2020/2/22, Sat.

 政治的イデオロギーとしてのナチズムは、戦争と闘争を中心に展開した。つまり、戦いは国家の主要目的であると同時に「民族」の健全さの尺度でもあったわけだ。ナチズムのイデオロギーは戦争のイデオロギーであり、平和は戦争の準備期間にすぎず、敵とみなした人種とは永遠に戦い続けるのが当然だった。このイデオロギーヨーロッパ大陸の人種地図を塗り替えるべく引き起こされた戦争によって現実のものとなる。
 (リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』中公新書、二〇一五年、3; 「序論」)



  • 朝。空には輪郭を曖昧化した雲が複雑に組み合わされた半島風の地形として混ぜられており、太陽はそのなかに包まれて、閉じた視界を押す光の圧はほとんどなく、瞼の表面に中立的に触れてくるのみである。
  • slackにTの投稿があった。"C"の1サビの右ギターについてKくんが、休符の空白が気になるという指摘をしたらしい。K夫婦は本日二二日の夜に新婚旅行で出向いたハワイから帰ってくるのだが、明日二三日にTDの家で作業をできないかとTは打診をして、TDの方は五時までなら家にいるのでウェルカムだと了承を返していた。
  • 前夜の夕刊でも読んだが、ウクライナ東部で地域住民が武漢帰りの人々の受け入れに「抗議」して、道路の占拠や投石でバスの通行を妨害したという事件がこの日の朝刊でも伝えられていた。この朝刊の記事では前夜の報には見られなかった「暴徒化」という言葉が新たに用いられており、厳[いかめ]しい様子で腕を組み合わせて並びながら警官隊の列と対峙している男性たちの写真も載せられていた。自らの正当性をまったく疑っていないらしい雄々しい表情である。
  • 一一時過ぎから一五日の日記を書き進めたのだが、書いている途中で文の流れが滞る時など、ほとんど反射的にそこから逸れ、停滞の前に留まらずに逃げ出して、ひとときTwitterを覗いたりするような動きが生まれてしまう。文を作成し言語を感じ取るという時間の持続のなかにもっと強く入りこみ、定かに身を据え、沈潜し、留まらなければならない。
  • 玄関の戸口をくぐると、隣の空き地の四隅に立った黄色の旗が空気の流れに身をうねらせている。道に出れば行く手には日向が敷かれてあって、奥からやって来る車の鼻面にも白く満ちた光点が収束し、歩いていくあいだ、路傍の林の高みでは竹が左右に傾いで雪崩れるような葉の連なりを擦り合わせ、さらさらと涼やかな音響を絶え間なく降下させてくる。近間の屋根が庭木の向こうで高エネルギーを凝縮された恒星を宿したかのようにまばゆい発光体と化しており、道端に生えた細長い櫛型の葉も光に触れられて白く凍りついていた。小公園の桜の樹に目をやると、その枝ぶりは横に、水平方向に広がって、細かく分かれながら空中に伸びて差しかけられて、風にも動かず固まっているが、幹の途中から突き出したその姿のいかにも唐突で、台風の猛攻に折れかけた枝がそれでも辛うじて本体に繋がりしがみついているかのようなさまだった。
  • 最寄り駅に着いてホームの先に向かうと、線路の向こうの道の奥に救急車が停まっており、音は出さずに屋根のランプを赤く回転させている。それに引き寄せられたのだろうか、七歳ほどと見える小さな女児がホームの一番端まで行ってしばらく立ち止まり、視線を送っているようだった。こちらが一号車の位置に着くと女児は端を離れてちょっと戻り、僅かにひらいた水たまりの上に乗ってその場でいくらか足踏みを繰り返したあと、じきに飽きたようでそこを抜けて、こちらの背後を通り過ぎていく。水たまりにはその後も間歇的に波紋が生じて、まるで女児が去ったあとにもまだ足踏みで遊んでいる不可視の存在がそこにいるかのようだったが、ホームの左右に立った電柱のあいだを繋ぐ配管風の横棒がちょうどその上に掛かっていたので、多分そこから視認を許さぬほどにかすかな雫が人知れず滴っていたのではないか。
  • 青梅から立川までの電車内ではやはり、マスクをつけた姿や咳込みの音が目立ったと思う。正面の座席には四〇代か五〇歳ほどと見える女性が一人、就いていた。拝島を発ってまもなく急停車が掛かり、こちらは思わず隣の空席に手を突いて倒れないように支えを得たのだが、向かいの女性は電車が遅れることに不満のようで明らかなため息を吐き、事情説明のアナウンスが入ってからも囁き声で何とか漏らしていた。内容は聞き取れなかったものの、いかにも「最悪……」と呟いていそうな感じの雰囲気である。
  • 立川駅のコンコースでは今日もLUMINEの前にスタンドが出ており、様々な菓子の類を商っている。苺の挟まれたシュークリームが目に留まって、買って行って皆で食べようかともちょっと思ったが、外部で買った品を喫茶店に持ちこんで食べるという行いが許されるのかわからなかったので、決断しかねて素通りした。駅舎出入口脇の階段を下り、通りに出て短い道路を渡ったあとに歩道を行っていると、後ろから追い抜かしてきた人影にこんにちはと声を掛けられて、見ればNさんの姿があった。続いてAくんも後ろからやって来て、どうもと言う。二人とも、白いマスクで顔を覆っていた。二人は今しがた食事を取ってきたところだったが――あとで聞いたところ、ラーメンだったらしい――食べてすぐに歩いたから腹が痛いとAくんは笑う。
  • 銀座ルノアールに入店し、テーブルを囲んだ四人掛けの席に就く。注文は、こちらがコーラ、Aくんはいつものようにカフェゼリー・アンド・ココアフロートで、Nさんの品が何だったかは思い出せない。のちほど腹が減ってきたのでこちらは桜のモンブランを追加で頼み、同時にNさんもレアチーズケーキを注文した。桜のモンブランはクリームが当然ながら桃色で、桜の花弁の塩漬けが一つ上に乗っており、品のある甘さでなかなか美味かった。
  • 今日の読書会の課題書はジョン・ウィリアムズ東江一紀訳『ストーナー』である。Nさんからしても面白く、読みやすかったようだ。Aくんはバランスの良い小説だったと評価した――ただ物語を語るというだけでもなく、ストーリーが進行するあいだ、要所で風景や心情の細やかな描写が効果的に差し挟まれる、と。一人の人間の一生を描いた作品なので、誰でも必ずどこかしらに共感でき、自分と重ね合わせて感じ入るような箇所が見つけられるのではないかと彼は言った。翻訳の完成まで一頁を残して逝去した東江一紀に代わって、彼の弟子であるらしい布施由紀子という人が「訳者あとがきに代えて」という小文を添えているが、そのなかに書かれていた「誰もが自分を重ねることができる。共通の経験はなくとも、描き出される感情のひとつひとつが痛いほどによくわかるのだ」という評言を取り上げて、本を読むあいだまったく同じことを思ったとAくんは語った。彼はやはり、主人公ウィリアム・ストーナーに結構感情移入して読んだらしい。ただ、ストーナーは意外と、言うべきことを言うべき時にははっきりとものを言う強さを持っているが、その点は自分にはないものだと思った、とも言い、そういう点では自分はジム・ホランドに似ているとAくんは自己評価を下した。ジム・ホランドというのは作中一度しか出てこなかったと思うが、チャールズ・ウォーカーの口頭試問で審査員の一人として選ばれた新人の教員で、ローマックス教授とストーナーの対立に挟まれて所在なげにしているさまがAくんからするとまさに自分だという感じだったらしく、「でも、まあ、ぼくの目にはなんだか頼りなく映りましたね。どこがどうと具体的には言えませんが」という発言など、こういうこと、僕、めっちゃ言いそうだもん、と言う。――で、条件付き合格の案が出て、ほっと安心して、あ、これでやっと手打ちだ! って喜んで、良いですね、ってそれに飛びつくんだけど、ストーナーが駄目だって断言するもんだから、あ、もう自分にはできることはない、言えることはない、嵐が過ぎ去るのをただ待つしかない……みたいな、と言いながらAくんは実際にすごすごと身を縮めて小さく萎んだような素振りを取ってみせるので、それが面白くてこちらは爆笑した。
  • 日々サラリーマンとして頑張っている中年男性に読んでもらいたい小説、とNさんは言った。奥さんも自分にもう無関心になっていて、会社でもそこそこの地位に留まっている、そういう言わば「冴えない」中年のサラリーマンが読んだら、心に染み入るのではないかと言う。ストーナー自身がそういう境遇なので確かに感情移入する人は多そうだが、それに対してAくんは上にも記した言を繰り返して、中年とかサラリーマンとかに限らず、一人の人生を始めから終わりまで物語ったものだから、大体誰でもどこかしら共感できるところはあると思うよと応じた。「共感」という点から行くとこちらとしては、まあ一応塾講師の端くれとして人にものを教えるという種類の勤めをしているわけなので、教師としてのあり方みたいな部分に関しては、やっぱりこうでなくてはならないよなあと極々素朴に感じる面はあった。つまり、ストーナーがそれまであまり表に出してこなかった文学への愛をぎこちなくも表出しはじめたことによって学生たちが寄ってくるようになり、提出されるレポートにもささやかながら向学心の発露が現れるようになった、という展開があるのだが、そのようにして生徒たちを学びという営みへと巻きこんでいくことができたら良いとは一応は思う。ただこちらの属している現場は大学という高等教育機関ではなく主に高校受験生を対象にした学習塾であり、そこで求められるのは第一には知識の伝達及び成績の向上という退屈極まりない仕事なので、そこに「愛」が介入する余地などはほとんどなく、できることは限られているわけだが、それでも単にマニュアルに沿った無機質な授業をしていてもあまり意味はないし同時につまらないので、知識の伝達をするならばそれはそれでより良いやり方を探ってはいきたい。
  • Nさんはストーナーの妻であるイーディスがとにかく気に入らなかったと言うか理解できずにほとんど反感を抱いたようで、何なの? みたいな言葉を漏らしていた。結局どうしたかったのかがわからないと言うのだが、基本的にこの作品はストーナーの視点に沿っており、イーディスの心理や考えを描写する記述はほとんどなかったので、それも致し方ないのかもしれない。Aくんも、イーディスという人間の人生の目的が掴めないと言うか、大抵は誰でもこういう生を送っていきたいというようなヴィジョンが多少なりともあると思うけれど、彼女に関してはそうした内心が見えなかったと言い加えていた。また、ストーナーに対する仕打ちがとにかく酷い、とも評する。ストーナーの書斎だった部屋を勝手に自分の趣味に使う場所と決めて彼を追い出してしまったりとか、おそらく半ば故意によってストーナーの大事な書類を雨に濡らして読めないようにしてしまったりとか、そういう傍若無人な振舞いが描かれているのだが、あんなことされたら普通にキレるでしょ、とAくんは言った。その点で言うとストーナーという人はとにかく忍耐強い人間として描かれている、そんな仕打ちを受けても妻を怒らないし、むしろ、自分がもっとイーディスのことを愛していたら、と内省している場面すらある、とこちらは指摘した。そういうのってどういう気持ちなの? とNさんがAくんに訊いたのだが、それに対して、諦めでしょ、とこちらが口にするのと、諦念みたいな、とAくんが答えるのはほぼ同時だった。
  • イーディスという人間が確かにこの小説のなかでは一番歪みがあると言うか畸形的と言うか、一筋縄では行かない妙な不気味さめいたものを醸し出していたような気はする。こちらの印象に残っているのはやはり彼女の豹変ぶりで、結婚して最初の夫婦の交わりの際には事が終わったあとに嘔吐してしまうほどに潔癖な女性だったのに、そこから数年経つとある朝突然に子供が欲しいと言い出して欲望の衝動に支配されるようになるのだ(ちなみに、その肉欲の疼きは彼女が子を妊娠したその瞬間から雲散し、イーディスはふたたび夫との肉体的接触に対して冷ややかな嫌悪を抱くようになる)。その転変ぶりも無論印象深いのだが、そのなかでもとりわけイーディスの変貌が露わになる直前の場面が記憶に残っている。と言うのはすなわち九八頁から九九頁における記述のことで、ここは語りがストーナーの視点から離れて、ストーナーが目にしていないイーディスの行動に束の間焦点が当てられる数少ない――と言うかもしかしたら唯一だったかもしれないが――箇所の一つなのだが、イーディスはストーナーが大学に出かけていったあと、服を脱いで裸身となり、鏡に自らの肉体を映してまじまじと観察したのち、ベッドに移って、「シーツをならして、その上にあおむけに横たわると、両脚をまっすぐ伸ばして、両腕を脇につけた。瞬きも身じろぎもせず、天井をじっと見上げて、午前中ずっと、そして午後も長い時間、待ち続ける」(99)。その後、ストーナーが帰宅すると、彼女は呻き声を漏らしながらまるで血肉を求めて襲いかかる獣のように夫に迫り、半ば無理やりのごとく情交するのだが、その直前に置かれたこの無言の静けさ、不動性の形象が、この作品のなかで最も不穏かつ不気味に感じられたイメージである。
  • 会話の一番初めの方で、ウォーカー何なの、ローマックスは何であんなにウォーカーに肩入れするの、というような話も出て、そこから、とは言えストーナーの方もいくらかウォーカーにこだわりすぎていると言うか、随分と意固地になっている印象も受ける、と指摘したその流れで、それじゃあ俺が気づいた点に早速入ってしまうかとこちらは言って、例の、ウォーカーに対する口頭試問の場でストーナーが自らの鏡像を見て抱いたイメージと、遥か昔のデイヴィッド・マスターズの発言とのあいだに対応関係があるという発見を紹介した。これに関してはしかし、二月一二日の日記に記したので、ここに改めて書くことはしない。こちらが読解を披露すると、Aくんはよく気づいたなあと称賛してくれ、それから、ほかにこういう対応に気づいたところはある? と訊くので、大きなものとしてはまさしく最後の、死の場面だともう一箇所についても説明した。ストーナーが死去して幕を閉じる結びの直前に記されている言葉と、最序盤における彼の象徴的な生誕あるいは生まれ変わりの場面の記述とが似通っているという点だが、これに関しても二月一五日の日記に紹介したのでここでは繰り返さない。
  • Aくんの会社では、睡眠時間を報告させられると言う。彼は最近はひどく忙しいこともあって四時間程度の睡眠で頑張っていたのだが、すると上司に、お前さすがに四時間では短すぎる、六時間くらいは眠らないとと釘を差された。ところがそこに新型コロナウイルスの騒動に発した事情が重なって、満員電車を避けろとのお達しが出たらしく、普段よりも早く――出社が遅くなるのではなくて――通勤して人混みを回避しなければならない。そういうわけでAくんは現在、午前五時に起き、七時には会社に到着しているような生活を送っており、それで六時間の睡眠を取らねばならないとなれば、当然午後一一時には床に就かなくてはならない。勤務を終えて家に帰り着くのは七時だか八時だかそのくらいで、食事を取ったり風呂に入ったり日記を書いたり諸々のことをしていると一一時などすぐにやってきてしまう。だから本を読む時間も全然取れないという話だった。そうした状況で時間管理を厳密に行うことを強いられ、物事の優先順位を以前はわりと大雑把に決めていたところ、きちんとデータを考慮して論理的に計算するようになったと言う。彼は元々物事を数値化して捉える性向があるらしいのだが、そのような考え方の一環として『ストーナー』の物語を頁数で分割するという把握の仕方を披露した。つまり、ストーナーとキャサリン・ドリスコルとの恋愛のエピソードを頁数で数えてみると三四頁ほどなので、おおよそ作品全体のなかの一〇分の一しか占めていない。そう考えると、ドリスコルとの日々はストーナーにとっては非常に大きく大切な事件だったはずなのに頁数で考えると三〇頁そこそこかと思われ、そこで描かれている人生が持っているはずの厚みに比べて、何だか物足りない感じがするのだとAくんは話した。Nさんはそうした計算処理に対して、本当に不思議な人だねえと呆れた風に笑みを浮かべ、こちらもそういう発想はなかったわ、と笑った。勿論、作品全体の一〇分の一の分量しかないからと言っても、Aくん自身が感じる印象や感動も全体の一〇分の一に過ぎないとは限らない、と付言されてはいた。
  • 茶店ののちにはいつもの通り、次回の課題書を決めるために高島屋淳久堂書店を訪れた。Nさんが星新一に興味があると言って文庫本の区画を探したところ、新潮文庫の欄に彼の作品がずらりと並んでいた。そのなかから『マイ国家』という作をAくんが取り上げ、背面に記されたあらすじを見ると、マイホームを独立国家として宣言した男の物語らしく、面白そうと二人が言って、一つにはその短篇集を読むことに決まった。次の会合は四月一一日の土曜日に設定されており、間が結構ある上、星新一は読みやすそうでもあるのでもう一冊読もうということになった。それでSF繋がりで何か読むかという案が出て、SFならばまあハヤカワ文庫だろうというわけで水色の背表紙の区画を見に行き、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの『たった一つの冴えたやり方』を、随分昔に読んだけれど結構面白かったよと二人に紹介する。そのほか新着図書としてはジーン・ウルフの探偵物らしき作が表紙を見せた形で置かれてあって、これにはナボコフの訳者である若島正が解説を寄せているらしい。ジーン・ウルフという作家は確か数年前に『ピース』という作品がTwitterの海外文学好きの界隈で結構話題になっていた人のはずで、そのほかにも『ナイト』とか『ウィザード』とかいういかにも直球な題名のファンタジー作品を図書館で見かけた覚えもある。あとはまあディックとかがやっぱり一番有名なところでしょと言って、例の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を指しながら、映画『ブレードランナー』の原作だという情報を思い出してそのように言及した。この作品も相当に昔に読んだはずなのだが、もはや内容は何一つ覚えていない。ディック作品では『高い城の男』もずっと前に買って積んであると言うと、そのあらすじを読んだNさんが面白そう、と繰り返し推してみせるので、二冊目はこの本で良いのではないかとまとまった。
  • Aくんが会計を済ませてきたあと、Nさんは帰ると言うので、有難うございましたと礼を送り合って別れた。それから文庫の新着図書をちょっと見ると、河出文庫から発刊された二階堂奥歯の『八本脚の蜘蛛』があったので、これは一部界隈で話題ですよと言って取り上げる。インターネット上で公開されていた日記で、作者は編集者だったんだけど、若くして自殺しちゃったんだよね、と説明し、書籍化する前から結構ファンがいたようだけれどそれが今回文庫化されたのだと話した。
  • その後、思想の区画へ。フェミニズムの棚を見ながら、工藤庸子の『政治に口出しする女はお嫌いですか?』のことを思い出したのだが、どうも見つけられなかった。フェミニズム関連の書物のなかでは、ジュディス・バトラーの著作群も気になるところだ。ほか、主に表紙を見せて置かれている新刊を中心に確認していき、カントの区画まで来るとAくんが、熊野純彦訳の三批判書の、例の実に重厚な濃い灰色の箱入りの本を取ってみせるので、この熊野純彦という人もかなり気になっていると横から告げた。――この人は仕事量がとにかく物凄くて、ハイデガーの『存在と時間』も訳しているし、ヘーゲルも何か訳していたし、それと多分並行してだと思うんだけど、本居宣長も全部読んでやたらでかい本を出したんだよね。しかも今度また、三島由紀夫論と、『源氏物語』についての本も出すらしい。それで、『本居宣長』はあるかなと言って背後の日本思想の区画を見分した結果、随分と分厚い、まさしく浩瀚そのものというような書物を発見した。箱から引き出してめくってみるとぱりぱりという紙繊維の音が立つので、まず、めくると音がするからねと言って笑う。目次をひらきながら、「外篇」の方では今までの本居宣長論を全部読んで集成したらしく、「内篇」の方では本居宣長のテクスト自体を読みこんで自分の読解をまとめたらしい、と説明した。
  • 夕食はこの高島屋の上層、九階のレストランフロアで取ることにした。エスカレーターを上り、フロアに入る通路の脇に掲げられた店舗一覧を見て、「(……)」というハンバーグやステーキの店に行ってみるかと話し合った。それから店舗の前まで歩いてショーケースのなかのサンプルを眺めると、二〇〇〇円や三〇〇〇円といった金額表示が見られ、高いものではさらに値の張る品もあったが、まあこんなものだろうということで合意し入店した。店内の様子は小綺麗で瀟洒な雰囲気であり、垢抜けてきちんとしたレストランの佇まいだった。窓際の、ちょうど室の角に当たるテーブル席に通される。我々以外に客はもう一組、若い男性の二人連れしかなかった。こちらが腰を下ろしたソファは暗い濃青の色で革が厚くて重厚な感じであり、室の反対側の壁には印象派風の絵がいくつか掛かっていたようだが、視力が悪いので仔細には見えなかった。頭上には広い底面が開口部となっている背の短い円柱型の照明が吊るされ、テーブル上に光を降りかけている。メニューを見て、こちらはステーキもハンバーグもソーセージもまとめて入ったミックスステーキという品に決め、Aくんはガーリックステーキを二〇〇グラムほど頼んでいたと思う。女性店員を呼んで注文すると焼き加減を尋ねられ、きちんとしたステーキなど全然食ったことがないのでそんなことを言われてもわかるはずがないのだが、じゃあ、レアで、とこちらは適当に口にして、ミディアムレアで、とAくんが続き、それから店員が行ったあとに、ロシアでもステーキハウスみたいなところに行ってそこで食ったのがレアだった、それが美味かった覚えがあるからレアと言ってみたのだと明かす。でも、結構赤いよね、と訊くと、いや、まあ確かに柔らかい方が良いんだよなあとAくんは漏らした。
  • 器に入ったデミグラスソースがすぐにやって来た。運んできた女性店員がナプキンを取ってひらき、テーブル上に置いて、お待ち下さいと言って去っていったのだが、これは膝に掛けるものではないのか? そうAくんと言い合いながら、卓上に置かれたナプキンを脚の上に移動させて待っていたのだが、さにあらず、女性店員が品を持ってくると、ナプキンを、と言われたので、あ、敷くんですか、と応じてテーブル上にひらいて戻した。その上にじゅうじゅうと高熱の叫びを発しているステーキのプレートが置かれてソースが注ぎ掛けられる。そのソースが即座に爆発的に沸騰して飛び散るのを防御するために、ナプキンの端をこちらが持って自分の前に壁のように持ち上げて飛沫から服を守るのだった。Aくんの品はそうした趣向を取らず、プレート内に容器に入ったソースが付属してそれに肉をつけて食べる形式だったので、彼はナプキンを普通に膝から下腹部の辺りに掛けて用いていた。それで食事である。勿論美味いには美味いのだが、洗練された味覚を持っておらず舌が粗雑なこと極まりないので、果たして二三〇〇円を出す価値があるほどの美味さなのかどうかはわからなかった。素材としてもどれくらい良質な肉を使っているものなのか、無論まったく判断ができない。プレート内には肉のほかに、あれはグラッセというものなのか、細い円柱形の実に滑らかかつ柔らかな人参や、ブロッコリーやフライドポテトが載せられており、ソーセージは骨付きの太いものだった。なかではハンバーグが一番美味かったような気がする。
  • Aくんの品物は三〇〇〇円ほどだったわけだが、例えば飲み会などに行けばまあそこそこの飯で一人二五〇〇円とか三〇〇〇円とか容易に取られてしまう、そう考えると、ちょっと良い食事に三〇〇〇円くらい使った方が同じ三〇〇〇円の価値でも高いのではないか、と彼は言った。食事中には、彼の上司が行った高級中華料理店の話がなされた。彼の直属の上司は課長なのだが、そのさらに上役である部長から、予約していた店に行けなくなったから代わりに行かないかと課長に話が回ってきた。課長氏はそれに応じて夫人とともに出向き、一夜飲み食いしてきたのだが、それが一体いくらだったと思う? とAくんは問いかけてくる。三万円、とこちらは即座に答えたのだが、それが何と一八万円だったと言うのでさすがに驚いた。一人頭九万円である。こちらなど、たった一夜の一食で九万円もの金を使うような身分には一生掛けても到達できそうにない。Sさんならばそのくらいの食事を取ったこともあるのだろうか? 銀座にあるというその高級店はしかし、数か月だか年の単位で予約がいっぱいなのだと言うから、金というものもあるところにはあるものだ。課長氏曰く、確かにその辺りの中華よりは間違いなく美味いけれど、例えば一万円とか三万円ほどの店と比べて、それよりも数万円余分に金を出す価値のあるものなのかは正直わからなかったと言う。料理を頼むとその料理に合わせて特別に作った酒があるんですよと営業をされ、ここまで来たらもはや変わらんということで豪気にそれも注文したところが、ショット一杯で五〇〇〇円とかいう代物だったらしい。一体何にそんなに金が掛かっているんだろうねとこちらは漏らさざるを得なかった。
  • 食事のあいだにはほかに新型コロナウイルスの件が話題となり、前日の夕刊やこの日の朝刊で読んだウクライナ住民の騒ぎなどについてこちらは話した。八時半頃に席を立って会計を済ませ、喫茶店に移ることに。高島屋を出て駅前のエクセルシオール・カフェまで移動して、カウンター席に就いた。Aくんは抹茶ラテか何かを頼み、こちらはいつも通りアイスココアのMサイズを注文して、品物を受け取って席へ戻るとロラン・バルト/藤本治訳『ミシュレ』を取り出して見せ、ミシュレというのは一九世紀フランスの歴史家で、『フランス革命史』とか『フランス史』とかを書いていると紹介する。――『革命史』は中公文庫で上下巻で出てるね。『フランス史』も、何年か前に、六巻くらいで訳されていたはず……一部かもしれないけど。ミシュレっていうのはいわゆる実証主義的な歴史家とは違って文学的な装飾をふんだんに用いる人だったみたいなんだけど、アナール学派とかにも影響与えてるみたいね。リュシアン・フェーヴルだかが確か、ミシュレについての本を書いていたと思う。するとAくんは、と言うことは社会史的なことをやっているのかと問うので、社会史とは違うかもしれないが、普通の政治史だけの人ではまったくないだろうとこちらは回答し、本の最初の方に載っていた著作一覧を見せて、『愛』とか『海』とか、こういうのを書いてるからね、と題名をいくつか取り上げた。
  • ほか、言語と表象というテーマも少々俎上に上げ、いつもながらの言ではあるものの、やはりまずはテクストに忠実に寄り添うことを目指したい、みたいなことを言った。ただその一方で、テクストのなかにあまり籠りすぎるのもそれはそれでどうかなと言うか、それだけでは足りないような気もするので、テクストを徹底的に厳密に追いながらもその先でふとテクスト外へと突き抜けて広がっていってしまうような読解がやはり面白いのではないかと話した。
  • また、Aくんの転職した会社のことも前回に引き続き聞く。以前も聞いた話だが、本人曰く彼の現在所属する企業は「資本主義の極致」を示すかのような環境で、社員の生み出した利益とその人に掛かっているコストの双方をデータ化・数値化して、あなたは今のところこれだけの「赤字社員」ですという事実が突きつけられるとともに、できるだけ早く「黒字社員」になるようにと要請されるのだと言う。厳密に理詰めで構築された制度であり、そのほかの諸々の側面を考えても納得できるシステムではあるとは言うものの、そもそもの点として価値というものが金銭的な種類のそれ、すなわち利益・利潤という概念に唯一的に還元されている点に、Aくんはちょっと違和感を覚えていると言うか、完全には乗れないような感覚を抱いているようだった。彼はいわゆる資本の論理には心情的にそこまで馴染めないタイプの人間なのだ。従って、この先、何十年もずっとこの会社で働いていくかと考えると、それは何とも言えない、という判断を示していた。世上に資本の論理が支配的にまかり通っている時勢、要は「役に立つ」こと及び「金になる」こと――前者は大部分、後者に回収される――こそが第一の価値であり最優先の事柄だとされる風潮にAくんはおそらく疎外感を禁じ得ないのだと思うが、以前はそうした社会を少しでも変えるために何らかの寄与ができるかもしれないという希望を抱いていたところ、最近は諦めの心情が強くなってきたと言う。それに対してこちらは、まあ俺は社会を変えようとか、世の中をどうこうしたいとかいうことを考えたことは多分ないけれど、と応じ、正直なところ、まあ世の中がどうなろうが自分の営みが続けていられれば良いと思っていて、世界がどうあろうともそのなかに言わば寄生してずっと文章を書き続けるという一種のしぶとさ、図々しさ、ふてぶてしさみたいなものが大事かなとは思っている、と話した。自分の場合はむしろ、結果としてそれが一番の「寄与」になるのではないか、と。大きな潮流のなかでそれに完全には呑みこまれることなく、己のやるべきと定めたことを黙々と、粛々とやり続ける人間がいつの時代にもいたし、今もいるわけである。そういう営みを続けていき、それを記録してのちに残すこと、学問とか芸術とかいうのはそういうものなのではないか、というようなことを話すと、Aくんも、いや、そういうことだと思う、と答えた。最後に、要は一〇〇〇年後の人間に何かを与えられるかっていうことじゃないかと思うけどね、と口にすると、それがちょうど今日の話のまとめのような響きを帯びた。
  • 話はそれよりも少々前に遡るのだが、自分が文章を書くのはすべてを消尽させてしまう時間の風化作用に対する許せなさの情があるからだと馴染みのことを言うと、Aくんは最近、街の写真を撮っているのだと受けた。川崎市に生まれてから数十年間住んできて、自分の育った地域も当然ながら徐々に変化しており、何かがなくなったあとに以前そこに何があったのか思い出せない、ということがあって、友人に話してみても誰も覚えていなかったりする。それは何だか、うわ、怖いな、という感覚があるので、街の様子や建物などを写真に残して記録しているということだった。やはり記録という行為が人間を人間たらしめる大きな能力の一つなのではないか、それでもって文明も発展してきたのだろうし、というような言でこちらは応じる。
  • 時間っていうものは本当に、砂が手から零れるみたいに零れ落ちていくよね、とAくんは言った。――砂時計だよね、とても巨大な。でもその砂があとどれだけ残っているのか、誰もわからない。――『マクベス』に何か、そんなような台詞があるんだよね……勿論そんな正確に覚えていないけど、何だったかな、人間の生涯は動き回る影に過ぎない、とか。哀れな役者だ、自分の出番の時だけ舞台の上でがやがや騒いだり見得を切ったりするけれど、結局は何も残らない、みたいな……そういう、何か虚無的な感じの台詞があって、結構好きなんだよね。しかもその部分の英文が、何だか知らんけどやたらと格好良い。英語の音律なんて勿論わからんけれど、声に出して読んでみると何か気持ちが良かった。福田恆存っていう人が訳しているんだけど、まあなかなか良い仕事じゃないかな……ヘミングウェイの『老人と海』の方は糞だったけどね。そう話すとAくんは笑い、そんなにはっきり断言するの珍しい気がするけど、と言うので、あれは日本語の質として全然駄目だったと繰り返して酷評し、もう耄碌していたのかな、と随分失礼なことを口にしてこちらも笑った。


・作文
 11:02 - 12:06 = 1時間4分(15日)
 12:06 - 12:30 = 24分(22日)
 計: 1時間28分

・読書
 23:10 - 24:03 = 53分(バルト)
 25:29 - 26:02 = 33分(日記)
 26:09 - 26:53 = 44分(ウィリアムズ; 書抜き)
 27:00 - 27:14 = 14分(バルト)
 計: 2時間24分

・睡眠
 4:30 - 10:00 = 5時間30分

・音楽

  • dbClifford『Recyclable』
  • Bob Dylan『Live 1975: The Rolling Thunder Revue Concert』