2020/1/9, Thu.

 ルブリン居留地計画の挫折のあとクローズアップされてくるのがマダガスカル計画である。当時フランスの植民地だったマダガスカル島ユダヤ人を移住させるという計画は、すでに一九三七年にポーランド政府によって検討されており、一九三八年一二月にはフランス外相ボネがドイツ外相リッベントロップに、フランス政府は一万人のユダヤ人をこの島に送る考えをもっていることをつたえている。この計画はドイツ政府部内でも多大の関心を呼び、ヒトラーも一九三八年秋にポーランドハンガリールーマニアとの協力によるユダヤ人移住計画に同意した。ゲーリングは一九三八年一一月一二日の会議で、ヒトラーマダガスカル島計画に興味をもっていることを明らかにした。
 しかしながら、ドイツにおいてこの計画が具体性を帯びてくるのは、一九四〇年六月、ドイツが対仏戦に勝利してからのことであった。ヒムラーはすでに一九四〇年五月二八日、ヒトラーポーランド支配に関する覚書を提出して、「すべてのユダヤ人をアフリカかその他の植民地に移住させる」ことを提案していたが、ヒトラーはこの覚書を「非常に素晴らしく、適切である」と評して、これを承認した。ドイツ外務省参事官ラーデマッハーは六月三日、マダガスカル計画の覚書を作成して提出した。この計画はただちにヒムラーの熱心な支持をうるところとなった。ラーデマッハーはハイドリヒのすすめにしたがって、アイヒマンの助手のダンネッカーの協力をえて、八月一五日に第二次案を作成した。
 この計画によれば、ドイツはフランスとの講和条約においてマダガスカル島を割譲させ、ここに四百万人のユダヤ人を移住させることになっていた。同島は、ヒムラーに従属する「警察総督」の支配下に、ユダヤ人の自治が行なわれる保護領になるはずであった。ただ、大戦下にこのような大計画を実行することは不可能だったから、これは一九四二年半ばと予想された大戦の終結を待って実行されることとされた。
 (栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』ミネルヴァ書房、一九九七年、40)


 一二時一〇分まで寝坊。睡眠時間は八時間三〇分。駄目だ。堕落だ。天気は快晴。最高気温は一五度とのちに新聞で見た。ベッドを抜けるとダウンジャケットを持って上階へ。母親に挨拶すると、腰はまだ痛いかと訊かれる。それで身体を少々曲げてみたが、さほどの痛みは訪れなかったので、もしかすると良くなっているのかもしれない。寝間着からジャージに着替えたあと、トイレに行って膀胱のなかの液体を排出し、戻ってくると台所でシチューをよそった。もう一品はほうれん草の炒め物である。そちらは電子レンジに入れて四〇秒加熱し、卓に持っていくと椅子に座って食事を始めた。新聞一面からイランの米軍基地への報復攻撃の件について情報を追うが、昨晩Guardianの記事で読んだ以上の目新しい情報はなかったと思う。テレビは最初ニュースを映していたが、そのうちに『サラメシ』が始まる。序盤は街を行く人に、昼飯に絡めて五・七・五の川柳を詠んでもらうという企画をやっていたが、じきに物故した有名人の愛した食事を紹介するコーナーが始まって、すると母親が、亀渕友香って知ってる、と訊いてくる。ゴスペル歌手だった人らしいが、特に記憶にはなかった。その人はどこかの鰻の店を愛していたらしく、それを見ながらこちらは、鰻なんて食ったことねえよと呟いた。実際、我が家の食卓に鰻が供されることはないし(過去に一度くらいはあったかもしれないが、記憶には残っていない)、店の鰻など高価過ぎてこちらのような半人前には食べられたものではない。食後、母親が余っている苺のプリンを半分ずつ食べようと言うので了承し、彼女がバナナの小片とともに小椀に移してくれたそれを頂いた。そうして席を立ち、流しに食器を運び、母親の使った分も同様に運んでまとめて洗うと、洗面所に入ってスプレーを髪に掛け、寝癖に始末をつけた。それから浴室に入って風呂掃除である。腰の調子は、やはりいくらかましになっているように感じられたが、しかしどうだかわかったものではない、またのちのち痛みはじめるかもしれない。風呂を洗うと室を出てきて下階に戻り、コンピューターを点け、準備が整うまでのあいだはその前に直立して、足先を左右に向けた状態で少々腰をひねった。各種ソフトを立ち上げておくと急須と湯呑みを持って上階へ、緑茶を仕立てて戻ってくると、一服しながらロラン・バルト/保苅瑞穂訳『批評と真実』を読んだ。読了。それとともに茶も飲み干したので、この日のことを綴りはじめて、現在は一時三九分を迎えている。
 前日のことをメモしはじめ、僅か五分で始末をつけると、それから七日の文章に取りかかった。読み返しながら文言をいくらか調整してしまうのは、また文を整えたいという気持ちが強くなってきていたからだ。しかし、そのうちにふたたび逆に振れて、文の形の綺麗さなどどうでも良い、という方向性に移るに違いない――と言うか、この記述を記している一月一二日現在、既にそうした気分になっている。記録こそが旨だ。七日分の作文は二時一三分で一旦切った。母親が洗濯物を入れはじめた足音と気配が伝わってきたからだ。手伝うために上階に行き、ベランダの戸口に立つと、眩しさが目を射る。タオルを畳みながら日向ぼっこをしたいと言うか、肌を陽光に触れさせたい欲求が生じたものの、ベランダを覗くと床の上にはもうあまり日向は残っていなかった。時間もない。畳んだタオルと足拭きマットを洗面所に運んでおくと、自室に戻ってふたたび七日の日記を書き進めた。わりあいにリズムに注意して、音調を感じ取りながら書けたような気がした。読む方からすると違いは明確にわからないかもしれないが――個人的な感触として。三時一一分に記事を完成させるとブログとnoteに投稿しておき、そうして食事へ向かった。時間が前後するが、書き物の途中でLINEにアクセスすると、(……)くんが、三月八日にウェディングフォトを撮るのだが、皆、来てくれないかと呼びかけていたので、参ろうと返事をしておいた。
 食事は大根の煮物とシチューの余りである。さらに、米にひきわり納豆を掛けて食べることにして、葱を刻んで納豆に加えた。シチューは鍋に残っていたものをすべてよそってしまい、なみなみと溢れそうなほどに満たされた皿を慎重に運んで、卓に就いた。小さなスプーンでシチューをちびちびと掬って食い、具をある程度食べると椀を両手で持って啜った。牛乳の味が強かった。
 食後、皿を洗って乾燥機のなかを片づけておき、自室から急須を持ってきた。緑茶を用意してポットに水を足しておいたあと、飲み物を持って我が窖へ戻る。そうして一服しながら読み物。まず、一年前の日記。新聞からエリック・カウフマンという学者へのインタビューを読んでいる。日本あるいは極東においては、「閉鎖的な民族ナショナリズム」が政治風土の基盤です。他の民族との結婚は比較的少なく、民族間の境界も明確なため、多数派の優位性が揺らがない。例えば、外国生まれの人口比率は、日本では1・5%、韓国では3・4%だという数字があります。欧米では10~20%が普通なので、社会状況がかなり違うのです」とのこと。
 また、以下の記述も引いておく――「新聞を取ってきて、記事を読む。上にも記しておいた、「黒人社会 白い肌に生まれ 根強い差別 正しい理解訴え」である。南アフリカで生まれたアルビノの女性の苦境が語られたものだが、いい加減に人類は肌の色で他人を差別することをやめるべきだと思う。しかし、アメリカで黒人が差別されるのと同様に、黒人が多数派のところでは肌の白い人が抑圧されるわけで、どこであれ人間はマイノリティを自ずと迫害する心性、傾きを持ってでもいるのだろうか? 「国連によると、アフリカの28か国では過去10年間、アルビノに対する襲撃事件は600件を超えた。タンザニアマラウイなどでは、アルビノの骨や臓器に魔術的な力があるとの迷信があり、臓器を抜き取られる事件が相次ぐ」と言う。この世界はガルシア=マルケスの小説ではないんだぞ、と言いたくなる」。「どこであれ人間はマイノリティを自ずと迫害する心性、傾きを持ってでもいるのだろうか?」という疑念は、一年後の現在も変わらない。
 続いて二〇一四年四月一六日の日記からは、次の風景描写が、さほど大したものではないけれど一応目に留まった。随分と、色彩に対して感受性を向けているものだ。「白と青が溶けあって霧みたいに淡い空で、消えそうな雲のすじが何本も走っていた。びっくりするくらいまっすぐな飛行機雲がそのなかに二本あった。林のなかの竹を切りひらいた斜面に陽が入ってきて葉っぱの緑にまぶされると、ふわりとしてあたたかいオレンジ色が空間に満ちた。風に舞った桜の花びらがそのなかをきらきら舞っていた。ピンクと紫の中間みたいな花の色は春になってあたらしく見る色だった。山もうすい緑と白がまだらにまざりはじめていた」。
 あとは(……)の「読書日記」を読む。「立派なオフィスビルというのはなんでこうも天井が高いのだろう、静かで、そこにスタバの店員の「こんにちはー」という明朗な声が吸い上げられていった」という一文が、何ということもないものだが、何故だか何らかの雰囲気のようなものを感じさせた。特に最後の、「明朗な声が吸い上げられていった」という一節に感覚的刺激を覚えたのだが、「吸い上げられていった」という言葉選びに、音声の反響する空間のぽっかりと空いた広大さが表象されるのだろうか。
 自他の日記を読みながら歯磨きも済ませて、そうすると四時一八分に至った。洗面所に行って口を濯いだあと、便所で糞を垂れる。便器に座る時はそこから立つ時にやはり腰がやや痛むのだが、多少ましになっているような、痛みが軽くなっているような気がしないでもない。そうして着替えである。まず階段を上がって仏間で靴下を履く。母親は炬燵に入ってタブレットを見ていたと思う。メルカリだろうか。自室に戻るとBill Evans Trio "Alice In Wonderland (take 1)"を流し、水色のワイシャツを着る。それからジャージの裾を踏んでゆっくりのろのろと足を上げて抜き、スラックスを履くと鼠色のネクタイをつけて、ジャケットまで羽織って黒いスーツ姿になると四時半頃だった。コンピューターの前に立って、Bill Evans Trioの音楽が流れるなかで現在時刻までメモをつけると、四時四〇分になった。
 出勤へ。コートとクラッチバッグを持って上階へ向かう。バッグも傷や汚れがついてかなりボロくなってきているので、新しいものに買い替えたいところだ。上階に上がるとトイレで放尿し、JOURNAL STANDARDの真っ黒なコートを着てストールをつけ、出発した。玄関を抜けてポストに寄り、夕刊を取って一面を瞥見すると母親にそれを渡して道に出た。東の空の低み、樹々の梢の傍に昇りはじめたばかりの満月が浮かんでいるのを見上げながら坂道に入った。月は嵌めこまれたような切り抜かれたような具合で、その周囲の空は淡青の色以外には何物も存在せず、無垢の平原地帯、言わば〈処女地〉が悠久に広がっている。坂道に面した林からは泡立つような、あまり色気のない音色で、鳥の鳴き声が連打的に、連続的に立って降った。
 三ツ辻に八百屋が来ており、あけましておめでとうございますと挨拶をされた。思わず腕時計を見て今日が九日であることを確認し、もう一〇日ですけどと微笑すると、全然会えなかったからと言う。こちらも挨拶を返すと、去年は後半はあまり会わなかったもんなと来るので、冬期講習で早くなっちゃったのでと答えた。客が一人いた。体躯の大きめな禿頭の、いくらか強面の男性で、四〇代か五〇代くらいだろうか。こんにちはと互いに低く挨拶を交わし、八百屋が行ってらっしゃいと言うのに礼を返して行こうとすると、禿頭の男性が、出勤!? と驚いて訊いてきた。肯定すると、塾の先生なんだと八百屋が補足したが、それに応じて男性は、「可愛いんだ」と言ったように聞こえた。しかしこれはおそらく、「頭いいんだ」と言ったのだろう。そうして場を離れて道を歩き出すと、世の中の生き方なら教えられるけどなあ、とか笑い合っているのが背後から聞こえてきた。
 街道。家を出た時には手に触れる空気がやや冷たく感じられたが、ここまで歩いてくるとそうでもなく、空気が動いても摩擦がなくて、貫いてもこずに肌をさらさらと通り過ぎていく。道を進みながら脳内で、僕は毎日文を読んで文を書かなければ生きていかれない、そういう病気なんですよ、と誰に向けるわけでもなく言い訳をした。
 道中、満月が常に東の途上に漂っていた。裏路地を行くうちに空の青さは幾分濃くなって、月の光も清かに際立ってくる。自動車整備工の向かいの空き地には水溜まりが小さくひらき、それは端的な、透き通った鏡で、暮れ方の空を薄墨色に染めながらひどく明晰に映しこんでいた。ゆったりと鷹揚に歩いていき、(……)裏の辺りまで来ると空の色はさらに深まって、月の表面は白々と艶を帯び、その周囲の青は丘の際まで乱れなく空間を埋めており、気体と言うよりは固体を隙間なく詰めこんで空を密閉したかのようである。
 職場に到着。(……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 駅舎を抜けて通りを渡ると、坂道には入らず自販機に寄り、久しぶりにコカコーラゼロを買った。バッグにペットボトルを入れ、たまには違う道から帰るかということで駅正面の坂には戻らず、そのまま東へ街道沿いを進み、(……)の隣から木の間の狭い下り坂に入って下りた。
 帰宅すると父親の車が駐車場にないので、まだ帰ってきていないらしい。なかへ入ると母親は入浴中だった。自室に下りて服を脱ぎ、ジャケットやベストを丁寧にハンガーに掛けて廊下に吊るしておくと、食事に向かった。台所に入ると鍋にはおでんが拵えてあり、ほかには鮭とほうれん草のお浸しがあった。コカコーラゼロとともにそれぞれを用意して食卓に就くと点けっぱなしになっていたテレビを沈黙させ、夕刊を読みながらものを口に運んだ。ドナルド・トランプがイランの攻撃を受けて演説を行ったと言う。米国人の死傷者はなし。反撃はしないとのこと。素晴らしい軍と兵器を持っていても、それを必ず使わなければならないわけではない、なるべくならば軍事力の行使はしないと述べたらしい。その代わり、経済制裁を強化する方針だと。
 鮭がまったくもってやる気のない味で、旨味が全然なく、醤油を掛けてもなおその塩気が身に混ざらず浸透せず、とにかく平板な味だった。父親が帰ってきたのとほとんど同時に母親も風呂を上がったのではなかったか。卓の向かいに就いた母親に、別に文句を言ったつもりではないが、鮭が全然美味くないと漏らした。鮭というものは昔の方がもっと美味かったような気がするのだが、何故だろうと。すると、母親の鮭は美味かったと言う。もしかしたら切り身を取った部分が違ったのかもしれないとのこと。あるいは焜炉を使って焼かずに電子レンジで調理するようになったのが何かしら関係しているのだろうかと仮説を述べると、そうかもしれないと曖昧に落とされた。
 食後、食器を洗ったあといつも通り緑茶を持って自室へ。全然覚えていないが、ニコラス・チェア/ドミニク・ウィリアムズ/二階宗人訳『アウシュヴィッツの巻物 証言資料』を読んだようだ。一一時まで。それで入浴に行ったはず。湯に浸かりながら、「ARBEIT MACHT FREI[アルバイト・マハト・フライ]の恥辱からついに逃れた人よ安らかに」という一首を作ったあと、意識を失って、気づくともう零時前だったと思う。風呂を上がって自室に戻ったあと、零時二〇分から芝健介『ホロコースト』に関連してメモ書きを始めた。年表中から時期を覚えておきたい事件の時日を読書ノートに写して、これでようやくこの本からのメモ書きは終了である。そのあと、参考文献一覧から興味を惹かれる著作の情報を日記にいちいち抜き出して行ったのだが、これにやたらと時間が掛かった。

 芝健介『ホロコースト』、参考文献
 ・ゲッツ・アリー/山本尤・三島憲一訳『最終解決――民族移動とヨーロッパのユダヤ人殺害』法政大学出版局 1998年
 ・ギュンター・アンダース/岩淵達治訳『われらはみな、アイヒマンの息子』晶文社 2007年
 ・マイケル・ベーレンバウム/芝健介日本語監修、石川順子・高橋宏訳『ホロコースト全史』創元社 1996年
 ・リチャード・ブライトマン/川上洸訳『封印されたホロコースト』大月書店 2000年
 ・フィリップ・ビューラン/佐川和茂・佐川愛子訳『ヒトラーユダヤ人――悲劇の起源をめぐって』三交社 1996年
 ・デボラ・ドワーク/芝健介監修、甲斐明子訳『星をつけた子供たち――ナチ支配下ユダヤの子供たち』創元社 1999年
 ・ダニエル・ゴールドハーゲン/望田幸男監訳、北村浩・土井浩・高橋博子・本田稔訳『普通のドイツ人とホロコースト――ヒトラーの自発的死刑執行人たち』ミネルヴァ書房 2007年
 ・マイケル・R. マラス/長田浩彰訳『ホロコースト――歴史的考察』時事通信社 1996年
 ・マルセル・リュビー/菅野賢治訳『ナチ強制・絶滅収容所――18施設内の生と死』筑摩書房 1998年
 ・ペーター・シェットラー/木谷勤・小野清美・芝健介訳『ナチズムと歴史家たち』名古屋大学出版会 2001年
 ・ミーテク・ペンパー/下村由一訳『救出への道――シンドラーのリスト・真実の歴史』大月書店 2007年
 ・ヴォルフガング・ヴィッパーマン/増谷英樹訳『ドイツ戦争責任論争――ドイツ「再」統一とナチズムの「過去」』未来社 1999年
 ・ヴォルフガング・ヴィッパーマン/林功三・柴田敬二訳『議論された過去――ナチズムに関する事実と論争』未来社 2005年
 ・ロベルト・S・ヴィストリヒ/相馬保夫監訳、大山晶訳『ヒトラーホロコースト講談社 2006年
 ・石田勇治・星乃治彦・芝野由和編訳『アウシュヴィッツと《アウシュヴィッツの嘘》』白水社 1995年
 ・井上茂子・木畑和子・芝健介・永岑三千輝・矢野久『1939 ドイツ第三帝国第二次世界大戦同文館出版 1989年
 ・梶村太一郎・石田勇治・金子マーティン・新美隆・本多勝一『ジャーナリズムと歴史認識ホロコーストをどう伝えるか』凱風社 1999年
 ・川越修『社会国家の形成:20世紀社会とナチズム』岩波書店 2004年
 ・川越修・矢野久編『ナチズムのなかの20世紀』柏書房 2002年
 ・芝健介『ヒトラーニュルンベルク第三帝国の光と闇』吉川弘文館 2000年
 ・芝健介『武装SS:もう一つの暴力装置講談社メチエ 1995年
 ・高橋哲哉『記憶のエチカ:戦争・哲学・アウシュヴィッツ岩波書店 1995年
 ・永岑三千輝『ホロコーストの力学:独ソ戦・世界大戦・総力戦の弁証法』青木書店 2003年
 ・松村高夫・矢野久編『大量虐殺の社会史 ―戦慄の20世紀―』ミネルヴァ書房 2007年
 ・山口定『ファシズム岩波現代文庫 2006年
 ・山本秀行『ナチズムの記憶:日常生活からみた第三帝国山川出版社 1995年
 ・渡辺和行『ホロコーストのフランス』人文書院 1997年

 そうして一時九分から書見である。ニコラス・チェア/ドミニク・ウィリアムズ/二階宗人訳『アウシュヴィッツの巻物 証言資料』を読む。収容所のなかで歌や詩が作られていたという情報に接して、やはり絶滅収容所のような場所でも芸術というものの火は完全には絶えないのだなあと、素朴に感じ入るようなところがあった。途中でベッドに移ってしまったので、読書の後半は意識を失っていたようだ。四時就寝。