2020/1/28, Tue.

 [ウーチ・ゲットー・ユダヤ人評議会議長]ルムコフスキーは[一九四二年]九月四日に次のように述べた。
 「昨日の午後、彼らは私に二万人以上のユダヤ人をゲットーから引き渡すように命令を下した。もし、そうしなければ、――『我々がそれをするであろう』というのである。それ故、問題は、『我々自身が引き受けて、自分たちでやるのか、他人にそれを任せるのか』になった。そうだ。我々、すなわち、私と私の親密な仲間達は、『何人が死ぬのか』ではなくて、『何人を救うことができるのか』を最初に考えた。そして、我々は結論に達した。それがいかに我々につらいことであっても、この命令を我々自身の手で実行しなければならない、と。
 私はこの困難で血なまぐさい作戦を実行しなければならない。私は、私の身体そのものを守るために手足を切り取らなければならない。私は子供を取り上げなければならない。なぜならば、そうしなければ、他人が取り上げるだろうからである。神よ、許し給え。
 (物凄く泣き叫ぶ嘆きの声)
 私は今日あなたがたを慰めるすべを知らない。私はあなたがたを鎮めようとも思わない。私はあなたがたの苦悶と苦痛を受け止めなくてはならない。私はあなたがたからあなたがたが心の底から愛しているものを取り上げに、悪漢のようにここに来たのだ。私は可能なあらゆる手段を使って命令を取り消してもらうよう試みた。それが不可能とわかったとき、私は命令を緩和することを試みた。昨日、私は九才の子供のリストを作成させた。私は少なくともこの一年齢層――九才から一〇才までの――を救おうと思った。しかし、これは許可されなかった。私が成功した唯一のことは、一〇才とそれ以上を救うことである。これを我々の深い悲しみの慰めとしてほしい。……
 (叫び声。「我々みんなで行こう。」「議長さん。子供をひとりで連れてゆかせることはできない。子供は数人の子供と一緒に家族から取り上げるべきだ。」)
 みんな空文句だ。私はあなたがたと議論する余裕がない。もし、ドイツ当局が到着すれば、あなたがたは誰も叫ばないだろう。……一体どちらがいいのだ。あなたがたは何を望んでいるのだ。八万から九万のユダヤ人が残るのがいいのか、それとも、本当に、全住民が全滅するのがいいのか。……」
 こうして、ゲットー警察による撤去が始まった。目撃者は次のように伝えている。
 「ゲットー警察は命令された通りに(厳格に)人々を捕らえながらも、同情を禁じえないようだった。一〇才までの少年、六〇才以上の老人、医師の診断で回復の見込みがないとされた病人が連行された。……犠牲者を連行しながらも、警官は犠牲者とともに泣き、ため息をついた。……彼らは嗄れた声で犠牲者を宥めようとし、絶望している犠牲者を慰めようとした。」
 最初はゲットー警察に任せていたゲシュタポも、撤去が一向にはかどらないので、期日までに間に合うかどうか不安になってきた。彼らはやがて自分で行動を引き受け、ゲットー警察は脇役にまわった。
 (栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』ミネルヴァ書房、一九九七年、188~189)


 七時頃から何度も意識を取り戻して目をひらいていたのだが、七時台では睡眠時間は三時間強に留まる。それではさすがに短いだろうと判断して眠り続け、最終的に一一時に起床した。夢をたくさん見たのだが、そのうちのほとんどは既にどことも知れぬ脳内の真空へと霧散してしまった。最後の方に見たもののなかに、蜂か何かを操って獲物を狩るというようなゲームをやっている夢があったと思う。そのほか、小中の同級生であるH.Tの結婚を題材とした夢などを見たような気がするが、詳しいことはわからない。
 雪はもはや降っておらず、積もってもいないので外に白さは見えず、陰鬱気に沈んで明度も彩度も低い濡れた風景だった。ベッドを抜けるとさすがに寒かった。ダウンジャケットをすぐさま羽織り、コンピューターを点けて、ログインすると各種ソフトのアイコンをクリックしておき、起動を待つあいだにトイレに行った。大量の尿を放ち、ペーパーで便器を拭いて戻ってくるとTwitterを眺めたりLINEにアクセスしたりしたあと、昨晩脱いだまま洗面所に持っていくのを忘れて放置していたワイシャツを手に、上階に上がった。卓上の書置きを確認すると、母親は着物リメイクの手伝いに行っているようで、食事はおじやと素麺があると言う。父親の方は知れないが、九時頃だったかそのあたりに上階を重い足音が行き来していた記憶があるので、もしかすると休日なのかもしれない。
 洗面所の籠のなかにシャツを入れておき、台所の鍋から丼におじやをよそり、電子レンジに入れて回しているあいだにふたたび洗面所の鏡の前に移って、爆発していた頭を押さえて整えた。そうして温まったおじやを持って卓に就き、新聞を読みながら柔らかく煮られた米を口に運んだ。国際面をめくると、一月二七日でアウシュヴィッツ解放から七五年を迎え記念式典が催されているという記事があったので、それをまず読んだ。それから一面に戻って新型肺炎関連の報である。感染者は二八〇〇人越え。今日の閣議で今次の肺炎が指定感染症に指定され、また全日空チャーター機が二台、武漢に派遣される予定だと言う。その横には、WHOの高官だかトップだかが北京入りし、また李克強首相が武漢を視察したとの報も伝えられていた。
 食事を終えると流し台に箸と丼を運び、洗う前に電気ポットの湯を確認し、水位が低かったので薬缶から水を注ぎ足して、薬缶にはまた新たに水を汲んでおいた。それから皿を洗ったのが先だったか、ダウンジャケットの下のパジャマをジャージに着替えたのが先だったか。そんなことはどちらでも良いのだが、その後、風呂場に行って栓を抜き、たくさん余った残り湯が排出されていくのを立ち尽くして待った。脳内には中村佳穂の"忘れっぽい天使"が流れていたが、それが途中からthe pillowsの"ストレンジカメレオン"に変わった。湯が流れ出してしまうと浴槽のなかに入りこんで壁や床を擦り、終えて出てくると居間の電気ストーブを持って下階の自室に帰った。部屋のファンヒーターがもはや壊れかけているのか、大した暖風を吐いてくれないので取り替えることにしたのだった。そうしてファンヒーターを急須と湯呑みとともに持って居間に行き、電気ストーブのあった場所に代わりにヒーターを置いておき、それから緑茶を用意した。外では雨が流れており、家の南に生えた梅の樹の裸の枝のてっぺんには、雀が何匹も止まって飾りのようになっていた。
 自室に帰ってくると緑茶を啜りながらこの日の日記を記しはじめたのが一二時七分、ここまで綴れば三五分を迎えている。
 それから二時過ぎまで、一時間半ほど掛けて二六日の日記を拵えた。あとはロラン・バルト/鈴村和成訳『テクストの楽しみ』から読書ノートにメモした書きこみを写すだけという段になって一旦中断し、少々だらだらと休んでから再開して、二時三九分に至って仕上げることができた。記事をインターネットに投稿したあと、食事を取るために上階に向かう。台所に入っておじやの余りを椀に盛り、同時に冷蔵庫からスチームケースいっぱいに詰めこまれた素麺を取り出して、前夜のスープの余りに投入して煮込む。最初は箸を操ってくっついた麺を剝がそうと試み、一掴みつまんで分離させようと頑張っていたのだが、全然剝がれてくれないので結局全部まとめて投入してしまった。そうして水と麺つゆを足し、ちょっと煮込んでから丼にすべてを注ぎこむと食卓に運び、新聞は読まずにただ黙々とものを食った。おじやにしても素麺にしても非常に熱く、いくらも口内に留めておけずに飲みこむと、熱が食道を擦りながら緩慢に落ちていく感覚が生まれるのだった。食後、目を閉じて休みながら脳内の思念=言語に注意を向ける時間を少々取った。雨は続いていたと思う。ホームレスや浮浪者になるというのはどういうことなのだろうな、とちょっと想像しながら休み、しばらくすると立って台所で食器を洗った。
 自室に帰ると三時一一分からロラン・バルト/保苅瑞穂訳『批評と真実』の書き写しを始めた。音楽は中村佳穂『AINOU』、The Beatles『Rubber Soul』と続けて流し、五時直前まで一時間四〇分ほど作業を続けて、それでこの本から写したい文言はすべて写し終えることができた。以下にこの日転写した部分を引いておく。

 「作品は、構造上、多様な意味を持つというのが事実であるならば、作品は二つの異なる言説を生み出すはずである。なぜならわれわれは作品が隠し持っているあらゆる意味を、あるいは同じことになるが、そうしたあらゆる意味を支えている空虚な意味を、作品のなかで狙うこともできれば、また他方、それらの意味のなかでただ一つの意味を狙うこともできるからだ。(……)われわれはしかじかの意味を対象とせずに、作品の意味の複数性それ自体を対象とするこの一般的言説を文学の科学[﹅5](またはエクリチュールの科学)と呼び、作品に一つの特殊な意味を与えようとする意図を、自分の責任において、公然と引受けるあのもう一つの言説を文芸批評[﹅4]と呼ぶように提案することができる」(82~83)
 「批評において主体に対比すべきものは客体ではなく、主体の述部なのである。別の言い方をすれば、批評家が立ち向う客体は作品ではなく、かれ自身の言語なのだ」(104)
 「古典的批評は、主体とは「充実したもの」であって、主体と言語との関係は内容と表現との関係であるという素朴な信念をいだいている。象徴的言説という概念を援用すると、これと反対の信念に導かれるように思われる。すなわち主体とは言語のなかに(選択された文学の「ジャンル」によって)それを排出する権利があるにせよ、ないにせよ、そうした個人的充実ではなく、逆に作家が限りなく変形される言葉(変形の連鎖のなかに挿入される言葉)をその周辺に編み上げる一つの空虚なのだ。したがって偽ることがない[﹅7]すべてのエクリチュールが指し示すものは主体の内的属性ではなく、主体の不在なのである。主体というのが表現し得ないものであるにせよ、あるいは主体を表現するのに言語が役立つにせよ、言語は主体の述部ではない。言語が主体なのである。私にはそれがまさに文学を定義するものであるように思われる」(104~105)
 「批評家にできることは作品の隠喩を還元することではなく、ただ作品の隠喩を続けることだけである。もう一度繰り返して言うと、もしも作品のなかに「埋められた」、「客観的な」一つの意味されたものがあるとするならば、象徴はただの婉曲語法に過ぎず、文学は擬装に過ぎず、批評は文献学に過ぎない。作品を純粋に明白なものに還元することは不毛なことである。なぜならそうなれば、もう作品について言うべきことが即座に[﹅3]なくなるからであり、また作品の機能はそれを読む者たちの口を閉ざすことではあり得ないからである」(107)
 「作品を愛し、作品に対して欲望の関係を保っているのはただ読書だけである。読書とは、作品を欲望することであり、作品でありたいと欲することであり、作品の言葉以外のいかなる言葉によっても作品を吹き替えるのを拒むことである。(……)読書から批評へ移行することは欲望の対象を変えることであって、もはや作品を欲することではなく、自分自身の言語を欲することである。しかしそれゆえにまた作品がそこから生れ出たエクリチュールの欲望へと作品を送り返すことでもある。こうして書物のまわりを言葉が回転する」(118~119)

 書き写しをしながら既にLINEでやりとりを始めていたかどうか。終わってからのことだったかもしれないが、翌日の待ち合わせについて話し合ったのだった。最初は、美術館に先に向かうという段取りになっていた。上野の東京都美術館でヴィルヘルム・ハマスホイの展示を観る予定だったのだ。現地までこちらが一番遠いから待ち合わせ時間を決めて良いと委ねられたので、結構遅めに一時半に上野と案を出したが、昼過ぎが一番混むらしいぞと、TDがGoogleで検索したデータを貼りつけてきた。それで時間を早めて再提案したが、だったら秋葉原でヘッドフォンを見るのを先にして、夕方から美術館を訪れた方が良いかという話になったので、一〇時四二分の電車に乗れば一二時六分に秋葉原に着くと伝えると、それで決定となった。
 母親は既に帰宅済みだった。五時二一分から日記の読み返しを始めたが、歯を磨きながら一度上階へ上がった。明日出かけることを知らせるためである。母親は食事の支度中で、大根を豚肉で巻いたものを焼いており、これやって、トイレ行きたいから、と言うので、一旦室へ戻ってストーブを停めたり電気を消したりしてから台所に入った。石鹸で手を洗い、箸を持って肉巻きを動かしてみると、もう結構焼けていて身が大方白くなっていた。蓋をしてさらに加熱を進めながら、椀に醤油、味醂、砂糖、水を入れ、箸で搔き混ぜて調味料を用意した。そうしてしばらくしてからそれをフライパンに注ぎ、沸騰させて味を絡めて染みこませ、完成したあとは流し台に放置されてあった洗い物を始末した。ほかには大根の味噌汁が既に作られてあったので、あとは良かろうと決めて下階に戻ると、ふたたび読み物に触れた。過去の日記には特別に印象深い箇所は見つからなかった。続けてfuzkueの読書日記及びMさんのブログも読んだあと、音楽を聞くことにした。きちんと集中して音楽鑑賞をするのは随分と久しぶりのことである。
 まず、Bill Evans Trio, "Gloria's Step (take 1, interrupted)"(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』: D1#2)を聞いた。Evansが打音を僅かに休んだその隙間に応じて突っこんでくるLaFaroの対峙がばしっと決まっている。ピアノソロの二コーラス目あたりだっただろうか、EvansのコードプレイとLaFaroのベースの推移がぴったりと一体に噛み合っている箇所もあった。また、ベースソロの終盤で、あれはアルペジオなのだろうか、LaFaroが三連符で壁みたいなものを一瞬作り上げながら上昇していくシーンでの勢い、素早い迫力も凄い。そのあとの後テーマの裏のベースを聞いてみても、Scott LaFaroの動き方というのは実に闊達でありながら乱れなくぴしっと嵌まっていて、凄まじく高度である。その闊達さには、何となくJaco Pastoriusを想起させるようなところがある。
 次に、中村佳穂『AINOU』から冒頭の"You may they"と、続く"GUM"を聞いた。一曲目では最初の歌が終わるとドラムが参加してくるのだが、そこには重々しい闖入感と言うか、ある種の異物感のようなものが付き纏っており、充満的・膨張的で大きな領域を占めるドラムの音によって、それまでの音像に比してサウンドが一挙にぐっと重くなるのだ。そのドラムの音を聞いてみると、これはまったくの当てずっぽうと言うか拠って来たるもとのわからない曖昧な連想に過ぎず、定かな印象ではないのだが、何となくこの演者は現代ジャズのドラマー――例えばChris DaveやMark Guilianaや、James Franciesのアルバムに参加していたJeremy Duttonなど――が好きそうな気がふとした。二曲目のドラムも堅固で、このアルバムは思いの外に低音部が重厚に充満している気がする。また、コーラスもかなり多用されていて複雑に交錯する箇所もあり、その重なり合いや往来の質感を活用しているように思われる。多重的な「声」の饗宴という感じだ。
 中村佳穂の歌唱は時折り、同じ発音を繰り返すことで、意味を失って一つの電子的な楽器のようになる。パルス音のようだと言うか、信号的なのだ。具体的には"You may they"における「寝る」の一部を構成する「ね」の音であり、"GUM"では「愛」の「い」の連続である。そのようなたった一つの音を何度も連打する時、中村佳穂という主体はほとんど物化するかのように感じられる。つまり、彼女の内には、音楽を構成する一片の「音」として――「歌」ですらなく――物質化されたいという欲望があるのではないか、と想像させるということだ。意味を剝奪された純粋な〈声=音〉としての顕現の瞬間への志向?
 "GUM"のイントロには何となく和風な匂いを感じさせるメロディが奏でられているが、これはギターなのかシンセサイザーなのかよくわからない。さらには、ギターにトーキング・モジュレーターを噛ませたらしき音――Jeff Beckの七〇年代の作品を懐かしく思い出す――がサビの左側で短く入ってすぐに消えるあたりなども、芸が細かいのだが、ギターだけでもかなり重ねられているようで、それらをあまり明瞭に聞き分けることができずとも、サウンドの底がぐつぐつと煮えているような感覚があって心地良い。音像の作りこみは相当にこだわっているのが誰が聞いても如実にわかると思われるが、しかし、いわゆるスタジオミュージシャン的なサウンドの凝りとは異質にも感じられる。びしっと隙なく仕上げられた洗練と言うよりは、アイディアを最大限に詰めこんだごった煮的な感じがあるような気がするのだ。
 音楽を聞いているうちに、気づけば一時間以上経過して八時直前に達していた。食事を取るために上階に上がると母親は風呂に入っており、テレビが孤独なから騒ぎを演じていた。台所で米をよそって大根の味噌汁を温め、肉巻きを皿に盛って電子レンジに入れ、各々卓に運んだあと、夕刊を取っていないのではないかと思い、サンダル履きで外に出た。雨の勢いはかなりのもので、ざあざあという騒がしい雨音が夜闇の空間に満ち、裸足が冷たくて仕方なかった。傘をひらいて階段を下り、ポストに寄ったもののなかは空だったのでそのまま引き返し、傘を傘立てに差しておいてなかに入り、扉を閉めてさっさと居間に戻った。夕刊は炬燵テーブルの上に置かれてあった。テレビを沈黙させ、それを取って食事を始めながら読んでみると、新型肺炎を指定感染症に決定するという政府の方針が述べられていた。指定の暁には、感染の疑いがある人が勧告に従わなければ強制的に入院させることが可能となり、また感染症の治療費を公費で負担できるようになると言う。チャーター機は今日の夜に出発する予定らしかった。文を読みながら肉巻きを米と一緒に食って咀嚼し、大根の味噌汁で身体を温め、完食すると母親が放置しておいたものもまとめて皿を洗った。
 母親が既に風呂を上がった気配があったのでパジャマを持って洗面所の戸口に行き、扉をノックした。返事があり、入るのと訊いてくるので肯定を返す。そろそろ父親が帰ってくるらしかったが先に入らせてもらうことにして、母親と入れ替わりに洗面所に入ると、服を脱いで浴室に踏み入り、湯の安穏のなかに浸かりこんだ。雨音は絶え間なく持続し、ひと繋がりに満ちて平面を成し窓に貼りつくような感じで、起伏や破綻がなく、常に鳴っていて隙間や途切れ目が生まれないものだからかえってあまりよく聞こえないようですらあった。頭を背後の縁に預けて瞑目し、思念=言語に注意を向けながら、こうして目を閉じて頭のなかの声を聞くのも、音楽を集中して聞くのと変わりがないなと思った。そのうちに頭は短歌の方に向かって、しばらく言葉を弄んでから風呂を上がった。
 父親は入浴中に帰ってきていた。洗面所で身体を拭いたり服を着たりしていると、台所をうろついて電子レンジでものを温めている気配が窺えた。ドライヤーで髪を乾かして室を出て、おかえりと挨拶をするとダウンジャケットを羽織り、我が塒へと帰還した。風呂のなかで生まれた興を引き継いで、短歌を拵えることにした。コンピューターの前に就いて目を閉じながら作っていき、できるたびにTwitterに流していると、計七首が投稿された。一時間二〇分がいつの間にか経っていた。LINEの方に、明日のウォーミングアップがてら短歌を作ったと報告して、それを機に始まったやりとりのなかでさらに一つ、適当なものを拵えて、最終的に以下の八首が生み出された。

石女の子宮のように空っぽのコンビニエンス・ストアで死にたい
美しい白痴の空虚に満たされた私の敵はコンビニの棚
スタジオのアンプの裏の隅にある埃のような曲を書きたい
東京を隈なく濡らす雨に問う棄民の生の根拠はいずこ
霧雨にひねもす歌うNowhere Man 愛が欲しけりゃ猫カフェに行け
前世紀の太陽風に晒されて鉛を籠めた奥歯が痛い
1945・1・27忘るまじ煙霧に散った命を思い
サル・パンダ・ゴリラ・ミジンコ・マントヒヒ皆持ってる心臓の音

 そうして歯磨きをしながら今日のことをメモしはじめた。本当はさっさと正式に書いてしまうのが良いのだし、前日、二七日の分も書かねばならないのだが、あまりやる気が出ず、今日は本の書き写しをしたいような気分だった。とりあえずメモさえ取っておけば、一応あとになっても書けるわけである。しかし翌日に一日出かけて書くことが爆発的に増えることを考えると、やはり本当はさっさと綴っておいた方が良いのだった。
 それでこの日のことをメモ書きし、さらに二七日の記事を僅かに進めたあとは、ニコラス・チェア/ドミニク・ウィリアムズ/二階宗人訳『アウシュヴィッツの巻物 証言資料』の文言を読書ノートに記す作業を行った。

 「[「特別作業班」においては、]種々の担当者が、それぞれ異なる仕事についていた。「役立たず Schleppers」もしくは「死体運搬係 Leichenträger」がガス室から死体を引き出し、「歯医者」が金歯を抜きとった。「床屋」が死んだ女性の頭髪を刈り取り、「かまたき Heizer」は炉や掘った坑で死体を焼却した。最悪の担当と目されていたのが「人灰処理班 Aschenkommando」で、彼らは骨をすりつぶし、廃棄しなければならなかった」(17)
 「ゾンダーコマンドをめぐる論議において繰り返し浮上するのが、彼らが自分たちのおかれた状況を考察できなかったとか、あるいは目撃証人として独立した立場をとることができなかったという評価である。本書で論じようとしていることは、ゾンダーコマンドがそれをまさしくできたということである」(25)
 「ゾンダーコマンドはビルケナウで起きている事柄を証言しようとした集団のなかのひとつでしかない(……)。(……)収容所で起きていることを記した報告とともに逃走した収容者もいれば、極秘のリストを作成した者、公文書や写真を隠したり複写したりした者もいる。(……)歌が歌われ、改作したり作曲されたりした。(……)アウシュヴィッツで詩を書いた収容者さえいたが、それは通常、出来事を記録するためではなく、周囲の状況から逃避するためであった。ルース・クルーガーの詩には、アウシュヴィッツで心のなかで構想され、記憶しておいて後に書き留められたものがある。詩は「彼女が収容所で正気を保つためであり」、彼女の体験を通常のものにしてその体験から加害者の存在を消し去るためのものであった」(26~27)

 一時直前までメモを続けたあとは、"C"のコーラス音源を確認した。翌日に「(……)」のメンバーたちと会うので、ぎりぎりのタイミングになってしまったが、それまでに音源に触れて所見をまとめておきたかったのだ。Tが作ってくれた確認用の音源――全体を通した音源と、各部で分割したものがあり、そのどれもさらに伴奏つきと伴奏なしとに分かれていた――を何度も繰り返し聞き、一時間以上掛かって判断が確定したあと、二時一五分頃に床に就いた。


・作文
 12:07 - 12:35 = 28分(28日)
 12:37 - 14:02 = 1時間25分(26日)
 14:29 - 14:39 = 10分(26日)
 21:14 - 22:34 = 1時間20分(短歌)
 22:57 - 23:35 = 38分(28日)
 23:35 - 23:48 = 13分(27日)
 計: 4時間14分

・読書
 15:11 - 16:54 = 1時間43分(バルト; メモ)
 17:21 - 17:25 = 4分(2019/1/28, Mon.)
 17:45 - 18:34 = 49分(日記; fuzkue; 「わたしたちが塩の柱になるとき」)
 24:15 - 24:56 = 41分(チェア/ウィリアムズ; メモ)
 計: 3時間17分

  • ロラン・バルト/保苅瑞穂訳『批評と真実』: メモ: 82 - 119(終了)
  • 2019/1/28, Mon.
  • 2014/6/6, Fri.
  • fuzkue「読書日記(167)」: 12月13日(金)
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2020-01-22「水槽の中で丸まり朝を待つ私は胎児あくびの多い」; 2020-01-23「両面が同じ図柄の銅銭を無縁仏に手向けて嗤う」
  • ニコラス・チェア/ドミニク・ウィリアムズ/二階宗人訳『アウシュヴィッツの巻物 証言資料』: メモ: 17 - 27

・睡眠
 4:00 - 11:00 = 7時間

・音楽
 18:41 - 19:57 = 1時間16分(Bill Evans Trio; 中村佳穂)

  • 中村佳穂『AINOU』
  • The Beatles『Rubber Soul』
  • The Beatles『Revolver』
  • Bill Evans Trio, "Gloria's Step (take 1, interrupted)"(×5)(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』: D1#2)
  • 中村佳穂, "You may they"(×3), "GUM"(×3)(『AINOU』: #1, #2)
  • 川本真琴