2020/3/13, Fri.

 ヒトラーが次にとった重要な外交政策の結果、「アウシュヴィッツへの歪んだ道」につながる大きな一歩が踏み出された。ミュンヘン会談に続くズデーテンラント奪取から数週間後に行われたポグロム、いわゆる「水晶の夜[クリスタルナハト]」である。これはヨーゼフ・ゲッベルスの指示により、SAが実行した。一九三八年三月にウィーンのユダヤ人を打ちのめしたのと同様の暴力行為が、今度は併合後のドイツ全域で計画され、連繋し、拡散したのである。
 この全国的なポグロムは、一九三八年一〇月末にドイツ政府がドイツ在住のポーランドユダヤ人約一万七〇〇〇人(ポーランドの市民権を持つ者もいたが、無国籍の者がいた)を追放したことが発端となった。ポーランド政府は全員の受け入れを拒否し、国境に近いズボンシンの町に約八〇〇〇人が留め置かれることになる。
 追放された人々のなかに、一七歳のヘルシェル・グリンシュパン(ハノーファーで生まれ、ポーランド市民権を持ち、当時おじとパリで暮らしていた)の両親がいた。グリンシュパンは両親の悲運を知ると、一一月七日に拳銃を携えてパリのドイツ大使館に向かい、最初に応対した三等書記官エルンスト・フォム・ラートを撃った。フォム・ラートはその傷がもとで一一月九日の午後に亡くなる(ナチの一九二三年の一揆の一五周年記念日だった)。その夜、ゲッベルスは極度に反ユダヤ的な演説を行い、シナゴーグに対する「自然発生的な」行動がすでに起こっていると述べた。SA参謀長ヴィクトル・ルッツェは、シナゴーグユダヤ人商店が「自然発生的な」行動の標的になると部下に伝え、また、警察は介入しないよう指示された。その結果、騒動はすさまじい暴力行為へと発展する。
 続く二四時間で一〇〇〇以上のシナゴーグユダヤ教礼拝所が放火され、約二〇〇のシナゴーグが破壊された。ドイツ全域でユダヤ人墓地が荒らされ、一〇〇軒以上のユダヤ人の家が焼き打ちに遭い、数千軒の商店が略奪され、窓が割られた。数百人のユダヤ人が負傷し、約一〇〇人が殺害された。ユダヤ人男性三万人が強制収容所ダッハウ、ブーヘンヴァルト、ザクセンハウゼン)に連行され、一九三九年の初めにおびえきった様子で、しばしば健康を損なって出所してきた。さらにドイツのユダヤ人団体は「ドイツ帝国に対し一〇億ライヒスマルクの負担金」を支払うよう求められた。ドイツが被った損害を補償するためというのがその理由である。ドイツの保険会社が保険金請求によって損害を被らないように、という目的もあった。
 (リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』中公新書、二〇一五年、107~109)



  • 相変わらずの怠惰な生活ぶりで、心身が容易に日記作成に取りかかろうとしない点も変わりない。
  • 夕食には玉ねぎやシーフードや、そのほか雑多な野菜が少量入った煮込みうどんを作った。煮込みうどんという料理は手軽なわりにとても美味い。
  • 髭を剃る。洗面所の鏡の前で一旦電動髭剃りを手に取って口の周りやもみあげの下部を当たったのだが、法事の返礼品として入手したこの小さな髭剃りはどうもうまく剃れないため、結局中途半端に毛を残したままで風呂に入り、シェービングジェルとT字剃刀を用いて改めて綺麗に掃除した。
  • 風呂のなかでは昔に作ろうとしていた小説――仮題『(……)』――のことを久しぶりに思い出した。世界を知覚する語りの主体がほとんど実体的なものとして存在せず、人間的な性質を剝奪された希薄で透明な幽霊であるかのような、もしくは単なるまなざしや感覚的機能の束に過ぎないかのような、そんな風な印象を与える断片形式の柔らかな作品にしたいと漠然と考えているが、仮に現実に執筆に取りかかることができるとしてもそれがいつになるのかはまったくわからない。
  • 零時前からようやく日記に取り組みはじめたが、どうもやはり文を作るのが苦しいような感覚がある。コンピューターの前に腰を据えてキーボードに触れながら感覚を真剣に研ぎ澄ませて文を拵えていると、何だか頭のなかが固く重くなってくるような具合だ。集中力と体力が続かない。もしかするとやはり、精神の調子がいくらか崩れてきているのかもしれない。今日は三月一一日、一二日の文を確認していくらか修正し、それから二月二三日の記事を辛うじて仕上げたところまででギブアップである。