は阻止さるべきである」と通達したが、しかし、行動は止まなかった。この行動に対してもっとも強い批判を行なったのは経済相シャハトであった。彼は八月一六日にケーニヒスベルク反ユダヤ主義行動を批判をした演説を行なってセンセーションをまきおこしていたが、八月二〇日には彼のイニシアチブで、経済省においてこの問題についての各省連絡会議が開かれた。
 席上、シャハトは現在の反ユダヤ主義行動が経済政策と軍備拡張に大きな悪影響を及ぼしているとして、とくに無軌道な「個人行動」に対して強い批判を行なったが、これにたいして、党を代表して出席したバイエルン大管区指導者ワーグナーは、「党としても個人行動は是認していない」と答えたが、同時に、「いずれにせよ、国家は住民の反ユダヤ主義的気分を考慮しなければならないので、たとえ段階的にせよ法的な措置によって経済からのユダヤ人排除に踏み切らなくてはならない。それによって、住民の間にみなぎる不穏な動きが抑えられるであろう」と述べた。このようななかで、九月のニュルンベルク党大会で発表されたのがナチスの代表的な反ユダヤ法とされる「ニュルンベルク法」である。
 (栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』ミネルヴァ書房、一九九七年、20~21)


 八時四〇分のアラームで覚めたはずが、二度寝に突入する。今日は臥位を回避できなかった。心身の重みに苦しんで、一〇時五五分まで床に留まった。ようやく身体を起こし、布団の下で胡座を搔いて少々息をつく。それからベッドを抜けて、ダウンジャケットを持って上階へ。母親に挨拶。ジャージに着替える。石油がもうなくなってしまったと言う。ストーブのタンクにないだけではなくて、外の箱のなかに保存されてあるポリタンクの方も空っぽだと言う。買ってこなければならない。ところへ母親の携帯に、父親から電話が掛かってきた。通話中、こちらは台所に入って、前夜の鶏肉のソテーを電子レンジへ、そして米もよそる。電話は、何か届け物をしてほしいということだったらしく、こちらが卓に就いて食事を取っているあいだに、母親は用事を済ませに出ていった。新聞から、米イラン関係の悶着についての記事を読みながら、鶏肉をおかずにして白米を口に運ぶ。咀嚼する。食べ終えると皿洗い。次いで、風呂洗い。さらに、洗面所で髪の毛の形を少々整え、自室に帰り、コンピューターを起動させて各種ソフトを立ち上げておき、そのあいだに緑茶を用意しにいく。注いで戻ってくると飲みながらEvernoteで前日の日課記録をつけ、この日の記事も作成。そうして読み物に触れはじめる。まず、一年前の日記。二〇一八年一月三日の通話後、(……)さんが自分のブログに書いた考察が引かれている。最近のこちらの思考と軌を一にしている。〈明晰な狂気〉。ひとまずはやはりこの路線で行くほかはないだろう。

(……)一休宗純の逸話など拾い読みしていると、あれは相対化の極北=自己解体=悟りの域に達したものの、あえてそこで別様の「制度」「権威」(とそこからなる「主体」)をたちあげず、既存の「制度」「権威」(とそこからなる「主体」)をいわばある程度模倣する格好で倒錯的にたちあげたのではないか、既存の「制度」「権威」(とそこからなる「主体」)をあえてふたたびよそおうにいたったのではないかという感じがおおいにするのだ(というかそういうふうに彼の生涯が「読める」)。一休宗純だけではなくほか多くの風変わりな逸話をのこしている僧・仙人・宗教家・哲学者・芸術家などもやはり同様である気がするのだが(彼らはみな奇人・変人ではあるかもしれないが、決して狂人ではない)、しかしながらそれならばなぜ彼らはそのような擬態にいたったのかとこれを書いているいま考えてみるに、それは、既存の「制度」「権威」(とそこからなる「主体」)からおおきく逸脱した「制度」「権威」(とそこからなる「主体」)というのが、ほかでもない狂人でしかないーーそのような存在様態としてしかこの世界という「制度」「権威」内では認識・解釈できない主体になるーーからなのではないか。物語に対抗するために有効なのは非物語ではない。意味に対抗するために有効なのは無意味(ナンセンス)なのではない。物語に対抗するために有効なのがその物語の亜種に擬態しながらも細部においてその大枠をぐらつかせ、亀裂をもたらし、内破のきっかけを仕込むことになる致命的にしてささやかな細部(の集積)であるように(体制内外部!)、既存の「制度」「権威」に変化を呼び込むのは(「くつがえす」のではない)、既存の「制度」「権威」(とそこからなる「主体」)に擬態する狂人なのではないか(これは蓮實重彦が想定する「物語」と「小説」の対立図式を踏まえた見立てだ)。狂人でありながらこの世界を生きるために狂人でないふりをするほかない役者の芝居、演技、その上演の身ぶりこそが、いわば革命の火種をいたるところに散種する。芸術にかぎった話では当然ない。政治経済を含むこの社会全域において応用可能な話だ。革命は「転覆」ではなく、「変容」あるいは「(変容の)誘導」として、いわば永遠のプロセスとして試みつづけられている。という論旨になるとなにやら『夜戦と永遠』めいてくるわけだが、これはしかし換言すれば、「動きすぎてはいけない」(千葉雅也)ということでもある。狂人としてふりきれてしまうのでもなく、かといって既存の主体におさまるでもない、既存の主体に擬態しながらも部分的にその枠からはみだしてしまっている、そのような「中途半端さ」(これは今回の通話におけるキーワードである)にとどまるという戦略。

 続いて二〇一四年四月一三日、またfuzkueの「読書日記」も読むと、正午を回っている。前日の日記を書かなければならない、それは了解している。しかし、今はどちらかと言うと、先に音楽を流しながら書抜きをする方に気分が向いているのでそうすることに。その前にここまでこの日のことを綴って、一二時一七分。尾骶骨はましになっているような、そうでもないような、よくわからない。起きた直後はあまり痛みはないのだが、その後、時間が経つと段々痛み出す。
 書抜き、ロラン・バルト/松島征・大野多加志訳『声のきめ インタビュー集 1962-1980』(みすず書房、二〇一八年)。BGMはPat Metheny / Brad Mehldau『Metheny Mehldau』。

 「わたしは、思想と芸術の類似的形態に対してつねに敵意を感じてきました。まさにその逆の理由で、わたしは言語記号をあんなに愛してきたのです。ずいぶん昔のことですが、ソシュールを読んで、言語記号にはいかなるアナロジーもない、シニフィアンシニフィエのあいだには類似の関係がない、ということを発見したのです」
 「順応主義的なこの社会がつねに支持しているもの、それは、事物がたがいに似通っているという事実に基づいて自然らしさが形成されるという考え方です」
 「常識というものは、いつも自分に似ているものを「自然らしい」と判定するのです」
 「これはブレヒト的なテーマ(「規則のもとに誤用を見出せ」)でもあります。自然らしさのもとに、歴史を見出せ、自然らしくないものを見出せ、誤用を見出せ」
 「論説とは、人が言わんとすることに究極の意味を付与する目的で構築されるディスクールのことで、それは一九世紀以前のレトリック全体のきまりなのです。構築され、覆われたディスクールに対して、断章は、座をしらけさせるもの、断絶なのです。それは、文・イメージ・思考をいわば粉砕する作用であり、そのどの一つも最終的に「固まってしまう」ことはない」
 「アナーキズムエクリチュール
 「このような凝固を阻止するいちばんの方法は、外見上は古典的なコードの内部にとどまるふりをすることでしょう。一定の文体論的な要請に従ったエクリチュールという外見を守ること、そのようにして、すさまじいほどに無秩序な形式ではないが、ヒステリーを回避する形式を通して、最終的な意味を分解してしまう、というやりかたです」
 「ロマネスクとは、物語に基づいて構造化されることのないディスクールの一様式です。日常的な現実、人物、生活のなかで発生するすべてのことに対する関心、備給、覚書の一様式です」
 「作家は、みずからの実践が「無償の」行為であることを引き受けるべきだ、ということを納得することが大事なのです。作家は非実用的な存在です。少なくとも大部分の者はそうです。そのために、作家は純粋消費のユートピア、「無償の」消費のユートピアを展開するということになります。この現代社会において、作家は、みずからの実践をユートピアとして生きる倒錯者としてのみ自己主張しうる存在、みずからの倒錯性、みずからの「無償性」を社会的ユートピアとして投射する傾向をもつ者なのです」
 「言語活動はたんなるコミュニケーションの道具ではない、言語活動は直線的なコミュニケーションではない、と倦まずたゆまず主張するのが、わたしの役割である」
 「真に重要な課題とは、内容のなか、文学と呼ばれる授業時間のなかに、教育制度によって予知されない価値や欲望を(それらが抑圧されていないときに)いかにすれば持ち込むことが可能か、を知ることにあり、実際的には、いかにそこにサド的意味における情動と繊細さを持ち込むか、ということです」

 三七分間、打鍵。欲望に従うことが肝要だ。今、何をしたいのか、何に気が向いているのかを見極めること。一方で、日記の問題もあるわけだが。つまり、早めに書かないと記憶が薄れてしまう、書きたかったことを書けなくなってしまうという問題もあるわけだが。それでもやはり、(環境や外部条件によって象られる)欲望の質と量(すなわち〈形[フィギュール]〉)とを見極めること。作業を始めたあと、どこで終えるかもそれに則る。書抜き後、一時を回ってから日記を書きはじめた。前日、五日の分である。大した内容でもない思考を綴るのに時間が掛かる。一時間半ほど書きつけて/打鍵して、二時半に至ったところで一旦中断。食事を取りに上階へ。レトルトカレーを食おうかとも思ったが、ハムエッグを焼くことに。どちらにせよ芸はない。ハムと卵をさっとフライパンで加熱し、一方で大鍋の野菜スープを温めた。それぞれ丼の米の上と椀に盛って卓へ。持ってきたロラン・バルト/鈴村和成訳『テクストの楽しみ』をひらき、ティッシュ箱で頁をひらいたままにしようとするが重さが足りない。リモコンも組み合わせてようやく不安定ながら頁がひらいたままになり、文を追いながらものを食べることができる。卵の黄身と醤油を米にぐしゃぐしゃと絡めて食う。スープはなかなか美味い。野菜がよく煮えており、シーフードミックスも入っているためだろうか、味わい深い。もう一杯おかわりさせてもらい、食べ終えると食器を洗う。米を新しく磨いだり、アイロン掛けをしたりしなければならないと思ったが、ひとまず食後の一服をすることに。緑茶を持って下階へ。三時一四分からロラン・バルト/鈴村和成訳『テクストの楽しみ』を読み出す。読書ノートにメモをしたい記述が多すぎる。場所によってはほとんど一頁毎に手帳に頁番号を記録している。緑茶を飲み終え、歯磨きをしながら書見を続け、三時半過ぎで切り。洗面所に行って口を濯ぐ。鏡のなかに映った自分の顔を見て、眉毛をちょっと切り揃えておくことに。身だしなみは何だかんだ言って大事である。それで自室に戻ってコームと鋏を持ってきて、鏡を見ながら眉の上部を短く整えた。その後、家事を済ませるために上階へ。まず先ほど畳んでおかなかった――と書いたところで気づいたが、先ほど食事を取る前に洗濯物を取りこんでいた。二時半過ぎだったが、それにしては西の太陽がまだ眩しかった――靴下や肌着などを揃えて整理しておき、それからアイロンのスイッチを入れて台を炬燵テーブルの端に出す。いや、その前に炊飯器の米の余りを皿に取っておいたのだった。そして、釜が熱かったので、冷めるのを待つあいだにアイロン掛けをしようと思ったのだった。さらに加えて、スイッチを入れたアイロンが熱を持つのを待つ合間に、玄関の方の戸棚に行って笊に米を注いだ。茨城県産の「あきたこまち」の袋は空になった。空になった袋はおそらく生ゴミを入れたりするのに使うだろうから、流し場の端に置いておき、笊を調理台の上に置いておいてアイロン台へ。自分のチェック柄のシャツ――昨日着たもの――から掛けだす。ほか、母親のエプロンや、ハンカチ。終えると台所に行って、炊飯器の釜を触ってみるともう熱くなかったので素手で取り出し、さっと洗ってから米を磨ぐ。流水に冷えた手が、骨身の方から少々軋む。そうして釜に米と水をセットして、六時半に炊けるようにしておくと、下階に戻った。運動。the pillows『Rock stock & too smoking the pillows』を流しはじめて屈伸。そして左右に開脚。合間に肩を回したり。開脚するとさすがに尾骶骨がまた少々痛んで、むしろやらない方が良かったかとも思ったが、一応ましになってきているような気はする。僅か七分間だけ下半身をほぐしたあと、the pillowsはそのままにこの日の日記を書き出し、ここまでで四時半前。
 尾骶骨が痛いとばかり思っていたのだが、どうもこの痛みは、もしかするとヘルニアなのではないか。神経が圧迫されているのではないか、という気がしてきた。
 さて、その後、一月五日の日記をふたたび進めた。二〇分ほど進めて四時四五分に達したところで一旦コンピューター前を離れて部屋を出たのだが、これはトイレに行ったのだったか、それとも居間の明かりを点けるとともにカーテンを閉めに行ったのだったか? おそらく後者だろう。二分で帰ってきて、ふたたび日記に取りかかっている。随分と時間と労力が掛かったもので、それから一時間強綴り、六時前に達してもまだ完成していない。ここで服を仕事着に着替えた。Bill Evans Trio "Alice In Wonderland (take 1)"をいつものように流したのではないかと思う。装いは紺色のものである。ジャケットまで着込むとコンピューターの前に戻り、ふたたび打鍵。六時一五分で中断し、出勤することにした。
 上階に行ってコートを羽織り、ストールをつけて玄関を抜ける。ポストは見なかった。畳んだクラッチバッグを右の腕と脇腹のあいだに入れて、手はポケットに突っこみながら坂を上っていく。腰は相変わらず痛かった。腰の痛みが気に掛かって、頭があまりよく回らず、〈思念 - 言語〉が上手く見えないようだった。坂を抜けて(……)さんの宅の前に差しかかると、数日前と同様何やら花の香りが強く匂ったのだが、やはり源がわからない。
 街道を行くと道の遠くに僅かな隙間で接し合った車のライトの列が生まれており、その一つ一つの光はそれぞれ、花火が破裂した瞬間、広がり出す前にそのまま固化/停止し、凍りついたかのような形に見える。空気はそこまで寒くはなく、風もほとんどなかったと思う。裏路地に入ってまもなくの一軒で、まだ電飾が設置されていた。一つには青と白のものがあり、もう一つは小さな裸木に取りつけられたもので、赤やオレンジや黄色が区画ごとに替わる替わる光るのだが、その規模は乏しく、申し訳程度といった感じだ。腰はまだ痛かった。何故だかわからないのだが歩くあいだ、米米CLUBの"浪漫飛行"が頭のなかに繰り返し流れて、定期的に回帰してきて煩わしかった。家を経った辺りではBill Evans Trioの"My Romance"が流れていたので、多分"Romance"と"浪漫"の音の共通性から連想されたものだったのだと思う。そういうわけで新しい思考は特に生まれなかったようだ。
 職場に到着。(……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)今日は電車で帰ることにした。(……)駅に入り、(……)行きに乗りこむ。いつもの二号車の三人掛けである。向かいの席には男性が就いており、何かゲーム機らしきものを操っていた。同時に何かを食っていたのだが、あまりよく注意を向けなかったので、何だったのかは覚えていない。菓子の類だったか?
 最寄り駅に着くと降車し、駅舎を抜けて、通りを渡って坂道に入る。腰が痛いので、ゆっくり急がず、歩幅を小さめにしてとろとろ下りていく。坂道は綺麗に片づけられているのだが、ある地点を境に道の両端に落葉の縁取りが始まって、街灯がその上に掛かっており、角度によっては光が群れ成した葉の表面に反映して、褪せたような白い明るみを放っている。平ら道に出ると、公営住宅前のアスファルトは先般塗り直されたばかりなので、黒々と滑らかで、光を弾いて艶を帯びており、表面の微小な凹凸/窪み/襞/肌理が視認できないほどに色が密度濃く詰まっている。腰はやはり痛い。体内に何か固い金属でも埋めこまれて肉や骨の動きを阻害しているかのような内側からの圧迫感、異物的な引っかかりを感じる。
 帰宅。父親はまだ帰っていなかった。聞けば、飲み会だと言うので、月曜日から飲み会なのか、と苦笑した。よく幹事が月曜日にやろうと思ったなと漏らしながら下階へ下りていき、部屋に入るとコンピューターを点け、それとともに服を着替えた。インターネットを僅かに覗いてから食事へ。母親は風呂に入っていた。夕食のメニューは、唐揚げに茄子とひき肉の炒め物、あとはキャベツの生サラダに汁物の余りである。それぞれ用意して卓へ、母親が風呂に行っておりテレビを消せば静かなので、新聞を読まずに、ロラン・バルト/鈴村和成訳『テクストの楽しみ』を持ってきて読みながら食べた。食べ終えて、母親が流しに放置していった食器もまとめて洗い、片づけると、母親は風呂から出てきたが、こちらはそのまま入浴には行かず、緑茶を用意して下階に下る。自らの洞穴に帰って、茶を飲みながらまず五日の記事を完成させた。そうして投稿するともう一一時、帰宅した父親が風呂から出た気配があったので、上階に行くと、台所で――飲み会で飲み食いしてきただろうに――食事の支度をしていた寝間着姿の父親は、あ、まだ入ってなかったのか、と言うので、ああ、と一言、低く受けて入浴に行った。腰は痛い。上体を立てて胡座を搔いていると痛いようだったので、途中から浴槽の縁に頭を預けて身体を寝かせると、幾分楽になった。そのままうとうとしているうちに、だいぶの時間が経って、気づくともう零時が近かったと思う。上がってくるとダウンジャケットを羽織って窖に帰り、何をやろうかと迷ったあと、零時一五分から記憶ノートに新たな情報を書きつけはじめた。BGMはJunko Onishi Trio『Live At The Village Vanguard』。素晴らしいライブ音源である。冒頭の"So Long Eric"は彼女の持ち曲で、『Musical Moments』の最後に収録されたものも素晴らしいが、ここでの演奏も名演と言ってしまって良いのではないか。ソロなど聞いていると、ここまで行くか、ここまで〈伸びる〉か、というような感触を得る。二〇分間ノートに文言を記したあと、次に同じく記憶ノートを復習。三頁目から四頁目。これも二〇分で切りとする。そうして次いで、芝健介『ホロコースト』のメモである。メモ書きがいつまで経っても終わらない。難儀な読み方を開発してしまったものだ。しかしこうしてメモを取れば、より記憶や印象に残ることも確かだろう。
 一二八頁から一二九頁には、ユダヤ人問題の「解決」方針の変化が簡潔にまとめられている。「当初、ポーランド占領までは「追放」を考え、それまでの過渡期として「ゲットー」に押し込める。追放地として目論んだソ連の膨大なユダヤ人に対しては、「大量射殺」で臨んだ。だがその限界はすぐに露見し、独ソ戦が膠着状態になるとともに、最終的には毒ガスを用いる「大量殺戮」が求められるようになるのである」。
 また、ヘウムノ絶滅収容所で「労務班員」――アウシュヴィッツなどで言うところの、「ゾンダーコマンドー」と同じ役回りだろう――として働かされていたモルデハイ・ポドフレブニクという人物の証言も引いておきたい。

 この日到着した三番目のガス車からは私の妻と七歳の息子、五歳の娘の変わり果てた姿の遺体が投げ出された。私は妻の遺体に寄り添って撃ってくれと懇願したが、親衛隊員がたちまちやってきて、「おまえはまだ十分働ける」と牛革の鞭で私を打ちつけ、作業を続けるよう強制した。この日の夜、二人の労務ユダヤ人が自ら首を吊った。私もそうして果てたかったが、仲間に説得され思いとどまった。
 (芝健介『ホロコースト中公新書、二〇〇八年、151)

 数量的時間にこだわらず、自分の心身の感覚でやりたいところまでやろうと時間も見ずに作業を続け、ここまでかなというところで切り上げると、五〇分が経って二時を回っていた。それからまた、ロラン・バルト/鈴村和成訳『テクストの楽しみ』を読み進め、三時に至った辺りで意識が乱れてきたようだったので、寝床に入った。