2020/2/16, Sun.

 おくすり手帳が自分を代弁してくれるので、たすかっている、かれは「じぶんのことば」がこわい。壊れている。からだもことばも壊れていて、自己同一性を偽ってくる。椚くんのまえにいると、ただ大人がそこにいる状況そのものを求められているとおもうのでかれはらくだった。それに夜の徘徊という行動と役割がよく合っていて、「じぶんの語り」が騒ぎださない。しずかだ。からだがからだのままで、とてもしずか。まるでレンドルミンをのんで三十分たったところのじぶんのからだみたい。
 帰り道、ようやく陽が沈んでかれは泣いてしまい、まるで十九世紀文学みたいに「おお、迸りし我が涙よ……!」と心中で語りかけているので、だいぶ気分がよいほうだった。分裂していても人前に出られるならそれでいいのだが……。社会的な自殺と肉体的な自殺と、ちかしいようでずれていて、その時間差こそが真実つらい。景色もなにもわからないぐらいだ。
 (町屋良平『愛が嫌い』文藝春秋、二〇一九年、40; 「しずけさ」)


 一〇時のアラームで一旦目覚めたものの、敢えなく寝床に立ち戻り、重い惰眠を貪った。最初の覚醒時には雨が降っていたようだが、正午頃には既に止んでいたらしい。上階で母親が帰宅した気配が伝わってきて、それで意識を大方はっきりさせた。母親は誰かに向けて明るい声で絶え間なく喋りかけていたが、しかしその返答がこちらの耳には届いてこない。相手が父親にしては重い足音も声も聞こえないし、母親の声のトーンも父親に対して話しかける時のものとは違うように思われる。それで誰か客人を連れてきたのかなと思いながらひとまずベッドを抜けて廊下に出た。階段の下で階上の様子を窺ってみると、母親の言葉に対する返答の声がここでは聞こえて、それでYさん(立川の叔母)が来ているのだなと知れたので、ぼさぼさの頭と寝間着姿のまま安心して段を上がっていった。どうも、と低い挨拶をすると、炬燵に入った彼女に、肉がついたんじゃないと言われるので、そうなんだ、と微笑を浮かべて肯定する。良いよ、良い感じだよ、とYさんは言うのだが、この辺りのトーンと語調は夫であるYちゃんの声色とちょっと似ているものだ。彼女と母親は青梅マラソンを見てきたのだと言った――と言うのは、Yさんの次男であり、従ってこちらからすれば歳下の従弟に当たるYがこの大会に出場していたからだ。彼は(……)の教師をしているのだが、職場の先輩に誘われたと言うか、半ば無理やりのような形でエントリーさせられたらしく、それで母親とYさんは、最寄り駅前でランナーの群れを眺めていたところ、具合良くYが走っているところに遭遇できて、声援を贈ってから帰ってきたところというわけだった。
 こちらは寝間着からジャージに着替えて、洗面所に入って髪の毛を落着かせたあと、食事である。母親が台所の調理台の上に皿をいくつも並べてYさんの分も用意していた――五目ご飯の類にサラダに即席の味噌汁などである。こちらはそれを受け取って炬燵テーブルに就いているYさんのもとに運び、即席の味噌汁にも電気ポットから湯を注いでやった。それから自分の分の五目ご飯をよそり、サラダはボウルに入れたままに卓に置いて、青梅マラソンの中継映像を見ながらものを食べはじめた。昨日は昼から出かけて成城学園前というところに行き、一日過ごして終電で帰ってきた、それで今日この体たらくですよと弁明するようにYさんに向けると、そうやって出かけられるようになったから良いじゃない、と彼女は答えた。A家の方では、ちょうどここでAB家――と言うのはYちゃんのお姉さんの家のことだが――の長男(Kと呼ばれている人だ)が結婚することになって、昨日はその祝いで飲めや食えやの大騒ぎだったと言う。
 母親も炬燵テーブルの側面の方から就いて、食事を取りながら仕事の話をしていた。「(……)」の仕事を始めたという事実をずっと伝えていなかったのだが、この日になってようやく明かしたらしい。それでまたお定まりの、家にいると楽なように見えても実際にはやることがたくさんあるし、まだ何かできるんじゃないかと思って、という言を繰り返して、仕事を始めた理由を説明していた。食事を終えると母親が注いでくれた茶を啜り、またのちには父親がバレンタインデーに貰ってきたチョコレートケーキが切り分けられて提供された。この時には母親とYさんはコーヒーを飲んでいた。Yさんはお茶で良い、と言うかむしろ、コーヒーはカフェインが強いのでお茶の方が良いと言ったのだが、母親がコーヒーをやたらと飲みたかったらしく、飲まない? 飲まない? と何度も誘っているうちにYさんも、そんなに言うんだったら一緒に飲むよと笑って応じたのだった。こちらは引き続き緑茶を啜り、また甘味を摂取しながら、最近はヨガの真似事をやっているのだとYさんに話しかけ、それで、一つ良いポーズがある、「胎児のポーズ」というやつだと言い、テレビの前に仰向けになって膝を抱え、実際に姿勢を取って自らの身体で図示し紹介した。良いじゃない、とYさんは肯定する。
 そうして二時前に至り、Yさんは帰ると言うので、こちらと母親も最寄り駅まで見送りに行くことにした。こちらはジャージにダウンジャケットを羽織ったままの色気のない格好で、足も靴下を履かず裸足のままで、労働時にスーツに合わせている暗褐色の靴を履いた。家の前に出ると、隣家の敷地との境にある物凄く小さな花壇――低い木枠のようなもので囲まれたなかに、パンジーだか何だかがほんの僅か配されているだけの侘しいものである――について、これはうちでやってるのとYさんに尋ねられた。把握していないが、多分そうだと答えると、ほかには我が家の向かいの家について、ここは今、人が住んでるのかと問われたので、下のOさんっていう……と話しだすと、Sちゃん、と名前が来るので肯定し、そのSちゃんが時々使っているのだと回答した。そうこうしているうちに母親がやって来たので出発し、彼女が家の前の今はもう正式な道ではなくなってしまった林のなかを通って行こうと言うので、落葉の敷かれたなかに踏み入り、上っていった。最初のうちは獣道めいていたが、ちょっとなかに入るとまだ一応木の段が残っており、充分に歩いて通れるような環境になっていた。薄褐色の落葉が織り重なって堆積し、段のあいだの地面を隙間なく埋め尽くしており、地面というものの地位と役割を奪い取ってしまったような感じだ。道が閉ざされて以降はほとんど誰も立ち入っていないはずで、当然掃除もなされるわけがないので、この秋冬のあいだじゅうずっと降り積もったものがそのまま完全に残っていたはずである。
 表通りに出ると街道をランナーの群れが続々と走って繋がり、様々な色で組み合わされたうねりを生み出している。歩道を行きながらYさんは、頑張れ頑張れ、ファイトー、と、誰も疲労した顔の走者たちに声援を贈る。最寄り駅前まで来て見ていると、随分と折よくYが現れたので、女性二人は途端に高い声を上げて応援を浴びせかけ、こちらも手を叩いて盛り上げた。Yは、脚が! 脚が! と苦しそうに叫びつつも満足げな表情を浮かべながら、上着か何かをYさんに放り投げて渡し、去っていった。行きも帰りも遭遇できたとは運が良いものだ。それからちょっとマラソンを眺めたあと、ランナーたちのあいだに僅かに生まれた切れ目をついて通りを渡り、駅の階段に入った。振り向いて表の方を見やると、小さな女児が旗を振りながら段から下りて歩道に駆けていく姿が見え、階段を上るあいだも、その女児のものかわからないが、ちょっと舌足らずであどけない調子の子供の声で、頑張れー! と繰り返し叫ぶ爽やかな応援が聞こえてきた。階段通路を抜けて駅のホームに入ったところで電車到着のアナウンスが入った。やって来た電車は、応援の人が引き上げてきたり、また棄権したランナーも乗っていたりするようで、だいぶ混み合っていた。その客たちの隙間にYさんは乗っていき、我々は手を挙げて別れを交わし、ホームを引き返して駅前に出たあと、横断歩道のところに立っていた若い整理員――警備員なのか、警察官なのか――に会釈を掛けて、渡りたい旨を申し出た。すると、今は、なかなか……というような、苦しげな表情を男性が浮かべるので、無理でなく、自然なタイミングでと笑って付け加えると、今やっぱり、一番混んでますねと警官は言った。しかしじきにちょっと途切れが発生して、今、どうですかと向けられたのに対して、渡っちゃいますと急いで答えて慌てて渡り、無事帰路に就くことができた。
 駅正面の坂道に入ると、道が分かれるところで母親が、こっちから行こうよと、左方にちょっと上がっていく細道を示す。そちらは行きにも通った林中に繋がっているのだが、こちらは別の道から行きたかったのでそこで別れ、木の間の坂を下っていった。朝の雨で路面は濡れており、湿り気の籠った柔らかい空気が涼やかに立ち昇って肌に心地良く、頭上に垂れる枝葉の先には露が引っかかって、空は端的な曇りで陽の揺蕩いはないものの、無数の雫はその天の白さを映し取って微小な真珠玉の散乱のようになっている。道を下りている途中で脇の壁の上の茂みのなか、枝の上に、草を鳴らしながら鳥が一匹現れたのに気がついて、立ち止まって首を曲げ、鵯だろうかと視線を上げた。鳥は鳴きもせずにただ辺りをきょろきょろと見回して、こちらの視力や距離の問題かそれとも光源の問題か、その姿は細部まで仔細には見分けられず青灰色めいた暗い色調の動く切り絵と化していたが、傍には山茶花か何か鮮やかに赤い花の塊が一つだけ、ほとんど唐突なまでの静かな闖入感で灯っていて、いかにも花鳥風月的な、俳句になりそうな主題だなと思われた。止まって見上げているうちに鼻がむずむず痒くなってきて、ここでくしゃみをしたらその音で鳥が逃げてしまうのではないかと思いながらもしかし留められず、三度連発すると果たして鳥は途端に飛び立って樹々の合間に姿を消した。続く道に人はおらず、辺りは静謐である。濡れた緑のあいだ、風が流れても大気が停まっているかのような昼下がりの涼気のさなかで、その時空固有の味わいを感知した精神が伸びやかに広がり静穏に落着いていく――キャサリン・ドリスコルの家を初めて訪問したその帰路のストーナーが五感を世界に向けて漂わせながら、こうした瞬間だけで充分だという満足感を得た場面を思い出し、その気持ちがわかるような気がした。

 外は暗く、夜気は早春の肌寒さをたたえていた。ストーナーは深く息を吸い、冷気に体をくすぐられる感覚を味わった。アパート群のぎざぎざの輪郭の向こうで、夜霧の薄い層の上に、町の灯りが輝いている。通りの角に立つ街灯が周りの闇に弱い光を投げかけ、その向こうの闇から突然、笑い声が湧き起こって、黙[しじま]にたゆたい、消えた。家々の裏庭で焼かれたごみの煙のにおいを、夜霧が抱きとめている。暗い道をゆっくりと歩くストーナーは、そのにおいを肺に吸い込み、鋭い夜気を舌で味わいながら、今のこの瞬間だけでじゅうぶん、これ以上、あまり多くのものは要らないという気持ちになった。
 (ジョン・ウィリアムズ東江一紀訳『ストーナー』作品社、二〇一四年、222)

 平らな道に抜けて自宅に向かって東に歩いていると、前方からNさんがやって来て、まだちょっと距離があるうちにあちらも気づいてこんにちはと声を放ってきたので、どうもと挨拶を返した。Nさんは静かな通りに反響するような大きな声で、お父さん、(……)の役を務めることになったんだって、と向けてきたので、肯定して近づき、大役を務めさせていただくことに、と頭を下げた。大変ですけどねえ、またよろしくお願いしますとNさんは言い、それから、今はどこに行ってきたのかと訊くので、マラソンを見てきたのだと答えると、相手は勢いこんで早口になり、ああ、俺もあっちでずっと見てたんだよ、と顔を綻ばせる。自治会館前だと言う。僕は駅前で、とこちらが返したあと、最後にふたたび祭りの役のことに話は戻って、別の人から聞いたんだけどねとNさんは付け加えて言った。それでまた会釈し合うとともに挨拶を交わして別れ、通りを行って帰宅すると、居間のソファに就いた母親が、誰? と訊くので、結構距離があったが、多分母親が家の前の林を下りて帰ったところに声が聞こえていたのだろう。Nさんだと答え、(……)役について言われた、あちらもマラソンを見ていたらしいと報告してから、風呂を洗いに行った。
 眠りすぎたためか、あるいは前日の疲労が残っているのか、いずれにせよ身体が固く、頭蓋も頭のなかも固いようで痛みが痼[しこ]っていた。それで室に帰るとこめかみをほぐしながらインターネットを回り、三時に至った辺りでベッドに移って、dbClifford『Recyclable』の流れるなかで「胎児のポーズ」を取って丸まったり、またこめかみや頭蓋を指で押してほぐしたり、脚上げ腹筋を行ったり床に立って立位前屈を行ったりした結果、肉体の感覚はだいぶ軽いものになった。三時四五分からこの日のことを下書きしはじめて、現在時刻まで追いつくと早くも五時に至っていた。前日のことをまずは記録しなければならないのだが、あまりそちらに気力が向かない。むしろ溜まってしまっている過去の日記の方が気にかかっているので、八日の分を進めるのが良いのかもしれないが、それにはそれで気力が必要だ。
 五時過ぎからはしばらくだらだらと過ごしたような記憶がある。ヘッドフォンからはDee Dee Bridgewater『Live At Yoshi's』を流していたと思う。このライブアルバム冒頭の、"Undecided"のベースソロが、Bridgewaterのスキャットと掛け合い絡み合う場面も含めて大層素晴らしかった。これこそがジャズだ。六時からロラン・バルト石川美子訳『零度のエクリチュール』の書抜きを始めている。書抜きも読書ノートへのメモも記憶ノートの復習もなるべく毎日進めるべきなのだが、とにかく日記の作成に追われていて、日記が現在時に追いつかないことにはどうしようもない。あるいは、もはや記述を現実の生に追いつけることなどは不可能事だとひらき直ってしまうべきか? ともかくこの日は久しぶりに書抜きを行って、そうして七時前に至ると八日の日記を進めた。一時間強を費やし、八時を越えたところで中断して食事に行った。
 父親も既に帰ってきており両親は炬燵テーブルに二人で並んで食事を取っていた。夕食のメニューは五目ご飯に大根やら豚肉やらの煮物、鶏の笹身のソテーに、パプリカや玉ねぎやレタスなどの野菜を合わせた生サラダといったところだ。食事を用意して卓に運んでいると母親が父親に向けて、今日Nさんに会ったんだってとこちらの身に起こった邂逅に言及する。(……)役務めることになったんだって、って言ってたよと報告すると、そうだS、と父親は声を掛けてきて、お前、付き人の役目、やってくれよと言った。それに対してこちらは無言でちょっと見つめ返したあと、できれば……とゆっくり口をひらき、できれば避けて通りたい、と消極的な姿勢を見せたが、できればやってもらいたいと父親は言う。料理を運びながら、まあどうしてもと言うのならばやるほかはないがと諦観を吐くと、どうしてもだと言うので、卓に就いて食事を始めながら、しょうがないねと受け入れた。可能ならば人の目に立つ表舞台などに立ちたくはないが、公の役目というものも何らかの価値を帯びた一つの経験ではあるだろう。信じがたいことだがもう三〇歳にもなるわけだし、そうした務めをこなそうと思えば問題なくこなせるほどの年月は生きてきたつもりである。やるということが決まってしまったからには、覚悟を決めて粛々とこなすほかはない。それに役目と言ったところでやることは単なる付き人、(……)役である父親の横で提灯を持ちながらただ控えているだけの簡単なことだろう。
 その後食事を取りながら、実行委員会のお偉方あたりと顔合わせをしておくようだろうと問うと、衣装納めというイベントがあると言う。勿論実際には自費で購入することになるわけだが、体裁上、委員会の方から役目の人へ着物を受け渡すという正式な場があるので、その時にちょっと顔を合わせておいても良いだろうとのことだった。まあやはり挨拶はしておいた方が良いだろうと受けると、父親も頷く。それからものを食べるあいだ、また皿の上の料理を平らげたあとも、両親とのあいだでいくらか近隣の人々についての話を交わした。Nさんと会ったとか、Yさんと話したとかそういったことだ。母親からするとNさんは話が長くて、捕まると面倒臭い相手らしい。こちらと顔を合わせた時には、さすがに五〇年以上もの年齢のひらきがあるからだろうか、さほど長話をされる印象はなく、会話は比較的すぐに終わって別れるのが常だが、母親と会った時などは三〇分くらい話したりすると言う。父親もあの人は話が長くて、と苦笑し、自治会の会合の時の挨拶などを任せるといつまでも喋っているから辟易されるのだ、というようなことを言っていた。それに対してこちらは、でもまあ聞いていると結構面白いよと言って最寄り駅で会った時のことを話した。戦後すぐに車の免許を取ったのだがその時代には立川にしか自動車学校がなかった、受講代は当時の月給の何か月分だったとか、あるいは息子は自分のところに来なよと言ってくれるのだけれど、やっぱり家内が(病院だかホームだかに)入っているもんだからここにいた方が都合が良いとか、そういうことを話してくれたのだった。やっぱり一人暮らしの老人だから寂しくて話を聞いてくれる相手が欲しいんだよと母親は言ったが、まあそういうことは実際あるかもしれない。父親も、Sみたいに話をよく聞いてくれる若者はいないだろうからなと評価を述べたが、それもその通りだと思う。こちらは自分でも、結構裾野が広いと言うか、今どきの若者(そう、こちらはまさしく今どきの若者なのだ)のわりには年嵩の人々ともわりあいによく話ができる方ではないかと思う。やはり日記を書くという習慣があるとどんな話であっても一応主題になり得るので、人から話を聞くというのは、それがどんな相手であってもいつもそこそこ面白いものなのだ。
 その後、入浴に行った。風呂のなかでいつものように目を瞑って沈思していると、発情期なのか最近よく聞くのだが、外で猫が大きく波打つような鳴き声を上げているのが伝わってきた。そのあとで雨が降りはじめて寄せてくる響きもあったが、これはすぐに止んだものか、あるいは安定期に入って空間に拡散し、響きを希薄にして溶けこんだようだった。短歌もちょっと考え、室に帰ったあとも案を練った結果、三首が生産されたのでTwitterに投稿した。

 一滴の血を眼球に垂らしたら夜の起源がほの見えるかも
 親指の傷と傷とで接吻し血を混ぜ合って夜を生き抜く
 交差点雑踏のなか誰も見ない鳩の死骸の裏の深淵

 一〇時直前から一年前の日記を読み返している。そのなかには、「この日記における一番の目標というのはただ書き続けること、縮小再生産でも良いので死ぬまでこの文章を書き続けるということ、その一点に尽きる。勿論やめたくなったらいつでもやめてしまえば良いのだが、今のところは書き続けるということが目的になっているので、それが出来るような書き方を目指すべきだ。要は完璧を目指すことなどはせず、無理せず、楽に書いていけるような体勢を整えるべきだということだ」との記述があったのだが、その一文目には完全に同意できる。二文目もまあ気持ちはわかるし、理屈も理解できる。しかし三文目には賛成できない。生ぬるく、圧倒的に甘いと現在の自分は考える。むしろもっと完璧を目指し、それでいよいよもう書けない、この書き方では書き続けることができないというところまで一度至り、ぶち当たらねばならないように思う。一年前のように気楽で整っていない書き方を続けていても、それではやはり何にもならないのではないかという思いを禁じ得ない――とこの日過ごした時点では思っていたのだが、それから一〇日が経過してしまった現在、早くも現実というものの壁に「ぶち当た」り、「この書き方では書き続けることができないというところまで一度至」っている感じがする。二月二六日本日、やはり毎日の日記という営みにおいて記録性と形式性とを両立させるのは至難の業であると痛感したところだ。その双方を高度に確保する我儘ないいとこ取りは苦難の道にほかならず、細密な記録を旨とするならば文の質は多少なりとも縮減して書き流しに傾き、一文一文の精緻な構築性を求めるならば記録としての詳細さはいくらか犠牲にして書くことを絞らねばならない、ということである。そのあいだの上手なバランス配分を探らなければならないが、今のところは後者の道の方に気持ちが寄っている。記録としていくらか不完全と言うか、隙間の多いものになったとしても、一文一文を着実に、堅固かつ緊密に形作っていきたいという欲求が強いのだが、とは言えこれもまたそのうちに逆の方向に一気に翻るかもしれない。いずれにせよ、先の引用の一文目、この日記の目的はできる限り続けることそのものであるという点は完璧に正しいのであって、「無理せず、楽に書いていけるような体勢」というところまでは負担を減らさず多少無理が生まれたとしても、継続を途切れさせるということだけはあってはならないと思う。
 The Dave Pike Quartet『Pike's Peak』を聞きながら八日の日記を進めて日付替わりを迎えた。時間というものはまったくもって、絶対的に、ほとんど絶望的に足りないものだなと思った。疲労感が肉体に満ち渡っていたので、ヘッドフォンをつけたままThe Dave Brubeck Quartet『Time Out』を流してベッドに移り、冒頭の曲を聞いて構成がなかなかよくできているなと感心しながら「胎児のポーズ」を取っていたのだが、そのうちに単なる仰向けの姿勢に伸びてしまい、眠気に刺されて意識を失った。気がつくと、三時頃だったと思う。仕方がないのでそのまま就寝した。


・作文
 15:45 - 17:00 = 1時間15分(16日)
 18:52 - 20:09 = 1時間17分(8日)
 22:42 - 24:10 = 1時間28分(8日)
 計: 4時間

・読書
 18:01 - 18:49 = 48分(バルト; 書抜き)
 21:58 - 22:28 = 30分(日記)
 計: 1時間18分

・睡眠
 3:00 - 12:30 = 9時間30分

・音楽

  • dbClifford『Recyclable』
  • Dee Dee Bridgewater『Live At Yoshi's』
  • David Bowie『A Reality Tour』
  • The Dave Pike Quartet『Pike's Peak』
  • The Dave Brubeck Quartet『Time Out』