ヒトラーの政治委員射殺命令の構想が最初にしめされたのは、一九四一年三月三日、国防軍首脳との会談においてであった。すなわちヒトラーは会談に提出された「指令二一号(バルバロッサ作戦)特殊領域における基本方針案」を、次のような考えの基本線にしたがって変更するよう命じた。
「きたるべきこの戦闘はたんなる武器の争い以上のものである。それは二つの世界観の闘争である。この戦争を終えるには領土の広さからしても敵の防衛力を破壊するだけでは不十分である。……
あらゆる大規模な革命は二度と拭いさることのできない事実を作り上げる。社会主義の理念は今日のロシアからはもはや取り去って考えることはできない。それのみが国家と政府の内政的基礎を形成しているのだ。ユダヤ的ボリシェヴィキ的インテリゲンチアはこれまで民衆を抑圧してきたものとして除去されねばならない。亡命などをしてまだ残っているかつてのブルジョア的貴族的インテリゲンチアも同様に問題外である。……」
一二時二〇分を過ぎてようやく起き上がる。睡眠時間は八時間二〇分。駄目である。せめて七時間くらいに抑えたい。ダウンジャケットを持って上階へ行き、無人の居間(母親は仕事である)でジャージに着替える。台所に入ると鍋におでんが残っており、冷蔵庫を覗けば鮭も一切れあって、ほか、ピンク色のスチームケースのなかに諸々のおかずが用意されてあったが、それらを無視して米と一緒にハムエッグを食べることにした。フライパンを取り出して油を垂らし、道具を傾けて油を広げてから、ハムを四枚敷く。さらに卵を二つ割り落として、それがしゅわしゅわ音を立てながら泡立っているあいだに丼に米をよそった。いくらも加熱せず、黄身が固まらないうちに焼いたものを米の上に取り出す。そうして卓に運び、椅子に腰を下ろして新聞を引き寄せながら丼に醤油を注ぎ、崩した黄身と米とを搔き混ぜてから食べはじめた。新聞は一面においてイランの攻撃を受けたドナルド・トランプの演説を紹介していたが、昨晩の夕刊で読んだ以上の興味深い情報は多分なかったと思う。ひとまずこれで双方手打ち、ということになるのだろうか。
ものを食べ終えると丼と箸を流し台に運んでおき、それからポットを覗くと湯が少なくなっていたので、薬缶から水を注いでおいた。そうして洗い物を済ませると、洗面所に移動して髪に寝癖直しウォーターを吹きかけ、櫛付きのドライヤーで少々整えた。髭も、まださほど伸びていないものの、剃ろうかどうしようか迷う。もっと伸びてしまった方が見栄えとしてはかえって良いかもしれず、むしろ今くらいの薄青いような無精髭の段階は中途半端でどうも冴えない。ひとまず措いて、ゴム靴で風呂場に踏み入って浴槽を洗った。腰の痛みは多分良くなってきているのだと思う。
仕事を終えると下階の塒に戻り、コンピューターは昨晩点けっぱなしで眠ってしまったので、待つことなくEvernoteにアクセスし、前日の記録をつけるとともに今日の記事を作成した。そうして一旦急須と湯呑みを持って上階に上がり、テーブルの片隅で緑茶を用意する。自室に戻ってくると過去の日記の読み返しを始めた。一年前の日記には、二〇一六年八月二七日の記述が引かれていて、それが一読して現在の自分の文章よりも精度の高い描写だったので、今日の日記にも写しておくことにした。二〇一六年の自分もなかなかに頑張っている。ある観点から見ると、今の自分はこの頃の自分に明確に負けているだろう。この路線、つまり緻密な風景描写の路線を改めて推し進める必要は必ずしもないが、現在においても過去の自らに負けないような文章を書かなければならない。
既に暮れて地上は暗んでいながらも空はまだ青さの残滓を保持していたが、それもまもなく灰色の宵のなかに落ちて吸収されてしまうはずだった。雨は降り続けており、坂に入ると、暗がりのなかを街灯の光が斜めに差して、路面が白く磨かれたようになっている。前方から車がやってくると黄色掛かったライトのおかげでその時だけ雨粒の動きが宙に浮かびあがり、路上に落ちたものが割れてそれぞれの方向に跳ね、矢のような形を描いているのが見えた。街道に出ると同じように、行き過ぎる車のライトが空中に浮かんでいるあいだだけ、無数の雨の線が空間に刻まれているのが如実に視覚化されるのだが、それらの雨はライトの上端において生じ、そこから突然現れたかのように見えるため、頭上の傘にも同じものが打ちつけているにもかかわらず、光の切り取る領域にしか降っていないように錯覚されるようで、テレビドラマの撮影などでスタジオのなか、カメラの視界のみに降らされる人工の雨のような紛い物めいた感じがするのだった。道を見通すと、彼方の車の列は本体が目に映らず、単なる光の球の連なりと化しており、それが近づいてくると段々、黒々とした実体が裏から球を支えていることがわかる。濡れた路面が鏡の性質を持っているために光は普段の倍になり、二つの分身のほうは路上の水溜まりを伝ってすぐ目の前のあたりまで身を長く伸ばしてくるのだが、その軌跡は水平面上に引かれているというよりは、目の錯覚で、アスファルトを貫いて地中に垂直に垂れながら移動してくるように見えるのだ。横断歩道が近づくと、信号灯の青緑色が、箔のようにして歩道に貼られる。踏みだすたびにそのいささか化学的なエメラルド色は足を逃れて消えてしまい、自分もその照射のなかに入っているはずなのに、我が身を見下ろしても服の色にはほとんど変化がないのだった。
(2016/8/27, Sat.)
また、一年前の今頃は三宅誰男『亜人』を読んでおり、この日に読了している。この作品もまた読み返してみなければならないだろう。現在の自分の関心である〈無償性〉との関連で読み、新たな思考をもたらすことができないだろうか? 一年前の評言を以下に引いておく。
読むのは四度目だが、やはり大傑作であった。本当にテクストの全体、どの一行も、作品の隅の隅まで透徹した視線が配られ、まさしく磨き抜かれている、隙なく彫琢されている、それが今まで読んできて今回最もまざまざと感じられたような気がする。圧倒的な才能だ。しかしだからと言って無益な難解に堕してはいない。いや、難解は難解であるのだが、文体の激しさ厳密さ、そして「啓示」などに見られる論理の見通せなさに騙されなければ[﹅7]、物語としてのリーダビリティを充分以上に備えているとすら思う。物語展開としてもやはり高度に整えられており、一文一文の厳密さと物語の脈絡の厳密さとが非常に緊密に調和し、結合しているように感じられる。そうした意味で、形式と内容のあいだに必然的な結びつき――それは初めから、予めのアイディアとして求められるものではなく、一行一行を書くうちに事後的に生産されるものだと思うが――が存在するという、名作に対してよく述べられるあの称賛が、ここでも当て嵌まると思う。そうした意味で、本作は小説として実に正統的な「傑作」なのではないか。読んでいるあいだ、当てずっぽうの曖昧な印象だが、Eric Dolphyを連想するところがあったので、彼の『The Illlinois Concert』を流していた。
その次に二〇一四年四月一七日の日記を読んだが、この時の自分はさほど頑張ってはいない。まだまだ未熟で、言語的操作能力から言っても観察的感受性から言っても、苦戦している。それでもやはり、風景に対する目はそこそこ磨かれてきているようだ。
次いで(……)「読書日記」及び(……)さんのブログを一日分。以下の言には笑わざるを得ない。
便所でうんこをしたときにふと思ったこと。これは最近気づいたことであるのだが、若い女の子はうんこの話があまり好きではないのではないか? 中国の便所ではたびたび流されることのないまま便器に居座っているうんこを見かける。そういう現場に遭遇するたびにこちらとしては当然、嬉々としてその量と形状について周囲に報告せざるをえないわけだが、そういうとき、彼女らはだいたいみんなきまって嫌そうな顔をしたり、苦笑いを浮かべたり、あきれてみせたりするのだ。少なくとも笑おうとしない。なぜだ? 根っからのサイコパスなのか? そういう彼女らの冷たいリアクションにでくわすたびに、ひとり埋蔵金でも見つけたかのようなハイテンションになっているじぶん――精神分析的には糞は金銭である――は虚しくなってしまう。なぜ、うんこの話で笑わずにいることができるのか? それどころか、ときに顔をしかめさえするのか? こちらにいわせれば、うんこの話で笑わない人間を信用することなど不可能である。いったいどんな過酷な環境で生まれ育ったら、そんなにも芯の冷えたさびしい感受性の持ち主に、そこまで冷血な人間になってしまえるのだろうか?
読み物を通過したところで時刻は一時四一分に達していた。伸びてきた手の爪を切ることにして、the pillows『Rock stock & too smoking the pillows』を、三曲目の"New Animal"から流しだし、ベッドの上に移ってティッシュを一枚取った。歌を口ずさみながら、その上で爪を切り、切ったあとの指先を鑢掛けしていく。たかが爪を切るだけの行いにも、きちんとやろうとすれば結構時間が掛かるものである。音楽が七曲目、"Mr. Droopy"に掛かったところで鑢掛けを終えた。爪の破片と粉が乗ったティッシュを丸めて捨て、ほんの少しだけ下半身をほぐしておくことにした。それで"Ladybird girl"が流れているあいだ、すなわち僅か四分間のみ、屈伸をしたり左右に開脚して股関節を伸ばしたりしたが、やはりそうすると腰が少々痛むので、無理をするまいと早々に切り上げ、そうして上階に行った。既に時刻は二時だったので、洗濯物を入れなければならなかったのだ。空には雲が結構湧いており、西の太陽はそれに遮られて、ベランダに出ても温もりは身に触れてこなかった。スリッパを履き、細かな落葉の破片を踏み潰しながら、吊るされているものを順番に取りこんでいき、すべて仕舞うとまずタオルを畳んだ。頭のなかには"Ladybird girl"の次の一曲、"Tokyo Bambi"が流れていた。畳んだものを洗面所に持っていくと、その他肌着や靴下や寝間着を整理したが、その間、太陽が雲から逃れたようで、ベランダに続くガラス戸をすり抜けて暖色の明るみが室内に届き、背が温まるとともに宙を行き交う白い塵の姿が露わになった。整理したものはソファの背の上に置いておき、そうして下階の窖に帰った。コンピューターの前に就き、(……)この日の日記を書きはじめたのが二時二五分である。ここまでちょうど三〇分で綴ることができた。足取りはゆったりとしており、丁寧な感覚で書いている。
この日のことはまったくメモを取っておらず、思い出せないし、仮に思い出せたとしてもそうするのが面倒臭いので、ここまででもうあとのことは割愛だ。(……)さんのブログを読んだ時の抜出しメモのみ以下に付しておく。
「(……)」: 「(……)」((……))
「私自身が求めてきた教師は、私自身の未熟さ故に外部に求めざるを得ない教師性を、丁寧な吟味によって解体したあとに自覚される、未だ到達し得ぬ私自身以外の誰でもなかったのである」
「私たちが人間として個性的であるのは、目立つからでも、突飛に現れるからでもない。個性とは、否応なく投げ込まれている時間とともに深まりを見せる有り様の唯一性のことである」
「要するに、人間の世界において、ただ何かがある事実は、遠い過去の人間の努力(あるいは努力の皆無)の成果として、今、そこに現れる」
「モールが台頭した頃は、記号のメッカは、あくまでも物理的距離が離れた場所に安置されており、そこに行くことで「内面」を充実させるための選択ができたが、現在では、「内面」に向かって記号が押し寄せてくる」
「ともかく、消費の泥沼に何もかもが吸い込まれる社会では、「思索」の試みは、消費の一つの選択肢に過ぎない。引きこもりの青年が『アサシンクリード』などのオープンワールドゲームに没頭しているのとそう変わらない。抽象的な現前性に囚われて歴史性を忘却させ、陳腐化した「内面」を規準として動き回る、「仕事」の対極に位置する「趣味」における、記号の躍動である」
「過去を見るのは、最も古いものへと回帰するヨーロッパ的な高尚さや気高さではなく、あくまでも現前性を開始点としつつ、そこから広がる未踏の未来に関心を寄せずにはいられない性分から来る」
「何らかの過去に忠義を持ち続けることが、私にはできない」
「言語が、私たち自身の内奥に最も近い躍動であり続け、抽象的になってしまった現前性の歴史性を暴露する(たとえば、自宅前の地名の歴史性を明らかにするような)視座であり続け、大きな出来事を記録する優秀な技巧であり続け、古代人と私たちの連続性を確かめるための、時間をつなぐ楔である限りにおいて、「思索」は、消費者社会すらも前提とせず、次の言葉を発する営みにおける最も古典的で、永続する役割に忠実な試みとして、がちゃがちゃとした喧騒の中で沈黙を守り、渇望し、それ故に、遠い過去と未来をつなぐような言葉を言い得ることができるように、次の言葉を探し続けるほかに、選択肢はないのではないか」