2020/3/24, Tue.

 「よき血の社会主義」という未来像には、数百万人の強制移住だけでなく、殺害も含まれていた。ソ連侵攻の準備段階で立てられたこの計画は、戦争によるドイツの農産物生産高の減少や、国防軍が占領地域の食糧資源に依存する必要性を前提としており、無情にも、数百万の人々の飢餓を次のように予測している――「もしわれわれが必要とするものをこの国から搾取すれば、何百万もの人々が間違いなく飢えるだろう」。また、戦時ドイツの食糧供給も担当していた食糧農業省副大臣ヘルベルト・バッケ指揮のもと、一九四一年五月二三日(このときバルバロッサ作戦が計画されていた)に専門家たちが示したソ連領域開発の総合計画にも、「この地で何千万もの人口が過剰になり、死ぬか、あるいはシベリアに移住しなければならなくなるだろう」と述べられている。国防軍に食料を十分割り当てるために数千万のロシア人が餓死するなら、それはそれで仕方がないと考えていたのだ。
 (リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』中公新書、二〇一五年、163~164)



  • 英国では、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、外出禁止の措置が取られるらしい。違反すると罰金を課せられ、同居人を除いては二人以上で公の場に集まることも禁止と言うから、かなり厳しい。一三億人もの人口を誇るインドでも、全国的に外出禁止となった。一方中国では、四月八日に武漢の封鎖を解除する予定だと言う。
  • 労働は(……)くん(新中三・英語)及び、(……)くん(新中二・英語)が相手だった。
  • 六時過ぎに労働を仕舞えたあと、TDと会うために立川へ赴く。夕食を取るとともに、先日と同様、喫茶店でそれぞれの仕事を進めようという話になっていた。道中、吉祥寺で人身事故があったという報告が電車内にもたらされ、アナウンスがひっきりなしに、ほとんど執拗なまでに繰り返される。
  • TDは待ち合わせの時間にいくらか遅れてきた。人身事故による電車の遅延に巻きこまれたのかと思ったが、そうではなく、思ったよりも用事に時間が掛かってしまったのだと言った。新宿に出向いて靴のインソール、すなわち中敷きを求めて店を回ったらしい。そのまま中央線で下っていたらちょうど遅延に引っかかったところだが、一旦家に帰って南武線回りで来たので支障なかったと言う。
  • とりあえず飯を食おうということで、手っ取り早くLUMINEの上層階に行ってみることにした。フロアを回って吟味した結果、「(……)」に入店する。味噌で味つけした茄子と鶏肉を合わせた丼を頼むことに決めると、TDもそれにすると言う。ほか、チーズの織り混ぜられたチヂミと鶏もも肉の炭火焼きを注文した。
  • テーブル席で向かい合って料理を待っているあいだ、TDが突然、独我論めいたことを口にした。Fが今ここに存在していることは確かな現実なのか、俺がただそう思いこんでいるだけではないのか、みたいなことを言い出したのだ。それに応じて適切に主題を掘り下げるような返答ができるほどこちらに知見もなかったけれど、実際、人間という種に限らずおそらく生物一般が一人称の視点しか持てないと思われること――と言うか、言語秩序に貫かれていない動物においてはそもそも「この私」という認識のあり方、つまりはいわゆる自我がないのかもしれないので、多分「一人称」という捉え方自体が存在しないのだろうが――、一人称という形式が言わば存在論的に固定されているという現実は、改めてそれに思いを致してみるとかなり不思議なことだ。「この私」が常に既に「この私」でしかあり得ず、そのようにあらざるを得ず、そこから超脱することは端的に不可能で、仮に「この私」がどこかの誰か、あるいは何かになることができたとしても、途端に今度はその「どこかの誰か、あるいは何か」こそが置換的に次なる「この私」の位置に据えられてしまうという存在論的構造の諒解しがたさのようなもの。永井均などが、おそらくその辺りの議論を探究しているのだと思うが。
  • ほか、生命を維持するにはどうすれば良いのか、とTDは尋ねてくる。――そのためにはものを食わなければならない。――ものを食うにはどうするか。――それには金を稼がねばならない、あるいは自ら食べ物を生産するか、そうでなければ他人から貰わなければならない、と答えていると、そもそも生命を維持するべきなのか、とTDは向けてくるので、何だこいつ病んでいるのか、と訝ったこちらはちょっと笑いながら、それは自分の自由だが、と返した。不穏な印象を与えたかもしれないと慮ったのだろう、TDはあとで、今のところ自殺願望はないと補足していた。
  • 神は何故人間を作ったのだと問いが続く。それは神に訊いてみなければわからないが、そもそも神というものが存在しているかどうか、と返すと、ひとまず存在していると仮定しようと言う。それではさらに、神をどういう存在として捉えるか、と条件を掘り下げれば、唯一神と言う。――その唯一神は人格的な神なのか。――そうだ。――それならば、まあわからないけれど、その神が人間的なものだとするならば、やはり自分の力で何かを創ってみたかったのではないか、と適当な言でもって茶を濁した。さらに、何でも神は自らに似せて人間を創ったらしい、と続ける。――その人間の生産が、製作行為に対する神の欲望から行われたものだったとするならば、我々人間が、まるで神を模すかのように何かを作ろうとするのも当然のことだな。つまり、我々人間の、芸術を含めたすべての制作行為の原点/源泉/起源には、原初における神の製作行為があったということになるわけだ……とそう話しながら、我々の営みは言わば、その最初の、ただ一つの巨大な製作の言わば影のようなものなのかもしれない、とそんなことを思った。
  • そんな話題から、ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』の話に繋がったのだったと思う。と言ってこちらはこの本をまだ読んだことがないので、以前Aくんが話していたことの聞きかじりなのだが、数百年や千年というほどの長期的な単位で見れば、一応この世界というものは全般的にそこそこ平和になってきている、さらにテクノロジーの発達が進んで貧困なども首尾良く解消されれば、人間は言わば神の領域に手を出しはじめるのではないか、みたいな未来予測を論じている著作らしい。そこで「神の領域」とされているのは、一つには例えばデザイナーズ・ベイビーのような所業のことだったと思うが、Aくんが話してくれたほかの具体例については忘れてしまった。まあ要はおそらく、いわゆる神にも等しいようなと言うか、今までだったら人間には触れることのできない神の領分として崇敬的に設定されていたような業を可能にする技術段階に到達し、そのような形で言わば「神になる」ことこそが人類の目的になるのではないか、ということだろう。
  • 店内のBGMは往年のモダンジャズだった。途中で"There Is No Greater Love"が掛かったので、これ、と指を立ててTDの注意を引き、曲名を口にするとともに、Miles Davisなんかがやっていると紹介した。その時念頭にあったのは勿論、一九六四年の『Four & More』での演奏だ。Supreme Loveということだな、とTDは受け、Supremeとかつくアルバムなかったっけ、と続けるのだが、思い当たるところがなかったので、Milesに? と尋ね返すと、Coltraneだったかもと相手は言って、それで『Love Supreme』だなと高名なタイトルが頭のなかに落ちてきた。しかしあの辺りは正直あまり良いと思ったことがない、と笑いながら明かす。Coltraneは後期からフリーに突入して、晩年になると、例えば日本でのライブなどでは一曲で一時間くらいぶっ続けでやっているらしい、と話した。その辺りの音楽も理解できるようになりたいものだと述べるとともに、今までたびたび日記にも書き記している所感だが、一九五六年の時点ではいかにも未熟でぎこちない吹き方しかできなかった青二才が、それからたった三年ののちにはあの複雑精緻な『Giant Steps』を作り上げ、その後七、八年、合わせて僅か一〇年余りで当時の最前衛の一角まで加速的に突き進んだというのはやはり凄い、と称賛を語った。
  • ほか、前日にTが"C"の動画をどういうストーリーにするか、案を話してくれたと言うので、それを聞く。いわゆる実存的な疎外感に当たる種類の鬱屈を抱えていた主人公の「少女」が、自分自身もこの世界の一部なのだという気づきと確信を得ることで安定と成熟に至るみたいな、そんな展開を考えているらしい。TDとしては、「少女」の――ひいてはおそらくTの――そうした気持ちがあまりよくわからないのだと言う。自らが世界の一部だと言ってみたって、自分という存在など、この広大無辺の世界のなかでは非常にちっぽけで、何の意味も価値も持たないものに過ぎないではないかと、ネガティヴな方向性で捉えてしまうとTDは心中を漏らしたのだが、それに対してこちらは、Tのような考えは自分としてはまあ実感としてわからないでもない、体験的に理解できると答え、文章を書くという営みを通じて自己と世界とのあいだに統合的な調和らしきものが成立したという経験を説明した。ここでその経緯を詳らかに語ることは面倒臭いので控えるが、手短に要約すれば、自分語りを嫌いながらもどうしても自分語りに陥らざるを得ないという二律背反的な葛藤状態の罠から、一粒のちっぽけな泡のごときものではあっても確かにこの世界の一部として存在している自分自身と、極小の一片としてではあってもこの自分を確かにその内に含み持っている世界とを共に書き描くのだ、という方向に脱出し、言わば弁証法止揚によって主客間の齟齬を解消したということだ。
  • 加えてさらに、パスカルもそんなようなことを言っていたなと、これは記憶があまり定かでなかったが、古人の智慧を朧気に紹介した。「人間は考える葦である」という、例の有名な警句に表された洞察のことだ。その謂は、人間とはたかだか一本の葦のようなか弱いものに過ぎず、この宇宙においてほとんど無に等しいほどに微小な存在でしかないが、しかしそのちっぽけな人間は同時に、自らの脳髄と理性でもって世界を思惟することでこの甚大な宇宙を言わば自分の内に取りこみ、それによって無際限の宇宙全体と気高く渡り合っているのだ、というようなことだったと思う。これは、確か三田誠広が披露していたパスカルの解釈なので、『パンセ』自体にそのようなことが書いてあるのかどうかは知らない。中学受験を目指す小学生が取り組む国語のテキストに取り上げられた文章でそうした考えを論じているのを、職場で読んだことがあるのだ。
  • 食後、喫茶店へ移ったのが八時半頃だったと思う。店は北口傍のエクセルシオール・カフェである。二階のカウンター席に就き、横に並んで各々やるべき作業を進める。こちらは無論日記の作成だが、あまり満足に捗らなかった。BGMに"There Is Never Be Another You"や、Chet Bakerの音源が流れたので、そのたびにTDに紹介した。
  • 一〇時前に退店して、駅の改札内で別れを交わした。身体に気をつけて、日々を充実させてくれと言葉を贈る。


・作文
 20:41 - 21:03 = 22分(7日)
 21:03 - 21:50 = 47分(8日)
 計: 1時間9分

・読書
 9:19 - 9:30 = 11分(「英語」)
 9:30 - 10:17 = 47分(「記憶」)
 10:19 - 11:49 = 1時間30分(レーヴィ)
 14:10 - 14:37 = 27分(レーヴィ)
 14:38 - 15:12 = 34分(「記憶」)
 15:20 - 15:35 = 15分(「記憶」)
 18:23 - 18:55 = 32分(レーヴィ)
 22:12 - 22:46 = 34分(レーヴィ)
 23:09 - 23:41 = 32分(「記憶」)
 24:40 - 26:06 = 1時間26分(レーヴィ)
 27:09 - 27:53 = 44分(英語記事)
 28:04 - 28:36 = 32分(レーヴィ)
 計: 8時間4分

・睡眠
 5:05 - 8:25 = 3時間20分
 12:00 - 13:30 = 1時間30分
 計: 4時間50分

・音楽