2020/2/21, Fri.

 …… ようするに、生きがいなんておれはいらないなー、なんておもえてくるわけですよ。生きがいでだれかを虐げているばあいじゃないのです! なんだかとうとつな結論ですけど、なんかこないだ、うっかり川におちて、いや、そんなたいしたことにならなかったんですけど、久々に川で遊ぶ? みたいに自然に誘われまして、泳いでしばらくしたら、すごくそうおもっちゃった。生きがいに搾取されないで生きていたいなって。これ、すごく難しいからね! 日々は勝手に生きがいを要請するんです。それが人間ってやつだ。けどねー。おれには合わんとおもっちゃって。無理ーってなって、白目むいちゃいますー。ちょっと前美術館で見た、モディリアーニってひとの人物画みたいにね! あはは
 (町屋良平『愛が嫌い』文藝春秋、二〇一九年、270~271; 「生きるからだ」)



  • 朝食を取りながら視線を南の窓外に送り出すと、近所のある屋根を形成している面のうち、北側の三角形が溶けた金属の海のように輝いて、襞を完全に失っている。光は大気中に豊富に混ざって景色はいくらか霞んだように白んでおり、川沿いの樹々の爽やかな薄緑も柔らかな質感を帯びている。風はないのかと見ているうちに枝葉が軟体生物のように緩慢に撓みはじめたその川向こうの木叢のなかには、何なのか正体は知れないものの陽射しを収束・反射させる小断片がいくつか覗き、白昼でも光を失わない地上の星のごとくである。しばらく経つと鳥が三匹、川の上空を右から左へと渡っていったが、その姿は鳥と言うよりも、はたはたと細かく上下に震えながら白さを跳ね返す薄い円盤状の光点そのものだった。
  • (……)
  • 一年前の日記を読み返したところ、分量としては長いわりに特に印象に引っかかる記述がなかったので、もっと気張れよ、もっと文を形成することに苦しめよと思った。
  • 午後二時、ベランダに出てロラン・バルト/藤本治訳『ミシュレ』を読んだ。鳥の声が辺りにたくさん散って、世界のなかを漂っている。眼下の梅の樹は花が増えたようで白さが厚く、密に重なっており、盛りと言って良いのではないか。太陽に照らされても決して溶けない雪のような、濁りなく清冽でかつ柔らかな白が、眩しいように風に揺らいでいる。朝には空にいくらか雲が混ざっていたはずだが、今は糸の一本ほども見当たらず、首を曲げれば視界はすべて皺も綻びもなく精密に、完璧な水色で塗り尽くされている。
  • 夕刊に曰く、ウクライナで、武漢から政府派遣の飛行機で帰国したウクライナ人七〇人ほどがいくつかのバスに分かれて医療施設に向かっていたところ(彼らはそこで一四日間の隔離を受ける予定だったのだ)、当該施設の近辺で地域住民ら数百人が一時道路を占拠し、また投石も行ってバスの通行を妨害したと言う。カロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』で取り上げられていたクラウスニッツの難民バス妨害事件を思い起こさずにはいられない。

 クラウスニッツでは、単に人が不可視の存在とされたばかりではなかった。バスのなかの難民たちは、クローディア・ランキンの作品に出てくる地下鉄のなかの少年のように、人の視界に入らなかったわけではない。憎むべきなにものかとして知覚されたのだ。(……)
 バスのなかの難民たちは、一方で個人としては「不可視」の存在とされた。この世界を構成する「我々」の一部とはみなされなかった。独自の歴史、経験、個性を持った人間とはみなされなかった。だが同時に、彼らは「他者」として、「我々ではない者」として「可視化され」、または作り上げられた。彼らを不気味で、忌まわしく、危険な集団に仕立て上げ、烙印を押すさまざまな特徴が投影された。「異形と不可視とは、他者のふたつの亜種である」と、イレーヌ・スキャリーは書いている。「一方は誇張された姿で目に入り、目を向ければ嫌悪感を催す。もう一方は目に入らず、それゆえ最初から存在しない」
 クラウスニッツの映像に映っているのは憎しみだ。そして憎んでいるときには、憎しみの対象は重要で巨大で不気味なものでなければならない。それには、現実の力関係を独特の形で逆転させることが前提となる。クラウスニッツに新たにやってきた者たちは、明らかに弱者だった。だが、彼らは非常に危険な存在でなければならない。たとえ逃避行のあいだになんとかなくさず持ってきたビニール袋やリュックサックの中身以外にはなにひとつ所持していなくても、この地で自身の意見を表明し、自身を弁護するための言葉を話せなくても、もはや自分の家を持っていなくても。危険な存在である彼らに対して、自分は無力だと主張する者たちが抵抗しているという構図が成立しなければならなかった。
 (カロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』みすず書房、二〇一八年、45~46)

 (……)確かなのは、バスの進路を妨害した者は皆、明らかに争いを望んでいた[﹅5]ということだ。難民を恐れているはずの者たちが、その難民を避けて[﹅3]はいないのだ。難民たちは嫌悪され、避けられたのではなく、まさにその逆だった――すなわち、彼らはわざわざ探し出され、争いの場に引っ張り出された。抗議する者たちの決定的な動機が(彼らが主張するように)不安や懸念だったのなら、彼らは難民たちに近づこうとはしなかったはずだ。不安でいっぱいの人間は、危険な対象とのあいだにできるかぎり大きな距離を取ろうとするものだ。だが憎しみは逆に、その対象を避けたり、対象から距離を置いたりすることができない。憎しみにとっては、その対象は手の届く距離にいて、「破滅させる」ことができなくてはならないのだ。
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  • 米国はカリフォルニア州議会において、第二次世界大戦中の日系人強制収容に対して謝罪をするという決議が全会一致で採択されたという報もあった。
  • 風呂に浸かりながら、換気扇の音などの外界の音声情報や、自らの肉体に属する知覚刺激――皮膚の痒みのほか肌の上を汗の玉がくすぐる感覚など――や、こちらが思念=言語と呼んでいる内的表象あるいは脳内の独語などにそれぞれ意識を向ける。最後の内的発声を聞き続けていると、数年前にも同様に抱いた感慨だが、自分自身がものを考えているのではなくて言語が主体となって考えているような感じがしてくる。言語という他者が(言語とは言うまでもなく、その根源において他者から獲得するほかないものである)こちらの頭を棲み家とし、あるいは束の間の宿り場としてまさしく去来し、こちらの代わりに――と言うか正確にはこちらの脳を利用・活用して――思考を産出している、というような。だからこちらが意志的な行為として実行するのは、それをなるべく正確かつ十全に聞き取り、定かな形態として捉えるだけ、ということになる。
  • 我々はよく「心の奥」という言い方をするものだが、これは一種のメタフォリックな捉え方であるはずで、心とか内的意識というものに、奥とか前面とかそういう階層のようなものがあるということが確かなのかどうか、本当のところはわからないのではないかとも思った。無意識という観念が人間の思考のうちに登場するのはいつからなのだろう。明確に理論化したのは無論フロイトなのだろうが。
  • もしかすると意識には表層しかないのではないか、という気もちょっとしないでもない。その時その時の表層が仮初めに縫合されて何とか繋がっている、というような。