2020/3/18, Wed.

 ユーゴスラヴィアギリシアを征服したことにより、ナチ帝国には複雑に入り混じった民族間の緊張と、さらにかなりの数のユダヤ人がもたらされた。ヨーロッパ最古のユダヤ人共同体もいくつか含まれ、その中心とも言うべきサロニカ〔ギリシアテッサロニキ〕の五万人強のユダヤ人住民は大部分が移送され、一九四三年三月から八月にかけてアウシュヴィッツで殺されることになる。かつて占領下のポーランドや他の場所で行われたように、一九四一年四月九日にドイツ軍が到着すると、サロニカでもさまざまな反ユダヤの措置がとられた。ユダヤ系新聞社の閉鎖、ユダヤ人指導者の逮捕、ユダヤ人の家屋・財産の没収、公共の場でのラビへの辱め、国防軍によるユダヤ人病院の接収などである。その頃にはパターンはすっかり定着し、ドイツ軍は足を踏み入れたあらゆる占領地で、ナチの人種主義イデオロギーを実践した。ドイツの占領軍は何をすべきかを承知しており、実行に移した。
 (リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』中公新書、二〇一五年、147)



  • 久方ぶりの労働のため、二時頃、スーツ姿で家を出た。コートを羽織らずともまったく支障のない柔和で麗朗な春の陽気だった。風はあり、川近くの空き地を囲む旗は絶え間なく波打って表面で素早く明暗の系列を交替させているが、身に触れてくる空気はふわりと円やかでほとんど匂わしく、冷たさの粒子など微塵も含まれていない。鶯の、螺旋を描きながら舞い上がり飛沫を撒き散らすような狂い鳴きの声を早くも耳にした。
  • 肩に乗り背を覆う陽射しは思いのほかに分厚く、布地を通して染み入るようで、遮るものもなく光のさなかに晒される街道の道行きには汗が滲む。バス待機所の奥の小さな広場で、老人たちが輪投げ遊びに興じていた。簡素なリングを放っていくつか突き出した棒に引っ掛けるだけのあんなゲームが楽しいのだろうかと思うけれど、当人たちにしてみればきっと、仲間との貴重な交友の時間なのだろう。道の脇でユキヤナギが、まだそこまで稠密ではないものの、緩い曲線を描く純白の連なりを何本も作りはじめていた。裏路地の途中にもひとかたまり見られて、そちらの花はより量感が強く、しっちゃかめっちゃかに入り乱れて始末のつけられなくなったドレッドヘアーのようだった。
  • もうだいぶ長くなった前髪の先が風に微動して額をくすぐるのが煩わしい。溢れ出して天と地のあいだに零れ落ちてこないのが不思議なほどに、空は清らかな青さに充満していた。瞳から吸収され、体内に呑みこまれて心身を潤すかのような、あの清涼に澄んだ一面の青である。裏路地途中の白木蓮は、満開のもっとも見目好い時宜を過ぎたようで、炎に接した紙のように端から少しずつ茶色に蝕まれていた。
  • 労働の相手は、(……)くん(新中二・数学)、(……)くん(新中二・英語)、(……)くん(新小五・国算)の三人。(……)くんは、問題児と言うほどではないのだが、学校にもあまり行っていないらしく、勉強に対する意欲も当然低い。加えて講師を選ぶところがあると言うか、どの先生のこともあまり好いていないようなのだが、そのなかではこちらは比較的良好な関係を持てていると思われ、何でも室長によれば、こちらの授業だったら数学をやっても良いと言ったそうだ。有難い話ではある。それで今日は普段は基本的に受け持たない数学を担当し、一年生の復習として第一章のまとめ問題を扱ったのだが、まずもってそもそもノートに頁や問題番号を正しく書こうとしないから、どの数字がどの問いの答えなのかがよくわからない。計算も、一応できることはできるけれど、多少面倒な問題に出会うとすぐにわからないと言って投げ出してしまう。一年生の一番初めで習う正負の数の扱いからしてこうなのだから、先が思いやられるものだが、彼に関してはどうもこちらが専任めいた位置づけになりそうな雰囲気だ。
  • (……)はまあ、いつも通りで悪くはない。彼も章ごとのまとめ問題で一年生の復習を進めている。(……)くんという小学生は初顔合わせ。わりとはきはきとした感じの子で、出来も概ね問題はないのだが、中学受験を目指しているとのことなので、そうなるともっと努力をして勉強量を確保しなければならないだろうし、そこまでの賢さや意欲があるのかどうかはまだ定かではない。
  • 職場ではコロナウイルスへの対策で健康管理カードなるものが導入されている。生徒一人一人に用紙が配られ、子供たちは塾に来る前に体温を測って記録し、保護者の印を貰ってくるという次第だ。同じものが講師にも適用されて我々も体温を計測しなければならないのだが、ウイルス騒動に起因した長期休暇後初出勤のこの日は測ってくるのを忘れていた。
  • 「記憶」記事を復活させることに決めた。昨年の一時期、確実に頭に入れておきたい知識や暗唱できるくらいに覚えこみたい言語表現などをEvernoteの一記事にまとめて日々読み返すという努力をしていたのだが、いつからか面倒臭くなって習慣が途切れてしまったのだった。その次の段階としては、コンピューターではなくて紙のノートにツールを変えて同様に情報をまとめていたものの、これもいくらも続かなかった。しかしやはり読んだ本のエッセンスや学んだことを自らの内にもっと確実に取り入れ、定着させて血肉化したいなというわけで、最初のやり方で復習の習慣を取り戻すことにしたのだ。とは言え以前は、せっかく覚えるならば完璧に記憶しなくてはという無駄に高邁な意識が余計だった。そのように自分に大きな負荷を掛けては、やはりいずれ億劫になって続かないものだ。これも読み書きと同じでとにかく毎日ほんの少しでも続けるということが一番大事なので、今回はもっと緩く考え、覚えようと頑張って覚えるのではなく、ただ繰り返し読んでいるうちに何となく、ある程度の事柄が頭に入っていれば良いかな、というくらいのスタンスで行く。それで、その「記憶」記事に追加するべき記述を探って今まで読んだ書物からの書抜きを読み返していたのだが、すると岩田宏の「ショパン」という詩の一節に行き当たり、それがあまりにも素晴らしいのでびっくりした。最初から最後まで完璧である。これが詩だ。

 どんなにあなたが絶望をかさねても
 どんなに尨大な希望がきらめいても
 死んだ人は生き返らない 死んだ人は……
 どんな小鳥が どんなトカゲや鳩が
 廃墟にささやかな住居をつくっても
 どんな旗が俄かに高々とひるがえっても
 死んだ人は生き返らない 死んだ人は……
 あやまちを物指としてあやまちを測る
 それが人間ひとりひとりの あなたの智恵だ
 モスクワには雪がふる エジプトの砂が焼ける
 港を出る船はふたたび港に入るだろうか
 船は積荷をおろす ボーキサイト
 硫黄を ウラニウムを ミサイルを
 仲仕たちは風の匂いと賃金を受け取る
 港から空へ 空から山へ 地下鉄へ 湖へ
 生き残った人たちの悲しい報告が伝わる
 死んだ人は生き返らない 死んだ人は!
 ふたたび戦争 かさねて戦争 又しても戦争
 この火事と憲法 拡声器と権力の長さを
 あなたはどんな方法で測るのですか
 銀行家は分厚い刷りもののページを繰る
 経営者はふるえる指で電話のダイヤルをまわす
 警官はやにわに駆け寄り棍棒をふりおろす
 政治家は車を下りて灰皿に灰をおとす
 そのときあなたは裏町を歩いているだろう
 天気はきのうのつづき あなたの心もきのうそのまま
 俄かに晴れもせず 雨もふらないだろう
 恋人たちは相変わらず人目を避け
 白い商売人や黒い野心家が
 せわしげに行き来するだろう
 そのときピアノの
 音が流れてくるのを
 あなたはふしぎに思いますか
 裏庭の
 瓦礫のなかに
 だれかが捨てていったピアノ
 そのまわりをかこむ若者たち
 かれらの髪はよごれ 頬骨は高く
 肘には擦り傷 靴には泥
 わずかに耳だけが寒さに赤い
 あなたはかれらに近寄り
 とつぜん親しい顔を見分けるだろう
 死んだ人は生き返らない 死んだ人は
 けれどもかれらが耳かたむける音楽は
 百五十年の昔に生れた男がつくった
 その男同様 かれらの血管には紛れもない血が流れ
 モスクワの雪と
 エジプトの砂が
 かれらの夢なのだ そしてほかならぬその夢のために
 かれらは不信と絶望と倦怠の世界をこわそうとする
 してみればあなたはかれらの友だちではないのですか
 街角を誰かが走って行く
 いちばん若い伝令がわたしたちに伝える
 この世界はすこしもすこしも変っていないと
 だが
 みじかい音楽のために
 わたしたちの心は鼓動をとりもどすと
 この地球では
 足よりも手よりも先に
 心が踊り始めるのがならわしだ
 伝令は走り去った
 過去の軍勢が押し寄せてくる
 いっぽんの
 攻撃の指が
 ピアノの鍵盤にふれ
 あなたはピアノを囲む円陣に加わる。
 (『岩田宏詩集成』書肆山田、二〇一四年、170~175; 「ショパン」; 「8 モスクワの雪とエジプトの砂」; 『頭脳の戦争』より)


・作文
 26:54 - 28:02 = 1時間8分(18日)

・読書
 13:18 - 13:39 = 21分(ジョンソン)
 17:41 - 19:26 = 1時間45分(ジョンソン)
 20:05 - 20:54 = 49分(ジョンソン)
 21:16 - 21:46 = 30分(記憶)
 24:22 - 25:55 = 1時間33分(ジョンソン)
 28:03 - 28:39 = 36分(ジョンソン)
 計: 5時間34分

  • バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』: 56 - 137
  • 「記憶」: 1 - 12

・睡眠
 4:15 - 12:15 = 8時間

・音楽

  • dbClifford『Recyclable』
  • Miles Davis『Birth Of The Cool』