2020/1/14, Tue.

 (……)独ソ戦の遂行にあたってドイツ側がとろうとしたのは、軍の食料の完全な現地調達主義であり、さらにそのうえ、ドイツ本国への重要食料品の調達・輸送であった。この点にかんして、一九四一年四月二九日の最高軍司令部国防経済・軍備局長トーマスの覚書にはつぎのように述べられている。
「1、戦争は、戦争第三年度において全国防軍がロシアの食料によって扶養された場合においてのみ、引き続き遂行しうる。
 2、このさい、我われがもし我われにとって必要なものをその土地から取り上げれば、疑いなく、数百万の人間が餓死するであろう。
 3、もっとも重要なのは、油菜、油粕の保存・輸送であり、そのつぎが穀物である。現存の油脂・肉類はさしあたり軍隊が消費する。……」
 「数百万の人間の餓死」を前提としたこの覚書の基本線は、五月二日の次官会議において承認され、以後の作業の基礎とされた。このような政策は、ドイツの支配領域の食料事情の危機的な状況の反映でもあった。一九四一年五月の肉類の割当て量の削減は、さしあたり「さしたる憤激なしに」受け取られたが、しかし、秋には一層の削減をしなければならないという見通しはヒトラーを憂慮させるに充分であった。第一次大戦中の経験から、民衆の食料不足に対する不満が革命に結びつくのをなによりも恐れたヒトラーは、これ以上の削減に厳しく反対したのであった。ドイツの食料生産の低下は何よりも農業労働力の軍隊への徴集の結果であったが、それはさしあたり、占領地からの強制労働と食料徴発によって補われた。しかし、土地が戦場になったうえに、働き手をとられ、食料をとられた現地民はどうなるのであろうか。
 この点は、当時ドイツの食料政策の実質的な最高責任者だった農業次官バッケが、五月二三日、ロシア占領地に配置される「農業指導者」たちにあたえた訓示にも、先のトーマスの覚書を確認する形で、より明確にしめされている。
 「この地域においては数千万の人間が余分になり、死亡するか、シベリアに送られるかしなければならないであろう。当地の住民を、黒土地帯の余剰を使用することによって、餓死から救おうとする試みは、ヨーロッパへの食料供給の犠牲によってのみおこないうるであろう。それは、ドイツとヨーロッパの封鎖に対する抵抗力を阻害することになる」。
 バッケは、「ロシア人は数百年来、貧困、飢餓、無欲になれてきた。彼らの胃は伸縮自在だから、まちがった同情は無用である」と述べて、この恐るべき掠奪・飢餓政策を正当化したのであった。
 (栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』ミネルヴァ書房、一九九七年、62~63)


 六時頃、尿意の高まりで目覚め、布団を抜けてトイレに行った。放尿して股間の切迫感を解消すると部屋に戻ってきてふたたび眠り、そこから何と一二時五〇分までずっと寝床に留まることになった。睡眠時間は一〇時間三〇分。屑である。しかし眠ってしまったものは眠ってしまったものとして仕方がなく、所与の時間のなかでできることをやるほかはない。カーテンを開けてあまり晴れ晴れとはしていない空の薄白さをしばらく眺めたあと、布団を捲って身体を起こした。生理現象で股間が少々勃起していたので、それが収まるのを待つあいだにコンピューターを点けて各種ソフトを立ち上げて、それからダウンジャケットを持って上階に行った。居間に出ると、ジャンパーを着込んだその上からさらに別のジャンパーを身体に掛けた父親が、顔を伏せ、ソファに沈みこむようにして眠っていた。母親の姿はなく、掃き掃除でもしているのか、どうも外に出ているようである。こちらはストーブの前で寝間着をジャージに着替え、それから台所に入ると電子レンジの前のスペースに食膳が用意されてあった。炒飯に大根や人参などの入った野菜スープ、それに一見何だか良くわからない煮物みたいな料理と、鰹節を掛けた生の大根である。ひとまず洗面所に入って頭に整髪ウォーターを吹きかけ、後頭部や側頭部の寝癖を整えた。それから洗面所を出て、炒飯とスープを電子レンジに突っこみ、二分を設定して稼働させてから食卓に移った。今日の新聞を取り、一面から、安倍首相がサウジアラビアムハンマド皇太子(という名前だったと思うのだが)と会談したという記事を読んだ。皇太子は中東地域の緊張を緩和させていかなければならないと言う安倍首相と意見を一致させたと言い、「完全に同意する」というような強い合意を示す彼の言葉が、記事中二度に渡って書きこまれていた。じきに電子レンジが加熱終了の音声を立てるので二品を取りに行き、もう一品もレンジのなかに入れた。それは、最初は煮物のように見えたのだが、穴のなかに餅を入れた竹輪に舞茸を添えた料理だった――まあ、煮物と言っても間違いではないのかもしれないが。そうして四品を卓に並べると椅子に腰を下ろして新聞を引き続き読みながら食事を始めた。時刻は既に一時に達しており、NHK連続テレビ小説の再放送は終わって、テレビでは『ごごナマ』に小野寺昭というベテラン俳優が招かれていた。そちらにはあまり目を向けずに新聞に視線を落とし、イランで続く反政府デモについての記事などを読む。抗議活動においては最高指導者アリー・ハメネイに対する非難、あるいは侮辱の言葉が聞かれているようだ。ものを食べているうちに外にいた母親が室内に入ってきた。餅が入ってたのわかった、と言う。ああすれば食べられるでしょ、と。さすがに竹輪の穴に収まるくらいの小さな塊ならば、喉に詰まらせるのを恐れることもない。食事を終えると食器を洗い、米を失って空になった炊飯器の釜にも水を注いで浸けておき、それから風呂を洗った。腰は大方治ったのではないか。風呂洗いを終えると下階の自室に帰って急須と湯呑みを持ってきて、テーブルの隅で緑茶を用意する。居間の床にはピンク色の買い物袋が放置されており、そこから柿の種のパッケージが覗いていたが、それは頂かず、茶のみを持って塒に帰った。そうしてインターネット各所を回り、LINEにアクセスしてみると、昨晩に引き続きグループ上で、(……)くんや(……)や(……)から誕生日おめでとうというメッセージが届いていたので、返信をした。(……)くんもこちらと同じく、この一月一四日が誕生日で、彼は二八歳になったと言う。こちらは三〇歳である。いつまでも経済的に自立せず、暢気に、だらだらと生存している三十路である。(……)が、いつもいてくれるだけで嬉しいよと言ってくれたので、素晴らしい肯定ぶりだと評してふたたび礼を向けた。
 その後、(……)とも小説について多少のやりとりを交わした。送られてきた彼の原稿を一部読み、少々助言をしておいたのだ。そうしながら傍ら、一年前の日記を読み返していた。この日は(……)くん及び(……)くんと読書会を催しており、そのあとには(……)の(……)家に行って夕食を御馳走になり、自ら買ってきたケーキが好評を得ている。記述としては大した質のものはない。「街を渡る。道の端々に立つ電柱に電飾が取り付けられて、一瞬ごとに緑や赤や白と色を変えながら点滅していた。横断歩道で立ち止まると、背後の空にはまだ光の感触が僅かばかり残っているが、向かいの空の建物の際は醒めた青色が漏れていて、ちょうど夜と夕べの境界線に立っているようだなと思った」という描写のなかの、「夜と夕べの境界線」というイメージが、ありふれたものではあるもののほんの少し魅力的だったので、Twitterに呟いておいた。それくらいである。一年前の日記の読み返しを終えたあと、二時一六分からこの日のことを綴りはじめて、現在は二時五二分に至っている。労働までにさほどの猶予がないが、今日は一コマであるのが救いだ。
 (……)とLINE上でやりとりを交わしながら、一二日の日記のなかで自分を古本屋に向けて行動させた。(……)の小説に、一から五までの範囲で評価を貰いたいと言うので、三. 四から三. 六くらいかなと答えると、それは大層好評だという返答があった。物語としては弱いものの、文章として読むための基本的な水準はクリアされているので、ひとまず三は与えても良いだろう、それに加えてところどころ悪くない文があったので加点すると判断の根拠を述べた。(……)
 (……)
 そうして三時四〇分前まで一二日の記事を進めたあと、そろそろ労働に向けて腹にものを入れておかなければなるまいと考え、上階に行った。確か食事を取る前に、仏間に入って鷹揚な調子で椅子に腰を下ろし、靴下を履いたのではなかったか。仏間には外出の格好を整えた父親がいた。母親は居間のソファに座ってタブレットを弄っている。(……)こちらは今日は少しでも日記作成などの時間を確保するために、電車に乗って出勤するつもりでいた。母親が台所に、冷凍されていたピザパンを出しておいてくれたので、それをまず電子レンジに入れて一分半、加熱する。その後、オーブントースターの方に移してつまみをひねっておき、焼いているあいだに即席のアサリの味噌汁を用意した。葱をふんだんに下ろしてポットから湯を注ぎ、パンが焼けるのを待つあいだ、卓に就いて汁物を先に啜りはじめた。新聞は読まない。南の窓外に目を向けると、近所の宙に煙が漂い、空気の流れに乗せられて斜めに不定形に拡散していくのが見える。家屋は窓枠のさらに下方になるから見えないが、位置からして(……)さんの宅から湧いたものだろう。その背景となっている家屋根や電柱や樹々や山には、色づく、というほどでもないが、曇り空から降った微光が辛うじて付されているのが視認される。仏間の父親の方を見ると、畳の上に胡座を搔いたその姿は、やや暗いような青のセーターを身につけていた。パンを食べ、味噌汁も飲み干すと、台所に立って皿を洗う。流し台には洗い桶のなかでヒジキが浸けられてあったので、そちらに洗剤が飛ばないように注意して食器を掃除し、下階に戻ると急須と湯呑みを手に取った。そうして階段をふたたび上がり、緑茶を用意して戻ると、茶を啜りながらこの日の文を書き足しはじめたのが四時二分である。上記した(……)の小説の良かった部分についての感想を綴ったところまでで四時半を越えた。LINEのメッセージ欄に比すと分量が明らかに過大だが、評言を綴ったので長いが引用すると(……)に申し向けて、最後に一度文章を読み返して確認したあと、膨張的な大きさのメッセージを投稿しておいた。そうして廊下に出て洗面所に行くと、父親が、もう出る、と訊いてきた直後、こちらのジャージ姿を見て、まだか、と合点する。まだ、と答えると、もう行っちゃうからねと言うので了承し、歯ブラシを取って口に突っこみながら部屋に戻って、二〇一四年五月二六日の日記を読みながら歯を磨いた。二〇一四年四月二一日から五月二五日までの日記は、過去に読み返した時にその拙さに耐えられなくて削除したらしく、既にその存在はこの世界から消え去った。そういうわけで五月二六日に飛んで読み、その頃には茶を飲んだために尿意が切迫していたので、投稿するより先に部屋を出て、口を濯ぐとともにトイレに入って膀胱を宥めた。そうして部屋に戻ってくると、二〇一四年の記事をインターネットに投稿し、中村佳穂『AINOU』をこの時点で流しはじめたのかそれとも日記の読み返しの最中から流していたのか覚えていないが、彼女の音楽が流れるなかで服を着替えた。紺色のスーツである。ジャケットまで着込むと、四時五〇分から日記、一二日や一三日のこともメモしておかないと忘れてしまうに違いないのだが、何となく、忘れたらそれはそれで良いかという投げやりなと言うか緩い気持ちになっていたので、この日のことを綴りはじめた。中村佳穂をBGMにしてコンピューターの前に立ったままここまで記して、五時一〇分に達した。出勤である。
 上階へ行くと食卓灯は点いていたが、カーテンが閉まっていたかどうかは記憶にない。閉めた覚えがないということは、多分既に閉ざされていたのではないか。トイレへ行き、放尿しているあいだから、中村佳穂の"そのいのち"が頭のなかに流れていたと思う。室を出て居間に戻るとコートを着てストールを巻き、出発である。足があまり素早く動こうとしないのだが、それでも電車まで一〇分しかなかったので、バッグを抱えるのではなくて片手に提げてやや急ぎながら歩みを進める。坂道に入ると、ストールを首の周りに巻きつけた己の影が電灯の光に抜かれて足もとの路上に浮かびあがり、見下ろしながら足を運ぶあいだ、推移していく。息をふーっと吐きながら上り坂を行くあいだ、頭のなかには中村佳穂の"そのいのち"、それも「いけいけ生きとしGOGO」の部分が繰り返し回帰してきた。そうして出口付近に掛かると思念が日記の方向に飛んで、別にわざわざ頑張って多くのものを記憶しようとせずとも、自然に記憶や印象に残るものを書けば良いのだと思った――何も残らないということはないのだから。
 街道に出ると、何だか車の通行が多かった。横断歩道の信号のボタンを押してその流れを留めて渡ると、駅の階段口に女子が四人ほど溜まっている。小学生高学年か、中学生かというほどの年齢と見えた。目を向けると、互いに窺うような雰囲気が漂ったが、勿論何ら声を交わし合うことはなく、彼女らが賑やかにしている横を過ぎて階段を上りはじめる。すると自ずと上向く視界に入った空は光を大半失った青に満たされており、そのなかに水底の砂煙のような雲の乱れ/濁り/ほつれもいくらか見えていた。ホームに入るとともに電車到着のアナウンスが掛かって、やって来た電車に乗ると席に座って瞑目した。(……)に着いてホームを行けば、その歩みがゆるゆると、やたらにのろいものになる。疲れているのだろうか? 一〇時間半も寝て疲れるも糞もなさそうなものだが、長寝でかえって身体が固くなったものだろうか。駅を出て(……)のなかに目を向けていると、表に面した窓際の席に昔の生徒らしき顔があった。(……)という字のつく名前だったような気がするが、正確には思い出せないし、本人だったかどうかも定かではない。
 (……)
 (……)
 (……)
 退勤。今日は電車で帰ることに。駅に入ってホームに上がるとベンチの端に灰色がかった髪の男性がいて、一瞬(……)かと思って見つめたのだが、違う人間だった。その人と反対側の端に就いて手帳にメモ書きをしているうちに、(……)行きがやって来たので、いつも通り二号車の三人掛けに乗った。客は少なく、疎らで、車内は何もない空間が広くひらいている。
 最寄り駅に着いて降り、駅を出ると今日も東に向かった。空気はかなり冷たく、手がひりついたのではなかったか。(……)の横の林のなかを下りていき、帰り着いて自宅に入ると、居間には両親とも揃っていた。父親は酒を飲んでいるようだった。母親が寒い、と訊いてきたので寒いと答えて自室に行き、コンピューターを点けてコートを脱ぎ、LINEにアクセスしてみると、(……)さんと会うという件で、(……)からメッセージが入っていた。(……)さんは一応こちらのことを覚えていてくれたようだ。
 食事へ向かった。牛肉とエリンギや玉ねぎを炒めた料理を温めて、丼の米の上に盛り、ほか、大根と玉ねぎの味噌汁、ヒジキと人参を和えたサラダ、ほうれん草と滑茸の和え物を用意して卓に並べた。テレビは平成のテレビ番組を振り返るみたいな企画が行われていて、江頭2:50が水中での息止めにチャレンジする映像などが流れていた。夕刊を読みながら時折りそれに目を向け、食後に皿を洗うと、緑茶を持って自室に下りた。
 九時一四分から日記である。一二日の記事を進め、一〇時手前で一旦切り、入浴しようと階を上がったものの、母親が入っているようだったので、入ってんの、と炬燵に入ってテレビを見ていた父親に訊く。彼は結構酔っ払っている様子だった。今入ってると答えが返ったので、あ、そう、と受けて便所に行き、用を足してから居室に帰るとふたたび日記に邁進した。一〇時ちょうどから四二分間のあいだ一二日を進めたあと、空になったティッシュ箱二つを持って上階に行き、空箱を解体しながら、ティッシュはどこにあるのかと訊けば、そこにある、と答えが返る。見れば、ポットの横の台の上に一つ新しいのがあったので、それを階段横の腰壁の上に移しておいて、それから風呂に入った。
 身体を寝かさず、上体を立てたまま瞑目して思念を回した。取り立てて思念を一定の方向に導き操作しようとせずに遊ばせていると、じきに短歌の断片を引き寄せる方に向かって、「夕暮れにあなたの影を奪いたい」というワンフレーズができたが、下の句がまとまらない。さらにもう一つ、「空蟬に夏の記憶を置き去って秋を歌おう」という一節もできたが、これも最後の句をどうすれば良いのかわからなかった。そこまで考えたところで風呂を上がった。
 玄関のひらきから柿の種を貰うと、ソファでテレビを見ていた母親もくれと言うので、一袋渡しておいて自室に戻った。一一時三一分からふたたび一二日の日記を綴った。とにかく、何を置いても文を綴るという行為の時間のなかに入り、質はともかくとしてもそれを持続させるということが大事だ。零時一九分まで文を書いたあと、(……)一時前からふたたび活動に入った。まず、記憶ノートの三頁目と四頁目を復習した。目を閉じながら情報を反芻していると、眠気の匂いが僅かに意識に触れてくるようだった。二〇分間で二頁を復習したあと、ニコラス・チェア/ドミニク・ウィリアムズ/二階宗人訳『アウシュヴィッツの巻物 証言資料』の書見に移り、続けたのは二時一九分までである。本当はもっと読みたかったのだが、やはり眠気が地中に続く穴から漏出するように意識の内に侵入してきたので、眠ることにしたのだった。