2020/3/22, Sun.

 バルバロッサ作戦の開始とともに、ドイツのユダヤ人政策は破滅的な方向へと向かった。ヨーロッパ・ユダヤ人の東方への大量移送は実現不可能だと判明したため、ナチ政権は広範な「民族浄化」活動に着手し、その結果、数百万のユダヤ人を絶滅収容所に送る大規模な計画が立てられた。その目的は、迅速かつ効率的な工業化した大量殺人にあった。
 イデオロギーが喧伝され、さまざまな集団を一掃するための犯罪的な命令が下され、現場のさまざまな殺人部隊に独立した主導権が与えられ得た。犯罪的な活動への認可はまったく必要ない。こういったことはすべてナチの戦時の大量殺戮の特徴である。ナチの独裁者は相変わらず軍事行動に没頭していたが、彼からの特別な指示も必要なかった。
 一九四一年の後半には、ソ連占領地での移動殺戮部隊は共同体全体を全滅させるまでになる。一九四一年六月から一一月にかけて、セルビアユダヤ人男性は大多数がドイツの占領部隊によって殺された(SD、軍政、国防軍が、自らの責任でパルチザン活動に残忍な報復をした)。一〇月にはユダヤ人の大量処刑がガリツィアで始まった。一〇月以降、ユダヤ人はドイツ、オーストリアボヘミアモラヴィアから東に移送されることになる。ウーチ(リッツマンシュタット)のゲットーに送られた者もいれば、リガでのように直接射殺された者もいる。またウーチ近くのヘウムノやルブリン県のベウジェッツには最初の絶滅収容所が建設され、一方、アウシュヴィッツでは「狂信的な共産党員」の烙印を押されたソ連の戦争捕虜がガス室で殺された。しかし運命の一九四二年が始まったとき、総督府では「ユダヤ人問題」の最重要課題が未解決のまま棚上げにされていた。大半が栄養不良のユダヤ人約二〇〇万人が、病気の蔓延した極度に過密状態のゲットーに詰め込まれていたのである。
 ラインハルト・ハイドリヒが悪名高いヴァンゼー会議を招集したのには、そういった背景があった。これはもともと一九四一年一二月九日に開かれるはずだったが、四二年一月二〇日に延期されている。この会議で国家保安本部長官ハイドリヒは、ヨーロッパ全域にわたる「ユダヤ人問題」の包括的な「解決策」のあらましをさまざまな省庁の代表者に提示し、組織と運営責任の問題を解決しようとした。ヘウムノ、ベウジェッツ、ソビブル、トレブリンカ、アウシュヴィッツガス室で数百万のユダヤ人を組織的に絶滅させることが、このとき明らかにされた可能性がある。
 (リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』中公新書、二〇一五年、159~160)



  • 「(……)」の仲間たち五人と会合した日である。四月から大学の助教――という職階だったと思うが――として働きはじめるために大阪に移ってしまうTDに向けての送別会のようなものだ。
  • 往路で立川のHMVに寄った。TDに餞別の品として贈るCDを入手するためである。Donny Hathaway『Live』とThe Beach Boys『Pet Sounds』という超有名盤二枚をプレゼントしようと考えていたのだが、『Pet Sounds』の方は棚の並びに見当たらなかった。この名高い傑作を売っていないとは、まったくやる気のないCDショップである。それで、ジャズの区画を見分した際にMarlena Shaw『Who Is This Bitch, Anyway?』があるのを見つけていたので、やはり超有名盤であるこのアルバムを代わりに購入することにした。どちらもほとんど伝説的なまでにメジャーな作品なので、TDは既に持っているかもしれないとも思ったが、もしそうだとしてもご愛嬌である。
  • 集合は武蔵境に一時半頃だった。駅に到着すると、改札の外にTTがいたので合流する。立川に寄ったために少々遅れる見込みだったので、その旨Tにメールを送っておいたのだが、むしろ彼女たちの姿がまだ見えなかった。TDとMUさんも既に着いておりK家に集まっているらしいが、支度に手間取ったのか出発が遅れたようだ。こちらはTTと一緒に、駅舎に接した小広場のようなスペースに行き、柔らかく温暖な陽射しが漂うなか、テーブルに就いて皆を待つ。周囲の席で思い思いに時を過ごしている人々のなかには老婆が一人おり、背を曲げて紙の上に乗り出しながらクロスワードパズルか何かをやっているらしいその様子が何となく目に留まった。まもなく、ほかの四人が姿を現した。TDとKくんがそれぞれアコースティックのギターとベースを背負っていた。
  • 西武多摩川線に乗って二駅移動し、多磨という駅に降り立つ。東京外国語大学の最寄りだと言う。こちらの兄はまさしく東京外大のロシア語学科出身なので、十数年前はおそらくこの駅まで日々通っていたのだと思うが、こちらがこの地を訪れるのはまったく初めてのことである。
  • コンビニに寄って飲食物を買ってから、野川公園へと歩いた。こじんまりとした駅の周辺はいかにも長閑と言うか、朴々としたような雰囲気で、西武線沿い特有の空気感があるとTTやTは評していた。電車に乗っている最中に公園の風景が一部瞥見されたのだったが、その景色に何となく既視感を覚えたと言うか、以前にも訪れたことがあるような記憶の引っかかりを感じた。二〇一四年だったか一五年だったかに一時期参加していた読書会グループの催しで一度、この地域の公園で花見に集ったことがあるのだが、その際に舞台となったのがもしかするとこの野川公園だったのかもしれない。東小金井駅から南に向かって歩いた覚えがあるので、場所は大体一致している。それにしても、当時は自分も二四か二五だったわけだから、よほど若かったものだ。今や三十路に突入してしまったけれど、とてもでないが信じられず、まるで自覚がない。いつまでも半人前の気分でいる。
  • 公園に入るとすぐにテニスコートで球技に興じている人々の姿が見られ、コート使用の順番を待っているのだろうか、対戦をするのでなくて黙々と壁打ちに精を出しているプレイヤーも多数いた。樹々のあいだの道をしばらく歩いて広場に出たのだが、その間こちらはこの場所が記憶の公園と同じなのかどうか気になって、見覚えのある風景がないかと辺りをきょろきょろ見回していた。件の花見会では四阿が集合場所となっていたのを覚えているのだが、少なくとも近間の周囲にそれらしき建物は見当たらなかった。だだっ広い空間の一角、テーブル付きの小さなベンチの傍らにシートを敷いて陣取った。卓上には料理の用意が整えられて、T、MUさん、TDの三人によって手製のサンドウィッチが支度される。そのあいだこちらは何一つ手伝わずに自由で気楽な怠惰に甘え、コンビニで買ったコーラを口にしながらアコースティックギターを操り、同様にアコースティックベースを奏でるKくんと一緒になってブルースのセッションを適当に交わしていた。
  • K夫妻がこの日ギターとベースを持ってきてくれたのは別にこちらを気ままに遊ばせることが主目的だったわけではなく、TDへのプレゼントとして"C"の替え歌を贈ろうという本人には秘密の目論見があったからなのだが、そのうちにサンドウィッチも出来上がると、何となくそのサプライズ企画を実行するような雰囲気が匂いはじめたので、こちらはようやくギターを手離して伴奏役を務めるTTに引き渡し、それから往路で買ってきたCD二枚をTDに贈呈した。プレゼントを贈る流れにした方が企画に入りやすかろうと考慮して、導入の役目を果たしたわけである。そうして替え歌が始まり、TTとKくんの伴奏に乗ってTが歌うなか、こちらはリズムに合わせて指を鳴らし、僅かばかりの興を添えた。
  • 企画が終わったあと、こちらはまたギターを借りて保持し、ずっと手離さずにひたすらブルースを弾き続けていた。撤収する段になっても演奏に夢中になっていたので、TDとTがこちらの荷物を代わりに持ち運んでくれたくらいだ。それで弾いてて良いよと言うので、ギターを身体の前に抱えて公園内を移動しながらセッションを続けたのだが、このギターにはストラップがついていなかったので――Kくんのベースの方にはきちんと付属していたのだが――支えるのが大変で、歩きながら弾くのは一苦労であり、当然ながらあまり細かいフレーズを奏でることはできなかったものの、それでもAのブルースを途切れさせずに合奏し続けた。野外を歩きながら楽器を弾いて音楽を奏でるなどという行為は初めての体験だったが、なかなか気持ちの良いもので、ほとんど無垢で罪のないような時間が繰り広げられていた。広場で遊び回っていた子供たちなども、傍を通り過ぎる際には我々の方を物珍しげに眺めていたものだ。
  • 公園入口付近のベンチに着いたところでセッションを締めくくって楽器を仕舞い、ケースを背負って駅に引き返した。二駅乗って武蔵境に戻ったあと、一旦K家まで歩き、部屋に荷物を置いてからふたたび駅前に繰り出して、イトーヨーカドー武蔵境店のビルに入った。TDが新生活のために鞄と革靴を新調したいということで、皆で一緒に買い物をする段取りになっていたのだ。それで店舗を回って品物を見分したのだが、こちらはただギターとともに遊び呆けていただけなのに途中から疲れが出てきて、靴を選んでいるあいだは売り場の台に腰を下ろして、同様に座って休んでいたTTと言葉を交わしたりしていた。Tが活動力旺盛だった。TDのために率先して色々と商品を見繕い、店員とのやりとりなども積極的に担ってまるで母親のように世話を焼いているそのさまを、こちらは若い者を見る老人のように眺めていた。
  • そうして鞄も靴も無事に入手されたあと、一階のLOFTにちょっと寄らせてもらった。何となく、ペンとノートを見分したい気持ちがあったのだ。それでしばらく店内をうろついたところ、ピックアップして陳列されていた品のなかにわりと良い感触のボールペンがあったことは覚えているのだが、それがどんな特徴の製品だったか、何という名前だったか、詳しいことはもはやまったく忘れてしまった。ノートの方には特に目ぼしい品物は見当たらなかった。
  • K家に帰還したあと、こちらはまたギターを弄んでばかりいたのだが、そのあいだにTとMUさんが夕食としてほうとうを拵えてくれた。以前にもこちらとKくんの誕生日会に際してほうとうを作ってもらったことがあるのだが、それが美味かったのでまた食べたいとこちらやTDが要望したのに応えてくれたのだった。
  • それでできあがったサラダとほうとうをたっぷりいただいて満悦したあと、食後はTDに質問をするコーナーになった。午後八時だったかそれとも既に九時を回っていたか、ともかくその時間になってもこちらがギターから手を離さずに愛撫しつづけているのに、さすがに時刻も遅くて隣室の迷惑になりはしないかとTがいくらか懸念を滲ませていたのだが、それでも演奏をやめず、とは言え配慮は払って大きな音は出さずにごく密やかな調子でブルースを続ける。そのうちに、TDに対して質問を向けるようにと促されたのだが、特に頭に浮かぶ題材がなかったので、今更訊くことなんてねえなあと呟くと、Tが何故か、好きな女の子のタイプ訊いて、とこちらに問いを委ねてきたので、どうせだから自ら奏でるブルースに合わせた歌の形で質問を投げかけようと目論んだところが、伴奏を弾きながらなおかつ即興で歌詞とメロディを結合させて口から発するというのは凄まじく難しくてまったく上手く行かず、TDの……好きな……タイプは、と演奏の合間にただ低く呟くだけの不甲斐ないざまになってしまった。ところがそれが皆には大層面白かったようで、爆笑が湧き上がったのだった。さらにはそれに対して答えるTDの方が、こちらの演奏に合わせてペンタトニックスケールを用いてメロディをその場で上手く作り上げ、言葉もきちんと当て嵌めてまさしく即興の歌唱を披露し、こちらのやりたかったことをやすやすと実現してのけたので、こいつなかなかやるなと思った。
  • 今回の会合は主賓たるTDの希望で宿泊会の趣向にもなっていたのだが、こちらはやはり読書や書き物の時間をなるべく取りたいところ、泊まるとやはり何だかんだで翌日の帰宅が遅くなってしまうだろうから、夜は跨ぎ越さずにこの日のうちに帰らせてもらうことにした。TTも翌日が普通に勤務なので、同じく帰宅組である。それで一〇時頃だったか、マンションを出て皆で駅まで行くと、改札の前で別れの挨拶を交換した。TDとTTが抱擁を交わすのに続いてこちらも挨拶をし、やはり緩く抱き合う形で思い出深い別れを演出したのだが、もっとも、TDとはこの二日後にふたたび会うことになるのだった。


・作文
 27:26 - 28:03 = 37分(7日)

・読書
 9:50 - 10:40 = 50分(巽)
 10:42 - 11:31 = 49分(「記憶」)
 11:43 - 11:49 = 6分(「記憶」)
 12:17 - 12:46 = 29分(巽)
 13:19 - 13:41 = 22分(巽)
 22:56 - 23:16 = 20分(巽)
 24:32 - 25:10 = 38分(巽)
 25:43 - 27:09 = 1時間26分(巽)
 28:04 - 28:47 = 43分(巽)
 計: 5時間43分

  • 巽孝之『メタファーはなぜ殺される ――現在批評講義――』: 124 - 314
  • 「記憶」: 68 - 86, 1 - 9

・睡眠
 5:00 - 9:00 = 4時間

・音楽