2020/2/24, Mon.

 一九二三年一一月に企てたミュンヘン一揆が失敗に終わり、有罪判決を受けたアドルフ・ヒトラーは、獄中で執筆した『わが闘争』のなかで、第一次世界大戦終結時の自らの様子を次のように記している。

[一九一八年]一〇月一三日から一四日にかけての夜間、イギリス軍はイープルの南の前線で毒ガス攻撃を開始した。黄色いガスの効果は未知で、少なくとも私自身は聞いたことがなかった。まさにその晩、私はこのガスを浴びる運命にあった。ヴェルヴィックの南側の丘で一〇月一三日の夕刻、われわれは数時間にわたり、ガス弾によるすさまじい爆撃にさらされた。攻撃は激しくなったり弱まったりしたものの、一晩中続いた。真夜中頃には多くの兵士が動けなくなり、なかには落命した者もいた。朝方近くなって、私も痛みを感じ始めた。一五分ごとに痛みは強まり、朝の七時頃には両目が焼けるようだったが、よろめきながら、この戦争で最後となる通信文を後方に届けた。数時間後、私の目は燃える石炭のようになり、何も見えなくなった。
 私はポンメルンのパーゼヴァルクの病院に送られ、そこで革命のことを聞かねばならなかった。

 (リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』中公新書、二〇一五年、12~13)



  • 新聞。クルーズ船を下りた客のなかからまた一人、死者が出たと言う。新たな感染者も増えており、北海道では九人が見つかったとか書かれてあったか。一方、国際面にはバーニー・サンダースが好調との報があったが、ただし共産主義社会主義に対する米国民の拒否感からして、サンダースが民主党代表になったとしても本選では勝てないとの声が党内に聞かれるということで、ドナルド・トランプも余裕を見せているようだ。
  • 一年前の日記を読み返す。この日の本文自体はどうでも良い内容しか含んでいないものの、過去の日記から諸々描写を引用していて、それらがことごとく良く書けているので今日の日記にも引き写しておく。最初の一つを除いた下の三つは主客合一的な恍惚のテーマである。結局のところ自分はこのような瞬間に惹きつけられて、ポジティヴなトラウマのようにしてそこに囚われながら、その記憶に衝き動かされて文章を書いてきたのかもしれない、ともちょっと思わないでもない。

 自分の立っているあたりを境にして、背後、西側の水面は底が透けて、錆びついたような鈍い色に沈み、その上に無数の引っ掻き傷めいた筋が柔らかく寄って渡るだけだが、境のあたりから流れの合間に薄青さが生じ、混ざりはじめて、前方の東側ではそれが全面に展開されていた――空の色が映りこんでいるのだが、雲の掛かり、時間も下って灰の感触が強くなった空そのものよりも遙かに明度の高く透き通った、まさしく空色である。水面は鏡と化しながらも、液体の性質を保って絶え間なくうねり、反映された淡水色の合間に蔭を織り交ぜながら、青と黒の二種類の要素群を絶えず連結、交錯させて止むことがない。視線をどこか一部分に固定すると、焦点のなかに、無数の水の襞が皆同じ方向から次々とやってきては盛りあがり、列を乱すことなく反対側へと去って行くのが繰り返されるのだが、見つめているうちに地上に聳える山脈の縮図であるかに映ってくるその隆起は、すべて等しい形のように見えながらも、まさしく現実の山脈と同じく、一つ一つの稜線や突出の調子にも違いがあり、言語化など不可能なほどに微妙な差異を忍びこませながら、それを定かに認識して意識に留める間も十分に与えないうちに素早く横切ってしまう――その反復のさまは、催眠的と言うに相応しかった。
 (2017/2/24, Fri.)

 汗が容易に引かないので涼もうとベランダに出たが、戸をくぐった瞬間に、隣家の窓に閉め切られた雨戸や、室外機や壁の像が明瞭に見えて、空気も薄いようでまるで朝が近づきつつあるかのように一瞬錯覚した。満月のためである。月は西寄りに移動しており、しなやかな光を広げて空を青灰色に明るませていた。月の姿を見上げてじっと視線を固定させていると、その輪郭がぼやけてかすかに膨らんでは萎み、さらに長く、瞳を乾かせながら見つめていると像がずれて突出と窪みの段差が生まれ、もはや円形ですらなくなるのだった。少し先の家屋根に囲まれた地帯、暗んで姿の露わでない草木の集合のどこかから、コオロギのような回転性の鳴き声が絶えず響いてくる。意識は冴えており、夜が薄まっているため、既に日付が変わっているとは思えず、まだ宵であるかのような感じがした。柵に寄りかかっていると、近所の男性らしいバイクが排気音に配慮しながらゆっくりと、坂道を下りてくる。ぽす、ぽすと詰まったような音を落としながらもう一つ坂を下っていき、下端ではもうエンジン音も消して惰性で滑ると自宅前に停まった。一種の感動のような心地がしていたのだが、高揚はその芽がかすかに胸の地中から顔を出したのみで、あるのは気持ちをひどく落ち着かせる、呆けたような静かな恍惚だった。空気が細胞に染みこむように滑らかで、心身の隅まで親しむように感じられ、何を見るわけでもなく視線をただ漫然と伸ばし、動かさずにいると、薄色の山影や川向こうの町並みや黒っぽい木々や近所の屋根やらのそれぞれの距離の差が失われ、すべて一平面に並んで幾何学的な形の組み合わせとなったかのようで、手を伸ばせば触れられそうなそれらに囲まれて自分の存在がこの希薄な夜の空間に没し、ぴったりと一致しているような馴染み深さを覚えた。また月を少々眺めてから室内に入ると、それでも七分程度しか経っていなかった。
 (2016/7/19, Tue.)

 午前中に一時雨が降っていたようで、昼過ぎに家を出ると、日が射していながらその名残がまだ残っていて、雨未満の水粒が風にのってタンポポの綿毛のように飛んできて、腕や顔を静かに濡らすのを感じながら駅へ歩いた。雨上がりの太陽に照らされる林がやけに美しく見えた。市営住宅に隣接する小さな公園は手入れをする者がいないので、一面に草が膝ほどの高さまで生い茂っていた。駅の切符販売機の前では若い男女が和やかに話をしており、隣の広場に目を移せば、やはりそこにも生い茂っている雑草を、もう老齢とも思える男性が熱心に鋏で刈り込んでいた。ホームに降り立つと、黄線の隙間から猫じゃらしが生えていた。前を向けば濃緑の山があった。蝉の声はもうあまり盛んではない。水粒は相変わらず風に吹かれていた。晩夏の空気があった。静かな感動に襲われて、すべてが完全だと思った。自然というのはそれだけで完成している――いや、そうではない。電車に乗ってからも感動は続いた。電車の走る音も、車内の乗客の一人一人も、窓から見える空や雲や森や家々や学校も、行き交う車や人々も、すべてが何一つとして無駄なものはなく、世界はそれそのものとして完成していると感じた。図書館についてからもそれは続き、席についても本を読む気にならず、窓の外を眺めていた。音に敏感になっていて、こつこつとフロアを響く自分の足音、衣擦れの音、ページをめくる音、椅子をひく音、それらがする度にそちらのほうに意識がいった。外では時折り強い風が吹いて、壁にあたる音なのか、掃除機のような音が聞こえ、その風に、向かいのデパートの壁にかかっている「買得品」と書かれた旗(上部は見えなかった)がばたばたと揺れていた、デパートの白い壁は太陽を受けて眩しく光っていた、それらすべてがこの場に完全にふさわしいように思えた。一種の悟りなのだろうかと思った。これが磯﨑いうところの世界の盤石さだろうかと思った。静かな高揚があって、窓の外のテラスを雀がゆく、彼らはぴょんぴょんと跳ねて移動するのだけど、横に跳ねるとき尾を左右に振る、それがダンスを踊っているように見えて、そんなことにまで感じ入った。思えば電車の中では、こういう気持ちになれたならもう死んでも惜しくないのではないかと思っていた。どうやら今の自分は感受性が異常に高まっているらしい、それゆえの危うさを感じた。言うならば、すばらしい景色を見ながら死にたいといってビルの上から飛び降りかねないような危うさがあった。こんな気分になってしまったらもしかして本当に死ぬのではないかと思って心臓を意識した。(……)何か作り物めいた完全性を見ているかのような感動があった。完璧な映画を見ているような気分だった。そのときの自分は世界の外に立ってそれを眺めているような地に足のつかない感じがあり、今は世界の内側に自分の場所を確保したような感触があった。
 (2013/9/4, Wed.)

 駅に向かってまたゆったりと歩いているあいだ、後方から陽が射して、先導するかのように自身の影が長く路上に伸び、家先に取りつけられた鏡が光り、明るさを混ぜこまれた丘の木々は薄緑色になった。風邪を引いて微熱があるときのように身体がふわふわとして、時間の流れが緩やかになったかのようだった。駅のホームに立ったころには太陽はますます露出して、濡れたホームのアスファルトには空間に穴をあけるかのような白さが撒き散らされ、その氷めいた輝きは目を眩ませた。Radiohead『The Bends』の厚い音を聞きながら呆けたようにしていた。するといつの間にか、空間の隅々まで明るい琥珀色が注ぎこまれて、あたりは一挙に時間が逆流して過去になったかのように色を変えていた。梅の木にはスズメが何匹も集まって枝を震えさせ、そのせいで秋色の葉っぱが一枚また一枚と雫のように落ちた。視界を泡のように漂う虫、木々や草むらの色の震え、川の流れのように刻一刻と変わる光の濃淡、どこを見つめるでもなく、視覚そのものを撫でていくこの世界の最小の動きを取りこんでいると、あっという間に時間が過ぎた。自分がいなくなったかのような瞬間がそのなかにあった。しかし同時に、自分のなかに深く入りこんでいるような感じもした。没我とは、自己を没することではなく、自己に没することで自己を忘れることではないのか? 一年のうちに数回は、そんな風に風景が非現実的な色合いに染め抜かれる時間が訪れるものだ。世界の呼吸が身近に感じられ、体内に流しこまれるその吐息が淡雪めいて心の平原にゆっくりと落ち、わずかな染みを残しては溶けていくような、そんな時間だ。やってきた電車には中国人の登山客が乗っており、独特の擦過音を含ませた響きで話していた。我先にと吐きだされていく客たちを見送ったあと、向かいの電車の先頭に行って席についたあとも、夢幻的な時間は続いていた。高揚感はなく、気分はむしろ静まりかえっていた。身体には夜更かしと過眠のもたらした疲労感があった、しかしそれも甘やかだった。倦怠にもどこか似た感覚だが、重く垂れさがる憂鬱の不快をはらんでおらず、いわば偽物の倦怠だった。重力さえもが親しげに擦り寄ってきて、恋人めいて自分を抱きしめているように感じられる。眼差しは眠たげに力が入らない。すべてのことが無害に見え、ある種の無関心が湧いて、このまま死んでもいいかもしれないとすら思わせるようだった。
 (2015/11/15, Sun.)

  • 二月一五日に"C"のボーカルをレコーディングした「(……)」からの修正音源が届いていたので、部分的に、また全体を通して繰り返し聞き、ボーカルをチェックしながら気になった箇所をまとめてslackに投稿しておいた。
  • 夕食時、朝刊をふたたびめくる。国際面にはイランの総選挙についての記事があった。イランの国会は定数二九〇だが、そのうちの七割以上が反米の保守強硬派で占められることになったと言う。穏健派や中道派の候補は、何という名前だったか忘れたが最高指導者に直属する組織の審査によって多数が立候補を停止させられたらしい。
  • 読み物に触れながらDonny Hathaway『Live』を流す。今更の話だがWillie Weeksのベースがやはり凄まじく、特に最終曲、"Voices Inside (Everything Is Everything)"のベースソロの佳境、二音構成だかの和音を素早く連続させながら上昇していく部分は、これはやばいなと思った。



・作文
 18:13 - 19:00 = 47分(24日)
 19:00 - 20:03 = 1時間3分(22日)
 22:37 - 23:31 = 54分(22日)
 24:11 - 25:17 = 1時間6分(22日)
 27:20 - 27:35 = 15分(22日)
 計: 4時間5分

・読書
 13:51 - 14:18 = 27分(2019/2/24, Sun.)
 21:45 - 22:35 = 50分(2014/6/26, Thu.; ブログ)
 27:35 - 27:55 = 20分(バルト)
 計: 1時間37分

  • 2019/2/24, Sun.
  • 2014/6/26, Thu.
  • fuzkue「読書日記(169)」: 12月23日(月)
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2020-02-05「畜生と同じ目線を差し向ける遠近法の果てに立つ木々」; 2020-02-06「春節のほとりで手をふる人民の私はここにいるという意思」
  • ロラン・バルト/藤本治訳『ミシュレ』: 88 - 96

・睡眠
 2:00 - 12:45 = 10時間45分

・音楽