2020/2/3, Mon.

 ヒトラー反ユダヤ主義思想はまさにこのポグロムに対する反ユダヤ主義の側からの批判として成立したのである。ユダヤ人絶滅政策をヒトラーの意図から説明しようとする意図主義的解釈は、ヒトラーの非合理的な反ユダヤ主義的心情を強調してきた。しかし、従来の通説で考えられてきたのとは異なって、ヒトラーは元来ユダヤ人の絶滅を考えていたわけではなかった。彼はむしろ、粗野なポグロムを非難して、「理性の」反ユダヤ主義たる国外追放を考えていたのである。国家権力を利用したこの方式が、民衆の手による情動的で一過的なポグロムよりは残酷でないように見えて、実はより徹底的なユダヤ人問題の解決をもたらしうることはいうまでもない。(……)
 (栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』ミネルヴァ書房、一九九七年、288)


 一〇時のアラームで夢のなかから現世に復帰した。布団の下を抜け出してアラームを停めるとベッドに還ったものの、身体は軽くて臥位には陥らず、二度寝の罪を犯すことを今日は避けることができた。下半身に布団を載せながら合蹠のポーズを取って、陽を浴びながら背筋を伸ばす。夢は色々と見たはずだ。しばらく陽を浴びたあと、それを記録しようかと思って、今日は上階に行く前にコンピューターを点けたのだったが、いざEvernoteをひらいてみるとよくも覚えていないし、面倒臭くなってやめた。一一時を越えた今現在で覚えているのは、関東近郊では屈指の品揃えを誇るという古書店についての話があったことが一つである。夢のなかで兄か誰かから聞いた話だったと思うが、それは青梅駅付近の、現実にはこじんまりとした葬祭場が置かれている場所にあるとされていたもので、数か月に一度しか開かないのだということだった。その店は加えていわくつきと言うか、何かしら「やばい」種類の店だと言い、その具体的な内容は曖昧だったが、実際にその古書店を訪れる場面も夢のなかにはあったものか、壁に書かれた赤い血文字を見たようなヴィジョンが僅かに記憶に残っていなくもない。もう一つには、大人数でどこかの邸宅に泊まるという夢があったが、こちらの詳細もほとんど忘れてしまった。深夜になって皆が寝始めた頃に、立川の従弟であるKがマグカップに入れたカレーか何かを出してくれたというシーンがあったはずだ。それを食べ終え、あるいは飲み終えたあとに片づけようとしたのだが、キッチンの場所がわからず右往左往し、適当な幕をひらいて女性が眠っている部屋に立ち入ってしまったということもあった。すぐに出て、Kに尋ねた結果、やはり幕か何かの裏に隠されるようにしてあった流し台に辿り着き、水の音が響かないように蛇口を慎重にひねって流水を細く出し、それでもって静かに食器を洗ったのだった。
 ダウンジャケットを持って上階に行くと、母親は居間の端でアイロンを掛けており、近くに置かれたタブレットからは女性ボーカルの音楽が流れ出している。youtubeの音源を流しているようだった。それがわりと良い感触のものだったので、ジャージに着替えてから覗いてみると、竹内まりやの楽曲だった。母親は、MちゃんがTKくんと対面した様子を見なよ、と勧めてくる。食事は大根の味噌汁だけ作ったが、特におかずはなく、ハムもないと言うのでコンビニの冷凍の手羽中を食べることにした。それで冷凍庫から出したパックを電子レンジに入れて回し、味噌汁も火に掛けて温め、白米を椀に盛って卓に就くと、母親がタブレットをこちらの前に置いて動画を再生した。T.TKさん――TMさんの母君である彼女は今、新たな子の出産を迎えた兄夫婦を手伝うためにモスクワに出向いている――が撮影したらしいもので、兄夫婦の宅の玄関付近でMちゃんがうろついていた。そこに籠に小さく収まったTKくんを連れた兄夫婦が帰ってきて、自らの弟と対面したMちゃんは、「うわーい!」という声を何度か上げて喜び、名前は何? と訊かれると、TKくん、と正しく答えていた。それを見たあと、こちらも何かメッセージを送っておいた方が良いだろうなと思って、Viberの画面に言葉を打ちこみはじめた。母親はと言うと、たらこバター味の「じゃがりこ」をひらき、いくつかつまんでこちらにも寄越してくれたあと、出かけていった。風邪薬などを買うために、ドラッグストアに行くということだった。居間に残ったこちらは兄夫婦を祝って労い、TKさんに力添えの礼を述べたメッセージを完成させ、投稿しておくと席を立って皿を洗った。それから洗面所に入って櫛付きドライヤーで頭を撫で、浴室に踏み入って風呂を洗った。腰が痛んだ。
 ポットの湯が少なくなっていたので薬缶から水を注いでおき、空になった薬缶にももう一度水を溜めておくと、下階に戻ってきた。そうしてこの日の日記を早速書き出して、ここまで綴ればちょうど一一時半を迎えている。
 それから日記の読み返しをした。一年前の二月三日の日記には短歌が三つ記されてあり、この頃には一月から拵えはじめた歌たちは総計で一〇〇首を越えている。さすがにそのくらい作れば最初期の、言葉を本当に適当に並べただけの愚作とは違ってきて、意味やテーマのまとまりを多少考えるようになっているようだ。幾許かの統一感が生まれていると思う。

罪と罰を雨に溶かしてから騒ぎ裁くは神が嘆くは人が
花畑に行方不明の君のため恋の構造分析しよう
月の陰で言葉を食べる兎たち地球を夢見て叙事詩を綴る

 続いて、二〇一四年六月一〇日の記事も読んだ。蓮實重彦『魂の唯物論的な擁護のために』(日本文芸社、1994年)に収録された対談中から、中上健次の死についての高橋源一郎の言を引いておこう――「作家によって、詩人によって、その死について触れる言葉が紋切り型にならない人もいるはずです。しかし、中上健次は、その死について触れる人を紋切り型にしてしまう。それが中上健次にとって不幸なのか幸福なのかは分からないけれど。いろんな作家の死を不謹慎にも想像してみたけれども、中上健次の死がいちばん危険です。彼の死は、どんなに真情を持って対しても、それを書いてしまうペンを、金じゃなくて鉛かどうか知らないけれども、紋切り型にしてしまう」(19; 高橋源一郎)。
 日記の読み返しを終えると時刻は一二時一四分、そのまま上階のベランダに移動して日光を浴びながら書見をしたらしい。ジョン・ウィリアムズ東江一紀訳『ストーナー』である。最初のうちは風が頻繁に吹き流れてきてなかなか冷たかったが、じきに収まったようだ。四〇分ほど読んでから部屋に戻ったあと、Twitterを閲覧して(……)その後、二時直前からジョン・ウィリアムズ東江一紀訳『ストーナー』をひらいて読書ノートにメモを取った。作業の途中で重く垂れ下がるような眠気に苛まれて、ヘッドフォンをつけて耳にRobert Glasper『Covered』を流しこみながら、閉ざしたコンピューターの上に突っ伏してしばらく眠った。微睡んでいると途中で母親が戸口にやって来て、もう出かけるらしく何とか言ってから去って行った。それからまた眠って三時二〇分頃に起きたあと、またいくらかノートにメモ書きをして、そうして食事を取りに行った。
 メニューは母親の拵えてくれたシーフード入りのモヤシ炒めである。それに加えてレトルトカレーを食べることにして、カレーのパウチを小鍋に注いだ水に浸けて火に掛け、便所へ行って排泄してから戻ってくると、モヤシ炒めを半分深皿に盛って、電子レンジで一分半温めた。加熱が終わると食卓に移り、炒め物に醤油を掛けて、『ストーナー』を読みながら箸でつまんで口に運ぶ。食い終わると台所に移ってカレーの用意に入り、大皿に米を盛りつけるとパウチを湯から出して鋏で切りひらき、中身を米の上に注ぎかけた。そうしてテーブルに戻り、また本の文字を追いながらカレーライスを咀嚼して、平らげると半分残しておいたモヤシ炒めを全部食ってしまうことに決定した。先ほどと同様に皿に取り出して電子レンジに突っこみ、品が温まるとテーブルに就いて、今度は塩胡椒を振っておいたので醤油は掛けずに胃のなかに取りこんだ。
 食後、食器を洗って片づけたのち、緑茶を持って自室へ戻ると『ストーナー』を読み続けた。一〇〇頁付近まで読んだところで一旦中断しようと思ったのだが、何となくその先の頁を次々とめくってしまい、書かれてある言葉を仔細には読まずに大雑把に物語の展開を追っていき、結局終幕まで至ってしまった。物語の先を知りたいという欲求に引っ張られたのは久しぶりのことかもしれない。時刻は六時前だった。そこからようやく日記に取りかかり、二月一日のことを大雑把に記していった。
 この日のこれ以降のことは記録がなく、特に印象に残っていることもないので割愛するが、一〇時から二時一五分までのあいだ、何と四時間一六分もの長きに渡って一月二九日の日記――「(……)」のメンバーで集まって美術展を鑑賞したりした日――に取り組んでいるということは注記しておきたい。しかも、それだけ時間を掛けてもまだまだ終わっておらず、この翌日を待たなければ完成を見ることはできなかったのだ!