2020/1/15, Wed.

 (……)[一九四〇年]七月になるとポーランド総督フランクはヒトラーマダガスカル計画を明らかにして、すべてのゲットー建設を中止せしめた。七月一六日、ワルシャワユダヤ人評議会議長チェルニアコフは日記に、ゲットーはもはや建設されることはないであろうと記した。
 しかし、ゲットー建設の要求は意外なところから来た。チフスである。ワルシャワでは、とくにユダヤ人居住地区で早くからチフスが流行していた。カプランは一九三九年一一月一五日に、「市中に蔓延する伝染病、とくに腸チフスが原因で、学校がすべて閉鎖を命じられた」ことを記していたが、一九四〇年三月末になると、同じワルシャワユダヤ人住民リンゲルブルムは、「最初チフスの伝染は歩みが緩やかだったが、三月になったいま『手に負えなく』なってしまった」と書いた。市当局は三月二七日、ユダヤ人評議会に「汚染地区」の周辺に壁を建設するよう命令した。ユダヤ人評議会は自らの負担で壁を建設せざるをえなくなった。六月始めにはすでに一二ヵ所の壁が出来上がっていたが、しかし、なお完成には程遠かった。
 そうこうするうちに、八月末になると、軍隊がワルシャワ地区に集中されることが明らかになった。兵士への感染が心配された。ポーランド総督府保険局はここにおいて、ワルシャワ地区におけるゲットーの建設を主張しだした。九月六日、保険局長ヴァルバウムはフランクに対して、ユダヤ人における発疹チフスの流行を数字で示して、「保健政策上の理由から」ただちにユダヤ人をゲットー内部に隔離する必要があることを強調した。一週間後、フランクは総督府局長会議の席で、ワルシャワの五〇万人のユダヤ人は全住民に対する危険を意味すると述べ、彼らが「うろつき回ること」はもはや許しておけない、と述べた。一〇月二日にゲットー建設に関する正式の命令が発布され、冬期の流行を考慮して、一一月一五日までに完成することが定められた。こうして、一九四〇年一一月に、元来の「汚染地区」の三分の二を含むワルシャワ・ゲットーが完成した。ゲットー地区に居住していた一一万三〇〇〇人のポーランド人がここを離れ、代わって、一三万八〇〇〇人のユダヤ人が外部から移住してきた。
 (栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』ミネルヴァ書房、一九九七年、68~69)


 九時半のアラームで一旦目覚めてベッドから抜け出すも、携帯電話の動作を停めたあとはまったく既定の路線を辿るようにして寝床にUターンし、二度寝に入った。その結果、起床は正午になった。上階からは母親がばたばたと動く音が伝わっていた。目を開けたまま臥位に留まり、濃淡の差を挟みながらもほとんど全面雲に覆われている空をしばらく見つめていた。曇り空ではあるものの、雲の厚みはさほどでもないようで、頭をちょっと動かせば、そこだけ白く沈むような太陽の姿形が、雲の向こうに透けているのが見える。それから布団をめくって起き上がってベッドを降り、ダウンジャケットを持って上階に行った。居間は無人だった。書置きを見ると一二時半から歯医者だと書かれてあったので、母親はどうやら今しがた出かけたところらしいと見て、服を着替えていると、外から車のエンジンを掛ける音が聞こえ、母親の車が道を滑っていくのが東窓の向こうに見えた。冷蔵庫を覗くと昨晩の肉炒めの余りが少量あったので、これをおかずに米を食べようかと思ったところが、焜炉の上の鍋の蓋を開ければそこには蕎麦がくたくたに煮込まれている。それでは今はこれを頂いて、肉炒めは出勤前に回そうということで冷蔵庫に戻し、煮込み蕎麦を熱して沸騰させ、丼に注ぎこんだ。そうして卓に就いて、新聞を引き寄せひらきながら食事である。国際面から、クルド人たちが米国とイランのあいだに挟まれて苦悩している、との記事を読んだ。先般イランによって攻撃された米軍基地の一方があったアルビルという都市は、クルド自治政府内の町である。クルド人としては米国の味方をしてイランの攻撃対象に含まれることを避けたいが、しかし現実、米軍の力に頼らなければ治安維持などままならず、トルコなどの敵対勢力と接しているなかで政治力も大幅に削がれてしまう、そういうジレンマがあるとのことだった。そのほか、英国のヘンリー王子とメーガン妃の皇室独立問題に関して少々読んで、蕎麦を食べ終えて新聞を畳んだ。皿を洗いに立つ前に、椅子に座ったままちょっとのあいだぼんやりと息をついた。窓の外には、それほど濃いものではないが光の色が混ざりはじめており、風もいくらかあるようで、ベランダに続くガラス戸の向こうでは集合ハンガーに留められたタオルたちが上下左右に緩慢に揺れ動いていた。それから席を立って流しに移り、丼と箸を洗って乾燥機のなかに入れておくと、背後の洗面所に入って寝癖を直した。次いで、風呂洗いである。蓋を取ったりする際に腰を曲げても痛みが発生することはほとんどなくなったようだ。洗濯機に繋がった汲み上げポンプを上方に持ち上げると、管のなかに溜まっていた水がその先端からぼたぼたと垂れ落ちて、浴槽内から排水溝へ向けて流れ出ていく水の上に幾重にも波紋を生み出して、それが何となく蜘蛛の巣を思わせるようだった。その後、ブラシを使って風呂桶を擦り洗い、仕事を済ませて出てくると玄関のひらきから柿の種を二袋貰い、自室に持ち帰ると入れ替わりに急須と湯呑みを持ってきた。居間のテーブルの片隅で緑茶を用意し、そうして窖に帰ってコンピューターを前にして、柿の種をばりばり食いながらインターネット各所を回り、Evernoteに今日の記事を作成したあと、中村佳穂『AINOU』を流して茶を飲みながら今日の記事を早速書きはじめた。一二時五九分から始めて、ここまで綴ると一時一八分である。
 一時一九分から三三分まで、過去の日記を読み返した。一年前の記事には特段に興味を惹くような箇所はなかったようだ。二〇一四年五月二七日火曜日の文章のなかでは、以下の描写がまあまあである。今現在と口調/語り口が全然違っている。

 くもっているから蒸し暑かった。空は白と灰色で、太陽は空白みたいな影になって、そのまわりだけ雲の色が青かった。道のずっと先を見た。ゆるいカーブを曲がってあらわれた模型みたいな車がどんどん大きくなって横を通りすぎていった。自転車や人は何色かもよく見えない点だった。遠くを見るのは好きだった。山は町よりも遠くにあって、空はいちばん遠くにあった。裏通りに並ぶ家の外側に線路があって、その向こうにはもう森があった。森のふちにある木は若々しくて、高く深い場所にいくほど色が沈んでいるみたいだった。うぐいすの声はほかの鳥と響きの厚さがちがった。まるく立ちあがってふくらんで、余韻を残して森に染みこんでいった。

 過去の自分の文章を読んだあとは、ふたたび日記に取り組んで、一四日の記事に一九分を充てている。おそらくメモ書きをしたのではないか。それから一二日の分に取りかかって、二時半まででどうやら完成させたようだ。多分すぐにインターネット上に投稿したはずで、その後、(……)さんへのメールを綴っている。彼のブログに載せられてあった「(……)」という題の一連の文章は、こちらも読ませてもらってたびたびこの日記にも引用をしてきたが、(……)さんには思索に一区切りがつくとブログの文章をすべて削除してしまうという特殊な性向があり、このたびもシリーズ全部を読み通していないうちに記事が消去されて読めなくなってしまったのを残念に思っていたところ、文章をまとめたPDFファイルを送ってきてくれたのだった。それで礼を述べる返事を二〇分掛けて綴り、三時を越えたところで食事に行った。出勤前の食事として何を食べたのか、とんと覚えていない。(……)
 食後に自室に帰ると、三時三五分から四時ぴったりまでふたたび日記を綴ったらしい。一三日のものである。それからニコラス・チェア/ドミニク・ウィリアムズ/二階宗人訳『アウシュヴィッツの巻物 証言資料』を読みはじめた。四時一三分まで一旦読んで、そこから二二分まで微妙に時間が空いているのは一体何だったのか。いや、おそらく歯磨きを終えて着替えた時の空白なのだろう。靴下を履いていても空気は寒く、乏しいストーブの温風では足もとがうまく温まらず、読書をしながらたびたび足を動かすことになった。五時直前まで読んで中断すると、荷物を整えて上階へ行く。母親は明かりの灯っていない居間で、灰色の、あるいは影色の空間のなかに沈みこみながら炬燵でタブレットを弄っていた。食卓灯を灯し、ハンカチを取るとトイレに行って、中村佳穂 "You may they"が頭の内に流れるなか放尿して、戻るとコートを羽織りストールで首を守って玄関に行った。靴を履いて鏡に向かい合ってみると、映った顔はどちらかと言えば冴えないもので、人相があまり良くはないように思われた。
 玄関を出てポストに寄り、夕刊と年金事務所から来た通知を取って、出てきた母親に近寄り、新聞の一面に目を落としてから二つの郵便物を渡すと出発した。冷気はかなり強く、あるいは今冬一番ではないかとも思われた。空は雲が払われて僅かな細片しか残っておらず、すっきりと青くまとまっている。しかし歩いていくうちに、正面、西へと伸びる上り坂の果てに薄青い影が現れて、樹々に画された空の際まで埋めて、横にも広がって貼られたようになっているのに、山影のような雲だなと思った。山にしては随分高いように映ったので雲と判断したのだったが、進むうちに、いややはりどうも雲ではなくて山なのではないかと判別が翻った。あれほど高く空に食いこむものだったか。十字路に至って見つめながら坂道に曲がったが、結局山なのか雲なのか最終的にわからず、雲が混ざって淡くなった山影だろうかと統合的に、弁証法的に落として樹の下に入った。樹々に囲まれて風が止むかと思いきやさにあらず、ここでも力強く流れ続けるものがあり、肌に鋭利に染みてきて、道端の葉が震えればその影も樹の幹の上で輪郭をぶれさせる。
 駅には(……)行きが来たところで、階段を上りながら降りてきた客とすれ違う。上りきると一人になって、駅の外に目を向けながら今度はゆったりと段を下っていった。空気はひどく青く、黄昏特有の冷たい色に満ち満ちており、空が垂れて大気にそのまま溶け出し、隅々まで拡散/浸透したかのようだった。ホームに入ってベンチに就き、脚を組んでコートのポケットに両手を突っこむと、口から漏れた息が自ずと白濁して、目の前にひととき溜まっては消えていく。北西の空は醒めた淡青に染まり尽くしてその際は白っぽく褪せており、自然の手によって描き出されたあまりに卓越した精度のスペクトル/グラデーションに、思わず美しいという語を思い浮かべずにはいられない。手帳を出してメモを取るあいだ、両の手がひりひりと冷気に刺激された。
 電車に乗って(……)まで行くあいだメモを続け、到着してもすぐには降りずにペンを動かす。しばらくしてから降車してホームを行くと、足取りや身体の動き方、大気のなかを通り抜けていく時の感覚の質が、鈍くのろのろと歩いていた前日とはやはり違っている。外は黒々と深い闇に満ちており、そのなかで駅の向かいの小学校の校舎のところどころに、蛍光灯の明かりが見えて暗黒のなかの島となっている。通路を行って駅を出ると、ホームの屋根の下から見た北側の空は暗んでいたのだが、南の方面はまだ透き通った水のような青が鮮やかで、そのなかに星が一つ、涼々と強く光っていた。
 (……)
 (……)
 駅へ入ると、電車が遅れているらしく、改札の手前に看板が設置されてあった。(……)ホームに上がって何か温かいものでも飲もうかと自販機に寄ったが、食指の動くものがなかったので何も買わずベンチに就き、手帳にメモを取った。職場での準備時間のあいだに大方書きつけてあったので、あまり書くことはなかったと思う。(……)行きが来てもすぐには乗らずにペンを動かし続け、終えると三人掛けに入り、目を閉じて発車と到着を待った。脳内で短歌の断片を回したものの、形にはならなかった。
 最寄りで降りて駅舎を抜けると車の来ない隙に通りを渡り、今日も東へ向かった。昼間にはこの辺りを工事しているらしく、街道に沿ってカラーコーンが間歇的に置かれてあり、その頂点に取りつけられた保安灯がぴかぴか光っている。個々のコーンによって明滅のタイミングが違うため、光がコーンの上を走り、次々と飛び移っていくように見え、隙間の広い破線が宙に描かれる。ライトにも種類の相違があって、赤一色で点滅するものもあれば、黄緑と赤を交互に放つものもあった。それに目を向けながら歩き、木の間の坂道に曲がると樹の下の地面は湿っており、どす黒いような濡れ痕が残って沈んでいる。頭上の緑の織り重なりの隙間を満たす藍色のなかに、明るい星が一つ穿たれていた。
 帰宅。居間に入りながら、疲れた、と漏らした――たった一時限のみの労働だったのだが。外は寒いかと母親が訊くので、かなり寒いと答えて下階に下りた。自室に入ってコンピューターを点け、コートを脱いだ格好でTwitterとLINEを確認したあと、服を着替えた。寒いので上下ともいっぺんに脱ぐのではなく、ワイシャツをシャツを脱いだら上着を着る、スラックスを脱いだらズボンを履く、という形で一枚ずつ着替えていった。そうしてダウンジャケットを羽織ってから椅子の上に置いておいたスラックスを取って廊下に吊るし、階を上がった。ワイシャツを洗面所の籠に入れておいて台所で食膳を支度する。一品は、野菜や肉やゆで卵などが雑多に入った鍋風のスープである。それを温める一方でひきわり納豆を用意し、台所の隅にあった太い葱を一本取って、その太さに苦戦しながら鋏で細かく切って納豆に加えた。切る際の反作用で欠片があらぬ方向へ飛び散っていく。ほかには水菜などの生サラダと、鰹節の掛かったほうれん草があったと思う。
 卓に就くと、テレビは心の底からどうでも良いような類のクイズ番組を映していた。夕刊にはあまり目を向けず、かと言ってテレビの方を向いた覚えもあまりない。黙々とものを食っていたのだろうか。年金の通知が届いていた。今のところ払った金額を基に将来の年金額を計算すると、年に一二万円かその程度になるらしい。一か月一万円である。とてもではないが老後を生きていけない。身体的・年齢的に働けなくなったらさっさと自殺するべきか。働ける時に働いとかなきゃってことでしょ、と母親は言う。それで金を貯めておくってこと? そう。貯金するほど貰えてねえよ。
 食後、皿を洗って緑茶を持ち、塒へ帰ると、「GSOMIA終了に伴う韓国大統領府の談話を全訳してみた!」(https://kori92.com/?p=2391)を読んだ。さらに続けて、綿野恵太「オルタナレフト論 第4回 選挙も顔が命です」(http://s-scrap.com/3203)も目を通した。どちらかを読んでいるあいだに部屋の外から母親の呼ぶ声が聞こえたので、袋に入れた燃えるゴミを持って出ると、母親は階段下の室でシュレッダーの紙屑を始末しようとしていた。何か紙袋はないかと言うので部屋に戻り、つい数日前に(……)で本を買った際に品物を入れられた紙袋を持っていく。それで上階に上がり、燃えるゴミの入った袋を丸めて台所のゴミ箱に合流させておき、下階に戻ると兄の部屋から階段下の室へとヒーターを運んできた。そうして自室に帰還すると、読み物を続けた。

 ただし注意が必要なのは、政治家のルックスにおいて重要なポイントは、以前流行した「美しすぎる◯◯」というように、「イケメン」や「美人」といった「ルッキズム」とかならずしも一致しない、ということだ。たしかに、政治家の「見かけ」において「有能さ」は大きな役割を果たすが、ほかの要素はそのときの政治状況によって変わるのだという。たとえば、戦争といった危機が迫るときは「支配的」「男性的」な顔が選ばれやすく、平和な時代には「知的」「寛容」な顔が重視される[6]。また、政治性によっても違いが出る。保守派は「支配的」で「男性的」な顔が選び、リベラル派は「非支配的」で「女性的」な顔を選ぶ傾向がある[7]。

 九時四八分に至って、ロシアの(……)さんからメールが届いた。誕生日祝いである。そこそこ長めのメッセージだったので、早速こちらも返信をしたためて送ると、再返信があり、出産立ち会いのために兄が麻疹に対する抗体を持っているかどうか血液検査したところ、持っていなかったので、(……)くんも調べておいた方が良いかもしれないよとのことだった。了承を返したあと、一〇時一一分から一三日の日記を書き出し、一〇時半手前で中断して階を上がった。母親が風呂を出たところで、父親はまだ帰宅していなかった。今日は遅いではないかと向けてみたが、理由はわからない。洗面所に寝間着と下着を持っていっておき、それからトイレに行くと、外から車の扉を閉める音が聞こえたので、出て居間に行くと帰ってきたと母親に伝えた。ストーブの前に立って温まっていると父親が家のなかに入ってきたので、おかえりと挨拶し、風呂を先に入るよう譲った。
 それで我が窖に戻り、ふたたび日記を綴った。一三日の記事を三〇分ほど進めて、一一時を越えたところで入浴に行った。父親が追い焚きしたのだろう、湯はかなり熱く、最初のうちは刺激が強かったが、段々と肌が慣れてきてむしろちょうど良くなった。残り湯の水位が低くて上体で空気のなかに露出したが、目を閉じてじっとしていると、汗の玉が頬や首筋から湧いて転がり、肌の上をくすぐった。
 結構長く、一一時四五分くらいまで入っていたと思う。出て湯沸かしのスイッチを切ると、母親はまだ居間にいたが、多分うとうととしていたのではないか。こちらは自室に戻り、そこから零時二〇分まで日課の記録がついておらずに空白が挟まっているのだが、何をしていたのか記憶になく、不明である。零時二〇分に至ると記憶ノートの復習を始めた。三頁及び四頁に書いてある事柄を頭に入れると、次いで、リチャード・ベッセル『ナチスの戦争』から学んだ情報を新たな頁に書き入れていった。さらに間髪入れず、読書ノートにロラン・バルト/鈴村和成訳『テクストの楽しみ』の記述をメモである。やはり他人の文章を写すという時間をなるべく毎日取らなくてはならないだろう。
 この日写したなかで印象深かった記述にはまず、「諍いはいつでもコード化される。攻撃は言語のもっとも使い古されたものでしかない。暴力を拒否することによって、私が拒否するのは規範[コード]そのものである」(31)というものである。とりわけ後半はなるほど、という感じだし、「諍い」という訳語の選択も、なかなか良い仕事をしているのではないか。
 同じく三一頁には、ここでは著者であるロラン・バルト本人とほとんど同一化されるべきだと思われる語り手の、個人的な嗜好が述べられている。「私がテクストを愛するのは、それが私にとって言語のまれな空間であるからだ。そこには、あらゆる〈痴話喧嘩〉(言葉の家庭内とか夫婦間といった意味において)、あらゆる口論が存在しないからだ。テクストはけっして〈ダイアローグ〉であることはない」。〈痴話喧嘩〉、「口論」に対する拒否感/忌避感など、こちらの性向としても極々素朴に「共感」してしまうものなのだが、注目するべきはそのあとの最後の文で〈ダイアローグ〉の語を用いて「テクスト」からこの属性を免除している部分で、一般的に〈知的〉な言説においては、「ダイアローグ=対話」を称揚する向きが強いように思うのだが、バルトの話者は少なくともここにおいては、三角括弧を付しながらもわざわざこの語を用いて、そうした趨勢から距離を取っている。
 また、少々長くなるが、「歓びのテクスト」について述べた四二頁の文章も引いておこう。曰く、「歓びのテクストはつねに切断の、断定の痕跡であり(成熟のそれではなく)、その歴史の主体(他のなににもまして私がその一員であるところのこの歴史の主体)は、過去の作品にたいする嗜好と現代の作品にたいする支持とを、ジンテーゼという弁証法の美しい運動において、真っ向から領導することによって、安んじていられるどころか、〈生きた矛盾〉以外のなにものでもなく、引き裂かれた主体となり、テクストをとおして、主体の自我の一貫性とその転落を、同時に享受する者となるほかないのである」。ここで言われていることは、抽象的な意味としてはともかく、具体的な形態/体験としてはあまりよくわからないのだが、〈生きた矛盾〉という定式には惹かれるところがある。過去の作品=(いわゆる)古典と、現代の作品=(いわゆる)前衛とをともに等しく退けずに受容し、あるいは享楽する主体は、文章形式の面から見てもテクストが含むイデオロギーの面から見ても、おそらく著しく異なっているであろうそれら双方の作品に触れながら、テクストに向かい合う時の読みの態勢や評価基準などにおいて矛盾せざるを得ず、「首尾一貫性」を確保できず、まさしく複数化された、「引き裂かれた主体」と化して、綺麗な(「美しい」)統一性/統合性をもはや維持できない、というようなことだろうか。この主体の複数化、分裂、溶解を、多分バルトは、ある種のエロティックな自我の消滅/空無化の瞬間として味わい、称揚しているのではないかと推測するのだが、そう読んだとして、言っていること自体はわからないでもないものの、実体験としてそのような瞬間がこの身及び精神に、つまりは自分という主体に訪れたことがあるかと考えると、心許ない。とは言え、矛盾を統合/解消しようとせずに、矛盾のままに敢えて放置する、というような姿勢には、ある種心惹かれるものがある。イメージの混濁/攪乱。ここにおいて想起されるのは、『ユリイカ』のロラン・バルト特集号で蓮實重彦が紹介していたバルトの極々小さな挿話で、それは一九六六年の五月にバルトが東京大学で講演をした際の出来事だ。曰く、「当時フランスから帰ってきたばかりの威勢のよい人たちがいて、阿部良雄さんが何を問題にされたのかは記憶にありませんが、いまの話は矛盾していないだろうかと疑問を呈すると、バルトがそれは正真正銘の矛盾というものだとそれを素直に認めたことを鮮明に記憶しています」(『ユリイカ』二〇〇三年一二月臨時増刊号、12; 蓮實重彦「せせらぎのバルト」)とのことである。
 メモを取ったあとは書見に入った。ニコラス・チェア/ドミニク・ウィリアムズ/二階宗人訳『アウシュヴィッツの巻物 証言資料』である。二時四五分頃に疲れからベッドに移ってしまい、それによって後半は意識を朧にしていたようだ。やはりベッドに乗ったらそれが最後である。限界まで椅子あるいは立位に留まらなければならない。ベッドに入って良いのは眠る時だけだ。書見後、四時に就床した。