以上の反ユダヤ立法をみると、ヒトラーは――初期の思想になかった「経済のアーリア化」は一応別として――基本的に初期の思想にかなり忠実に行動していることがわかる。ただ注目すべきは、ヒトラーはこれらの行動にあたってあくまでも「下からの反ユダヤ主義」への対応として行動しているのであって、「下からの反ユダヤ主義」に先立って行動することは決してなかったのである。反ユダヤ主義立法にみられる彼のイニシアチブもそのかぎりのものでしかない。要するに、彼にあっては、事態への対応の過程で初期の思想を実現していくという行動様式がみられるのであるが、このことは、移住政策においてより明瞭に看取される。
(栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』ミネルヴァ書房、一九九七年、32)
アラームは一〇時。しかし二度寝に陥る。やはり寒さのためだろうか? 布団からなかなか出ることができない。外は白い空に雨降り――それなりの勢い。一一時四五分に至ってようやく床を抜ける。睡眠時間は七時間四五分となる。ダウンジャケットを持って上階へ。母親に挨拶。食事はうどんとおじやだと言う。ジャージに着替えて台所に入り、おじやの皿を電子レンジへ。それからストーブの上に置かれてあった煮込みうどんの鍋を、台所の焜炉台の方へ移動させて丼によそった。卓へ。テレビは相模原市の津久井やまゆり園で障害者を何人も殺害した植松聖被告の初公判を伝えている。横浜地裁(だったと思うが)の前に立ったレポーターが、雨降りのなか状況を話す。植松被告は殺害の事実を認め、皆様に深くお詫び申し上げますと謝罪したものの、その後、口に何かものを入れるような様子を見せて、そのために裁判は休廷になったとのこと。のちに食事を終える頃、ふたたびニュースはこの話題に回帰して、また横浜地裁前のレポーターの姿が映ったのだが、その際には口に何かものを入れた、という部分が、被告が急に暴れだした、という情報に取り変わっていた。それ以上の詳細は不明。食べるあいだ、新聞にも目を向けていたが、同時にテレビは米イラン関係についても伝えて、イランがイラクにあるアメリカ軍の基地などにミサイルを撃ちこんだとのことで、まあ非常に順当な展開だとは言わざるを得ないだろう。それはそうなるだろうと。全面的な戦争にだけはならないように祈る/願う。
食後、父親が先日買ってきたプリンを頂いた。細長いような円筒形の容器に入っているもの。普通に美味。それから食器を洗い、洗面所に入って鏡の前で寝癖を直す。そうして風呂洗い。腰は曲げるとやはり痛いので、まだまだ治らない様子。そもそもこれがヘルニアだったとして、治るのか? このままではないのか? 医者に行った方が良いのだろうが、その時間がないし、金も使いたくはない。ゆっくり風呂を擦り洗って、出てくると緑茶を用意して下階に帰った。雨は止んだようで、空気は変わらず白いものの、いくらか明るみが滲み出てきたようだった。
自室で茶を飲みながらインターネットを少々回り、それからこの日の日記を早速記しはじめて、ここまで綴るとちょうど一時に達している。
それから過去の日記の読み返しを始めた。一年前の記事はやたらと長いわりに、感性の網に引っかかるような面白い記述はない。二〇一四年も同様だが、後者は勿論まだまだ未熟で拙劣ではあっても、一つの雰囲気のようなものを醸し出すことはできていたかもしれない。自らの過去の文章に触れたあとは(……)の「読書日記」と(……)さんのブログを読んだ。それでちょうど四〇分が経ち、それからふたたび書き物に立ち返って、七日の記事を綴っていく。父親に対する激しい弾劾を書き連ねる――とは言え自分も、偉そうなことを言えるほどに大した生を生きてはいないのだが、しかしここにおいてはひとまず自らのことは棚上げしよう。一時間一六分を作文に費やすと三時を迎えた。食事へ向かう。
時間が前後するが、読み物のあいだだったかそれとも書き物のあいだだったか、外から猫の声が聞こえたので窓に寄ってみると、隣家の敷地との境になっている段の上にまさしく猫が一匹乗っていた。じっと見つめてくるのをこちらからも見つめ返しながら、舌を鳴らしてみたり、身体をちょっと動かしてみたり、また鳴かないかと待ってみたものの、鳴き声を立てることはなかった。それでそのうちに注視するのを止めて、作業に戻ったのだった。
上階に行くと母親は外に出ているようだった。行商の八百屋((……)さん)が来ていたのだ。台所に入り、うどんの余りを温めて丼によそって、卓に就いて食べはじめると母親はなかに入ってきて、バナナを買った、黒いけど、と言う。一本食べてと言って渡してくるので了承し、食後に頂いた。テレビは録画したものだろうか、『SASUKE』を流していて、山田勝己が出演しており、この人まだいたのかと思った。「黒虎」というチームを率いており、その一員である二七歳の男性がサードステージに挑戦していたのだが、この人がいかにも楽しみながら肉体の躍動を披露し、運動能力を目一杯発露させていたのがなかなか良かった。食後は引き続き『SASUKE』に目を向けながらアイロン掛けをした。掛け終えたエプロンやシャツなどは、すぐ脇で炬燵に入っている母親に渡していく。外には晴れ間が見えて、光の色が薄く生じていた。
家事を終えるとテーブルの隅で緑茶を用意する。一杯目の湯を急須に注ぎ、茶葉がひらくのを待つ合間に、足の先を両側にひらくように左右に向けた姿勢で、背伸びをして腰をひねった。その後茶を持って下階の自室に帰ると、ロラン・バルト/保苅瑞穂訳『批評と真実』を読む。茶を飲みつつ、また飲み干すと歯磨きをしつつ読み進めてじきに四時に至ると、その頃には空はまた雲に閉ざされて陽の色は失われていた。
そうして着替えである。その前にふたたび身体をひねった。足先をやはり左右に向けて開脚し、股関節を伸ばす。あまり大きくはひらかず、負担や無理のないように注意しながらしばらく股の筋を伸ばしたあと、紺色のスーツに装いを替えた。そうして出発である。
家を出るとゆっくり歩いて東へ向かう。空気は冷たく、肌の表面に摩擦感をもたらすと言うよりは、雨のあとで大気全体に冷たさが染みており、浸透性の冷気となっている。坂道を上がっていると前から老婆が歩いてきたので挨拶すると、低くのろのろとしたような声でこんにちは、と返してくれた。坂を抜けて入った平らな道に、「パルシステム」のトラックが停まっているのは、この時間によく見る姿で、近くの家で頼んでいるものらしい。(……)さんの宅の横の、ガードレールを越えた先の下り斜面に蠟梅が咲いていた。先日ここを通った際に強く鼻を刺激した香りはやはりこの花のものだったのだろうが、この日は匂いを吸った覚えはない。
街道に出て見上げれば空は白、あるいは灰色で、いずれにせよ一面の曇天のなかに青さは見られない。車のタイヤが擦っていく車道のアスファルトは既に乾いていたが、こちらが歩く歩道の足もとやすぐ脇の石段の表面などには濡れた痕がまだ残っている。通りに面した老人ホームの窓はカーテンを閉ざされてなかが見えなかったが、そのカーテンの肌色が建物の壁や照明の色と調和していた。
裏道はまだ結構濡れており、(……)の前で車が正面から入ってくると、ライトが地面にぶち撒けられて、無を体現したかのような真空的な白さが一面に広がった。その後さらに進んで、(……)裏まで来ると、空にはようやく鈍く濁った青味が混ざりこんできた。
職場着。(……)
(……)
(……)
そうして終業(……)片づけをしながら(……)くんに、最近どう、と声を掛けた。就活でとにかく忙しいらしい。そんななかでもしかし、ニーチェのツァラトゥストラを読んだと言うので、あれは哲学書って言うより、物語って言うか、詩みたいな感じでしょ、と向ける。ニーチェ、なかなかやってるな、と思いましたと言うので笑うと、あんな文章、普通書けないですよと称賛が続いた。こちらも何だかんだでニーチェはまだ一冊も読んだことがないはずだ。七〇年代以降のロラン・バルトが影響を受けたことを明言しているので、さっさと読んでみなければならないだろう。
その後、今度はこちらの方が最近は何か読んでいるかと訊かれたので、ロラン・バルトの名を挙げ、今年はバルトとホロコーストを攻める、と笑う。ホロコーストと言うとあの人、あの『全体主義の起源』を書いた……と言うので、ハンナ・アーレントかと受けて、あの三巻あるやつ、と言うのには、あれ高いんだよなあ、一冊五〇〇〇円くらいするでしょ、読みたいんだけど、と笑う。続けて、まああれより先に、『エルサレムのアイヒマン』っていうのがあって、それを読みたいと思っているよ。
そうして退勤の段になって入口付近で、今日は財布持ってきたのと問うと、やはり鍵しか持っていないと言うので笑う。飯に誘おうかと思ったのだが、しかし忙しいかと訊くと、面接の様子を撮った映像を、大学にということなのか、それとも就活の一環でということなのか、ともかく提出しなければならないとかで、その準備をする必要があるとのことだった。それで、また今度、と言いながらも、自ずと途中まで帰路を共にすることになった。ホロコーストと言うと映画もたくさんありますよね、と言うので、『ショアー』、と受けて、でもあれ何か八時間とかあるらしいじゃん、本もあるみたいなんで、そっちを先に読んでみようと思っているけど、と。ハンナ・アーレントを主人公にした映画もある。あるね。あと、ナチを追い詰めた検事についての……。フリッツ・バウアーか。確かそれです。
ホロコーストっていうと、レヴィナスも関連してくるでしょう、確か彼は、本人は入っていないけど、家族が殺されていたよね。奥さんと娘だか、一部を除いては全員殺されていたとの答えが返る。横断歩道を渡りながら、本当にとんでもないことですよ、と。先日も、ホロコーストについての本を読んでいたんだけど、ワルシャワ・ゲットーっていうのがあるでしょう、で、そこのユダヤ人を送りこんで殺害する絶滅収容所があるわけだよね、そうしたら、読んでいたら、ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人の九割が殺害された、とか書いてあってさ、はあ? と思って、九割って何だよと思ったよ、多分四〇万人くらいはいたと思うんだけど、だからそれが五万人とかになってしまったわけでしょう。そんなことを話しながら、街道沿いを行く。まあでも日本でホロコーストっていうのが一般的に知られるようになったのは、どうやら九〇年代以降らしいね、もっと前から知られていたものかと思っていたけど。まあ、言ってしまえば遠い外国のことですからねえ。そうなんだよな、夏にさ、(……)くんに社会を教えてて、そもそもまず「ホロコースト」っていう言葉自体が出てこないんだよねあのテキストは、まあでもユダヤ人が殺されたみたいなことは書いてあるわけよ、そこでまあこういうことがあって……っていうことをちょっと話したんだけど、そうしたらそれ覚えた方が良いですか、って言われて、そういうことじゃねえんだけどなあ、と思ったよ、お前、六〇〇万人だぞ、と。そういうことではないですね、と(……)くんも同意をする。まあでもどうしても、そういうことになっちゃうんだよね……。下手すると教科書で一行くらいしか書いてなくて、さらっと流して終わりみたいな感じですもんね。俺からすると、俺はかなり関心がある方だから、むしろあれを覚えないでほかに何を覚えるんだっていう感じだけどな。
その後、(……)前の坂を下りながら、加藤周一の話を聞いた。彼は、日本人は概念的な思考を突き詰めて行う機会が少ないと言うか、日本にはそのような環境が整っていない、というようなことを言っているらしい。(……)くんは彼が読んだ加藤周一の考えについてもう少し詳しく話してくれたのだが、細かなことは忘れてしまった。坂下まで来て横断歩道を渡ると、(……)の方に下りていく(……)くんと別れた。就職が決まったら祝いに奢ってくださいと言うので、まあ、ある程度は、と返し、いや、俺本当に金ないよ、と苦笑しておいた。
西に通りを渡り、裏路地に入って自宅を目指す。道はさすがに暗い。グラウンドの横を過ぎ、マンションや家々のあいだを行って、グループホームの辺りまで来ると川が近くなるので静寂のなかに水の響きが差し入ってきた。川の方、樹々が並んだその奥は端的な闇である。中学校脇の、結構急で長い坂は、林に接しているためにとりわけ暗く、足もとは湿っている。上っているうちに身体がちょっと温まってきた。さらに進んで家に続く裏路地に入ると、直上に雲を逃れた満月が輝き、星もちらほらと煌めいていた。
帰宅。着替え。夕食へ。食事はシチューに葱を混ぜたひきわり納豆を添えた白米に、ブロッコリーなどである。食事を取っているあいだ、NHKのニュースでイランの報復攻撃の報が流れたので、音量を上げてもらった。今回の攻撃は広大な基地を精度の高いミサイルで攻撃している。それは被害が必要以上に拡大しないことを狙ったものだと思われ、報復を果たしながらも同時に事態が無闇にエスカレートしないように注意を払ったのではないかという分析/解釈が述べられていた。母親は、『家、ついて行ってイイですか?』を録画しておこう、と言う。その場で番組を変えて見ようとしなかったあたり、こちらのニュースに対する関心を汲んでくれたのかもしれない。
食後、室に戻ると英語を読んだ。今日はいつものようにNew York TimesのThe Stoneの記事ではなく、Guardianでイラン関連の最新ニュースに当たった。Michael Safi, "Iran's assault on US bases in Iraq might satisfy both sides"(https://www.theguardian.com/us-news/2020/jan/08/irans-assault-on-us-bases-in-iraq-might-satisfy-both-sides)、"Iran launches missiles at Iraq airbases hosting US and coalition troops"(https://www.theguardian.com/world/2020/jan/08/suleimani-assassination-two-us-airbases-in-iraq-hit-by-missiles-in-retaliation)、Dina Esfandiary, "By killing Qassem Suleimani, Trump has achieved the impossible: uniting Iran"(https://www.theguardian.com/commentisfree/2020/jan/07/qassem-suleimani-trump-uniting-iran-assassination-government)である。
・ratchet up: 徐々に上げる
・outlet: 放送局
・calibrate: 調整する
・proxy: 代理
・salvo: 一斉射撃
・sprawl: ばらばらに広がる
・tit-for-tat: 仕返しの、報復の
・put ~ on the back burner: ~を後回し(棚上げ)にする、二の次にする
・rapprochement: 親交関係の回復、和解
The Iranian strikes were heavy on symbolism. The missiles were launched around 1.30am in Iraq, roughly the same time as the drone strike that killed Suleimani on Friday morning.(……)
But in their immediate aftermath, the attacks appear to have been carefully calibrated to avoid US casualties – fired at bases that were already on high alert.
If Trump’s assessment of the damage holds, Wednesday’s strikes might be an opportunity for both sides to de-escalate without losing face.(……)
Analysts said the limited casualties could indicate the strikes – the first direct Iranian attack on a US base – were designed to allow Iran’s leaders to satisfy their domestic audience that Suleimani’s killing had been avenged, without forcing the Trump administration to retaliate.
Ordinary people continue to be squeezed by Donald Trump’s “maximum pressure” campaign, with no prospects for improvement. This, along with general discontent, led to significant protests in November 2019. These caught the government off guard, but didn’t prevent it swiftly crushing the demonstrations and enacting a nationwide ban on the internet that lasted five days. That response, unsurprisingly, further entrenched the discontent. Trump’s killing of Suleimani, however, has put those concerns on the back burner. Instead, Iranians have adopted a “better the devil you know” approach: unifying across the spectrum, even to the point of standing behind their government, in order to resist increasing US aggression.
And this means that, while Suleimani’s loss is a significant blow for Iran, the strike by the US was in one sense a gift to the Iranian government. It could never have dreamed of achieving such unity in difficult times otherwise.
With the killing of Suleimani, Trump has accomplished what no one in the Iranian elite thought possible: he has united a fractured, exhausted and desperate Iranian public in a show of unity.
英語を読んだあとは次に、ロラン・バルト/松島征・大野多加志訳『声のきめ インタビュー集 1962-1980』(みすず書房、二〇一八年)の書抜き。Hiromi『Spiral』をBGMとして流したようだ。
「精神病患者は、話すときに、語りかけはしません、それで『ブヴァールとペキュシェ』は、まったく伝統的な外装でありながら、語の本来の意味において、狂気の書物なのです」
「言語活動が存在し、人間がもはや存在しないというような」
「フローベールの文はあらゆるものを備えた物です。それは同時に文体の単位であり――従って言語学的ばかりでなく、修辞的な――、それは仕事の単位であり、なぜなら文の数で日々を測るのですから、そして人生の単位であるのです。彼の人生は文のうちに要約されるのです」
「表現の両義性を弄び、フローベールは「文を作ること」に生涯を費やしたと言うこともできるでしょう」
「他方文は無限でもあります。一つの文を終わらせることを強いるものはありません、それは無限に「触媒作用を引き起こすことができる」のです、たえず何かを文に付け加えることができます。そしてそれは、私たちの人生の最後までです」
「フローベールのすべての目くるめく陶酔は、相矛盾していますが同時に保持される次の二つのスローガンに集約されます。「文を終えるために仕事をしよう」、そして、他方、「それは決して終わることがないのだ」」
「なぜなら彼は一つの狂気に到達したのですから。それは表象の、模倣の、写実の狂気ではありません、そうではなくてエクリチュールの狂気、言語活動の狂気なのです」
そうして入浴に向かう前に、ほんの一〇分間だけ短歌を考えたが、確かこの時点ではまとまらなかったのだと思う。風呂に入りに行って、浸かっているあいだも短歌を考案していたが、そのうちにうとうとと意識を落としてしまった。湯浴みから出てくると室に帰り、急須と湯呑みとともに燃えるゴミの箱を上階に持ってきた。その中身を台所のゴミと合流させておき、茶を用意するとゴミ箱を左の脇に抱えながら、液体で満たされた急須と湯呑みを持って帰った。ゴミ箱を脇に挟んでいるとおそらく腕が固まって揺れを上手く吸収し、逃すことができないのだろう、湯呑みの茶を零してしまいかねなかったので、ゆっくり注意して歩いた。
「Let me stand next to your fire, Jimi. 欲なき世界を燃やしてしまえ」、「本を焼く者はいずれ人を焼くとハイネは言って戦争遠し」の二首をTwitterに投稿したあと、茶で一服しながらロラン・バルト/保苅瑞穂訳『批評と真実』を読んだのだと思う。そうして零時一九分に達すると作文に入った。この日のものと前日のものと合わせて一時間弱綴ったあと、またロラン・バルトを読んでいるうちに、『魔術士オーフェンはぐれ旅』のことを思い出した。富士見ファンタジア文庫、と言うかライトノベルというジャンルの黎明期を画した一作と言って良いだろうこのシリーズは現在も続いており、何とアニメが新作として制作され、この一月七日から放映されはじめたのだった。こちらは小学校六年生の時に、同級生の(……)を介してこの作品の存在を知り、小学生から中学生の当時は随分楽しく読んだ覚えがある。言語で形作られた物語というものに触れた原体験のうちの一つだろう。そういうこちらの思春期を彩った作品なので何だかんだでちょっと気になって、動画サイトに違法アップロードされていたアニメ一話の映像を瞥見してみたのだが、しかし絵柄にしても演出にしても、どうもあまり惹かれる雰囲気ではなかった。オープニングテーマなども妙なラップが入っているのがあまり好みでない。まあ、普通のアニメだな、という感じだ。ついでにシリーズの最近の作品、と言うかあれは「プレ篇」なので、多分『無謀編』シリーズの各巻毎に収められていた前日譚、つまりオーフェンがまだキリランシェロとして「牙の塔」にいた時代の挿話を一冊に集めたもので、だから作者の最近の文章ではないのかもしれないが、ともかくそれの冒頭を試し読みしてみたところ、まあ当然の如く惹かれない。物語の言葉、つまりは表象/模倣としての言語でしかなかったのだ――それは大衆的なジャンルの宿命だが。それにしても通り一遍の文章でしかなく、官能性が香る気配はなく、今の自分に楽しめるものではないなと再確認することになった。
そういうわけで作業に戻り、芝健介『ホロコースト』の情報を読書ノートにメモ書きした。ビルケナウ収容所建設で犠牲になったソ連人捕虜についてや、一九四四年の五月から七月にアウシュヴィッツに移送されて犠牲となった四〇万人のハンガリー・ユダヤ人の悲劇についてや、一九四四年一〇月七日のアウシュヴィッツにおける武装蜂起などについてである。一つ目の建設作業に従事した捕虜たちについては、一九四一年一〇月の建設開始時には一万名いた人員が、一か月で半数に減り、最終的に翌年の五月には一八六名のみが生き残ったと言う。つまり、この建設労働の苦役を生き延びることができたのは僅か二パーセントに過ぎなかったわけで、一体どれほどに過酷な労働だったのか、当然だがまったく想像もつかない。その他、巻末の年表からも覚えておきたい事柄の日付を写しておき、メモに切りをつけると三時だった。そこからふたたびロラン・バルトを読んで、三時四〇分に就床した。