2020/1/7, Tue.

 ナチスの代表的な反ユダヤ立法とされるニュルンベルク法の形成過程においてもヒトラーのイニシアチブがみられる。さきにもみたように、一九三五年夏には反ユダヤ主義大衆行動の大波が打ち寄せていたのであるが、しかし、この年の九月のニュルンベルク党大会にはなんら反ユダヤ立法の準備はされていなかった。ところが、ヒトラーは大会の様子をみて反ユダヤ立法を行なう必要を痛感したようである。彼は党大会のさなかに急遽官僚たちをニュルンベルクに呼び寄せて、九月一四日~一五日の夜法案を作成させた。ただ注目すべきは、彼は四つの法案を作成させ、その中のもっとも厳しくないものを選んで若干修正し、これをニュルンベルクに召集した国会に決議させた(一九三五年九月一五日)のである。
 こうして成立したいわゆるニュルンベルク法は「ドイツ人の血とドイツ人の名誉を守るための法」(「血液保護法」)と「ドイツ市民法」からなっていた。「血液保護法」はユダヤ人と「ドイツ人あるいはこれと同種の血をもった国籍所有者」との結婚と性交を禁止した。「ドイツ市民法」は「国籍所有者 Staatsangehörige」と「ドイツ市民 Reichsbürger」の概念を区別し、「ドイツ市民」は「ドイツ人あるいはこれと同種の血をもった国籍所有者だけ」がなれるものとした。「ドイツ市民」のみが完全な政治的権利をあたえられ、ユダヤ人には選挙権も公務につく権利もあたえられなかった。職業官僚制再建法がもっていたユダヤ人の例外規定は抹殺された。
 問題は誰をユダヤ人とするかであり、これが党大会ののちに論争の種となった。内相フリックを先頭とする内務省ユダヤ人の範囲を狭く解釈する立場をとり、祖父母のうち三人以上が完全ユダヤ人であるもの、いわゆる四分の三ユダヤ人以上を無条件でユダヤ人とし、四分の二ユダヤ人あるいは半ユダヤ人は一定の条件でのみユダヤ人と認定しようとした。これにたいして、総統代理ヘスを中心とする党側はユダヤ人の範囲を広く解釈しようとし、四分の一ユダヤ人以上をすべてユダヤ人と認めようとした。内務省は経済界で特殊地位におかれるユダヤ人が増大することの困難性を指摘するシャハトや、ユダヤ人の範囲が拡大することによって兵役義務者が減少することを心配する国防軍、それに対外関係を憂慮する外相ノイラートなどの支持を受けていた。
 ヒトラーは、九月二五日、ナチ党人種政策局長グロスに対して、基本的に内務省案を支持するとともに、半ユダヤ人の処理について、追放、不妊化、同化の三つの方策を示しながらも、結局、半ユダヤ人を数世代かけて同化する方針を明らかにした。こうして、一一月一四日にようやく成立した「ドイツ市民法第一次施行令」のユダヤ人の規定は内務省案にそったものとなった。
 (栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』ミネルヴァ書房、一九九七年、28~29)


 一二時過ぎまで床に居着く。粘菌=死体の様態=姿形[フィギュール]。外は白い曇り。ようやく起きるとダウンジャケットを持って上階へ。母親は着物リメイクのボランティアに出ている。腰の痛みが多少ましになったような気がした。寝間着からジャージに着替える際に屈むような体勢になっても、ほとんど痛まなかったように思う。台所に入ってみると、小鍋に大根の味噌汁はあったものの、おかずらしきものは何も見られなかったので、いつものように卵を焼いても良かったのだが、今日は何となく「味の素」の、冷凍の餃子を焼く気になった。それで小鍋を火に掛ける一方、フライパンに餃子を一つずつつまみ上げながら置き並べていき、その上から油をちょっと垂らしたあと、焜炉に着火した。蓋をしておくと、すぐにしゅわしゅわという音が立ちはじめる。待つあいだは味噌汁を食べることにして、椀に盛って卓へ行き、新聞を引き寄せて食事。一面には米イラン関係の記事があって、当然目を通す。読みながら汁物を食べているあいだに餃子が結構焼けた雰囲気があったので、一度立って台所に行き、蓋を開けてみると、餃子たちの周辺は大方焦茶色に染まっている。まだ一部焼ききれていない箇所があったので、蓋は外しておいてもう少し水気を飛ばすことにして、席に戻った。汁物を平らげてからふたたびフライパンの前に戻ると、具合良く焼けていたのでフライ返しを使って底を剝がし、丼に米を盛ってその上に六個を乗せた。あとの半分の六個はまた勤務前に食べれば良いだろう。それで卓に帰り、新聞は国際面に移動して、米イラン関係についての関連記事を読む。英仏は米国側、中露はイラン側という、まあお馴染みの構図。元革命防衛隊最高司令官の人物が、我々の報復に対して米国が何らかの行動を起こした場合、イスラエルのテルアビブとハイファを消滅させると発言したとのことで、「消滅させる」とは相当に強く、攻撃的で、端的に言って気が滅入るような言明だ。
 餃子と米を腹に収めてしまうと台所に行って皿を洗い、洗面所に入って髪を少々整え、それから風呂を洗う。頭のなかでは何故か宇多田ヒカルの曲が繰り返し流れていた。"Automatic"と、"You are always gonna be my love"と歌うあの曲だ。宇多田ヒカルという人も、いわゆるJ-POPと呼ばれるジャンルのなかではおそらく例外的に聞く価値のある音楽家なのだと思うが、今のところはあまり手を出してみようという強い興味関心は起こらない。風呂を洗ってしまうとトイレに行って放尿し、それから下階に下りた。コンピューターのスイッチを押し、ログインしたあと各種ソフトのアイコンをクリックしておき、立ち上がるのを待つ時間で茶を用意しに行く。一杯目を急須に注いで茶葉がひらくのを待つあいだに、南の窓の方を見やったが、外に陽の色はなく、寒々とした曇りに白く固まっており、雨の気配もいくらか感じられないでもない。緑茶を用意すると我が穴蔵に戻り、Twitterなどを覗いたあとEvernoteで前日の記録を付け、今日の記事も作成したあと、早速この日のことを書きはじめた。ここまで記せば一時七分に至っている。出勤まで四時間もないわけだが、どうするか。
 ひとまずいつも通り、過去の日記を読んだ。二〇一九年一月七日及び二〇一四年四月一四日。特に興味深かったり、印象的だったりする箇所はなかったと思う。ただ、一年前の日記もよほど長い。読み返すのには骨が折れる。ムージルを読んでいるのだが、読書ノートへのメモをいちいち日記にも写して、コメントを付しているのだ。随分熱心にやっていると思う。今はさすがに、読書ノートの書きこみを全部写す気にはなれない。一部印象深かった部分などは今でもたまに写しているが。
 その後、日記を書き出す。前日、一月六日の記事である。二時四四分まで、一時間ほど掛けて完成させた。それからインターネットに投稿したはずだが、そのあいだのことは特に覚えていない。三時を越えると、fuzkueの「読書日記」とMさんのブログ一日分を読んだ。そうして記憶ノートを確認。三頁から五頁まで。目を瞑って事柄を頭のなかで反芻。三頁と四頁は触れるのがもう二回目だか三回目だかなので、わりと覚えてきている。五頁目を確認するのは今日が初めて。記憶ノートを学習すると三時四三分。仕事着に着替えようと思い、Bill Evans Trio "Alice In Wonderland (take 1)"を流しだしたのだが、直後、音楽のなかに混ざって天井がどんどん鳴る音が響く。母親が呼んでいるらしき声も聞こえる。上階の床を踏む音がどんどんと、ほとんど間断なく続く。うるさい。さすがに少々苛立たしい。音楽を止めて部屋を出て、階段を上がると、石油を入れてくれと言う。別にそれ自体は構わない。家事をやること自体はまったく構わない。むしろもう少し積極的に担うべきだろうとも思う。しかし、もう少しものを頼むのに相応しい呼び方というものがあるだろう。床(天井)を絶え間なく踏みつけて、騒音によって人を呼ぶという、丁寧さと繊細さの欠如が気に入らなかった。こちらは動物ではない。家畜ではない。人間なのだ。前々からそのような呼ばれ方はしており、そのたびにうるせえなと思いながらも許容してきたのだが、今回はちょっと度が過ぎていた。それで、台所の勝手口の扉の前にいる母親に向かって、あのさあ、もう少し、頼み方ってものがあるでしょう、と苦言を呈するが、母親は、はぐらかすように微笑しながら、だってすぐ来ないんだもの、みたいなことを言ってみせた。そのまま玄関の方に移って外に出ていくので、こちらも二種類のストーブからタンクを持ち上げ、両手に一つずつ提げて玄関を出る。勝手口の方に回って、痛む腰にあまり負担を与えないようにゆっくり身体を曲げつつ、タンクに石油を補充する。腰は全然ましになどなっていなかった。普通に痛い。
 石油を補充し終えると、重くなったタンクを両手に提げて勝手口の通路から出て、母親にまた声を掛けた。何と言ったのかはよく覚えていないが、先ほどのような言を繰り返したはずだ。そう、それで、こちらがどういう風に言おうかと考えて沈黙しているあいだに、母親は、わかった、有難うと、話をさっさと終わらせるかのように言ってみせたので、そういうことではないとまたちょっと苛立ったのだった。そのような、いかにも取ってつけたような礼の言葉を聞いたところで、こちらの機嫌が損なわれるだけだということがわからないのか? それで母親はまたうろちょろ移動して、まるでもう話し合いが終わったかのような雰囲気を出しているので、話はまだ終わっていない、と釘を刺すと、わかった、とりあえずなかに入ろうということだったので、それには同意して(何しろタンクを両手に提げたままだったのだ)、ひとまず室内に戻り、ストーブにタンクを収めた。それで台所に立った母親と向かい合い、改めてこちらの要望を述べる。養われている身分で自らこうした言葉を口にするのもだいぶ偉そうで気が引けるのだが、配慮が足りないのではないかと。しかしそこは明確に言っておきたい。家事をやること自体は良いし、こちらを呼ぶのも勿論構わないのだが、何故、ほとんど一秒の絶え間もなく、床を踏み鳴らし続ける必要があるのか。こちらだってやっていることがあり、やりたいことがあり、やらねばならないことがあり、すぐに応じて行けない時だってある。何故少しばかり待てないのか。第一、その用事は一分一秒を争う枢要なものなのか。石油を補充するのが一分遅れたところで、それでどうなると言うのか。それに、どんどんと天井を鳴らされて呼ばれるというのは、単純にうるさくて、気分の良いものではない。それは人間を相手にしてものを頼む時に相応しい振舞いではない。人間を相手にする時の最低限の配慮を求める、とそんなようなことを――だいぶ今の時点から文言を補完してしまったが――述べた。
 次に、こちらの話を真面目に、きちんと向かい合って聞こうとしないのはどういうことなのか、と問うた。今もそうやって、片手間で聞いているのはどういうことなのか(この時母親は、台所で何かの作業をしながら、手や身体を動かしながらこちらの言葉を聞いていた)。こちらがメッセージを伝えようとしている時に、聞くという行為一つに集中して、適切な受け答えをしようとしないのはどういうことなのか。こういう言い分に対しては母親は、やりながら聞いているよ、それじゃあ駄目なの、ということを繰り返すのみだったので、まあそれならそれで良いとしよう、とこちらが折れた。配慮についてはまとまった、作業をしながら人の話を聞く点についても良いとしよう、しかし、ならば、こちらが真面目な話をしようと、話し合いをしようとしている時に、話を逸らそうとするのはどういう了見なのか。先ほども、こちらが自分の考えを伝えようと言葉を練り、よく考えて発言をしている最中に、今日は五時からなの? とか言って、まったく別の、今は関係のない質問を投げこんできた瞬間があったのだ。何故話を逸らし、言わばはぐらかそうとするのか。そう問いを差し向けると母親は、別に話を逸らそうとは思っていない、と言った。これが母親の姑息なところである。どうも無意識でやっているらしい。思いついたことを、その時の文脈に適しているか否かを考慮せず、すぐに口に出してしまうのだ。それが結果として、進行中の主題のなかに余剰的な闖入物を投げこむことになり、話を乱す機能を果たすことになるわけだ。無意識であれ、そのような操作を行ってみせるということは、母親がこちらの話をきちんと真っ向から受け止めて聞き、それに対して何らかの応答をしようというつもりがないということを表している。彼女の意識は散漫なのだ。
 概ねそういったことを伝え、一応話し合い、互いに人間に相応しい配慮をしようということでひとまず落着いた。それで階段口に掛けられてあったワイシャツなどを持って下階に下ろうとしたところ、今度は母親の話が始まった。色々とムカつくことがあって、それでちょっと当たってしまったのかもしれない、と彼女は言い訳をした。ムカつくことと言うのは、例えば年末から度重なり引き続いた父親の飲み会などが一つには挙げられる。飲んで酔っ払って帰ってくると、深夜いつまででもテレビを見ながらぎゃあぎゃあと騒いでいる、それが苛立たしいということらしい。それにはこちらも同感である。つい昨日もやはり新年会だったのだが、昨日はプリンを買って帰ってきた、それもおべっかを使っているようで気に入らなかったと言うので、言ってやれば良いじゃん、おべっか使ってんじゃねえ、って、プリンごときで私の機嫌を取れると思ってんじゃねえぞって、と提案してこちらは大笑いした。あとは、昨日だったか一昨日だったか、父親が友人から借りた車のバッテリーか何かを営業所に届けに行ったのだが、営業所にいざ行ってみると、これはうちのものではありませんねえと言われたと。それで連絡して、適切な場所に届けてもらえることになったようなのだが、借りたものをきちんと返さない結果、そのような事態になったのも気に入らなかったと。それで言うとお前もそう、とこちらにも飛び火が来たのは、HGからずっと借りたままになっているベースとベースアンプのことである。数年前にベースを弾けるようになりたいと思った時期があって借りていたのだが、あれも、貰ってしまって良いのか、それとも返すべきなのか、そこをはっきりさせないと良くない、と言う。こちらは正直、ベースとアンプの存在などもう忘れきっていた。確かに始末をつけなければならないが、しかしHGも自分の家庭があって多分忙しいだろうし、もう遠くに住んでいるし、なかなかそれは難しいなとひとまず受けた。
 また、祖母の七回忌の件も話に出た。母方の祖母は二〇一四年二月七日に亡くなったので、今年二〇二〇年は七回忌の法要をやらなければならない。それでどうするの、とYさん(立川の叔母)から連絡があったのだが、正直なところ、今年が七回忌をやる段だということはすっかり忘れていた。折り返し参加の意向を訊いたところ、しかし立川の方では、もうそういうのは簡素化してきている時代だから、七回忌は遠慮させてもらう、という返事があって、それで、自分の母親なのになあと悲しくなってしまったのだと母親は言った。それは現今の話題とは関係がない事柄なので、話がずれてきているぞとこちらは指摘した。このように母親の話は連想的に、自走的に拡大し、どんどんずれていくのだが、母親が言いたかったことの核心としては、そのように諸々不安なことや苛立たしいこと、気の滅入るようなことがあって、それで当たってしまったのかもしれない、ということらしかった。
 何かの拍子でまた父親のことが話題に上がったので、父親の態度も良くないとこちらは批判を展開した。酒を飲んで一人で深夜まで燥ぎ騒いでいたりするが、あれは要は、我々家族に対して配慮がないということではないか。それに何より、母親に対する振舞いが良くない。まあそれは母親の方でも、父親を無闇に苛立たせるようなことがあるので、双方問題はあるにはある。ただ、まあいつまでもだらだらと養われている子供の身でこんな偉そうなことを言って申し訳ないけれど、正直なところ、あなたたちを見ているとみっともないと言うか、あなたたちは一応今まで六〇年間生きてきたわけだ、その六〇年で一体何を学んできたのかと、六〇年の生の結果が、ああいう振舞い方で良いのかと、そういうことは思うよ、と語調強く訴えた。母親は苦ったように笑っていた。そして、酒を飲むと、ババアって言うでしょ、あれが嫌だ、というようなことを言うので、こちらは俄然勢いづいて同意し、そこから父親に対する激烈な糾弾を展開した。父親は、主に酒に酔っ払った時など、声をやや荒げて怒鳴るなどの高圧的な振舞いを取ることが往々にしてあり、果ては母親に対して、「うるせえ、ババア」とか、馬鹿にするように「おばさん」とか言うのだが、それが自分はとてつもなく[﹅6]気に入らないとこちらは言明した。端的に、とても不快である[﹅11]。ふざけていると思う。心のなかでは、てめえ、ふざけんなよ、といつも思っていると明かした。中学生じゃねえんだぞ、と。てめえふざけんなよ、それを外で言ってみろ、他人の前で言ってみろと。外で言えないことを、何でうちのなかでは言えるんだよ、とこちらには珍しく声を荒げて、大声を上げて非難していると、内弁慶ってことでしょと母親は事も無げに答える。それが許せないのだ。それは、はっきり言うが、女性差別だよとこちらは大声で主張した。ふざけるな、甘えてんじゃねえと。男性という偶然的な属性の優位性に甘えているんじゃねえと。そういったことはしかし、やはり言うことはできない。父親はまあやはり、何だかんだ言ってこの家のなかでは「偉い」立場にあるから、と。しかし、言わないが、我慢して口には出さないが、心のなかではいつもそう思っている。今まで何度そのように怒鳴ろうとしたかわからない、と明かした。家父長制の醜悪さ、その閉塞性がここに厳然とあるのだ。
 非難を吐き出しているうちに感情が高ぶってきて、恥ずかしいことにちょっと涙ぐんでしまった。随分と久しぶりに、いつ以来かわからないが、叫ぶような大声も出した。それでも父親の醜さ、醜悪さに対する怒りは収まらなかった。こうして話していても、怒りが、怒りが収まらない、と口にも出し、自分は絶対にあんな人間にはならない、なりたくないと思っていると宣言しておいた。すると、話がずれていると、よりによって母親に指摘された。最初は、天井をどんどんってやるのが気に入らないって話だったでしょ、と。確かにそうだが、ここに至ってはそんなことはもはやどうでも良かったのだ。そんなことは、父親の「うるせえ、ババア」問題に比べれば、まったく問題ではない、実にささやかなことである。とにかく俺は、父親があのような言動をすることは絶対に許さんぞ、口には出さないが心のなかでは許していない、父親があのような言動を取るたびに、てめえ、ふざけんなよと思っていると断言しておいた。すると母親は、書いておくよと言う。別にわざわざ書き記さなくたって良いのだが、メモ書きしておかないと忘れてしまうから、と、最近は何でもメモしているのだと言う。それならそれでまあ別に良い。例えば父親に、今のような、我々の不満を伝えるような事態の可能性を考えてみても、多分口頭での話し合いだとどうせまた感情的になって余計な軋轢が生まれるのだろうから、手紙でも書いて文章で伝えた方が、双方冷静に対応できるかもしれない、そういったことも考えられる。
 とにかく、「うるせえ、ババア」に関しては、とにかく絶対に許せない。こちらは絶対に許さない。還暦も越えた人間が、自分の連れ合いに対して、パートナーに対して、と言うか一人の人間に対して、そんな口を利いて良いはずがない。お前の六〇年は一体何だったのだ? お前は今までの六〇年間の生で、人間存在について一体何を学んできたのか? そうした振舞い方が今までの数十年の生の結果で、本当にそれで良いのか? 恥ずかしくはないのか? はっきり言って、猛省しろ、と言いたい。とにかくあの高圧性、傲慢さ、厚顔さ、あれは俺は許さない。しかも父親は、当然だが、そうした自分の振舞いを悪いと思っていない。それが許せない。ふざけているのだ。まさしく、おふざけのつもりで、言わば「カジュアルに」、そうした発言をしているのだ。勿論本気で憎しみの情から発してそのような発言をしていたら、それはそれで問題なのだが、言いたいのはそういうことではなく、父親は自分の振舞いがこの世界に根づいている家父長制の権力関係とか、女性差別の歴史とかの、大きな流れに加担しているということにまったく無自覚なのだ。いや、そういった問題ですらない。そんな大きな問題にしなくても良い。単純に、人間を相手にした時の関係の作り方、コミュニケーションの取り方として、相応しくないということなのだ。人間というものを蔑ろにしている。そして、そうしたことに父親は気づいていない。つまりは自分の振舞いが悪いことだとは思っていない。あるいはちょっとした戯れのようなものだと考えているのかもしれない。これが最も許せない。その自己反省性の欠如、自分自身を疑い、省みる能力のなさ、それが一番醜悪で、劣悪で、愚劣で、おぞましく、馬鹿げており、許せない。醜悪さとは自己を疑わないことだ。「理論」とは自己反省性と同義であるとロラン・バルトは言った。
 そうこう話しているうちにいつの間にか時間が経ち、四時半が迫っていたので、もう行かなくてはと言って、ワイシャツなどを持って階段を下る。両親の衣装部屋のラックにワイシャツを掛けておき、自室に行って着替え。黒のスーツ。携帯を見るとメールが入っていたのだったか、それともちょうど部屋に帰ってきた時に着信があったのだったか。ともかく、今日の勤務は一コマにもできるけれど、と申し出があったので、お願い致しますと即座に返答した。それでメモを取っておく時間的余裕が生まれたので、今しがたの母親との話し合いを断片的にメモ書きした。そうして五時前に至って上階へ。最初のうちは、腰が痛い、ヘルニアかもしれない、という話をしていたはずが、話題がまた父親のことに回帰し、そうするとふたたび怒りが舞い戻ってきて、またもや大きな声を出してしまう。俺は絶対に許さないと再度断言しておき、そうして五時を越えて一〇分くらいに差しかかってからようやく出発。
 雨はほとんど止んでいたが、一応傘を持った。空気は冷たく、冷気が手の肌にひりつく。坂を上っていると、確かに途中にゴミが散らかっている。先ほどの話し合いのなかで母親が言及していたのだ。散乱していると言って良い規模の散らかり方で、ビニールやら何やら、なかに蜜柑の皮が包まれたビニールの類などもあったか、どうも弁当の残骸か何かではないか。愚かな人間がいたものだ。
 坂を越え、平ら道を行き、街道に出ながら、先ほどの自分の怒りというのは正義感の類と言うよりは、単に母親を口実にして、傲慢さという人間の一性質に対する個人的な嫌悪感を発露しているだけなのかもしれないなと思った。道徳的な問題と言うよりは生理的な好悪の問題、あるいは一種「美的」な個人原則、言わばスタイルの問題。しかし、下手に「正義」などという実に大きな概念を大上段から振りかざすよりは、そちらの方が好ましいような気はする。それとも、ここにおいてはむしろ敢えて「正義」を掲げ、擁護することが必要なのだろうか? しかし、「平等」はまだともかくとしても、「正義」とはまったくもって〈居心地の悪い〉、〈住みにくい〉概念だ。正直なところ、あまり扱いたくはない。
 とは言え最も醜悪で、劣悪で、気が滅入るのは、一面においてあのような看過できない醜さ、嫌悪すべき性情を持った人間に、経済的に依存しなければ暮らして行かれないこの自分の無能さ、そうした「現実」である。
 傘は一応差したが、ほとんど降っていなかったので、途中で下ろし、閉じた。裏路地の前半は何を見、何を思っていたのか覚えていない。青梅坂を過ぎたところでゆっくり歩こうと思って歩調をやや緩めた。黄味を帯びた街灯の光、一定の距離を挟んで空中に浮かんでいるそれらに導かれるようにして進む。市民センター付近の一軒の狭い庭の隅に、蠟梅が生えている。蕾が枝の隅々までいっぱいに並んで広がっているのが、独特の粒立ちの感覚を目にもたらし、ビーズのようである。
 市民センターの裏に差しかかる頃には、父親の件が頭の内に回帰していた。父親はあれで本当に恥ずかしくないのか、と思った。この場合の「恥ずかしさ」「恥」は、強く、大きな意味である。日常一般のそれではなく、例えば何か他人に知られたくない秘密が露見してしまう時の恥ずかしさではない。恥を知れ[﹅4]、ということなのだ。まさしく、そういうことなのだ。アメリカのどこかの議会において、いわゆる従軍慰安婦としての体験の証言者である女性を攻撃した右派陣営の日本人に、"Shame on you"と、しかも声を荒げることなく非常に冷静に、そして同時に重々しく述べた議員がいたが、そのことを思い出した。あれとまさしく同じ意味なのだ。帰宅後にメモを取っていた際に検索してみると、"Shame on you"という静かでありながら断固とした糾弾を放ったのは、サンフランシスコ市議のDavid Camposという人だった(https://note.com/tkatsumi06j/n/n8a70c5c7b71a)。左のURLにおいて前後の英文とともに和訳文も読むことができ、なおかつ動画も視聴できるので、この記事はあとで必ず読もうと思う。彼が投げかけた"Shame on you"とまさしく同じ意味合いにおいて、こちらは、あなたは恥ずかしくないのか、と父親に問いかけたい。人間としてみっともないとは思わないのかと。
 職場に到着。室長に礼を言う。勤務を一コマに減らしてくれたからである。今日の相手は(……)くん(中三・社会)、(……)さん(中三・英語)、(……)(高二・英語)の三人。予習をする必要はなかったので、準備をする事柄もほとんどなく、多少手帳にメモを取っておいた。
 そうして授業である。(……)くんは今日から歴史の単元に入った。基礎的な知識はわりあい身についているようで、問題を解くのも速く、質問にもかなりの程度答えられて良い調子である。彼はとても真面目な様子で、はきはきとした受け答えをする生徒である。より深い内容に興味を持ってほしいと思う。知識が本質的な問題ではないのだということ、それをこそ知ってもらいたい。知識の伝達は根本的な問題ではないのだ。むしろ、生徒の心及び頭に、何らかの〈動き〉を生じさせなくてはならない。そういうわけで終盤、ちょっと突っこんだ内容を扱った。まあそれも結局は、知識の伝達になってしまうと言えばそうなのだが、しかし、別にそこまで細かく覚えろということではないと留保は付けておいた。取り上げたのは一七条の憲法の内容とか、遣隋使を送られた煬帝が怒った件についてなどである。後者に関しては、聖徳太子が書簡に日が昇るところの天子と日が没するところの天子という言葉で日本と中国を対比的に書いたのだが、中国側を日が没する場所として比定したのが煬帝の怒りを買ったというのが一般的な説であり、(……)くんもそれは知っていた。しかし、これは俗説らしいと話す。そうではなくて、「天子」という自称がまずかったのだと。「天子」というのは天命を受けて世界を統治するよう定められた存在で、当然ながら世界に一人しかいないはずだからである。つまり、と指を立てながら、お前は、天子ではないと、と中国側の言い分を代弁して、笑った。以上の説は大津透『天皇の歴史① 神話から歴史へ』のなかに記されていたことである。

 第二回は、隋の煬帝が即位した後の大業三年、六〇七年で、今度は形式が整っている。『隋書』によれば、使者は「海の西の菩薩天子が仏教をふたたび興隆させているのを聞いたので、使者を遣わし、僧侶数十人に仏法を学ばせてほしい」として有名な国書を提出する。

その国書に曰はく「日出づる処[ところ]の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや、と云々」。帝これを覧[み]て悦[よろこ]ばず、鴻臚卿[こうろけい]に謂ひて云はく「蛮夷の書、礼無き者有り。復[ま]た以て聞[ぶん]するなかれ」と。

 煬帝はこの国書をみて無礼だと怒ったのである。何故怒ったかについては、一つは、倭が日が昇り、隋が日が沈むとして倭が上だといったからといった説がある。しかしこれは俗説で、日出づると日没するは東と西の方角を示しているにすぎない。
 東野治之氏によれば、『大智度論』に「日出づる処は是れ東方、日没する処は是れ西方」とあり、仏典にもとづく表現であった。そもそも「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興す」と述べたのは、仏教を崇拝し自ら菩薩戒を受けた隋の文帝の歓心を買おうとした表現だったらしい。仏教色を強調することにより、仏法に帰依する国王として対等をめざしたと考えられている。
 しかし問題は、倭王が「天子」と名のったことだった。中華思想では、天子とは天帝の天命を受けて、天の子として世界(天下)を統治する者であり、世界の中心であり、一人しかいないのである。もう一人天子がいれば革命になってしまうので、しかも辺境の蛮夷の首長が使ったのだからとうてい認められなかった。
 (大津透『天皇の歴史① 神話から歴史へ』講談社学術文庫、二〇一七年、239~240)

 このような余談と言うか、ちょっと突っこんだ脱線みたいなものをもっと盛りこみ、生徒を多少なりとも楽しませていきたいとは思うのだが、残念ながらそこまでできるほどの力量や知見がない。とは言え、テキストやマニュアルにただ沿っているだけの授業など、つまらないことこの上ない。大枠の形を守りながらも(外見上、マニュアルに沿いながらも)、細部においてそれを〈はぐらかす〉のだ。そのようにして、生徒の世界に対する興味を少しでも涵養できたなら、その方が、ただ物事を記憶するよりも大切なことだろう。
 (……)さんは英作文の課。全然書けない、わからない、苦手だと言う。実際やらせてみると、そこまでまったく書けないというわけではなかったが、Have you ever been toとか、be interested inなどの表現が含まれた文を覚えてもらい、見ないで書けるように練習してもらったあとにチェックもした。まあ悪くはないとは思う。宿題には復習を一頁含めた。とにかく、同じ箇所に何度も触れていってもらうのが大事だと思う。
 (……)は動名詞。宿題の確認の段階で、look forward toのtoは不定詞ではなくて前置詞であると確認し、さらに前置詞のあとは名詞が来るのだということも伝えると、だからseeingなのか、とすぐに彼女は思い当たってくれる。そのような調子なので地頭は悪くないと思うのだが、如何せん脱力系の女子である。そのほか、知識を短期記憶から長期記憶に移行させるには定期的に同じ事柄に触れて復習しなければならないという話を途中でした。まず基本的に、ある事柄に触れたその一日後にまた触れるのが良い、と言い、そのあとは一週間後にまた復習するとか、そういう感じだと。ベストな復習タイミングと言うか、最適の間隔というものが、多分判明していると思うのだが、そこまで細かいことは知らない。
 授業後、(……)さんに少々質問され、担当生徒の教科が変更されていた場合の検索の仕方を教える。テンパってるじゃん、と笑って向けると、昨日から急に国語をやらされてるんですよと言う。できませんってちゃんと言わないと、やりたくなかったら、とこちらは答えたが、まあ良いんですけどねと返るので、良いのかと笑った。
 室長は明日明後日は会議で不在だと言う。(……)さんが来たら自習をするように言ってくれとのこと。本当は授業が入っていたのだが、入金が、と室長は苦いような顔をした。支払いが滞っているらしい。何だろう――貧しい暮らし向きの家なのだろうか。それとも単純にずぼらと言うか、そういうことなのだろうか。(……)さんという子は、データベース上の情報によると学習障害を持っているとのことなのだが、それが具体的にどのようなものなのか、それ以上詳しいことは未だわからない。ともかく先の件については了承し、それで退勤した。
 空気は冴え冴えと冷えている。肌の表面に対する摩擦も強いが、同時に浸透性のものでもあって、身を貫き、あるいは染みてくるようだった。市民センター裏の一軒の、蠟梅の下でちょっと立ち止まって梢を見上げた。大方はまだ蕾だったが、ひらきかけている花がいくつか見られた。匂いは鼻に香ってはこない。
 Ozzy Osbourneの"Suicide Solution"が何故か頭のなかに流れていた。空は一面曇っており、星も月もまったく見えず、むしろわかりやすい、単調で単純な、襞のない灰白色だった。腰はやはり痛く、蟲でも埋めこまれたかのような異物感が強い。ゆっくりと急がず歩いて家の傍の裏道まで来ると、静かな車の音が背後から寄ってきて横で停まった。父親である。空いた窓から乗ってくかと訊くのに、ああ、いいよと断ると、父親は朗らかな様子で微笑して過ぎていった。そのあとから坂を下りながら、一面では確かに良い父親なのだろうが、と考えた。まあ一応、〈善良な〉人間と言って良いだろう。会社においても、よくは知らないが結構偉い立場にあるはずで、それはそれだけの能力があり、実績を積んできたということを証しているだろう。家を新しく建て、子供を二人、まあそのうちの一人はただの穀潰しになってしまったが、ともかくも育て上げたわけで、それは凄いことである。とても自分にはできるものではない。「社会人」として立派に一人前だと言うか、尊敬を受けて適切に評価されるべき人間ではあるだろう。しかし同時に、そのような〈善良〉で〈尊敬すべき〉一個の人間が、「うるせえ、ババア」という暴言を軽々しく吐くというこの「現実」、まさしく圧倒的な「現実」がある。ここにこの世の問題が、少なくとも一つ、確実に存在しているはずだ。
 そういう事柄を考えながら帰宅すると、父親も車から降りて玄関に入ったところだった。靴に、あれは湿気を取る機械なのか何なのかよくわからないが、管を挿して器具を稼働させていた。母親は入浴中である。下階に行って着替えてから上がってくると食事、メニューは米に鯖のソテー、南瓜の煮物、豆もやしと人参のサラダにおじやといった品目。夕刊を読みながら一方でテレビに目を向けると、世界各地にいる日本人のもとに訪ねていって人生の来し方を語ってもらうような番組を映していて、何とか言う、女優らしき人が(母親は、あの人綺麗だよねえと漏らしていた)、ネパールのエベレスト近くの村を訪問していた。彼女が訪ねていったのはF.Yという名前の人で、その字面には何となく覚えがあった。背が高く、一九〇センチあると言う。それで思い出したのだが、この人はTの知人で、数年前に一度会ったことがある。彼はネパールでの体験を元にした本を出していたはずで、当時は自分は読み書きを始めたばかりだったので、多分まだ二〇一三年かその頃のことだったのではないかと思うが、Tに誘われて、どこか都心の方で(新宿から乗換えていった覚えがある)顔を合わせたのだ。その時の記憶より痩せた印象を受け、顔立ちがちょっと変わったような気がしたので、多分あの人だよなと疑いながら見ていると、大学も(……)大学とあったので間違いないだろう。母親は下階のコンピューターでテレビを見ると言って(父親が風呂から出てくると居間のテレビは取られてしまうためだ)下りて行こうとしていたのだが、その際に、この人、Tの知り合いだわと言うと、彼女は驚いて、じゃあメール送りなよと言う。まあそんなに急がずとも良かろう。あとで部屋に戻ったらLINEを送ってみるつもりだった。Fさんは、色々な人との出会いに触発されて、ネパールの小学校に畳や柔道着を寄付して、そこで柔道やスポーツを教える活動をしているらしかった。
 食後に皿を洗ってから、緑茶を注ごうとしたところが、ポットに湯がなかったので薬缶で水を足しておいた。そうして下階へ。早速LINEにログインし、Tにメッセージを送ってみると、今日彼がテレビに出ることは知っていたらしい。毎年誕生日に連絡を取り合っているとのこと。今度また三人で会おうかと言うので賛成すると、KくんやTDも誘おうということになった。
 その後、緑茶を注いできて飲みながら、実に今更ではあるが、「あいちトリエンナーレ津田大介芸術監督インタビュー」(http://www.webdice.jp/dice/detail/5849/)を読んだ。

津田:大村知事はトリエンナーレに関しては依頼があったときからずっと「金は出すけど口は出さない」と言い続けている。そして、いまだにそれを貫いてくれている。その立場があったから、僕はこの企画を上にあげていったわけです。大村知事がそこまで言ってくれているなら、本当にできるのかやってみようという気持ちがあった。でも、やってみたらできてしまった。他の自治体だったら、100パーセントできていなかったと思うんです。大村知事が僕に対してやってくれたことを、僕から不自由展実行委に対してやろうと思った部分はあります。

──だいたいアート作品の本物の展示でないものもあるので、愛知芸術文化センターではなく、サブ企画として別の会場でやっても成立しませんか?

津田:それは根本的な問いですね。サブ企画として別の民間会場でやるならこの企画は今回よりかは大分容易に実現できたと思います。実際に2015年には民間の小さなギャラリーでやっているわけで。様々な緊張はあったとは聞きますが、今回のような大きなトラブルもなく終わっています。今回のこの企画も、まさにトリエンナーレの「関連企画」として民間のギャラリーでやるのならできたはず。でも、それをやってもあまり意味がないなと思ったんです。今回の企画は、民間であれば当たり前にできる企画を、パブリック・セクターのメイン会場でやり、それを75日間乗り切ることで、行政の文化事業や美術館が検閲に屈しないモデルケースを作りたかった、ということが動機です。元々不自由展実行委の方々は民間でやっていたわけですから、これは不自由展実行委でなく、僕個人の動機なんですよ。

津田:大量の脅迫メールが届いたのは8月5日の朝からです。あいちトリエンナーレ事務局にも来ましたけれど、それだけではなく、教育委員会への小中学校の爆破予告や職員に対しての射殺予告など、愛知県の関連施設に大量に送られてきました。それが760通、何回かに分けて送られてきました。こちらも届いたその日に警察には相談していますが、被害届は出させてもらえませんでした。メールのヘッダーを見せてもらって分析したら、偽装された形跡はありませんでした。ある宗教団体のメールサーバーを使って送られてきていんたんです。一目で見ておかしいと思いました。

《平和の少女像》の作者は、韓国の彫刻家キム・ソギョン/キム・ウンソン夫妻で、彼らは韓国の「民衆美術」の流れをくむ作家です。民衆美術とは、1980年代の独裁政権に抵抗し展開した韓国独自のもので、一言で言えば芸術を通じた社会運動です。《平和の少女像》は正式名称を「平和の碑」と言い、「慰安婦像」ではない、と作者が説明しています。最大の特徴は、観る人と意思疎通できるように椅子を設けたことで、椅子に座ると目の高さが少女と同じになります。《平和の少女像》には女性の人権の闘いを称え、継承するという意味もあり、作者は像を日本批判ではなく、戦争と性暴力をなくすための「記憶闘争」のシンボルと位置づけています。(……)

(……)これまでの期間中に受けた大量の電話抗議の中に、テロ予告や脅迫と取れるものや、また電話に応対しただけの職員を追い詰めるようなハラスメント、その職員の個人情報をSNS上でさらし、個人攻撃に繋げるものが多く含まれていました。事務局への電話は深夜3時過ぎまで続き、朝の始業前にはまた始まります。その数は減ることなく、またすべての電話を取り切ることができないために、事務局が入っている施設内の別の組織・部署、防災センター、協賛企業、協力企業、県内の他の美術館、県庁の他の部署、県内の他の自治体などにも苛烈な電話抗議の影響が続いています。会場を守る1200人のボランティアスタッフや、会場監視アルバイトも緊張感のある場所で長時間過ごす、シビアな環境にあります。

しかし結果的に、鳴り止まない抗議電話がトリエンナーレを円滑に進めることを困難にする状況は急激に悪化していきました。まず、本来は要職にある年配の男性職員が対応する予定であったものが、対応する予定のなかった事務局の若い女性スタッフ職員まで総出でこの抗議電話に対応しなければならなくなりました。出勤している職員は、朝早く8時30分から夜遅くまで21時過ぎまでずっと激昂した相手の電話の対応をしなければならなくなりました。事態2日目となる、オープニングの8月1日(木)には、前述の専任スタッフに「これ以上この状況が続くようだと、仕事は続けられない」「聞こえない場所でも、電話の音が聞こえる気がする」といった話が、複数の職員から上がってきました。深刻な事態でした。また、騒ぎを聞きつけ、拡声器でパフォーマンスを行う人や、不審な動きをする人がやって来るたびに、職員が駆けつけ、話を聞いた上で他の観客の迷惑になる行動が見受けられた場合、外に出ていただくなどの、予測不能で混乱した事態が連鎖していきました。

 記事を読みはじめた直後、九時半に職場からメールが入って、明日の勤務を一コマにできるがとの申し出だったので、勿論、お願い致しますと即座に返信した。そうして記事を読み進め、読み終えると既に一〇時一五分に達していた。入浴へ。居間に上がるとテレビは映画を映しており、人を背に乗せた馬が四体ほど列になって走り、岩場を横切っていく様が展開されたのだが、それに何故か目を奪われ、立ち尽くしてしばらく注視した。何やら結構質の良い映像のように思われたのだが、それで風呂に行きながらこれは何という映画かと台所の父親に尋ねると、『荒野の用心棒』だと言う。ああ、と受けるが名前をちょっと聞いたことがある程度である。そうして風呂に行った。浸かりながら、「表現の自由」などについて散漫に考えた。人権思想というものを越えられないかと思う。越えると言うとちょっと違うのかもしれないが、人権=〈意味〉があろうがなかろうが現に人間は存在してしまうし、生きてしまうし、何らかの行動をしてしまう、と、何かそんな方向性の思想を形作れないかと思った。それも結局は人権概念のなかに包摂/包含/回収されてしまうのかもしれないが。
 風呂を出て自室に戻ると、ロラン・バルト/松島征・大野多加志訳『声のきめ インタビュー集 1962-1980』(みすず書房、二〇一八年)を書抜きである。「エクリチュールは書かれたものに留まるのではなく、行動、行為、実践、つまり私的なもの、日常的なもの、「振る舞い」に移り住むことができると考えること。人生のエクリチュールがあり、私たちは人生のいくつかの瞬間に本当のテクストを作り出すことができるのであり、私たちの周囲の人々(友人たち)だけがそれを読むことができるのです」、「生きられたテクスト性(そこにおいて本と人生との対立、実践と思索との対立が廃止されるのです)」――ここで語られていることが、自分にとって多分非常に重要である。生の芸術作品化や、自分自身をエクリチュール化すること、というテーマに関連する発言だ。まあだからと言って、これを読んでも特別新しい思考が生まれるわけではないのだが。要は、これももうだいぶ古く、何年か前から言っていることだが、〈実践的芸術家〉あるいは〈芸術的実践者〉のテーマだ。実践的な〈行為〉によって、この世界そのものというテクストに書きこみを入れて、その意味=権力の網目/布置をより〈望ましい〉ものに(あるいは〈美しい〉ものに?)組み替えていくということ。結局自分の思考の経路や形、その内容というのは、数年前から全然変わっていないような気がする。単に偏執狂的なこだわりを様々な角度から言い直して強化しているだけではないのか。

 「粗悪であること、陳腐さが自発性には付き物です」
 「自然らしきものの背後に隠されている人為的なものを見破ること、それも読書行為のあらゆるレベル(小説、マンガ、映画、等々)において」
 「記号学についての倫理的な思想があってもいいはずです。つまり記号学がいかにしてさらに批判の精神を研ぎすますか、ということなのです」
 「学校固有の役割とはなにか? それは、わたしが先ほども述べたように、批判精神を育てることです」
 「悦楽に結びついた疑念を教えるべきであり、懐疑主義を教えてはならない。疑念というよりも、ニーチェが「真実をゆさぶる」と言っている立場を求める方がよい。究極の目標は、差異、すなわちニーチェ的な意味での複数性を身震いさせることです」
 「自動筆記は「自発的なもの」を、「野生のもの」を、「純粋なもの」を、「深みにあるもの」を、「秩序壊乱的なもの」を連れ戻すものではぜんぜんなく、反対に「高度にコード化されたもの」を連れ戻すのです」
 「「自動筆記」の妖精が、語るあるいは書く主体に杖で触れたとすれば、その口から飛び出すヒキガエルや毒蛇はたんなるステレオタイプでしょう」
 「エクリチュールは書かれたものに留まるのではなく、行動、行為、実践、つまり私的なもの、日常的なもの、「振る舞い」に移り住むことができると考えること。人生のエクリチュールがあり、私たちは人生のいくつかの瞬間に本当のテクストを作り出すことができるのであり、私たちの周囲の人々(友人たち)だけがそれを読むことができるのです」
 「生きられたテクスト性(そこにおいて本と人生との対立、実践と思索との対立が廃止されるのです)」

 書抜きのあと、この日のことをここまでメモ書きしたのだが、メモのはずが気がつけば一時間以上も掛かっていた。ほとんど下書きである。それで時刻は一時前。短歌を考える時間を取ることにした。コンピューターの前に座り、目を瞑って脳内に言語を回し、以下の四つを拵えた。

 ブルジョアもプロレタリアも融け合って革命前夜の朧月かな
 色彩に足を取られて転びそう季節の外の桃源郷
 悲しみは匕首となり胸を刺せ二度と抜けない親友のように
 真実を映す鏡を割ったなら紛い物だけのユートピアかな

 その後、芝健介『ホロコースト』のメモを一時間弱、そうしてロラン・バルト/鈴村和成訳『テクストの楽しみ』を読了し、さらにロラン・バルト/保苅瑞穂訳『批評と真実』も読んで、四時に就寝。


・作文
 12:52 - 13:08 = 16分(7日)
 13:41 - 14:44 = 1時間3分(6日)
 16:36 - 16:55 = 19分(7日)
 23:34 - 24:46 = 1時間12分(7日)
 24:51 - 25:15 = 24分(短歌)
 計: 3時間14分

・読書
 13:09 - 13:37 = 28分(過去の日記)
 15:05 - 15:18 = 13分(fuzkue; 「わたしたちが塩の柱になるとき」)
 15:19 - 15:43 = 24分(記憶ノート)
 21:26 - 22:15 = 49分(津田大介氏インタビュー)
 23:06 - 23:32 = 26分(バルト; 書抜き)
 25:25 - 26:19 = 54分(芝; メモ)
 26:23 - 27:11 = 48分(バルト)
 27:30 - 27:57 = 27分(バルト)
 計: 4時間29分

・睡眠
 3:10 - 12:10 = 9時間

・音楽

  • Junko Onishi Trio『Live At The Village Vangurad Ⅱ』
  • Hiromi『Spiral』