2020/3/10, Tue.

 しかし、最近の研究で明らかになったように、ナチの警察は非常に効果を上げていたかもしれないが、大組織だったわけではない。ゲシュタポは「全知全能の偏在する」巨大組織であるどころか比較的小規模で、一般市民の協力に依存して任務を遂行していた。ドイツ人が警察に熱心に協力し、隣人やまして配偶者や親について通報したり告発したりしなければ、第三帝国の警察はさほど有効に機能することはなかっただろう。ナチ政権のもとで任務を遂行するにあたり、警察がドイツ人からかなりの支援を得たのは悲しい現実だ。
 一九三三年にヒトラーが首相に就任した当初、NSDAPの閣僚はふたりだけで、両者とも警察に関与していた。内務大臣ヴィルヘルム・フリック、そして警察部隊を直接指揮するという点でさらに重要だったのが、プロイセン内務大臣ヘルマン・ゲーリングである。しかし、ナチの警察と強制収容所の頂点に立った人物はフリックでもゲーリングでもなく、SS長官ハインリヒ・ヒムラーだった。
 一九三三年一月の時点ではヒムラーの地位はさほど有望ではない。総勢五万六〇〇〇人からなるSSの(一九二九年からの)隊長で、これは正式にはエルンスト・レーム率いるSAの下部組織にすぎなかった。しかしSS全国指導者はまたたくまに地歩を固める。まずは故郷ミュンヘンの警察長官、さらにはバイエルン全体の政治警察長官としてだ。三月二〇日、ヒムラーバイエルンの州都に近いダッハウ強制収容所を開設し、SSの管理化に置くと発表した。この収容所はその後開設される収容所の手本となる。その翌年、ヒムラーはドイツのほぼ全域の政治警察の指揮権を手にし、一九三四年四月二〇日にはゲーリングからプロイセン秘密国家警察(ゲシュタポ)長官に任命された。SSがSA幹部を殺害し、元上部組織からの独立を果たす直前のことである。
 二年後、ヒムラーはドイツ警察の誰もが認める支配者となる。一九三六年六月、警察の組織改正に伴い、SS全国指導者は「全国の警察機能の統合」を任され、「ドイツ警察長官」となったのだ。警察はふたつの「大きな部局」に分けられた。長官クルト・ダリューゲ率いる、防護警察、市町村警察、国家地方警察といった巡回を行う「秩序警察」と、SS中将で親衛隊保安部(SD)部長でもあるラインハルト・ハイドリヒが率いる、「政治警察」(基本的にゲシュタポ)と「刑事警察」(クリポ)を含む「保安警察」である。ヒムラーとハイドリヒが率いた警察機構は、独自の情報機関(SD)と準軍事組織(SS)を持ち、ドイツの強制収容所を支配し、全ドイツ警察を指揮下に置き、内務省の管轄外にあり、法的規範を自ら操作することができ、司法省や裁判所の力も及ばなかった(ゲシュタポは犯罪との戦いを司法省や裁判所がいたずらに妨げるだけだと考えていた)。ゲシュタポとクリポは比較的小規模だったとも考えられ、何もかもできるとは限らなかったが、なんでもできるとドイツ国民は考えていた。
 (リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』中公新書、二〇一五年、98~99)



  • 六時半前、夕食を作りに上がると、休日で家にいた父親が既に取り組んでいた。鶏の笹身を小さく切って焼いたと言い、カウンターの上にはマヨネーズで味つけされたその一品が置かれてあり、こちらが上がった時にはさらに小さなジャガイモをフライパンで炒めているところだった。こちらも調理台の前に入り、キャベツを細切りにしたり大根や人参を器具でスライスする一方で、味噌汁を作るためにエノキダケを切断し、鍋のなかに放りこんだ。生野菜は流水に晒して笊に収めておき、汁物には豆腐も加えて味つけを施し、それで夕食の支度は終いとした。
  • 新型コロナウイルスの騒動によって、世界の株式市場で軒並み株価の下落が起こっているとの報道。一方で為替においては、安全な資産とされる円の買いが急増して円高も大幅に進行したと言う。