2020/2/9, Sun.

 (……)ようするにしぜんに回復するとわかっているゆううつだった。しかしゆううつのさなかにはゆううつ以外ない。三十秒先のことを考える気力すらないのだ。なにもおもしろくはないし、なにもうれしくもない。不安すら好調時のいち症状でしかなかった。ただ時間と不調だけがそこにある世界で、身を潜めている。(……)
 (町屋良平『愛が嫌い』文藝春秋、二〇一九年、15; 「しずけさ」)


 七時頃に一度覚めたようだ。夢を見た。(……)
 微睡みからふたたび眠りの水底に沈みこんで休み続けた。窓から射しこむ光はなかなか強く、じりじりとした感覚で厚く広がり、瞑目した視界まで染み通ってきて圧力をもたらす。一〇時頃、窓の外に人の気配が現れた。家壁だか扉だかをどんどんと叩いて、お母さん、と呼ぶ声がするのだった。音の発信場所が隣家の方角で正確に掴めず、我が家の父親かとも思われたし、隣家のTさんの息子さんが勝手口から老母を呼んでいるのだろうかとも思われたが、気配がこちらの窓の下を横切ったので、それで父親だなと判別がついた。母親は上階にいるはずなのだがどうしたのだろうと疑問に思いつつ、ともかく起きて部屋を抜け、物置き部屋を通って外に出ると、父親は今度は頭上の勝手口の扉をどんどん叩いて母親を呼んでいた。ところに、どうかしたの、とまだ重い頭と血の巡りきっていない身体で声を掛けると、柵から顔を出した父親は、お前、いたのかと漏らしたのち、玄関を開けてくれ、締め出されてしまったと声を降らせる。それで室内に戻って階段を上がったが、その頃には既に母親が物音に気づいて玄関を解錠し、父親をなかに招き入れていた。
 昨日何時だったの、と母親は訊いた。一時半だと答える。続けて、今日、(脳梗塞で入院した祖母の)見舞いに行くかと問われるので、行きたいけれど、日記も書かなければならないと一度受け、さらに続けて、今日は良いか、また別の機会にと言って、ひとまず今日のところは行かない方向で考えた。食事の前に、一旦下階の自室に戻る。ベッドで「胎児のポーズ」を行ったあとコンピューターを点け、各所を覗いてからふたたび上階に上がった。食事は米がないからパンだと母親は言い、それかラーメンを作ればと提案してくるが、冷蔵庫を覗けばしかし天麩羅の余りがあり、生ハムの乗ったサラダもあったので、それらを頂くことにして、天麩羅を小皿に取り分けて電子レンジに突っこんだ。回しているあいだはレンジの前に突っ立ちながら首を左右に傾け、あるいは回して筋をほぐす。
 そうして食事である。空の胃袋にいきなり油物を入れたくないので、サラダにすりおろし玉ねぎドレッシングを掛けてそちらから食べはじめた。水菜や大根などが入っていたと思う。それから天麩羅をつまみはじめたが、なかに鮪の肉らしきものが含まれており、それがなかなかほろほろとしていて美味く、目を閉じて味覚的刺激を積極的に味わった。食後、食器を洗うとともに風呂洗いも済ませて自室に帰還すると、昨日会った三人に送るメッセージを作成し、以下の文章を完成させるとLINEのグループ上に投稿しておいた。

こんにちは。昨日は大変ありがとうございました。

レコーディングでは相変わらず偉そうなことを言わせてもらい、目利きの銀次でも珍しく、拙い文学論・芸術論のようなものを語らせてもらいましたが、好意的に受け止めて聞いていただき、ありがたかったです。

一晩経って、昨日のような時間は、まったく希少で貴重で美しい煌めきを帯びた瞬間だったなと思い返すとともに、小沢健二の"さよならなんて云えないよ(美しさ)"という曲(https://www.youtube.com/watch?reload=9&v=Ik9rVXSslWM)の一節が思い出されました。「本当はわかってる/二度と戻らない美しい日にいると」というフレーズです。素晴らしい時間に出逢い、それを過ごした時はいつもこの一節を思い出してちょっと切なくなります。

ここにある感覚は、ニュアンスと感情の方向性は違えど、Tが書いた"D"の、「どうせぜんぶ記憶になっちゃうなら(から)」の一言とも通じ合うものだと思います。さらに、自分に引きつけて言わせてもらえれば、「どうせぜんぶ記憶になっちゃうから」こそ、こちらは毎日文を書くわけです。不断に、絶え間なく、記憶を記録に変換し、翻訳し、刻印し続けるのです。格好良く大袈裟な言葉を使えば、書くこととは言語を武器とした時間への反逆なのです。

これからも我々の活動と営みと関係がずっと続いていったら、それはとても素晴らしいことです。今月は頻繁に会う機会があって、日記を書くのが非常に大変ですが、嬉しいですね。また昨日のような時空を作り上げていきましょう。

 それから何となく、瞑目のうちに音の流れのなかに浸りたいという欲求に心身を支配され、隣室に行ってギターを弾くことにした。シールドを楽器に繋いでアンプを点け、座の高く持ち上がったスツール椅子に尻を乗せて、両手の指を細かく蠢かせはじめる。瞑目して最初のうちは例のごとくブルース風のフレーズを適当に弾いていたのだが、そのうちに声でアドリブと和して、手で奏でるメロディを口でも歌い出し、そうして興じているとしかし母親が戸口に現れて、やっぱり行ってくれる、と言った。祖母の見舞いのことである。三人揃って行ける時がないから、と理由を添えて求めるので、そう言われれば行くほかはないだろうと了承した。一度は日記を優先するつもりで落着いていたものの、こちらとしてもそれがなければ行きたい気持ちは当然あったのだ。それでギター遊びを終えて自室に戻り、着替えに移った。毛の混ざった明るい褐色のズボンに、上は控えめな赤や白をチェック模様にした綿のシャツ、そうして羽織りはダークブルーのバルカラーコートである。一時に出発するとのことだったので、一二時五五分まで辛うじて一〇分少々、今日のことを下書きしておいた。
 そうしてクラッチバッグを持って上階へ、バッグのなかにはストールに財布や携帯、それにFISHMANS『Oh! Mountain』のCDが収められていた。母親をあとに残して外に出ると、父親は既に車に乗りこんでいる。家の前に出て視線を宙空に差し上げると、空は晴れ渡っており、流れる風に林の樹々がさらさらとした葉鳴りを降らせ、光の白さを纏った無数の葉の群れが細かく流動的に、微小な渦巻きをいくつも生じさせるかのように蠢き揺動し、まるで緑の色彩を散乱させんばかりである。林の縁はなだらかな斜面になっており、そこは無論舗装されておらず土が露出した道なのだが、その上の駐車スペースに車が通るからか真ん中辺りは少々均されて地面がすっきりとしており、その両側を落葉が埋め尽くして縁取り、視線を誘って導くようになっているのに、絶好の絵画的対象となる風景だなと思った。
 母親が家から出てくるまで日向で立ち尽くして風景を眺め、それから助手席に乗りこんだ。バッグからCDを出して、これ聞いていい、と父親に尋ねると、モニターを操作していた彼は途中で、あ、これCD聞けねえんだと思い当たった。会社から提供されて車が別のものに変わったので、CDに対応していないシステムになったらしい。最新の車は、コンパクト・ディスクなどというもはや時代遅れのメディアにいつまでもかかずらっている人間を容赦も慈悲もなく置き去りにしていくつもりなのだ。それで残念に思ったものの、仕方がない――車に乗っている道中というのは暇で仕方がないし、狭いスペースに押しこまれるために肉体も固くこごって疲労せざるを得ず、こちらは体質として酔いやすくもあるので気分も悪くなることが多くて、好きな音楽でもなければなかなか耐え難いものなのだが。出発前、父親が、玄関の鍵閉めた、と母親に尋ね、そこでは受け手は肯定を返したものの、ストーブやガスを消したかと続く第二の質問には確信を持てず、消したと思うけど……と自信なさげに漏らすのみである。いつも忘れずに消しているのだから、今回も消しているだろうとこちらは思うのだが、母親は見てきて、と要望し、しょうがねえなあというような様子で父親が降りて家のなかに入っていった。CD聞けないのは残念だな、つまらねえなと漏らしながらこちらは確認作業を待ち、父親が戻ってくると出発となった。
 走りはじめてしばらくすると瞑目し、フロントガラスを突き抜けてくる陽射しの暖かさに穏やかに安らぎながら過ごした。しかし目を閉じていると、開目している時よりも走行の揺れが如実に肉体に伝わってきて、それはそれで余計に酔いを助長するような気味もないではない。ラジオは爆笑問題の番組を流していたが、内容上、印象に残っていることは特にない。川を渡って友田の辺りで一度目を開けた。高速の途中でも何度かひらいたが、その後はいくらかうとうとと微睡みに陥ったようで、気づくと車は上野原の市街付近に至っていた。気持ちが悪かったので、それからは目を開けたままに過ごす――景色はわりと風光明媚といった感じで、いくらか小高いところに来ると、たたなづく、などという枕詞を使っては言いすぎかも知れないが、何重か織り成された山稜が青空の下、果てに広がって空間の限界を画し、そのもとにモザイクめいた色点の組み合わせと化した街並みが、すなわち建物群や、指人形か小魚の群れのような遠さ小ささで高速道路を行き交う車たちの流れが見える。
 先に父親の生家、祖母の家に行くという話だった。塗り絵やら何やらの荷物を回収しておきたいとのことだったのだ。それで(……)の家に到着して、閉ざされた車庫の大扉の前に車を停めると父親は降り、続いて母親も蕗の薹を採ると言って降りていった。こちらは長時間の乗車によって生じた疲弊に呻き声を上げながら、狭いシートで身体をねじったり背伸びをしたりしていくらか肉体の固さを和らげ、疲労感を散らして紛らわし、はっきりしない音程でThe Beatlesの"Drive My Car"のサビを一度歌うと、手帳を取り出して文言を書きつけはじめた。じきに蕗の薹をいくつも収穫した母親が戻ってきたのだが、その後、父親がなかなか帰ってこない。トイレに行くついでに様子を見て呼んでこようと車を降り、車庫の脇の小さな戸口をくぐり、物置きを経由して庭に入ると父親は植木に水をやっていた。寸刻見つめ合ってから、早く来いってさと伝え、玄関の扉に手を向けながら、もう閉めちゃった、と訊くと肯定が返ったので、トイレは病院で行くことにした。そうして父親とともに車に戻り、ふたたび出発して陽に照らされた坂道に滑り出た。
 山道の脇に雪が、白いシートを掛けたゴミか何かの堆積物のように、いくらか薄汚れて黒ずんだ姿で残っている。先日の降雪の際のものらしい。東京都内とは思えぬ片田舎たる青梅市の我が家の周辺ですら積もることはなかったのだが、山梨のこの辺りはやはり標高が少々高くなっているので、東京の西部よりも多く降ったのだろう。目を開けたまま車酔いの気持ち悪さに耐えながら病院に着くのを待つ途中、無人の野菜販売所に立ち寄った。母親が行きに見かけて、寄ってみたいと言っていたのだ。極々こじんまりとした小屋と言うか、ほとんど物置きのような囲いのなかに、籠に入れられた白菜やら葱やら椎茸やらの野菜がいくらか置かれてあり、大体一つ一〇〇円程度で売られていたようだ。母親がそれらをいくつか購入して車に戻ってきたあと、市街を通って(……)病院を目指した。その道中、母親は、何をきっかけとして想起されたのか不明だったが秋篠宮佳子内親王のことを話しはじめた。――テレビでやってたけど、佳子さまって手話が得意なんだって。聾者の支援のイベントなんかでも凄く上手に挨拶して、美智子さまのあとを積極的に引き継いで、そういうところによく顔を出しているって、やってたよ。その話を受けてこちらは道を行くうちに、聴覚障害者という人々の苦労を想像したと言うか、耳が聞こえないという自らの身体的条件やそこに端を発する不便などに、憤りに近い感情を覚えることもあるだろうなと漠然と考えていた。それが故にちょっと涙を催すような気配すらあったのだが、瞳の熱を感じながら、自分は何と愚かなのだろうと落胆的に思った。こうした想像と同情のようなもの、そしてそれによる催涙は、自らの勝手なイメージを聴覚障害者と呼ばれる人々に投影して、適切に同情した気になっているだけのことに過ぎず、要はこちらの頭のなかで仮想された彼らの苦難を抽象的に消費しているということにほかならない。こちら自身は聾者ではないし、その他のいわゆる身体的障害も精神的障害も持っておらず、近しい知人にそうした人もいないので、彼らの日々感じている具体性を身に迫ったものとして理解することは困難である。無論、それでもなお、それを想像し理解しようと努めることは重要なことだとは思うが、それにしても、自分の脳内のみで仮構されたイメージに基づいて涙を催すとは、これは明確に欺瞞だと言わざるを得ないと考えた。自分は当然、それを知っているが、しかし、と同時に思った。欺瞞というものは、そこまで悪い事柄なのだろうか? それが仮に欺瞞だったとしても、曲がりなりにも他人のことを思いを馳せて涙を肉体の内から発生させる力があるということ、その方がまだしもましなのではないだろうか? ――とは言えこれは、いわゆる「やらない善よりやる偽善」の議論めいていて、その月並みな類似性だけでも嫌な話だ。
 病院に到着すると、その外観や、ちょっと高い位置に設けられた駐車場などに見覚えがあった。二〇一四年に祖母がやはり脳梗塞で倒れた折――その時我々家族はちょうど、兄の招きで渡欧中だった――にも見舞いに来た記憶があるのだった。駐車場に車を停めると、母親からマスクを貰って顔につけ、車を降りると駐車場を出て小さな階段を下り、道を渡って病院の入口に寄った。警備員のいる受付に挨拶し、父親が代表で用紙に名前を記して入館証を三つ貰い、それを首から提げてガラス扉をくぐった。病院内は壁や床などが、僅かに赤みを帯びて明朗な褐色の木目調のデザインを基調としており、明るく綺麗で衛生的だった。フロアを通り階段を上って二階へ行くと、ナースセンターの前を通り過ぎ、(……)号室に至った。入口脇にあった消毒ジェルを手につけて擦りこみながら病室内に入っていくと、祖母はベッドで臥位になっていて、我々の訪問で目を覚ましたところのようだった。わかる、と訊くと、顔はわかると言う。肉の落ちて薄く小さく、か弱いような手を握ってやった。
 祖母は脳梗塞で倒れて言語を司る部分がいくらか侵されてしまい、周囲の人の言っていることが理解できないことがあったり、言葉や人の名前がうまく出てこなかったりするという話だった。記憶として蘇ってこないということも当然あるだろうが、様子を見る限り、どうも発語したい音をうまく発語できないという場合も折にあるようだった。父親が色々と尋ねてちょっと話をするのだが、その際の祖母の声は掠れているようで、小さく弱々しかった。白い髪はさっぱりとしていて少し前に切ったらしく、寝間着は薄水色のぱりっとして清潔そうなものを纏っていた。部屋の片隅の袋のなかに入っていた小さなホワイトボードを、母親が取り上げて父親に手渡す。祖母の前に掲げられたそれには平仮名で子供や親族の名前が書かれてあり、父親がその一つ一つを指し示しながらゆっくり文字を読み上げるのに続けて、祖母はそれを復唱するのだった。KTさんやMDさんの名前が縦に記されたその下部に、こちらと母親の名前も横に書きつけられて、父親の導きでそれを読んでいるうちに、祖母は母親の名前の方は思い出したようだったが、こちらの名前は覚えにくいらしく、すぐ忘れちまうだよ、と漏らす。そうした父親とのやりとりを見下ろしながら、瞳の奥底から涙を催すことを禁じ得なかった。しかしこの涙がどのような要因によって、いかなる感情から湧いてきたものなのかはあまり明確に分析され得ない。九〇歳を迎えて脳を侵された祖母の衰弱ぶりを目の当たりにした哀しみによるものだったのだろうか――しかし、むしろ、脳梗塞にやられたわりに祖母はそこまで弱ってはいなかったように思う。とは言えやはり、死の接近の観念を脳内から排除できなかったことは間違いない。確かに、今こうして、緩慢な死の過程を見守っているのだという思いは禁じ得なかったのだ。しかしそれは、我々のうちの誰にあっても本当はそうなのだろう。ありきたりでありながらしかし同時にそれを実体的に体感する機会は少ない考え方だと思われるが、我々は常に、瞬間瞬間で、生きながら同時に絶えず死につつある。だから、人の生きざまというものは、それだけでまたまさしく死にざまでもあるのだなと考えた。
 涙を見られたくなかったので、トイレに行ってくると残して病室を出ようとすると、そこにあると父親が言い、それで入口の傍に個室があることに気がついた。入ってみると、便所としては広くスペースの取られた白い一室だった。明るく清潔なその空間のなかで便器を前に立ち尽くし、涙が瞼の奥から湧き昇ってくるに任せて、微小な滴が眼窩の下辺を越えて頬の上を流れ落ちるのをしばらく放置したあと、マスクの上端が濡れるのを厭うてハンカチを取り出し目もとに当て、一分か二分のあいだ、声をまったく出さず、息も乱さず、ただ涙だけを流して静かに泣いた。
 それから便器の上に座って糞を尻の穴から排出したのだが、出たものは少なかった。水を流して室を出て、横の洗面台で手を洗うと、多分祖母は既に身を起こし、身体の前に据えられた台に置かれた塗り絵をやっていたと思う。こちらは窓際の椅子に就き、病状や祖母の様子が記録されてあったり見舞いに来た人がコメントを残したりする用紙を母親から渡されて少々眺めたのだが、それは何故かトレーシングペーパーのような半透明の至極薄い紙だったので、もっときちんとした厚みがあって書きやすいノートを用いれば良いのにと思い、そう口に出しもした。罫線の書かれた台紙を下に置き、薄紙の裏に透けて見える線に沿って、三行ほどの短いコメントを書きつけた。思ったよりも元気そうで良かった、塗り絵をする姿がしっかりしている、ゆっくり少しずつ、着実に回復していくことを願い、期待する、というような内容である。それから何枚ものペーパーに書き留められた記録を、最初の一月二〇日のものから大雑把に読んだ。大方はおそらくMDさんが書いたものらしい。一方で、祖母のベッド脇に立って塗り絵の様子を眺めることもした。絵は草花の周りに蝶や蜂が舞っている図柄で、祖母は各所に塗られた色が何色かということは問題なく理解しており、その色彩感覚や美術的感性はしっかり保たれているようだった。彼女が傍らに用意された色鉛筆をたびたび持ち替えながら、真剣そうな様子で集中して個々の箇所を塗っていくと、こちらとは反対側のベッド脇に就いた父親が、それは蜂だね、それは蝶の翅だね、うまいうまい、などと言葉を掛ける。そのあいだ、こちらは大方黙って見つめていた。
 病室に入ってすぐの頃のことに遡るが、母親が蕗の薹を一つ、見せて嗅がせた時もあった。ティッシュに包んでポケットに収めてあったものを取り出して祖母に渡し、蕗の薹だよ、春の匂いだからと言って嗅ぐように勧め、祖母はそれに応じて鼻を寄せ、いくらかの知覚的刺激を得ていたようだった。(……)の祖母の家に生えていたものを採らせてもらったのだと母親が説明する言葉を、祖母はちょっとのあいだわからない様子でいたが、最終的には理解していたようだ。病室に滞在しているあいだはまた、時折り看護師や医師がやって来ることがあったので、そのたびに挨拶をして彼女らの働きに礼を言った。
 塗り絵を終えると、車椅子に乗って散歩に行こうと父親が提案した――散歩と言ってもフロアを回るだけのことだが。それで靴を履かせて祖母の身体を車椅子に移し――と言うか、祖母はのろのろとした動作ではあるものの、支えに掴まりながら自ら車椅子に移動することができた――、病室を抜ける。廊下をゆっくりと行き、各方面の端の窓際に至って白いレースのカーテンをめくっては外の風景を皆で揃って眺め、杉の樹に花粉が凄くついているとか、何か鳥がいるとか口にする。病室を出た際に祖母は身体のあちらこちらが痛いと言っていたので、風景を眺めているあいだこちらは彼女の傍らに立ち、肩の周りを優しく、壊れ物を扱う軽さでいくらか揉みほぐしてやった。時刻は四時台だったろうか、廊下を歩くあいだ、西向きに窓がひらいている一室のなかから光が漏れ出しており、入口の扉に設けられたひどく細長い長方形のガラスを透かして光は廊下の床に波及して、輪郭をやや曖昧にぼかした純白の波のような矩形を生み出していた。そこを曲がると確か、自販機が隅に設置されて椅子とテーブルがいくつも並んだ談話室のようなスペースがあったはずだ。大窓に寄ってカーテンをめくり、近所の建物の並びとその果てに横たわった山稜、そしてさらにその向こうに僅かに顔を突出させている富士山の白い山頂部に視線を送る。また別の窓に至った時にも、富士山が見えるねなどと言いながら同様に外の景色を眺め、陽射しが眩しいと祖母は漏らした。カーテンを掴んでめくり、室内に取り入れる陽の量を調節していたこちらは、透明感の強い冬の西陽を掛けられた祖母の顔を前から見下ろす格好になったが、車椅子から外の世界を見上げる彼女の眼差しはまっすぐで、その瞳には生気と知性と感性が明確に宿っていた。
 こちらは腹が減ったとたびたび呟き、祖母にも顔を寄せてお腹減った、と訊いていると、腹が減ったでしょう、と返されたので、腹減ったよと答えて笑った。病室に帰ってから聞いた話では、病院食は昼食と夕飯にはうどんが出ることがあってそれは美味いが、朝のメニューは大して美味くもないと言う。うどん以外もちゃんと食べてくれよと父親が要求するのに、祖母は穏やかにいなすように、嫌だあ、と答えていた。じきに彼女は、そろそろ皆帰るんだろう、帰った方が良いよ、などと気を遣う様子を見せた。時刻は既に五時が近かったのではないか。それで、そろそろ帰るよと受けながらも最後に父親が、親戚たちの写った写真を祖母に見せる。持ってきたのではなくて元々病室に写真のいくつも収められた小さな帳面風のアルバムが置かれてあり、存在の瞬間を切り取られた人物たちの横にはマジックペンの黒い字で、やはり平仮名の名前が記されてあるのだった。それを見せながら父親が、これは誰、と順番に訊いていき、祖母はいくらか苦労しながらも概ね正しく判別して答え返す。O.Sさんなどは、名前の漢字は頭に思い浮かんで書くことができるけれど、その字が何と言うのかがわからないと言う。不思議なものだ。記号と音の繋がりがいくらか緩くなっているのだろうか。父親が訊き、祖母が答える――人々の名と記憶を媒介にした問答が続く。傍らに立っていたこちらを示して、この人の名前はすぐ忘れちまうだよ、覚えるんだけど、またすぐ忘れちまう、と何度か祖母は口にした。そうした様子を見ながら、またしても涙を禁じ得なかった。父親もいくらか瞳を濡らし、ティッシュを取って眼鏡を外し、目もとを拭いているようだった。そうして退出の時間がやって来ると、こちらは祖母の手を握り、涙を堪えながら、また来るよと声を掛けた。その次に母親が別れの挨拶をしたのだが、その途中で両人とも泣き出し、祖母は有難う有難うと涙声で礼を言い、母親はごめんね、ごめんね、また来るからねと繰り返した。その様子を見ながら男たちも泣いたあと、こちらは最後にもう一度祖母の手を握りに行き、離れると手を挙げながら戸口に向かった。また来てね、という祖母の声を受けながら、涙のために口が動かず、発語ができずにただ手を振り返すのみだった。
 マスクを外すことなく、無言で、瞳も拭かないままにエレベーターに向かい、乗って、階を下りると、両親はトイレに行くと言うので便所の近くの座席に腰を下ろした。放心したようになりながら、ハンカチを取り出して静かに目を拭い、二人が戻ってくるのを待った。そうして合流すると両親の後ろから遅い足取りで廊下を行き、受付に入館証を返して礼を言い、建物を出た。マスクはつけたままだった。またいつ涙を催すかわからないので顔の歪みが見えないようにしておこうと思ったのだった。暮れ方の空はまだ黄昏には至らず、和紙のように淡く、ほつれなく精妙に編み成された縹色に晴れ渡り、空間の果てには富士が白い影と化した頭を覗かせて、静かに凪いだ上空には飛行機が斜めに、水中のプランクトンの動きのように小さく短い軌跡を描き、束の間白く刻みこんでいた。車に乗って、上野原駅まで送ってくれるようにと要望した。両親は無論行きと同じように自動車で一、二時間の道のりを辿って帰るのだったが、こちらとしては自動車という乗り物はとにかく疲れるためになるべく乗りたくないという気持ちがあるので、電車で帰ることにしたのだった――その方が、移動の時間で日記のためのメモを取れるという目論見も当然あったし、加えて、今日はかなり腹が減っていたので途中で立川のラーメン屋に寄って飯をさっさと済ませてしまい、帰宅後はひたすら日記に邁進しようとも考えていた。それで無言で静かに助手席に佇んで到着を待つあいだ、Sも来ておいて良かったね、お祖母ちゃん喜んでたから、と背後の母親が言った。
 上野原駅に到着して降りると、車のドアをあまり強く閉めないでと父親が言ったので、ごく静かに押し出して閉ざしてから、駅舎内に入った。改札をくぐってホームを踏むと、先頭の方まで歩いて最も東京寄りの位置に立ち、バッグからストールを取り出して首に巻いた。空気はだいぶ暗んで風も走り、線路沿いの草木がざわざわ鳴って相当に寒く、身は震える。途中、新幹線が目の前を通過していったが、まさしく弾丸的なとんでもない速さで、見つめているとくらくらと来そうなほどに凄まじい、恐ろしいようなスピードだった。高尾行きは五時二五分くらいで、待ちはじめたのは五時過ぎだった。寒風に耐えつつ手帳にメモ書きをしながら待っていたが、途中でアナウンスが入り、高尾行きは一〇両ではなくて六両編成であることが判明した――すなわち、今立っている位置までは車両が届かないのだ。足もとの青い印のところでお待ち下さいとあったので、ホームを戻って地面に青い三角形が描かれている地点で立ち止まってまたしばらく待つ。上野原高校の学生だろうか、野球部のようで飾り気のない坊主頭の男子高校生たちがトイレに向かって走り、目の前を過ぎていった。
 乗ると中央線のこの区間は高尾以降の中央線や青梅線と違って、座席が細かく分かれておらず、長くひと繋がりになっていた。その真ん中の辺りに腰掛け、引き続き手帳に記録を取る。向かいには山歩きの装備をした中年女性三人が座っていた。道中、電車はたびたびトンネルに入り、そのたびに耳が詰まったような感覚が訪れるので唾を飲んで解消する。高尾で乗換えだが、到着して降りるとすぐ目の前の番線に東京行きがあったので、一号車か二号車の辺りに乗り移った。ここでも人は少なく腰掛けることができ、すぐに発車して一駅移動して西八王子に至ると、高校生数人が乗ってきたそのなかに女子が一人いて、最初は男子たちと女子は向かい合って席を分かれていたのだが、じきに少女は向かいに移り、男子の一人と隣り合ってほかの三人からちょっと離れたので、その二人はどうやら付き合っているらしいなと判断された。メモ書きを続けながら到着を待つあいだ、ガラスの外では黒々と宵に入った夜空、突き立つ建物の合間に満月が覗く。
 そうして立川で降車して階段を上がると、精算機に寄ってSUICAに五〇〇〇円をチャージしてから改札を抜け、コンコースの人波の渦中を行く。人々のざわめきと、実体性と、彼ら彼女らが背負っている時間の厚みが、人生の影像が放射拡散され、気体めいて空間の隅々まで浸透し満ち渡ったそのなかを、あまりにも莫大な情報量を孕んで蠢き撓む存在と肉体の海原のなかを、ゆっくりと歩いていく。空腹のせいもあったろうが、空気は明確に冷たかった。犬猫ボランティアの人が今日は一人で、広場の片隅に立って声を張っている。通路に入ると、頭上に新しい案内表示板が取りつけられていることに気がついた。北口デッキ、と書かれてあったと思う。その下を過ぎて伊勢丹の脇を通り、車椅子に乗った男性とそれを押している共連れの横を歩き、エスカレーターから下の道に下ると「(……)」へ向かった。ビルの小さな入口から二階に上がって入店し、醤油チャーシュー麺の食券を券売機で購入して、カウンターの角の辺りに身を落着けた。威勢の良い若い男性店員がやって来たので、食券を渡すとともにサービス券で餃子も頼む。そうしてストールを外し、横の席にバッグとともに置いておき、冷たい水をコップに注いだがまだ飲まず、机上に手帳を置いてその上でペンを動かしながら料理がやって来るのを待った。
 じきに品物が女性店員の手によって届けられる。礼とともに受け取ると、スープをまず飲んで胃の腑を温め、それから縁を埋めるチャーシューを汁のなかに浸け、その奥から麺を掘り出して啜る。目を閉じながらもぐもぐと食っていき、途中でにんにくをいくらか混ぜた。店内のBGMは刻みの激しいパンク風の音楽や、いわゆるメロコアと言うのだろうか、同様に刻みが激しいがメロディーがよりキャッチーな類のものが掛かっており、多分あれはBustedとかではないのだろうか――ちゃんと聞いたことはないのでわからないが。BustedのメンバーがSon Of Dorkというバンドを作っており、そのグループの『Welcome To The Loserville』というアルバムを大学時代に結構聞いていたのだが、その辺りのものと同じ匂いのする音楽だった。ラーメンの具を平らげると、塩分の取り過ぎで健康には物凄く悪いのだと思うが、蓮華を使ってスープを掬って飲んでいく。そうして少量残して食事を終えると水を飲み干し、ちょっと息をついてから立ち上がってストールを巻き、厨房の店員にご馳走さまでしたと声を掛けて退店した。
 駅へ行き、ふたたびコンコースの人波のなかを行く。LUMINEの前に出ている和菓子のスタンドを見やると芋羊羹という品があって、その黄色の鮮やかなのがちょっと気になったが、しかし素通りして改札をくぐり、二番線に下りた。ホームに下るとちょうど電車がやって来たので一号車に乗り、席に就いて手帳を取り出す。そうして青梅までの道中、初めはメモ書きをしていたのだが、疲労感があったので昭島辺りで目を閉じた覚えがある。そうするとあっという間に、まさしく瞬間的に小作か河辺まで来ていて、その後も顔を伏せてうとうととしながら青梅に着いた。奥多摩行きに乗り換えたあとは多分、手帳に文字を記しながら到着を待ったと思う。
 最寄り駅で降りて空を見上げると星が清かに灯っており、その明晰さからして暗色の夜空は晴れ渡っているようだなと観察された。月は見当たらなかったが隠れているのだろうと判断され、すると実際、ホームを進んでいるあいだにマンションの裏から満月が顔を出した。階段を下りていきながら見つめたその月の浮遊は何か超常的な力で天の表面に留められているかのような静止ぶりであり、駅舎を抜けて通りを渡り、坂道に入りながらもう一度見つめてみても、それはとても立体――巨大な球体――とは思えない平面性で、と言うかむしろ平面ですらなく、白い光が寄せ集まっては固まってできた曖昧な存在のように映る。襞はまったく見受けられず、ほとんど現実感が欠如しているような、まるで間の抜けたかのような明るさと非物体性を見ていると、あれが空の、宇宙の彼方に漂う甚大な大きさの天体だとはとても信じがたい――そして、自分が今立っているこの大地すらもそうした天体のうちの一つなのだが、これは端的な驚異である。
 帰宅すると八時頃だったと思う。小僧寿しを買ってきたと言う。と言うか、立川を出るあたりでそれを報告したメールを確認して、ラーメンを食ってしまったと返していたのだった。自室に戻って着替えると緑茶を用意して一服しながら、一年前の日記を二日分読んでいる。それから七日のことを記録に変換した――帰路、木の間の坂で考えた事柄についてなのだが、大雑把なものであれ、論理を構成したりイメージを言葉に落としこんでおいたりするのに苦戦して、途中で風呂に入りながら思考を巡らせようと打鍵を中断し、九時半過ぎに入浴に向かった。居間では酒を飲んだ父親が赤い顔でテレビドラマを見ている。こちらは寝間着を持って洗面所に行くと洗濯機の上に置いておき、ジャージとシャツを脱いで立位前屈をしてから風呂場に入った。湯に浸かりながら作家=女性の論理について考想する。処女懐胎のイメージは七日の当該時点、つまり坂道を下りているあいだに既に思いついていたが、しかしそう言ったとしてだから何なのか、というような気もちょっとしないではない。七日のこちらの思いつきの核心にあったのは、要はこちらが世界に向けて五感を押し広げて知覚断片を取りこんでいる時、こちらという主体は象徴的・隠喩的に女性化しているようなものではないか、というだけのことである。
 久しぶりに束子で身体を擦り洗ってから出ると、台所で水を飲んだ。脂っこいラーメンを食ってきたためだろう、それが清涼極まりなく、喉や食道や胃が潤ってやたらと美味い。テレビはニュースに移行しており、父親はトランポリンの選手が演技をするのを見て、あー、とか唸っている。ダウンジャケットを羽織って下階に帰ると、FISHMANS『Oh! Mountain』を流してふたたび七日のことをメモ書きし、それをまもなく終えると、八日のことも記録しなければならないのだが、ひとまず二日の分を書くことにした。そうしながら昨日の記憶が連想的に思い起こされるとそのたびに画面を移して、八日の日記に情報を書きつけておいた。そうして『Oh! Mountain』が終わると、同じくFISHMANSの『空中キャンプ』を流しながら打鍵を続け、そのあいだスピーカーから出る音は止めてヘッドフォンをつけていたのだが、一一時過ぎにもかかわらず"BABY BLUE"などを高い声で時折り口ずさむのだった。それにしてもこのSound Warriorのヘッドフォンはサウンドが素晴らしく明晰で、今まで聞こえなかった音もよく耳に入ってくる。このくらいの音質で音楽を聞くことができれば、こちらとしては大満足である。
 二日の記事を完成させるには一時間ほどが掛かり、一一時半に至って仕上げるとブログとnoteに文章を投稿した。そうしている最中に携帯にメールが入って、誰かと思えば母親からで、寿司は、と一言あるのに、食べるとこちらも端的に返した。ちょうど投稿を終えたら食べに行こうと思っていたのだ。それで階上に移り、ズワイ蟹の入ったセットに、エビマヨネーズの手巻きを用意し、卓に就くとプラスチックの蓋の裏に醤油を垂らして寿司を食う。蟹は味噌の軍艦巻きが一つ、ほぐし身の軍艦が一つ、普通の肉のやつが二貫含まれていたが、しかしこちらは別に、蟹がそこまで特別に好きなわけではない。従って、それらよりもレモンの欠片の乗った炙りサーモンの方が美味かった。テレビは地球外生命をどのように発見するかという理論を紹介する番組を流しており、父親はソファで歯磨きをしつつ時折り唸りを漏らしてそれを眺めている。こちらは目を閉じて味わいながら寿司を平らげ、食事を終えると台所に空の容器を運んでおき、茶を用意しようと思ったらポットに湯がなかったので、薬缶に水を汲んで注ぎ足しておいた。それから水をごくごくと飲んだが、先ほどの入浴後と同じく、これがやたらと美味かった。
 部屋に帰ると今しがたのことをさっとメモに取り、それから前日、八日のことに取りかかったものの、しかし今日はなかなかに疲労したなという感が強かった。やはり車に乗ったからだろうか、身体が重いし、八日の前途が凄まじく長いことを考えると気も重い。それでも四〇分ほど、記憶を言語に移し替えたが、「肉の万世」に入って以降、会話の段になると、FRくんの話を思い出すための気力が足りないようだったので、今日はここまでにするかと打ち切って、久しぶりに書抜きをすることにした。その前に緑茶を注いでくることを選んで、暗闇の居間に上がって三杯分を用意するとふたたび明かりを消しておき、そうして自室に帰還して書抜きを行った。久しぶりに、ロラン・バルトのインタビュー集、『声のきめ』である。近藤和彦の『Substance』というアルバムを聞きながら三〇分ほど打鍵したあと、記憶ノートに情報を増やしておき、二時に就床した。


・作文
 11:28 - 12:04 = 36分(メッセージ)
 12:43 - 12:55 = 12分(9日)
 20:51 - 21:33 = 42分(7日)
 22:21 - 22:39 = 18分(7日)
 22:39 - 23:31 = 52分(2日)
 23:58 - 24:02 = 4分(9日)
 24:08 - 24:51 = 43分(8日)
 計: 3時間27分

・読書
 20:19 - 20:38 = 19分(日記)
 25:03 - 25:30 = 27分(バルト; 書抜き)
 25:32 - 25:47 = 15分(記憶ノート; メモ)
 計: 1時間1分

・睡眠
 3:00 - 10:20 = 7時間20分

・音楽