2020/2/7, Fri.

 おまけに間断もなく鉛のような酔に閉されている私の眼に、華麗な花の合間からちらちらと映るうつつであるが故に、無何有[むかう]の風情が突っぴょう子もなく、嫋娜[たおや]かに感ぜられるのであろうが、藤の花のようにすらりと丈の伸びたテルヨが、いつもうつむき加減でひらひらとする両[ふた]つの振袖を軽やかに胸の上に合せて土橋の上をゆききする姿が真に幽かな蕭寥[しょうりょう]たる一幅の絵巻ものと見えた。――もうこの頃はどちらもすっかり言葉に慣れてしまって、睨み合い端坐したまま、
 「テルヨさんが居なかったら僕は一日だってこんなところに居られるものか、馬鹿馬鹿しい!」
 「もっと胸を張っていなければ駄目ですよ、しっかりと腕をあげて、そして、もうせんのように落ついて頤を撫でて、――それが下手になったら片なしじゃないの……」
 などと囁き合うのであったが、どうしてもそれらの言葉が、あの向方の藤棚の下をゆききする冷々と美しい娘の口から吐かれるものとは感ぜられぬのであった。その姿は私などの言葉は断乎として届かぬ遥かなもののまぼろしとうかがえるのみだった。私の慣れ慣れしい言葉は、ただ彼女の口先から洩れる数々の言葉とのみ慣れ親しんでどこかの空をさまようているだけで、あの姿に向っておくりつたえたものとは、私には考えられなかった。
 (牧野信一『ゼーロン・淡雪 他十一篇』岩波文庫、一九九〇年、168~169; 「天狗洞食客記」)


 今日も今日とて、正午を回るまで惰眠の淵に沈みこんで溺死していた。目はたびたびひらいているのだが、身体を持ち上げる力を身に招きこむまでにどうしても長い時間が掛かってしまうのだ。一〇時頃には誰か客人が訪れたようで、人がばたばたと動く音や、母親の甲高いよそ行きの声が上階から聞こえてきた。客はおそらく二人、高年の夫婦ではないかと思われた。最初は女性の気配しか感じ取れず、とすると近所のTさんかと推測したのだが、男性もいるとなるとあるいはK.Hさんと奥さんではないか。いずれにせよ今日が祖母の命日なのでやって来たものだろう。母親はその応対をしなければならないことに辟易していたに違いない。
 一二時一〇分を過ぎてどうにか身体を引き起こすと、コンピューターに寄ってスイッチを押し、肩をぐるぐる回しながら起動を待って、各種ソフトのアイコンをクリックしておくとベッドに戻って「胎児のポーズ」を取った。ほか、「猫のポーズ」を行ったり、立位前屈を行ったりしたあと、コンピューターでTwitterやLINEやslackを覗いておき、それからダウンジャケットを持って階を上がった。母親は既に仕事に出ていた。ジャージに着替えると台所の冷蔵庫から大根や人参の煮物を取り出し、葉っぱの象形を模した皿に乗ったものをそのまま電子レンジに突っこみ、そのほか米と汁物を用意した。三品を卓に並べて椅子に腰を下ろすと、大根や豚肉をおかずにしながら白米を頬張り、一方で新聞に目を通した。不発に終わったドナルド・トランプの弾劾裁判についての報や、新型肺炎関連の続報を眺める。国際面には、インドネシアチュニジアが米国の中東和平案を批判する表明を安保理の各国に配布したとの知らせがあった。社会面まで行くと、北朝鮮による拉致被害者の一人の母親である有本嘉代子という人が死去したと伝えられていた。
 そうした情報を読みながら食事を取ると、台所に移って食器を片づけ、背後に振り向き洗面所に入ってドライヤーの櫛で髪を梳かしたあとに風呂を洗った。居間の電気ポットの湯は尽きかけていたので、薬缶に水を汲んで補充しておき、下階に帰るとLINEに来ていたTDのメッセージ――昨晩、先の「ハマスホイとデンマーク絵画」展で気になった作品はあったかと訊いていたのだ――に答える返信を綴った。それから緑茶を用意しに行き、台所で古い茶葉を始末しながら、外の空気の色合いやベランダから射しこむ光の明るみに目を寄せてみると、天気は明瞭に晴れており光の感触は確かなのだが、しかしどうもいくらか雲に希釈化されているらしいなという淡さが窺えた。実際、茶を用意しながら南窓に寄って空を見上げてみると、青さの上にパウダーのようなかそけさの雲が敷かれて組成がまろやかになっている。それで今日はあまり時間もないし、医者や郵便局に出かけるつもりでもあるし、日光浴は良いかと落として茶を持って自室に帰った。そうして温かな飲み物を啜りながら日記の読み返しをする。一年前はMさんの来京三日目、この日もHさんを交えて昭和記念公園を歩いたり立川LUMINEで服を眺めたりしている。この二日前にお会いしたSさんがこちらのBill Evans Trioに対する執着を受けてブログに書いた印象が、こちらがこの前日に綴った内容とほとんどまったく同趣旨だったという出来事が当時あって驚き笑ったものだが、この「ユニゾン」はやはり面白く、素敵なことだ。
 その後、歯を磨きながら二〇一四年六月一四日の、柴崎友香を中途半端に真似したような雰囲気の日記も読み、読了するとブログに投稿しておいてから今日の日記を書きはじめた。ここまで綴ると二時一一分である。
 それから洗濯物を取りこみに行った。階段を上がってベランダに続くガラス戸を開けると、陽射しが眩しく生き生きと顔を愛撫してくる。そのなかで吊るされたものを室内に入れ、タオルだけソファの背の上に整理しながら畳むと、洗面所の籠のなかに運んでおき、そうして下階に戻ってコンピューター前に就き、六日のことを短く記録すると一日の記事に移行して、文を一つ一つ重ねていき、三時を過ぎると作文を中断して運動に入った。立位前屈を取り入れ、脚を閉じた姿勢のみならず開脚のパターンも試してみたが、腰周りや脚の筋が伸びる感じがあってなかなか良さそうだった。あとはやはり「舟のポーズ」と「板のポーズ」で体幹を鍛えていくべきなのだろう。the pillows『Once upon a time in the pillows』の流れるなかで筋肉を動かし身体を温めると、次いで着替えである。バルカラーコートは翌日に取っておくことにして、アウターとしてはモスグリーンのモッズコートを羽織るつもりだった。ズボンは素材に毛の混ざった褐色のもので、上は紺色と灰色を組み合わせた地味なシャツである。コートも身につけるとふたたび打鍵し、三時五〇分まで一日のことを綴ったあと、バッグに荷物を集めた。三冊入れた本のうち二冊はMさんに送るもの、一冊は読みさしのジョン・ウィリアムズ東江一紀訳『ストーナー』だ――もっとも、医者の待ち時間では読書をせずにメモを取るつもりでいたが。三冊の書籍によっていくらか不格好に膨らんだバッグを持って上階に行くと時刻は四時、まだまだ明るいが今日は母親も帰りが遅いのでもうカーテンを閉めてしまい、食卓灯も点けておいた。そうしてトイレで放尿してから洗面所で手を洗い、出発である。
 ポストを確認したが、銀色の箱のなかには何も入っていなかった。扉に戻って鍵を閉め、道に出ると空気はやはり冷たく、固い感触でかきんと張っている。前の袷を閉ざしてはいたものの、モッズコートの生地の厚さでは防護が弱く、頼りないようだった。坂道に入ると前から中学生が三人やって来て、見ればそのなかに(……)がいたので、おう、と挨拶をした。辞めちゃったの、と塾を退会したことに触れると肯定が返る。大丈夫なのと訊くと、大丈夫じゃないですと、ふざける様子もさほど深刻な様子もなしに言う。それからしばし沈黙で向かい合い、何を意味するのかよくわからない頷きを交わしたあと、まあ頑張ってください、とこちらの知らない友人たちの方にも目を向けながら言葉を送り、それでは、と別れた。
 坂を上りながら右方の遠くの川に視線を飛ばしてみると、しばらく見ていなかったうちに水面[みなも]の緑色が以前と少々質感を変えたような印象を得たが、色が濃くなったのかあるいはまろやかさが減じたのか、変化の内実はわからなかった。坂道の出口付近でまた黒い学ランの一団と遭遇し、そのなかには今度は(……)の方がいたので、こんにちはと挨拶を向けた。(……)くんと(……)くんもまもなく姿を現し、そのほかに知らない仲間が三人連れ立っていた。辞めちゃったの、と(……)にも掛けると、彼は、あ、そうなんすよ、と言って少々畏まるような様子を見せ、ちょっとさみしかったんですけど、みたいなことをもごもご言う。大丈夫なの、と、(……)にも掛けたのと同じ言葉を(……)にも送る。――人生、大丈夫なの。すると、人生の心配されてる、と仲間たちが陽気な笑い声を立てた。それから、まあ、皆さん、あとちょっとなんで、頑張ってくださいと周りの仲間たちも含めておざなりな応援の言葉を送っておき、通り過ぎていく中学生らにさよならと挨拶して坂を抜けた。
 TRさんの宅の横の斜面に生えた蠟梅の花の、黄色を無数に丸めた控えめな姿が陽射しを受けてほの甘い和菓子のようだった。街道前の交差地点でガードレールの向こうに立った紅梅も咲いており、これも砂糖を固めて作った菓子のようなピンク色を漂わせていたが、その灯しを見上げながら、梅ってこんな花の形だったかと、何だか不思議な心になった。表へ出るとすぐに通りを北に渡って東へ向かうが、ここでは陽射しが後ろから寄って微温的な柔らかさで身を包んでくれる。空には海面の揺動のように、波によって生み出された水泡の群れのように、雪粉的な白さがふわりと淡く乗せられて、そのなかを飛行機雲がまっすぐに、東から西へ、すなわち下から上へ、こちらの頭上を越えて背後の方角へと貫いていく。月はいびつな形で低みに印されていたものの、群れからはぐれた雲の端切れの一片と区別がつかない希薄さだった。
 街道を流れていく自動車の固く滑らかな表面に光が反射して、それがさらにこちらから見て対岸の、北向きの家壁の上に反映し、車がその前を通り過ぎるあいだだけ、熱い湯のなかに投入された溶き卵めいてひらひらとした不定形の幽かな明るみが家屋の顔をほんのり彩る。裏通りに入る頃には飛行機雲がもう一つ、北寄りの空で右から左に掛けて斜めにまっすぐ発生していた。それは空の表面に生まれた傷のようでもあり、ナイフですっと裂かれた切れ目のようでもあるが、しかしその傷口から吹き出すものは何もなく、悠久の空の完璧な青い再生力によって切れ目はすぐに修復され、消えてしまうのだ。裏路地に入ってもう一度見上げた時にはチョークで引かれた線のように見えたその軌跡は、歩いているうちに海に呑まれるかのように青の内に沈んで消えていき、辛うじて残った部分もほつれて広がり、毛糸を編み合わせて作った目の粗い帯のごとくになった。
 裏道を歩いていると、前方から小型犬を連れた老婦人が現れた。すれ違う際、犬は駐車場のフェンスの脇に立ち止まり、そこからは土手の上の線路がよく見えるのだが、老女は犬の名を何とか呼んだかと思うと、駄目よ、四二分まで来ないんだって、来ないんだって、と言葉を掛けて、リードを引っ張り犬を歩き出させていた。その様子を見ながら、ちょっとした驚きを得た――犬が電車の走る光景を見たがって、歩みを止めて待つ、という発想がこちらのなかになかったからである。よく父母が赤子やまだ幼い我が子を線路沿いに連れて、電車がごとごと通り過ぎていくさまを見せては喜ばせているものだが、そうした人間の文化的習慣が犬にも適用できると考えたことがなかったのだ。それで道を進みながら、犬や猫、あるいは例えば馬などという動物たちは、それらを飼って生活を共にしたことのないこちらが思っているよりも、もっとずっと〈人間的〉なのかもしれないなと思った。飼い主にとっては、それは体験的に自明で当然のことなのかもしれないが。無論、動物存在を無闇に〈人間化〉すること――彼ら(という代名詞を用いることからして既に〈人間化〉であるわけだが)を我々の方に引き寄せ、そこに人間的意味体系の秩序を投影すること――は、それはそれで動物の動物たる所以を見失わせる危険が大いにあるはずだが、こちらが思っているよりも、犬猫などと人間のあいだで共有可能な領域が多いということにも、おそらく一抹の真実はあるのだろう。
 そんなことを考え巡らせながら路地を進んでいると、自動車整備工場のラジオからは洋楽のダンスミュージックらしきものが流れ出しており、その前まで来たところで表通りから繋がった細道には茶色い小型犬を連れた女性が現れて、犬は家の塀の陰に入ってぐずぐずし、女性を煩わせていた。一軒の横に生えた背の高い白木蓮を過ぎた辺りで、路傍の樹から奇妙な鳴き方の鳥の声が立った。聞く間に鳥は飛び立って、別の家の庭木に移りながら賑やかに、多彩な音色で鳴き続ける。画眉鳥というやつだろうか? 姿を見たかったが、塀まで来ても頭上高く伸びる垣根の茂みに隠れて声の主は見えず、口笛を巧みに吹きまくるような鳴きが降ってくるのみである。過ぎると今度は低いところで泡立つような、水をごぽごぽ吹き鳴らすような音が湧いて、阿部薫あたりのサックスのフリーインプロヴィゼーションを思わせた。
 青梅坂から表に出た。対岸の釣具屋の店名を象ったレリーフの銀色の表面が金属的に光を跳ね返して街道の光景を映しこみ、その近くでは道端の広告旗が大気の流れに波打ちうねっている――そうした知覚情報の諸々を一つ一つ受容しながら、もっと来い、と思った。もっと俺のなかに入ってこい、と。すべての事物が、意味が、世界の断片が、限界までこちらのなかに集い、殺到し、充満し、ついに内破してしまうくらいに。
 郵便局に入ってカウンターの向こうにこんにちはと挨拶を向けると、女性職員は何故か虚を突かれたように寸刻遅れて、ちは、と小さく呟き、本を、送りたいんですが、と申し出るあいだも、何だか不思議そうな顔をしているのだった。バッグから書籍を取り出して、こちらの二冊ですね、と差し向けると、同じところにですかと来るので肯定を返す。すると職員は、ちょっと失礼しますと本を手に取り、定規で――定規と言うか、長方形の隙間が空いた四角い道具で、その隙間に本を通して厚みが規定以下かどうかを確かめるのだ――厚さを測る。Mさんも利用したレターパックライトというサービスを使えば一番安く済むと言うが、これで大丈夫そうですねと職員は落着くので、その言に従うことにした。それで先に三七〇円を会計して、それから送り主と宛先を記入する段に入るところ、もう一人、高齢の女性客が現れていたので、あちらで書いた方がよろしいですねと言いながらカウンターを離れ、壁際の別の台に就き、手帳を置いて頁をひらき、メモしておいたMさんの住所を参照して、足を踏み替え姿勢と重心を変えながら包みの表面に情報を記入した。それでカウンターに持っていくと手早い確認ののち、これでもう荷物を入れて構いませんと言われたので、本を二冊並べて収め、包みの長い方の縁を畳んで折り目をつけておいてから、接着テープを剝がして封をした。そうして、これでお願いしますと提出すると番号の書かれたシールを貼った紙を渡されて、それで手続きは完了だったので礼を言い、お願いいたしますと残して局を退出した。
 引き続き東に向かって歩きながら考える――時空のあちら側から次から次へと出現し、こちらの身体、感覚器官、脳髄に刺激を与え、つまりは意味=事物=世界の微小な断片を夥しく降り与え、決して尽きることなくもたらしていくこの無数の瞬間の持続。それは意識が保たれている限り絶え間なく続き、それが途切れる時間は仮初めの一時的な空白である睡眠のあいだか、それ以外には絶対的な無への同化である(と考えられる)ところの死の訪れ以外にはない。この持続の完璧なまでの途切れなさは、やはり凄く不思議なものだ。それはつまり、何も存在しない瞬間は端的にこの世に存在せず、空と地と水平線のように、何らかの存在者が常にこちらの目の前に――そして他者の目の前にも――存在しており、それに対する知覚も途切れなく続くということだ。その持続の、一瞬の間隙もない完全性、磯崎憲一郎の言葉をおそらく彼とは多少違った意味で借りて使えば、「世界の盤石さ」とも言うべき存在のまったき存在性こそが、この世の最大の神秘ではないか。
 銀行の入口の前に銀色の柵が設けられてあるその上に、小学生の女児が二人跨って、柵の下部の横棒に足を乗せて立ちながらバランスを取り、後ろ向きに足を踏み替え位置をずらして徐々にゆっくりと後退していく、という遊びをやっていた。一人の女児が端まで行くと、思ったよりも早く股のあいだから棒が消えたのだろう、もう一人に向けてびっくりしたと笑いかけていた。
 それから寂れた商店街を行く。衣服屋の前ではハンガーが乱雑に箱のなかに置かれて無料配布されており、また靴下がどれも一〇〇円で叩き売られているが、それでも買い手はなかなか現れないだろう。通りの向かいの人形店はガラス戸を通したなかの空気が明るく白く、まだしも清潔そうで、今は客も一組入っていた。駅に向けて曲がると前方には制服姿の女子中学生が三人見えて、ロータリーの縁でそのうち一人が別れて横断歩道を渡っていく。前からやって来た残りの二人の、何となく今しがた別れた一人の悪口を言うか、そこまででなくとも批評をしているような雰囲気の口ぶりで、背後を振り向いて別れた仲間へ声を放っているのとすれ違いながら塾の生徒かと見やったが、そうではなさそうだった。ロータリーに至ると、コンビニの前のバス乗り場ではたくさんの人が車の到着を待っているが、大方は背を丸めるように立った高年層や老人で、そのなかに女子高生が僅かに二人だけ混ざっていた。
 駅に入ると電車の発車まではあと一分ほどしかなく、間に合わなければそれで良いとゆっくり通路を行き、下り階段ではしかし一応小走りになって、上りも大股で一段ずつ飛ばしていくと、無事捕まえることができた。三号車か四号車のあたりに乗って、河辺までは二駅である。降りてエスカレーターを上り、改札を抜けると、西空の彼方で陽がちょうど山に掛かって沈んでいくところで、濃いオレンジ色が巨大に膨張して視界を染める。折れた通路には高窓がついており、そこから射しこんだ西陽が目を射って、歩くあいだ、細い窓枠の裏を太陽が通る一瞬は瞳を刺激するものが途切れるものの、当然またすぐに復活するということが繰り返されて、横断歩道のような、言わば縞模様の間断的な明暗のリズムが生まれるのだった。暖色光は左方の、窓の向かいの壁にも届き、広告パネルの上に矩形の明るみを作り出している。
 医者へ向かい、住宅地のあいだに入る。月が白粉で化粧を施したような白さになっていた。電線に一匹だけで止まった鳥がおり、四十雀だろうか、ピアノ線の張りを――それが(弾かれ振動するのではなく)左右に瞬間伸びていくようなイメージを――思わせる声を通りに拡散し、隅まで響き渡らせていた。精神科の入ったビルに踏み入り、階段を上っていくと、処方箋などを印刷するプリンターのものらしき振動音が伝わってくるので、やっているなとわかる。待合室に入ると受付の一人は電話中で手が空いていなかった。会釈を交わし、保険証と診察券を出し、もう一人はこちらの存在に気づいていないようだったので、カウンターの奥にお願いしますと声を掛けると、即座にはいと返事が返って姿が現れた。カルテをチェックしてもらい、保険証を返されると、受付のすぐ脇のソファ席に就く。左斜め前には目つきの虚ろなような呆けたような、一見して何かしらやはりちょっと異常な感じの伝わる年嵩の、髪のだいぶ淡くなった男性が座っており、連れらしい男性も隣にいて、この人も年嵩だったがそちらの方はよくも見なかった。父親だったのだろうか? 患者らしき男性は前方の虚空を見つめ、たびたび足をちょっと動かしていた記憶がある。この人は身体の方もうまく動かないのか、呼ばれて診察室に向かう時の動作もゆっくりでのろのろとしており、歩みは細かく刻むような感じで、診察を終えて代金を支払う時にも小銭を揃えるのにだいぶ手間取っていたようだ。声は実にか細く消え入るようなものでひどく掠れていたものの、会計時と、さらに退室時にきちんと礼を言っていた。ほか、人が多少減ったあとに別室から移ってきた人が一人いたが、この人は迷うことなくまっすぐに室の隅の柱の裏、誰とも顔を合わせずに済み周りからもあまり見えない席に就いたので、精神科に来るくらいだからやはり人が苦手なのだろうかと思った。
 手帳に記録をつけながら待ち、ちょうど一時間ほど経って六時に達した頃に呼ばれた。バッグは席に置いたまま立ち上がり、診察室の扉を二回ノックしてなかへ入りながらこんにちはと挨拶すると、どうぞ、おかけ下さいと言われるので、それに従って革張りの黒い椅子をちょっと後ろに引き、腰掛ける。いつものように、どうですか、と最初に訊かれる。まあ……非常に……よろしい……とゆっくり曖昧に漏らすと、非常に、よろしい、と医師は柔和に笑って復唱するので、こちらも笑い、いやまあ、変わらずですけれど、とトーンを弱めた。――仕事は今はどうですか、この、端境期ですかね、この時期というのは。――まあ、あとちょっと、という感じですね。その後、医師はコンピューターをかたかたと打ち、こちらも黙って書棚や壁の上方を見つつ視線を漂わせ、それから、最近は運動を多少しておりますと報告した。――どんな運動ですか。――まあ、ヨガの真似事のようなことを……ポーズを取って静止するだけですけど。――ポーズは何で調べますか、インターネットですかね。――インターネットで。これがなかなか、効くんですね。――効くでしょう。――自己流ですけどね。……まあそんなわけで、身体の方も整えていきたいと思っております、と笑う。
 薬は変わらずそのままで行きましょうかと言うので、減らさなくても、よろしいですか、と突っこんだ。――減らしてみても良いし、減らさなくても良いという感じですね。――減らしてみても、よろしいですか。それではアリピプラゾールをなくしてしまいましょうか、というわけで、飲むのはセルトラリンを晩に二錠のみとなった。礼を言って立ち上がり、扉に寄ると振り向いて、失礼しますと言って退出した。席に戻って財布のなかの小銭を確認していると会計の準備ができたようだったので、すぐ脇のカウンターに寄り、一四三〇円を支払った。それから用紙を折って仕舞ったりして身支度を整え、カウンターの向こうにどうも有難うございましたと声を掛けて退室した。
 隣の薬局に移動して、職員に処方箋とお薬手帳と保険証を渡して席に就き、引き続き手帳にメモ書きを刻む。頭上からはテレビの音が降ってきて、男性客は電話をしている。じきに八二番が呼ばれたのでカウンターに寄ると、前回からちょっと日にちが空いてますけど、薬も減りましたけど、体調は大丈夫ですかと女性局員が問うので、まあ、その……良くて、ですね、と笑った。――それじゃあ、またしばらく、これで様子を見てみてください。会計の際にビニール袋はいるかと訊かれたので肯定すると、まだ先のことですが、七月からレジ袋の配布はなくなります、環境に配慮してのことなので、マイバッグの持参などご協力をお願いします、とのことだった。礼を言って出口に向かい、アルコール消毒液を手に散布してから外に出て、薬をバッグに入れて首にストールを巻いた。
 駅前の居酒屋からは無害そうな女性ポップスが流れ出し、駅舎の階段前にはバスだかタクシーだかを待つ列が作られていて、その途中がちょっとひらいているのは駅に出入りする人が通れるようにということだろう。そこを抜けて駅に入り、通路を歩いて線路の反対側に向かい、高架歩廊に踏み出すと、見上げた月は満月に近かったはずだ。歩廊を渡ってイオンスタイル河辺に入ったのは、ここのフードコートでちゃんぽん麺を食べていくつもりだったからである。入館すると左折し、緩い傾斜のゆっくりと動く歩道に乗った。左方を向くとガラスにこちらの姿が映し取られており、それを観察してみるとやはりちょっと反り腰気味と言うか、下腹部の辺りが前に突き出しているような格好に見える。一階に下りてフードコートに入ると、大方の席は空いていてがらがらのなか、カウンター席で顔を伏せながら何らかの作業をしている人もいて、なるほどこういうところを根城にしている者もいるわけだと思った。四人掛けの一席を取ってリンガーハットの店舗に寄り、野菜たっぷりちゃんぽんと餃子五個のセットを頼んだ。一〇七八円。子供向けの動画の流れている小型端末を渡されて、できあがったらこのベルでお呼びしますと言われたので席に戻り、メモを取っているうちに端末が鳴ったので、品物を取りに行った。ちゃんぽんはなかなか大きな丼を満たしており、結構な量だった。広くて重い盆を慎重に持って席に就いたあと、餃子の醤油を注ぐのを忘れたことに気づき、小皿だけ持ってカウンター横の色々な道具が置かれた台に寄り、皿に醤油を垂らしてから戻ってくると食事を始めた。ふんだんに盛られた野菜を崩してちまちま食っていく。餃子は何だか中華屋の味と言うか、物凄く美味いわけではなく、何となく大雑把なような味だった。左方には「(……)」という、うどんか何かを提供しているらしき店があり、そのカウンターの向こうで、女子高生と思われたが、いかにも若く快活で瑞々しいような女性が年上の男性同僚と仲良さげに話しながら陽気に立ち働いている。周囲の乏しい客たちは大方が高年層で、例えば身体を丸めて椅子に沈みこむようになっている小さな老婆などがいた。品物にはドレッシングが二つ付属していた。野菜たっぷりちゃんぽんに特別についてくるものらしく、一つは柚子胡椒味、もう一つは生姜の風味のもので、ある程度食ってから柚子胡椒のものを混ぜてみたところ、ぴりりと味覚を刺激する感覚がまあ悪くはないものだった。
 完食すると返却台に盆を返しておき、入ってきた方とは反対側の口から外に出た。横断歩道が青になっているあいだに通りを渡り、ロータリーの周りを回って駅舎に入り、急な階段を上って掲示板を見るとちょうど奥多摩行きへ接続する電車が近かった。改札をくぐって右折し、階段を下りて四号車の辺りで立ち尽くして待つ。線路を挟んで向かいにはパチンコ屋の建物に店名の文字が光っており、空気はなかなかに寒かったはずだ。電車が来ると乗りこんで向かいの扉際に就き、しばらく揺られてから青梅で乗り換えた。確かまもなくの発車だったのではないか。奥多摩行きの最後尾から乗って、この時も扉際に立ったまま到着を待ったように思う。最寄りで降車して駅を抜け、通りを渡ると左折して東へ、街道沿いの工事は進んだようで保安灯つきカラーコーンが少なくなっており、改めて見てみれば歩道の幅も拡張されて随分と広く車道を侵食していた。アスファルトも真新しくて墨汁を固めたように黒々としており、車が来て光が落ちかかると地中から水気が滲出しているようにその表面がつやつやと光る。
 木の間の坂を下りつつ、昼間に感じたことを思い返して考えた。内破してしまうほどにこの世界の豊穣さを自らの内に取りこみ、吸いこみたいという、招き入れ、吸収の欲望のことである。それについて思い巡らせるなかで合わせて、蓮實重彦が言っていたことも断片的に思い出す。

 小説についてもそれと同じことで、女性の書き手が書いたか男性の書き手が書いたかということは、それ自体として実はあまり興味がないのです。そこに性器の結合を超えた何かが現れるような瞬間に僕は惹かれているのであって、その点では、何と言うのでしょうね、言葉があるとき、――その言葉そのものがだいたい男性化しているものではあるけれども――それがその男性性というものから不意に遊離するような瞬間を何とか引き寄せたいと思っているわけで、その遊離する瞬間は、男性作家が書いても女性作家が書いても変わらないと思うのです。たとえば夏目漱石にそういう瞬間があるわけですし、谷崎潤一郎にもそういう瞬間があるのです。
 (蓮實重彦『魂の唯物論的な擁護のために』日本文芸社、1994年、313; 「蓮實重彦論のために」聞き手=金井美恵子

 (……)それは、肉体的な性差があからさまに露呈される性器で相手と交わろうとする姿勢で書かれたものも、作者の性別をこえて男性的な文章です。その性器至上主義を文学と名づけることも可能でしょう。他と接するための特権的な場所があり、それは知性であったり、分析力であったり、あるいは感性であったりするかもしれないけれども、その特権的な場所においてのみ世界と交わろうとする文章はいずれも男性的なものです。
 (……)こうした男性的な言説の絶対的な優位に対して対置できるようなものは、特権的な場所を自分の中につくらずに世界に交わるという姿勢だけです。接吻的でもいいけど、いわば「性器なき性交」といったような体験に似たものだけが、女性的だからではなく、男性/女性の対立を無化することができる。ふと風に吹かれたときに、より官能的なものを覚えるというような――これは日光を浴びるといったことでも何でもいいんだけれども――精神や肉体の一部を特権化せずに全身で外界と触れたときにおぼえるような喜びといった文章体験があって、これは男性的でも女性的でもなく、性を超えたというか、むしろ、より正確には性を視界に浮上させまいとする少なくとも性器中心主義的ではないエクリチュール、それだけが男性社会に特有の支配的な言説に対立し得るのです。
 (401~402; 「羞いのセクシュアリティ」聞き手=渡部直己

 特権的な器官領域において世界と触れ合うのではなく、全身的な感覚を対象に向けて押し広げ、自らを宙空に拡散させてしまうような、自分とこの世界を同一化させてしまうような、一種の自己解体による〈気体化=解放〉。こちらは生物学的に男性として生を享けたわけだが、こうした様態を実現する時、それは言わば、性の境を越えて〈女性化〉しているということではないか、と思った。ここで言う「女性」とは、無論生物学的な意味のそれではなく、社会的な意味のジェンダーでも当然なく、隠喩的・象徴的な――そしてもしかすると、形而上学的な?――意味としての女性性である。世界を受け容れ、吸収し、包容し、そこにおいて自己を融解させてしまうような、一瞬限りのものであれ、そのようなユートピア的な瞬間を生み出すような力能――そうした性質こそが、作家的、あるいは芸術家的なものではないかと思った。〈女性〉とは言うまでもなく、突出ではなくて穴を、窪みを、陥没を、壁龕を備えた存在であり、交わりにおいて受け止め、受け容れる方、〈挿される〉方の存在である。作家は世界を吸収し、それと同一化する時、そのような意味で〈女性〉となる。つまりは、世界に〈犯される〉ことの愉悦を知っていること――という定式化を期せずして思いついてしまったのだが、しかしこれは言うまでもなく、危険な論理、危うい言葉、いかがわしいイメージだ。〈犯される〉ことによって世界との同一化たる自己解体を招き入れ、悦び(おそらくロラン・バルトの言った意味での悦び)に至るというこのイメージには、まるで〈女性〉が無理やり〈犯される〉ことによって多少なりとも肯定的な悦楽を得るかのような前提があり、それを敷衍して現実的な領域に移行した先にはレイプの正当化が待ち構えていると予想されるからだ。従って、あくまでもこのイメージは象徴的な領域に留まるものだと明確に注意しておく必要があるのだが、そうしながらもしかし、〈女性〉の比喩には今しばらく留まってみたい。「性交」モデルを、その形象[フィギュール]を微妙に変移させて考えよう。すなわち、全身的に世界を感じ、受け容れ、自らのうちにその呼吸を招き入れるという動態を、性交――いわゆる「本番」――ではなく、〈愛撫〉として捉えるのはどうか。世界は、交合によってではなく、絶え間なく持続し、複数的かつ断片的で散乱した、そしてその無数の事物=意味の断片群が一方向的には統合されず、しかし同時に確かな繋がりと連続とリズムを生むような、そうした〈愛撫〉によって、全身から、つまりは〈肌〉から染み通ってくる。そこにおいて作家という主体――「作家」の語を「詩人」とか「芸術家」に置き換えても同じだろうが――は〈女性化〉し、自らの内に文を、言語を、言説を、あるいは音楽を、イメージを、詩を、論理を生産する――すなわち、妊娠する。従って、作家はまさしく、〈処女懐胎〉する主体である。「性器なき性交」と、上の引用中で蓮實重彦は言っているが、こちらとしてはこれを少々横にずらして、次のように定式化したい――〈性交なき懐妊〉と。
 そのようなことを考えながら坂を下りて帰宅した。夕食は食べてきたと母親に報告し、そののちのことはあまり覚えていない。LINE上にTから、明日は一〇時に御茶ノ水駅聖橋口に集合と入っており、店も調べてくれていたので、どこかのタイミングで了承と礼の返信を送り、あとは明日早朝に起きられるかそれに尽きると言うと、TDが、今日は早寝できるといいなと送ってきたので、六時に起きることを目指すので遅くとも一時には床に就きたいと表明しておいた。それまでにできる限り日記を進めるべく、八時から一日の記事に取りかかって一時間邁進し、そのあと多分入浴したと思うのだが、そのあいだのことは全然覚えていない。九時四五分からふたたび作業に邁進し、二時間二二分にも渡って二月一日の記事を書き続け、零時過ぎに完成させてブログに投稿したあとslackを見ると、"C"のコーラスに関してこちらが提起した件について話が出ていたので、もう一度聞いてみることにした。最初から最後まで曲全体を通して何度も聞いたのは、部分的に繰り返していると感覚が麻痺してくるので全体の流れのなかで聞いた方が良いという先日の教訓を生かしたものだ。歯磨きを挟んで一度離れたあと、さらに繰り返し傾聴して、結局一時は回ってしまった。2Aから2Bへの移行感に関しては気にしすぎだったかなという感じもしたので現状のままで構わないと送っておき、そうして明かりを落として「胎児のポーズ」をちょっと取ってから就床した。いつもより早い時間だったので、寝つくまでにはわりあい間があったような気がする。


・作文
 13:45 - 14:11 = 26分(7日)
 14:19 - 14:25 = 6分(6日)
 14:25 - 15:08 = 43分(1日)
 15:38 - 15:50 = 12分(1日)
 20:03 - 21:03 = 1時間(1日)
 21:45 - 24:07 = 2時間22分(1日)
 計: 4時間49分

・読書
 13:13 - 13:44 = 31分(日記)

  • 2019/2/7, Thu.
  • 2014/6/14, Sat.

・睡眠
 3:45 - 12:10 = 8時間25分

・音楽