いかなる自己憐憫もまじえずに、まるで他者の人生に好奇心を抱くような気持ちで、彼女がときおり気にしていること。小さいときから彼女が飲んできた錠剤を集めたら、全部で何個になるのだろう? 病気だった時間を全部合わせたらどれほどになるのだろう? まるで人生そのものが彼女の前進を望んでいないかのように、幾度となく彼女は病んだ。彼女が光のさす方向へと歩むのをさえぎろうとする力が、まさに自分自身の体内に待機しているかのように。そのたびに彼女がためらい、行きあぐねていた時間を全部合わせたら、どれほどになるだろう?
(ハン・ガン/斎藤真理子訳『すべての、白いものたちの』河出書房新社、二〇一八年、105; 「糖衣錠」)
一〇時に起床した。夢をいくつか見たはずだが、起きた時点で既にその記憶はほとんど薄れていたのではないか。一つにはTとLINEでやりとりするものがあったようだが、そのメッセージ交換の内容については不明である。もう一つ、覚醒したあと臥位のまま、寝床から窓を通して近所の道を見上げるというものがあった。その道路では工事をしていて、ヘルメットを被った姿の作業員が何人もうろついていたが、現実には勿論、ベッドに寝転んだ姿勢から見える道など存在しない。窓ガラスの向こうに広がっているのは空だけだ。
上階に行くために扉をひらいて廊下に出ると、部屋の前の床には豆粒がいくらか乱雑に散らかっている。昨日の節分で申し訳程度に母親が撒いたものだ。いずれ掃除をして除去しなければならないが、この文章を書いている二月一一日現在、これは未だに放置され、片づけられていない。何しろ日記作成に追われて、掃除をする気すら起きないのだ。それはともかく、この日の朝のことに話を戻すと、こちらが上階に上がった時、母親は仏間で雛人形を出そうとしていた。ジャージに着替えていると、食事は食パンだと言う。「乃が美」というメーカーの高級な食パンを入手したらしい。本当は焼かないで味わうもののようだが、構わずトースターに入れてつまみを捻り、そのほかに小さなチキンフライ及び海老フライを用意してからトイレに行ったと思う。排泄をして戻ってくると焼けたパンにバターを切って乗せ、もう少し加熱を加えた。
それから食卓に就いて食事を始めたが、食パンはしっとりとした柔らかさのなかに甘やかな味わいがあって、確かに美味かった。食後は皿を洗ってから洗面所に入り、左の側頭部の後方から見事に立ち上がり横へと広がっていた髪に整髪剤を吹きかけ、押さえて梳かして整えた。それから風呂を洗ったのだが、その際に腰を曲げても痛くならなかったのは、「胎児のポーズ」の効果があったのだろうか?
緑茶を持って自室に戻り、コンピューターを支度すると、今日は最初に日記の読み返しを行った。一年前の二月四日はTwitterを通じて再会したUくんと新宿で会見している。その翌日、二月五日から三日間は来京したMさんとの連続的な会合で、そのうち五日に立川の喫茶店で話した時だったか――いや、多分そのさらに翌日、六日に荻窪の喫茶店で横に並んで会話した時だ――四日の記述ではUくんの理知性に触れて卑屈な風に綴っていたが、そんなに自分を卑下する必要はないと窘められた覚えがある。読み返してみると確かに、たびたびの自己卑下が鬱陶しいようだったが、ただ、この頃はまだ鬱状態から回復してそれほど間がなかったので、自分の頭の状態や能力、回転や感性の確かさに自信が持てなかったのだろう。四日の会合でUくんはピエール・ルジャンドルの思想について語ってくれていた。彼の修士論文も先日データを貰ったので、早いうちに読みたいところだ。
一年前の日記にはムージルの文章の引用が色々と載せられていたのだが、そのなかでは以下のものが良かった。最後の、呼吸によって発生する意思ではどうにもならない非随意性の身体の動きを妊娠と同列に並べ、なおかつそれを「恥ずかしめ」と言ってみせる比喩の強烈さは凄い。
このベンチに坐ったひとは、坐りこんで動かなかった。もはや口はひらかなかった。手足はそれぞれ別の眠りをむさぼったが、それはまるでぴったりとよりそってばたりと倒れこみ、それと同時に死ぬほどの疲労をおぼえて、たがいの存在を忘れてしまった男たちのようだった。呼吸でさえよそよそしくなった。自然界のひとつの出来事になった。いや「自然界の呼吸」になったのではない。そうではなくて、自分が呼吸をしていることに気づいたとき、それ――意志とは無関係なこの規則正しい胸の動き!――は、妊娠と同じように、無力な人間がなにか空色の途方もない大気によって恥ずかしめを受ける出来事になった。
(斎藤松三郎・圓子修平訳『ムージル著作集 第八巻 熱狂家たち/生前の遺稿』松籟社、一九九六年、26; 『生前の遺稿』; 「Ⅰ 形象」; 「ネズミ」)
続いて二〇一四年六月一一日の記事も読み、ブログに投稿しておいたあと、一月二九日の日記を書きはじめた。その途中のどこかのタイミングでTwitterを覗くと、こちらが昨晩流した「ハマスホイとデンマーク絵画」展の感想の文章が片っ端から、おそらくすべて、O.Yという人によってリツイートされていた。全部で四〇ツイートくらいあったのではないか。デンマーク周辺の文学を研究しているらしいこの人は確か、数年前にSYさんというイラストレーターの女性の家で一度だけ場を共にしたことがあった相手だと思う。SYさんという人とは読書メーターを通じて知り合い、会合に誘われて国立の何とか言う店に行ったり、小金井の公園の花見に出向いたり、ほかの人々とともに何度か顔を合わせる機会を持ったのだった。二〇一四年のことだ。O氏と場を共にした時には、イサク・ディネセンの話を少しだけ聞いたはずだ。彼のアカウントのプロフィール欄を見ると、最近刊行が始まった幻戯書房の「ルリユール叢書」の本などを訳しているようで、立派な仕事を担っていて凄いものだなと思った。
こちらはこちらの仕事である日記に邁進し、一二時半まで文章を作成したあとに、中村佳穂『AINOU』とともに運動に入った。今日は「胎児のポーズ」から始めた。このポーズは仰向けになって脚を胸に引き寄せて丸まるだけのものなので、実に楽で簡単である。背を反らす類のポーズは反り腰を助長してしまうかもしれないというわけで、なるべくやらないことに決め、休憩を挟みながら「舟のポーズ」や「板のポーズ」を行って肌に汗を滲ませ、熱気を籠らせた。最後に腰上げ、すなわちブリッジの姿勢を取った。これも背を反らす類の体勢の一つではあろうが、腰に良いような情報もあったので一応やってみたのだ。
ベランダで書見をしようかと思っていたところが天気が思いのほかに良くならず、空は雲で白濁しており陽の感触が乏しいので取りやめて、日記に精を出した。午後二時の時点で一旦洗濯物を入れに行ったものの、すぐに戻ってきて打鍵を続けた。一月二九日の記事は、どうも三五〇〇〇字くらいに到達しそうだった。引用もほとんどないのにそれほどの字数を数えるというのは、過去最長かもしれない。やはり展覧会の感想が一つには分量を占めたようだ。焦らず着実に一文ずつ進めているうちに、あっという間に三時半を迎え、この日はここまでで既に三時間弱ものあいだ文を作ったことになる。しかしそれでもまだ二九日の記事は終わらなかった。
食事へ行った。感謝するべきことに、母親が米を炊くとともに輪切りにした大根のソテーや卵の汁物を作っておいてくれた。そのほか余った米でおにぎりが一つ拵えられてあったところ、何故だかわからないがこのおにぎりには揚げ玉が散らされて斑模様になっていた。あまり美味そうには見えない。それを温めてスープも火に掛けると、ジョン・ウィリアムズ/東江一紀訳『ストーナー』を持ってきて、レトルトカレーも食うことにして小鍋に溜めた水にパウチを入れて焜炉に乗せた。そうして卓に就いて食事を平らげると、沸騰した鍋はまだ放置しておき、今度は小さな豆腐を冷蔵庫から取り出して電子レンジで加熱した。その合間は本を読んで待ち、豆腐に熱が通ると鰹節と麺つゆを掛けて食い、そうしてようやくカレーを鍋から取って大皿の米に掛けて用意した。黒い豆など穀物のざらざらと混ざった米をカレールーと絡めて口に運ぶ。
その後皿を洗い、父親のズボンとハンカチにさっとアイロンを掛けたあと、緑茶を用意して自室に帰還し、薄緑色の液体を啜りながら二〇分でこの日のことをメモに取った。二九日の分を書き上げてしまいたかったが、出勤までに終わらないだろうことは理解していた。それでも一〇分強、二九日の記事を書き足し、中断してから歯を磨いたそのあいだは『ストーナー』を読んだ。実に端正で品の良い小説という印象の作品である。それを一二分のあいだ、口内を掃除しながら読み進めたあと、洗面所に行って口を濯ぎ、すぐ隣の便所に入ると軽く排便した。便器に座って小便も絞り出しながら、「(……)」のメンバー、TやTDやTTのことを思った。彼らは高校の一年次からの同級生だから、初めて邂逅し関係を持ってからもう一五年が経ったのだと思い当たったのだ。途中いくらか離れていた時期はあり、頻繁に集まるようになったのは「(……)」が発足した昨年からではあるものの、それでも断続的に、人生の半分に上る年月のあいだ、彼らと道行きを共にしてきたことになる。もうそれほどの時間が流れたのかと、これにはさすがに静かな愕然とでも言うべき情を得ずにはいられず、ほんのりとした感傷的な哀しみを覚えた。
それから部屋に戻って、中村佳穂『AINOU』とともに服を着替えた。音楽のなかでゆっくりと身体を動かし、ジャージを脱いで畳んだりワイシャツやスラックスを身に着けたりするあいだ、その鷹揚な動きによって肉体や感覚の調子を見てみたのだが、心身は静かに落着いており、そうでありながらわりあいに意気は満ちているようで、統一的にまとまっていて悪くない様子だった。ジャケットまで着るとコートも羽織って、この部分まで僅か六分間、メモを取った。そうしてもう出勤である。
上階に行ってカーテンを閉める際に見た空は曇天ではあるものの、空気にはまだ淡い明るみが残っていた。居間の三方の幕を閉ざすと洗面所に行き、泡石鹸の助けを借りて手を洗い、そうして玄関に出て姿見に自らの肉体を横から映し、腰の反り具合を確認した。戸口をくぐると数段の短い階段を実にゆっくりと下り、空を見上げつつポストに寄った。遥かな天空には雲が蔓延っているが、空間を隈なく覆い尽くし、我が物顔で占領するというほどではない。夕刊と古新聞を入れておく紙袋をポストから取ると室内に戻り、ストールを巻かなくてはやはり寒かったので鏡の前で首に布を巻きつけ、そうして扉の鍵を閉めて出発した。道の向こうから高年の男性が歩いてくる。通りに出て彼が向かうのと同じ方向、すなわち西へと歩き出すとまもなく抜かされる。フードつきのジャンパーを羽織ったその姿は、道の端の蓋を閉ざされた側溝の上を過たず、靴先を左右にちょっと広げながら意気軒昂な様子でせかせかと歩いていく。こちらはそれよりもよほどゆっくりに、その後ろ姿を見ながら進んでいき、すると道端の庭木から鳥の微細な、連打的な囀りが立ったが、あるいはあれは囀りではなくて地鳴きなのかもしれない。時間的余裕はあったので急がず緩い足取りで行って公営住宅前まで来ると、坂から人が二人下りて出てくる。遠目にどちらも知らない人と判断して、小公園の桜の裸木に蔦が絡みついて幹の上に緑の葉っぱが寄生しているのを眺めていると、こんにちはと掛けられて、誰かと目を振ればKさんの奥さんだったので、ああ、どうも、こんにちはと会釈を返し、頭をちょっと下げて過ぎた。坂道に入る前に直上に視線を放てば、青い空に薄切りの蒲鉾のような半月が浮かんでいる。
坂を上りながら頭のなかで、Kさんと会ったことを反芻する――と言うか、脳内で既に日記の一部を書き綴っているような感じなのだが、その際に相手の呼称が「Kさんの奥さん」となっていて、これは正当なのだろうかと疑問を感じるのだった。単に「Kさん」と言った場合には、それはこちらの意識では基本的に旦那さんのことを指すわけである。女性の配偶者を指示するためには、「Kさんの奥さん」と言わなければならない。ここにやはり、日本という文化的・地理的領域において社会的に浸透した女性の従属的な地位及びそれを反映したこちらの内面的イデオロギーが表れているような気がする。しかし、だとしたら適切な呼び方はどうなるのか? 「K夫人」と言っても同じことだろう。「K婦人」の方がまだましかもしれないが、日常的にそんな言い方はしないから堅苦しく、違和感がある。少なくとも日本語においてはやはり、女性の配偶者のことを一義的に、男性から独立して指し示すような呼び方が存在しないのだろうか? 「Kさんの奥さん」が感覚としては一番しっくり来ると言えばそうなのだが、「奥さん」にしても語源的な意味合いとしてどうなのかということは気になる。「妻」はまだニュートラルなのだろうか――しかし、「Kさんの妻」とは呼びにくい。そんな言葉狩りのようなことをしなくても良いのかもしれないが、しかしこちらは言葉に生きる人間である。
駅に着き、階段通路を上りながら空を見上げると、薄青さのなかに畝のような筋雲が並んでいて、指が人間よりも多く何本もある巨大で畸形的な一つの手のひらのようでもあり、あるいは手のひらを二つ、手指が互い違いになるように組み合わせた調和と友愛の形象のようでもある。階段を、今度は下りながら駅前の大気に目をやれば、午後五時過ぎであっても空間の色は薄く、青さはまだ溶け出しておらず、明らかに季節は推移している。無人のホームに入ってベンチに座り、息をついているとあとから何人かやって来た。コートのボタンを一つ外してその隙間に右手を突っこみ、胸もとから手帳を取り出してメモ書きを始め、電車が来たところで乗りこむと、向かい側にはサラリーマンらしき男女が四人ほど並んで座っていた。会話から推して、どうもあちらも塾講師か何かでないかという気がしたのだが、皆まだよほど若かったので、あるいは大学生かもしれない。手帳に小さな文字を書き続け、青梅に着いてもしばらく車内に留まり、反対側の線路の電車が行ってしまったのを機にメモ書きを切りとして降り、ホームを歩いた。心身は自ずと落着いており動作は鷹揚に泰然と成され、ホーム上から見える空気は宙空から色が湧き出て広がったように黄昏の青さに浸りはじめているが、そのなかでもしかし、小学校の校舎の壁の白さと、屋根の赤煉瓦めいた色合いはまだまだ視認できた。
今日の労働は、前半の一コマで新人講師のロールプレイングの相手を担当、もう一コマは授業だった。授業の方は(……)くんと(……)さんが相手で、どちらも社会である。奥のスペースに行って荷物を仕舞ってから授業記録を確認すると当然どちらも過去問で、(……)くんは平成三一年度、すなわち最新のものをやり、(……)さんは平成三〇年度の問題を扱う予定だった。
じきにロールプレイングの相手である(……)先生がやって来る。ロッカーに荷物を仕舞っているところに近づいて、よろしくお願いしますと挨拶をしたあと、室長から受け取ったマニュアルを引き渡した。授業時間の開始まではそれを読んでいてもらうことにした――こちらも後半の授業のために過去問の確認がしたかったのだ。その後、研修を始めたのだが、何度も教室内を行ったり来たりして段取りの悪い教え方になってしまったので、その点は謝り、最後にも、まとまりのない教え方ですみませんと言っておいた。授業の進め方に入ってからはこちらが生徒役を担当しつつ流れを確認した。室長によれば(……)先生はほかの塾でも働いたことがあり、なおかつ学校外の学習支援施設のようなところでも教えたことがあるようで、あるいは今も教えているのかもしれないが、さらには学校の方にも招かれて授業をやったこともあるとかいう話だった。それで、ほかの現場との流れやシステムの違いが気になるようで色々と質問を差し挟んできたので、逐一それに答えながら進めていった。新人を前にした対応の仕方ではないかもしれないが、相手はもう、何歳だか知らないけれど結構な歳だし、講師としての仕事もやってきていて勉強の教え方自体は大丈夫だろうと判断して、マニュアルの基本点を押さえると言うよりは、こちらは個人的にはこのように心掛けていますというようなことを述べ、マニュアルに囚われず生徒のためになることを考えて業務に取り組んでほしいと暗に促した。
それから授業に取り組んだ。今日は二人相手で余裕があると思われたので、二人とも四〇分で実施してもらった。しかし、(……)さんはともかく、(……)くんの方は二、三問しか確認できなかったので、やはり三〇分でやった方が良かったかもしれない――それはそれで(……)さんとの兼ね合いがあって、要は解説の時間がぶつかってしまうので、難しいのだが。二人が過去問を解くのを待つあいだの時間は、平成二九年度の社会の問題を確認していた。それから答え合わせと解説に入ったのだが、(……)さんは江戸時代の始まりがいつ頃か、ということすら覚えていない――まあ結構皆、知らないものだが。一六〇〇年代に入ったら江戸時代という認識で良いですと伝え、同時に一八六七年という年号を押さえるために「一夜むなしく大政奉還」の語呂合わせも教えて、江戸時代の終わりすなわち明治時代の始まりも何とか頭に入れてほしいと要求した。(……)さんはそれらの教授に基づいてノートを綺麗にまとめてくれ、(……)くんは事項を三つほど箇条書きにしてくれたが、あまり有効なことは教えられなかったような気がする。二人とも、点数としてはちょうど半分くらいだ。
授業後、室長といくらか話を交わし、(……)先生については多分問題ないのではないか、意欲はありそうだったと伝える。あちらからは、中三から高校に進んでも通塾を継続する生徒は一〇人くらいに留まるのではないかという情報がもたらされた。皆、寝返っていく、裏切っていく、と言うので笑う。ただこちらとしては一〇人いればかなりのものだという感覚で、と言うのは昔は毎年、せいぜい二、三人しか継続はしなかったからだ
(……)先生が奥のスペースにいたので、相手がトイレの横の水場で手を洗ったあとに名を呼び、ハマスホイっていう画家、ご存知ですか、と出し抜けに声を掛けた。この人は芸術系の学校に行って絵を描いていたらしいので知っているかと思ったのだが、しかし聞いたことがなかったようだ。――僕、このあいだ見に行ってきたんですよ。――どこですか? ――上野の東京都美術館で……。――ああ……昔はあの辺り、行ったけれど、最近はもう全然……随分行ってないですね……どういう画家なんですか? ――多分、マイナーなんですよね、国もデンマークですし(と笑う)。室内画が多分メインで、質感がとても柔らかくて独特で、思いのほかに良かったです。「北欧のフェルメール」とか呼ばれているらしいんですけど、僕はそういうことはよくわからないんで……行く前は正直、あまり期待していなくて、まあ、地味な(と、ここで破顔する)、地味な画家だろうと思っていたんですよ。でも実際見てみたら、かなり良かったですね。そう語ると、(……)先生は、本物はやっぱり違いますよねえと受けた。
元々やっておられたのは、絵なんですか? と問うと、そうだと肯定が返る。イタリアにも留学して、油絵などもやったけれど、専攻としては日本画だったと言う。やはり水彩が何だかやりやすいと言うか、性に合ってて、というようなことを彼女は言い、日本人には合いますからね、と続けた。――何て言うんですかね……やっぱり、肉ばっかり食べてる人種とは違うんですよね、と笑うのでこちらも笑みで受けると、――私が学生だった頃は、美術っていうと画家を目指すくらいしか、道が……。――選択肢が。――そう、選択肢がなくて、でも今は、平面だけじゃなくて立体、3Dの方にも目を広げれば、結構取ってくれる企業、あるみたいですね。車の会社なんかでも、まずは人の手でモデルを作らなければならないから。そう言ってから彼女は、でも、ここの塾にいる子は皆、やっぱり絵が描きたいんですよね、と漏らした。絵が好きだから、と言うのだけれど、立体の方にも視野を広げれば、色々と道はあるぞ、と思う、みたいなことを言っていた。
今は絵はお描きにならないんですか、と問いかけると(……)先生は大きく笑って表情を動かし、まるで恐縮するかのように、いや、もう全然……と首を傾けた。それから出口の方に一緒に向かうあいだ、F先生の方は今は何をやられているんですか、確か物書きとか……と問いが返ったので、そうですね、と肯定する。――読み書きが好きなもので……まあ、毎日それをやるために、フリーターという……身分に、とそう返して、顔を笑みでいっぱいにし、すると(……)先生は、追究されていて、みたいなことを静かに呟く。先ほどの恐縮したような破顔やこうした言葉を口にした時の雰囲気から推して、あるいは彼女は、芸術の道を半ばで諦めてしまったということに――そもそもそれ以前に、画家として生計を立てたかったのかどうか、何が目標だったのか、その辺りからしてまだ不明だが――、微かな劣等感もしくは負い目のようなものを感じているのかもしれない。こちらは、未だに親元に置いていただいて、と暢気にへらへら笑い、だらだらとした生き方をしておりますとまとめて落とした。そう話しながら出口の方に歩き、(……)先生も交えて室長と継続の生徒についてふたたびちょっと話したあと、退勤した。職場を出たところで住まいについて話を交わすと、(……)先生は(……)の方だと言う。二〇分くらい歩いてきているらしい。――僕も、秋とかは歩くんですけどねえ、最近はもう寒いので、電車ですね。それから礼を交わして、お疲れさまですと言い合って別れ、こちらは駅に入った。
奥多摩行きの発車は間近だった。ホームに上がると接続電車が一番線に到着し、乗換えの客が降りてくるなかでこちらも最後尾から奥多摩行きに乗り、そうして通路を歩いて車両を一つ移り、その一番先頭側の扉際に就いた。ガラスに映りこむ自分の顔を眺めながら最寄り駅まで待ち、降りるとほかの乗客に抜かされながらゆっくり歩いて、駅舎を抜けると横断歩道を渡った。何故かやたらと暑かった。教室で働いているあいだから服の内の肉体が熱を帯びて、汗ばんでいたくらいだ。それで喉が渇いているような気がしたので、自販機に寄ってコカコーラ・ゼロを購入し、ペットボトルをバッグに入れて東に向かった。街道沿いを歩き、木の間の坂道に折れて下りながら、いわゆる芸術の道とか、挫折とか、プロになるとかそういったことについて散漫に思いを巡らせるなかで、リルケの言葉を思い出した。
あなたは、ご自分の詩がよくできているかどうかとおたずねになる。この私におたずねになる。あなたはその前にほかの人たちにもおたずねになった。さらにいろいろな雑誌に作品をお送りになる。ご自分の詩をほかの人の詩と比較なさる。いくつかの編集部があなたの詩を拒否すると、あなたは不安をお感じになる。さてそこで、(助言をせよとのことなので)あえて申し上げますが、このようなことはすべておやめになるようお勧めします。あなたは目を外へ向けていますが、それこそなによりもあなたが今やってはいけないことなのです。誰もあなたを指導したり支援したりすることはできません。手段は一つしかありません。ご自分の内部へ入ってお行きなさい。あなたがどうしても書かずにはいられない原因を探りなさい。その原因があなたの心の最も奥深いところに根を張っているかどうかをお験しなさい。書くことを許されなくなったとしたら、死なずにはいられないかどうか、ご自分に正直に言ってごらんなさい。とりわけ申し上げたいのは、あなたの夜の一番静かな時間に、自分は書かねばならないかと、ご自分に向かって問うてみることです。深部にひそむ一つの答えを求めて、ご自分の心の中を掘り下げてみてください。その答えが肯定的であるなら、あなたがこの真剣な問いに対して力強く簡潔な「書かずにはいられない」とのことばで応じるだけのいわれをもっているなら、それならばあなたはそのやむにやまれぬ気持ちにしたがってご自分の人生を築いていかれたらよろしい。あなたの人生は、どんなにつまらない、とるに足らない時間であっても、すべてその内なる促しのしるしとあかしにならなくてはいけません。(……)
(ライナー・マリア・リルケ/神品芳夫編訳『リルケ詩集』新・世界現代詩文庫、土曜美術社出版販売、2009年、159; 「若き詩人への手紙」より)
結局これに尽きるのではないかと思う。才能があるかとか、素晴らしい作品を作れるかとか、いわゆるプロになれるかとか、自分の営みで金を稼げるかとか、そういう事々に関連した問いはすべて二の次ではないだろうか。自分の場合だったら、ただ毎日読み書きをせずとも生きていけるのか、毎日そのことをやらずとも生きることができるかどうか、その点が唯一の本質だということだ。そしてこちらのなかでは、毎日読み書きの時間を取らない生というのは想定されていない。そのことが第一の前提条件、言わば所与として据えられている。ただそれだけの、単純な話だ。
帰宅すると、こちらが前日に兄夫婦に送っておいたメッセージに対して返信が帰ってきたと言うので見せてもらうと、Mちゃんの動画が送られてきており、その中身は、そろそろ三歳も近いこの姪が何か食べながら、ちょっとぞんざいでふてぶてしいような感じで、たんじょうび、おめでとお、と口にするものだったので、微笑ましく笑った。葬儀の返礼品カタログで頼んだシェーバーも届いたと言う。こちらは洗面所に入ってよく手を洗い、そうして下階に帰って服を取り替えると食事に上がった。料理は大根のソテーや、こじんまりとしたチキンフライに海老フライ、ほか、ただ茹でただけであまり絞ってもいないような青梗菜や、細切りの大根に、玉ねぎと卵の入ったスープである。夕刊を読みながらゆっくりと食事を取った。新型肺炎の感染者は、中国内では二万人を越えたと言う。その他、七〇歳以上の雇用確保のために企業に努力義務を課す方針だという記事や、展覧会の情報を見分した。
この日のそれ以降の記憶はなく、記録も取られていないので割愛するが、午前一時前に至って一月二九日の記事をようやく完成させられたことは付言しておく。かなり力の入った長文記事になったと評価して良いのではないだろうか。
・作文
11:55 - 12:29 = 34分(29日)
13:14 - 14:05 = 51分(29日)
14:08 - 15:33 = 1時間25分(29日)
16:04 - 16:23 = 19分(29日)
16:24 - 16:35 = 11分(29日)
16:59 - 17:05 = 6分(4日)
22:36 - 22:59 = 23分(29日)
23:49 - 24:57 = 1時間8分(29日)
25:18 - 26:04 = 46分(30日)
計: 3時間43分
・読書
11:08 - 11:54 = 46分(日記)
16:35 - 16:47 = 12分(ウィリアムズ)
26:09 - 27:13 = 1時間4分(ウィリアムズ; メモ)
計: 2時間2分
- 2019/2/4, Mon.
- 2014/6/11, Wed.
- ジョン・ウィリアムズ/東江一紀訳『ストーナー』: 108 - 120; メモ: 56 - 82
・睡眠
2:20 - 10:00 = 7時間40分
・音楽
- 中村佳穂『AINOU』
- Mr. Big『Get Over It』