2020/1/31, Fri.

 強制収容所は、元来ナチスの政権獲得の直後に、政治的敵対者に対する保護拘禁の施設として作られたものである。一九三三年二月二七日、国会議事堂の放火が行なわれ、その翌日、「民族と国家を防衛するための緊急令」、いわゆる国会放火令が公布された。この命令によって、政敵を裁判なしに長期に「保護拘禁」する法的起訴が与えられた。SAとSSは共産党社会民主党をはじめとする政敵を襲撃して、片端から逮捕し、拘禁した。強制収容所はこのような状況においてこれら囚人の拘禁のための施設として作られたものである。
 それゆえ、強制収容所は、元来、中央から統一的に建設されたのではなく、地方のSAやSSが当座の必要に迫られて作っていったものなのである。しかし、その後SSが次第に警察権力を掌握するにつれて、SAの収容所は徐々に姿を消し、一九三四年四月二〇日にヒムラープロイセン政治警察の長を兼ねたときは、SAはもはや独自の収容所を持たなかった。こうして、SSが統一的に強制収容所を組織する基礎が与えられた。
 政権獲得直後に各地に叢生した強制収容所のなかで、次第に頭角を現してきたのは、一九三三年三月二二日にミュンヘン郊外ダッハウの地に建設された強制収容所であった。ヒムラーは一九三四年七月ダッハウ強制収容所長アイケを強制収容所監督官に任命し、強制収容所の組織化を命じた。アイケは多くの収容所を廃止し、少数の収容所に集中するとともに、内部組織をダッハウをモデルにして統一した。こうして、一九三五年夏には、強制収容所ダッハウ他五ヵ所を残すのみとなった。一時は二万六〇〇〇人を超えた囚人も次第に減少して、この時点では約三五〇〇人になっていた。
 政権の安定にともなって、政治的敵対者に対する施設としての強制収容所は次第にその意味を失っていったのである。こうして、SSは一九三六年から強制収容所に新たな意義を持たせることとなった。新たに対象となったのは「反社会的分子」であった。仕事嫌い、乞食、放浪者、乱暴者、性的異常者、売春婦、同性愛者、アルコール中毒者、精神病質者、交通違反者、好訴者、ジプシーなどがこの範疇に該当するものとされた。要するに、強制収容所はナチズム・イデオロギーの考える民族共同体からはみ出した社会的アウトサイダーの住み家とされたのである。一九三八年半ばから「ユダヤ人」がこの範疇に入りはじめ、一一月の水晶の夜とともに、重要な要素となった。
 (栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』ミネルヴァ書房、一九九七年、223~224)


 例によって早い時間から何度も目はひらいていたのだが、そのたびにふたたび入眠し続け、最終的に一一時のアラームで定かな起床を得た。ベッドを抜け出して棚に乗った携帯の動作を止め、寝床に舞い戻ったものの、今日は珍しく意志を発揮して臥位に陥ることは防ぎ、窓からベッドの上に斜めに射しこんでふわりと宿った陽のなかに胡座を搔き、肉体の呼吸、血の巡りの調子が整うのを待った。それからベッドを降り、気候はかなり暖かそうだったのでダウンジャケットは持たずに部屋を出て、上階に行った。母親に挨拶をしようとした際に、声が随分と低く、詰まったようになっていることに気がついた。痛みはないし、咳もまったく出ないが、喉の奥で痰が引っかかったようになっているのだった。
 冷蔵庫を覗くと、前日に母親が買ってきたマクドナルドのハンバーガーが一つ余っていたのでその紙袋を取り出し、チーズバーガーを電子レンジに収めて回した。細くて貧弱なポテトも皿にすべて出して続けて温め、鍋に作られた若布や玉ねぎのスープも熱して椀に盛った。そうして卓に向かい、椅子に腰掛けて食事を摂る。新聞の一面には、武漢市から政府派遣のチャーター機に乗って帰国した人々についての情報が伝えられていた。僅か二時間ほど前に読んだばかりにもかかわらずよく覚えていないので、どうやら散漫な意識で曖昧に読んでしまったらしいが、確か帰国者のなかで陽性と判断された人が三人おり、そのうち二人は無症状だったという話だったと思う。それを受けてウイルス検査で陰性だったほかの人々も千葉県勝浦市のホテルに留まるよう要請されたらしい。またそれとは別に、日本国内でまた新たに三人だか、新型肺炎の感染者が見つかったという情報もあったと思うが、これは三人とも外国人や中国からの留学生で、日本国籍を持っている人ではなかったような覚えがうっすらとある。
 報道を追いながらものを食って、仕舞えると席を立って皿を洗った。そうして洗面所に入って櫛付きドライヤーで髪を撫で、それからゴム靴を履いて浴室に踏み入り、浴槽を洗った。壁を擦るブラシの先端から、視認できない垢なのか何なのか、壁に付着した微小な物質とのあいだに生まれる摩擦の感覚が伝わってきた。風呂洗いを終えて室を出ると下階に戻ったが、そこで携帯を見れば、登録されていない番号からの着信が残っていた。(……)という番号で、まったく心当たりがない。何かの業者だったりしたら面倒臭いので、ひとまずコンピューターを立ち上げてブラウザをひらき、Google検索に掛けてみたが、特段の情報は出てこなかった。それなので迷惑業者などではないのかもしれないが、掛け直すのも面倒臭いので放置しておくことに決め、次にLINEやslackにアクセスして、TやTDのメッセージを確認したあと、緑茶を用意しに行った。茶を持って戻ってくるとそれを啜りながら、彼らに返信を送る。TDからは、今日の夜に渋谷で行われるNHK交響楽団のコンサートに行かないかという誘いが届いていた。おじ君と一緒に行くと言うのだが、この人は結構な文学好きで、こちらと話が合うかもしれないと以前聞いたことがあったのだ。コンサート自体にも興味はあるし、またTDのおじ君と話してみたい気持ちも大いにあったのだが、しかし今夜は労働である。それなので、「とてもとても残念なのだが、今夜は忌まわしき労働に従事しなければならない」と送っておき、また誘ってほしいと要望しておいた。Tからは、グループの方に改めてメンバー皆への感謝のメッセージがあり、同時に、二九日の帰宅後にこちらが個人的に送っておいたメッセージにも礼の返信が来ていたので、それに対して、再返信をしておいた。その後、Evernoteで前日の日課記録を完成させ、この日の記事も新規作成しておくと、既に正午が近かったはずだ。天気が良いので前日と同様、ベランダで書を読みながら日向ぼっこをしようと考えていた。それで茶を飲み干すとロラン・バルト/藤本治訳『ミシュレ』を持って上階に行き、先にまず便所に行って糞を垂れてから、ベランダに出た。母親は仕事に出るところで、まもなく家の表に置かれてある車のエンジンが掛かって発進する音が聞こえてきた。陽射しは厚く生き生きと照って、日向は広く柔らかにひらき、微小な針でくすぐるような快い刺激が肌にもたらされ、ダウンジャケットを羽織っているとかなり暖かくて汗ばむくらいなので、ジッパーを下ろして袷をひらいた。風は昨日よりも旺盛に思われ、洗濯物は絶え間なく揺れており、すぐ左方に掛かったジーンズが押されるとその裾がこちらの側頭部を叩く。西の方角には大きく盛り上がるような雲が湧いてきて、じきに太陽を隠してしまうことが予想されたが、東から南に掛けては僅かな千切れ雲を除いてすべてが冷たい水のごとく鮮やかで清涼な青に占められている。途中、飛行機が二台続けて頭上の低みを、機体を横にぐっと傾けて滑らかに湾曲した軌跡を描きながら渡っていき、太陽光の満ちた眩しい青空を背景に見上げるとその姿が成す十字がくっきりと刻まれていた。巨大な鉄塊の飛行によって生まれる空気の振動がベランダの床にまで波及して、ジャケットの裾や尻にも伝わってきた。
 白光を照り返す頁に目を寄せて、黒く描かれた文字列の上に視線を推移させる。今日は常よりもさらに集中して言語を読み取るよう心がけ、よくわからない部分では普段よりも長く立ち止まって、同じ箇所を何度も繰り返し読み、ゆっくりと時間を掛けながら進んでいった――それでも理解が深まっているかどうか、心許ないところではあるが。本当は一時間は陽に当たりたいと思っていたのだが、一時を前にして西空の巨大な雲が太陽に届いて陽が陰ってしまい、そうすると吹く風もだいぶ冷たく感じられたので、もう室内に入ることにした。それで立ち上がり、戸口をくぐって階段を下り、自室に戻ると急須と湯呑みを持ってふたたび緑茶を用意しに行った。そうして塒で茶を飲みながらこの日の日記を書きはじめ、中村佳穂『AINOU』をヘッドフォンで聞きながらここまで綴れば一時五〇分である。
 さらに続けて、二九日の事柄を思い出し、文体としては大雑把に、しかし情報としては詳細に記録していくのに一時間を費やした。二時五二分で一度中断し、少々間を開けたあと三時六分から引き続き二九日のことを書いているのだが、この合間の時間は多分、洗濯物を取りこみに行っていたものだろうか? あるいは飯を食っていたものかもしれない。一時間キーボードに触れて四時を越えるとふたたび中断が挟まり、その次には四時一八分から一年前の日記を読み返しているのだが、飯はこの中断のあいだに食った可能性もある――もはや何も覚えていないし、そんなことはどうだって良いのだが。一年前の日記を読み返している一二分のあいだは、傍らおそらく緑茶を飲んだだろう。こちらの文章自体には現在の日記に引いておくほど興味深い箇所はなかったが、この日に読んでいた熊野純彦インタビュー「無償の情熱を読み、書く  『本居宣長』(作品社)刊行を機に」(https://dokushojin.com/article.html?i=4180)のなかから、以下の二つの発言を紹介しておく。熊野純彦という人もとても興味深そうな誘引力を感じるもので、先日Twitter上で情報が流れてきたのだったと思うが、今度また三島由紀夫論を出すとか、はたまた西田幾多郎論だったか、別の一冊も出すとか聞いた覚えがあって、この人の仕事量というのは本当に、化け物じみている。今、検索してみたところ、西田幾多郎論ではなかった。『源氏物語=反復と模倣』という著作で、これにはかなり興味を惹かれる。

宣長問題」としてもう一つ、宣長は本当に古伝説を信じていたのか、ということが取り沙汰されるのですが、それはテクストを本気で読むということを知らない人が立てた、つまらない問いです。読書の現場ではテクストが全てです。優れた解釈者は、物語を単に読むだけではなく、物語を生きるのです。(……)

優れたテクストからは、そこから都合のいい思想像や概念像を、取り出すことに挫折するものです。というのも、テクストの本当の魅力は細部にしかないからです。『古事記伝』はその典型的な本で、全国に散らばった弟子たちが、手紙で知らせてくる古伝説や土地土地の風習[ならわし]、遺されている言語[ものいい]、古典籍についてのささやかなエピソードなど、細部のつぶつぶが際立つ本です。それに比べて宣命祝詞のような文体で肩ひじ張った「直毘靈」など『古事記伝』本論に比べ、全く光を放たない。宣長について手っ取り早く論じようという人がそこしか読まないから、奇妙に傾斜した像が描かれてしまうだけのことです。逆に言うと、『古事記伝』の細部を取り上げて、一生懸命読み込んでも、都合のいい宣長像など、結びません。それは仕方がないことです。後世の人間が都合のいい図柄を作るために、先人たちの仕事があるわけではないのだから。

 一年前の日記を読み終えたあとは間髪入れずまたもや二九日の記事に触れているのだが、一体どのタイミングで着替えたのだろうか。四時四二分に達すると今度はロラン・バルト/藤本治訳『ミシュレ』を七分間だけ読んでいるのは、多分歯を磨いたその片手間のことだろう。そうしておそらくその後スーツに着替え、五時一分から一〇分まで九分のみ二九日のことをまた記録した。どうやらここでようやく、二九日の記憶を言語に変換することを完了したようである。そうして出勤だ。
 玄関をくぐって鍵を掛けたあとで郵便物のことに思い当たったが、一度閉めた鍵をもう一度開けるのも面倒臭いし、もうあまり時間もなかったので、ポストには触れないで道に出た。五時にもなれば大気はさすがにいくらかよそよそしく冷えて、ストールはつけていなかったがバッグには入れてきて正解だった。風がそこそこ蠢くなかで西に向かって歩を進め、公営住宅に接した小公園の縁に裸木と常緑樹が混ざって立ち並んでいるのを眺めやると、桜の樹に別の植物の蔓が巻きついて、幹を束縛するように寄生するように、緑の葉っぱを強制的に付属させ、裸の老木を飾りつけていた。西向きの上り坂の果ては浄化されたような残光のまったき白に一掃されて、空の裾が端的な、機械的なまでの無を体現していた。日がだいぶ長じたようだった。
 坂道の途中で蟷螂のような形の大きな葉が落ちていた。本物と見間違えて思わずぎょっとなり、踏もうとした足を直前で無理やりずらしてその上を通過させ、辛うじて踏み潰すのは避けられたのだが、そんなに頑張らなくともそれは魂を持たない単なる葉っぱでしかなかったのだ。細長い楕円型の膨らみが、虫の腹に見えたのだった。その後、坂を上りながら散発的に落ちている葉を踏んでみると、冬の気に晒されて水分のまったくなくなった、乾いて切れの良い音がくしゃくしゃと響いた。
 駅に着いて階段に向かっていると、若い女性が先んじて通路に入り、香水のものか長髪が纏ったシャンプーなどの香りか、匂いが漂って鼻に触れてくる。階段を上り下りしているあいだも端々で仄めいて、雪のなかの煌めきめいたその残り香を追うかのような歩みとなった。段を下りながら空気を見やれば、空から垂れてくるような青は少しずつ空間に忍びこんでいるが、地上はまだ黄昏に沈んではいない。やはり日は長じ、暮れを遅らせ、季節は確実に推移しているのだ。
 ホームに下りた直後、アナウンスが入って電車が遅れていることが伝えられた。付着物がどうとか言っているのはよく聞こえなかったが、一五分ほど遅れているのはわかった。ベンチへ行き、二人の人間のあいだに入り、持ってきたストールを巻いて座る。すると右の人が立ち上がったのでこちらが座ったからかと思ったが、その人は自販機を眺めてから飲み物を買い、また戻ってきたのだった。よくも見ておらず、それまで男性と思っていたのだが、手帳を出してメモ書きをしていると、咳払いの音色で女性だと聞き分けられた。頁の上に文字を書きつけているうちに一五分などすぐに過ぎて電車がやって来たので乗りこみ、扉際に立ったまま書きこみを続けた。電車も遅れてあまり時間がなかったので今日は車内に留まらず、ほかの乗客と一緒に降りて、職場に行く前にトイレに行こうと思ったところが、先客が並んでいたので断念し、階段通路へ向かった。
 職場に着いて準備をしていると(……)くんがやって来て、模試の過去問をコピーして下さいと言うので、それで推薦試験に落ちたのだと知れた。了承し、あとで改めて何の科目が欲しいかと訊きに行くと、理科と社会との回答を受けたので承知して、今日の授業後に準備すると思うと伝えておいた。そうして授業である。まず一コマ目の担当は、(……)くん(中三・英語)、(……)さん(中三・国語)、(……)(高二・英語)。少々意外だったが、(……)くんは推薦入試に合格したのだと言う。しかし授業は続くわけなので、今日はまず以前こちらが当たった時に扱った英作文の頁を復習した。結構覚えていて、惜しいところまでは来ている。その後、対話文を解いてもらったが、これはほとんど確認することができなかった。しかし終盤にわからなかった点をいくつか質問してくれ、さらにそこから得た知識をノートに記録してもくれたので、なかなか良い姿勢である。彼は、少なくともこちらが相手の時には意外と意欲的な風に見える。
 (……)の学んだ単元は、前置詞と組み合わせた関係代名詞及び制限/非制限用法の違いである。雑談がやや多いものの、概ね問題はない。(……)さんに当たるのは二回目で、物静かな子なのでまだ関係を作れておらず、人柄が掴めない。過去問は三〇分で実施してもらった。それでも作文以外終了して、解くスピードが速いのだが、しかしこれはもしかすると三〇分で全部やってほしいとこちらが言ったものと勘違いして急いだのかもしれない。物語文の問いを二つ、わりと細かく確認した。
 二コマ目は(……)くん(中一・国語)、(……)さん(高二・英語)、それに(……)くん(中二・英語)である。(……)くんは相変わらず眠ってしまう。どうしようもない。駄目である。それでも一応、「矛盾」の故事と漢字を少々やりはした。(……)さんは共通テスト対策のプリントを持ってきていたので、それを解き進めてもらい、時折り文章を一緒に確認した結果、英単語を色々と記録ノートに書いてくれた。良い姿勢だが、しかしこれはそれだけ知らない単語、思い出せない語彙が多いということでもあるのだ。終盤に少々雑談を交わした。まず、お兄さんのことを訊いたのだが、この春で大学を卒業して就職だと言う。とすると高校生で塾に来ていたのは四、五年前となるわけで、そう考えるとまだそれほど遠い過去でもないような感じがした。(……)さん自身もまだ高校二年生なので、中三生の時に受験に向けて指導していたのは二年前、二〇一八年のことだ。二〇一八年の一月というのはつまり、変調の冬に当たるわけだが、あれから丸二年が経ったと今考えてみても、まだ二年かという感覚が強い。
 続いて、(……)さんのことも訊いた。あなたの同級生にいたよねと話を向けてみると、とても優秀な彼女は(……)高校に行って部活も勉学も両立させている、みたいなことを言っていた。たまに思い出すよ、とこちらは笑う。実際、賢い子で、特に彼女と当たった国語の授業は結構突っこんだ質問が来たりもして、こちらとしても結構楽しかったのだ。いつでも戻ってきてくださいって伝えておいて、と向けると、講師できるよと(……)さんは笑うので、こちらも、講師募集してますって言っといて、と笑みを返した。
 (……)くんは初顔合わせである。短髪でスポーティーではあるが真面目そうな雰囲気の子で、実際、アンケートに物凄く時間が掛かった。終わると授業が半分以上過ぎていたと思う。いわゆる糞真面目というタイプなのだろうか、さっと流して適当に書くことができず、考えこんでしまったような。授業は残り時間もあまりなかったので復習にして受け身を扱ったのだが、まったく問題がなく、英作文も含めて完璧だったので、記録ノートに書くことがなく、予習をした方が良かったと言わざるを得ない。授業の終わりに、新しいことを学ばせてあげられなくてすみません、次当たった時は、理解を深めるお手伝いができればと思いますという言葉を送っておいた。
 授業後、(……)くんに頼まれた模試の過去問のコピー作業を進めた。ひとまず三回分用意しておくことにしたのだが、これに結構時間が掛かって、勤務終了時間の九時半を越えた。それ以降はサービス勤務である。もっとも、授業前にも予習のために長ければ一時間くらいただ働きをしているので今更のことではあるが。こちらよりも真面目に予習し、早く出勤している講師はいないと自負している。模試のコピー配布はもしかしたら著作権的にアウトなのかもしれないが、知ったことではない――それができなければ、何故塾に資料が保管されているのかという話だ。しかし、室長には一応、報告しなかった。
 九時四〇分から四五分の頃合いに退勤して、国民年金を支払うためにコンビニに向かった。年金も本当は免除してもらった方が良いのだろう。何しろこちらの収入というのは、独力では生きていけないほどに低劣なのだ。あるいは免除は措いて払い続けるにしても、口座から自動的に引き落とすように設定した方が面倒がないのだろうが、しかしおよそ手続きというものが何であれあまりに面倒臭くて、書類を書いたりする気にまったくなれないのだった。たった一回の手続きを億劫がるが故に、支払いのできるコンビニや郵便局へと毎月いちいち身を運ぶ労を惜しまないというこの価値の序列には何か倒錯の匂いがある。そういうわけで今日もわざわざ支払い書を持ってコンビニにやって来て、入店するとATMで金をおろし、レジに近寄った。店内には幼子を連れた家族が何組かいたようで、彼女らが会計の番を待っているのかいないのかよくわからず、そちらを窺いながらもどうやら並んでいないようだったので、こちらが先にレジ前に入って支払いを済ませる。それから籠を取って、ポテトチップスやら冷凍食品やらを入れていくなか、アイスのケースの周りには幼子たちがぶら下がるように寄っている。多分母親に買ってくれるようねだっていたのだと思う。こちらは何となく、ハンバーガーを買って帰ろうと思っていた。何故かコンビニのハンバーガーが食べたかったのだが、前に食べて美味しかったのかもしれない。そうだとすればそれは多分チキンの挟まったものだったのではないかと思うが、この時チキンの品はなく、「とろける4種のチーズバーガー」とかいうものしかなかったので、やむなくそれを籠に加え、そうして先ほどと同じ若い男性店員を相手に会計を済ませて退店した。
 駅に入ると券売機の前に立ち、SUICAに五〇〇〇円をチャージして、それから改札をくぐってホームに向かった。階段を上っている時に運動着姿の中学生数人とすれ違ったが、彼らの仲間の一人は自販機の前に立って何を買おうか迷っているようだった。こちらも何か飲もうかという欲求を感じた。寒いにもかかわらず、温かいものよりも冷たいものが欲しいようだった。ベンチに就いて荷物を置いてから自販機に行って三つを見て回ったものの、この時期だとやはり冷たい飲み物の品揃えは貧弱で、最終的に蜜柑ゼリーを買うことになった。別にゼリーなど飲みたくはなかったが、ほかに丁度良い量と味の冷たい飲料が見つからなかったのだ。ベンチに腰を下ろし、ちょっと振ってから開栓したが、口につけてボトルを傾けても中身が出てこない。それで蓋を閉め、かなり強く勢いをつけてぶんぶんと振ったのだが、そのように大仰な動作を取らねばならないのがちょっと恥ずかしかった。そうしてもう一度口に向けてボトルを傾けると、恥ずかしい思いをした甲斐あって今度は中身が口内に流れこんできたが、ゼリーを飲むというのは何か独特の食感をもたらすものだった。口のなかでさらに細かく噛み砕いて、飲みこんでいく。
 週末に差し掛かる金曜日の夜とあって人々は街に繰り出したのだろう、ホームには足取りのふらふらと怪しい酔っ払いの姿が見られた。ゼリーを飲み終えたあとは手帳にメモを取りはじめ、奥多摩行きがやって来ると三人掛けに入って書きつけを続け、最寄り駅で降車した。ホームを行っていると前方の階段通路から何か薄い歌声が聞こえてきたのは、年嵩の男性が機嫌良く口ずさんでいるらしい。彼も酒を飲んできたのだろうか。
 駅を出て通りを渡り、車が走ってきた時に生まれる風の流れに冷やされながら街道沿いを行って、木の間の坂を歩幅を広くゆっくりと下りて家に帰った。居間に入ると両親ともに姿があった。着替えてきて食事を取ったのだが、メニューは多分、豚肉と大根の炒め物だったと思う。玉ねぎと若布のスープも多少残っていたようだ。ほかの品は覚えていないが、買ってきたハンバーガーを温めて食ったのは確かだ。電子レンジで加熱したものを持ってきて席に就くと母親が何のバーガーかと尋ね、四種のチーズバーガーなる名前を告げると、炬燵テーブルの方で食事を取っていた父親が、お前、ご飯も食べてそれも食うの、食べ過ぎじゃないのと向けてきたが、知ったことではないと無言で受け、年金を払う必要があったからついでに、と母親に説明した。
 テレビは食事を始めた直後に『ドキュメント72時間』が流れ出した覚えがあるのだが、どこが舞台だったのか頓と思い出せない。いずれにせよそれほど目は向けなかったはずで、新聞を読んだのだと思うが、これも内容を思い出せない。新型肺炎の報は間違いなくあったはずで、あとはEU離脱関連の情報が伝えられていたか。食後、風呂場に行って湯のなかで静止し、出てくるともはや零時頃だったはずである。
 部屋に帰って二〇一四年の日記及びfuzkueの「読書日記」を読んだあと、次いでニコラス・チェア/ドミニク・ウィリアムズ/二階宗人訳『アウシュヴィッツの巻物 証言資料』の文言を読書ノートにいくらか引用した。その後、三〇日の事柄を二五分間だけ大雑把に記すと、続けて立川図書館で借りているCDの情報をEvernoteに書き写しはじめた。翌日が返却期限日で図書館に出向く予定だったので、それまでに情報を記録保存しておかねばならなかったのだ。借りている作品はJunko Onishi『Baroque』と、Brad Mehldau『10 Years Solo Live』である。Mehldauの方は何と四枚組で、収録された一曲ごとにいちいちレコーディング年月をメモするために時間が掛かったが、もっとも途中からは同じ日に録音されてデータが重なっているものに関してはコピー&ペーストすることができた。
 そうして三時に至る。Brad Mehldauの"From This Moment On"と、中村佳穂 "きっとね"を聞いたあと、就床した。以下にはニコラス・チェア/ドミニク・ウィリアムズ/二階宗人訳『アウシュヴィッツの巻物 証言資料』からの引用を写しておく。

 「われわれは、「巻物」の作者たちが用いた無地の紙面が、ときに精神分析医と同等の「真っ白なスクリーン」を用意したことを論じる。書くことがトラウマ体験を言葉にし、それをある程度まで制御できる機会となったのである。用紙が「傾聴」したのである。紙に投射される言葉が作者たちを精神的に支える力となった」(33~34)
 「ビルケナウで作成された文書はその時点のものでもあり、死の工場の世界から語られている。したがってそれらは、回顧して作成された記述がなしえないような仕方で、その世界を内包しているといえる。彼らがそこで使っている文学的な技法は読み手に過去を回想させようとするのではなく(あるいはそれだけではなく)、体験を将来へと伝えようとするものでもあった。作者は、自分たちが「現在として生きた過去」を別の「現在」に、すなわち自分たちが生きて目にすることのない「未来の現在」に持ち越そうと努めているのである」(34~35)
 「ここで考察しているゾンダーコマンドの証言には、表象の可能性もしくはその適切性をめぐる疑念が繰り返し浮上する。したがってホロコーストの表象可能性をめぐる回顧的な論議は、出来事の内部からなされた記述のなかに予示されているのである。(……)ゾンダーコマンドのなかの作者たちは、表象がもつ可能性を自問したにちがいないが、完全に断念することをしていない」(38~39)


・作文
 13:04 - 13:50 = 46分(31日)
 13:54 - 14:52 = 58分(29日)
 15:06 - 16:07 = 1時間1分(29日)
 16:30 - 16:42 = 12分(29日)
 17:01 - 17:10 = 9分(29日)
 25:17 - 25:42 = 25分(30日)
 計: 2時間31分

・読書
 12:04 - 12:53 = 49分(バルト)
 16:18 - 16:30 = 12分(2019/1/31, Thu.)
 16:42 - 16:49 = 7分(バルト)
 24:10 - 24:35 = 25分(2014/6/7, Sat.; fuzkue)
 24:39 - 25:15 = 36分(チェア/ウィリアムズ; メモ)
 計: 2時間9分

  • ロラン・バルト/藤本治訳『ミシュレ』: 24 - 35
  • 2019/1/31, Thu.
  • 2014/6/7, Sat.
  • fuzkue「読書日記(167)」: 12月14日(土)
  • ニコラス・チェア/ドミニク・ウィリアムズ/二階宗人訳『アウシュヴィッツの巻物 証言資料』: メモ: 33 - 39

・睡眠
 3:10 - 11:00 = 7時間50分

・音楽
 27:10 - 27:22 = 12分(Mehldau; 中村)