2020/1/11, Sat.

 最高軍司令部は、一九四一年六月六日に、「政治委員処理に関する指針」いわゆる「政治委員射殺命令」を各部隊に発した。そこには次のように述べられている。
 「ボリシェヴィズムとの戦いにおいては、敵が人間性国際法の原則に基づいた態度をとるものとは考えられない。とくに、抵抗の本来の担い手としてのすべての種類の政治委員からは、我々の捕虜に対する憎悪に満ちた、残酷にして非人間的な取り扱いが予想される。
 部隊は次のことを自覚しなければならない。
 一、この戦いにおいては、かかる分子に対する寛大な態度や国際法上の顧慮は誤りである。それは、自らの安全と占領地域の早急な平和に対する危険となる。
 二、野蛮なアジア的闘争方法の首謀者は政治委員である。それ故、政治委員に対しては即刻いかなる顧慮もなしに最大限の厳しさで措置をとらなければならない。
 それ故、政治委員は、戦闘あるいは抵抗の最中に捕らえられれば、基本的にただちに武器によって始末しなければならない」。
 この命令は国防軍の任務分担地域について発したものであって、後方地域において捕らえられた政治委員はSS特務部隊に引き渡すように指示されている。
 ところで、以上見てきたところからも明らかなように、政治委員射殺命令は元来ロシア支配のためにその政治指導層を根絶する目的で作られたものであり、ユダヤ人の絶滅とは直接の関連はない。ヒトラーのこれにかんする発言をみても、ユダヤ人に言及するさいにもたとえば「ユダヤ的ボリシェヴィズム的インテリゲンチア」のように、その指導層に限定されている。それでは、SS特務部隊は具体的にいかなる指示を受けたのであろうか。これにかんして現存する唯一の文書は、開戦の直後、一九四一年七月二日にハイドリヒが四人のSS警察上級指導者に送ったものであるが、これは、彼がすでに「特務大隊と特務中隊に」直接あたえた「基本的指示」を「要約した形で」知らせたものである。そこには次のようにしるされている。
 「4、処刑
 処刑すべきは、
 コミンテルンのすべての役員(およそ共産主義的職業政治家一般)、
 党、中央委員会、大管区委員会、地区委員会の上級・中級および急進的な下級役員、
人民委員、
 党・国家に職をもったユダヤ人(Juden in Partei-und Staatsstellungen)、
 その他の急進的分子(怠業者、宣伝家、パルチザン、刺客、扇動者その他)。
 以上は、それらが個々の場合において、以後の治安警察上の諸措置あるいは占領地域の経済再建に特別重要な政治的経済的情報の獲得に必要ないか、あるいは必要なくなったものにかぎるものとする。……」
 国防軍の命令が「政治委員」に限定されているのに対して、SS特務部隊の対象はより広範である。さらにそのなかでも、ロシア人一般が役職者か急進的活動家に限定されているのにたいして、ユダヤ人はたんに「党・国家に職を」もっているというだけで殺害の対象とされており、明らかにその範囲は格段に広い。しかしそれにしても、それはあくまでも「党・国家に職をもった」ユダヤ人であって、ユダヤ人一般ではないし、ましてや女子供まで殺害するというのは、政治委員射殺命令の本来の趣旨からしても理解しがたいし、また実際そのような命令の文書は存在しないのである。
 (栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』ミネルヴァ書房、一九九七年、54~56)


 アラームは六時二〇分に鳴るよう仕掛けてあった。しかし鳴り響いたものを止めたのちベッドに回帰して、正式な起床は七時頃となった。ダウンジャケットを持って上階へ。母親に挨拶をして、服はジャージに着替えず、寝間着の上にジャケットを羽織った格好で、洗面所に入って寝癖を直した気がするのだが、これはのちのことだったかもしれない。食事はおにぎりと温麺の煮込み。大鍋から丼に麺をよそり、卓に運んで、鮭の小片を乗せたおにぎりとともに食べた。テレビはニュースを映していたが、報道の詳細は覚えていない。イランがウクライナ行きの旅客機を撃墜した疑いの件が報じられていたような気もする。温麺は二杯目を少量おかわりし、食べ終わると食器を洗った。その時点で七時半前だったはずだ。八時過ぎには家を発たなければならないので、あまりゆっくりしている猶予もないが、それでも緑茶で一服することにして用意をした。急須と湯呑みを持って下階の自室に戻ると、コンピューターを点けて、一年前の日記を読みながら茶を飲み、飲み干したあとは歯磨きをした。一年前の一月一一日には(……)さんと長時間通話をしていた。彼が日本に帰国したら、またお会いさせてもらって話を交わしたいものである。(……)さんとの会話では病気について話し、ちょうど一年程度で回復して良かったねと言い合っているのだが、それに補足して次のような記述があった。「この時は話題にするのを忘れたが、それで言えば二月頃には「殺人妄想」とこちらが呼んでいるような現象も起こっていた。朝目覚めた時など、頭のなかに「殺す」とか「殺したい」とかいう言葉が勝手に湧いていて、しかもその対象として想定されているのが一緒に住んでいる両親だったものだから、当時は自分は本当に無意識のうちに人を殺したいという願望を抱えているのではないか、両親を憎んでいるのではないか、本当に人を殺してしまうのではないかなどと考えて恐怖したものだ(料理のために包丁を握るたびに、「これを使えば人間を殺せるのだよな」という不健康な独語のような思考が頭のなかに浮かび上がるものだった)。それでもそうした「妄想」に飲み込まれなかったのは、そうした現象に襲われている自分を対象化し、切り離して観察することができていたからで、これはそれまでヴィパッサナー瞑想や書くことを訓練してきた習慣の賜物だったと言えるだろう」。こんな現象が我が身に起こっていたことはすっかり忘れていたが、現実として確かにあったことだ。 一体何が原因だったのか今に至ってもまったくわからないのだが、自分自身で異常としか思えない思考が、しかし頭の内に抑えようもなく湧き上がってくるというもので、この症状は正直なところ、かなり怖かった。両親に対する殺意の言葉のみならず、道を歩いていても、たまたま見かけた通りすがりの犬や人間に暴力を働いたり、彼らを殺したりするイメージが脳裏に自ずと発生するということもよくあった。これが起こったのは二〇一八年二月付近のことだが、少なくともその時期の自分の頭は、自生思考的様相を持っていたと言って良いのだと思う。殺意がないはずなのに殺人に関する言葉や思考が脳内を半ば支配する、という現象だが、それはある種、思考が〈乗っ取られる〉かのような様態であり、あれがあのまま続いていたら、もしかすると自分は本当に統合失調症と呼ばれる病気に陥っていたのかもしれない。実際当時は、確か女子中学生を長期に渡って監禁した男が逮捕された事件があったはずなのだが、その犯人が、正確に統合失調症だったかは忘れたが精神鑑定に引っかかったというような情報に触れる機会があって、それを聞くと、自分も頭が狂ってしまって何らかの犯罪を犯してしまうのではないかという不安にどうしても駆られざるを得なかったのを覚えている。
 また、次の記述。「(……)さんが『ムージル伝記』を読んで得られた彼の伝記的な情報についても語られた。それによるとムージルは理系から文学方面に移るなどして結構長く大学に籍を置いていたのだが、そのなかで金を得るために書かれたのが『テルレスの惑乱』である。金のために書いてあれだけの作品が作れるのも凄いと思うが、この『テルレス』が当時結構好評を受けて、それで味を占めたムージルは文学のほうで身を立てることを決意し、次に言わばまあ自分の本気を見せてやるかというわけで書かれたのが「合一」の二篇だったのだと言う。確かにあれは本気も本気、本気すぎてほとんど狂気に近いまでの、気違いじみた本領発揮だが、ムージルはしかしあれで世の中に受け入れられると思っていたらしい。そんな訳がない。あんなものが受け入れられる世の中はないですよとこちらが笑うと(……)さんも、俺も『伝記』を読みながら何度も突っ込んだもんな、阿呆ちゃうかって、と。それでもこの日本に古井由吉という人間がいたのだ。あの気違いじみた作品を翻訳しようという人間がこの現代日本に存在していたのだ。これはほとんど奇跡的なことではないだろうか?」 そもそも、「合一」の二篇が出版されてしまったこと自体が奇跡じみており、また同時に気違いじみている。書いた方も書いた方で大概頭がおかしいが、出版社の方も、よくあんな作品を印刷して世に頒布させようという気になったものだ。あれこそ、まさしくロラン・バルトが言うところの、「読みうる」テクストでも「書きうる」テクストでもない第三のテクスト的様態、〈受け取りうる〉テクストではないか?(以下の引用は旧訳)

 『S/Z』の中で、ある対立関係が提案された、すなわち、《読みうること》/《書きうること》である。《読みうる》テクストとは、私がふたたび書くことのできるとは思われぬテクストである(今日私に、バルザックのように書くことができるか)。《書きうる》テクストとは、私が、自分の読み取りの体制をすっかり変えてしまわないかぎり、苦労しながらでなければ読めないテクストである。ところで、いま思案中なのだが(私のもとへ送りつけられるある種のテクスト群から示唆を受けてのことだ)、もしかするとテクスト的実体として第三のものがあるのかもしれない。読みうるもの、書きうるものと並んで、《受け取りうる》ものとでもいうような何かがありそうなのだ。《受け取りうるもの》とは、読みえないものであって、挑発するもの、そして、あらゆる真実らしさの外にあって絶えず産出されつづける、燃えあがるテクストである。また、その機能は――あきらかに見て取れるとおりその書き手が引き受けている機能は――著作物をめぐる金もうけ主義の制約に対して異議申し立てをするところにあるらしい。そのテクストは、《刊行不可能》という思想によって主導され、武装されており、みずからのもとへ次のような返信を呼び寄せそうである。すなわち、あなたの産出なさっているものは、私には読むことも書くこともできません、しかし私はそれを《受け取ります》、火として、刺激剤として、謎めいた組織破壊作用として。
 (佐藤信夫訳『彼自身によるロラン・バルトみすず書房、一九七九年、181~182; 読みうること、書きうること、そしてそれを越えて Lisible, scriptible et au-delà)

 一年前の日記を読み終わらないうちに七時五〇分に達したので、仕事着に着替えた。父親がまだ起きていないようだったので配慮をして音楽は掛けなかった。黒のスーツを身につけると、コートとクラッチバッグと、Paul Smithのグレーのマフラーを持って上階に上がり、便所に入った。出勤前に腹を軽くしておきたかったのだが、普段と時間が違うためだろう、大便が腸からひり出してくるまでに結構時間が掛かった。室を出るともう八時五分くらいだったのではないか。マフラーを巻いてコートで身体を覆い、母親の声を背に受けて玄関へ、靴を履いて鏡の前に立っていると、ちょうど起きてきた父親が、トイレに行くために玄関に出てきて行ってらっしゃいと言うので、ああと受けて扉を開けた。
 朝が早いので空気はなかなか冷えており、布を貫いてくる感覚があって、特にスラックスにしか守られていない足の、太腿の辺りが冷え冷えと刺激される。鴉が静謐な空気のなかに鳴き声を響かせ、建物の屋根や樹の上を飛び渡っていった。坂を抜ける間際にも、すぐ頭上で羽ばたきの音を降らせながら一匹、宙を滑っていくものがあった。
 (……)さんの宅の向かいの家で、ホースを使って車を洗っている姿の、やや大柄な背格好の婦人である。名前は知らないが、時折り見かけることがある。挨拶をしようかと思いながら、(……)家の脇の斜面に生えた蠟梅の、もうだいぶ花が膨らんで色勢が強いのに目をやっていると、婦人はこちらから隠れるようにして車と家屋のあいだの狭い隙間に入ってしまったので、わざわざ声を掛けずに過ぎた。街道に出て途上に視線を放てば、東の果ての低みを塗った白さに太陽の明るみが辛うじて感じられなくもないものの、頭上は鬱蒼と茂った森林のような滑らかな灰色の雲に覆い尽くされている。朝も早くから息を切らして走っているランナーたちと何度かすれ違った。勤勉なものだ。
 裏通り、脇の家で老婆が雨戸を開けている。表の方から賑やかな声が聞こえると思って細道に目を振れば、街道沿いを中学生の一団が行く姿があった。部活動だろうか。裏道の人通りは少なく、時折り学生が正面から、こちらよりもよほど速い歩調でやってくるくらいである。(……)付近の一軒の、塀に囲われた小さな庭の角に蠟梅が生えているのは以前から目を留めていたが、それよりもさらに手前の一軒の横、葱などが植わった平たい敷地に、もう一本、咲いているのにこの朝初めて気がついた。前者はまだ蕾が多いようだったが、後者の方はもうよほど黄色を広げて華やかに装っていた。塀のある家の方では老主人が縛った段ボールか何かを外に出すところで、彼が着ていた温かそうな格子模様の上着の、あれは褞袍というものではなかったか。夏目漱石の小説を思った。
 道の終盤から尿意が嵩んできたので、少々歩幅を大きくして急ぐ。職場はまだ開いていなかった。公衆便所に寄って用を足したあと、バス停のベンチに座って何をするでもなく待っていると、室長がやって来る姿が見えた。シャッターがひらいてちょっとしてから教室に入る。室長は掃除機を掛けはじめるところだった。早い、と言うので、朝早くから来ていただいて、有難うございますと礼を返したが、掃除機の音で聞こえなかったかもしれない。
 (……)
 (……)それで思い出したが、朝のニュースではその台湾の総統選について伝えられた時間があったのだった。中国と距離を取る方針の民進党蔡英文現総統の支持者はやはり若い世代が多く、彼らは香港の抗議活動を目の当たりにして台湾でも自由と民主主義を守らねばならないという気持ちを強く刺激されている、それに対してその親などの年嵩の世代には、中国との経済関係を重視して国民党の韓国瑜候補を支持する人間が多い、という話だった。
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 それで労働は終了。コンビニで食べ物を買って昼食を取って帰ることにした。それでロッカーから荷物を取り出し、財布を持って職場を出る。雲は晴れて空の青さが露出し、明るく乾いた陽射しが駅前の空間に降り注いでいた。駅舎前を通り過ぎてコンビニに行き、入店すると店の奥に向かう。冷凍食品を収めたケースを挟んでパンの区画に目を凝らすと、オールド・ファッション・ドーナツがあるようだったので久しぶりにそれを食べるかという気になり、通路に入って棚に寄り、手もとに保持した。あとはサンドウィッチとおにぎりを食べようと思ってサンドウィッチを見に行ったが、あまり食指を動かされるものがないので、おにぎりだけで良いやと気を変えた。おにぎりの棚の前で見ていると、小さな女児がやって来てこちらの脇で棚の上部に向けて手を伸ばし、ぴょんぴょん飛び跳ねはじめる。欲しい品が取れないでいるらしい。それで彼女の手が向かっている先にあった紀州梅のおにぎりを取ってあげて、こちらはツナマヨネーズと鶏唐揚マヨネーズの二種類を取って会計を済ませたのだが、すると女児はまた棚の前でぴょんぴょんしながらこちらを見ているので、近寄って、これが欲しいの? と訊きながらもう一品を取ってあげた。それが何の品だったかは忘れた。眉を下げたような、不安気なような顔をした女の子だった。お母さんは? と訊いてみると、おうち、と言う。どうも一人で買い物に来たらしい。偉いものだ。頭を撫でて褒めてあげれば良かった。その後、女児は会計に向かったのだが、こちらは妙なお節介を働かせて、きちんと買って帰れるだろうかと密かに見守る態勢に入り、どうやらちゃんとお金を払えていそうだったので退店したが、さらにその場に留まって女児が出てくるのを待った。それで女の子が出てきてこちらの前を通り過ぎると、ちょっとスキップ気味の歩調で表通りの方へ去っていくその後ろ姿を見つめて、どうやら大丈夫そうだなと判断してビニール袋を片手に提げて職場に帰った。
 (……)
 (……)それにしても、大学一年生という存在の若さには改めて考えてみると驚かされる。彼ら彼女らはほんの三、四年前まではまだ中学生に過ぎなかったのだ。そのことに思い当たって思わず、うわ、凄いな、若いな、などと言ってしまったのだが、これはある種相手に失礼だったかもしれないと言うか、そのように無駄に年寄りぶるような言動は慎みたいと思う。(……)
 (……)そうして退勤。駅に入ってみると(……)行きは一時二一分発で、あと二、三分で発車する頃合いだったので、歩かずにさっさと帰るかというわけで改札をくぐった。最後尾の車両に乗りこみ、扉際に就いてまもなく発車した。太い樹々の合間から鹿か猪でも出てきそうな森が過ぎ去っていくのを眺めているうちに、最寄り駅に到着したので降車した。駅舎を抜けて街道を行くと、ヘルメットを被った道路工事の人足が歩道の際の辺りを掃除していたが、工事自体は行われていなかった。途中で道を渡り、肉屋の脇から木の間の坂道に入って下っていった。
 自宅に車はなかった。母親は、車を買い換えるとかで試乗に行くという話だったが、あとで訊いたところ、そのあとに(……)まで出て(……)さんと会ってきたのだと言う。家に入ると室に帰り、コンピューターを点けておき服をジャージに着替えて、インターネットを見ているうちに二時に達したのだったと思う。それで洗濯物を仕舞いに行った。同時に風呂も洗っておき(湯がかなり残っていたので洗わなくても良かったのだろうが、一度抜いてしまった栓を戻すのも面倒で、いっぱいの残り水が流れていくのを漫然と待った)、緑茶を用意して自室へ帰ると、朝に読み返しが途中で切れていた一年前の日記をふたたび読み、その後、二〇一四年の記事に、(……)「読書日記」や(……)さんのブログも読んだ。それで三時、日記を書かねばならないのだが、どうもやる気が出ないと言うか、疲労感があったので、眠ることにした。ダウンジャケットを羽織ったままベッドに移り、布団の下に潜りこんで横を向き、まだ明るいうちから意識を落とすことの甘美さに身を委ねた。
 床を離れたのは五時である。上階に行って居間のカーテンを閉めておき、戻って日記に取り組んでいると母親が帰ってきた気配が立った。しばらくしてから緑茶をおかわりしに行くと、台所で夕食の支度をしていた母親は、(……)に車を置いて(……)で(……)さんと会ってきて、お菓子を貰ったと話した。食事の支度は面倒臭かったので母親に全面的に任せてしまうことにして、部屋に戻るとこの日の日記を綴り続けたのだが、どうも足取りが重かった。丁寧に文を作ろうという意識がまた芽生えはじめていたのだが、しかし構築に頭が向きはじめると切りがないと言うか、時間が掛かってしまって仕方がないので、いや、これはやはり緻密な文の形成などは打ち捨てて、記録を旨とするべきだなと途中で方針を転換した。もう少し密度の高い文を書きたいと思ったのは、先日瞥見した二〇一六年だかの日記における風景描写の方が今の自分よりも明らかによく書けていると感じたことがあって、過去の自分に負けないような文を作りたいという意志が擡げたのだったが、当時と今とでは書き記す事柄の量も変わってきているし、こだわりはじめれば時間が消費されるばかりでいつまで経ってもエクリチュールが現実の生に追いつかないことになりかねないので、やはり文の質はあまり求めずに、一筆書きで、その代わりに細かく書く方向性で行こうと思う。そういうわけで、二時間書いたところで一旦この日の記述は打ち切って八日の方にスイッチし、さらさらと二〇分ほど書き足して七時半を越えると食事を取りに行った。
 台所に入ると大皿に、大根や人参や牛蒡や豚肉などの煮物がたくさん盛られてある。そこからいくらか別の大皿に取り分け、さらにフライパンに炒められてあった大根の葉もその傍らに盛って電子レンジに突っこんだ。ほかの品目は、麻婆豆腐ならぬミート豆腐と言うか、豆腐をミートソースで和えた料理である。それを丼の米の上に掛け、あとはモヤシとブロッコリーを一皿に乗せて卓へ移動した。食事を始めてまもなく、母親は、父親がもう帰ってくるからと言って風呂に行ったのではなかったか。それなのでテレビを消して、静かななかで夕刊を読みながらものを食べたはずだ。夕刊には確か、テヘラン近郊で墜落したウクライナ機について、イランが誤って撃墜した疑い、という記事があったような気がする。食事を終える頃合いになって父親が帰ってきたのではなかったか。それとほとんど同時に母親も風呂から出てきたような記憶がないでもない。こちらは食器を洗い、柿の種と緑茶を持って自室に帰ると、柿の種をばりばり食い、それから(……)さんのブログを読みはじめた。「(……)」: 「(……)」((……))。

 「文字文化の源泉になっているのは、文字そのものではなく、文字によってあぶり出されることが可能となった、日本列島という時空に囚われた人々の思考と行動の有り様である。なぜこう思うかと言うと、文字を輸入した日本人は、文字に合わせて自らの思考を調整するのではなく、自らの思考に合わせて文字を改変していったからである」
 「まとめると、音の少なさと単純さ、拍の冗長さ、高低アクセントの単純さ、同音異義語が多いことなどによって、日本語は、極めて聞き取りにくく、端的な言い回しがしづらい言語である。英語では、"democr..."と言いかければ、democracyと言いたいのだとすぐに予測できるが、日本語では、「さ…」と言いかけても、一拍に個別の意味があるわけではなく、いくつもの単語を予想できるので、最後まで聞かなければ、何が言いたいのかが分からない」
 「明治33年、小学校令が改正され、「国語」が科目として新設されると、平仮名は一音一字、48文字に統一された(それまでは、200以上の「変体仮名」があった。定食屋や居酒屋の名前で稀に見る「ゑ」や「ゐ」は「変体仮名」の名残である)」
 「当時、漢文訓読文を書いていた者からすれば、「である」調や「です・ます」調も、軽薄な日本語に見えたに違いない」
 「(4)から(7)は、〈Aの語句がBの語句に従属しているとすれば、Aは常にBの先に立つ〉という、ある筆者が挙げる原理にまとめられると思う。要するに、言語の構造として、文が最も自然に聞こえるのは、大事なことを後に言うときである。「白い花」において、「白い」は「花」に従属している。「白い花」は「花」の一種であって、「白い」の一種ではない」
 「日本語の長文は、考えが完結しない緊張感を保つ効果はあるかもしれないが、逆に言えば、仮に正しい日本語を使っていても、グズグズして要領を得ず、分かりにくい文章だということである」
 「他方、大和言葉よりも漢字の方が優れている(あるいは公式的である)という暗黙の了解はあり、「トコヤに行く」と言えばいいものを、それを公の場で言う場合、「理髪業者」と言い直さなければ、失礼に当たる場合がある。あるいは、後輩を「連れて行って」もいいが、取引先のクライアントは「引率」する」
 「小さな頃から音楽をやっている者が、理屈を超えて何らかの音楽の構造を捉えているように(突然即興ができるとか、正しい音が何となく分かるとか)、日本語圏で育つというのは、この種の「音感」を育て上げることである。日本語が難しいのは、適切な文脈の中で、地位、性別、職業、地域、状況などの習慣に縛られて発話されなければ、違和感があるからではないか」
 「プラトンが再読されるに値する理由は、その複雑で完成しない著述群に沈潜した挙句に「プラトン哲学」として組み立てた理解が、実は、プラトンその人というよりも、著述群を読み解いた私自身の特性を暴く傾向があるからだと思う」

 (……)九時を越えると八日の記事をまた少し書き進めたが、すぐに切って入浴に行った。風呂は水位がそう高くなく、上体を直立させていると上半身が寒かったので、頭を背後の縁に凭せかけて身体を横たえ、なるべく湯のなかに沈めるようにしたところ、順当な流れだが意識が朧になって、気づけばあっという間に一〇時に至っていた。身体を起こし、それでも出る前にあと一〇分間だけ、思念を観察しようと思って目を閉じたのだが、そのあいだにも自ずと顔が伏して頭が前に傾いている始末である。仕方がないので浴槽の外に出て洗髪を済ませると浴室を抜け、パジャマを着込んで居間に出て、ダウンジャケットを羽織って下階に下りた。
 そうして一〇時三八分から作文、八日の記事を二六分間でようやく完成させ、インターネット上に放流する。それからさらに今日のことを一時間一一分のあいだ書き綴って零時一五分に至ると、現在時に追いつかないまま、今日はここまでとして切った。そうしてWynton Marsalis Quartet『Live At Blues Alley』を聞きながら、ロラン・バルト/鈴村和成訳『テクストの楽しみ』から読書ノートにメモを取った。
 「バタイユや――他の作家――のテクストは、神経症に逆らって、狂気のただなかで書かれ、そのテクストのうちに、もしそれが読まれることを欲するなら、読者を誘惑するのに必要な、ほんの少量の神経症を有する。こういう恐るべきテクストは、それでもなおコケティッシュなテクストなのである」(11)。これはちょっと魅力的な洞察である。〈狂気〉のなかに一抹の〈誘惑〉を(〈狂気〉の〈裂け目〉を?)孕ませること、断片的に〈娼婦〉であること。ただ、ここで使われている「神経症」の意味は、おそらく主にラカン精神分析理論を下敷きにしていると思われるが、当該理論を学んだことのないこちらにはその意味の射程がよくわからない。
 また、「文化やその破壊がエロティックなのではない。エロティックになるのは、その双方の裂け目なのだ」(13~14)とのこと。それに続けてさらに、「テクストの楽しみは、こうした把捉しがたい、不可能な、純粋にロマネスクな瞬間に似ている。――放蕩者が大胆な謀略の果てに、歓びを味わいつつ、綱を切らせて自分の首を吊る瞬間に」(14)とある。最後の一文は、鮮烈で印象的な、〈頭に残る〉隠喩/イメージである。
 一時過ぎまでメモを取ったあと、ニコラス・チェア/ドミニク・ウィリアムズ/二階宗人訳『アウシュヴィッツの巻物 証言資料』を読んだ。途中でベッドに移ってしまったのが運の尽きで、当然のごとく意識を散らすことになった。そうして三時二〇分頃に就寝。