2020/3/16, Mon.

 ドイツの領土要求を通すべく数ヵ月にわたり外交圧力を高めたのち、一九三九年九月一日にナチ・ドイツは軍事行動を開始して驚くほどの成功を収め、数週間でポーランドを征服することになる。国防軍は三方向から攻撃を仕掛け、またたく間にポーランド軍を圧倒した。ドイツ軍は越境後一週間あまりでウーチを陥落させ、ワルシャワに迫った。その後、ドイツの勝利が明確になった九月一七日にソ連軍が参戦し、ポーランドの東半分を制圧した。ワルシャワは九月二七日にドイツに降伏し、開戦からわずか五週間後の一〇月五日に、ヒトラーは勝利の末ワルシャワ入りを果たした。軍事行動が短いわりに多くの血が流されたが、のちに起こることに比べれば、一九三九年九月のドイツ軍の死者約一万五〇〇〇人という数字は(当然のことながらポーランド軍の犠牲者は一〇万人を超え、一〇〇万人が捕虜になった)微々たるものに思われる。
 (リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』中公新書、二〇一五年、125)



  • 信じがたいことに、午後三時までずっと、爆発的に、壊滅的に寝過ごす。さすがにもういくらかは早寝しなければなるまいという危機感が立つものだ。
  • 風がやたらと勢い良く盛る日中だった。食事中、居間の南窓を見通せば、川沿いの木叢が上下左右に、各箇所で少しずつタイミングをずらしながら粘るように回転し、いくつもの渦を連結的に配列したかのごとく揺らいで、流体的な様相と化していた。
  • 昨日から触れはじめたJ・ヒリス・ミラー/伊藤誓・大島由紀夫訳『読むことの倫理』を引き続き読み進める。いわゆる「イェール学派」、「脱構築批評」の旗手の一人として知られた批評家だが、想像していたよりも一文一文の論理的繋がりが明確で、明晰な文章を構築しており、思いのほかに読みやすい。ただし翻訳文は少々形式張って堅苦しいと言うか、称賛するべき高水準の流麗さを達成してはいないと言うか、リズムの整え方や細部の言葉選びなどが詰められていないように感じるし、稀にではあるものの、これは日本語としてどうなのかと思われるような文の作りも見られた記憶がある。
  • 六時頃からアイロン掛け及び夕食の支度。大根の味噌汁と素麺のサラダが既に拵えられてあったため、もう一品、玉ねぎと豚肉を炒めることにした。フライパンを極度に熱して肉から投入したのだが、どうもそのせいで火を通しすぎてしまったらしく、焼き上がった肉はいくらか固くなっていた。完成させると七時前だったが、もう食事を取ることにして味噌汁を一杯よそり、丼に米を盛ったその上にたっぷりの玉ねぎで蓋をするように炒め物を被せて食卓に就いた。食事の傍ら、夕刊の一面に目をやる。新型コロナウイルス騒動による経済の混乱を受けて、米連邦準備制度理事会FRB)が二〇一五年以来になると言うゼロ金利政策を復活させるとのことである。同時に、国債などを大量に買い入れて市場に資金を供給する量的緩和政策も行うとの報。
  • 大変久しぶりのことになるが、書抜きを行った。ロラン・バルト石川美子訳『零度のエクリチュール』である。書抜きもなるべく頻繁に行うようにして溜まっている書物を処理しなければならない。以下、一箇所引用しておく。

 それゆえ、物語における過去時制は「文芸」の安全装置の一部をなしている。秩序というイメージをもっており、作家の正当化と社会の平穏のために、作家と社会のあいだに打ち立てられた数多くの形式協定のひとつとなっている。単純過去は、創造行為を意味している[﹅6]。すなわち、創造であることを示し、押しつけてくる。もっとも暗鬱なリアリズムにかかわるときでも、単純過去は安心させてくれる。なぜなら、単純過去のおかげで、動詞は閉ざされ定義され名詞化された行為を表現するようになり、「物語」はひとつの名称をもって、際限のない言葉の恐怖から逃れるからである。(……)
 そこで、「小説」の単純過去のもつ、有用だが耐えがたいものを理解できる。それは明示された虚偽だということである。(……)単純過去とは、社会がみずからの過去と事実可能なこととを所有する行為そのものである。信じうる持続を確立するが、それが幻想であることは明示されている。単純過去とは、非現実的なできごとに真実の衣装をつぎつぎと着せて、暴露された虚偽をまとわせてゆくという、形式をめぐる弁証法の最終項なのである。このことはブルジョワ社会――その典型的な所産が「小説」であるが――に特有の普遍をめぐる神話と関係しているにちがいない。想像的なものにたいして形式的な現実保証をあたえるが、ほんとうらしいと同時に偽りでもあるという二重の対象の両義性もこの記号にまかせてしまうこと。それが西欧芸術全体において恒常的になされている操作である。(……)まさにこのような方法によって、十九世紀の勝者であるブルジョワジーは自分自身の価値観を普遍的なものとみなし、また社会のなかのまったく異質な部分にたいしては道徳による「名目」のすべてを注ぐことができたのだった。これこそまさしく神話の構造である。(……)単純過去の意味を理解するには、西欧の小説技法をたとえば中国の伝統のようなものと比較してみるだけでいい。中国の伝統においては芸術とは現実の模倣の完成にほかならないが、しかし何ものも、ぜったいにいかなる記号も、自然のものと人工のものとを区別してはならない。すなわち、あの木のクルミクルミの絵もおなじように、それを生みだした術をわたしに示そうとする意図を明かしてはならないのである。ところが、小説のエクリチュールがしていることは、まさにそれなのである。仮面をつけ、しかも同時にその仮面を指さすことを任務としているのだから。
 (ロラン・バルト石川美子訳『零度のエクリチュールみすず書房、二〇〇八年、43~45; 「小説のエクリチュール」)

  • 書抜き作業のあいだはdbClifford『Recyclable』を流して、打鍵の合間に時折り指の動きを止めて歌っていたのだが、このアルバムは実に素晴らしい。全曲良いけれど、特に三曲目の"Should I Wait"など絶品で、通り一遍でないメロディラインやコードワークの陰影が光っている。
  • 明日、墓参りに行くかと両親から誘われたので了承した。九時を目安に出るらしいが、正直、起きられるかどうか定かでない。
  • 三月二日の記事までブログ及びnoteに投稿し、先ほど僅か一〇分で三月三日の日記も仕上げたところだ。その後は三月六日までは既に書いてある。七日と八日は外出したのでまだ仕上がっていないが、そののちの日々も昨日、一五日を除けば大体書いてあるので、もうほとんど溜まった負債は片づけたようなものだ。
  • 昨日Tdにも言ったが、箇条書き方式はこのまま一年くらい続けてみても構わないと思っている。このやり方は実際楽で、時間もそこまで極端には要求しないので余った時間を読書などに充てることもできるし、また、書き流しのような形ではなく文の質を注意して整える方向でこの先も行くのだったら、現実的には箇条書き方式でなければ営み自体が立ち行かないだろうとも判断されるのだ(読者において感じ取れるかどうか心許ないけれど、これでも一応書いた文は必ず何度か読み直して整えており、言葉の選択や文の形やリズムの流れ方に結構気を遣いながら頑張って組み立てているつもりである)。記録する価値があると思われることだけでなく、そうした価値のない事柄をも記述してこその日記ではないかという思いも勿論ないではないが、記録的側面と形式的側面の双方において漏れなく完全性を達成することは端的に不可能であり、それをあくまで求めれば、生が続く限りはその対象も絶えることなく発生し続ける毎日の日記という営みそのものが破綻するというのが現在の結論である。だからひとまず今のところは記録的側面に向けて注ぐ労力を低減させ、その分、形式的側面の方に情熱を費やしたいと考えている。それがいつまで続くかはわからない。やはりもっと細かく記録したいなという気持ちがふたたび募ってきたならば、その時にまた方向性とバランスを調整すれば良いわけである。
  • さっさと眠ろうと思っていたのだが、読書に対する興が高じてJ・ヒリス・ミラー/伊藤誓・大島由紀夫訳『読むことの倫理』をめくり続けてしまい、結局就寝は四時前になった。


・作文
 22:17 - 22:27 = 10分(3日)
 22:27 - 22:53 = 26分(16日)
 23:10 - 23:42 = 32分(16日)
 計: 1時間8分

・読書
 16:07 - 18:01 = 1時間54分(ミラー)
 19:36 - 20:04 = 28分(バルト; 書抜き)
 20:08 - 20:45 = 37分(バルト; 書抜き)
 20:46 - 21:26 = 40分(アガンベン
 23:46 - 25:39 = 1時間53分(ミラー)
 25:47 - 26:16 = 29分(バルト; 書抜き)
 26:17 - 27:49 = 1時間22分(ミラー)
 計: 7時間23分

・睡眠
 5:10 - 15:00 = 9時間50分

・音楽