2020/3/5, Thu.

 ヒトラーが政権を掌握した際、社会の関心は軍の状況ではなく経済状況に向けられていた。記録では六〇〇万人以上、実際はさらに多くの人間が無職で、ドイツはおそらく合衆国を除けば他のどの先進工業国よりも深刻な恐慌の影響を受けている。民主主義政府が弱体化しヒトラーが権力を掌握するに至った要因は経済的窮乏と不安にあり、新政府がドイツ人を再び就職させられるかどうかで判定が下るのは明らかだった。ここでナチ政権は驚くほどの成功を収める。数十万の人々が失業状態を脱し、農地開拓、道路建設、道路補修、郵便・鉄道インフラの改善といった農業や公共事業の仕事に就くことができたのだ。一九三四年のピーク時には総計約一〇〇万人のドイツ人が、国が支援するさまざまな事業創設計画で職を見つけている。
 もっとも有名なのは、政府がアウトバーン網(一九二〇年代に計画は始まっていた)建設に着手したことだろう。この計画では民間のエンジニアで古くからのNSDAP党員だったフリッツ・トートが一九三三年六月に総監に任命されている。アウトバーン建設は失業率の高い地域から優先される傾向があり、できるだけ大勢の人数が仕事に就けるよう、機械の導入が抑えられた。一九三四年には約四万人が道路建設現場で働き、その二倍以上が資材の供給や建設計画に携わっている。ナチはそのような計画、とくにアウトバーン網の建設について数々のプロパガンダを展開した(実際はナチのもとで完成した道路は比較的少なかったのだが)。ヒトラーは鍬入れや新区間の開通式を報じるニュース映画に繰り返し登場し、ドイツ人も外国からの訪問者も、この近代国家を団結させる「総統の道路」に驚嘆した。これはナチ特有の大がかりなショーだった。ナチ政府と総統はこれにより、大恐慌を乗り越える事業を本気で行っているという強い印象を与えることができたのである。
 この印象は完全なる虚偽ではないし、当初は再軍備よりもむしろ雇用の創出のほうが失業者の数を引き下げた。ナチ政権の最初の二年間には、軍事支出の増加はかなり控えめである。少なくとも、一九三五年三月に空軍の存在を公表し徴兵制を再導入したあとの軍事力および軍事費の増大に比べれば、の話だが。登録失業者数が急速に減少した要因のひとつに、公共の雇用創出計画による六〇万以上の雇用の確保があったのは明らかだ。ヒトラーの政権掌握時にはちょうど六〇〇万人を超えていた失業者数が、一年後には四〇〇万人を割り、一九三五年八月には一七〇万人になったからである。しかし、雇用をめぐる戦いでナチが当初成功を収めたのには、非常に目立つ政府の活動よりももっと大きな原因があった。ナチ政府の最初の数年間には、就職市場に参入した若者が比較的少なかったのである。第一次世界大戦中に出生数が大きく減少した結果だ。
 (リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』中公新書、二〇一五年、68~69)



  • 八時四〇分頃、尿意の高潮で目覚めた際、カーテンの裏によほど眩しい陽光が広がったのだが、用を足してきてからふたたび寝つこうと目を閉じていると、突然雨が降り出して驚いた。先ほど視界に圧を受けた時から、僅か一〇分ほどしか経っていなかった。
  • 夕食のために野菜炒めを拵える。キャベツやモヤシやキクラゲなどの混ざった野菜ミックスを笊に空けて水洗いし、フライパンに油を垂らした上からチューブのニンニクを落とし、野菜を投下して炒めはじめた。そこに母親が余っていたキャベツを刻んで加える。大方炒められたあとは電子レンジで加熱しておいた中華丼の素を上から掛けた。夕食はほかに、「ぺろっこうどん」の煮込みや前日の五目ご飯の残りなど。
  • 夕食時、母親が録画しておいた『SONGS』がテレビに映される。木村拓哉の特集。彼はB'zの稲葉浩志と親交があるらしく、二人で随分高級そうな大きな革張りの椅子に腰掛けて対談していた。
  • 花粉のためか、それとも風邪を引いたのか、終日鼻水とくしゃみが止まらず難儀したが、二五時半現在、一応収まっている。