2020/1/16, Thu.

 ドイツ側は、はじめのうちは自らの必要に応じて、ユダヤ人を街頭で拉致してこれを強制労働に使用したが、やがて、ユダヤ人評議会が間に入り、ドイツ側に必要な労働力を調達することになった。こうして、ユダヤ人評議会は調達リストの作成を通じて、ゲットー内部のユダヤ人に対して最初の大きな権力を行使することになった。裕福なユダヤ人は金を払ってこれを免れることができたから、苛酷な強制労働に駆りだされたのはその余裕のない貧困なユダヤ人ばかりであった。強制労働は最初のうちは、瓦礫の取りかたずけや雪搔き、さらには対戦車壕の補修といった臨時の仕事ばかりであったが、やがて、労働収容所が作られ、対戦車壕・運河の建設、河川改修、道路・鉄道建設から工業企業での労働になるに及んで、次第に恒常的なものになっていった。
 (栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』ミネルヴァ書房、一九九七年、73)


 四時に就床し、一〇時のアラームで一度ベッドを抜け出した。アラームを鳴り響かせる携帯を手に取ってひらくと、メールが一通入っており、見れば兄からの誕生日祝いのメッセージだったのだが、ガラケーの貧弱さのために文章が途中までしか受信できていなかった。あとでgmailの方に送り直してもらうように頼まなければと思いながら床に戻り、布団の下に入ってふたたび臥位になった。初めのうちはそれでも意識を失うことなく、ただ横たわっているだけで、何とか起きられないかと機会を探っていたのだが、当然ながらそうしていると次第に朦朧としてきて、結局また正午まで寝過ごすことになった。床を抜け、ダウンジャケットを持って上階に上がると、母親はもう仕事に出ると言う。仏間の簞笥からジャージを取り出してきて、寝間着から装いを替えたこちらは台所に入り、フライパンにあったブロッコリーやハムや卵のソテーを皿に取り出し、電子レンジに突っこんだ。レンジの前には苺メロンパンという何だかよくわからない品があったが、これはのちほど頂くことにして、昨晩から引き続く鍋様のスープと米をよそって卓に移った。その頃には母親はもう出かけていたので、点いていたニュースを消し――消す前に、中国で発生している新型のウイルス肺炎の感染者が国内でも見つかったという報を見かけた――ソテーに醤油を掛けて、それをおかずにして白米を口に運んだ。新聞からは社会面の芥川賞発表の報を最初に瞥見し、それから国際面に移り、米イラン間の軋轢の激化を受けて、イスラエルレバノンヒズボラのあいだでも緊張が高まっており、国境地帯は物々しくなって住民は不安を募らせているという記事を読んだ。そうして食事を終えると流しに移動して、網状の布を使って食器を洗った。米を収めた椀はとりわけ念入りに、布をぐりぐりと押しつけるようにして擦っておき、洗剤を流して食器乾燥機に皿を乗せておくと、洗面所に入って、後方に向けて立ち上がった頭の後ろの毛を押さえて大人しくさせた。それから風呂洗いである。腰がまた痛んで来ているような気配があって、前屈みになった時に硬さが走る。これではいつまで経っても運動の習慣を復活させることができない。
 柿の種を一袋持って下階に戻り、急須と湯呑みを持ってもう一度上階に上がると、緑茶を三杯分用意した。そうして我が窖に帰ってコンピューターを点けると、昨晩はシャットダウンせずにスリープで済ませたので、各種ソフトの準備はもうできている。Evernoteにこの日の記事を作成し、LINEをひらいてみると、いくつか新たな通知があった。一つには、(……)さんと会う日程の調整をするためのグループが作成されており、もう一つには(……)くんへの誕生日プレゼントをどうするかと話し合うためのグループがやはり新規作成されていた。三つ目には、奈良県橿原市を訪れているらしい(……)が「(……)」のグループに、「(……)」という名前のスーパーがあったと写真を投稿していたので、神武天皇が即したことで有名な橿原市じゃないかと応答しておき、ほかのグループにもメッセージを投稿した。
 そうしてこの日の活動の最初に何をしようかと思ったのだが、ひとまず茶を飲みながら日記の読み返しをするかというわけで、まず一年前の記事を読んだ。長いわりに特別改めて引いておきたいような記述はない。次いで、二〇一四年五月二八日水曜日をひらき読んだが、全体的な文章は当然こちらの方が未熟でありながらも、文体が今と全然違っており、そのために一種の雰囲気を持った描写があったので、二箇所を今日の記事にも写しておくことにした。以下のものである。
 「外は明るくて、風は軽く乾いていた。雲は止まっていた。本当に動いていないみたいで、見ていると雲が動いているのかこっちが揺れているのかわからなくなった。きれぎれではなくて、無秩序につながって広がっていたけれど、青い空も見えた。雲が大きい日は空の青が濃い気がした」
 「マグロのソテーと米とみそ汁を食べた。食べながら食べ物の熱が顔やからだにうつって汗が出た。これが夏だった、と思いだした。空気はなまあたたかくて、熱が顔にまとわりついて何もしなくても汗が出て、ときどき風が吹きこんで涼しくてレースのカーテンがスカートみたいに持ちあがって、それか逆に網戸に吸いつけられて、温度計は三十度だった。もうすこし気温があがってセミの声がくわわれば夏が完成する」
 それから、プログラムの更新をする必要があるとかいうことだったので、コンピューターに再起動するよう命令を出し、そのあいだはニコラス・チェア/ドミニク・ウィリアムズ/二階宗人訳『アウシュヴィッツの巻物 証言資料』を読んで待った。再起動が済むと一時四五分、二時が近く、陽もあまり出ず、空は白くなだらかな継起性に支配されているのでもう洗濯物を入れてしまおうというわけで、上階に行った。便所に行って排便したのが先だったか、それとも洗濯物を取りこんだのが先だったか順序を覚えていない。いずれにせよベランダに出て吊るされたものを室内に運んでいった。南の眼下、(……)さんの宅の敷地からはラジオのものらしき音声が昇ってきて、主人が道をうろつくのが見られた。隣の(……)さんの宅の庭に生えた柚子の木には雀が何匹も梢に群がり、時折り短く飛んで葉の上を移っていた。
 洗濯物をすべて取りこんでしまうと、まだ畳みはせずに自室に戻り、日記に取りかからねばならない段だが、それよりも『アウシュヴィッツの巻物 証言資料』をもう少し読みたい気がしたので、その欲求に忠実に従って本をひらいた。椅子に就いた姿勢で文字を追い、三〇分経ったところで中断し、その後、二時四八分から中村佳穂『AINOU』とともに今日の日記を書きはじめた。現在時刻に追いついたのは三時一六分である。
 それから僅か九分で一三日の日記を完成させてブログとnoteに投稿し、さらに一四日の分も綴った。四時二五分に仕事が仕上がった頃には室内は薄影色に染まって小暗くなっていたので、電灯を点けてからインターネットに文章を投出した。その後、誕生日祝いのメールを送ってきた兄に返信をしたため、礼を述べつつ途中でメッセージが切れていたのでgmailの方に送り直してくれと要望を伝えた。そうして食事を取りに上階へ。ものを食べるより前に洗濯物を畳んだのだったか、それとも食後だったか不明である。先だったということにしてしまうが、タオルを畳んだあと、足拭きマットを洗面所に運んでおき、またトイレにも入れておく――これも、トイレにマットを敷いたのはのちほど、食後だったような気もするが。食事は米に大根の味噌汁、そして苺メロンパンである。ひきわり納豆を冷蔵庫から取り出して、納豆の表面を覆い尽くすほどに葱を下ろし、味噌汁にも同様に葱をふんだんに加えた。卓へ就くと新聞を読まずに食事のみに集中してものを口に運び、すべて食べ終えると味噌汁をさらにおかわりして食うことにして、台所の調理台の前に移り、残った汁を全部椀に注いだ。ふたたび葱を下ろしてから椅子に座り、汁物を摂取して胃の腑を温めると食器を洗い、多分この時にカーテンを閉めたのではなかったか。そうして緑茶を用意して自室に戻った。五時五分から、茶を飲みながら書見、ニコラス・チェア/ドミニク・ウィリアムズ/二階宗人訳『アウシュヴィッツの巻物 証言資料』である。貪るように、沈潜するように、かと言って急ぐことはなく読み進める。その後、歯磨きも済ませながら五時三六分まで読むと、洗面所で口を濯ぎ、Wynton Marsalis Septet "The Cat In The Hat Is Back"を流し、古き良き時代の匂い、伝統的な風味も少々香る軽快なジャズのなかで、灰色のスラックスとベストの装いに変身した。ジャケットまで羽織ると、前日のことを簡易的に下書きしていく。事柄を一つずつ思い出して言葉に移していくのだが、情報が一つも思い出せず、何の印象も残っていない時間というのは一体何なのだろうと思うものだ。どうにかしてそうした時間のことも書いていきたいとは思うのだが、さすがに限界はあるし、それに能力に限りがないとしたら、時間の細分化は無限に続いてしまうだろう。六時一七分までメモ書きを取った。
 それからふたたび書見に入った。とにかく、『アウシュヴィッツの巻物』を読みたかったのだ。このような証言が、文書が存在し、発見されたということ、紛うことなき地獄のさなかで言葉を書くことに命と希望を賭けた人間がいたということ、その事実をやはり記憶し、伝達しなければならないのではないだろうか。椅子に座って身を沈め、片手で本を持ち、みすず書房のこの著作は結構厚いのでテーブルの縁に背を当てて支えを得ながら読み進める。六時四〇分まで読んだところで出発することにした。
 コートを羽織って上階に行き、バッグを片手に玄関に出たところで、手を洗おうと思い出したので、鞄はその辺りに置いておいて洗面所に移動した。長寝のために手指が脂っぽくなっており、鼻に近づければ臭いもするようだったのだ。それで洗剤のポンプを押して泡を手に取り、両手を擦り合わせていると、泡の粒がコートの真っ黒な袖に跳ねて真っ白な点が二つ生まれ、手を前後に動かし続ける運動のなか、残像の往復によって二点を繋ぐ線が視界に描かれた。そうして玄関に戻り、靴を履いて郵便物を取るために一旦出ると、宵の闇のなかに煙の臭いが微かに漏れていた。ポストのなかのものを取って玄関内に入れておくと、道に出て出発した。やはり煙の臭いがどこからか仄かに伝わってきていた。(……)さんの家からは明かりが漏れており、耳が遠いために音量が大きいのだろう、テレビの音声がはっきりと漂い出てきている。足もとのアスファルトの表面の凹凸、あるいは襞、比喩的な意味での網目を見下ろしながら行く。寒気はかなり強い。空には朦々と、丸みを帯びた雲が湧き、いびつな球が繋がったように広がっていて、それに閉ざされた天空のもと、冷気は地上に集合して地の底から冷えてくるようで、冷たさがほとんど物体的なまでの勢力を誇っている。公営住宅に接した小公園の前に掛かったところで、無骨な幹の、桜の裸木が目に入った。葉を散らさず残した黒い樹々と闇を湛えた大気とを背景に、その枝ぶりの直線的で固い広がりは、死んで乾いた動物の骨組みのようでもあり、亡霊が差し出している手のようでもあり、無機質な砂利のような色で浮かび上がっていた。
 坂道の横の壁は褪せた葉っぱに包まれており、その下の道の縁にも豊富に溜まっているものがある。身体が内で震えるほどの寒気が、頬や鼻先や口の周りに摩擦感を点じていくなか、ふーっと息を吐きつつ上っていく。坂を出て横断歩道に至り、ボタンを押すと、信号が変わるのを無視して一気に加速して突き抜けていく一台があった。そのあとから通りを渡って駅前に入ると、線路を挟んでホームのベンチに一人先客があるのが見え、それが妙に傾いてぐったりとしたような姿勢だったので、まさか死んでいるのではないだろうな、などと不吉なことを思った。階段通路を通ってホームに行くと、その男性は勿論死んでいたわけではなく、何やらスマートフォンを眺めているようだった。こちらも座って、『アウシュヴィッツの巻物』を持ってきたけれど、ここではメモを取ることにした。
 まもなく電車が来たので乗って席の端に座り、メモ書きを継続した。(……)に着くと周りの客は降りていき、入れ替わりに別の人々が乗ってきた。彼らがボタンを押して扉を閉めたあと、それからちょっとしたのちにこちらは立ち上がって降り、ホームを歩いた。一番線に電車が到着したところで、乗換え客がホーム上をぱらぱらうろついており、前方に黒いズボンを履いた女性が現れた。端的に真っ黒な、密度の高く偏差ない黒さに充満したズボンに、細い筒のような脚が包まれているそれを何となく見つめたのだが、別にエロスを感じたわけでないし、特段に強い印象を得たわけでもない。階段に掛かると、一番線の電車から降りてきた客たちがだらだら下りているこちらの横を小走りに抜かしていく。
 (……)
 (……)
 (……)駅に入り、ホームに出て、発車間近の(……)行きに乗った。二号車に乗ると、三人掛けには先客があったので、(……)寄りの方の席に就いた。そうして脚を組み、持ってきた『アウシュヴィッツの巻物』をその上にひらく。文字を追っているうちに最寄り駅に到着した。
 ホームを行くと、前方に頭の薄くなっている男性が歩いており、ICカードを機械に触れさせたあと、それを尻のポケットに戻すために身体を傾けながらコートの裾を捲る様子が、何だかよたよたとしている。酒の臭いらしきものも微かに伝わってきた。彼の後ろを行って階段を上り下りするあいだも、前の人の足取りはやはり少々緩いような感じだった。駅を出ると今日も東に向かい、信号が赤になったタイミングで途中で街道を渡る。車道の両側に設置されたカラーコーンの保安灯の明滅が成す図を見ながら、地上の星座という凡庸な比喩を思いついた。空の星座が地球からあまりに遠いために天空の表面に配置されたそのままで形を保って動かず意味を変化させることがないのに対して、この地上の、世俗的かつ人間的な星座は、こちらの歩みに応じて視界のなかでそれぞれの位置関係が絶えず移行されていき、道の先から新しい光も現れてくるので形と意味が刻々と変容していくわけである。その地帯を過ぎて坂道に折れると、電灯の明かりの下、道に振り撒かれた抹茶の粉のような苔の色合いが露わになっていた。
 帰宅した。両親は居間におり、父親が台所に立っているところだったのは、食事の用意をしていたのだろうか。寒い、と訊かれるので肯定し、下階に下りようとしたところで何故かテレビに目が留まった。番組は多分、『秘密のケンミンSHOW』だったようだ。女子大学生くらいの女性が、『古今和歌集』に入っている紀友則の、「久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」を口頭で引用し、それを国語の授業で読んだ時には全然わからなかったのだけれど、東京に来て桜が咲いているのを見て、ああ、こういう風景を見て歌を詠んでいたんだなあと実感できた、というような感動を語っていた。良い話ではないか。それにしても、どこの出身だったのだろうか。桜のない地域だったのだろうか。
 それを見てから下階へ行き、コンピューターを点けてLINEを覗くと、二九日に行きたい美術展の話がなされていた。アーティゾン美術館というものが候補に挙がっており、ページを見てみると有名所が色々揃っているようで面白そうではあった。こちらの返信はまだせずに、服をジャージに着替えて食事に向かった。うどんと言うか温麺の類が大鍋に入っており、台所で隣に立った父親が、お前、それ全部食える、と訊くので肯定する。汁がなかったので水を足し、「創味」の麺つゆも少量垂らして加熱しておき、そのほかモヤシなどをカレー風味に炒めた料理があったので大皿によそってレンジへ、さらに水菜や大根の生サラダ及びほうれん草と米が用意された。煮込んだ麺を大鍋から丼に注ぐと満杯になったので、汁をちょっとお玉で掬って鍋に戻していると、お前、何だかよ、お盆を使えば良いじゃんかと父親が言うので、その言葉に従って盆に乗せて運んだ。
 新聞は読まなかった。『秘密のケンミンSHOW』がテレビには掛かっており、およそどうでも良い番組なのだが、目を向けた。その一方でモヤシ炒めの汁を米に掛け、炒められた野菜をおかずにして貪り、うどんはいくらか食べて嵩をちょっと減らしてから葱を下ろし、揚げ玉を投入した。テレビは鳥取と島根がこの番組でも取り上げられた回数が格段に少ないと言って特集していた。この二県が間違えやすい県ランキング一位だと言う。また、印象の薄い県としてもトップ二だと言うが、それでも島根県には出雲大社などがあるわけだ。
 食後、皿を洗おうと食器を持って席を立つと、階段を下りかけていた父親が、そう言えば(……)の誕生日、何も祝わなかったなと苦笑するので、無言で頷き返した。別にこの歳にもなれば両親からの祝福など、わりとどうでも良いものだ――友人からのそれは有難いけれど。父親の言に対して母親が、一七日だからまだ、と言うのだが、こちらの誕生日は既に過ぎた一四日である。それに気づいた母親は笑いながらあっそうか! と言って、父親が一二月一七日生まれだからそれと間違えたのだと弁明した。続いて、明日寿司でも買ってこようかと言ったが、結局これはコンビニのケーキになった。
 今日は早く風呂入って、と言うので、皿を洗ったあとまっすぐ入浴へ行った。一〇時半頃だったはずだ。水位は低めで上体が露出する。湯のなかで記憶ノートの事柄を脳に想起させて反芻した。三頁目に記されている内容は隈なくすべて思い出すことができた。四頁目は一部、何が書かれてあったか思い起こせず空白が差し挟まった。そうして頭のなかで記憶を蠢かせているうちにあっという間に三〇分ほど経ったので上がり、自室に帰ると急須と湯呑みを取った。上階に行って緑茶を用意してからまた戻ってくると、まず英語の記事を読んだ。Ward Wilson, "Myth, Hiroshima and Fear: How we Overestimated the Usefulness of the Bomb"(https://www.cadmusjournal.org/article/issue-5/myth-hiroshima-and-fear-how-we-overestimated-usefulness-bomb)である。LINEの返信は翌日に回すことにした。

・obliterate: 消し去る; 全滅させる、完全に破壊する
・astride: 跨って
・last ditch: 最後の塹壕; 最後の砦; 瀬戸際の
・Japan proper: 日本本土
・conspicuously: 著しく、目立って、はっきりと
・torpedo: 魚雷

(……)Henry L. Stimson, the retired American Secretary of War who made the first semi-official pronouncement on nuclear weapons in February 1947 said that the most important characteristic of nuclear weapons was that they were “psychological weapons.” Stimson knew that you could create the same kind of devastation and death using conventional bombers (if you used enough of them), but nuclear weapons, he believed, had a special fear factor.(……)

The first and most important mistake is the original one. How could nuclear weapons accomplish in three days what conventional bombing had failed to do in five months? It turns out they couldn’t. It turns out that Japan surrendered because the Russians declared war on August 9th (the same day the United States bombed Nagasaki). Japan’s leaders knew that while they might be able to fight one last ditch defense on the beaches of southern Japan, and they might be able to inflict such severe losses that the Americans might offer better surrender terms, that once you add a second great power to the mix, attacking from the north, the game was up. Stalin’s assessment was that he would have troops in Hokkaido (the northernmost island of Japan proper) in 10 to 14 days. And that was a pretty realistic assessment. Japan’s leaders thought about the prospect of surrendering to the United States or of being quickly overrun by communist troops and they chose to surrender to the U.S.

They said that they were surrendering because of the Bomb, however, because it made the perfect explanation for having lost. If you had just led your country into a disastrous war and were trying to maintain the legitimacy of your regime, what would you rather say: “We made mistakes. We had horrible lapses of strategic misjudgment. The Army and Navy consistently failed to work closely together. We blew it.”? Or would you rather say, “The enemy made an unbelievable scientific breakthrough, they invented a miracle weapon, and that’s why we surrendered. It wasn’t our fault.”?

Nuclear deterrence is sometimes described as operating this way: a leader is faced suddenly with the danger of nuclear war, he/she thinks about the consequences of nuclear war, and then pulls back. This is a sensible way to imagine the process. But if this is the way that nuclear deterrence works, then it is clear that it failed conspicuously during the Cuban Missile Crisis. After all, Kennedy was confronted with a crisis when he found out the Russians were putting nuclear missiles in Cuba. Kennedy was aware that the crisis might lead to nuclear war. (He himself said the crisis had between a one third and fifty-fifty chance of leading to war afterward.) In the week of secret deliberations that preceded the United States announcing that they were blockading Cuba, the possibility of nuclear war was mentioned 60 times. So, the danger of nuclear war was clear to Kennedy. Yet, he did not pull back. He did not confront the danger and then withdraw. He saw the nuclear danger and went full speed ahead.

And Kennedy was right to say that the danger of war was quite high. In his recent book, One Minute to Midnight, Michael Dobbs recounts at least three situations that came within minutes of leading to nuclear weapons being used. A Russian sub-captain wanting to fire nuclear torpedoes, U.S. fighters armed only with nuclear tipped missiles preparing to tangle with Soviet fighters over Alaska in order to save a lost U-2 spy plane.4 And so on. How can we say with confidence that nuclear deterrence works reliably when Kennedy so clearly ignored a real danger of nuclear war?

 次に今日のことを想起して、職場に着く頃合いまで簡易的に記録を取ると、零時一二分だった。そこから記憶ノートの確認に移行する。三、四頁は風呂のなかで思い出したので五頁目の事項を一つずつ頭に入れていき、その一頁のみだったので僅か一三分で切りがついた。その後、新たな情報を先頭頁に書き足していく。Wynton Marsalis Septet『Selections From The Village Vanguard Box (1990-94)』を聞きながらペン走らせ、リチャード・ベッセル『ナチスの戦争』からの情報を紙面に文字として、一画ずつ着実に刻んでいく。全権委任法の成立月日の異同の問題が相変わらず解決されないままである。『ナチスの戦争』では一九三三年の三月二四日とされているのだが、先日読んだ芝健介『ホロコースト』においては三月二三日になっている。どういう事情があるのか不明だが、併記しておけば良いだろうというわけで括弧に入れてもう一方の日付も並べておいた。また、NSDAPは一九二八年五月の選挙の時点では投票総数の僅か二. 六パーセントしか票を得られなかったのだが、それが一九三二年七月三一日になると三七. 四パーセントへと大躍進しており、瞠目すべき勢力の拡張ぶりである。僅か四年間のうちに一体何があったと言うのか。
 続いて、ロラン・バルト/鈴村和成訳『テクストの楽しみ』のメモである。四三頁には「言語(口語[パロール]ではなく)を愛するすべての人びと、あらゆる言語愛の人びと」という一節があり、「言語愛の人」というのはごく単純な表現だが、なかなか良いなと思った。また、「一所不在[アトピック]」という概念も何かしら示唆的なものを含んでいそうな言葉だ。その語はこの著作のなかで何度か登場していたと思うが、この時記録したのは以下の記述である。「それ[楽しみ]は漂流だ。なにかしら革命的であると同時に反社会的なものであって、いかなる集団によっても、いかなるメンタリティーによっても、いかなる個人言語によっても、引き受けられるものではない。なにかしらニュートラルなもの? お分かりのように、テクストの楽しみはスキャンダラスなものだ、――それが背徳的[インモラル]であるという理由によってではなく、一所不在[アトピック]であるという理由によって」(46)。「一所不在」によるスキャンダル。魅力を覚える論理だ。
 四七頁から四八頁の記述も引用しよう。「作家[エクリヴァン]は今日では托鉢僧や、修道士や、坊主の、時代遅れな代用なのだろうか? 非生産的だが、食べさせてもらう存在なのか? 仏教のサンガと同様に、文学の共同体は、どんなアリバイを設けようと、金儲け主義の社会に養われているのか? 作家が生産するものによってではなく(作家はなにも生産しはしない)、彼が焼尽するものによって? 過剰なものであるが、まったく無用というわけではない、というわけか?」。現代社会の出版社の経営事情のレベルで言うと、ここに書かれていることがまさしく当て嵌まるのだろうな、という気がするものだ。つまり、一方で哲学とか文学とか、そういった小難しいような、万人受けしないようなジャンルの著作を出版し続けるためには、もう一方でいわゆるエンターテインメント、大衆的なジャンルを広大に売り払って金を稼がないといけないのだろうということだ。だから、ここでは確かに、「文学の共同体は(……)金儲け主義の社会に養われている」と言えるだろう。ところで、括弧に囲まれたなかの「作家はなにも生産しはしない」とはどういう意味なのだろうか? また、「焼尽」という語も結構見かけるのが珍しいように思われる単語で(「消尽」の方はわりと目にするが)、自分の語彙のなかに取り入れたい気持ちを覚える。
 さらに上記と同じ断章において、「交換はいっさいを回収する、――交換を否定すると思われるものも手なずけることによって。(……)テクストの無用性そのものが、ポトラッチの名において、有用なものとなるのだ。別の言いかたをすれば、社会は裂開のモードにおいて生きる。こちらには、崇高なる、無欲なテクストがあり、あちらには、金儲け主義のものがある、その価値は……そのものの無償性なのである」(48)とも語られている。「無用性」「無償性」もまた一つの意味として、価値として、一つの有用性として回収されてしまうということが、ここで明確に指摘されているだろう。結局はそうなのだ。だとしたら、どうすれば良いのか? こちらとしては何と言うか、ごみのような存在でありたいと思うのだが。創造的なごみ、あるいは偉大なる屑。つまり、有用でありたくなどまったくない、何かの役に立ちたくなどない、ということだ。完全に無用で無償だが、それでも存在する、という密かでしたたかな権利を主張したいのだ。しかしそれもまた反動的とも思えるもので、そして反動こそ容易に回収されてしまう。やはりある程度は、もしくはある形では、制度や社会とのあいだに共犯関係を築き、あるいは〈寄生虫〉としてあらざるを得ないのではないか。大勢が定めた意味において役に立たないものは存在を許されない、そうした趨勢にこそ抗っていきたいのだが。
 一時三六分から書見を始めた。ニコラス・チェア/ドミニク・ウィリアムズ/二階宗人訳『アウシュヴィッツの巻物 証言資料』にひたすら邁進し、三時二五分まで読んで就寝である。